短編小説「マッチ箱サイズのバイオレンス」
「知らない写真家の個展に迷い込んだことがあってね」と、ハンドルを握っている30代の男は喋りつづけた。「画廊の壁には、マッチ箱くらいの写真があったかと思うと、オレよりデカい巨大な写真まである。サイズがバラバラな写真が、白壁に撒き散らされている感じなんだ」
(画像引用元:Wolfgang Tillmans - Exhibition - Andrea Rosen Gallery)
「順路に沿って見ていくと、近づいたり遠ざかったりしなきゃいけなそうですね」と助手席の20代の女が答えた。彼女はロングヘアで、赤いショルダーバッグを腰の前に抱えていた。
「ところが実際はそうじゃない。小さな写真を見たあと、大きな写真を見ると、わっと眼前に迫ってきた感じがする。さっき遠くで手を振っていたきみも、そんなふうに見えたんだ」
「高原でヒッチハイクする女性なんて、珍しいから」
「なんて言うか、きみは遠くに立っていたのに、わっと近くに迫って見えた」
「ふふふ。ロマンティックなことを言いますね。乗せてくださって、ありがとうございます」
女はダッシュボードに手を伸ばして、貼りついているシリコン製のマットに触れた。
「柔らかい。これ何ですか?」
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「知り合いからもらったんだ。単なるマットに見えて、小物入れ。スマホを載せてもビクともしないんだぜ」
女は自分のスマートフォンを載せて、手を離した。
「本当だ。ぴったりひっついている」
高原の真ん中で、男は急に車を路肩に寄せた。
「なあ、オレたちもひっついてみないか」
女はすぐに拒絶した。
「いやです。ごめんなさい。この車に乗せてもらったときから、すごく悪寒がするんです。背中がぞくぞくして、後ろに誰かいるような気がするの。誰かに追いかけられているんじゃないですか?」
「後ろなんかに誰もいねえよ。誰もいねえからこそ、できることをしようじゃないか」
「やめてください。警察を呼びますよ!」
「呼べるなら呼んでみろ!」
男は大声を上げて威嚇したが、女は男の腕をするりと抜け出して。助手席から転がり落ちた。そのまま一目散に森の中へ駈け込んでいった。
男は追いかけようとしたが、森の夕暮れの暗さを見て、追いかけるのをあきらめた。暗がりの中で見失ったのだ。
男は車に戻ると前照灯をつけた。車通りのない林道を走りながら、女が言った台詞を思い出していた。
「背中がぞくぞくして、後ろに誰かいるような気がするの。誰かに追いかけられているんじゃないですか?」
バックミラーで後部座席を覗いても、もちろん誰もいない。
バックミラーが光った。背後から、こちらを追尾してくる車両があるのだ。どうして車の走っていない夜の山道で、この車を追いかけてくるのだろう。男は背筋が冷たくなって、手に厭な汗をかくのを感じた。
林道が山へと分け入った。背後の車両はまだ追尾してくる。くねくねとしたカーブが続くので、男はハンドルを繰り返し左右に切った。
次の瞬間、フロントガラスが急に白々と明るくなって、画廊で見たあの巨大写真のように、昔の女の顔がこちらに迫ってきた。女の顔は殴打された傷とむくみで腫れ上がっていた。傷だらけの顔をした女がこちらへ手を伸ばしてこようとした瞬間、男はわあと悲鳴をあげてハンドルを切り、路肩の樹木に正面衝突した。大破した車のフロントから火の手があがり、車はたちまち炎に包まれた。燃え上がった炎が、夜の樹々を高々と照らし出した。
後ろから追尾していた車が、事故車を通り過ぎてから、急停車した。
助手席から、長髪の赤いショルダーバッグの女が出てきた。携帯電話で警察に通報しているようだった。炎上している事故車まで走ってきて、自分を襲おうとした男がかろうじて炎の中から這いだしたのを確認すると、そのまま自分の男の待つ車へと戻っていった。ダッシュボードに置いた投影機能つきの忘れ物を、女はあきらめたようだった。
夜の山道を走り出した車の中で、運転席の男が女に訊いた。
「映像を見ただけで、本当に事故を起こすとはね」
「暴力を振るう男って、要するに怖がりで淋しがりなのよ」
「車はきれいに燃えちゃったね」
「手品のフラッシュ・コットンみたいに、きれいに消えたわけじゃない。姉はあの男に酷い目に遭わされたんだから。でも、妹として感じた傷も、マッチ箱サイズの写真くらいには縮んだ気がするわ」
そういうと、女はハンドルを握っている男の手にそっと触れた。それから囁くようにこう言った。
「何されるかわからないから、本当はとても怖かったの。あなたがすぐそばにいてくれて嬉しい」