短編小説「フェネックになりたいので、さようなら」
冬になると鬱の患者が増えるように、梅雨の時期も心療内科は忙しくなる。だから、開院二年目の新米院長の私は、休日を返上して診療にあたっていた。会社員にも心の病を抱えている患者が多いので、診療が終わるのは21時くらいになる。帰宅すると、妻の準備した夕食と風呂にありついて寝る日々が、一年半以上続いていた。
研修医の若僧だった頃に、ベテラン看護師だった妻と知り合った。妻との間に子供はない。「梅雨が明けたら」というのが、最近の私の口癖だった。繁忙期の梅雨が明けたら、長期休暇を取って妻と海外旅行に出かける予定なのだ。旅行先はどこに決まったのだろう。私は知らない。家内に訊いてくれないか。
その日の最後の患者は20代の男性で、入室してくるなり、ひと目で様子がおかしいのがわかった。顔は笑っているのに、目には凶暴な光を湛えている。胸ポケットにナイフを隠し持っていたりするのは、このタイプだ。気を付けなくてはならない。
開口一番のこの台詞もおかしかった。
「先生、毎晩ぼくは未来の夢を見るんです」
私は黙って微笑んで、若い男の安心を引き出した。それから、順番にゆっくりと必要項目を訊いていった。よくよく聞いてみると、男が「未来」と言っているのは、夢の風景が夏だからにすぎなかった。梅雨のあとに夏が来るのは確かでも、夢の中の夏がいつの夏なのかはわからない。精神医学に予知夢の項目はないのだ。
「夢の中で女の人が泣いています。女の人は四十代後半くらいの綺麗な人。夫が謎めいた珍しい遺書を残して自殺したから、悲しいらしいです」
「その泣いている女性が毎晩きみの夢に出てくるというんだね。その女性はきみのお母さんではないかね?」
「いえ、母親には全然似ていません。彼女はほっそりとしていて、綺麗な高級な服を着ています。きらきらした指輪もしてます。先生、ぼくは未来のどこかで、現実の世界でその女性に会う気がするんです」
「それはどうだろう。夢に出てくるのは、実在の人物ばかりではないからね。わかった。化学物質で妄想を消すよりも、一種の行動療法を試みた方がいいかもしれないね」
「回鍋肉どう?」
「行動療法。毎晩夢に出てくるなら、夢の中できみが彼女を慰めればいいんだ。ヒントをメモしておいてあげるから、今晩から彼女を慰めてごらん」
翌日の診療時間の最後、若い男は外来にすべりこんできて、前の晩に見た夢の報告をしてくれた。男の夢の話は、ざっとこんな感じだった。
女: とにかく、どうして自殺したのかわからないの。仕事人間だったけど、仕事はうまく行っていたから。結婚して七年にもなるのに、大事なことは結局何も話してくれなかった。それが悲しくて。
若い男: わかりますよ。わかりあえないことが一番悲しいですもんね。小学生の頃、副担任の先生がぼくにつきっきりで分数の足し算を教えてくれたんです。でも、いつまでたっても理解できないぼくを見て、とても悲しそうな顔をしていました。ぼくはぼくで、1/2+1/3=2/5でいいとしか思えないんです。分かり合えないことって、本当に悲しいですよね。
女: それは慰めてくれているつもりなの? (目頭の涙をハンカチで拭って、あきれて笑う)。可笑しな人ね。
若い男: (右手を生き物のように動かして、女性の肩を登らせる。甲高い別の生き物の声で)泣カナイデヨ、綺麗ナ女ノ人ガ泣イテイルト、ボクマデ悲シクナルワン。
女: 今のは何?
若い男: フェネックっていう珍しいキツネです。生まれたての顔はネコみたいで、習性はイヌに近くて、キツネなので化けます。
フェネック: 直子サンガ泣イテイルナラ、ボク今日ノ晩御飯ハ食ベナイカラネ! 一緒ノヒモジイ気持チデ、ソバニイルヨ!
直子: あら、もう私の名前を知っているのね。ふふふ。この子は私がひもじくて泣いていると思っているのかしら。
若い男: このフェネックはまだ生まれたての子供なんです。
直子: 何だか少し元気が出てきたような気がするわ。ありがとう。明日の晩もまたここで逢えるかしら。
私は若い男に向かって拍手した。
「ブラボーだ。私のヒントは二つだった。相手の話を聞くことと、第三のキャラを作ること。かなりうまくやれているような気がするな」
「先生、次はどうしたら良いですか? 先生がいないと、ぼくは何もわからないんです」
「よし。次は、告白だ。夫の自殺で悲しみに暮れている女性に、愛の告白をしよう。それで、きみの夢の中の女性が泣きやんで笑いはじめたら、治療は成功したようなものだ」
私は、激務の傍ら、いつのまにかこの男の妄想を楽しんでいる自分に気付いた。男も上気した顔を輝かせている。
「未来の夢を良くしていくと、未来が来るのが楽しみになりますもんね」
「夏の夢だから、未来の夢だとは限らないよ。明日も報告を待っているね」
翌日の夢の報告は、さらに興奮させる物語になっていた。私は夢中になってメモを取った。
直子: こんばんは。
フェナック: 良カッタ、今日はハ泣イテナイネ! サテハ、美味シイモノヲ食ベタネ。
直子: 美味しい物もいただいたわ。あなたが心配してくれたおかげで、元気が出たから。
フェナック: ソイツハ最高ダ! 今晩ハ、オ兄サンカラ大事ナ話ガアルンダッテ!
