秋の枯葉、冬の木枯らし、春の囀り
なんだかんだやっているうちに、いつのまにか季節は春になったみたいだ。「なんだかんだ」とは、「難だ、神田」と神田某氏を dis ろうとした言葉ではなく、「何だ彼だ」と書いて、「これやあれや」のように近い物と遠い物を表した言葉らしい。「なんじゃもんじゃ」の方は、「何じょう物じゃ(なんというものか)」に由来するのだという。
得体のしれない何か、世にあるさまざまな不思議な「なんじゃもんじゃ」のうち、とりわけ女性の神秘性に焦点を当てるのがフランス文化の特徴だ。
カタカナ表記されてはいるもののシュルレアリスムの大家である詩人ブルトンは『ナジャ』という優れた小説を書いている。自分は白水社版を持っている。岩波文庫版が、あの巖谷國士による詳細な注がついていて素晴らしいと聞いたので、いま本屋で買ってきた。
これは普通の小説ではない。むしろ自伝だ。ブルトンとナジャの交流が描かれているのはわずか9日間。その短い痙攣のような人生の瞬間に、ブルトンはシュルレアリスムの自動書記のさらに先にあるものを実体験させられる。ナジャがブルトンの先導者を努めようとしていることは、ナジャの印象的な台詞が、すべてブルトンについて語られていることからもわかる。
例えば、二人が不思議なシンクロニシティを一緒に体験する場面。
(…)目の前に噴水がふきでており、彼女はその曲線を目で追っているようだった。「あれはあなたの考えることと、あたしの考えること。ほら、ふたついっしょに、どこからふきだして、どこまでふきあがってゆくか、それでまた落ちてゆくときのほうがどんなにきれいか、見てちょうだい。それからすぐに溶けあって、おなじ力にまたとらえられて、もういちどあんなふうに伸びあがって砕けて、あんなふうに落ちてゆく……こうやっていつまでもくりかえすのよ。」私は叫んでしまう。「なんだって、ナジャ。なんて不思議なんだ! そんなイメージ、ほんとにどこからとってきたんだ? 僕が読んだばかりの、君が知っているはずもない本のなかに、ほとんどそっくり表現されているイメージじゃないか。」
この場面で描かれているものが、ブルトンが最近読んだ文章とほとんど同じことをナジャが口に出したというシンクロニシティだと解釈することもできる。
さらに一歩進んで、ナジャが噴水の譬えで言おうとしているのは、ナジャの潜在意識とブルトンの潜在意識が地下水脈のようにつながっていること、そのような集合意識が実際に存在することなのかもしれないと解釈することもできる。
ナジャはブルトンを導こうとしている。しかし、かつて医学生で精神病の知識を持っているブルトンには、その神秘の扱い方がわからないのである。ナジャはさらに実践的な啓示をブルトンに贈ったのち、発狂して完全に理性を失ってしまう。
「アンドレ? アンドレ?……あなたはわたしのことを小説に書くわ。きっとよ。いやといってはだめ。気をつけるのよ、なにもかも弱まっていくし、なにもかも消え去っていくんだから。あたしたちのなかの何かがのこらなければいけないの……。(…)あなたは別の名前をもつようになるから。(…)なにか火の名前のようでなくちゃ。(…)あたしに見えるのは、手首から出てくる炎よ、(…)それから炎は手を燃えあがらせて、その手はまたたくまに消えてしまうの。あなたはラテン語かアラビア語の偽名を見つけるのよ。約束して。きっとよ。」
この「託宣」を聞いても、ブルトンは別の筆名を使おうとしなかった。ただし、ナジャを描いた自伝的小説は書き上げ、ブルトンのどのシュルレアリスム詩より有名な『ナジャ』が誕生したのである。「あたしたちのなかの何かがのこらなければいけないの」。確かに、世紀を越えて、神秘に見舞われた「二人の何か」は残ったのだった。
と、ここまで書いたところで「いま何時や?」と時計を見上げた瞬間、電話がかかってきた。
謎の女:ずいぶん久しぶりね、モジャ。
ん? 誰からだろう? なんじゃもんじゃ?
しばし考えて、見当がついた。モディリアーニがモディという愛称で呼ばれていたことは、上の記事に書いた。自分のことをモジャと呼ぶのは、あの女性しかいない。
ぼく:ご無沙汰して申し訳なかったよ、ナジャ。
ナジャ:そんな話し方は厭! 昔、私だけにしてくれたみたいに素敵な語尾をつけて。
ぼく:わかったモジャ。
(画像引用元ブログ:アフロ犬だいずがゆく!今日もカフェ日和)
ナジャ:何よ、その表情は。不服でもあるの? どうして私のことをこんなにも長くほったらかしにしていたの?
