短編小説「聖夜の失神エレベーター」

 もしそんな稀少な思い出があるなら、誰もがホワイト・クリスマスのロマンティックな思い出を語りたがるだろう。

 でもぼくはあの思い出を語りたくない。自分の胸にだけしまっておきたい。

 ぼくは部屋の飾り棚にある小物入れから、女物のレースのハンカチを取り出した。ハンカチを鼻に押しあてると、かすかな花の香水がぼくの鼻腔をくすぐってくる。あの晩の記憶が蘇って、どうしても息が乱れてしまう。ハンカチを顔から離して、レースの刺繍を指でなぞる。花々の形に編まれた繊細な糸の連なりが、ぼくの指先の動きに抵抗してくる。

 あのホワイトクリスマスの晩、ぼくはその女物の香水に理性を奪われて、手錠をされたまま、パトカーの後部座席に放りこまれたのだった。

 話はクリスマスの半月前に遡る。

 雪の降るクリスマス、彼女のいなかった大学一回生のぼくは、宅配ピザのアルバイトに初出勤した。

 クリスマス当日は忙しい上にバイトが働きたがらないので、ぜひとも出勤してほしい。グルにそう頼まれたのだ。半月前の面接のときのことだった。いま思い返すと、あれはとてもユニークな採用面接だった。

 …控室のドアをノックして着席すると、店長から自己紹介があった。

「私のことは『店長』ではなく『グル』と呼んでほしい」

「?」 

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「安心してほしい。ここはただの宅配ピザ屋だ。小さい頃、絵本の『ぐりとぐら』が好きだった。私は三人兄弟の末っ子だったので、『グル』という呼び名が定着してしまっただけだ」

 店長がひとりで乾いた笑い声を立てた。

「いくつか大事なことを質問させてもらうよ。好きなピザは何?」

マルゲリータでしょうか。イタリアの王妃に捧げるために作られたピザなので、王妃をイメージしながら食べちゃうせいだと思います。心の中では、親しみを込めて『マルちゃん』って呼んでいますけどね」

「ほう、王妃というキーワードが出てきたか。じゃあ、好きな恋愛映画は何?」

「『君の名は。』でしょうか。ちょっと待ってください、グル。それ、宅配ピザのバイトに関係ありますか?」

「関係あるに決まっているだろ! 初めて電話注文を受けたときには、必ず『君の名は』?って訊き返さなきゃいけないんだ」

「言葉遣いがフランクすぎません? 『お客様のお名前は?』じゃないですか?」

「そうそう、大事なことを訊き忘れていた。彼女と初めてお泊りした夜、眠りに落ちる直前の30秒で言ってほしい台詞は?」

「グル、もう一度言いますけど、それピザに関係ないですよね?」

「関係あるに決まっているだろ! キザな台詞が好きなのか、反対に、ピザな台詞が好きなのか、それが問題だ」

「待ってください。キザとピザは反対の概念なんですか?」

「そうやって、すぐに左脳で理解しようとしては駄目だ。理解は感情を奪う。いったんそのソファーに寝てみると、キザかピザかのイメージが湧くはずだ。遠慮するな。寝てごらん」

 宅配ピザの面接だったはずが、思いもかけない展開になってきた。グルは先に立ち上がって、楽しそうに微笑んでいる。一緒に働きやすい憎めない人だと感じたので、ぼくも腰を上げた。そして、隣に置いてあるソファーに横たわって、目を閉じた。

 店長は部屋の電気を消すと、先に女役で喋りはじめた。

「ねえ、何だか眠くなってきちゃったわ」

「ぼくも眠くなってきたかな」

「……」

 目を閉じたまま、ぼくは自分がどんな台詞を欲しがっているのか、真剣にイメージした。やがて、ぼくは目を開けた。

「グル、聞こえました。『ずっとそばにいて』ですね。これで間違いありません」

 店長は電気をつけて、ぼくに駈け寄ってきた。両手をバンザイのポーズに挙げて、ハイタッチを求めてきた。ハイタッチすると、店長は喜びの声をあげた。

「素晴らしいキザっぷりだ。最後にひとつだけ聞かせてくれ。きみは高所恐怖症かい?」

「実は… そうなんです。まずいですかね?」

「まずいどころか、ブラボーだ! おめでとう、採用決定だ!」

「ありがとうございます!」

 その場では、調子を合わせてハイタッチしたぼくだったが、自宅へ帰ってから、何とも釈然としない気持ちになった。同じ店でバイトしたことのある先輩に訊いたが、そこは美味しいせいで固定ファンが多いことを除いては、特に変わったことはなかったという。

