短編小説「古城にあった炎の記憶」

 彼からのプロポーズを受け入れたあと、来年には結婚式を挙げられたらいいねと、互いに微笑み合った。まだ私たちは、幸せな結婚というものが、実際にどんな形をしているのかを知らない。けれど、最初に私が触れたそれは、色とりどりの植物で飾りつけられていた。どの結婚式場のサイトも、信じられないくらいの数の花々で満ちあふれていたのだ。

 私は一人暮らしのワンルームから、ベランダに出た。南向きのベランダに、陽がよく当たるように棚をもうけて、私はリンドウの鉢を置いていた。花々が日光浴をしているときの鮮やかな紺色が好きだったのだ。私は花びらに触れて、それから空を見上げた。真っ青な空に、刷いたように白い筋雲が流れていた。なぜとなく、青空のどこかに鳥が飛んでいないかを私は探した。

 結婚式場を調べる前、私の趣味は読書だった。イギリスに留学していたこともあったので、英米文学の書棚からよく小説を選んだ。お気に入りはポール・オースター

 中でも、オースター自身が書いたのではなく、オースターがラジオで全米から集めた実話のショートストーリー集が好きだった。

 すべて実話で、すべて数ページの短さ。順番に呼んでいくと、実話の世界は驚くほどシンクロニシティーにあふれかえっていた。偶然とは思えない奇跡的な偶然に満ちていたのだ。

 私が好きなのは「青空」という話。

 少女時代、姉の飼っていた青インコを公園へ連れていくと、インコが青空へ飛び立ってしまった。姉は「きっと新しいお家を見つけたわよ」と慰めてくれた。

 それから20年。結婚して子供ができて、家族ぐるみで仲の良い友人夫婦もできた。友人の夫が人生最高のペットの話を始めたとき、私は耳を疑った。ある日、少年の指に空から青インコが舞い降りてきて、少年の指にとまったのだそうだ。日付は一致した。姉の言う通り青インコは「新しいお家を見つけた」のだった。…… 

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

 

 私はもう一度、空の青みを見回した。鳥はいなかった。それでも幸福だった。

 そんなある日のこと。「海外でもいいんだよ」と、式場探しに夢中の私に、彼が背後から声をかけた。そして、彼は私を後ろから抱きしめた。彼は呼吸を置いて、落ち着いて話す癖がある。

「新婚旅行も兼ねられるから、かえって安くなることもあるんだって」

 振り返った私の顔は、きっと自分史上最高の笑顔のひとつだったと思う。彼は彼で下調べをしてくれているらしい。新婦に丸投げして無関心でいる新郎とは、この人は違う。

 建物がまばらな海外なら、写真には広々とした青空が写っていることだろう。何となく、海外の結婚式場サイトの写真に、鳥が写っていないかどうか、探してみたくなった。

 検索窓にどんな英語を打ち込めばいいだろう。迷っていると、ふと clear... well... という単語が思い浮かんだ。打ち込んでみると、イギリスの由緒ある古城を舞台にした結婚式場が画面に現れた。

 ぼんやりと式場の紹介ムービーを見ていると、あっと声があがってしまった。どこかで見たことがあると思ったら、イギリス在住の家族と一緒に、参列したことがある結婚式場だったのだ。くすんだ土色の古城の外壁は、少女の私が見たときと同じまま。

 古城の一室に、小さなテーブルや燭台や飾り花が綺麗に整っているのを見ていると、私は急に悲しくなった。7歳の私は、花嫁の後ろにくっついて、金髪の男の子と、ウェディングドレスの裾を持ち上げる役だった。男の子が私の近くに立つのをどうしても厭がって、そのたびに大人にたしなめられていた。

 私は胸が苦しくなって、胸骨に手をあてて撫で下ろした。この悲しみは、もっと深い傷から来ているような気がした。

「clear... well...」という英単語を思い出したのは、きっと離婚後の母がよく使っていたからだと思う。

「文字通り、いい厄介払いなのよ。あの人はイギリスの古い城と同じ」

 一人娘の私を引き取って、外で仕事をするようになってから、家の中でいつも笑顔を振りまいていた母の性格は一変した。離婚前は言わなかった父の悪口を、いつも食卓に載せるようになり、養育費の支払いが遅れた月は、酒を呑んで大声でそこにいない父を罵倒した。