ぼく:そんな顔をしないでくれよ。完全に忘れていたわけではないんだ。ブログ上で、ちらほら自分がこれから書く恋愛小説のことは触れてきたモジャ。連絡しなかったことは謝るよ。ごめん。だから、もう語尾のモジャづけは勘弁してもらえないかな。
ナジャ:わかったわ。では、ここからは駄洒落交じりで答えて。ウィット豊かに、そして誠実に。私とあなたはつながっているのよ。ブルトンが書いたように、「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考」なの。
ぼく:昨晩もきみのことを書いたばかりだ。湯船でインスピレーションを降ろすのが、ぼくの「月の習慣」だから。きみは間違いなくぼくの薬用ハンドソープだ。
ナジャ:あなたはこうも言ったわ。「いつだって次の小説がぼくの恋人」。ブルトンに逢ったように、早くあなたに逢って、あなたを先へ先へと導きたい。
ぼく:ありがとう。そんな愛情ある言葉を聞けて、嬉しいよ。きみを追いかけつづけたい。今晩、地元のスタバ系カフェ「アマンダ」で待ち合わせできないかい?
ナジャ:アマンダだなんて、ブルトンのときと同じ場所では厭。気をつけるのよ、なにもかも弱まっていくし、なにもかも消え去っていくんだから。あたしたちのなかの何かがのこらなければいけないの……。
ぼく:まだブルボンのことが忘れられないんだね。確かに、ルマンドは齧るとこぼれやすくて、テーブルの下に破片が消えていくけれど……。もう忘れてくれよ、ブルボンのことは。ブルトンのあの小説は1928年出版だ。ブルボンのように老舗であるばかりか、古本向けでもある。……ナジャ、一緒に未来を生きようよ。
ナジャ:その言葉が聞けて嬉しい。とうとうこの日が来たのね。モジャ? モジャ?……あなたはわたしのことを小説に書くわ。きっとよ。
そういうなり、電話は切れた。
お菓子のように甘い会話を交わしてしまった。ナジャは自分の詩神で、自分に降りてくる霊感の源泉でもあり、次に書く恋愛小説でもある。今日の午前中も、湯船に浸かりながら、ナジャのことをずっと考えていたのだ。どうして詩神ミューズが巫女型の分裂病女性の形で、自分の思考の中に出現したのか、自分ではよくわかっているつもりだ。
次に書く恋愛小説(以下、『恋愛小説』とする)は、男女の運命のロマンティック・ラブに終始するのではなく、社会を広く描くために、シナリオの主筋を分裂させて、三つ四つのドラマを交錯させたいのだ。
この「蝶」というメタファーは、数年以上前から自分の脳内にあったものだ。
「鍵穴を抜ける蝶」という観念が、しばらく前から自分の頭の中に棲みついて離れない。たぶんこのモチーフは、今も自分の想像力の世界を飛び回っているような気がするので、いつか書く恋愛短編連作集に登場するのではないかと思う。
短い記事なので、全文引用してしまおう。
その短編はドッペルゲンガーもので、進学した高校に自分そっくりの男子高生がいることに気付くところから、小説は始まる。それなりに整った顔や、それなりに長身のスタイルは酷似しているものの、「本物」は主人公とは違って、社交的で頭脳明晰でスポーツ万能。つまり、優れた外見以外はすべて「本物」が圧倒的に凌駕しているので、主人公は「劣化コピー」と高校で渾名されることになる。
「劣化コピー」は、アラフォーで独身の音楽の先生に恋をして、彼女がピアノを弾くのを、別の用事をしているふりをして、放課後に音楽室の近くで耳を澄ませる日々を送る。ところが、合唱部所属でピアノも弾きこなす「本物」に、音楽の先生の方から倫ならぬ恋情を寄せてしまう。しかし、若い女の子に取り囲まれやすい「本物」は、彼女を残酷にはねつけ、高校を卒業する。
数年後、逢いたくてたまらず、「劣化コピー」が音楽の先生を訪ねると、まだ独身の彼女は嬉し気な表情をして、「劣化コピー」をピアノの前にある椅子に座らせる。そのまま、そのままで動かないで、と彼女は言いながら、大きな絵を見るように後ずさりして背後に立つ。「劣化コピー」は彼女が誰との光景を思い出そうとしているのかを悟りつつも、自分にそれしかできないなら、「本物」のふりをして座っていようと心に決める。
しかし、背後から見つめていた彼女が、やにわに隣の音楽準備室へのドアを開けて、そこへ駈け込んでしまい、鍵が回る音がする。「劣化コピー」は茫然としてその鍵穴を見つめるが、やがて、その鍵穴から恋い焦がれてきた女性のすすり泣きが洩れてくるのを聞く。
「本物」ならここで流麗にショパンを奏でられるのに。しかし、「劣化コピー」は他にどうしようもなく、目前にある白鍵の冷たいアクリルを撫でながら、例えば自分がピアノを奏でることで、鍵穴を抜ける蝶のように、誰かの孤独に満ちた密室へ、孤独を融かす温かみを届けられたら。
