短編小説「優しすぎる男はフライパンで焼く」

 

「ねえ、あなた。今日は会社でどんなことがあったの?」

 妻は30才になったばかり。ぼくより5歳年下だ。結婚して3年経つが、まだ子供はいない。 ぼくはテレビのニュースを眺めたまま、なま返事をした。

「少しくらい話の種になることはあったでしょう?」

 料理中に話しかけてくる妻の声は大きい。炒め物の音に負けないよう声が大きいのか、きちんと答えないぼくに苛立って声が大きいのか、判断に迷う。こういうとき、ぼくは無難な方を選んできた。

「そういえば、田中部長がさ、仕事中にくしゃみが止まらなくなったんだ。何か対策を考えてくれと頼まれたから、いちかばちかぼくが部長の鼻の上に手をかざしたら、何とケロリと治ってしまったんだ」

「へえ。あなたったら、昔から私の手を握りたがったもんね。自分の手は特別な手で、相手の波動を感じられるとか何とかいって」

 確かに、相手の性格や魂がどんな感じなのか、ぼくは相手の手を握るとわかることがある。話を複雑にしたくなかったので、ぼくは混ぜ返すことにした。

「いろいろと理由をつけたけど、本当はきみの手を握りたかっただけなんだ」

「最近は握ってくれないのね」

「そうかも。ごくごく最近でいうと、きみがフライパンの柄を握っているから、というのが最大の理由かな」

 料理中の妻は笑った。簡単な冗談でもよく笑ってくれるところが、ぼくは好きだった。妻がフライパンをひと振りした。

「もうすぐ回鍋肉ができるから、待っていてね」

 翌日も同じような会話になった。ぼくの方から切り出した。それくらい面白い話だったのだ。

「今日も田中部長に呼ばれてさ。仕事の途中なのに、会議室に来ていた大学生の息子さんに会ってほしいと言われたんだ」

「何か、ご病気なの?」

「会ってみると、病気というほどでもない。長男なのに優しすぎるというのが治してほしい症状だった。小さな頃から虫一匹殺せない優しい子。優秀なのに、競争で勝って敗者を傷つけるのが厭だといって、引きこもりになってしまったらしい」

「それは優しすぎるわね。苦しいでしょう。優しい人には生きづらい世の中だから」

「ところが、ぼくが手をかざした。すると、息子さんは嘘のように普通に戻ったんだ」

「どうして普通になったとわかったの?」

「ぼくが会社のトイレに行こうとしたら、追い抜いて先にベストポジションの便器を奪った。それだけならまだしも、直後に一つしかない洗面所を先に独占したんだ」

「うふふ。本当にそれが競争心が戻った証拠なの?」

「ぼくだって最初はまさかと思ったんだ。でも、息子さんは帰りのタクシーの中で『働きたい』と母親に訴えたらしい。ただ手をかざしただけなのに、嘘みたいな大成功だ」

「へえ。あなたったら、本当に不思議な能力を持っているのね。私も何か悪いものを吸い取ってもらおうかしら」

「何を吸い取ってほしい?」

「考えてみると、これというものはないのよね。強いていうなら、あなたの多すぎる残業かしら」

「残業で身体を壊したら、自分の病気を自分で吸い取ることにするよ」

 妻はこちらを向いて笑顔を見せてくれた。けれど、「そういうことじゃないのよ」と次の台詞を言ったとき、頬のあたりが淋しげになった。

 翌日の夕飯どきの会話は、さらに奇想天外なものになった。

「聞いてよ。今日はびっくりの展開だった。仕事中に打ち合わせと称して、部長と同じタクシーに乗せられたんだ。着いた先は、部長の遠戚の20代女性がいるおうち」

「今度はどんな病気?」

「かなりヘヴィーなやつだ。本人にも制御できないほどの自殺衝動がしょっちゅう襲ってくるらしい。家族が24時間付き添わなきゃいけないので、困り果てている」

「手かざしどころか、薬も効きそうにない重傷だわね」

「同じことを考えて、ぼくも小一時間念入りに手かざしをしたんだ」

「まさか」

「そのまさかさ。ぼくの手かざしを受けたあと、彼女は数時間昏々と眠ったそうだ。起きてからは別人のように穏やかになって、一緒に暮らす室内犬を飼わせてほしいと頼んだそうだ」 

