森羅万象の声に耳を傾ける日曜日

日曜日を日曜日らしく過ごす日曜日が、たまにはほしい。

そんなことを考えながら、今日は休日気分で、ドライブして買い物に行ったり、図書館で読みたい本を借りてきたり、昔好きだった音楽を聴いたりして過ごしていた。

このところ掌編小説を一日一本書くのを日課にしていた。自分の思う完成度に遠く及ばなくても、とりあえず目を瞑ってアップして、連載物を含めると50篇前後を書き飛ばしてきたというわけだ。掌編小説はアイディア勝負なので、今は読み返す気にならないほどのクオリティーでも、リライト次第で生かせるものばかりのはずとは、作者の弁。

自分の資質の盛りつけとしては、ペーソスとユーモアとセンス志向の生きたこの短編なんか、可愛らしいのではないかと思う。

ずっと前から書きたいと思っていたのが、遠隔運命愛のこの短編。女性が真夏のオーストラリアを訪れて、南半球のその地が厳寒であること思い知る場面を書き忘れている。思いの温度が正反対となっている描写で「片思い」を表現すれば、さらに好きになれそうな短編だ。実はこれは実話だ。というのは嘘。どうしてだか、今日は嘘をつきたくなってしまう。

今日は梅雨の晴れ間で天気も良いので、気分転換をしようと思う。掌編小説には使えそうもなかった読書の一部を、備忘録として記録しておきたい。

これも90年代の曲。You Tubeで「Luca」という懐かしい曲に再会したとき、日本でいちばん古い「ルカ」のことを思い出した。戦時中は「大東亜中央病院」という名前に改名させられたらしい。「聖路加」国際病院を「聖ルカ」と読むことを人々に最も多く知らしめたのは、名誉院長だった日野原重明だと思う。

人間ドック制度を発案したり、成人病を生活習慣病にリネームしたり、病院を有事緊急医療可能に設計して、その先見の明が地下鉄サリン事件で見事に生きたり、若い頃には日航よど号ハイジャック事件に遭遇したりと、耳目を引く偉人級の逸話に事欠かない。戦後最大の「国民的医師」だったのではないだろうか。2017年に105才の現役医師として逝去した。

著作は数え切れないほどあるし、自分が50才を過ぎてから読もうと考えて、敬遠していた。ところが、今日大学図書館で書棚を歩いていたとき、小さなストロボを焚いたように本が光ったのだった。そんな風に、物理的に本が光ったかのような錯覚にとらわれることが時々ある。半年前の記録がこちら。

 今晩はベンチャー企業の話を書こうと思っていた。ところが、図書館の蔵書に検索をかけても、ほとんど引っかかってこない。街一番の本屋さんへ行けばあるだろうと思って書棚の前に立ったが、ほとんど見当たらなかった。

 そのような読書候補の残骸の中で、最も輝いていたのが本書。 

あれ? 分かる人にだけわかるように、遠回しにしか書いていないな。あのときも間違いなく本が光ったような気がしたので、街一番の本屋さんで迷わず購入した。読んでいるうちに、どうして神様があの本を読めと自分に囁きかけたのか、わかった気がしたのだ。

音楽力

音楽力

 

今日もぱっと光ったこの本を、中身も確認しないまま図書館から借り出して、帰りの信号待ちの車内で読み始めた。なるほど、と私は膝を打った。あちこちのページが、自分がこれまで追いかけてきた主題につながる本だったのだ。夢中になって、あっという間に読了した。

驚いたことに、日野原重明音楽療法の推進者でもあり、シュタイナー発案のライアーを使って治療にあたっていたというのだ。これは嘘ではない。実際に拒食症患者が大きく回復した臨床例もあるのだという。

このライアーという竪琴はしシュタイナー教育の中から生まれた楽器で、開発者のシュタイナーは、音階の周波数にきわめて強い警告を発したことでも知られている。

音の基準音が 432 Hz から変更されるようなことがあれば、この世は悪魔の勝利に近づくだろう。

ところが、その432Hzは「悪魔」の手によって、440Hzに変更されてしまった。その経緯は、(シュタイナーの上記発言も含む)下記の貴重な記事で確認できる。音楽の個人的なデジタルデータを、432Hzに戻すテクニックも、別の記事で紹介されている。

読みにくい文章で、440Hzを国際平均律にした歴史的陰謀を確認したい読者は、拙記事をどうぞ。

このソルフェジオ周波数には、人を暗澹たる気持ちにさせる悪魔的な弾圧の歴史がある。ジョン・レノンを始め、音楽家は直感的にほぼ確実にソルフェジオ周波数を支持するらしいが、その身体的効果そのものの科学的測定は難しい。しかし、世界的な弾圧の歴史が史実として残っているからこそ、そこに人々の心身の利益が隠れているとするという推測は、かなり有力だ。そもそも、1%軍産ー金融複合体の非音楽家たちが、大勢の音楽家たちの反対を押し切って、独自の世界標準を作らねばならない理由を、他に求めることは難しいからだ。

