ヒゲダンスは永遠の陽光を浴びながら

目醒め際、ラジオのニュースが遠くで流れているような気がした。

…まあまあの…規模のテロが…ハリウッドで起こった…

そんな感じだっただろうか。調べてみると、事件があったのは、ハリウッドではなくフロリダ。真正のテロではなく、偽旗テロである可能性が高いようだ。今回もテレビでお馴染みのコマーシャルだったらしい。

 

あの「危機女優(クライシス・アクター)」の顔を、また拝めるとは思わなかった。連続出演記録を絶賛更新中だ。

考えようによっては、彼女の演技への情熱が燃えつづけているおかげで、世界中で「覚醒者」が続出しているとも言える。好きにはなれないが、愛着のある有名女優だ。今回は、演劇学校の集合記念写真まで出てきた。「ポスト真実」の時代とは、恐怖で大衆を支配しようとする現代版グラディオ作戦のことをいうのだ。くれぐれも逆の意味に取り違えないように。

何となく、インスピレーションが次々に降ってきて、この映画を見なさいという指示が聞こえているような気がすることがある。『ラブリー・ボーン』、『ノッティングヒルの恋人』、『きみに読む物語』に続いて、次はこれですよね?と自分の頭上に訊きながら手に取ったのが、この映画だった。上の「危機女優」より、はるかに有名な女優だって出演している。 

エターナル・サンシャイン [DVD]

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 この映画に魅かれたのは、予告編を見たとき。ヒロインが『タイタニック』のケイト・ウィンスレットなのを知って、今度は誰が相手役を務めたのかなと注視すると、ジム・リーだった。 

次の一文は、ぜひとも大笑いしながら読んでほしい。いつか自分の人生は映画になるにちがいないと確信している。その未来の映画の類似先行作品がジム・キャリー主演の『トゥルーマン・ショー』なのだ。そしてアカデミー脚本賞に輝いた脚本家は、知る人ぞ知る2003年の処女ブログ(削除済)で言及して、日本初のアレな感じになってしまった『マルコヴィッチの穴』のシオナリオライターだ。

(ここからはネタバレ満載でお届けするので、未見の方はご注意を)。 

脳内に侵入してクライアントの記憶を消去する会社に頼んで、喧嘩別れしたケイトがジムの記憶を消し、ジムもケイトの記憶を消そうとするというのが、冒頭のシナリオのフローだ。予告編では、「私を忘れても、また見つけ出して」と、ケイトがジムに哀願する場面があって、その3秒くらいで涙目になった自分は、いそいそとTSUTAYAへ走ったというわけだ。

 困ったな。五つ星評価では、たいてい気前よく「☆☆☆☆☆」を贈りたくなるのに、(『ラブリー・ボーン』、『ノッティングヒルの恋人』、『きみに読む物語』はすべて「☆☆☆☆☆」)、『エターナル・サンシャイン』は頑張っても自分には「☆☆☆」だ。

 ただ、冒頭のジム・キャリーの男らしい髭には、好印象を抱いた。『きみに読む物語』のライアン・ゴズリングも、映画後半で髭を生やしてから、急に成熟した雰囲気になった。自分はあのように髭が男らしく生え揃わない体質なので、羨望の視線が交じってしまうのかもしれない。

最近は、優れた「つけ髭」もあるみたいだから、時間をかけて探してみようか。  

 『エターナル・サンシャイン』のプロットは複雑だ。時間がなかったこともあって、途中から1.2倍速で見たので、大掴みで話をしたい。太さはまちまちだが、この映画は3つの主筋で構成されている。

  1. 喧嘩別れの後、無思慮にもケイトがジムの記憶を消し、それを知ったジムもケイトの記憶を消そうとするが、映画は消去作業中の脳の中の物語として進んでいく。
  2. 途中でケイトの記憶の消去を中止したくなったジムが、脳の中でケイトと逃げ回る。ケイトが消されないように、二人で恥かしい記憶や子供時代の記憶の中に隠れようとする。
  3. 記憶消去会社の博士と男部下と女部下の人間模様。男部下の一人は、機密物品であるジムの思い出の品を使って、記憶の消えた美人のケイトを口説き落とそうとする。博士と女部下との間には不倫愛の過去があり、それを記憶消去していたことが終盤で判明する。

 失恋の痛手を消去しようとするSF的記憶改変行為は、現実世界でいうと、精神的外傷の催眠療法に似ている。ここで登場させるべき人名は、トランスパーソナル心理学のみミルトン・エリクソンだ。催眠によるトラウマ治療では、エリクソン・メソッドが主流になっている。