彼女の泣き声を聞きながら、苦しい思いで、そう夢想する。
「あたしは鏡のない部屋の中で浴槽に浮いている思考」とは、ナジャは凄いことをいうものだ。これもナジャの神通力のおかげか。今日の午前中、湯船に浸かって恋愛小説(≒ナジャ)のことを考えていたら、あれこれが収斂し始めて、構想がまとまってきた。備忘録も兼ねて、メモしておきたい。
1. アラフォ―女性×(父+息子)
同じ主題でも、小説の長さに応じて、まったく異なった外形を取ることになる。上で「自分にそっくりの同級生」となっていた外形は、もし紙幅が得られるなら、「父にそっくりの息子×アラフォー女性」となるにちがいない。
かつて、美青年にもて遊ばれた女性がいた。その女性が独身のままアラフォーとなり、美青年はすぐに年上美人と結婚して子供をもうけたら、その少年が17才になった頃、ひと目惚れ劇が巻き起こることだろう。少年と偶然出会ったアラフォー女性は、少年を見初めて、かつての少年の父のように、ピアノの前に座らせるのではないだろうか。
そう、その姿勢で、そのままでいて。
アラフォー女性には、少年が美青年だった父そっくりに見える。しかし、ピアノの名手だった父とは異なり、少年はピアノの鍵盤の冷たさを指で知るだけ。こらえきれなくなったアラフォー女性は、やはり隣室に駈けこんで、鍵をかけて泣き伏すだろう。
2. 早逝した少年の母が幽霊で出る
取り残された少年も、アラフォー女性に恋心を抱いているので、ピアノを奏でることのできない自分の無力を呪うにちがいない。少年の父は或る音楽レーベルの社長をしているエグゼクティブだ。ただし、8歳くらい年上の美人アーティストと20代で結婚したものの、 少年の出産後、若い身体目当ての女遊びが引きも切らず、妻が衝動的に自殺してしまった過去がありそうだ。当然、母の自殺は少年の心に深い傷を刻んでいることだろう。
かつてその父に捨てられたアラフォー女性が、心に傷のある少年を、どのように愛して癒していくのかが、この恋愛小説の中心になりそうだ。少年を男として愛するのか、母と死別した少年の母代わりとして接するのか。迷っているところに、衝動的に自殺したことを後悔している幽霊妻が出現しそうな予感がしてならない。
幽霊妻とアラフォ―女性とは、かつてレーベル社長を争ったときに面識がある。勝ち気で欲しいものは何でも手に入れる性格だった幽霊妻が、自分の人生を反省して、たぶん少年とアラフォー女性を守る側に回る展開になるのではないだろうか。
3. 官僚女性が仕事を選ぶか家庭を選ぶかで煩悶する
ヒロインのアラフォー女性には、キャリア官僚の女友達がいる。毎日深夜までの残業が重なってしまうせいで、独身のまま。しかし、どこかの地方の故郷に婚約者がいて、家の事情で故郷を離れられない理由のある婚約者が、官僚女性に同じ故郷に帰るよう、説得を試みている。
連日の激務で体調不良となった官僚女性は、スポーツジム通いを始めるが、体調はさほど回復しない。仕事にも支障が出始めたので、婚約者の要望通り帰郷しようと思い立つ。婚約者が東京駅に迎えに来ているのを見て、官僚女性は底抜けの解放感に包まれて、婚約者を抱きしめに行く。走ると心臓が跳びはねるような感じがする。彼に抱き留められて、幸福の絶頂にいる官僚女性の唇の端から涎が垂れる。婚約者は疲労のあまり彼女が眠ってしまったのだと思って、彼女の唇をハンカチで拭うと、ずっと抱きしめたままでいる。
4. 臨死体験からの連れ戻し
幽霊妻とアラフォー女性との間では、女性が少年にどう接するかをめぐって、少しばかりの意見の不一致がある。その不一致の溝を、自分の側から乗り越えて歩み寄るから、私の親友を助けてほしいと、アラフォー女性が幽霊妻に頼み込む。実は、親友の官僚女性は心臓に蓄積されたセシウムのせいで、心臓発作を起こし、危うく「感激死」するところだったのである。
臨死体験で歩んでいく花畑のところで、幽霊妻は小さな幼児を連れて、官僚女性の進路に立ちふさがる。「あなたの生命はまだ生きられるから大切に生きてほしい」と幽霊妻は告げ、現世へ追い返す。幼児は「またね」と手を振る。
心臓発作を乗り越えた官僚女性は、故郷で新しい生命を授かる。瀕死の瀬戸際から引き返して、胎内の子供とともに、鳥たちの春の囀りを聞くのである。
5. その他の登場人物のメモ
- 小綺麗なスポーツジムでは、オリンピックを目指すアスリートがアルバイトをしていて、ジム会員のレーベル会社社長に憧れている。
