短編小説「背の高い美しい先輩」
女子高育ちの私は、年上の女性に憧れの人ができることが多い。大学で劇団サークルに入ってからも、背が高くて美人で何でもできる先輩女性に、いつのまにか魅きつけられていた。誘われるままにファミレスのバイトを始めた。
「あなたは私のできないところをやってくれるから助かるわ。睡眠不足だと、私はほとんど仕事ができなくなっちゃうから」
先輩は自分の有能さを隠したがるので、私にかけるねぎらいの言葉がこんな調子になってしまう。実際は、注文取りや食事のサーブなど、私にできる簡単な仕事をわざと残してくれているのだ。料理の最後の盛り付けやレジ対応など、高いスキルの必要な仕事は先輩が進んでやるので、私にはほとんど回ってこない。笑顔も素敵で、人当たりも良くて、冗談も上手で、どの面をとっても、眩しいくらい私より背の高いところばかりだった。
休憩時間に二人きりになったとき、そんな先輩にも悩みがあることを知った。学生劇団に演出をつけてくれているのは、フリーターの卒業生の男性。先輩が交際中のその男と一緒にいるとき、ヒステリックな女の罵声を浴びせられたのだそうだ。
「彼が話していた電話を私に手渡してくるから、何かと思ったら、受話器の向こうの女が、喚き散らしてきたの。彼と別れないと私を殺すっていうのよ。昼ドラみたいなみっともない泥仕合で、笑っちゃったわ」
「その女性は彼の浮気相手だったんですか?」
「ちょっと遊んだだけって言っていた。私という彼女がいながら、どうして遊ぶの?と訊くと黙り込んじゃうの。いつもはインテリぶって威張っているくせに、男って子供じみていて好きになれないわ」
そう口では言っているが先輩が男のことが大好きなのを私は知っている。厨房で淹れてきたレモンティーに先輩が唇をつけた。私は先輩の細い喉を、かぐわしい液体が通りすぎるのを見つめていた。
事件はその直後、休憩から仕事場へ戻ったときに起こった。時間帯は深夜0時を回ったところ。私たちは1時あがりの予定で、一緒に上がる社員の男性の車で送ってもらう予定だった。あがりまで、あと少しだった。
深夜0時過ぎのファミレスは、終電を乗り過ごした客で多少の賑わいがある。ウェイトレスが二人いないときつい時間帯だ。客のいないまばらな喫煙席に座った男が、ベルで先輩を呼びつけて、こう話しかけてきた。
「不味いことになっちまったんだ。取り返しがつかないことをしてしまった。きみは賢そうな顔をしているから、きみに訊きたい。東京から逃げるなら、西か北か、どっち?」
「その二択ではなく、逃げないことも含めた「サンタクでどうする?」と考えてはいかがでしょうか? どうぞ、サンタクロースから珈琲お代わりのプレゼントです」
遠くでやりとりを見守っていた私は、先輩の様子が少しおかしいことに気付いた。先輩は魔法のかかったシンデレラ。0時を過ぎると睡眠不足で少しおかしくなるのだ。以前も持ち場で立ったまま眠って、水辺の水仙のように揺れているのを見たことがあった。
「いや、珈琲どころの話じゃねえんだ。逃げないと生きていけないんだよ。西?」
「8」
先輩は笑顔で即答した。
「誰も小学校の九九の話なんかしてねえし。何だこのウェイトレスは。泣きっ面に蜂だぜ、まったく」
「蜂に刺された何回刺された?」
「蜂に…だから16回! って、誰も小学校の九九の話なんかしてねえし。俺は真剣に悩んでいるんだぞ!」
「西の名古屋や大阪方面は人口が多いので、隠れやすいかもしれません。だからこそ逆に、北の東北や北海道へ逃げる人もいるのでしょう。でも悪いことをしたのなら、近くの西署へ自首するのが良いと思います」
あ、不味い、と私は心の中で呟いた。美人で何でもできる先輩にかかっていた魔法は、0時を過ぎて今や完全に解けてしまっている。危なそうな男や酔客に絡まれたら、黙って微笑んで聞き流せばいいだけなのに。
「おい、俺が犯罪者に見えるってのかよ。あんた、可愛い顔して勘の鋭いところがあるな。そうさ、女をひとり殺してきたところよ。派手に血が飛び散ったぜ。こんな風にな!」
男はそういうと、珈琲のお代わりを注ぐピッチャーを先輩から奪って、振り回して周囲に中身をぶちまけた。先輩は後ずさりした。鳥のような声で悲鳴を上げた。男はからっぽになったピッチャーを床に投げつけて、叩き割った。立派な器物損壊が成立した瞬間だった。
