短編小説「オムライス先輩、ひと肌脱ぎますぜ、ベイビー!」

 三方を山に囲まれた田舎町。視線が抜けるのは、海のある北西だけだ。北西に広がっている日本海の向こうには、朝鮮半島があった。

 小さな田舎町でも、犯罪は起こる。とりわけ、日本海からの漂着物が、この街の裏社会で悪さをしていた。夜の繁華街には暴力団員や娼婦たちがたむろしていた。

 新米刑事を連れて、俺は港はずれにある雑居ビルの陰で、張り込みをしていた。初めての張り込みとあって、フレッシュマンの後輩は心も身体も前のめりだ。

「兄貴、まだ動かないみたいです。ぼくたちは凄いヤマにぶつかっちゃったんじゃないですかね。おやおや、こっちはさっそく動いてきましたよ、ぼくの両膝が小刻みに」

「待て、もう震えているのか。しっかりしろ。麻薬の密輸はほとんどが海上取引。陸揚げされたところを押収するのが、この街の刑事の仕事だ。お前の言う通り、このヤマはビッグだから、いつかきっと映画になるぜ。今のうちに、ニックネームを決めておかないか」

「ニックネーム?」

ジーパンとか、チノパンとか、刑事ドラマでよくあるヤツだ」

「『ケチャップ』でお願いします!」

「お、即答じゃないか。やる気満々ですな、ケチャップ刑事。じゃあ俺は相方らしくオムライスでいくことにするぞ。ちなみに、お前がケチャップを選んだのは、ブラディー・メアリーに惚れているからか?」

「『惚れている』なんて遠回しな言い方はやめてくださいよ。先月ぼくは、茉莉ちゃんと婚約したんですからね!」

「ほうぼうに借金をして4桁以上の結納金を渡した挙げ句、『婚約だけならいいわよ』って彼女にOKをもらったという噂は本当なのか? 何かおかしいと思わないのか?」

 いつも不思議なくらいポジティブなケチャップが、うつむいて押し黙った。会話のパンチが痛いところに入ったらしい。

 メアリーはこの街のアイドルのような存在だ。市議会議員や実業家や金貸しのような町の有力者と盛り場でよく遊んでいるが、どんな男の交際申し込みも素っ気なくはねつけてきた。血気盛んな男たちが露骨にメアリーを奪い合うので、酒場で喧嘩になることも多いらしい。そのせいで、メアリー自身は虫も殺せない平和主義の女の子なのに、流血を意味するブラディー・メアリーの異名が付いたのだという。

 そのメアリーがケチャップと二人で親密に話し込んだりするのだから、世の中は何が起こるかわからない。

「ぼくはただの噛ませ犬なんです。茉莉ちゃんは、これで男の誘いを断りやすくなったと喜んでいます。彼女が幸福なら、それで何もかも許せる気がして……。ぼくが警官になったのも、キラートマトのような悪党に襲われたとき、茉莉ちゃんを守るためですから」

 あんなB級映画を本気で信じているのだろうか。ケチャップには頭の弱いところがある。自分の婚約の背景にある複雑な事情が、まだ呑み込めていないようだった。知らない方が幸福なことは、世界にたくさんあるにちがいない。俺はケチャップのために話題を変えてやった。

「まだ訊いてなかったな。何でマイ・ケチャップを持ち歩くほど、お前はケチャップ好きなんだ?」

「オムライス先輩は、アンパンマンが作詞した『手のひらを太陽に』を知っていますか? 歌詞の通り、太陽に透かして見ると、ぼくたちのてのひらの中にケチャップが流れているのが一目瞭然なんですよ。見たことありますよね、オムライス先輩? ぼくはああいう温かいケチャップの流れがないと、人と人とがわかり合えない気がするんですよ、直感ですけれどね」

 今さらだが、「オムライス先輩」と呼ばれることに抵抗を感じている自分がいた。まあ、それもあと少しのことだ。俺はケチャップに話を合わせてやった。

「よくわからないけど、その話は面白いな。じゃあ、ケチャップのお前が、オムライスの俺の上に文字を書くとしたら、どんな温かいメッセージにする?」

「『祝・昇進』ですかね。聞きましたよ。オムライス先輩も30才ですから、身辺を片づけて昇進して、好きな人と結婚したいんでしょう? このケチャップに任せてください。このヤマで手柄を立てて、オムライス先輩の功績になるようプレゼントしますからね!」