催眠療法PTSD患者を圧倒させること無く過去のトラウマを再体験させるのに最も役立つ方法として知られている。PTSDの治療としては第一次世界大戦のときにはじめて系統的に導入され、除反応は、回復した記憶の心理療法的な処理とともに用いられ、幼児期の虐待の被害者や慢性的PTSDを生じているものに適用されている(Putnam,1992)

(…)

しかし伝統的な催眠は「フォルス・メモリー」論争により、治療的に有効であることと、催眠から引き出された記憶が訴訟的に有効であるかの葛藤により評判が悪くなってしまった。そこで研究されているのがミルトン・エリクソン(Milton Erickson, 1976)の催眠療法を用いたPTSD治療である。エリクソン催眠療法はトラウマ性の記憶に全く無理なくアプローチし、その枠組みを変化させ、PTSDの症状を軽減させるといった特徴をもっている。

一度だけ、催眠療法で前世の記憶を探ってもらったことがある。ありえないくらい赫奕とした光量に脳裡を照らされて圧倒されたり、きれぎれのイメージが次から次に現れたりと、実に面白い神秘体験をさせてもらった。

記憶の想起。自由連想法的に湧き上がるイメージ群は、どんな風にでもプロットを紡ぎ出せる脚本家垂涎の「魔法の織機」のはずなのに、ずいぶんともったいない粗略な扱いをするものだ。

せっかく虚構のSF映画なのだから、身動きしていないはずのジムが思い出の品を見ただけで、視覚が蘇ったり、幻聴が聞こえたり、身体が動いたりといった、五感を思いっきり動かすような「想起の喜びや痛み」を演出してほしかった。

どんなに割り当て可能時間が少なかったとしても、「脳干渉ヘルメット」を装着して目を瞑ったままでいいので、どうしてジムにスノードームを触らせてあげなかったのか。 

 心から愛し合っていた頃の思い出の品なら、ジムはそれに触れただけで温もりを感じられたし、受け取ったときのケイトの言葉や髪の色を思い出せたと思う。

さて、自分が最も愛着を感じた美しい場面、1:35からの数秒間について、今日も考えこんでいた。運命のロマンティック・ラブがあるのか、あるとして、それはどうやったら識別できるものなのか。

2017年から、急激にスピリチュアルづいている自分は、どうしてもその問いの答えを探したくなってしまう。問いとは、思春期の少女のような問いだ。

出逢う以前に約束していた二人が、約束の記憶を失っても、世界の中で互いを互いだと識別し、恋に落ちることはあるのだろうか。 

 『エターナル・サンシャイン』は、そのようなロマンティック・ラブを描いてはいるものの、互いが互いをどのように識別したかについては、答えをくれなかった。

次の探索対象は、スピリチュアリズムの書籍群になるだろう。  

先に、神の存在を手放さなかった哲学者名に引っ掛けて、「スピの座上昇気流」と私が名付けたスピリチュアリズムの興隆を示す客観的なデータを発見したので、引用しておきたい。 

スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

 

上記の『スピリチュアリティの興隆』という学術書では、人々の霊性体験が、修道院のような隔離施設から、社会内組織へ、やがて脱組織化された一般大衆へと、段階的に浸透していった歴史に言及している。

さらに近現代に範囲を絞ると、定量的分析が可能になる。スピリチュアリティを扱った論文数が、急激に増加しているのだ。

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スピリチュアリティの心理学―心の時代の学問を求めて

スピリチュアリティの心理学―心の時代の学問を求めて

 

 中村雅彦の整理を頼りに、自分の言葉で説明すると、スピリチュアリティには3つの流れがあるという。

  1. 宗教経験や宗教意識の研究からトランスパーソナル心理学
  2. 1960年代以降、心理学の領域で「幸福」や「人生の質(QOL)」にスピリチュアリティが不可欠であることがわかり、研究が進んだ。
  3. 1990年代以降、医療や看護の分野におけるスピリチュアリティ研究が盛んになった。 

 グラフから分かるように、医療関係における日本の「スピの座上昇気流」は、欧米から10~15年遅れて上昇している。日本でもももなく急伸する可能性が高そうだ。特に、救急医は臨死体験をそばで目撃することが多いので、世界観が変わる医者が多い。 

人は死なない?ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索?

人は死なない?ある臨床医による摂理と霊性をめぐる思索?