「おい、そこの九九好き姉ちゃんよ、俺と話したことを絶対に誰にも言うなよ! 俺は逃げ切りたいんだ。西とか北とか訊かれたら、『俺はこの世界にな西に北のか』を悩んでいたようだったと言って、ごまかすんだ。わかったな!」
男は金も払わずにファミレスから逃亡した。警官は15分後にやってきた。
店長が深夜出勤してきたので、私たちは別室で警官の事情聴取に臨むこととなった。
警官は30代くらいの若さに見えた。
「その男は何才くらいだった?」
先輩が指を負って数え始めた。
「20代後半くらいです。会話の中で8と16が出てきたので24才でしょう、きっと」
「会話に出てきた数字をどうして足すの?」
「何というか、私ってプラス思考なんです」
私は静かに溜息をついた。時計の針は1時を回っている。普段は有能で頼りがいのある先輩が、どんどんおかしくなっていく時間帯なのだろう。けれど、私が助け舟を出そうにも、警官は犯人と直接コミュニケーションを取った先輩にしか、興味がないようなのだ。
「本当に『女性を殺した』と打ち明けてきたんだね」
「刑事さん、生意気を言って恐縮ですが、それを取り調べるのが、あなたの仕事じゃないんですか?」
「いや、だから、いま取り調べてるんだよ。犯人は本当に殺しを認めたのかって」
「……。」
「まいったな。黙ってちゃわからないんだよ」
「わ、私が殺しました」
「え? きみが殺したの?」
「先ほど息を殺しました」
先輩の暴走が止まらない。睡眠不足で女はこんなにも変わってしまうものなのだろうか。警官は私の方に向かってお手上げのポーズを取った。先輩が急に警官の腕を握って、震える声でこう言った。
「ごめんなさい。私は関西の方々と話すとき、いつも自分の発言に笑いがないといけないという強迫観念に襲われるんです」
「いや、それはかまわないけど、どうしてぼくが関西出身だと分かったの。10年以上東京暮らしなんで、関西弁は完全に抜けたはずなんだけどな」
先輩の勘の鋭さは一級品だ。誰がどういう人間か、今ここがどういう状況か、いつも素早く読み取って、緻密な気配りができる女性なのだ。憧れているのは、私以外にもたくさんいた。
先輩が警官に向かってはじめてにっこりと笑った。
「根拠のない勘です。勘で関西の方だと思ったので、いま鎌をかけてみたんです。的中でやねん」
「『何でやねん』の使い方、間違ってるよ。『何でやねん』」の『何』は、未知数で何でも代入できるゆうわけやないからな。きみみたいなお嬢さんが無理して関西弁つこうて、おもろいこと言おうとせんとき。みっともないだけやで」
警官の発言に関西弁が混入してきた。どうやら、東京人に先に面白いことを言われてしまったことが癪に障ったらしい。取り調べ内容よりも、その場の会話をいかに面白くするかに心を砕き始めたのがわかった。
「そして男とは九九の話をしたと。まあ、九九は話の流れでちょっと出てきただけやね。ほな聞くけれども、ボンカレーのボンはフランス語で美味しいという単語から来とるやろ。じゃあ、ククレカレーが千点満点の『990』っていうところから来とるとしたら、足りない10点は何やと思う?」
意外なことに、警官はお笑い対決を挑まれたと勘違いして、大喜利を出題してきた。そして「そっちの彼女から」と私に回答を求めてきたのだ。私は急に心臓の動悸が高まるのを感じた。
「調理作業でしょうね。Cook が零(レイ)だから、ククレなんじゃないでしょうか」
「真面目か!」
何と警官と先輩が同時に私に突っ込んできた。二人とも熱くなって、本気でお笑い対決を始めたようだ。警官の口調が100%関西弁になった。
「ぼけんと、ぼけんと、大喜利なんやから」
「おまわりさんのボケを聞かせてください。ククレカレーが千点満点の990点が由来だとしたら、足りない10点は何?」
「その10点を足りへんもんって考えるからおかしなるんよ。その10がないことがどれだけありがたいことか。ククレカレーはずばり日本社会の平和を象徴しとんや。アメリカとちごうて、日本には銃があれへんからな」
警官は満足そうに息をついた。どうやら勝利を確信しているらしい。