 母にはひた隠しにしていたけれど、私は父のことが好きだった。父に新しい妻ができて、新しい娘ができたと聞いたときは、自分が嘘まみれの偽者になったような所在なさを感じた。

 けれど、今のこの悲しい気持ちは違う。

 イギリスにいたのは一年だけ。日本人学校にいたので、英語を話せるようにはならなかった。それでも時々、少女時代に触れた英単語が、吃音のように私の存在をノックしてくることがある。

 Bだと私は思った。心理学でいう舌先現象が、自分の心の中で起こっていた。Bで始まる4文字のスペルだとまでわかっているのに、単語が舌先にひっついたまま声にならない。私は口をぱくぱくさせた。不思議なことに、自分の悲しみの中心にあるのが BLUE ではないことは、はっきりとわかるのだ。

 B には BLUE よりも怖い感じが含まれている気がする。ひょっとすると、あの古城へ行く途中のドライブが、少女の私には怖かったのかもしれない。父は黒の礼服姿で、髭もきちんと整えていたので、いつもより格好良く見えた。それなのに、怖がる私に悪ふざけをして、幽霊や魔女の話ばかりしたのだ。

「これから行くお城には、本当に幽霊や魔女が棲んでいるんだよ」

 そして、カーステレオの音量を上げて、その古城で録音されたやかましい曲を鳴らした。曲の歌詞には魔女の台詞が含まれていた。私は耳を塞いで金切り声をあげた。

 どうやらクリアウェルの古城で録音されたのは、ロックの伝説的な名曲だったらしく、大人になってからも何度もテレビやラジオで耳にした。そのたびに私は耳を塞ぎたい気分になった。

 どうしてあんなに「Burn」という曲が厭だったのだろう。そこまで考えると、私はチェストから新しいハンカチを出して、目に押しあてた。箱にしまって鍵をかけた少女時代の悲しみが、どこに由来するのかを、私はようやく思い出したのだった。

 離婚が決まってからも、父と母と一人娘の私は、一か月だけ一緒に暮らした。そのあいだに、幼い頃からの最大の遊び相手だった柴犬が亡くなったのだった。私は病気で餌を食べなくなった柴犬のムクを、自分の部屋に連れ込んで、毎晩添い寝して世話をした。

 ムクが亡くなった日、私たちはムクの犬小屋のあった庭に出て、冷たくなったムクを囲んで食事して、7年分のアルバムを家族三人で振り返った。ムクと家族が写っている写真を父母娘で指差し合って、懐かしさで誰もが朗らかになり、それから、ムクも家庭も戻ってこないことを悟って、皆で泣いた。おかしなことに、あれが私たち三人家族が一番仲の良かった日だった。

 三人でムクの遺骸を囲んで写真を撮った。父母娘とも、泣き腫らした顔をしているのに、涙の筋を光らせて笑っている不思議な写真になった。

 それから、ムクの身体を一斗缶の中に丁寧に曲げて入れて、油をかけて火葬した。あの晩、もう住まなくなる庭先にあった赤々とした炎のゆらめきを、私は一生忘れないと思う。燃えていたのは、ムクの遺骸だけではなかった。私たち三人で作ってきた家庭が、燃やされていたのだった。

 私は涙を流しながら、もう一度胸骨に手をあてた。そして、マッサージで皮膚の下のリンパ液を押し流すように、少女時代から鬱積していた悲しみを、胸から押し流そうとした。しばらくずっと、自分の中にいる少女を撫でさすっていた。

 それから、ハンカチで涙を拭くと、彼の方を振り返った。

「ねえ、私が10歳のときに離婚してから、ずっと会っていないんだけれど、式にはお父さんも招いていいかしら」

「もちろん」と彼は即答した。それから、いつものようにひと呼吸置くと、こう言った。

「きみのお父さんにも、花嫁姿を見てもらおうよ」

 彼は私が泣いていたことに気が付いたようだった。テーブルの上のハンカチを手に取って、私の目を瞑らせて、涙の残りを丁寧に拭き取っていった。

「どうしたの。ひとりしかいないお父さんなんだから、招いて当然だろう」

 私は目を閉じたまま微笑んで頷いた。私にはこの人ひとりしかいない。あらためて幸福を感じながら、瞼の裏に広がっている残像の空に、私はいつまでも鳥の形を探していた。

 

 

 

(クリアウェル城に呼ばれたのは、当時無名のカヴァデール)