「火花」を読む

芥川賞受賞作品の歴史に照らせば、又吉直樹の『火花』は、池澤夏樹スティル・ライフ』や辺見庸『自動起床装置』などと同じ「先輩もの」の系譜を継いでいる。不思議だったり、どこか深い考え方をしたりする一歩先を行く先輩の背中を追って、主人公が内省を深めていく成長小説だ。

火花 (文春文庫)

火花 (文春文庫)

 

奇矯な売れない天才漫才師の先輩と、漫才道を究めるべく真摯に思考 / 試行を積み重ねる後輩(主人公)の2人。主人公が先輩に「師匠になってください」と弟子入りするところから、小説は始まる。

タイトルと小説の中心線を貫いているのは、おそらく芥川龍之介の「舞踏会」で、主人公の漫才コンビ名「スパークス」が「火花」を意味することより、冒頭で言葉を尽くして描写される花火の情景の方がはるかに重要だ。

 沿道から夜空を見上げる人達の顔は、赤や青や緑など様々な色に光ったので、彼等を照らす本体が気になり、二度目の爆音が鳴った時、思わず後ろを振り返ると、幻のように鮮やかな花火が夜空一面に咲いて、残滓を煌めかせながら時間をかけて消えた。

 小説の冒頭と最終部に二度出現する熱海の花火を見ながら、小説の背後で、作者が芥川と同じこの台詞を呟いているのが聞こえるような気がする。

私は花火の事を考へてゐたのです。我々の生(ヴイ)のやうな花火の事を。

芥川龍之介 舞踏会

 それもそのはず。小説の終わり間際で二人が花火を見ているとき、先輩は借金苦で自己破産して男性なのに豊胸手術をしたイカレた存在に成り下がっているし、主人公も漫才を辞める決意をしている。テレビを彩る華やかなコメディアンたちの栄枯盛衰ぶりは、花火のように儚いものなのだろう。

 冒頭で先輩に弟子入りした主人公が、師匠から何を学んだのかをつかみにくい憾みがあるとの指摘には、それは acceptability の向上だと答えられる。実際、計算してみれば明瞭だが、弟子入りしてからの一文あたりの文字数は、弟子入りする前の一文あたりの文字数を大きく下回っているにちがいない。明らかに弟子入り後に文は短くなっている。そのことが、読みやすさをより広い読者層へアピールする変化を生んでいるはずで、漫才を辞めても「笑いでどつきまくれ」という師匠から下達された言葉は、流麗で複雑なコンビネーションより、単発の愚直なジャブを打ちまくれとの激励なのだろう。

短くするといえば、『火花』に作者のコントとと同じ種類の可笑しみを期待して、肩透かしを喰ったという失望も数多く寄せられているらしい。それは客が入るレストランを間違えているというだけの話で、『火花』にあるのは、自由律俳句などに親しんできた作者の短詩形としての興趣なのである。実際、この小説の読みどころの一つは先輩との短文メールのやりとりであり、別の本の自由律俳句で描いたのと同じ金木製の一景が、小説中にも登場する。このような短詩形の素養が小説で生きて、碁石による陣地づくりで省略を適宜活用できたり、思い切って遠くへ手を伸ばして離れ石を置けたりする文筆力は、書名だけでもその短詩形の素養を感じさせる『サイドカーに犬』の長嶋有以来だろう。

といっても、読んでいて違和感を感じないわけではない。例えば、この小説はどうして先輩と主人公の間の東京02的「対幻想」の往還に終始し、第三者を生かした東京03的シチュエーションを作ってキングオブコントを目指さないのだろう。

先輩の寄生相手の女性と仲良くなって、先輩の指示でその女性が変顔を仕掛けてくる場面では、「綺麗な顔をそんなふうにつこうたらあきませんよ」「いつもこうやって、泣き虫の妹を笑わせていたから平気」くらいのことを書き込んでおけば、彼女に同棲相手ができて先輩が追い出される場面で、彼女が示してきた変顔に泣き顔のイメージが重なって、主題の一つである漫才師たちの「哀⇔歓」がさらに際立つのに、とか。先輩の秀逸ネタが彼女との合作だったせいで別離でスランプに陥るとか、彼女が先輩の「伝記」執筆に介入してきて三者三様の漫才観、先輩観が入り乱れて騒動になるとか、東京03的に第三者を介入すれば、面白い話はいくらでも生み出せるはず。ラストだって、2人ぼっちの室内露天風呂ではなく共同浴場へ行けば、小説をより大きく社会へ開いたまったく別の物にできそうな予感がする。

仮に、先輩と主人公の間の東京02的対幻想の往還に終始するとしても、この奇矯な天才肌の先輩が絶対に言いそうなこの台詞はどうしてカットされているのだろう。

師匠として弟子のお前に命令する。今日からオレの師匠になれ。

二人の権力関係を反転させれば、生み出せそうな面白い展開もたくさんあって、先輩はいろいろとヘマをやらかすが、究極の漫才のためなら謝罪っぷりも素晴らしく、「新師匠」として「弟子先輩」を謝らせておきながら、心の中でますます師匠としての先輩への敬慕を募らせてしまう、とか、他。

しかし、上記のような通俗劇にあった方が自然な新着想は、凡庸な想像力が生み出したものでしかない。

第3者を組み入れて決して凡俗的社会関係に至らない2者間の対幻想を維持すること。そして、その2者関係が決して主従関係の逆転に至らないこと。ここで作者が禁欲して維持しているこの2つの信条が、神と信仰者の関係に何よりも似ていることを、読者は読み取らなければならない。作者は純文学の神を信仰しているのかもしれない。小説で主人公が弟子入りする師匠の名前に「神」の一文字が含まれていることを、読者は記憶しておくべきだろう。

かつて作者が「暇があれば神社の境内で何時間もぼうっとしている」生活習慣を維持していたことを思えば、太宰治の名前を召喚するよりも、「神から呼ばれた平成の新戯作派」という命名がふさわしく、かつ、その稀有の存在の誕生を言祝ぎたく思われる。そんな処女小説だった。