「あなた、どうしたの。ヒーラーとして本格的にスピリチュアル起業できそうじゃない!」

「ぼくもそんな気がしてきたよ。たっぷりの謝礼をもらったから、きみの好きなラベンダーのアロマオイルを買ってきたんだ。来週の週末は、久々に一緒にどこか旅行に行かないかい?」

 ぼくはリビングの隅に立った。オイル切れで久しく放置されていたアロマポットに、ラベンダーのオイルを垂らした。リビングの電灯を、かつて自分が好きだった間接照明に変えた。数年ぶりにオーディオのスイッチを入れてジャズ・ピアノを鳴らした。

「何だか懐かしいわね。新婚時代みたいな雰囲気」

「結婚して3年なら、まだ新婚だよ」

「そうかしら。あなたは結婚したときとは、ずいぶん変わってしまったのよ」

 ぼくは首をかしげて見せた。けれど、つらつらと振り返ってみると、妻の言う通りだった。結婚した翌年に昇進してから、仕事も責任も格段に増えて、毎晩無給の残業に追われる日々となった。休日にも出勤するようになったせいで、二人が好きだった旅行やドライブや外食にも出かけなくなったのだ。専業主婦の妻には、自分の好きなことをできる時間とお小遣いがあったが、それは妻が新婚生活に期待したのと同じものではなかっただろう。ぼくは目を瞑った。ジャズピアノに聞き惚れているふりをしながら、しばらく自分の人生について思いめぐらした。

 翌日、会社の部長に呼びつけられたぼくは、皆の前で特別職への昇進を言い渡された。割り当ての仕事に社内外の患者のヒーリングが付け加えられた。給与は二倍に増えて、残業はゼロになった。妻は小躍りして喜んだ。

 続く三日間は、ぼくと妻の人生の中でいちばん薔薇色が濃い日々となった。新婚当時も楽しくはあったが、結婚式や新居への入居が物入りで、自由にできるお金が少なかったのだ。

 それが今や、お金の心配はいらない。妻は長年欲しかったバッグを買い、買い控えていたお気に入りの化粧品をまとめ買いした。ぼくはバーで好きな蒸留酒を呑んだ。そして、ほとんど灯りのない店内で、ほろ酔いのぼくは、妻に新しく買ったルージュを塗ってあげると親切を押し売りした。妻の唇から無惨にはみ出た口紅を鏡越しに見て、ぼくたちは大笑いして記念写真を撮った。この薔薇色の三日間を、ぼくはたぶん一生忘れないだろう。

 翌晩、残業のないぼくが早々に帰宅すると、急に鼻がむずがゆくなった。派手なくしゃみをした。妻が振り向いて笑った。

「初めて会ったときと同じね。友人のホームパーティーで、あなたはくしゃみばかりしていたわ」

「覚えているよ。きみが着ていたモヘアのニットのそばへいくと、くしゃみが止まらなかったんだ。だから、狭い部屋の中、いつもきみの反対側に移動した」 

「後になって、あなたがあの状況を数学に例えたのを覚えている?」

「『対角』だっていったんだ。離れているけど、互いに向き合っている角」

「たくさん男女がいたのに、私のモヘアであなたがくしゃみをして逃げ回ったせいで、かえって意識してしまったわ」

「最初はぼくもあの気持ちは『錯角』かもしれないと感じていた。でもパーティーから先に帰るきみを、駅まで送っていくとき、どうしてもきみと別の∠の関係になりたがっている自分に気付いた」

「どんな∠だった?」

「『対頂角』」

「言葉じゃなくて。どんな∠だったか、もう一度教えてよ」

 ぼくは隣に座って、妻にキスをした。そのときも背後のオーディオで「Tenderly」が鳴っていたような気がする。そういう場面にはうってつけの「優しく」甘い曲。ぼくは歌詞を暗記していたので、妻とキスしている間中、甘美な歌詞がぼくの頭の中を撫でまわした。 

The evening breeze
Caressed the trees
Tenderly
夜の風が
樹々を愛撫する
優しく

 

The trembling trees
Embraced the breeze
Tenderly
震えている樹々が
そよ風を抱きしめる
優しく

 

Then you and I
Came wandering by
And lost in a sigh
Were we
すると私たち二人が
彷徨いながらやってきて
溜息の中でお互いを見失う

 

The shore was kissed
By sea and mist
Tenderly
砂浜は波としぶきに
キスされる
優しく

 

