鍵穴を抜ける蝶

「鍵穴を抜ける蝶」という観念が、しばらく前から自分の頭の中に棲みついて離れない。たぶんこのモチーフは、今も自分の想像力の世界を飛び回っているような気がするので、いつか書く恋愛短編連作集に登場するのではないかと思う。

その短編はドッペルゲンガーもので、進学した高校に自分そっくりの男子高生がいることに気付くところから、小説は始まる。それなりに整った顔や、それなりに長身のスタイルは酷似しているものの、「本物」は主人公とは違って、社交的で頭脳明晰でスポーツ万能。つまり、優れた外見以外はすべて「本物」が圧倒的に凌駕しているので、主人公は「劣化コピー」と高校で渾名されることになる。

劣化コピー」は、アラフォーで独身の音楽の先生に恋をして、彼女がピアノを弾くのを、別の用事をしているふりをして、放課後に音楽室の近くで耳を澄ませる日々を送る。ところが、合唱部所属でピアノも弾きこなす「本物」に、音楽の先生の方から倫ならぬ恋情を寄せてしまう。しかし、若い女の子に取り囲まれやすい「本物」は、彼女を残酷にはねつけ、高校を卒業する。

数年後、逢いたくてたまらず、「劣化コピー」が音楽の先生を訪ねると、まだ独身の彼女は嬉し気な表情をして、「劣化コピー」をピアノの前にある椅子に座らせる。そのまま、そのままで動かないで、と彼女は言いながら、大きな絵を見るように後ずさりして背後に立つ。「劣化コピー」は彼女が誰との光景を思い出そうとしているのかを悟りつつも、自分にそれしかできないなら、「本物」のふりをして座っていようと心に決める。

しかし、背後から見つめていた彼女が、やにわに隣の音楽準備室へのドアを開けて、そこへ駈け込んでしまい、鍵が回る音がする。「劣化コピー」は茫然としてその鍵穴を見つめるが、やがて、その鍵穴から恋い焦がれてきた女性のすすり泣きが洩れてくるのを聞く。

「本物」ならここで流麗にショパンを奏でられるのに。しかし、「劣化コピー」は他にどうしようもなく、目前にある白鍵の冷たいアクリルを撫でながら、例えば自分がピアノを奏でることで、鍵穴を抜ける蝶のように、誰かの孤独に満ちた密室へ、孤独を融かす温かみを届けられたら。

彼女の泣き声を聞きながら、苦しい思いで、そう夢想する。

そんな短編をいま思いついた。

図鑑 世界で最も美しい蝶は何か

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