短編小説「渦巻く水に愛を囁かれて」

 休日の湖畔のカフェは、湖遊びに来た若者たちの行列ができていた。私は大学生はじめての夏休みを、ひとり旅しながら実家まで帰る途中だった。

 綺麗な大人の女性と相席になった。私が会釈すると、女性は読んでいた雑誌から顔をあげて微笑した。女性は30代後半できれいな肌をしていた。細い指でカップの取っ手をつまむと、夏に似つかわしくないホットコーヒーをひと口飲んだ。

「あなた、いくつ?」

 18歳と私は答えた。女性は表情を豊かに変えながら、いくつか言葉を返した。あら、そう、とか、もっと大人に見えたわ、とか、でも私の半分ね、とか。

 彼女は指輪をつけていなかった。

 おかわりの珈琲が届くと、彼女は先にマドラーを入れて珈琲をぐるぐるかき混ぜはじめた。それから、カップの中の珈琲の茶色の渦にミルクを垂らして、つかのまのマーブル模様を描いた。彼女はそのマドラーを紙ナプキンで包むと、ハンドバッグにしまった。

 私は胸の中で好奇心が弾みはじめるのを感じた。

「そのマドラーはご自分のものなんですか?」

「そうよ。よく気が付いたわね」

 女性はマドラーを取り出し直して、私に見せてくれた。金細工の棒が伸びた先に「I LOVE YOU」と小さく刻まれている。

「ちょうどあなたくらいの年齢のときにもらったの」

 私も笑顔になった。こんなに綺麗な女性が20歳の頃にどんな恋をしたのか、知りたくなった。

「恋人からの贈り物ですか?」

 女性は小首をかしげた。

「まあ、そういうところ。一度も逢ったことはないけれど」

 戸惑っている私を見て、女性はフランクにこう言った。

「聞きたい、私の初恋物語? 可笑しい話だけど、笑わずに聞いてね。結局会えなかったから、数分くらいの短い話よ。ちょうど、この珈琲を飲み終わるくらいまでの」

 私は勢いよく頷いた。それからの数分間、彼女が聞かせてくれた不思議な恋の話を、私は一生忘れないと思う。

 私があなたくらいの頃、毎日やっている美容法があった。使うのは、化粧品ではなく水。お湯で洗顔することよ。洗面台にお湯をためて、泡立てた石鹸で顔を洗う。それから、溜めてあるお湯をすくって何度もばしゃばしゃ洗うの。そして、栓を抜いて、泡まみれのお湯を流す。

 やがて、お湯は渦になって、真ん中に小さな口を開ける。その口を空気が抜けるとき、喋っているみたいな声を出すのを、聞いたことがあるでしょう?

 20歳のある日、私は顔を洗い終えた。洗面台の栓を抜くと、揺らめいている泡まみれの水面に人の顔が浮かび上がってきたの。私は思わず叫んじゃったわ。誰? 泡の白のあいだに浮かんでいるのは、同じくらいの年齢の男の子の顔。彼をひと目見たとき、私の背筋を甘い衝撃が走り抜けた。彼が私にとって100%の男の子にちがいないと確信したの。

 それに、向こうにいる彼も、私をロミオの瞳で見つめているのがわかった。お湯が少なくなるにつれて、大きな瞳をした少年らしい彼の顔が、みるみる縮んでいく。お湯の真ん中に、小さな口が開く。すると、水に開いた口が喋ったの!

「I love you.」

 私は有頂天になって、毎朝浮き浮きしながら洗顔をするようになった。茶色い髪をした外国人の美少年と水面越しに会えるのは、洗面台の栓を抜いてから、お湯がすべて流れるまでの十数秒だけ。言葉を伝えられるのは、お湯の真ん中に口が開いてからの数秒だけ。

 私も思い切ってこう伝えた。

「I love you, too」

 すると、こんな言葉が返ってきた。

「You're beautiful.」

 毎朝、私たちはひとことずつ、愛の言葉を交わし合った。先に彼のひとことを聞いてから、私が返事するのが習慣になった。

「You're a perfect girl for me.」「You, too. You're 100% perfect for me.」

「I want to meet you right now.」「I can't believe you're not here with me.」

「I dream of you every night.」「Kiss me in my dream tonight.」

 そうやって愛を囁き合っているうちに、半月が過ぎた。すると、彼の呼びかける声に、悲痛なニュアンスが加わるようになったの。

「きみと会えないなら、生きていく意味はない」「すぐに会って、二人で生きていきましょう」

「クリスマスはお休みかい?」「あなたのために空けておくわ」

「逢えなくなる前にどうしてもきみに逢いたい」「あなたと逢えない世界は嫌い、あなたが好き」

「どこに行けばきみに逢える?」「日本のY…町」

「美しいきみが待っていてくれる場所は?」「街一番の教会の前」

 待ち合わせのやりとりを交わしたのが、クリスマス前日だった。クリスマス当日、彼が私に初めて会いに来てくれるかもしれない日。この街の湖が、私たちを祝福するかのように、数年ぶりにその冬はじめて氷結していた。

 私は教会の前で、朝から晩まで待ちつづけた。時々、ホットコーヒーでかじかむ指先と身体を温めながら。でも、結論から言うと、彼は来なかったの。

 冷え切った身体で自宅に帰ると、郵便受けに小さな小包みがちょこんと入っていたわ。そのプレゼントの中身が、このマドラーだったというわけ。

 私は不思議で不思議でたまらなかった。日本のY…町だとまでは伝えたけれど、私は自分の住所を彼に伝えていなかった。どうして住所がわかったのかしら?

 悲しいけれど、私にとって100%の彼との恋は、それっきり。小包に書いてあった住所へ手紙を送ったけれど、音沙汰なし。アルバイトでお金を貯めて、半年後にオーストラリアへ行って彼の住所を訪ねたけれど、そこには真新しい大きな幹線道路が伸びているきり。

 地元の人々に訊くと、そのハイウェイは竣工したばかりで、半年くらい前に地域住民の立ち退きがあったそうなの。

 ねえ、あなたは若いから頭が柔軟でしょう? どうして私と彼とが、あんな風に言葉が通じ合ったと思う? わからない? 当時20歳だった私も、さっぱりわからなかったわ。異国の街のネットカフェで、その街のあれこれを徹底的に調べて、ようやく或る事実に辿り着いたの。

 不思議な話よ。私の住む日本のY…町と彼の住むオーストラリアの街は、赤道を挟んでちょうど線対象の位置にあったの。

 そして、あなたはこれは知っているかしら。水は、北半球では反時計回り、南半球では時計回りに渦を巻くのよ。そう、そう。真上から見ると、ちょうど正反対よね。でも、こちらが反時計回りの渦を見下ろしているとき、水面の裏から同じ渦を見ると、時計回りに巻いているように見えるでしょう?

 私がはっきり憶えているのは、20歳の私が100%の完全な男の子と愛を囁きあっていたときの沸き立つような喜び。そして、凍てつくような寒さの中、氷結した湖のそばの教会で、逢いに来ない彼を待ちつづけていたときの淋しさ。

 あのときは、100%の彼なら絶対に逢いに来てくれると信じ切っていて、唇の中で何度もこの曲を口ずさんでいたわ。

 

 

 冬になって川が凍ったら、スケートしてあなたに会いに行けるのに、という歌詞のクリスマス・ソング。歌っている女性は心が子供ね。きっと本当の恋の意味をわかっていないのよ。

 南半球が真夏でも、同じ日の北半球は真冬。水の渦巻きの不思議な力で、あと少しで逢えそうだったのに100%の男の子に、私が逢えなかったのは、きっとあの日あの湖が氷結したせい。響き合い、通じ合っていた水の片側が、あの日は凍っていた。

 たぶん、たぶんでしかないけれど、ねじれの位置にいた私たちには、温もりが通じるだけの、あと少しの引かれ合いが足りなかったのよ。

 ね、可笑しな話でしょう? 