「お嬢さんの答えを聞こうやないか。ククレカレーが千点満点の990点が由来だとしたら、足りない10点は何?」
「それは決意です。人生のターニングポイントにさしかかったとき、これからは華麗に生きるぞとの決意が足りていないから、ククレカレーにこう喝を入れられるんです。『肚をくくれ!』と」
私は心の中で拍手をした。勘が鋭いだけでなく、先輩は何でもそつなくこなせる有能なオールマイティーでもあるのだ。
警官は自身を失くしたらしかった。口調を標準語に戻して、男の逃亡先が「西か北」の可能性が高いことを確認して、ファミレスの控室を後にした。話があちこちへ脱線したせいで、事情聴取には一時間半もかかってしまった。睡眠不足に弱い先輩は、ぐったりとしていた。
私は先輩に訊きたかったことを訊いた。
「普段は全然違う感じなのに、今晩はどうしてお巡りさんと、あんなに熱くやりあったんですか?」
「やりあいたかったんじゃなくて、何となく、あの取り調べの時間がもっと長く続けばいいって感じていたの。要するに、私は淋しかったんだと思う」
私は黙っていた。先輩が唐突に口にした「淋しさ」をどう取り扱ったらよいか、わからなかったからだった。先輩が私の方へ身を乗り出した。
「ねえ、握手してもらっていい?」
「握手、ですか?」
私と先輩は少しはにかみながら、真夜中のアルバイト控室で握手を交わした。先輩の手からは一本一本の指が細くて華奢な印象が感じられた。そして、先輩の手はひんやりと冷たかった。その細い手で私の手を強く握ると、先輩が私に微笑みかけた。
「あなたは私のできないところをやってくれるから助かるわ。睡眠不足だと、私はほとんど仕事ができなくなっちゃうから。明日からも、よろしくね」
おそらく第三者がこれを聞いても、何でもない台詞だと感じて、聞き流すだけだろう。その晩の先輩があんな突飛な言動を取ったのは、少しも睡眠不足のせいではなかった。シナリオのすべてを聞かされているわけではない私にも、先輩が恋人の男をどれほど愛しているかを痛感せずにはいられなかった。
それにしても、先輩は何重底にもなっているこの状況を、どこまで理解していたのだろう。
ファミレスでコーヒーをぶちまけた男は、先輩の恋人だった。「ヒステリックに喚き散らす女につきまとわれて、弾みで殺してしまった」というのが、その演出家の男が書いた下手なシナリオだった。
愚かにも、その男は先輩と別れたがっていたのだ。男は自分が逃亡する時間を稼ぐために、先輩に演技させて、「西と北」というキーワードを残し、自分は東京の北西にある北陸地方の実家へ戻った。
翌日の新聞の三面に、女性が殺された事件は載っていなかった。私はあのヒステリックに喚き散らす女のことをよく知っている。あの感情的な罵倒や脅しは、私が電話口で渾身の演技をしたものだ。バイト先だけでなく劇団サークルでも、私は美人で何でもできるあの先輩の後輩だった。
生活に行き詰った演出家の男が北陸の実家へ帰ったあと、学業に行き詰って休学した私が、彼の後を追った。愚かにも彼が先輩と別れたがったのは、「先輩の勘が鋭すぎて何もかも見透かされるのがつらい」という理由からだった。「彼女の唯一の欠点は俺のことを愛していることだ」。そんな気取った台詞を、彼は無神経にも私に聞かせたりもした。
きっと勘の鋭い先輩は、すべてを見通していたのではないだろうか。私は細くてひんやりとした手で私と握手しながら、先輩が言った台詞を思い出していた。
「あなたは私のできないところをやってくれるから助かるわ。睡眠不足だと、私はほとんど仕事ができなくなっちゃうから。明日からも、よろしくね」
これで良かったんですよ。私は先輩に話しかけているつもりで、心の中でそう呟いた。
今でも、都会の華やかな街角で背の高いロングヘアの女性を見かけると、私は自分の目が、いつのまにか先輩の姿を追いかけているのに気づく。先輩と交わした華奢なひんやりとした握手を思い出す。「明日からも、よろしくね」。
若い頃、莫迦げた小芝居で私たちが分断線を引いてしまったその向こうに、私の手が決して届かなかった愛と献身の温かさが、蜃気楼のように揺れているような気がして、いつまでも街角を行き交う群衆を眺めてしまうのだ。