午前三時のライムの香り
午前3時きっかり。街のネオンはあらかた消えている。ぼくは街角の地下へと沈む螺旋階段を下りていく。地下にあるバーは、夕暮れから9時間、若者向けにロックやレゲエやテクノを大音量で鳴らす。午前3時を過ぎるとジャズをかけてくれるので、ジャズに似合う酒をくたびれた40過ぎの男が飲むなら、この場所この時間になるというわけだ。
カウンター奥の暗がりに立っているマスターは、疲れ切っている。経営が思わしくないという噂も、常連客から聞いていた。暗い空間を満たしているジャズ・ピアノはマスターの選曲だろう。「Mood Indigo」はブルーよりも憂鬱の強い「藍色の気分」という意味だ。
ぼくがメキシコ・ビールを頼む。マスターはガラスケースからひと瓶を取り出し、栓を抜く。いつもと違って、そのままぼくの前にサーブする。
「申し訳ありません。地下2階にライムがあるので、取ってきていただけませんか?」
コロナの瓶の口には、櫛切りのライムが刺さってないとお話にならない。
マスターが片手で両目を覆いながら、こう付け加える。「本当は私が行くべきなのですが、私が行ったら、二度と戻ってこられそうな気がするので」
立ち仕事をしている彼の背骨の軸が、小舟のマストのように揺れている。なるべく快活に聞こえるように、ぼくはこう答える。
「お安い御用です。ずっと前から、この下を探検してみたかったんです」
地下二階へつづく階段は急だった。階段のステップを横踏みで下りて、物置のドアを開けると、左右の壁には荷物が積み上げられていた。真ん中の通路の奥に、場違いなサテン地のソファーが置かれている。そこにドレス姿の美女が微笑んで座っているのを見て、ぼくの足はぴたりと止まった。
「ずっと待っていたのよ」
と、女が慣れた口調で言う。一瞬、半年前に会ったことのある女性のような気がする。けれど、彼女がぼくとは初対面のような表情をしていたので、別人だとわかる。
「こんなところで何をしているんですか」
「一緒にお酒を呑んでくれる人を待っていたの」
そう言うと、彼女がぼくに丸椅子を差し出しす。ぼくは物置棚からライムをふたつ手に取って、バーへ戻ろうとする。すると、その背中に質問が来る。
「ライムはどうしてライムっていうか知っている?」
「チャップリンの『ライムライト』は「石灰のような光」だけど、柑橘のライムは別の語源のはず。レモンに関係があるんじゃないかな?」
「ふふ。あなた、物知りなのね。ひょっとして小説を書いたりしているんじゃない」
「…マスターから何か聞いたの?」
「何も。午前三時にジャズを聴きにくる物知りは、私の統計上、たいてい小説書きよ」
どうやら、彼女は美女であるだけでなく、名探偵みたいな推理力まで兼ね備えているようだ。職業柄、ぼくは好奇心が湧いてくるのを押さえられなくなる。ライムを手で弄びながら、丸椅子を引き寄せて腰かける。
野菜洗浄用の小さなシンクいっぱいに、リキュールの瓶が並んでいるのが見える。彼女が振り向いて、青と赤の二層のカクテルをぼくへと差し出す。
「申し訳ないけれど」と、ぼくは胸の前で、両の手のひらを開いて示す。「カクテルは遠慮しておくよ」
「どうして? じゃあ、私が毒見役になろうか?」
彼女はゆっくりと酒杯を傾けていく。青と赤の層が交じって紫になり、それが美女の赤い唇の間に吸い込まれていく。彼女は酒もかなり強いらしい。
そして、彼女は少しも酔わない目で、ぼくの目を覗き込むように見て、こう訊く。
「ひょっとして、甘いお酒は口移しじゃないと呑まないタイプ?」
「逆だよ」と言うと、ぼくは笑って首を横に振る。「そうなったら、落ち着いて酒を味わえない」
あまりにも可笑しかったので、身体が小刻みに震えてくる。笑って気持ちがほぐれたので、ぼくは自分の話をする気になる。「昨晩、夢に娘が出てきたんだ。別居中の娘が駈け寄ってきて、ひとこと『リバース』って耳元へ言いに来た。それだけの夢。きみの統計上、この夢はどう解釈すべきなんだい?」
「簡単。あなたの人生のうち、何かがきっと逆なのよ」
ぼくは曖昧に笑う。他人に理解してもらうには、ぼくの離婚はわかりにくすぎる。仕事先に紹介された美人と呑んでいるうちに言い寄られて、おかしなことにそれが全部記録されていて、妻に送付されたのだった。「別れさせ屋」の仕業だと直感したが、どうにも証明のしようがなかった。その晩から、妻と娘との別居が始まり、もう半年がたつ。問題は、誰が「別れさせ屋」に注文を出したかだ。まさか、妻が?