 そこまで話すと、彼女は珈琲を飲みほして立ち上がった。彼女が暑さを厭わずに、ホットコーヒーをマドラーでかき混ぜていた理由が、私にはわかったような気がした。

「ほら、ちょうど珈琲一杯分の話だった。見ず知らずの女の話を聞いてくれてありがとう」

 私はまだ聞き足りないことがあるような気がした。この恋物語は、本当に数分で終わってしまう話だったのだろうか。

「それから、その人は、本当に本当に逢いに来てくれなかったんですか?」

「…そこからは、18歳の子供には内緒よ」

 女性は微笑んでハンドバッグを片腕に持ち直してた。そして、気持ちの良い声音で、先に立ち去る理由を私に説明した。

「ごめんなさい、このあと、街の教会でバザーの片づけをしなければいけないの。お先に」

 

 

 

 

ハーフ・ザ・パーフェクト~幸せになる12の方法

ハーフ・ザ・パーフェクト~幸せになる12の方法

  • アーティスト: マデリン・ペルー,ラリー・ゴールディングス,サム・ヤエル,ディーン・パークス,デヴィッド・ピルチ,ジェイ・ベルローズ,スコット・アメンドラ,ティル・ブレナー,ゲイリー・フォスター
  • 出版社/メーカー: ユニバーサル ミュージック クラシック
  • 発売日: 2006/10/25
  • メディア: CD
  • この商品を含むブログを見る
 

ユーモア短編『ベッドの下の奈落にマンマ・ミーア!』

 素直さと前向きさが幸運を呼ぶ。そう言い聞かされて、実際に素直で前向きな人間に育ったので、ぼくの就職活動はあっけなく決まった。

 並みいるライバルたちを抑えて、第一希望のイタリアの高級家具メーカーに採用されたのだ。採用人数はわずか2名。一流美術大学出身の男女一人ずつが、何度かの選考現場では群を抜いていた。受け答えもはきはきしていて、家具の商品知識も豊富。訊けば、このイタリア家具メーカーに就職したくて、大学時代からアルバイトをしていたのだという。幸運を実力でつかむ奴らは足が速い。

 一方で、田舎の三流大学出身であっても、ぼくのように素直さと前向きさがたっぷりあれば、特別枠で採用してもらうことも、この世にはあるのだった。田舎の洋食屋には、いまだにフォークが宙に浮いているスパゲッティの料理サンプルがある。その洋食店のナポリタンしかイタリア文化を知らない母は、採用を泣いて喜んでくれた。22歳でイタリア家具店就職の夢を叶えた自分が、ぼくは誇らしかった。   

 だから、卒業式以前に、一人だけ入社前研修つぉいて呼び出されたときも、やる気満々で、会議室の椅子に座って、膝の上にぎゅっと握った拳をのせていたのだ。

 入社前の最初の研修は、意外にも作文だった。指導に当たってくれた人事部長は、こう説明した。

「今の時代、どの会社でもそうだが、目の前の仕事をイヤイヤするか、喜んでできるかで、新入社員の成長は全然変わってくる。ここまでは大丈夫かい」

 ぼくは元気よく頷いた。さすがはぼくを採用した会社だ。主張に説得力があふれているので、頷きがしばらく止まりそうにない。

「…したがって、今日はイメージ作文を書いてもらう。きみに最低限の文化的生活を想像してもらって、それを喜んで受け入れる姿勢を実際に文字にしてもらいたいんだ」

「わかりました。コップ半分の水を『半分しかない』ではなく『半分もある』と捉えることが大事なのですね」

「おお、呑み込みが早いじゃないか」

「ぼくに向いていると思います! なにしろ、素直さと前向きさがぼくの取り柄ですから!」

 これも上手な返しだった。コンパクトな表現で、自分の長所を印象づけることに成功している。何だか、この入社前研修もうまくいきそうな予感がして、浮き浮きしてきた。その心の浮き立ちが、イメージ作文にもよく表れている。

 晴れた日には日光が差し込んでくるなんて, 何ていう気持ちの良い日当たり! 太陽、最高! しかも, 栄養バランスの取れた食事を, 一日三回も食べられるなんて, 夢のようだ. めったに行けないネバーランドみたいだ. 毎日の食事が美味しすぎて, 幸福感たっぷり. 交代でお風呂にも入れて, お肌さっぱり. ああ, そうさ. ここは夢の国さ. ぼくは社会に出たら, こんな夢の国へ行きたかったんだ. いま最高の気分だよ, お母さん!

  最低限の生活をイメージして、それを楽しんでいる自分を想像した。一か所だけ、人事部長に許可を求めたのは、通常の句点や読点ではなく、カンマとピリオドを使用すること。人事部長は快諾してくれた。この研修は快調だ。相手が受け入れ可能な小さなわがままを言うと、愛されやすくなる。それに英語と同じカンマとピリオドの方が、横書き慣れしている理系学生みたいで、文系のぼくをいっそう理知的に見せるはずだ。

 読み返してみると、カンマとピリオドを使っているせいで、確かにクールで頭が良さそうな文章に読める。こういうひと手間が芸術を美しくするんだな。

 人事部長は満足そうに頷いていた。「必要な要素が全部入っている」とか、「こんなに素直に、会社が求めるものに答えられる社員は素晴らしい」とか。ぼくが就職活動でここまで褒められたのは初めてだった。よし、この会社に骨を埋めるぞ! 自分の心にふつふつとやる気が湧き上がってくるのを感じた。

 次の入社前研修は接客トークの練習だった。顧客にベッドを勧めるときの代表的なトークがまとめられていた。人事部長は身を乗り出して、きみはとても素直で見込みがあるから、ぜひいちばん難しいトークに挑戦してほしいと、説得をかけてきた。

 ぼくは一瞬ためらう表情を見せて、「少しだけ自分流にアレンジさせてください」と人事部長に頼んだ。彼はにっこりと笑って快諾した。ほら、ぼくの予想通り。少しだけわがままを言う方が、愛されるんだ。

 一週間後、ぼくの才能を開花させる日がやってきた。そのメーカーのベッドに関する知識を叩き込み、研修資料にあった模範トーク例もすっかり暗記した。独自アレンジも完璧だ。ぼくは人事部長に促されて、はじめて憧れのイタリア家具店のベッド売り場に立ったのだ。

 最初にベッドの列に足を止めたのは、派手なハンドバッグを持った老婦人だった。ところが、話しかけても会釈して歩み去っただけ。折り紙つき新人店員の接客にふさわしい器ではなかったようだ。 ひとこと言っておくぜ、ちっちゃくまとまんなよ。

 次に来た女性は、若づくりしているが50代前後というところだろうか。幸先よく、ぼくがイチ推しでセールスト-クする収納ベッドに、ふらっと腰かけた。

マットレスの具合はいかがですか」

「ちょっと硬いみたいね」

 老婦人は上品に微笑んで、そう答えた。襟なし丸首のシャネル風の綺麗なスーツを着ている。なにしろ、新人離れした洞察力がぼくにはあるので、高級家具店にはお金持ちが来るのではないかと、うすうす勘づいていた。接客トークに卓抜なアレンジを施して、そこはかとなく高級感を醸し出す戦略を、昨晩頭に入れておいたのだ。 

マットレスがあまりにも柔らケイト・モス、どうしても腰に来ルブタンが大きくなって、腰を痛めチャイ・ラテ、困っちゃうんですよ」

 

 老婦人はぼくを見上げて、可笑しそうに微笑んだ。きっとルブタンが効いたのにちがいない。一流の接客が生み出す微笑は、一流の家具セールスマンにとっては、朝日の光で目覚める寝起きのようだ。つまりは、朝飯前だ。

 老婦人はベッドにつけられているタグに気付いた。

「娘の大学卒業祝いに買ってやろうと思うんだけれど、このベッドはどうして現品処分なの?」

「展示から半年クライシテも、チャーチじゃなくてしっかり作られているので、十年、ニュージー年、いや三十年でも使えマスグ・キスミー」

「へえ。さすがはイタリア製ね。マットレスが薄いような気もしてけれど、座ってみると振動の吸収もいい感じ」

「振動がリズミカルなボのナーラ、やはりイタリアベッドニナリッチゃいますね。ヴィヴァルディの血が流れていマスカラ・カールキープ」

「家具にも音楽性があると言いたいの? おかしいわね、エリック・サティーでも気取っているつもり?」

「冗談和洋室スイートください。私がカトリーヌこしたくないのは、ドヌー部品も精密にできていて、実際にこのベッドが歌うということです」

「へえ。イタリア製だから、ベッドまでカンターレするということ?」

「お、サン・シャルル通りです。5ランクださい。この1stランクのベッドのヘッドボードには、スピーカーと電源コンセントがフル soy bean 茹でられています。…

…つまり、スマホを充電でキティー新幹線、好きな音楽をワイヤレスで飛ばシティーボーイ、枕もとで聞けるンデス・リーガ」

「あら、そうなの。最近の若者言葉って、私にはよくわからないけれど、ベッドはとても気に入ったわ」

 ぼくの独自接客トークの完全勝利だった。高価な指輪でも十指につけると悪趣味にあるように、「いますぐ KISS ME」や「キティー新幹線」のように、ところどころで高級感を抜いたアレンジが、逆に小粋なのだ。ワンダフルじゃないか、ぼく。

 思わず勝利の美酒に酔ってしまい、足元がふらつきそうになったが、まだ最終ミッションが残っていた。素直さと前向きさだけが取り柄の男が、イタリア家具を本気で愛したらどこまで行けるのか、見てておくれよおっ母さん。

 お客様に感動体験を提供するのが、一流の家具セールスマンの真のミッションなのだ。ベッドひとつを売るのにも、感動話のひとつやふたつくらい持っていなければ。ぼくは、普通の口調に戻って、さりげなくこう切り出した。

「ほら、このベッドの底、凄いと思いませんか。マットレスの厚みを最小限に抑える代わりに、大容量の収納を可能にしています。マットレスの下の天板はしっかりつくってあります。天板が薄いと、あれあれ、奈落の底に落ちてしまうことだってありえますから」