若い男: おい、フェナック、それは言わない約束だったろう!(すると、右手で自分の耳をつまんで)痛い、痛い、痛い。わかったから、耳を噛まないで。(と左手で右手をつかんで遠ざける)いいよ、自分で言えるから。最初から、自分で言うつもりだったんだ。(すると、右手で自分の耳をつまんで)痛い、痛い、痛い。わかったから、耳を噛まないでってば。…というわけで、直子さん、旦那様を失くした直後に、こんなこと言うのはおかしいのを分かっているんですけれど、ぼくは直子さんの力になりたいんです。フェナックと一緒に、これからもそばにいてもかまいませんか。
直子: 私は夫に自殺で先立たれた直後よ。そばにいてくれるのは、とても嬉しいわ。でも冷静に考えてみて。私は40代後半で、あなたは20代でしょう? 私はあなたにとっておばあさんすぎるのよ。
フェネック: 年齢ハ関係ナイヨ。ボクノ寿命ハ十年シカナイケド、イツダッテ、ソバニイタイ人ノソバニイタイヨ。
若い男: フェネックの言う通りです。痛みや幸せを分かちあうのに、年齢は関係ないと思いますよ。ぼくには半分もわからないかもしれないけれど、これからもお話を聞かせてくださいよ。明日の晩もここへ来てくれますか?
直子: ありがとう。そうさせてもらうわ。
検査をしてみなければわからないが、臨床医の勘でいうと、若い男には軽い知的障害があるような気がする。社会常識や判断力が弱いだけでなく、目に危ない光が宿ることがあるのが気になっていた。それなのに一方では、夢の中の自分の傷と対話させると、相手の心の傷まで感じられる優しい台詞が言えるのだ。つくづく不思議な男だと思う。
「先生、次はどうしたら良いですか? 先生がいないと、ぼくは何もわからないんです」
ふと思いつきで、私は男にこう訊いた。
「きみの設定ではその未亡人と会うのは、次の夏。あと1、2か月後なんだよね。もっと近い未来の夢を見れば、それが予知夢かどうだか、すぐにわかるはず。たとえば、今は21時。今晩起こることの夢をいまそのソファーで夢見てしまえば、今晩中に答え合わせできるよ」
「先生、教えてくれてありがとうございます。それこそが、ぼくが一番やりたかったことですよ! 次の夏に直子さんに本当に会えるかどうか、気がかりで気がかりで夜も眠れないんです!」
「眠れない」どころか、私が若い男をソファーに案内すると、男はすぐにすやすやと眠ってしまった。口が少し半開きで、唇の端がよだれで濡れているところが、いかにもこの男らしかった。
若い男がソファーで寝返りを打とうとした。その次の瞬間、男は眠ったまま「わああ、そんなことしたら駄目だ」と大声で寝言を云った。そして、ぱちりと目を開けると、内ポケットから取り出したナイフで身構えて、牛のように私めがけて突進してきた。
私は自分の腹部がお湯のように温かい液体で濡れるのを感じた。ナイフの刺さった身体よりも、頭の中で激しく情報の筋がのたうち回っていた。
直子というのは、何てありふれた名前なのだろう。私の妻も直子という名前なのだ。私は目の前の若い男を、単なる妄想狂の患者だと思っていた。それは間違っていた。彼が見ていたのはまさしく予知夢だったようだ。
こんな世間知らずな男でも、いや、こんな純真な優しい男だからこそ、私が亡くなったあとの妻のそばに置いておいてやりたいと、私は感じた。
私は机の上にある紙に、乱雑な字で遺書を走り書きした。
「先生、次はどうしたら良いですか? 先生がいないと、ぼくは何もわからないんです」
「間違えるなよ。私はいま自殺しているところだ。直子をよろしくな」
私はナイフの柄をしっかりと握って、自分の指紋を残した。
若い男は、何も理解できずに、茫然自失しているようだった。
絵画に例えるなら、彼は白い無地のカンバスのようだった。いや、本当に白い無地のカンバスだったのかもしれない。「わかりあえないと悲しい」とか「痛みや幸せを分かち合いたい」とかいう言葉は、仕事に忙殺されてきたこの数年間以前に、新婚当時の私が妻によく伝えていた言葉だったのだ。
私は遠のく意識の中で「まだ希望はある」と自分に言い聞かせていた。生まれたての顔がネコみたいなフェネックに生まれ変われば、珍しいのでかなり高い確率で、また直子と一緒に暮らせるだろう。
私は机の上に突っ伏して、息絶えそうになりながら、走り書きした遺書をじっと見つめていた。
「フェネックになりたいので、さようなら」
(fennec と deer は仲良しのはず)