 不味いな。ケチャップは俺に好きな女がいるのを、どこで聞いたのだろう。まあ「好きな人」と表現しているということは、俺の恋愛事情にはさほど詳しくないようだが。

 そのとき、雑居ビルの非常階段で足音がした。二人組のチンピラが降りてきたのだ。

「おい、動くな! 警察だ」

 ケチャップが相手の前に躍り出て、さっそく銃を構えた。二人組のチンピラは一瞬ひるんだようだったが、月明かりでケチャップの若僧丸出しの人相を確認すると、悠々とスーツの内ポケットから拳銃を取り出して、こちらへ向けた。

 ケチャップはやはり莫迦だ。刑事ドラマの見すぎで、銃を構えたら犯人がフリーズしてくれると思い込んでいるのだ。俺がチンピラたちに話しかける必要があった。

「お兄さんたちの車も仲間の車も、パンクして動かないみたいだぜ。こっちは応援をいま呼んだところだ。警官がぞろぞろ到着するまで、ゆっくりお話ししようじゃないか」

 チンピラAが前に進み出て、アタッシュケースを持っているチンピラBを庇う位置取りをした。あのアタッシュケースの中に、白い粉が入っているのにちがいない。チンピラAが笑い始めた。

「へへへ。お巡りさんがタイヤをパンクさせたりして大丈夫なの? 懲戒解雇、おめでとうございます」

 ケチャップが俺を振り返って小さく頷いた。ここは自分に任せろと言いたげに見えた。

「ああ、祝福ありがとうございます! ロードサービスを呼べば、パンク車を無料で牽引してもらえるぜ、ただし半径10km以内の話だがな!」

 俺は頭が痛くなってきた。「祝福ありがとうございます」と返礼したら、パンクさせたのが俺たちだと認めたことになるではないか! 検挙のためなら手段を選ばないのは、俺の悪い癖だ。また始末書と反省文になってしまう。

 さらにケチャップの無邪気な饒舌は続いた。

「そのアタッシュケースに入っている片栗粉を大人しく渡してもらおうか。今晩作る麻婆豆腐に、どうしてもとろみをつけたいんでね、ベイビー」

 ケチャップはハードボイルドな台詞回しで決めているつもりらしい。

 チンピラAとチンピラBは顔を見合わせて笑った。チンピラAがケチャップの方に向き直って、叱責しはじめた。ひょっとしたら、ベイビーという間投詞に触発されたのかもしれない。チンピラAの言葉は、泣きながら去っていく女の子が、男の不実をなじる台詞に口調が似ていた。

「ベイビー、どうしてあなたは他人から奪うことしか考えないの? あなたがとろみをつけたいなら、あなたが片栗粉を買ってお湯に溶いて入れればいいじゃないの! 私はあなたに、他人のものを奪って生きていくような男になってほしくないのよ、ベイビー!」

 ケチャップは無言だった。黙ったまま、膝頭がわなわなと震えはじめた。きっと男として自信がないのだろう。ケチャップは女に叱られることに極端に耐性のない男のようだった。

 俺はケチャップの背中に小声で囁いた。「おい、しっかりしろ、ベイビー」。それから声を張って、チンピラAの説得を始めた。

「片栗粉ってのはこの若僧なりの冗談だ。聞き流してやってくれ。うちが署をあげて探しているのは、半島製の麻薬だ。そのアタッシュケースの中身を確認させてもらおうか」

「断る」

 チンピラAが即答した。ケチャップが身体を立て直して、こう言い返した。

「自分の片栗粉でとろみをつけろと言った割には、とろみもまろやかさもない答え方だな。相手はオムライス先輩だぞ。『今回はご遠慮させていただきます』くらい言えないのか!」

 「ケチャップ、怒るべきなのはそこじゃない!」と俺は心の中で叫んだ。しかし、手柄を焦っているケチャップの台詞は止まりそうにない。

「オムライス先輩は麻薬捜査の大ベテランだ。緊急配備を敷いているので、人間はすぐに捕まる。麻薬だけは海に投棄されないように現場で押さえろ。そんな的確な指示まで出せるんだぞ!」

「それはそれは、親切に教えてくれてありがとさん。捜査方針を被疑者に教えるというのも、あんたのやり方なのかい、オムライス先輩?」

 チンピラAとチンピラBの笑い声が弾けて、夜の港の一角に響き渡った。一時の気の迷いとはいえ、どうして俺は「オムライス」などというニックネームを自分に付けたのだろう。笑われている自分がひたすらみじめだった。ケチャップが歯ぎしりして悔しがっている様子が、彼の背中から伝わってきた。

