ベルマークの手軽さ、希望のかけらの尊さ
柔らかい発想力がないと、優れたクリエイターとは言えない。
20代前半の話。上で話したラフォーレの最上階で芝居を打っている集団に、何度か役者として紛れ込んだことがあった。楽屋の窓から繁華街を見下ろすと、きまって「カル男」というキャバレ―の看板が見える。友人たちと、「なんてセンスのない名前なんだ」と笑い合ったものだ。「カルオトコ」なんていうキャバレーには、軽薄な男しか集まってこないにちがいない。しばらくして、誰かの脳が閃いた。
「カル男」は「カルオトコ」じゃなくて「カルダン」って読むんじゃないか?
な、なるほど。当惑してしまう言語センスだ。けれど、どちらかというと、これまでの人生で、自分の言語センスで当惑させてきたことの方が多いような気もする。
筋トレが趣味の友人宅で、ダンベルを見せられた。ところが「そのダンベル、ずいぶん軽そうじゃない?」と軽口を叩いたせいで、トレーニング指導を受ける羽目に。少々の重さのダンベルでも、表側へは簡単にカールできる。けれど、裏側になると急にキツくなって、腕が水平に上がらなくなるのだ。
苦しんでいる私を見て、友人は「あれ? ダンベル軽そうって言ってなかった?」と当然からかってくるわけだ。
「いや、これ、ダンベルじゃないでしょ? この裏向きなのは、初めてだな。ベルダンっていうんじゃなかったっけ?」と誤魔化そうとするが、ダンベルはどこまで行ってもダンベルだ。それでも、友人の模範演技を見て、「ダンベルじゃなくてベルダンまでできるなんて、さすがは嵐を呼べる男子」とか何とか、余計なことを言ってしまうのだ。
さて、「カルダン」から「ベルダン」へと書き進めてきたが、ここからは華麗にも No plan だ。とりあえず、と書いても何も思いつかないので、とーりーあーえーずー、と間延びして時間を稼いでいると、次の展開を思いついてしまう自分のことが、今日も好き。
とーりーあーえーずー、トリアーの話から。デビュー作の『エレメント・オブ・クライム』という謎めいた映画を、若い頃の自分は結構気に入っていた。「白 / 黒」ならぬ「黄金 / 黒」で撮影されたフィルムは犯罪映画のようでもあるが、ロブ=グリエ『消しゴム』やオースターのニューヨーク三部作のような、主客転倒のループ物だったと思う。わかりやすく言い直すと、殺人犯を追って現場へ行くと、殺されたはずの男が生きていて、思わず発砲して自分が犯人になってしまうというような筋立て。
鮮明に覚えているのは、最後にパイプのようなケース?に閉じ込められていたキツネリス?の赤ちゃんのアップで映画が終わること。文学的素養と映像美に憑かれた男なら、こういう処女作を撮るだろうと思わせる映画で、面白くはなくても、種族として近い自分は引き込まれて見たのだった。
出世作はやはりビョーク主演の『ダンサー・イン・ザ・ダーク』だろう。贔屓にしているトム・ヨークとのデュエット主題歌も素晴らしいし、ビョークという弾ける才能を得て、ミュージカルの陽気さまで降り注いだカンヌ金獅子賞受賞作。映画館まで見に行った。
さて、ここからここまでの複数の文脈が、ある国の文化へと流れこむことになる。ラース・フォン・トリアーはデンマークを代表する映画監督。そして、デンマークを代表する建築家のビャルケ・インゲルスは、幼少時にビョークが箱の中にいろいろな物を集めているMVを見て、創造に目覚めたのだという。
(↑ビャルケによるスキーのできるゴミ焼却場をモチーフに使った短編小説。推敲したい。↑)
序文 ズボンを脱いだCEO
水曜日の午後のことだった。突然オルベクがズボンを脱いだ。
「恐れや不安があると、人は普段よりもいくらかクリエイティブになる。こうすることで混乱を生み出し、従業員の間に革命が進行中であるという感覚を呼び起こしているんだ」
世界で最もクリエイティブな国デンマークに学ぶ 発想力の鍛え方
- 作者: クリスチャン・ステーディル,リーネ・タンゴー,関根光宏,山田美明
- 出版社/メーカー: クロスメディア・パブリッシング(インプレス)
- 発売日: 2014/11/27
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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この序文を読んだときから、この本の先行きに一抹の不安を感じた読者は私だけではないだろう。このオルベクというクリエイターは、トリアー監督の右腕のプロデューサーで、彼のほとんどの映画にクレジットされている。
