眠れる遺伝子たちを笑って起こそう

謎以外の何を愛せようか。

そんな名言を残したイタリアの画家のことを思い出していた。

もともと自分は暗号好きで、上の記事のように、暗号関連の本を愛読してきたし、下の記事のように、世界の暗号ともいうべきシンクロニシティーへも強い関心を寄せているところだ。

たった今、目の前にある謎は、夏目漱石の『坊ちゃん』が笑えるという人はどの辺りを笑っているのかという謎だ。さっそくざっと読み返してみた。ピックアップしてみると、確かにユーモラスな表現が目白押しだ。とりわけ比喩に読みどころがある。

  1. 先生と大きな声をされると、腹の減った時に丸の内の午砲(どん)を聞いた様な気がする。
  2. 美人に相違ない。何だか水晶の珠を香水で暖めて掌へ握った様な心持ちがした。
  3. (そういう無理が通るなら)今に火事が凍って、石が豆腐になるかも知れない。
  4. 御茶を入れると云うからご馳走するのかと思うと、おれの茶を遠慮なく入れて自分が飲むのだ。此様子では留守中も勝手に御茶を入れましょうを履行して居るかも知れない。 
坊っちゃん (新潮文庫)

坊っちゃん (新潮文庫)

 

 1.は当時の東京の正午の砲声に引っ掛けて、呼び声が大きくて臓腑に響く様子を比喩にしている。2. はマドンナに初めて会ったときの描写で、20代の「坊ちゃん」のうぶな感じが出ていて上手い。3. は一種の誇張法。4. は相手の奇行に「履行」という法律用語を取り合わせている「衝突」に妙味がある。

実は、自分は漱石が赴任した松山東高校(旧制松山中学)の出身で、たまたま田舎では何度か「坊ちゃん」と呼ばれてきた身だ。この小説を一読すれば、何か珍しいインスピレーションでも降りてきて、急に面白いエッセイが書けるかとも期待したが、そうはならなかった。どうしてなのかは謎だ。それでもかまわない。謎以外の何を愛せようか。

主役が「坊ちゃん探偵」となると、悪者たちの銃口に囲まれて身動きできなくなる場面が瞬時に思い浮かんでくる。というのも、「坊ちゃん探偵」自身は銃を持たない丸腰であるにちがいなく、それは『坊ちゃん』の冒頭で高らかに宣言されているからだ。

 

 親譲りの無鉄砲で小供の時から損ばかりしている。小学校に居る時分学校の二階から飛び降りて一週間ほど腰こしを抜かした事がある。なぜそんな無闇をしたと聞く人があるかも知れぬ。別段深い理由でもない。

夏目漱石 坊っちゃん

上の記事では、『探偵は湯舟にいる(仮)』のアイディアのひとつとして、主人公の坊ちゃん探偵が「無鉄砲の丸腰」という設定を考えてみた。その方が面白く成る予感がしたからだ。

個人的に『坊ちゃん』関連で一番面白かったのは、街乗りのドライブ中のことだ。東京から持ち帰った練馬ナンバーのオープン2シーターで、『坂の上の雲』のモデルとなった坂の付近を通っていると、松山城でのイベント帰りの坊ちゃん役とマドンナ役の役者に遭遇したことがあった。彼らは私のナンバーを識別すると、立ち止まって二人で何度もやったらしい決めポーズを取ってくれたのだ。私が笑って通り過ぎようとすると、顔を見合わせて二人で別のポーズを取ってくれた。ナイス・コンビネーション! 手を振ってお礼をいって通り過ぎた。ごめんなさい、地元民なので。

 という感じで、今晩は「暗号とシンクロニシティー」から「笑い」へ、主題がシフトしたところだ。笑いの理論については、この記事で一夜漬けをしてみた。

笑いのさまざまな理論を確認していると痛感するのが、唯一の笑い理論はないということ。各理論で読んでいるときに説得力を感じるのは、実はそれぞれの理論家が自説に都合の良い「お笑い例」を引用しているからなのだ。包括的な唯一の笑いの理論が存在しないことは、この分野の定説と言ってもいいだろう。