わかったことは何もなかった。ぼくは置き去りの書類鞄のように、じっと黙っている。
「ライムの本当の意味を知っているでしょう? Rhyme は韻を踏むことよ。あなたがここへライムを取りに来たのは、考えられないくらい深い意味があるのよ」
片手に握っていたライムを、ぼくが彼女にパスする。彼女が返してきたのは、問いだった。
「どんな小説を書いているの? 短い一文で説明して」
「いま書いている短編を言うよ。『年老いた船乗りが、長年乗った船の解体をするために、法律が未整備のバングラディッシュへやって来る。日の照る昼も月の出る夜も、解体作業に精を出すが、吸い込んだアスベストが肺に溜まって、とうとう陸地にいるのに溺れはじめる』」
「ふふ。救いのない話を書くのね。法律が整備される前は、インドのボンベイが『世界の船の墓場』だったわね。船好きの父が教えてくれたわ」
そういって、彼女がぼくにライムを投げてくる。ぼくはライムの手触りを確認するふりをしながら、どうして彼女は世の中のことをこんなにも知っているのだろうと考え込む。
「きみなら、どんな話を読みたい?」
「本当の世界観を教えてくれる話。たとえば、私たちがこの世界だと思っているのは、無数の並行宇宙のなかのひとつにすぎないことや、私たちが並行世界をまたがってシフトできることや、世界は魂の修行場で、天は修行をくぐりぬけるヒントを暗号で教えてくれることなんかを」
ほら、明らかに知りすぎている。このまま彼女と話をつづけるのは、何だか危険な気がしてくる。
「その暗号のひとつが Rhyme よ」
ぼくはふたつのライムを握りしめて、椅子から立ち上がる。階上のバーへ戻ろうとする。
「ねえ、せっかくだから一杯だけでも呑んでいってよ。毒味済みよ」
ぼくは笑顔で手を振って、地下二階の美女のいる物置きを後にする。
バーの暗がりへ戻って、マスターにライムを櫛切りにしてもらう。ライムのかけらを受け取る。何を話すべきだろう。互いが互いと見合わせる間がある。ぼくから話しはじめる。
「顔はよく見ると、別人でした。半年前にぼくに絡んできたハニートラップガールに、よく似ていたんです。気になって話し込んじゃいました」
マスターが重い口を開いて、重い台詞を言う。
「でも、あんな女に遭っても、生きているからいいじゃないですか。今の私がああいう女に会ったら、とても生きて帰れない感じがするんですよ」
それだけを言うと、マスターは奥へ電話をかけに行く。ぼくはメキシコ・ビールをあっという間に飲み干すと、舌の上に残ったライムの風味のことをしばらく考える。それから、Rhyme という暗号のことを。
先ほど遭った美女が、どこから知識をダウンロードする、どういう素性の女か、ぼくにも少しずつ分かってきたような気がする。
電話から戻ったマスターが、ぼくにこう告げる。
「あと30分で奥様がここへ着くそうです。娘さんも一緒ですよ」
地下二階の謎の美女といい、ぼくの妻への電話といい、マスターは明らかに説明すべきことを説明していない。何から問い質そうと考えているぼくに、マスターが簡潔な言葉をくれる。
「私も同じ業者のハニートラップガールを使ったんです。あなたのケースの話が出たので、依頼主が奥様でないことだけは、何とか聞き出しました」
ぼくは不安げな手つきで、コロナの空き瓶を撫でさする。それから、空っぽの瓶に祝杯向けの酒が注がれる音をイメージする。瓶の口に櫛切りのライムが刺さるのをイメージする。
「あの女の言っていることの大部分は、本当ですから。あの女はハニートラップ用のアンドロイドです。…今晩はもう帰っていただけませんか。人払いをしたあと、呼ばなければならないお客様がいるんです」
ぼくはマスターに礼を言って、立ち上がる。人生をやり直せる機会を与えてもらったときにふさわしい、丁重な深謝を伝えて。
地上へ出る階段を登りながら、「あの女の言ったことの大部分は本当」というマスターの言葉が蘇る。それから、書きかけの短編の主題の連なりを思い出す。船乗り… 日の照る昼も月の出る夜も… アスベストが灰に溜まって… 陸での溺死へと…
薄明の街路に、見慣れた妻の車が停まる。妻はぼくに後部座席の娘の横に座るよう言う。目を覚ました娘がぼくにしがみついていう。パパ、絵本を読んでほしいの。
妻がバックミラー越しにぼくに話しかける。
「ごめんなさい。ハニートラップ・ロボットだったとは思わなかったの」
「ぼくだって、今晩知ったんだ。…やり直してくれるかい」
「また二人で、明日からベストを尽くしましょう」
「昔みたいに上手くいくかな」
「それはあなたのでき次第よ、きっと」娘がぼくの膝の上に絵本を置いて、読んで読んでとせがみはじめる。それはセーラームーンの絵本。縦書きだと思い込んで、右から開こうとする。
すると娘が「逆よ」と言って、絵本を引っくり返す。絵本は横書きの左開きだ。
「逆だったね」とぼくは優しく娘に言う。それから、娘の上半身をぎゅっと抱きしめて、まだ意味の伝わるはずのないひとことを、娘に語りかける。
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