- レーベル会社社長はピアノの名手だが、クラシック演奏者としてのキャリアは挫折してしまっていた。不屈のアスリートに激励されて、陽のあたらない地味な場所で、またピアノ演奏を始める。
- 田舎の婚約者の男性には作家の友人がいて、その作家はスランプ中。「私小説を書いている」とい嘯いて、周囲の人々から優しくしてもらいながら、白紙の原稿用紙に向かう日々。なぜか心臓に詳しいので、心臓の痛みについて助言したりもする。最終的にメタフィクション構成になるはず。
6. 他にこの恋愛小説でやりたいこと
これは、かなり参った、という感じだ。ここまで書き出してみて、これでは全然だめだという感触の方が相当に強いのだ。一時間の入浴でのインスピレーションでは、これくらいが限界なのかもしれない。
書き出していて驚いたのは、え?「スポ―ツジムでの偶然の出会い」のような凡庸な筋立てを、きみは平気で使っていくの?という問い。
冗談じゃない。さすがはアカデミー脚本賞受賞。ポール・ハギス『クラッシュ』では、多視点の複雑なシナリオがうまく統御されていた。しかし、3回見返しているうちに、それほど巧緻なテクニックが駆使されているのではないことが分かってきた。
病院や警察のような公共セクターでの偶然の出会いが、思いのほか多かったのである。公共セクターは社会に偏在しているので、脚本がその気になれば簡単に手配できる。それに各登場人物たちのドラマが、「人種差別問題」一元的に統一されているところに、脚本家の作為の印象ばかりが残る難点がある。
自分がやりたいのは、そのようなシンクロニシティ(偶然とは思えない偶然の一致)を統御しているのは、脚本家個人の主題追及や自己顕示欲とは全然別のところにある力だということを暗示することだ。
登場人物それぞれが、自らの目標のために自らの生命を燃焼させる。そこで動いたエネルギーの量に応じて、本人の意図や予測とは無関係な思いがけない形で、偶然が幸福に作用していく。そのような世界の密やかな仕組みを、小説の中に織り込みたいと熱望している。というわけで、スポーツジムでの偶然の出会いなどという安直な発想は、完全にリテイク対象なのだ。
もう一点、自分で発想しておいてすっかり忘れていたが、小説形式ではあるものの、チェット・ベイカーのいくつかの名曲を、歌詞の内容に多少の関連をつけながら、織り込んでいきたいという欲求もある。自分のメンタリティのあり方がこの一年でかなり変わってしまったので、この小目標は未達になる可能性もある。
The falling leaves drift by the window
The autumn leaves of red and gold
I see your lips, the summer kisses
The sun-burned hands I used to hold赤く黄金色をした秋の枯葉が
窓辺を漂いながら過ぎてゆく
窓の向こうに あなたの唇が見える
夏の日々に交わした口づけが
かつて私が握りしめたあなたの手が見える
Since you went away the days grow long
And soon I'll hear old winter's song
But I miss you most of all my darling
When autumn leaves start to fallあなたが去ってから 日々が長くなっていく
すぐに冬が歌を歌い始めるだろう
愛しい人、あなたのことがいちばん恋しくなるのは
秋の枯葉が落ち始めるとき
どうしてだろう。あれほど、この曲を何度も繰り返し聞きながら、雪原のクレバスに落ちたかのように、自分が沈み込んでいた時期のメンタリティから、今の自分が遠く遠く隔たってしまったのを感じる。もう戻らなくても良いし、戻ろうとしても戻れないような気もする。不思議でたまらない。
とりわけ、2017年からのさまざまな神秘体験やスピリチュアリズムへの傾倒が、自分の世界観や人生観を大きく変えてしまったことも、事実だ。多忙に継ぐ多忙で、ほとんど息継ぎできないような切迫感の中で、自分は何を得られたのか、得られたものをどう社会へ返していくのか、未決の問題はまだまだ無数にある。
それでも、どこかほっとした解放感とともに、自分が幸福な感情の渦の中で、大の字に寝そべっているような感覚が尽きないのだ。きっと、なんだかんだ言って、難打開だと思っていた局面の打開策を、自分はいつのまにか誰かから贈られていたのだろう。
それが幸福な結末であるなら、その結末に貢献してくださった方々すべてに、あらためてお礼を申し上げたいと思う。
誠にありがとうございました。