ズボンを脱ぐことで従業員たちに喚起している「革命の感覚」とは、まず、どんな革命なのかを説明してほしい、と書いているそばから、くすくす笑いが止まらない。あのヨーロッパ的陰鬱さに彩られた映画群を、こんなコント仕掛けのクリエイターがプロデュースしていたとは。
建築界の天才児ビャルケのインタビューでは、たぶんこれが最新だろう。上の記事で書いた同世代のイーロン・マスクと意気投合し、火星移住に必要な火星住宅をインゲルスが手掛けることになったらしい。
昔、ヨーロッパがオーストラリアの植民地化を始めた時代、ヨーロッパからオーストラリアまで行くのに6か月くらいかかった。今日、地球から火星に行くのは、昔ヨーロッパからオーストラリアへ行ったのと時間的にたいして変わらないし、リスクだって変わらない。だから、間違いなく現実になると思うよ。
――SpaceXとイーロン・マスク(Elon Musk)についてのお考えを聞かせてください。
僕たちは、自分たちの仕事を「実用的なユートピア」と呼んでいる。それは、実用的かつ現実的な方法で、より良い世界を作ろうという考えなんだ。
(…)
SF小説家ウィリアム・ギブスン(William Gibson)の「未来はすでにここに存在している。ただ隈なく行き渡っていないだけだ」という言葉に影響を受けていると言ってもいい。変化は非常に穏やかなこともある。
(…)
僕にとって、イーロン・マスクは、実用的なユートピアンだよ。彼が最初に手を付けたのは、電気自動車の巨大システムを構築することではなかった。まず、すごく魅力的な電気自動車を作ることに集中して、ポルシェを買うような人でも欲しくなる車を作ったんだ。そのあとに、アウディの代わりになるような、非常に素晴らしい車を作った。もう少し一般の人にも手の届く価格帯でね。そういったことが全てうまく回りだして、販売網が出来上がったら、最期に、広く大衆に向けて売り出す。彼らの電気自動車や自動運転車に対する実用的で現実的なアプローチが、最終的に世界を変えていくんだ。
上のビャルケの発言の中に、彼のクリエイティビティの特徴が二つ現れている。
ひとつは、ユートピア(≒夢)で自分を焚きつけるエネルギー志向。テスラが最初にポルシェ級の夢のスポーツカーからラインナップを始めたことが、ビャルケには響くのだ。
もうひとつは、創造に幻想を抱かないこと。ビャルケは或る日卒然と未知の霊感が滝のように降りてくるといった神話を一切信じていない。ゴールは夢であっても、そこへ至るプロセスは徹底して現実的なのだ。未知のものに飛びつくのではなく、既存の複数の物を組み合わせて、どのようにして最適解を出すかという作業の地道な積み重ねを重視する。
ビャルケに限らず、小さな前進のたゆまぬ積み重ねこそが創造だという考え方は、クリェイティブ・プロセスの研究で裏付けられている。「ユリイカ!」の霊感伝説は誇張されている。結局のところ、創造とは努力の積み重ねなのだ。
デンマークの創造本は、これまで自分が研究してきたクリエイティブ・シンキングと、さほど変わるところはなかった。当然のことながら、創造は国境を越えるというわけだ。国境を越えられないもの、つまりは:デンマークという国民国家に、大きな注目が集まっているのを知る人は多いだろう。「世界一幸福な国」がそのキャッチフレーズだ。
ランキングを追いかけたい人は、まとまりのいい上記の記事をどうぞ。
下記の本から、自分の言葉でまとめ直すと、世界一の幸福の秘密はこの6つにありそうだ。
- 国際競争力豊かな世界的企業が数多くある。日本での有名どころでは、カールスバーグやレゴ。
- 男女平等で、女性の社会進出が完成(女性の就業率は73%で男性とほぼ同じ)。その代わり、子育てと介護を国が手厚くサポートしている。
- 生涯平均転職率は5回。企業と人材のマッチング精度が高く、ミスマッチが生じればすぐに転職できるので、仕事への満足度が高い。
- 教育・医療・介護は原則無料。失業者や身体障碍者にも手厚いサポートあり。
- 政治腐敗度が世界で最も低いレベルにあるので(日本は18位)、ガバナンス・コストが低く、遵法意識や他者を尊重する意識が高い。
特筆すべきは義務教育のあり方の違いだろうか。ソーシャル・スキルに重点をおいた教育がなされており、「友人と仲良くやるスキルは算数の成績と同等」だと評価される。したがって、中学校二年生まで五教科のテストすら行われないのだという。
上記の1.2.3.4.5.のすべてに日本は問題を抱えており、それらのいくつかには自分も積極的な提言を行ってきた。一朝一夕に日本がデンマークになることはないにしても、「世界一幸福」を生み出しているものが、私たちの身近な社会制度を改善していくことから始まることは確かだろう。
身近なところと言えば、下の即興小説で用いた「秋山好古校長のところ」の高校出身の作家が、ソーシャル・ビジネスの対談集を出版しているのを見つけた。