「何だか急にお話が聞き取りやすくなったわ。でも、奈落の底はいくらなんでも大袈裟なんじゃない?」

 ぼくは夜中までかかって暗記した話を語り始めた。

 60年代のアメリカにハワード・テイトというソウルシンガーがいたんです。才能も実力もあったけれど、契約のせいでお金まわりが悪くて、家族のために保険の外交員に転身したんです。ところが家族を守るはずの家が大火事に。家族ともども逃げ出したテイトは、知的障害のある娘の姿がないことに、はっと気が付きました。炎に包まれた家の中に駆け戻ると、娘が火に怯えて部屋の隅で震えているのが見えたんです! テイトが猛然と娘に駆け寄ると、娘は泣き叫んで渾身の力で父親にしがみつきました。

 ここまでは感動的なヒューマン・ドラマです。ところが、悪魔はそこに奈落の底を仕掛けていたんです。障害のある娘を抱きかかえ、炎に包まれた家から脱け出そうとして、ベッドを踏んだ瞬間、ベッドの天板が割れてしまい、二人は炎の中に投げ出されてしまいました。テイトだけは助け出されました。全身が白くなるほどの重度の火傷を負って。

 しかし、テイトが負ったのは、重度の火傷だけではありませんでした。必死に抱きついてきた障害のある娘を救えなかったせいで、心が病んでしまったのです。酒に溺れ、家族を失い、麻薬に手を染め、8年間のホームレス生活へ転落。

 けれど、悪魔の仕掛けがあれば、神の仕掛けも世にはあるものです。火事から約20年後、ドラッグを買う金のために皿を洗っていたテイトが幻覚を見るのです。それは悪魔が目の前に現れて、心の底から愉快そうに大笑いしている幻覚。同じ境遇の人なら、自殺してしまいかねない超自然現象は、しかし、テイトの人生を変えます。

 ドラッグを断ち、牧師になり、ドラッグ中毒に苦しむ人々のためのホスピスを創ろうと奔走します。すると… その資金調達にテイトが苦労していたさなか、昔の音楽仲間が、街で買い物をしているテイトを偶然発見します。25年以上ぶりに。 

  そうして約30年ぶりのカムバックを果たしたテイトの歌声は、このベッドでも聴くことができます。ぼくはこの曲が大好きなんです。酒焼けしていない瑞々しさが声にあって、2:56のファルセットなんて、ほとんど奇跡的な美しさです。

 ベッドの下に、悪魔が奈落を仕掛けてあったけれど、神様がその奈落を這いのぼることのできる仕様にしてあったというベッドサイドストーリーでした。

 YES! ぼくは心の中で会心のガッツポーズを決めた。昨晩深夜まで必死に練習した甲斐があったというものだ。嬉しいことに、老婦人は立ち上がって拍手をしてくれている。

「素晴らしいお話だったわ。私、決めた。娘にこのベッドを買ってあげることにする! 現品限りなら、今日にも配送してほしいわ。」

「お買い上げありがとうございます!」

 背後から、人事部長が揉み手をしながら嬉しげな表情で近づいてきた。ぼくは出番を完全に演じ切った満足感で、並んでいる高級家具の間を悠々と歩いて、バックヤードへ向かった。

 帰る準備をしていると、控室のドアを乱暴に開けて、人事部長が入ってきた。

「素晴らしかったよ。高級感あふれる独自アレンジも良かったし、クライマックスの感動話も堂に入っていたね。こんなに素直に、会社が求めるものに答えられる社員は、きみしかいない!」

「お褒めの言葉、ありがとうございます。素直に前向きに課題に取り組んだら、たまたま結果がついてきただけです」

 ぼくは型通りの謙遜を素直に引用した。

「いやいや。だってついてきたのは売上だけじゃない。先ほどの田園調布のお得意さまだが、何ときみにご指名が入ったんだ!」

「指名? 何の指名ですか?」

「ほら、お客さんは今日が娘さんの誕生日だと言っていたろう? あのベッドをサプライズでプレゼントしたいらしいんだ。さらに、きみがサプライズ登場して、さっきの黒人シンガーの感動話をするという段取りだ。特別報奨金をはずむから、やってくれないか。きみしかできる人間はいない!」

「もちろんやらせていただきます!」

 ぼくは即答した。一流のセールスマンが一等地の誕生パーティーで一流のセールス・トークをする。夢のような展開だとしか言いようがない。

 誕生パーティーまであまり時間はなかったが、人事部長は持ち前の手際の良さで、トラックと運搬人員を手配し、ぼくをベッドの収納部分に匿った。密閉空間で閉所恐怖症や乗り物酔いにならないように薬までくれた。そればかりか、サプライズ後のパーティーに参加しやすいよう、ナイフとフォークまで丁寧にナプキンで包んで、渡してくれたのだった。有能な上司と一緒に仕事をするのは、本当に気持ちの良いものだ。

 ぼくの素直で前向きな性格が幸運を呼んだのだと思う。真っ暗な閉鎖空間の中で、ぼくはひたむきに台詞まわしを練習し直した。トラックは田園調布の邸宅へ到着したようだった。ぼくを匿ったベッドが、四人がかりで、高級住宅の令嬢の部屋へ運び込まれた。

 部屋に明かりがついているのがわかる。ベッドの収納部分は狭いので、灯りが差し入ってくると気分が少し楽だ。ぼくは演説のクライマックスでかけるハワード・テイトの曲を準備しようとした。ところがスマホの電源が入らない。何度も何度も電源スイッチを押しているうちに、スマホのバッテリーが抜かれていることに気が付いた。

 まずい。これではサプライズが成功しそうにない。慌ててわけもわからずポケットを探っていると、さっき人事部長が手渡してくれたナイフとフォークに手が触れた。素直さと前向きさが取り柄のぼくに、はじめて疑問が思い浮かんだ。マイナイフとマイフォークを持参しなければならないとは、どんな誕生パーティーなのだろう?

 そのとき、若い女が部屋に入ってくる声がした。

「だから、あなたとはもう二度と会いたくないんだって。私にはもう好きな男の人が別にいるの。今すぐ帰って!」

「何だと。もう一度言ってみろ!」

「何度でも言うわ。帰って! 帰って!」

ぼくは心の中で「オー・マイ・ゴッド」と呟いた。その「オー・マイ・ゴッド」がサプライズの合言葉になっていたのだ。それを聞いたら、ぼくは鮮やかに油圧シリンダ式のマットレスを跳ね上げ、良家の令嬢の前に登場するはずだった。ほら、このベッドの底、凄いと思いませんか。この通り、人だって楽々入れるんですよ… 

 そう切り出して、ハワード・テイトの「ベッドの下の奈落」を語り聞かせる手筈だった。ベッドの外では、男がナイフを取り出したようだった。

「へへ。こう見えて、このナイフは実によく切れるんだ。その綺麗な顔に傷がつかないようにするには、賢くならないとな、お嬢さんよ」

「やめて! 誰か、誰か、助けて!」

 素直さと前向きさが取り柄のぼくだ。何もなければ、ベッドのマットレスを跳ね上げて、お嬢さんを助けるヒーロー役を喜んで買って出るところだ。ところが、人事部長に飲まされた薬のせいで、不思議なくらい身体に力が入らないのだ。意識さえ遠のきそうになるのをぼくは必死にこらえて、どうしてこんなことになったのかを思いだそうとした。ぼくは先週書いたイメージ作文を思い出した。

晴れた日には日光が差し込んでくるなんて, 何ていう気持ちの良い日当たり! 太陽、最高! しかも, 栄養バランスの取れた食事を, 一日三回も食べられるなんて, 夢のようだ. めったに行けないネバーランドみたいだ. 毎日の食事が美味しすぎて, 幸福感たっぷり. 交代でお風呂にも入れて, お肌さっぱり. ああ, そうさ. ここは夢の国さ. ぼくは社会に出たら, こんな夢の国へ行きたかったんだ. いま最高の気分だよ, お母さん!

 世間知らずなぼくにも、あの作文がおそらく、犯行の計画性を示す状況証拠として使われることが予想できた。注意すべきは、カンマとピリオドではなかったのだ。

 悲鳴とともに、女の身体が床に崩れ落ちる音がした。おそらくナイフで頸動脈を着られたのだろう。微かに血の臭いが漂ってきた。

 ぼくの田舎の洋食屋には、いまだにフォークが宙に浮いているスパゲッティの料理サンプルがある。その洋食店のナポリタンしかイタリア文化を知らない母が、採用を泣いて喜んでくれたのを、ぼくは懐かしく思い出した。いま胸ポケットにあるナイフとフォークは、事前に準備した凶器として認定されるだろう。サプライズの合言葉が「オー・マイ・ゴッド」だと聞かされたときに、ぼくは「特別枠」という名の罠に嵌められていることに、気が付くべきだったのだろうか。そんなことができたとはとても思えない。できるとしたら、その合言葉をイタリア家具好きらしく、こう言い直すことくらいだろう。

マンマ・ミーア! 