人民をエンパワーするソルフェジオ周波数を禁じて、軍産複合体を潤す戦意高揚に適した周波数を研究して、人々を音楽でも支配しようとしたのは、両大戦間のアメリカ海軍と1%グローバリストだった。音楽を大衆支配の道具にすることに反対した研究者ハンス・アイスラーは、フーバー時代のFBIに尾け回されて、最終的に国外退去処分を受けたのだそうだ。そして、アメリカ発の平均律A=440Hz(ソルフェジオ周波数と調和するのはA=444Hz)は、ナチス・ドイツの推奨や陰での国際銀行家たちの金の力によって、数多くの音楽家たちの反対にもかかわらず、「国際平均律」となったのである。  

さて、今朝大学図書館で発光したようにみえた本には、まだまだ読みどころがあって、何度も感動の唸りをあげてしまった。対談相手をつとめる音楽評論家の湯川れい子の発言が、スピリチュアリズムの深いところまでぐいぐい喰い込んできているのだ。

どこかで「スピの座上昇気流」と呼んだスピリチュアリズムの興隆は、日本で最も著名な音楽評論家の思想にまで及んでいたのだ。

スピリチュアリティという用語の主流文化における広がりは、1998年に世界保健機関(WHO)が新しく提案した健康定義にspiritualが含まれていたことに始まる。以下が提案された健康定義である。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well being and not merely the absence of disease or infirmity.

「健康とは、完全な身体的、心理的、スピリチュアル及び社会的福祉の動的な状態(静的に固定されていない状態)であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

スピリチュアリティ - Wikipedia

 

「スピの座上昇気流」を説明する定番の上記資料にアクセスしたあと、湯川れい子は凄いことを言ってのける。

 もっと、自然が発するメッセージに、私たち人間は耳を傾けなさいということなのでしょう。おじいさんは聞き耳頭巾をかぶることで、鳥の声もウサギのおしゃべりもわかるようになりました。私たちにはそんな便利な頭巾はありませんが、本来、ありとあらゆる物体は、人間の耳には聞こえないメッセージを出しているのだと思うのです。

 こうした民話が世界中どこにでもあるということは、目にも見えず、音にも聞こえないで、すべての物体は振動し、互いに共鳴し合って生きていることを示していて、これまで真空と思われていた宇宙空間にも、量子と呼ばれるエネルギーが満ちていて、振動している。とうことは、すべてがリズムと情報を持って存在しているということです。  

(…)私は以前、木が出している情報を増幅して音にしたというものを聴かせていただいたことがあります。サキソフォンに似たような音で、亡くなったテナー・サックスの松本英彦さんは、その音と掛け合いで演奏をしたことがありました。

プレスリービートルズに最も近かった日本人音楽評論家は、今や宇宙の真理にかなり近いところまで接近しているように見える。そう思うのは私だけだろうか。宇宙の真理とは、我流でひとことでまとめると、こんな感じだ。

この世のあらゆる森羅万象が音(周波数)を持っている。というより、音(周波数)が森羅万象の形を作り出している。

この世には、サイマティックスと呼ばれる「周波数と物質形状の相関関係」を扱った科学分野がある。かつて、自分も下記の記事でこう書いた。

エヴァン・グラントは、テクノロジーと自然と愛との調和を目指しているテクノロジカル・アーティストのようだ。たぶんサイマティックススピリチュアリズムとの関わりについては、あまり知らないのではないだろうか。

TEDの動画でも紹介されているサイマティックスの名付け親であり創始者でもあるハンス・ジェニーは、何と「人智学」のシュタイナー派の自然科学者だったのである。 

TEDの演説でスピーカーは「サイマティクスが宇宙の形成に影響を与えていたかもしれない」と力説しているが、「宇宙の形成」という呼び方は、ややミスリードか。それだと「宇宙の誕生(Big Bang)」を想像してしまう。

むしろ、「周波数が自然界のあらゆる事物の形を作っているかもしれない」と考えた方が、はるかにスリリングなのではないだろうか。そして、そのワクワクするような「神の領域」の神秘に、少しずつ科学が分け入りつつある。

 またしても、そこにシュタイナーという固有名詞が召喚されていることを、私たちはどう考えるべきなのだろうか。

またかよ。話がスピリチュアルに飛びすぎて、ついていけないよ! 