「イレブンといって土を蹴ったぞ。全国大会に出たうちのサッカー部に関する予言にちがいない」と云ったものがある。秋山好古校長のところの蹴球部の連中に相違ない。
そのなかで自分が気になったのは、第六章で「反グローバリゼーション雇用」という章題を掲げているNPOだ。
上の記事で言及されていない内容がふたつある。ひとつは、プロジェクトの発案者が廃材活用製品を、ニューヨーク近代美術館に展示されてもおかしくないくらいのアート志向・デザイン志向の物にしようとしたこと。もうひとつは、プロダクトを障害者雇用によって生産していることだ。
工数あたりの生産コストでは競争力の乏しい障害者雇用を、デザイナーの尖った芸術センスで高い付加価値を稼ぎ出してフォローしようとする組み合わせが心憎い。
そういえば、自分の小説で同じようなNPOのことを書き込んだのを思い出した。
雑誌を買って、帰りの電車の中で開くと、「若手起業家の横顔」と題された誌面の一劃で、シニャックが心持ち顎を上げた生意気そうな顔で笑っていた。記事はシニャックに好意的で、長野に移住までして法人を起ち上げ、障害者と協働しながら無添加石鹸を作る事業に打ち込む当時25歳の彼を、次世代のソーシャル・ビジネスの旗手であると讃えていた。
しかし、路彦の胸中に去来したのは複雑な感想である。あのシニャックが石鹸作りとはね、というのが心中の第一声で、記事中で強調される環境意識の高さや障害者雇用の意義などは、何だか莫迦に当たり前すぎて、彼がやらねばならないことではないような気がした。
このシニャックという男と主人公の路彦は、卒業旅行の機中で口論になる。
しかし、席替えした後も鉾を収めようとしなかったのは、シニャックの方だった。路彦はもう取り合わなかったが、おれは侵略者とは「連続」しない、とか、路彦が「連続」を言うのなら、おれにも言わせろ、自民族中心主義はほぼ確実に自己中心主義と「連続」しているものだぜ、とか。成田に着陸した直後にも、路彦に或る旅行記を投げつけるように渡して、ムンバイへ行くべきだったな、おれたちも、と捨て台詞を言ってきたが、路彦はそれを無視して、別れの挨拶もせずに、旅仲間からひとり離脱して旅を終えたのだった。その背中に浴びせられたのは、こんな台詞。路彦は、ムンバイで赤ん坊の頃にマフィアに誘拐された挙げ句、手足を切断され、眼を潰されて、物乞いさせられ続ける子供たちとは、なぜ「連続」しようとしないんだ? まさか、人権を侵害されるアジア人より、日本人が優等人種だからとでもいうのか? そんな偏狭な差別的感覚を棄てるために、おれたちは長々と旅をしてきたのじゃなかったのか?
ゴチックで強調した部分は、気鋭のノンフィクション作家である石井光太の著作を参考にして記述した。
この記事は、自分の関心や小説をパッチワークしながら、今のところこう流れている。
上のゴチック部分の背景情報を知ることができた。気分の悪くなるような話も含まれているが、或る日本人がたまたま旅行で目にした光景が、こうやって活字や写真になって伝わってくることの幸運を今は感じていたい。
この町の犯罪組織はインド各地から赤子を誘拐してきました。そして子供が六歳になるまではレンタルチャイルドとして物乞いたちに一日当たり数十円から数百円で貸し与えるのです。(…)
やがて、彼らが小学生くらいの年齢に達します。すると組織は彼らに身体に障害を負わせて物乞いをさせるのです。(…)
- 目をつぶす
- 唇、耳、鼻を切り落とす
- 顔に火傷を負わせる
- 手足を切断する
さて、私たちはどんな国に住んでいるだろうか。良いところもあれば、悪いところもある日本。日本だけでも数え切れないほどの問題があるのは確かだとしても、高度情報化によて、海外の情報が打ち寄せる波のように繰り返し私たちに触れるなら、一日一ドル以下で生きる貧困層の人々に手渡せる何かがあるかもしれない。
さしあたり、それがどんな具体的なものかはわからないまま、自分はそれを希望のかけらとでも呼んでおこうと思う。
この記事はダンベルを「ベル⇔ダン」と呼び換える莫迦話から始めた。たぶん、こういった希望のかけらを世界各地に送るアクションは、一昔では考えられないほど身近な簡単なものにすることができる。小学生の頃にやっていたベル / マーク運動を、「ベル⇔ダン」変換して、世界一幸福な国の名前に近づけてもかまわないだろうか。
小学生の時熱中したあの程度の熱意で、たぶん救える生命があり、人生がある。そこまで思い至ることができなくても、世界の最貧民の子どもたちに、世界一幸福な国をイメージする程度の「希望のかけら」があってほしいと思えてならないのだ。