 薬が回ってきて、意識がますます遠のいていった。誰かの話し声や足音が、激しく入り乱れているのが聞こえるような気がする。しかし、それがどれくらい遠いのか近いのか、もはや朦朧とした意識ではつかめないのだった。後ろ髪を背後へ引き寄せられるような激しい眠気に、ぼくは襲われつつあった。その激しい眠気を、近づいてきたパトカーのサイレンの音が妨害しつづけている。ベッドの下の奈落の中で、これから警察にお世話にならざるをえない暗転した長い人生のことを思った。

 とはいえ、素直さと前向きさが取り柄のぼくだ。ハワード・テイトと同じく、25年もすれば陽の当たる場所へ出られるのではないだろうか。そのとき、自分にまだ、奇跡のファルセットのような美質が残っているといいなとぼくは思った。

 眠りたい。少しでいいから、眠らせてくれないか。ぼくはこれから長い間お世話になる警察に、眠れないじゃないか、頼むからサイレンを止めてくれと、かすかな声で文句を言った。だって、少しくらいわがままを言う方が、愛されるっていうから。

 

 

 

 

短編小説「ゴールキーパー上空には白煙のリング」

 どこにだって、気取りたがる男はいるものだ。

 街の中心部にあるホテルは、吹き抜けを多用して、空間を縦に使う。言い換えれば、横には広がりが限られているので、例えばモーニング・ブッフェのレストランは、かなり混雑することになる。

 スーツを着込んだ旅行者らしき男が、カウンターの私の隣に腰かけた。ハイスツールから伸びている脚は長い。男は30代くらい、私より10歳くらい上に見える。母との約束にはまだ時間があったので、どちらへ?と話しかけてきた男に、私はこう答えた。

「宿泊客じゃないんです。休日の朝だから、ゆっくり外食をしたくて」

 男は意味もなく笑った。そして、ひとりのウェイトレスを指差した。ほら。

「あの女の子が『クロエ』っていう名札を付けているのを見た?」

 料理皿の交換をしている彼女は、見るからに日本人らしい日本人だ。そばを通ったウェイターの男の子の名札には『アントニオ』と書いてあった。イタリア風のニックネームをつけるのが、このレストランの演出らしかった。

 掛け時計の文字盤が、母が合流するまでにまだ半時間あることを告げていた。旅行者の男とあまり話したくなかったので、私はカプレーゼのトマトにフォークを進めた。

「あのクロエに、さっきこう話しかけたんだ。『クロエ』ってフランスの有名な恋愛小説のヒロインと同じですねって」

 私は無言で頷いた。無視はしていないが、これ以上一緒に会話したくないという意思表示だ。フォークはスライスされたモッツァレラ・チーズへと進んだ。バジルの交じったオイルが美味しい。

「女の子は礼儀正しく『ありがとうござます』って。オレはそれ以上は言わずに黙っていた。ヒロインの胸に睡蓮が咲いて死んじゃう小説だとは言いづらかったから」

「初対面の女の子に胸の話をするのは、ちょっと… ですよね」

 ハラスメントになりかねないことを指摘して、さりげなく私にもこれ以上嫌がらせしないようにと旅行者の男に暗示した。ところが、男は派手に指を鳴らした。

「その通り! その件については、最近痛い目に遭っているからね」

 そう言うと、男は私に向かって片目を瞑って見せた。え? どういう意味のウィンクなの? 私が彼を好きになれないのは、その気障な手ぶりや身ぶりが理由なのに気が付いた。

 私は店内を見回した。空席があったら逃げ出したかったが、レストランは旅行客でごった返していた。

「翻案された邦画では、主人公の男の子は最終的に花屋になる。ところで、花束とブーケの違いは知っている? たぶんきみはブーケの方が好きだと思う」

「どうでもいいです」

 私は即答した。鈍感な男には、はっきり言葉を伝える必要がある。すると、男は手を叩きながら笑った。そういう風に、気取って余裕を見せる感じが、どうにも厭だ。

「うまいよ、最高だ。『どうでもいい』は英語で『Who cares!』。つまり、『ブーケ屋』って答えてくれたんだね」

 私はサラダに向けていたフォークを止めて、旅行者の男の顔を正面から見つめた。あまりにも意味不明で、同時に、あまりにもポジティブな男が、どんな顔をしているのか知りたくなったのだ。

 ところが男は、私がまなざしを向けたのを、好意のあらわれだと勘違いしたらしい。

「花嫁が持つ花束のことを、特別にブーケっていうんだ。失礼だけど、きみは…」

 まずい。私は自分のプライベートを詮索されたくはなかった。母が来るまでのあとしばらく、男に自分語りをさせる必要があった。私は男の指先に目を止めた。

「その指の火傷… まだ新しいみたいですけれど、どうしたんですか?」

 男は喜色満面になった。自分に関心を持たれることに飢えている感じが伝わってきた。

「よくぞ訊いてくれた、お嬢さん。これには、涙なしでは語れない話があるんだ。少しのあいだ聞いてもらえるかな?」

 私は頷いた。母がなるべく早くここに到着することを願いながら。

 旅行者の男が、彼らしい気障な口調で話し始めた。

 帰宅することにした。高層マンションのエレベーターに乗り込んで、50階のボタンを押す。エレベーターにはぼくひとり。重力が強まるのを膝で感じながら、ぼくは鼻をつまんで耳から空気を抜いた。50階までは時間がかかる。

 かつて、このエレベーターで派遣嬢と一緒になったことがあった。こちらが眩暈がしそうなほど香水をふんだんにつけて、派手なOL風のスーツを着たブロンド美女。39階で下りようとすると、扉の向こうにニヤついた男が迎えに来ていた。

 部屋に入ると、センサーで勝手に電気がついた。光量を自動管理にしていると、リビングを真っ暗な空間にして暗さに浸るのが難しい。ぼくは上着を脱いで煙草に火を点けると、20世紀小説のことを考えた。20世紀は、今では考えられないくらい不思議な時代だった。いまだに夢中で20世紀小説の研究をする人がいるのも頷ける。

 ぼくは口をOの字にひらいた。そして、イタリア人が美味しいときに指先でドリルする辺りの頬を、軽く叩いた。口から出た白煙のリングは、ふっと宙に躍り出たかと思うと、ゆっくりと床へ沈んでいった。最近の煙草は、煙の動きで吸っている人間の心理状態を表現できる。

 映像で見た21世紀初頭のデンマークの排煙施設が、ぼくは好きだった。ゴミ焼却場なのに、スキー場を組み込んだブリリアントな革新的設計。当時の最先端で、排出される煙までデザインされていた。

 イルカが水中で作るバブルリングのように、煙突からぷかりぷかりと白煙のリングを吐き出すのだ。その白いリングが、青空の高みへ上がっていくのを見ると、どこかほっとする。いま地球が上機嫌でいてくれているような気がする。

(2:46から)

 自宅でひとり煙草を吸いつづけながら、吐き出す白煙のリングのすべてが、ゆっくりと沈んでいくのを眺めていた。リビングの床には、乱雑な輪投げの後のように、白煙のリングが散乱していた。

 ここまで煙が沈んでいくのも珍しい。そろそろ彼女を呼ぶ潮時かもしれない。

 ぼくは情報端末のページをめくった。料理もある。掃除もある。介護もある。千差万別の派遣嬢のカタログから、「燃えやすい」と朱書されていた美女を選んで、ぼくは派遣の手配をした。

 わずか一時間で彼女はやってきた。薄ピンクのスーツに花柄のブラウス。糖度の高い甘いコーディネートだ。

「マイ・ボスに言われて、ここへ来たわ」

「それはそれは」と言って、ぼくは無意味に笑った。話し言葉は「敬体」ではなく「常体」で注文してある。そういう親密さがぼくの好みなのだった。

「ベッドに横になってちょうだい」という女の言葉に、それらしい情感がこもっていたので、ぼくはほっとした。モノのように扱われるのは、あまり好きではない。

 女はベッドに腰かけて、ぼくのYシャツのボタンをはずし始めた。最初はひんやりと感じたが、女の手がぼくの胸を撫でさすり始めた頃には、その手には確かに人肌の温もりが感じられた。女の左手は、ぼくの心臓の上にあった。右手がぼくの髪を撫で、顔を撫でさすり始めた。

「もう話し始めてもいい?」

と女が訊いた。ぼくは目を瞑ったまま頷いた。

 

 …あなたはエレベーターの中にいる… けれど、上下するはずの箱の中ではなく… 直接ケーブルに逆さ吊りにされて… 拷問よ… あなたは押ボタンで呼ばれる。どこかの大使館かしら… 重要なのは、そこが治外法権であること… 誰かがボタンを押して… 今晩もあなたを呼ぶ… その廃墟で行われているのは… 賭けサッカー… N階とN+1階でエンドを分けて… あなたは敵であっても味方であってもいけない… 敵に呼ばれ… 味方に呼ばれ… 草サッカーでは誰もがやりたがらないゴールキーパー役… あなたは味方のゴールも守り… 敵のゴールも守る… 連日連夜、賭けサッカーの狂宴は終わらない… 治外法権で、しかも… お金が動いているから… あなたは敵も味方も守る… 誰もがやりたがらないゴールキーパー役… 天上の垂直方向に見える… 切り取られた正方形の空… 矩形の青を羽ばたきぬけていく鳥たち… 

 

「奇想天外な物語だね。いい小説に仕立てあげられそうだ」

「20世紀小説みたいな言い方をしないで。これはあなただけの物語。あなたのこれまでの人生の記憶を私が読み込んで、いま出版したものよ。作者も読者もあなたひとり」

「でもどこかで聞いたことがあるんだ、その話」

「ふとしたインスピレーション、ふとした想像の中で、きっとあなたがそのイメージを見たのよ。人は人生のどこかで自分の未来図を見せられるものなの。そのときはそれと気づかないだけで」