今晩は、世にあふれている笑いの具体例から理論を抽象するのではなく、笑いの理論で使い勝手のいいものから、笑いの具体例を生み出すことに挑戦してみたい。 

「笑い」の技術―笑いが世界をひらく

「笑い」の技術―笑いが世界をひらく

 

著者の専門は日本近代思想史 や教育学だという。落語にかなり精通しているようで、桂 枝雀の落語の分類法を批判する論文を提出したりもしているようだ。見る人によって、同じものを見ても、カテゴリー分類に異同があるのは普通のことだ。落語家とアカデミシャンの見解が異なるのは自然だと思う。

著者の落ちの分類を自分の言葉で解説してみたい。

  1. すかし(話が盛り上がった最終場面で、読者の期待の地平にない要素で「肩透かし」を喰わせること)
  2. 離陸(「起承転」までにあった要素がエスカレートして終わること)
  3. 納得(見えにくいところにある論理で読者を納得させる。見えにくいところにある駄洒落で読者を納得させる)

2. の「離陸」だけが、自分には落ちていない落ちのように読める。星新一ショートショートを斜め読みして、優れた作品には少なくとも三つの構造があることが読み取れた。

①主従逆転、②主客転倒、③逆説

このうちの③逆説が、上記の本でいう「離陸」に近そうだ。

星新一の名作のひとつ「鍵」はこんな筋立てだ。

 あるとき男が珍しい綺麗な鍵を拾ったが、その鍵を差し込む錠がどこにあるのかわからない。男は情熱を傾けて、近くにある家屋のあらゆる錠を試し、そのあと数十年をかけて捜索範囲を海外にまで広げるが、鍵に合う錠は見つからない。

 死期が迫った男は、その鍵にぴったり合う部屋を自分で作る。待ちに待った開錠の瞬間、扉を開けると、そこから幸運の女神が現れる。女神は欲しいものがあれば何でも与えると男に言うが、死期の迫った男は、錠探しを通じて人生で大切なことはすべて体験したと言って、欲しい物を何もねだろうとしなかった。

 本来なら、鍵は扉を開けるための「手段」。それが錠探しの人生を送ったことで、その鍵と生きた日々そのものが、人生の達成すべき「目標」となった。つまり、ここにあるのは「急がば回れ」式の「逆説」だ。初期設定のエスカレーションの最後に逆説があるからこそ、読者は「落ち」ている気がするのだと思うが、いかがだろうか。もう少し研究してみたい。

さて、日本笑い学会理事でもある福井直秀が、落ちのある話の作り方として挙げているのが、定型的な民話に異なる要素をプラスする方法。ちょっと確認してみよう。

赤ずきん+ロケット」

漁師は、オオカミのおなかに石を詰めました。どんどんどんどん。猟師はオオカミを井戸に向かって放り投げました。ところがさっきの石は軽石だったのです。軽石があまりに軽すぎたため、オオカミは、落ちずに飛んでいって、ロケットとなってしまいました。ロケットは、高く高く飛んでいき、ついには月に到着しました。

 月には白ウサギが済んでいました。オオカミは、ウサギを追いかけ、ウサギは逃げます。それからです。月に満ち欠けが起こるようになったのは。ウサギがこちらだと満月、オオカミだと新月というわけです。 

著者の発想が、おそらく落語にあることを想像させるパロディーだ。

本当はここで、自分の「赤ずきん+オーディション」を書こうと考えていたが、残念ながら時間がないので、他日を期したい。

【グリム童話】赤ずきん【あらすじ・ネタバレ】 | あらすじ君

私の「赤ずきん+オーディション」の草案だけ記しておこう。

 赤ずきんちゃんが道草をしている間に、赤ずきんちゃんにだけ見える精霊と出逢う。赤ずきんちゃんが精霊と一緒におばあちゃんの家へ向かうと、オオカミの変装だけあって、どうもおばあちゃんの様子がおかしい。「無理!」と絶叫して逃げようとする赤ずきんちゃんを、精霊が呼び止める。「これはオーディションですよ!」。