 アルバイト初日のクリスマス、雪がちらついていた。路面が濡れる程度の雪だったので、宅配バイクを走らせる分には問題なさそうだった。制服に着替えて、バックヤードに立つと、店長が電話注文を受けているところだった。パーティー・シーズンなので、ピザは8枚。すぐ近隣の区域には、30分以内で配達する約束になっている。

 ピザが焼けるまでに、ぼくは急いで配達へ向かう準備をした。グルはいつになく真剣な表情で、ぼくの背後から声をかけた。

「注文入れてきたの、怖い兄ちゃんだから気をつけな。30分以内配達厳守で頼むぞ」

 ぼくは伝票の注文時間を見て、時計を見た。土地勘もあるし、配達バイクはナビつきだ。注文後15分前後で到着できそうだった。ぼくはグルを振り返って「わかりました!」と返事した。

 数分で到着したのは、40階建ての高層マンション。このマンションには、各駅停車、偶数階停車、奇数階停車、20階以上停車の四種類のエレベ-ターがある。四基のうち、開いていた各駅停車の一基に乗り込むことができた。ぼくの姿を見つけた女性が、扉を開けて招き入れてくれたのだ。

 ぼくはエレベーターに乗り込むと、礼を言って最上階のボタンを押した。すると、女性はぼくの背後から回り込んで、2階から39階までのボタンをするすると指でなぞって、全部押してしまったのだった。

 ぼくは激しく動揺した。各階に停車していたら、間に合わなくなるかもしれない。すると、女性が振り返って、ぼくの目をまともに見た。背筋がぞくっとするほど綺麗な女性だった。

「ごめんなさい。少しでも長く、あなたと二人きりでいたかったから。40階までは長いわ。荷物を下へ置いてくださらない」

 女性の美しさに眩々しながら、ぼくは操られるように、ピザの入った保温ボックスを床に置いた。すると、女は金糸を縫い込んだワンピースをきらめかせながら、ぼくの胸板にすがりついてきた。ぼくの顔の下にある彼女の髪から、切なくなるような素敵な匂いが立ち昇ってくる。

 女が顔を上げた。

「あら、キスをするときは、目を瞑るものよ」

 ぼくは言われるままに目を閉じた。目を閉じると不安になったので、彼女の身体に腕を回そうとした。すると女の両手がぼくの両手を抑え込みに来て、ぼくの身体の後ろでつなげた。その両手に冷たい何かがあたって、カチリと音がした。

「大丈夫よ」と女は耳元で囁きながら、しっとりとした細い手で、ぼくの頬に触れている。「このマンションで各駅停車の昇りエレベーターを気にする人はいないわ。最上階まで、好きなように愛撫させて」

 手錠を掛けられるとすぐ、ぼくの両目を覆うように、女物のショールがぼくの頭に巻かれた。手錠をかけられ、目隠しされて、ぼくは箱の中でもてあそばれるがままの人形になった。胸を波打たせて、荒い呼吸をするだけの人形になった。耳元では、まだ女が囁いている。

「ずっと捜していたのよ。もうどこにも行かないで。ずっとそばにいて」

 ぼくは身体だけでなく心も痺れてしまった。ますます動けなくなった。

 女はしばらくぼくの頬や胸を優しく撫でていた。女の手からは舶来のハンドクリームのような香りが漂っていた。或る瞬間から、女の手は力強くなって、ぼくの制服のボタンを順に外して、パンツのベルトの留め金を外した。そして、こう囁いた。

「いま18階よ。街のクリスマスのイルミネーションが綺麗。オス犬みたいに喘いでいるあなたを、東京の夜景の光のひと粒ひと粒が見ているわ」

 ぼくは高所恐怖症と羞恥心が入り交じったおかしな気分になって、脚が震えはじめた。

「ねえ、美人は好き?」と女が囁いた。ぼくはこくりと頷くのが精いっぱいだった。囁きは続く。

「うふふ。正直で可愛いわ。じゃあ、美人の履いているレースの下着は好き?」

 ぼくがどう答えるべきか迷っているうちに、女の身体が離れて衣擦れの音がした。まさか、フランス映画みたいな展開が、本当に起こるのだろうか。ぼくは息を呑んだ。 

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  ふいに頬に繊細な肌触りの布切れが触れた。かと思うと、っそれが丸められて、ぼくの口の中へ突っ込まれた。ぼくは放心状態になって、口から涎を垂らした。女がぼくを夢中にさせる台詞を囁いた。