 女の左手がぼくの胸の胸骨のうえで止まった。手が押してきたので、手は胸に密着した。そこはぼくの心がよく痛みを感じる場所だった。女は何かを読み取ったらしかった。

「何度も思い返している記憶がある… 繰り返し夢に見ている… 女たち… 泣き顔」

「それには触れないで」

「触れないことはできない。でも、あなたがそう言うなら、物語には織り込まずに、抜き出すだけ、抜き出しておくわ」

 女の両手が、ぼくの身体から離れた。ぼくは外れているシャツのボタンを留めはじめた。

「タイトルは『ゴールキーパー上空には映画』でどう?」

「独創的で、とてもいいタイトルだと思う」

 ぼくは20世紀小説のことを思い出していた。「書くことと読むことの相互作用」という標語が唱えられたばかりの時代だった。今や小説は、自分が記憶している全ビッグデータを読み込んで、そこからオンデマンドで虚構を創り出すのが主流となっている。

 美女は座っていたベッドを離れて、リビングの中央にある広がりの真ん中へ歩いて行った。床に積もっていた白煙のリングがかき乱されて形を失った。ベッドから立ち上がって彼女を追ったぼくへ、彼女は振り返ってマッチ箱を差し出した。

「ここからは20世紀小説と同じ。よく燃えるのよ」

 ぼくは感傷的なまなざしで彼女をしばらく見つめた。緩慢な動作でマッチ箱を受け取った。

 驚いたことに、20世紀小説は読前読後の読者の心の変化を、まったく把握していなかった。すべてが職人芸の勘で書かれていたのだった。

 ところが、今や小説の効用は薬の効果のように厳密に治験され、測定されている。読者は希望に応じて、専門家監修のもとで、自分で自分にオンデマンド小説を処方できるのだった。

「どうして悲しい記憶を抜き取ってもらったのか、きみは訊かないんだね」

 女は職業的な微笑を浮かべた。

「だって、そういうお客さんを何百人も見てきたから。それに悲しみで心がいっぱいになっていると、新しい幸福が入ってきにくいものよ」

「ぼくが最後の客になったことを、どう感じている?」

ニュートラル。もともと、こういう仕事ができる能力が私には備わっていたんだし、最後に誰に当たるかも、私が複製されたときから、もともと決まっていたことよ、。それはあなたも同じ。マイ・ボスもそう言っていたわ」

「何だか、きみが消えてしまうのが、やるせない気がして」

「Who cares? 気にしないで。私は複製可能よ。感傷的になる必要はないわ。他に訊きたいことはある?」

 ぼくは、最後の仕事を終えようとしている彼女が、どうしてそんなにも笑顔でいられるのかを訝しんだ。けれど、すぐに笑顔の理由に思い当たった。他人から悲しみを抜き去ることが彼女の喜びであり、その悲しみを代わりに背負うことが彼女の苦しみだったのにちがいない。

 まだ複製元の作者ひとりの悲しみしか、ぼくは背負っていなかった。これから歩んでいく道が苦難に満ちているだろことを、ぼくは予感した。

「あなたは最高の25世紀小説だ。ありがとう、マイ・ボス」

 そう言って、ぼくは震える手で、火をつけたマッチを彼女の腰のあたりに火付けした。炎はたちまち彼女の全身を包み、めらめらと彼女の全身を焼いて、崩れやすい灰にしていった。

 炎が彼女の顔を焼こうとしたとき、その美しい顔が歪むのが見えた。それがいつか見た誰かの泣き顔に似ているような気がして、ぼくは思わず手を伸ばして、彼女の顔に触れようとした。顔は炎の中で灰になって崩れ落ちた。彼女の顔が燃え落ちて床にぶつかった瞬間、天使のリングのような、小さな白煙のリングが生まれた。白煙のリングはシャボン玉のように揺れながら、空中を昇っていった。やがて、天井にぶつかって消えた。そのとき、ぼくの胸に巣食っていた悲しみが、嘘のように消えて空白になったのを感じた。

 ぼくは、ゴールキーパー上空の切り取られた四角い青空を思い浮かべた。あの青空の広がりに包まれて、いま地球が上機嫌でいてくれているといいなと感じた。  

「というわけで、火傷はしてしまったけれど、大事なことはそんなことじゃない。大事なのは、このぼくの手できみの胸に触れば、きみの悲しみの記憶を消すことができるということだ。もうわかったね」

 そういうなり、旅行者の男の右手が私のブラウスの方へ伸びてきたので、私は男の頬を思いっきり平手打ちした。まだ痛い目に遭い足りないらしい。

 そこへ折よく母が現れた。母は旅行者の男に向かって驚きの声をあげた。

「あらあら、ご近所の渡部さんのところのタケシくんじゃない。日曜日にスーツ姿で、こんなところで何しているの?」

 旅行者の男に見えていたのは、地元に住む母の知り合いの息子だった。男は相変わらず気障な口ぶりで、フランスの小説の名前をもじった。

「失われた職を求めて」

「タケシくん、聞いたわよ。今朝、お母さん手作りの大好きなフレンチトーストを、フライパンからつまみ食いしようとして、火傷したんだって」

「ええ、まあ。ただし、正確には、ぼくが大好きなのはフレンチトーストというより、その上に乗っかっているホイップ・クリームの方です」

 私は男の方に真っ直ぐ向き直って、ひと息にこう言い切った。

「Who cares!」

 

 

 

 

 

短編小説「神様の留守中に受け取ったハート」

 今晩は土曜日だから、我が人生最高の土曜日の話をしよう。自分の過去に酔って、いささか筋を踏み外すかもしれないが、そこは昔語りの青春話。多少の誇張はご容赦願いたい。九割のロックの酒に一割のソーダ水という配合でどうだろう。カクテルの名前は「オートフィクション」。「半自伝」という意味だ。

 信じがたいことに、ぼくはかつて17歳だった。同級生は受験生の高校三年。けれど、受験勉強をせずに演劇やら文芸やらに打ち込んでいたぼくには、時間があり余っていた。授業中は、小説や戯曲を読んだり書いたりの内職三昧。あり余っているエネルギーは、ぼくをドラキュラめいた深夜の散歩へ向かわせた。別段、盛り場に出入りするわけでもなく、夜に浸されて変質した街の表情を楽しみながら、あちこちの街角で詩を書いたり本を読んだりしていただけだ。気取って、酔いどれ詩人のトム・ウェイツを聴いていた。

 そんな折、仲良くなった同級生の女の子の家に、夜中に忍び込んだことがあった。たぶん、あれも土曜の晩だっただろう。彼女の自宅には二階建ての離れが横にあって、そこが彼女と姉の子供部屋になっていた。

 彼女が合図をすると、姉が一階の窓を開けた。一階は姉の部屋、二階が彼女の部屋。けれど、そこで姉らしい妹思いの犠牲心が示された。姉は自分のベッドを使ってほしいとぼくに囁いたのだ。深夜の少年少女の密会劇は、いざとなったら逃げられる一階が舞台でなければならなかった。

 ぼくと彼女は布団や服がこすれる音にまで気を遣った。ところが、すぐに彼女が囁き声を立てた。枕もとの方向にあった階段を見上げた。「お姉ちゃんが降りてくる」と囁いたのだ。ぼくが見上げると、こちらを見下ろすように階段に浮かんでいる姿は、先ほどの眼鏡の姉ではなかった。

 階段の斜めの手すりの上に、ぼおっと明るんで、白い雲のような光の玉が浮かんでいた。人の姿はどこにもなかった。ぼくが彼女を背中に庇いながら、白い光の玉を見つめていると、光の玉はゆっくりと階上へ昇っていった。

 それが17歳のときの話。二年後の19歳のときにも、同じような体験をした。

 高校を卒業して東京の私立大学に進学したぼくは、首輪をほどかれた犬のように、東京の夜の街をうろつき回るようになった。ずぼらだが天才肌の高校の同級生と、ばったり新宿で鉢合わせ。そいつが「2F」と書かれた茶色のスリッパを履いていたのは、居酒屋で間違えて履き帰ったものらしかった。以来常用するとは、何と酒好きらしいお洒落感覚!