そんな声も聞こえる。 ワールドカップもやっていることだし、今晩は攻め急がずにバックパスをして、自陣でゆっくりボールを回すことにしようか。

つまり、私たちが接している美しい建築に、美しい音楽と同じ法則が働いているとしたら? そうなら、森羅万象と音楽の関係を、私たちは新しい心で捉え直すことができるかもしれない。

前身ブログで、昭和の文豪である三島由紀夫を論じたことがあった。

(明晰と理性の神アポロンをいただく)アポロン的存在の薄い皮膜を(酒と陶酔の神デュオニュソスをいただく)ディオニュソス的存在が荒々しく突き破って、渾然一体と相交じり合う劇が、ミシマの作品で執拗に反復されていることに、もう少し多くの文学研究の言葉が費やされるべきではなかったか。アポロン的な「建築」とディオニュソス的な「音楽」を交合させた「建築に音楽があり、音楽に建築がある」という対句が頻出するのはささやかなその直叙だが、金閣寺』で主人公が女と性的交渉を持とうとすると、「憂鬱な繊細な建築」が現れ、私の「人生との間に立ちはだかり」「巨大な音楽のように世界を充たし、その音楽だけでもって、世界の意味を充足するものになった」と書かれる名高い場面にも、ニーチェ経由の二項対立の秘教的な合一が顕現している。  

ニーチェの『悲劇の誕生』が三島由紀夫に深い影響を与えたことは知られていても、その両者を読み込んで、そこに「建築⇔音楽」の二項対立を読み取った研究者は、管見の限り知らない。そこに、シンメトリーと逆説を頻用した三島好みの修辞以上のものがあることも、未言及の論点だろう。

ロザンヌ・ハガティーのNYのホームレス避難所もいい。日本のメタボリズムの影響を受けた「Half-build」方式のチリの集合住宅もいい。どちらもソーシャルデザインとして素晴らしい。しかし、そのソーシャルデザインの背景には自然が見えてなければならない。言い換えれば、鴎外のように、改描だらけの歪んだ地図の下に、幾何学模様の水脈が見えてなくてはならない。

ソーシャルデザインをさらに透かし見て、ネイチャーデザインを視野に入れて、それと調和していく線の引き方が、デザインの未来で輝いているような気がしてならない。 

地域社会と調和するデザインの先に、(人も含んだ)自然と調和するデザインがあると、記事をまとめた。そこで最後に言及したジョージ・ドーチの本を今日手に取って、これも自分が読むべき本だったのだと直感した。

序文の書き出しからして、こうなのだ。

 どうしてリンゴの花には5枚の花びらがあるのか。子供だけがこんな質問をする。大人は、われわれが十指で数えられる数しか使わない事実のように、分かりきったこととしてこのような事象には注意を払わない。

どこかから声が聞こえる。

悪いけれどね! 大人でもね、人間の指がどうして5本なのか、一生懸命に考えて、得意げにブログで披露したりするんだよ!

ひょっとしたら、40代男性の心の中に6才くらいの子供がいて、そんな子供っぽい反論をしたり、東京から帰ってきて号泣したり、もうイヤでたまらないので出してくださいと懇願したりすることもあるかもしれない。ただし、ラシュタイナー由来のライアーを扱った生地だけに、嘘か本当かはよくわからないのだ。

ブログにけ検索をかけると、こんな記事が見つかった。

20代の中頃、パーティー会場への移動途中、ある新進作家と雑談をする機会があった。自分が作家志望の友人に「人間の手足の指が5本だということと、サッカーボールには関係がある」という話をしていたら、「どういう意味?」と割り込んで訊いてきたのだ。(…)

「サッカーのゴール=受精の瞬間」という独自の文明論を前提にすると、サッカーボールと5本指の深い関係が見えやすくなる。ゴールが決まった後のボールは、どうなるだろうか? 二分割、四分割、八分割、十六分割、三十二分割となったとき、受精卵はざっとこんな形になると、当時調べた本で読んだ。 

ミカサ サッカーボール5号 SVC50VL-BK

ミカサ サッカーボール5号 SVC50VL-BK

 

そこで初めて、人体の起源の受精卵に5という数字が刻まれる。五角形が登場するのだ。その五角形だけを黒く塗ったのが、ミカサのような伝統的なサッカーボール。ほら、サッカーボールは受精卵の生成分化において、初めて五本指の5が出現した瞬間を象徴しているのである。