 

 さて、最重要の問いに戻ろう。

 出逢う以前に約束していた二人が、約束の記憶を失っても、世界の中で互いを互いだと識別し、恋に落ちることはあるのだろうか。 

 出逢う以前に「忘れてしまう約束」があるとしたら、それは輪廻転生のライフサイクルを肯定するほかない。ユングとウィルバーとシュタイナーの輪廻転生思想を比較したこの本が面白かった。

 心理学者の巨匠ユング(1875ー1961) < トランスパーソナル心理学の第二世代旗手ウィルバー(1949-)<人智学のシュタイナー(1861ー1925)< 

実は、本書の順と同じく、スピリチュアリズムの輪廻転生の主題に限れば、この順番で造詣が深いと自分は感じた。

ユングは集合無意識を理論化して、集合無意識とつながりながらも、人の心は究極の統一状態を目指すとした。しかし、東洋仏教と出逢って『チベット死者の書』を全肯定しつつも、輪廻転生には一度も言及しなかった。

ウィルバーは、「プレ・パーソナル→パーソナル→トランス・パーソナル」のすべての段階で、魂は究極の統一状態(=梵我一如)を目指して、その循環を輪廻転生で繰り返す存在だとした。

シュタイナーの理論は古いので洗練不足の面もあるが、輪廻転生モデルを描くと同時に、魂の上位に霊性(≒ハイヤーマインド)が存在することと、それぞれの霊性の成長によって、人類全体のレベルで霊的覚醒が訪れることを予言してもいる。

これはバシャールのいうオーバーソウル論に通じている。

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いわば、ユングとウィルバーを足し算してストーンウォッシュを入れてヴィンテージ感を出したのが、シュタイナーの輪廻転生観だというところだろうか。

 『魂のライフサイクル』で注目すべきなのは、ユングもウィルバーもシュタイナーも、「魂の成長こそが私たちの生きる意味である」とする「発達の形而上学」を語っていることを明らかにしたところだ。これには賛否両論があり、著者も頭を悩ませた旨が記されている。 (大学教授による「新種の優生学」との批判、重度障害者に成長はあるのか?という問いなど)。

ただし、「体主霊従」という言葉もあるように、社会階層上の成長と魂の成長との間に、比例関係は存在しないというのが、自分の暫定的答案だ。

 さて、「運命とは何か」について、最も平明な言葉で、スピリチュアルの最深奥の知を書き下ろしているのが、江原啓之の近著だ。

スピリチュアリズムでいうところの運には大きく2種類あります。

 「運ぶ運」と「運ばれてくる運」です。

(…) 

「運ぶ運」が現世側で自分の念力によって「運ぶ」現実的なものであるのに対し、「運ばれてくる運」は霊的世界の因果、因縁によって「運ばれてくる」とイメージするとわかりやすいかもしれません。 

運命を知る

運命を知る

 

 自分の「念力」で「運ぶ運」が、バシャール他の多数の人々がいう「引き寄せ」の力にあたる。後者の「運ばれてくる運」が、「魂の修業」のために霊界で設定されたカリキュラムと、自分の現世や前世での「因果応報」のリターンだということだろう。

さて、しつこくて申し訳ない。自分の心にずっと引っ掛かっている冒頭の問い。

出逢う以前に約束していた二人が、約束の記憶を失っても、世界の中で互いを互いだと識別し、恋に落ちることはあるのだろうか。 

 10年前に書かれた本が、数日前に文庫に落ちていた。スピリチュアリズム界にはいろいろな言説があるが、自分の信じている線とほぼ同じだったので、ほっとした。

 ソウルメイトには二つのとらえ方があります。
 まず狭義のソウルメイト。これは、そう何人もいるものではありません。 二人が結びつくことにより、「大我の愛」に向かっていけるパートナー、二人が組むことで、社会の役に立つことができるパートナー。それが私の定義する狭義のソウルメイトです。後述する「ツインソウル」もそれにあたります。
 もう一つは、広義のソウルメイト。すべてのたましいは究極的には一つ(類魂)ですから、出会う人、絆を結ぶ人、みなをソウルメイトだということもできるので す。身近なところでは、家族なども広義のソウルメイトです。
 世の中で考えられているように、結婚相手や恋人が狭義のソウルメイトであることも、たしかに多いと思います。しかしそれだけに限りません。なにか大我につながるような仕事で協力し合う相手がソウルメイトであることもよくあるのです。
 となると、ソウルメイトが同性同士ということも当然あるわけです。ソウルメイトは男女関係に限りません。 