 酒よりも音楽が好きだったぼくはといえば、ロックやレゲエを大音響で鳴らすクラブに出入りするようになった。そこで生まれて初めて逆ナンパされて、深夜に酔っ払い合って肩を組みながら北新宿まで歩いて、女の自宅に転がり込んだ晩、暗闇のベッドの中で、女がそのベッド上で緊急に必要となるものを買ってきてほしいと頼んできた。

 服を着直して財布を持って女の家を出ると、ぼくは急に莫迦らしくなって、すべてが面倒くさくなって、自分の家へ帰りたくなった。

 しかし、深夜バスもタクシーも動いていない。夜の街が異様なくらい静まり返っているのを感じた。夜でもともっているはずの灯りという灯りが、すべて消えていたのだ。

 どうやら新宿の街全体が停電してしまったらしい。ぼくは歩みの速度を速めた。何かとんでもない異変が起きているのではないだろうか。不安に駆られて、新宿西口へと走っていった。

 ところが、駅のすぐ近くで、ぼくは名前を呼んで呼びとめられたのだ。そこにいたのは、そのとき交際していた彼女だった。ろくでなしだったぼくは、彼女をほったらかしにして、夜の街で遊びまわっていたのだ。聞けば、23時発予定の深夜バスが停電のせいで来ないので、バス乗り場のベンチでずっと待っているのだという。真っ暗で怖いから一緒にいてほしいと言われると、ぼくには断る理由がなかった。彼女のバスを見送ってから、歩いて自宅へ帰ろうと考え直した。

「どうして?」

 ぼくが隣に座ると、彼女は最初にそう訊いてきた。何と答えるべきだろうか。黙っていると、もう一度訊かれた。

「どうして一緒に帰ってくれないの?」

 彼女とは同郷だった。同じ深夜バスで帰ってもおかしくなかったはずだった。どこかで違う道を歩きはじめていたのだと思う。どう答えたらいいのか、ぼくにはわからなかった。

「どうして、すべてを滅茶苦茶に壊してしまうの?」

 彼女が何を言いたいのか、徐々にぼくにもわかってきた。15歳のとき、ぼくが20代までの生命だと宣告を受けたことを、彼女には誤魔化して説明していた。自分の人生の映画があと10分しかないと思い込んで自暴自棄になっているくせに、真実を話して彼女に逃げられるのは、耐えられなかったのだ。ぼくは胸が疼くのを感じた。軽口を叩いて逃げることにした。

「知っているよね? 神様はもうすぐ仕事で地球を留守にするのさ。1999年に世界は終わるんだよ。だから、1999年までは思いっきり羽目を外しておくことにしたんだ。いわば、20世紀の残り、世界が滅亡するか、オレが滅亡するかの二択だよ。でも、ひょっとしたら、この様子だと、世界はもう終わっちゃったのかもしれないよ」

 いつもはぼくの冗談に笑ってくれる彼女が、唇をきつく結んでいるのが、暗闇の中に見てとれた。夜の街はずっと真っ暗なままだった。暗闇の中を彼女の手探りの手が伸びてきて、ぼくの右手を両手で握った。

 彼女はそれ以上何も喋らなかった。握ってきた彼女の手に、手のひらから伸びて、手首を親指の下まで回り込むほど長大な生命線があるのを、ぼくは知っていた。なぜだか、いつも暑苦しいほど、常人より体温が高いことも知っていた。

 ところが、握られた手にその熱い体温を感じているうちに、知らなかった不思議なことが起こり始めた。ぼくの手を握った彼女の両手が、内側からぼおっと白んで、明るい光に満ち始めたのだ。光は彼女の手を透き通って、赤い血色を闇の中に浮かび上がらせた。

 ぼくは自分の手が温かいぬくもりを感じるだけでなく、溌剌とした明るさや伸びやかさが浸透してくるのを感じた。ほとんど信じられない思いで、ぼくは自分の右手に染み入ってくる白い光の玉を見つめた。右手から入ったあと、その光の玉はゆっくりと全身をめぐっていくようだった。ぼくのやさぐれた毛羽立った心の傷に、白い光は蜜のように沁み込んで、ぼくを幸福感をふちいっぱいまで湛えた花瓶のようにした。

 真っ暗な夜の街は、まだ静まり返ったままだった。ぼくはいつのまにか夜の街にひとりぼっちで立っていて… 次の瞬間に、知らない部屋で目覚めた。しばらく記憶を振り返って、そこがレゲエの鳴るクラブで意気投合した女の部屋だと見当がついた。意外にも女は看護師だったらしく、早くも出勤したようだった。「鍵を閉めて郵便受けに入れておいてほしい」という乱雑なメモ書きが残されていた。二人とも酔って寝てしまったのだ。

 そしてここで、冒頭で話した姉妹部屋への不法侵入も、街をふらつきまわっていたせいで疲労困憊していたぼくが、彼女に何もしないまま眠ってしまった話だったことを、告白しなければならない。以後、その同級生には無視されるようになったというオマケつきだ。

 エンロンの粉飾会計を描いた映画に、トム・ウエイツは「God's Away on Business」という曲を寄せている。カジノ資本主義での利益追求至上主義を皮肉って、しわがれ声で諷刺のきいた歌詞を響かせている。エンロン社の放漫経営は、カリフォルニアの大規模停電まで引き起こした。実際に、「神様は仕事で地球を留守」にしてしまったというわけだ。

 今でも、夜の森を散歩していて、光が失われて真っ暗になると、どこかのターンテーブルトム・ウェイツのレコードが回り出すような錯覚にとらわれてしまう。彼のしわがれ声が歌っているのは、ぼくの好きな「(Looking For) The Heart Of Saturday Night」。ガール・ハントに明け暮れる空しい日々を歌った孤独な歌だ。

 今日話した二つの土曜日でも、ガール・ハントは失敗に終わった。我が人生最高の土曜日の話が、結局ふたつとも、あっけない夢オチのワンナイトラブ未遂に終わったのは事実だ。事実だから仕方ない。

 あきれた顔をしないでほしい。

 あのころ以来、ぼくはあの白い光の玉の夢を何度も見るようになった。イラストに描いて、名前まで付けるほど親密な仲になった。本当だ。白い光の玉が夢オチだからつまらないのではなく、繰り返し夢で反復されることが、ぼくの人生上の事件になったのだ。

 ぼくは直感で、あの白い光の玉は、何らかの生命力のこもった霊的なエネルギーだと確信している。

 いずれにしろ、ぼくにとっての「The Heart Of Saturday Night」は、あの夢の中で手を握って伝えてもらった白い光の玉、そのぬくもり、その溌剌とした明るさや伸びやかさだ。ぼくにとっては、あれこそが街をうろつきまわって「探し求めていた土曜日のハート」なんだ。

 

 

 

 

 

ふわもっち ハートクッション ラズベリーピンク 2504-294

ふわもっち ハートクッション ラズベリーピンク 2504-294

 

短編小説「歪んだ真珠のつくりかた」

 部屋には沈黙が張りつめていた。私はこの沈黙の意味を考えていた。それは銃声を待っている沈黙かもしれなかった。

 バロックとは「歪んだ真珠」という意味だ。酒場に来た男が、得意げにそう私に語った。「きみはバロック的に美しい」とも。青山の本屋に行って、バロックの美術書をめくると、少年が凸面鏡に映っている絵が紹介されていた。その絵をじっくり眺めたが、私には少しも似ていなかった。

 酒場の男に心が揺れたのには理由がある。彼の言葉通り、私は絵に描いたような美人で、下絵が歪んでいたので、麻酔とメスで何度も書き直してもらった美人だった。

 18歳で夜に男たちの酒の相手をするようになって10年。夜の日本列島を見下ろしたとき、輝かしい砂金が凝集している点から点へと、都市を渡り歩いてきた。旅が終わらなかったのは、お金を貯めては整形してきた過去を隠すためだった。今では鏡に映った自分に見惚れてしまうこともある。鏡の中の私は、ちょうど手を伸ばせば届きそうな距離にいる。

 部屋には沈黙が張りつめていた。私はこの沈黙の意味を考えていた。それは銃声を待っている沈黙かもしれなかった。ちょうど手の届きそうな距離に美しい私がいて、私の顔にピストルの銃口を狙い定めていた。旅は今日で終わりなのかもしれない。

 というのは、目の前に立っている私は、鏡の中にいるわけではなかったからだ。つい先ほど、私が帰宅したら私がいた。そして銃をこちらに向けてきたのだ。

「驚いた顔も綺麗ね。私は、あなたの生きている今日から数えて、三日後からやってきた私よ」

「何のご用事でいらっしゃったの?」

 三日後の美女は、首をかしげて微笑した。小寝室の方を見て、私に視線を戻した。

「私たちのチワワを殺してきたの」

 三日後の美女は唇を歪めてそう言った。「バロック的に美しい」と男に褒められたのを、私は思い出した。そして次の言葉を待った。

「驚かないの?」

「あまり驚かないわ。そうしたくなったことが、私にも何度かあったから」

 チワワと呼んでいるのは、身長が155cmしかない私のボーイフレンドだった。二人で街を歩くと、見知らぬ人々に指を差して笑われたものだ。身長が170cmの私とは、可笑しいくらいアンバランスに見えるらしい。「おまえのせいでまた笑われたわよ」と私はチワワをなじって、いくつも命令を押し付けた。チワワは何度もぺこぺこ謝って、私のために料理や洗濯や掃除のすべてを引き受けた。

「どうしてこんなに冷たく当たる私と一緒にいるの?」

 そう訊くと、チワワは私を見上げて「きみはとても美しいから、ずっとそばにいたい」と優しい顔で言った。その顔が気に入らなくて、私はチワワの頬を平手打ちした。

 誰もが私を口説こうとしたが、誰を選んでも、男はこう言って去っていった。「きみはとても美しいけれど、ずっとそばにいたい女性ではない」。作られた美貌はすぐに飽きられ、おまけに私の中身は空っぽだった。その淋しい男遍歴にあてつけて言ったのかと、私はチワワを問い詰めた。チワワはぺこぺこ謝った。