「ずっとそばにいて」

 ぼくはそのまま失神してしまった。

 気が付いたとき、ぼくはパトカーの後部座席にいた。上下とも下着姿で、後ろ手に手錠をされて、口にはレースの下着が突っ込まれていた。

 話し声がしている。後部座席の隣には店長が座っている。警官と身元引き取りの話をしている。パトカーでピザ店まで送ってもらったぼくたちは、裏口から従業員控室へ入った。

 店長がぼくの口からレースの布を抜き取った。驚いたことに、それは下着ではなく、ハンカチだった。それがどうしても信じられなくて、ぼくは珍しい生き物を見るように、ハンカチを凝視した。店長はぼくの背後へ回って、手錠を外せるかどうかを確認していた。

「毎年パーティーの季節になると、ああいうケチな客が出るんだよな」

「ケチな客?」

「知らなかったっけ。ほら、近隣区域に30分以内に配達できなかったら、ピザ代を無料にすることになっているから、好き放題仕掛けてくるんだ」

 背後に回っていた店長が、簡単に手錠を外してくれた。ニッパーではなく、鍵を使ったようだった。店長がぼくを慰めようとした。

「でも、お前にハニートラップを仕掛けたのは、綺麗な女だったんだろう?」

「はっきり覚えていないんですけど、何ていうか、好きになってしまったような気がするんです」

「どのあたりでハートを持っていかれたの?」

 店長は洗ったあとの手に、ハンドクリームを塗っている。ぼくは手首に残った手錠の痕を触りながら、こう言った。

「ぼくのことをずっと捜していたと言って、彼女はぼくの頬を愛おしそうに撫でてくれたんです」

「そいつは素敵なラブシーンだな。『オス犬みたいに喘いでいるあなたを、東京の夜景の光のひと粒ひと粒が見ているわ』の方はどう感じた?」

 ぼくは目を見開いて、店長の方を振り返った。そのとき、店長愛用の細身のハンドクリームのチューブが視野に入った。 

 「どうして知っているんですか、店長!」

「言い直せ。俺を何と呼ぶべきだと教えた?」

「どうして知っているんですか、グル!」

 その台詞の最後の二文字は、ぼくがこれまでの人生で口にした中で、最もつらい二文字だった。ぼくはがっくりと肩を落とした。

 店長は黙っていた。その沈黙は雄弁だった。あのときは夢中だったので、気がつかなかった。各階停車のエレベーターは密室ではない。ぼくの耳元にあった甘い囁き声の持ち主と、ぼくを愛撫していた二つの手の持ち主は、別人だったのだ。ぼくはグルの愛撫で失神してしまったのだ。急に喉元に嘔吐が突き上げてくるのを、ぼくは感じた。

 店長がぼくを気遣って隣に座った。

「わかるよ。俺も今でもあの女のことが好きで、夢にまで見るんだ。ちょうど去年の今頃から、ずっとだ」

 ぼくは返事をしなかった。そのまま着替えて、傷ついた心を抱えて無言で店を出た。

 店長は自分も同じハニートラップの被害者だと言いたいのだろう。あの女を忘れられない被害者が、翌年「グル」になって別の被害者を招き寄せて、愛する女のピザ・パーティーを無料の祝宴にする。

 そういう奸計は、可能性としてはありうると思う。けれど、ぼくはピザよりもキザな言葉を大切にする男だ。目隠しされた悲しさで、「ずっと捜していたのよ。もうどこにも行かないで」というあの彼女の囁きだけが、確かにあそこにあったものだと感じられてならない。

きっと、ぼくたちの間に、想像もつかないような不運があったのだろう。ぼくのもとから彼女が立ち去ったのは、彼女がマフィアのような組織に脅されたからではないのだろうか。そうでなければ、「ずっとそばにいて」と自らぼくに囁きかけた女性が、急にいなくなるなんてことがあるはずない。

どうすれば… 彼女にまた逢えるだろうか。実際に彼女に逢って、ぼくへの気持ちを確かめるには、どうすればいいだろうか。

ぼくは夜の街路を引き返して、宅配ピザ店へ向かった。来年のクリスマスまでに、店長にグルの座を譲ってもらうよう、直談判しようと思った。