海峡が夕暮れた後
巷のニュース番組では、王子様の話や獣医学部の話で持ちきりらしい。
獣のような美しきプリンスへの嗜好を剥き出しにした処女作を書いたのは、ジャン・ジュネだった。牢獄で書き上げ、そののち再投獄されると、その才能に惚れぬいたジャン・コクトーが減刑の嘆願書を集めたのは有名な話だ。処女作の名は『花のノートルダム』。
- 作者: ジャンジュネ,Jean Genet,中条省平
- 出版社/メーカー: 光文社
- 発売日: 2010/10/13
- メディア: 文庫
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今晩はもう少し気品ある王子様の話をしたい。
夏の甲子園で、品の良さが評判になった優勝投手がいた。投球の合間に尻のポケットからハンカチを取り出して、滴る汗を拭うさまは、規律正しさと育ちの良さを感じさせた。大学に進学したのち、プロ野球投手となるが、数年で肩を痛めて、ピッチングの成績は暗い沼へ沈んでいってしまったらしい。ただ、順風満帆の人生を歩んでいた時の彼には、その輝きを忘れられない名言もあった。
大学野球最後のリーグ戦で優勝した時のインタビューで、彼はこう観衆に呼びかけた。
本当に、いろんな人からも、斎藤は何かを持っていると言われ続けてきました。
ただそれが、今日、何を持っているのか確信しました。それは仲間です。本当にこうやってチャンスを回してくれた仲間がいて、
こうやって応援してくれる仲間がいて、慶応大学という素晴らしいライバルがいて、ここまで成長できたと思っています。ありがとうございました。
(1:37くらいから)
好きなスポーツは?と訊かれて野球と答えたことはほとんどない。しかし、スポーツが嫌いなわけではなく、大学生時代は身体も若かったので、晴れ渡った日曜の朝には外に出て青空を見上げ、無性にスポーツをしたい欲求を感じたものだ。日曜の朝には、いつも遠くで教会の鐘が鳴っていたような記憶がある。
cathedral-sekiguchi.jp
その教会とは、文京区関口にある東京カテドラル教会で、設計者が世界の丹下健三であることを後で知った。丹下健三はあの都庁庁舎を設計した建築家でもあり、その後期代表作が竣工してしばらくたった頃、建築好きな自分は自転車に乗ってその威容を見物に行った。
www.yokoso.metro.tokyo.jp
一見して「デジタル・ノートルダム」だなという感想を抱いたが、それはあながち的外れでもなかったらしい。
「世界の丹下」が円熟期の大作として、日本の中心に唐突にパリのノートルダム寺院を引用した理由が、当時も今もよくわからないというのが門外漢の率直な印象だ。ただ、最近出た新書を読むと、都庁舎の構想のスケッチには、ノートルダム寺院よりも先に、ニューヨークの世界貿易センターのツインタワーのイメージがあったらしい。
ツインタワーについては、かつてこの記事で、ボードリヤールが建築論的な饒舌を語っていたのを取り上げたことがある。
丹下健三の「デジタル・ノートルダム」には、ボードリヤールのツインタワー論は該当しないように思えるが、「起源に関するあらゆる準拠の喪失を意味する」という部分は、偶然、東京都庁舎への主な批判と符合している。ポスト・モダン的なノートルダム寺院の引用以外に、ランドマークたるべき形象はなかったのか、とあらためて問いたくもなるが、そのような問いは急激に重要性を失った。今世紀の始まりとともに、ニューヨークの世界貿易センタービルは、双塔ともに、グローバリストたちによる中東戦争惹起目的の偽旗作戦によって、崩落させられてしまったからである。悪辣な1%たちによって破壊されないことの方が、建築にとってより重要であることが明らかになってしまった。
軍産複合体の巨大すぎる体躯に養分を送り込むために、戦争が次々に起こされる。
そのような戦火に薙ぎ払われた焼け野原から、丹下の建築家人生は始まった。敗戦の翌年には、広島と呉の復興都市計画を担当し、コンペに勝って広島平和記念公園も設計した。建築家人生における最高傑作は、東京オリンピックの国立代々木競技場体育館だったとも言われている。日本の復興と戦後の繁栄と並走しながら、世界水準へ到達した建築家だった。
あのリー・クアンユーと協働してシンガポール都心のマリーナ・サウスの開発を手掛けたり、東京の臨海部に「東京特別市」の設立を提唱したりしたことから、丹下健三にはどこか海辺の建築の人というイメージがある。それは故郷の今治市が海峡の街だからかもしれない。海辺を離れる「動く建築」、つまりは造船の町でもある。
好きな街は?と訊かれたら、自分は今治と答えることにしている。本州へ向けて11の巨大な橋梁がかかり、渦を巻く海峡の青と、点々とつながる島並みの緑とのコントラストが美しい。絶景を味わいながら走行できる自転車道が尾道まで整備されているので、自転車乗りの聖地でもある。
海峡の青と緑の島並みを展望できるどこかで、風に吹かれてしばらく物思いに耽りたい気持ちもある。そのとき自分のポケットには、いつものあのハンカチが入っていることだろう。
藍緑と紫紅のリバーシブルを何枚も使い回して愛用していて、私は勝手に、前者が日本晴れの海峡、後者が夕暮れの海峡だと解釈している。勝手につけたブランド名は「KENZO TAKADA」ではなく「KENZO TANGE」だ。彼のような偉大な先人たちが、この国を支えてくれたのだと感じる。
ふとこんな小説の一節が思い浮かぶ。
路彦の永い沈黙に、何とか正確に言葉を返そうとして、琴里が言い添えた。
「…だから、今ここにこうしている」
別れ別れになる運命にある女が、無償の献身を捧げてくれたという事実が、感じやすくなっている路彦の心にひどく愬えた。返すべき言葉を言葉にできないまま、彼は握っている彼女の手に、感謝の返礼の思い入れを込めて、きつい握力を返した。そんなことしかできない自分の無力さに、忸怩たる思いを感じながら。
こんな風に、支えてもらった相手への感謝の言葉を連想してしまうのは、昭和の先人たちへの感謝だけでなく、「王子」が汗を拭っていたハンカチが、彼の高校野球仲間からもらった今治産だったせいもあるかもしれない。
頑張っていきまっしょい。高校時代に仲間たちと声を合わせた掛け声を呟きながら、夕暮れの海峡を眺め終わると、夜が来る。
巷のニュース番組では、王子様の話や獣医学部の話で持ちきりらしい。それとは違うことを書こうとして、結局は同じようなことを書いてしまった。
本当は、マスマディアによるスピン報道の裏でむざむざと殺されてしまった種子法について書くべきだったのかもしれない。この国が守らなければならないものが、もたひとつ葬られてしまった。丹下健三が輝いた高度成長期とは違って、この国の闇は深い。
ただ座して待つのではなく、光を求める誰もが、自らの意志と足で、夜明けの方向へ歩いていかなければならない。汗が流れればハンカチで拭けばいい。一緒に歩きつづけよう。
(5/30分)