「そうだった。あなたは三日前の私だったわね。明日には、あなたがどうしてもチワワを殺したくなる事件が起きるわ。チワワがあのシーズーと二人でデートするのよ」

 三日後の美女の言う通り、私の心に熱い怒りがやってきた。シーズーとはチワワがSNSで知り合った小柄な女。職業は知らないが、写真を見せてもらったことがあった。目が小さいので、私はシーズーと呼んでいた。「ぼくには一生きみしかいない」。そう口癖のように囁いておいて、あんな小型犬のような女と浮気をしてくれるのか。周囲に知られたら、どれほど私が恥ずかしいか考えたことがあるのだろうか。ただでさえ…

 しかし、怒りは急に萎んだ。私の代わりに、三日後の美女がすべてを始末してくれたからだった。私は遅すぎるのを承知で、静かにそろりそろりと両腕をあげて、武器を持っていないことを彼女に示した。

「それは喜びを表すポーズ?」と三日後の美女が訊いてきた。

 私はイエスともノーとも取れるように、曖昧に笑った。よく酒場の男たちに見せている媚態だ。それを見ると、いきなり三日後の美女は天井へ向けて銃を放った。私は両手を差し上げたまま、跳びあがった。

「チワワを殺したことをとても後悔しているの、私は。殺した後にチワワの日記を見つけたのよ」

 そう言うと、三日後の美女は懐から小さなノートを取り出して、私に渡した。

 日記には愛と喜びにあふれた私への賛辞が書かれていた。私が言った小さな「ありがとう」や、チワワが選んだレストランで楽しそうにしていること、チワワのマッサージに気持ち良さそうに目を閉じている様子などが、嬉し気な筆致で書かれていた。毎日の記述は、「明日はきみの心の中でもっと背が高くなるよ」という決まり文句で締め括られていた。

 最新の日記は、私に似合いそうな有名なネイリストをやっと探し当てたというもの。チワワは私がシーズーと呼んでいた小柄なネイリストと、どんなネイルをプレゼントするかを打ち合わせていたらしかった。同棲していたのに、私は少しも気づいていなかった。チワワがこんなに背の高い男だったことに。

「私が殺した後にね」と三日後の美女が話し始めた。「悪魔が現れたのよ」

「悪魔?」

「寝室にぼうっと煙のように現れて、このチワワの日記を差し出したわ。そして、私が半狂乱になって泣きじゃくっているのを満足そうに眺めると、魂を売ってくれるなら三つの願いを叶えようと持ち掛けてきたの」

「あなた、つまり三日後の私は、魂を売ってここへ来たというわけね」

 三日後の美女は、悲しみに取りつかれたように急に震えて、ピストルを握った手を下ろした。

「悪魔に魂を売った代わりに、私は第一のお願いとして、チワワを殺した三日前に戻してほしいとお願いした。だから、今ここにいる。そして、第二のお願いとして、あなたがチワワを殺すのをやめさせてほしいとお願いした」

「止めに来てくれて本当に嬉しい。あんな愛情あふれる日記を読んでチワワを殺したら、一生苦しむことになるわ。助けてくれてありがとう」

 私がほっと胸を撫で下ろして、嬉しそうにそう言うと、三日後の美女はピストルを足元に投げ捨てた。わっという泣き声をあげて、両手で顔を覆った。

 私は何かがおかしいことに気が付いた。タイムトラベルを使って、三日後の美女が現在の私に殺人をやめさせたら、三日後の美女も三日前に同じ説得を受けて殺人をやめさえられていた取りやめたことになるのではないだろうか。頭がこんがらがってきた。

「違うのよ。エヴェレットの多世界解釈では、無数の並行宇宙が並んでいることになっている。いわば何億本もある繊維の糸が束にまとめられている感じ。タイムトラベルは同じ一本のタイムラインの過去には戻れないらしいの。隣のタイムラインの過去へしか戻れない。私はよくわかってゐなかったの。あなたはこの意味が分かる?」

 三日後の美女が、どうしてこれほど動転しているのか、私にはわからなかった。犯すべきでなかった殺人をやめられたのなら、幸福な結末しか見えないはずなのに。私は黙っていた。

「隣り合っている並行宇宙の周波数はほとんど同じ。つまり、似たような現象が起こるのよ。私がこのタイムラインに到着したきには、もうチワワは誰かに殺されていたわ」

「嘘! 誰にあんな優しいチワワを殺す動機があるっていうの?」

「考えられるとしたら、この宇宙にひとりだけ。悪魔よ」

 そういうなり、三日後の美女は弾かれたように床に飛んで、ピストルを拾い上げた。そして、出逢ったときのように、銃口を私に狙い定めた。

「待って。どうしたの? 私は何もしていないわ。何もしていない私を殺すの?」

 三日後の美女は、能面のような無表情のまま沈黙していた。部屋には沈黙が張りつめていた。私はこの沈黙の意味を考えていた。それは銃声を待っている沈黙かもしれなかった。

 私は最後に訊いてみたい問いがあるのに気づいた。

「あなたが悪魔にした三つ目のお願いは何だったの?」

 三日後の美女は、悲しみのあまり気が触れたかのように、急に悪人じみた笑いを響かせた。

「三つ目の願いは、たったいま頼まれたばかりだ」

「たったいま頼まれた?」

「さっきからきみは誰と話していると思っているんだい?」

「三日後の未来から来た私」

「確かに身体はそうだが、いまこの身体を動かしている魂はワシのものだ」

「ワシとは?」

「悪魔だよ。悪魔に魂を売るということは、いつでも悪魔の好きなときに悪魔に取りつかれるということだ」

「やめて、撃たないで!」

そう叫んだ自分の声が、うわずっているのに気づいた。逃げ出そうとしたが、金縛りにあったかのように身動きできない。

「いまワシに乗っ取られて声は出せんが、三日後のきみは、こんな三つ目のお願いをワシに懇願しておる」

 そこまで言うと、悪魔は咳払いをして声帯を整えた。次に発されたのは、聞き慣れた私の声だった。

「あなたを殺さないようお願いしたわ。悪魔から逃げ出して、あなたの世界から愛を見つけて、あなたの人生を生きて」

 私は一瞬だけそのままの姿勢で、その言葉の意味を考えた。あらゆる男が私を通り過ぎていく中、ただひとり私のそばにずっといてくれた働き者のチワワ。自分の心の中で、チワワとの思い出が、急に鉛のような重さで膨らんでくるのを感じた。この鉛のような痛みを自分は引き受けて生きていくのだろう。その痛みを後悔と愛で大事にくるんで私は生きていくのだろうと思った。そうできたときなら、私は心身ともにバロック的に美しくなれるかもしれない。たとえそれが歪んでいたとしても、美しい真珠を生み出せるのは、刺し貫かれた痛みだけなのだから。

 そこまでで私は考えるのをやめた。急いで駆け出して、玄関のドアに身体をぶつけて開けると、そのまま屋外の光に満ちた世界へと飛び出していった。

 

 

 

あかちゃんシリーズ チワワ

あかちゃんシリーズ チワワ

 

 

出産コメディー映画を性モザイク化せよ

キャッチボールで、相手の動態視力がどれくらいか見るために、ちょっと変化球を試し投げしてみることがある。最近投げたのは、「三島由紀夫と同じく自分にも嗜血癖があって…」という一球。このエッセイの冒頭に、その痕跡が残されている。

すると、さっそく興信所まで使って払拭できたはずのゲイ疑惑が再燃したようだ。他人のセクシュアリティーの実態を知らない人が、なぜだか知った風な口を利きたがるのが、セクシュアリテイーの領域だ。

 その昔、セクシュアリティーの専門書を読み漁った時期があった。読書の行きがかりで、第三波フェミニズムを勉強したりすると、表紙に掲載してもらえるのだから、世界は想像もつかない面白さだ。光栄かつ華麗なる文芸ジャーナリズム・デビューだぜ!

パーク・ライフ (文春文庫)

パーク・ライフ (文春文庫)

 

 まあ、もちろん、文壇の「マッチョ代表」石原慎太郎の若き日にも、嗜血癖らしきものがあるので、単純すぎる白黒思考は、セクシュアリテイーの領域には適用できない。

知っているだろうか。ひとことでいうと、私たちの脳は「性モザイク脳」なのだ。

 あれあれ。ネットで検索をかけても、有力な情報には辿り着けない。最先端のアカデミシャンの活躍をウォッチするには、図書館の棚の間を走ったほうが良さそうだ。嗚呼、狩猟本能が再覚醒したような気分!  ワン!