ただし、「先駆者パパネックの直系の道を進んでいる」という私の予想は的中していた。卵割から推測した五本指の起源なんていうヤワなもんじゃない。

日本の桂離宮を分析したこのページには、度肝を抜かれるデザイナーも少なくないのではないだろうか。

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ブルーノ・タウトが絶賛したというから、桂離宮が縦軸でも横軸でも黄金比が駆使されていることは、事前に想像できる範囲だ。しかし、その黄金比の配置具合と、画像の右端にある音楽のルート・ハーモニーが対応しているのには吃驚だ。東洋の音楽は5音でできているので、東洋人は図に書き込まれているディアペンテ(ペンタは5)という2:3の比例に快美感を感じるのだ。

まさしく美しい建築と美しい音楽は重なっているのだ! これは空前の研究成果なのではないだろうか。

この世のあらゆる森羅万象が音(周波数)を持っている。というより、音(周波数)が森羅万象の形を作り出している。 

 上記の自分のまとめはあまりにも深遠で、どんな学術分野に探索をかけても、ほとんど手掛かりらしい手がかりは得られない。

ただ、自分なりの情勢分析として近未来の相貌は、多少は見えてきたような気がする。

元々ドゥルージアンだったこともあって、ブログ元年の2003年から学術分野の領域横断を意識したブログを始めた。ところが、都度都度の異種混交からの創造という動きは、大会社の製品開発の現場でも、オープンイノベーションという形で広がりつつある。

そして、自分が偏愛を寄せているジャズ+ヒップホップ+エレクトロニカの分野でも、同じような異種格闘技戦が繰り広げられているのだ。自分に響いた発言を拾ってみたい。

村井: ジャズの定義というのは難しいですが、馬鹿な言い方をすれば、どれだけ自由かということ。(…)つまり、何をやってもいいってことは、ブルーグラスをやったってクラシックをやったっていい。(…)ただ、最近すごいなと思うのは、その自由な場所に入るには大変な目に遭うってことです。(…)ものすごいセオリーとテクニックが必要になっていて、それはジャズだけではなく、ブルーグラスもクラシックも、ある種のロックもみんなそうなんですけど。ここに入るためには相当な技術と知識とセンスhがなきゃいけない。

(…)

村井: (…)あと、いまいろんあジャンルが交じるようになったっていうのは、実はそれぞれのいろんなジャンルの人たちが、他の音楽についての知識と技術を共有できるようになったからなんです。(…)ポイント・オブ・ノー・リターンを過ぎてしまったという気がすごくするんです。

(…)

後藤: 70年近く生きてきて、ここ数年は明らかに世界が根本的に変容しているという感じはすごくするのね。ジャズだけじゃなく、音楽だけでもなくて。(…)とにかくすべては変わっていくという予感は強くするんですよ。  

100年のジャズを聴く

100年のジャズを聴く

 

学問でもジャスでもイノベーションでも、共通して起こっている大変化の背景には、ICT技術の急速な発達があることは、誰の目にも明らかだろう。

 私たちの旅の最終地点はどこだろうか。人も物も音でつながっている。そう書くと短すぎるような気がする。再び言い直そう。

この世のあらゆる森羅万象が音(周波数)を持っている。というより、音(周波数)が森羅万象の形を作り出している。 

この最終地点に見えている見取り図が、どこまで充分なものかはわからない。ただ、単一の学問、単一の専門だけで、独立した閉鎖体系を打ち立てることは、もはや不可能な時代に私たちはいる。

異種格闘技を恐れず、異種人材と積極的に協働して、アドホックな共同創造を繰り返すことのできるスキルが、必須になることだけは間違いないだろう。そのためには、異なる領域にいる人や物の声に耳を傾けることができるといい。異業種の人々だけでなく、風や雨や動物や植物の声に耳を澄ます心の余裕が必要だろう。

上で引用した高名な音楽評論家は、木の幹が発する音に無耳を傾けたことがあるのだという。今日、気晴らしに川沿いを歩きながら、自分も川の流れに耳を傾けていた。投げ入れた小石が川の淀みに波紋を広げるのを見つめていた。

ふと『シベールの日曜日』という懐かしい映画を思い出した。

第一次世界大戦で精神的外傷を受けた帰還兵が、懇意になった少女と森で遊んでいるところを銃殺される映画だったと思う。二人が引き裂かれるのは、木の幹にナイフを突き立てて、少女と一緒に木の声を聴いていたからだった。(1:05:26から、二人で木の声を聴く場面)。「シベール」という少女の名は「とても美しい」に由来している。

自分とは異なる人や物や、いつも異なる風や空や自然の声に耳を傾けながら、広すぎる子の世界を遊撃手として生きていくこと。川辺でそんな想念に満たされながら、しばらく自分の近未来を思い描いていた。とても美しい日曜日だった。

 

 

 

(90年代によく聴いていた曲)