I can't forget
How two hearts met
Breathlessly
決して忘れない
二つのハートが
どんな風に激しく出逢ったか
息もつけないほど

 

Your arms opened wide
And closed me inside
You took my lips
You took my love
So tenderly
あなたは腕を広げ
私をきつく抱きしめた
私の唇を奪い
私を愛の虜にした
とても優しく

  その翌日から、ぼくは奇妙なくらい優しさを意識するようになった。

 残業にかけていた時間や情熱を家事に向けると、妻の担当していた掃除や洗濯は楽々こなせた。これまで気づいてもいなかった妻のペディキュアの色を褒めた。靴箱にあった妻のエスパドリュの踵が潰れていたのを丁寧に立て直した。何の前触れもなく妻の脇腹をくすぐる「甘い奇襲」も忘れなかった。そのあとで、ひとかたまりの二体の彫像のように、ずっとそばにくっついて妻の話の聞き役をつとめた。

 ぼくがはっと我れに返ったのは、和室に布団をひっつけて二人で横になったときだった。妻の枕の位置を整え終えて、髪を撫でたぼくに、妻がこう言ったのだった。

「今晩のあなたは何だか優しすぎるわよ。何かあったの?」

 ぼくは自分の顔から血の気が引くのがわかった。すると、くしゃみがまた出た。昨晩からくしゃみが止まらなくなり、今晩からぼくは優しすぎる男になってしまった。……では、明晩は?

 何も気づいていない妻が続けた。

「でもね、私は嬉しいの。仕事人間だったあなたが、家庭にも目を向けてくれるようになったのが。今日みたいに優しいあなたなら、あの話に二人で取り組んでみてもいいと思うわ」

 「あの話」というのは、妻が新婚当初は避けたがっていた子供を作る話だった。ぼくは自分の声が震えないように、細心の注意を払って、何とかこう言ってのけた。

「優しいのは、今晩だけかもしれないよ」

 妻は不安げなまなざしをこちらに向けた。

「それは厭。明日からまた冷たい仕事人間に戻っちゃうの?」

「そんなわけないだろう。もう二度ときみに冷たくしたりはしないよ」

 そう、ぼくは優しすぎるほど優しく接することしか、できない男になってしまったのだ。ぼくは思い切って、妻にお願いごとをした。

「今晩だけ、手をつないで眠ってもかまわないかい?」

「急に優しくなったと思ったら、今度は子供みたいなことを言うのね。いいわよ」

 掛け布団の下を探り進んでいったぼくの手が、探り進んできた妻の手に触れた。二人は固く手を握り合った。妻の手が驚いた様子の動きをした。

「おお、冷たい手。きっと悪いものを吸い取りすぎたから、こんなに冷たくなってしまったのね。私が温めてあげるわ」

 妻の手は温かかった。温かいだけでなく、ぼくの腕を奮い立たせてしならせるように、波のような動きを送ってきた。

「何してるんだい? それじゃ眠れない」

「冷たくなっているあなたを、フライパンに乗せたの。熱を加えているところ」

 そんな他愛のない冗談に、ぼくはなるべく優しい返事をしたかった。

「じゅう、じゅう」

「少しは温まってきたかしら。フライパンではどんな料理ができそうなの?」

「妻にもう一度恋い焦がれる男。焦げ目がついてきた」

「じゃあ、ますます強火にしなくちゃ」

「じゅう、じゅう。じゅう、じゅう」

「悪いものを吸い取って冷たくなるなら、私が良い物をあなたの手に送ってあげる。そしたら中和されるわよ、きっと」

「ありがとう。そういう愛の深いところが、大好きだよ」

 それが最後の台詞だったのかどうか、ぼくはよく覚えていない。よく覚えているのは、ぼくの手を温かい陽だまりのような愛がくるんでいる感覚だ。

 明日のぼくは、自分ひとりでは制御できない自殺衝動に襲われて、どこかで死んでしまうかもしれない。そう不安を感じる一方で、いま自分の手をくるんでいるこの温かい愛が、ぼくの内側に巣食っている悪いものを拭い去って、新しい幸福な日々を生み出してくれそうな気もする。

 ぼくは眠気で意識が遠のく中、いま感じられる温かさの方を信じようと自分に言い聞かせた。そして、自分の手をくるんでいる温かい愛の先にある記念日に、自分の手のひらが小さな小さな手を優しくくるんでいる図を想像しながら、みるみるうちに眠りの沼の中へ沈んでいった。