奪われし未来 増補改訂版

奪われし未来 増補改訂版

  • 作者: シーアコルボーン,ジョン・ピーターソンマイヤーズ,ダイアンダマノスキ,Theo Colborn,John Peterson Myers,Dianne Dumanoski,長尾力,堀千恵子
  • 出版社/メーカー: 翔泳社
  • 発売日: 2001/02/01
  • メディア: 単行本
  • 購入: 2人 クリック: 21回
  • この商品を含むブログ (11件) を見る
 

環境ホルモンの危険性を大々的に警告した上記の本でも、アメリカでの伝説的な薬害事件(DES:エストロゲン類似化学物質)の人体への悪影響について述べられている。

 そこで強調されている生殖関連の機能不全だけでなく、DESは性的指向をも変えてしまった。胎児期に薬剤の影響を受けた女性がレズビアンとなる確率が、約8倍にまで高まったのである。つまり、性的指向は受精時に遺伝子情報として書き込まれているのではなく、環境的要因によって左右されることがわかる。

 さらに注目すべきなのは、ヘテロセクシュアルの男性とホモセクシャルの男性について、脳の各部分を比較したところ、ホモセクシュアルの男性は女性化している部分と、強男性化している部分が混在していることが分かっている。

私たちの脳が「性モザイク脳」である事情を、わかりやすく説明してくれているのがこの新書。 

男と女はなぜ惹きあうのか―「フェロモン」学入門 (中公新書ラクレ)

男と女はなぜ惹きあうのか―「フェロモン」学入門 (中公新書ラクレ)

 

 こうして見てくると、脳は場所によって性ホルモンの受容体の有無、その種類、アロマターゼの活性の高低などにばらつきがあり、その結果、各所で異なるホルモン感受性を示すことがわかる。そのため、部位ごとに男性化、女性化の程度が違っても不思議ではないのだ。

(…)

  男性を好きになるか、女性を好きになるかという性指向は、単にフェロモン情報やそれに類する “感覚系” の性質で決まるのではなく、脳全体に広がる「女性(メス)」的な神経回路、「男性(オス)」的な神経回路のモザイクパターンに依存するのだということも明らかだろう。

 このあたりの「性モザイク脳」の事情を、自分の言葉で例え直すとこうなる。

奇数(=男性)

偶数(=女性)

小数点以下あり(=LGBT) 

 上のようなごくシンプルな認識が、性指向の一般的なイメージだと思う。ところが、実際は計算式の右辺にある数値だけでなく、多くの未知数を含む複雑な左辺を伴っている。

a×b×c×d×…=奇数(=男性)

a×b×c×d×…=偶数(=女性)

a×b×c×d×…=小数点以下あり(=LGBT) 

多項式の一角が変わると、計算結果も変わってしまう。計算結果を決めるのは遺伝子情報だけではない。特に胎児期の環境的要因も大きく影響する。同じ人間の中でも、20歳、40歳、60歳ではホルモンバランスが変わるので、セクシュアリティは変わる。例えれば、同じ偶数でも12から14へ変わってしまう。

私たちがしばしば絶対視しがちなセクシュアリティーは、脆弱で移ろいやすいものだというのが、最新の脳科学からの答えなのだ。

だから、現代思想のさまざまな偉人の中で、「n個の性」を提唱していたドゥルーズは、傑出して筋が良かったことになる。そして、ドゥルージアンを僭称していた自分にも、「流石はオレ」との自讃を贈って、プライベートな空間以外でも、自分で自分を愛せるところを示しておこう!

さて、読む人によっては固い話はここまで。

上の記事で語ったディズニーランドにまつわる都市伝説を、憶えているだろうか。

(…)男の子だと思っていたその子は、彼女の娘だった。よく見ると娘は、服を着替えさせられていたばかりか、短く切られた髪をスプレーで染められ、カラーコンタクトを入れられ、別人のように見せかけられていた。ぐったりしていたのは、何か薬品をかがされたためらしかった。
 後に分かったところでは、その集団は臓器密売組織のメンバーだったという。

この都市伝説に自分が惹かれたのは、「私たちはジェンダーに呪われている」とまで言われるほど、最強の固定観念であるジェンダーを、ひらりと翻す卓抜なプロットを考えたかったからだ。最新の脳科学が教えるように、あるいは、ドゥルーズが提唱しているように、当時から自分は「性は可変的な様態である」という前提で小説を考えていた。

まだ「世界はどうしようもなく坊や」だから、難しいかもしれない。でもいつか、坊やが成長してきたら、LGBTが大活躍するとんでもないコメディー映画を作ろうと思いついていのを、今朝思い出した。

きっかけは見た目が男性の妊婦姿を、ニュースで何度か見かけたことだったと思う。

自分が知らないだけかもしれない。もっと大々的にやってみてはどうだろうか、ゲイ・カップルとレズ・カップルの出産向け合コン! 

スリーメン & ベビー [DVD]

スリーメン & ベビー [DVD]

 

男性三人の子育てが、コメディー映画のとして人気を取るのなら、ゲイ・カップルとレズ・カップルの合コンから出産までは、脚本家垂涎の面白ポイント満載になるはずだ。

今日、車を運転しながら、ざっとプロットを考えてみた。誰が考えても、これらのポイントは網羅されることになるだろう。ここにメモしておきたい。

  1. ゲイ・カップル=男A+男B レズ・カップル=女A+女B のうち、A>Bのような社会的な力関係があるとする(仕事や容姿や人柄)。
  2. 男Aが男Bを、女Aが女Bを、「LGBT出産合コン」へと誘って、4人がフィーリング・カップルとなる。
  3. 「受精卵製造担当」は男Aと女A。
  4. 受精行為について、それを成功させるために、男A、男B、女A、女Bがそれぞれ自分の性癖を満足させるべく、「○○をしてほしい」「××はだめ」で、喧々諤々の大論争になる。
  5. 受精行為は成功して、女Aは妊娠して、出産する。男の子が生まれる。
  6. 出産の生命の素晴らしさを目の当たりにして、それまで受動的だった男Bと女Bが、思わず恋に落ちてしまう。(一種の結婚式効果)。 
  7. 男A、男B、女A、女Bによる四つどもえの恐ろしい修羅場になっていく。修羅場度合いはこれくらい。 
  8. 結局、数年間は我慢したものの、男Bと女Bは駆け落ちして、共同生活の場からいなくなる。
  9. 男Aと女Aの他人夫婦の唯一の心の慰めが、男の子がすくすく育ってきたこと。男の子はヘテロセクシュアルで、小学校にあがると、近所の女の子を好きになる。
  10. その女の子の家庭が転勤で引っ越すので、男の子が手紙を渡したいと男Aと女Aに話す。自分で私に行きなさいと両親は言う。
  11. 実は、男の子は幼少期に男Bと女Bのカップルの方になついていた。こっそり、直通携帯電話で連絡を取る。
  12. ここからは、6歳の男の子による「はじめてのおつかい」。もともと扮装が得意なLGBTの血が、男Aと女Aをさまざまな人物に変装させる。その途中で、同じく変装して見守りに来た男Bと女Bと、思いがけない再会を果たす。
  13. 男の子は何とか無事に女の子に駅でお別れの手紙を渡す。
  14. 少年少女の純愛ぶりに、LGBT4人は「こういうヘテロセクシュアルの物語を感情移入して体験できてよかった」と涙を流す。
  15. 女の子から男の子へ手紙の返事が来る。返事には「素敵なパパやママが四人もいるから、羨ましかった」と書かれている。
  16. 男Bと女Bの自然妊娠が判明して、祝宴が開かれる。  

ざっと大まかな流れはこんな感じになるはず。脚本家の腕の見せ所は、4. になるだろうか。愛のある自然な受精行為ではないので、うまくいかせるために、4人がいろいろな条件を出し合うところを、思いっきり盛り上げたい。

男A曰く「頭にミニカーを乗せていないと性交できない」とか、莫迦莫迦しい条件ほど面白くなるはず。女Aは子供欲しさにしぶしぶ承諾するが、女Bが「消防車のミニカーは絶対にダメ」とか難癖をつけても面白い。

8. もやり方次第では、かなり盛り上げられる。例えば、男Bを中心にして、男Bの好きなタイプの女の歩き方や話し方を、なぜか男Aと女Aと女Bで競わせる展開にしてはどうだろう。

男Bが出す素っ頓狂なお題(「ゴージャスでマニッシュな女」「新婚旅行から自宅に帰ってきて最初の朝をむかえたときのイイ女」)に対して、男Aと女Aと女Bが必死に知恵を絞って競い合い、男Bは最終的に女Bを選ぶと思いきや、女Aの挙措にすっかり感心してグランプリに選んでしまい、女Bが逆上する展開を観てみたい。

すこし脚本好きらしいことを書いておくと、こういうプロットが数分ですらすら出てくるのは、独創的な才能があるからではなく、二元論を対称的に動かす発想が頭に入っているからだと思う。

1. では「ゲイ 対 レズ」、2.では「優性 対 劣性」の二項対立がある。

1. は 6. のヘテロ・カップル誕生で相殺され、2. は 13. の子供による劣性カップルへの愛着で相殺される。

同じく 16. での 「LGBTヘテロセクシュアル」の憧憬は、17. で「ヘテロセクシュアルLGBT」の憧憬で相殺される。

こういう構造化された対称性の動きを私に教えてくれたのは、レヴィ・ストロース文化人類学やプロップなどの物語論だった。

先に取りかかりたいのは恋愛小説の方だ。そこでうまくヘテロセクシュアルの恋愛の諸相に切り込めたら、次はLGBT文化とコメディーと構造主義を勉強して、この無類に面白くなりそうな「LGBT出産合コン映画」に取り組んでみたい。そう夢想するのが楽しい。

 

 

 

 

(昔カーステレオでよく鳴らしていた曲)