 気を取り直した赤ずきんちゃんは、自分がなりたいアイドル(Perfume風?とか)の要素をちりばめつつ、うまく演技をして「どうしておばあちゃんのお口はそんなに大きいの?」と訊いて、オオカミに食べられそうになった瞬間、オオカミ役の青年が「ぼくにはこんな残酷な役はできません」と演技を放棄する。

 精霊が慌てて「オーディションですよ!」とりなそうとするが、青年は自分のなりたいアイドル(Exile風?とか)の要素を入れつつ、童話があまりにもアンリアルなので、「演技の方向性」の違いを理由に、オーディションを降りると宣言する。同じ理由で赤ずきん役の少女と意気投合して、Perfume風?とExile風?にときめき系のやりとりを交わすと、二人で手をつないで森の中へ消えてしまう。

 誰もいなくなった家の中を、窓から猟師の男が覗き込む。「あれ? 誰もいないのはおかしいな」。猟師が室内でオオカミを探しまわっていると、オオカミの着ぐるみの中に、おばあちゃん役の老婆が見捨てられたままなのが見つかる。

 助け出した猟師が老婆に「演技を放棄して置き去りにするなんて、あの若い二人はいけませんね」と言うと、老婆が「いえ、とても良い子たちなんですよ。あの子たちは私の孫で、いとこ同士なの。若いころ舞台に立つのが夢だった私のために、このオーディションに誘ってくれて、あんな演技までしてくれたんです。本当に良い子たちでしょう?」

 そこで「カット」の声がかかり、老婆にオーディションの合格が言い渡される。袖から、孫の二人が現れて「おばあちゃん、おめでとう」と言ってハグしあう。

 「落ち」の鮮やかさより、「監督ー演者ー観客」の関係を舞台上にフラクタルに再構成するという自分の信条を優先させたパロディーになった。「精霊ー赤ずきん」の会話と「精霊ーオオカミ」の会話が「 」内の当事者にしか聞こえない仕組みにすると、さらにいろいろ遊べそうだ。

今日午前中、いろいろな笑いの研究所を読み漁っていた。笑いのセンスは筋肉と同じで、鍛錬によって大きく高まるのだそうだ。自分のために環境を作って真剣にトレーニングしてみようという気になってきた。

そして、今日読んだ「笑い」関連本の中で一番面白かったのが、この本。われらがフナッセーの著書だ。 

笑いの免疫学―笑いの「治療革命」最前線

笑いの免疫学―笑いの「治療革命」最前線

 

 この本が素晴らしいのは、「笑うことがナチュラルキラー細胞を活性化して、自己免疫を高める」なんていう床屋健康談義をはるかに越えた最新の知見が集められていることだ。中でも、自分がマークしそこなっていた村上和雄の著作を発見できたのは、とても嬉しかった。

「笑い」は遺伝子も変える。(…)その仮説を真剣に発表され、見事に立証された科学者がいる。それが日本の遺伝子研究の第一人者、筑波大学名誉教授の村上和雄博士である。その大胆な仮説は(…)「精神的な因子が、遺伝子スイッチのオンとオフに関与する」というもの。つまり「ポジティブ(肯定的)な因子は、よい遺伝子のスイッチをオンにし、ネガティブ(否定的)な因子は、よい遺伝子のスイッチをオフにする」という仮説である。 

 (…)

 遺伝子には、約三〇億個もの情報が入っている。しかし、これらは、すべて働いているわけではない。ピアノ鍵盤のようなもので、「叩く」ことでようやく「音」つまり「情報」が出るのだ。

「遺伝子には「働け・眠れ」という指令情報も入っている。これを遺伝子のスイッチ・オン/オフという。遺伝子はもって生まれたものだが、後天的な要因でオン/オフすることがある。そのオン/オフには三つの要因があり、第一が物理的要因、第二が化学的要因、そして第三が精神的な要因が関係している。この心や思いなどの精神的な要因が今注目されている」(村上博士、前著) 