 俺はケチャップの背中に囁いた。

「奴らは応援のパトカーが来る前に逃げる気だ。5秒後だ。俺が援護するから、あのアタッシュケースをタックルして取ってこい。ケチャップ、頼んだぜ、ベイビー!」

 次の瞬間、俺はチンピラたちの足元に向かって銃を乱射した。月明かりに硝煙のけぶる中、ケチャップが猛然とチンピラBのアタッシュ・ケースに突進していくのがちらりと見えた。だが、ケチャップがあのアタッシュ・ケースに到達することは永遠になかった。しかも、俺はそのことを知っていた。

 チンピラBの放った銃弾が、ケチャップの腹に数発命中したようだった。仰向けに倒れて、夜空を見上げたケチャップが、自分の腹を手探りしているのが見えた。手は真っ赤になっていた。それを見て叫び声をあげた。

「何じゃこりゃあ!」

 そう叫んだ時には、ケチャップはもう錯乱状態になっていたのにちがいない。半泣きになって、赤い液体のついた指を必死にしゃぶっていた。それがケチャップなのか血なのかを確かめているように見えた。

 俺は銃を握っている右腕を下ろして、殉職しつつあるケチャップを黙って見つめていた。俺に手柄を譲ろうとして無謀なダッシュをした男が息絶えつつあるのを、ただ見つめていた。それ以外に、やるべきことがあるようには思えなかったのだ。

 意外なことに、直後に駈けつけた警官隊によって、チンピラの二人はあっさりと逮捕されてしまった。

 翌日の地元の新聞には、恐るべきニュースがでかでかと掲載されていた。地元の警察署が押収していた麻薬が、警察官によって秘かに地元の裏社会へ横流しされていたという衝撃的なニュースだった。

 横流しした警察官は、麻薬絡みの抗争に巻き込まれて、死んだのだそうだ。新聞に掲載されているケチャップの写真は、笑窪が出そうなくらいにっこりと笑っていた。

 これが最善の解決法だったのかはよくわからない。俺は溜息をついた。ともあれ、この田舎町にはびこっていた警察と暴力団の癒着は、この衝撃的な事件を機に断たれたのだった。俺は新聞をたたんで、ぽんと机の上にほうり投げた。

 その一か月後、俺は結婚式会場に花婿として立っていた。花嫁の茉莉はこの世のものとは思えないくらい美しかった。

「オムライス先輩も30才ですから、身辺を片づけて昇進して、好きな人と結婚したいんでしょう?」

 ケチャップの声が蘇ってくる。奴はどうしてだか真相のはしっこをつかんでいた。

 俺も深く手を染めてしまった警察の不祥事がきれいに解決すること。それが、茉莉が俺との結婚に課した条件だった。

 茉莉はこの田舎町のアイドルであり、おまけに平和主義者だった。日本海に面したこの街の陋習の根が断たれて、住民に平和と安心と繁栄が戻ることを心から希望していた。

 結婚式は街一番の披露宴会場で、華やかに進行していた。膨大なフラッシュを浴びながら、ケーキのファーストバイトを口にしたとき、俺は違和感を感じた。

 切り取られたケーキには、赤いハートマークが描かれていた。大口を開けてケーキにかぶりつき、咀嚼を始めたとき、その赤いハートマークがケチャップの味がしたような気がしたのである。

 まさか、ケチャップの呪い?

 しかし、恐ろしいことに、それは呪いではなかったのだ。

 続く式次第で、新婦の両親が入場する段取りになったとき、開かれた扉からは一人の男性しか出てこなかった。スポットライトが当てられた。そこに立っていた若い男性は、ケチャップその人だった。

 新婦の茉莉が立ち上がって、ウェディングドレスの裾を持ち上げて、ヴァージンロードを駈け下りていった。そして、ケチャップに熱烈に抱き着いた。披露宴会場は割れんばかりの盛大な拍手で包まれた。

 振り向くと、俺の背後には四人の私服警官が立っていた。列席者全員がスタンディングオベーションで喝采を送る中、俺は私服警官に促されて、会場の外へ連行されつつあった。背後で司会者がケチャップを紹介する声が聞こえた。

「警察の麻薬捜査課に任官してわずか半年。あっというまに町の病巣を手術した英雄です!」

 華やかな歓声や拍手のうねりは、すぐに小さな音量になって、やがてまったく聞こえなくなった。式場の裏口には、パトカーが待機していた。

 俺は急にオムライスが食べたくなった。これから何十年か入る刑務所の献立には、オムライスはあるのだろうか。もしあるのなら、いつか独房でそのオムライスに、ケチャップで「LOVE」という文字を描いて、じっくり味わってみたいと思った。たぶん、俺の知らない味がするにちがいないから。

 

 

 

 

 

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