これは自分も叱られているような思いで読んだ一節。世の中に蔓延している男女間のロマンティック・ラブ偏重には、苦言が呈されている。

 厳しい言い方をすると、「どこかにいるたった一人のソウルメイトを探して、その人とともに愛に生きよう」などというのは、横着者の発想なのです。それは、「ソウルメイトでない人との絆は求めないし、ソウルメイトと出会うまでは誰も愛さない」といっているようなもの。「たった一人のソウルメイトのために生きる」という発想は、一歩間違うと、ほかの人との絆を粗末にする方向に行ってしまいます。

 さて、今晩言及した『エターナル・サンシャイン』のラストで、自分がどうしても納得がいかなかったのは、二人が「消そうとした相手の嫌いなところ」を、受け入れるところまで心が成長しなかったところだ。

記憶消去会社で不祥事が発覚し、これまでのクライアント全員のところに、消去してほしいと本人が申告した「相手の嫌いなところ」のテープが送られてくる。ジムはケイトの、ケイトはジムの悪口を言いまくって記憶を消していたことが、お互いにほぼ同時に発覚してしまうのだ。当然、二人の仲は極度に険悪になって、 二人は別れようとする。

それでも、待ってとジムがケイトを呼び止めて、恋仲が続くというのが、この映画の最後のまとめだ。字幕つきで流れる主題歌が、中心主題を雄弁に語っている。

Change your heart, look around you
Change your heart, it will astound you
I need your loving like the sunshine

気持ちを変えて 周りに誰がいるかを見て
心を変えてみて そしたらきっと驚くよ
きみの愛はぼくにとって太陽さ

And everybody's gotta learn sometime
Everybody's gotta learn sometime
Everybody's gotta learn sometime

誰だって いつかは知ることになる
誰だって いつかは知ることになる
誰だって いつかは知ることになる

たぶん、ジムとケイトは不似合いなカップルなのだと思う。

それでも、心を変えて愛し合いつづけることを選ぶなら、そこで脚本家が強調しなければならないのは、二人が出会い、二人がある時間を共に過ごしたという事実を全肯定することだと思う。

さらに踏み込んで言えば、一人のときとは違って、二人で交流することによって、喜怒哀楽のさまざまな感情を生み出し、その情動が二人それぞれの生き方を変えたことが尊いのではないだろうか。

率直に言って、これでアカデミー脚本なのか、という

これも☆☆☆☆☆評価で間違いない『鎌倉物語』でも、最後に貧乏神の茶碗をドンデン返しに使うのなら、作家先生が若妻を娶ったことで、それまで追い払っていた貧乏神を受け入れるようなった「情動の変化」を伏線として描いておくのが、恋愛映画なのではないだろうか。ふと、そんなことも思い出した。

いろいろと苦言を洩らしてしまった『エターナル・サンシャイン』だが、2/14のバレンタインデー向けの商業映画としての側面もあったらしい。自分がこの映画で大好きなところがひとつある。それは原題。

Eternal Sunshine of the Spotless Mind

(一点の曇りもない心に差す永遠の陽光)

 個人的には、『Love Actually』と同じくらい、最高の原題だと感じて、軽く眩暈がしてしまう。

恋愛映画とはスケールが比較にならないものの、自分も2/14の記事では、甘い洋楽曲を引用しようと考えていた。贔屓にしているカナダのシンガーソングライターのダニエラが新曲をアップしてくれたのだ。

しみじみと曲の世界に浸りながら、歌詞からして、好意を寄せている男の子と見つめ合うときめきを歌っているのだろうなと想像してみる。相手はどんなタイプの男の子なのだろう?

…まあまあの…規模のテロが…ハリウッドで起こった…

 本当は、この冒頭につなげて、「恋愛小説のシナリオなら自分はかなりイケるくちだぜ」と自賛したあと、「今朝の夢の意味が分かった! 待ってろ、ハリウッド!」という落ちで 終わらせるつもりだった。

ところが、ダニエラのバレンタインデー向けのラブソングを聞いているうちに、彼女が見つめ合っている好きな男の子のタイプが、暗号で織り込まれていることに気付いてしまった!

2:08からの彼女のダンスをよく見てほしい。どう思う? ヒゲダンスを織り込んでいるということは、髭の生えた男らしい男性が好みなのにちがいない!

たとえ体質で髭が生えそろわなくても、「一点の曇りもない心に差す永遠の陽光」を浴びたいと思うのなら、 少なくとも「男らしい」オレであらねば。

と思いながら、ダニエラの曲に合わせて踊る自分のヒゲダンスが、当分終わりそうもない。