連日連夜書き飛ばして一年一か月。知っていることはほとんど書いてしまったし、調べればわかることもかなりの量を書いてしまった。最近気が付いたのは、何を書くか決まらないまま図書館の書棚の前をうろうろしていると、特定の本の背表紙が光ったり、自分の手が本を引き寄せたりするような不思議な感覚。

今日もピンときたので、下記の本を入手した。  

人生の暗号 (サンマーク文庫)

人生の暗号 (サンマーク文庫)

 

 日本の遺伝子研究の第一人者が、遺伝子にオン/オフのスイッチがあることを発見していたとは。では、次に何が問題になるかと言えば、良い遺伝子スイッチをオンにして、悪い遺伝子スイッチをオフにするには、どのような生き方を心がければよいのか。 

  1. 思い切って今の環境を変えてみる
  2. 人との出会い、機会との遭遇を大切にする
  3. どんなときも明るく前向きに考える
  4. 感動する
  5. 感謝する
  6. 世のため人のためを考えて生きる

遺伝子研究というよりは、自己啓発本に近い記述が並んでいる。しかし、実際の医学研究でも、笑いが糖尿病患者の血糖値を劇的に低下させたという論文を、厳しい査読を経て、サイエンス誌などに海外の医学研究誌に掲載したりもしている。笑いが免疫を高めるところまでは、医学的に到達しているのだ。

その先に並んでいる上記の6項目が、とても興味深い。それは根拠のない徳目リストではなく、医学的な状況証拠に満ちているのだ。

例えば、人間の遺伝子が全体の5~10%しか使われていないという事実、発ガンが「発ガン遺伝子オン+ガン抑制遺伝子オフ」の二つのスイッチングによって生じているという事実は、きわめて重要だ。この生死をわけかねないスイッチングを行っているのが、①物理的要因、②化学的要因、③精神的要因なら、そのどれもが重要であることも間違いないだろう。

さらに面白いのは、日本の遺伝子研究の第一人者が、シンクロニシティーが実際に起こりうることに言及していることだ。

さまざまな事象が同時並行的に、一定の方向へ向かって連続的に起こることを「シンクロニシティー」という。シンクロニシティーが起きて、よいことだったら「目に見えない力が手を貸してくれた」と解釈して、そのことをどんどん進めた方がいい。 

しばしば引用してきたヤスパースの哲学そのままが、遺伝子研究の世界から出てきたような印象だ。

 私たちは実存として、神に関係している。この関係を明らかにしようとする試みが形而上学だ。形而上学では、現実を「暗号」として読み取ることで、包括者の声を聴こうとする。包括者を、思考で捉え、言葉で言い表せるようなものとしてではなく、覚知する(悟る)こと。実にこれこそが哲学の本来のあり方にほかならない。

村上和雄には、「遺伝子と宇宙子」や「サムシング・グレート(=ワンネス)」を扱った著作もある。 

遺伝子と宇宙子 (いのちとはなにか)
 
サムシング・グレート―大自然の見えざる力 (サンマーク文庫)

サムシング・グレート―大自然の見えざる力 (サンマーク文庫)

 

自分は、2017年からスピリチュアリズムに強く惹きつけられながらも、左脳優位の科学好き少年のアバターも、人格のひとつとして飼っている。その科学少年も、人体に眠る膨大なスイッチオフの遺伝子群を、真善美愛に似た何かでスイッチオンにしていけば、想像もできないような大きな可能性が広がることを、左脳でも理解しきることができたような気がしている。

今朝、苦労して本を探しながら最終的に辿りついたこれらの著作群は、一種のシンクロニシティーだったと自分では感じている。目を瞑ってみた。自分の中に眠っている残り90%の遺伝子のことを考えている。真善美愛を重んじる心構えで、人生を生き直したとき、遺伝子たちが次々に花開き、それが自分の生き方や周囲の人々の生き方をポジティブに動かすよう働いたら、どれほど楽しいだろうと感じ始めた自分がいる。

もちろん、医学的な状況証拠が得られたとしても、それらのすべてが依然として謎のままだ。けれど、謎以外の何を愛せようか。今晩はいっそそう断言してしまいたい幸福な気分だ。