「反戦」入りのボトルシップ
どこかで見かけた「公知の事実」という言い回しの発祥は、神戸の甲子園周辺にあったのかもしれない。
17歳の自分が、どこか大江健三郎の『セヴンティーン』の主人公に似た境遇にあったことは、この記事に書いた。
その続編の「政治少年死す」は、右翼に恫喝をかけられて出版中止に。著作権の処理がどうなっているのかわからないが、鹿砦社の或る出版物に採録されていたので、どうしても読みたくて購入した。フーコーの生政治ならぬ「性ー政治」に没入していった中期の大江健三郎の凄まじさを顕揚する文芸批評が、いまだ生まれていないのは残念だとしか言いようがない。
加藤典洋が「大江健三郎の『水死』は大傑作なのに文芸批評での言及が少ない」という意味のことを書いていて、まさにその通りだと感じた。ただそこで数え上げられている『水死』評リストに、古谷利裕の名前がないのは意外だった。当然カウントされるべき精緻な読みだと思うが、いかがだろうか。初出は「早稲田文学」だったと思う。
話を戻すと、鹿砦社のキワモノ的キナ臭さが漂うその本には、阪神タイガース絡みの「自殺偽装殺人事件」も掲載されており、それが裁判沙汰となり、鹿砦社は一時存続も危ぶまれたが、主力月刊誌の「紙の爆弾」を最終的な生命線にして、何とか継続。言論の自由を支持している身としては、現在の同社が、反原発からアイドルまで、多様な出版物を発行するまでに回復しているのを好ましく感じる。
キナ臭さがきわまって硝煙の臭いにまで高まった戦後最高の「紙の爆弾」とは、何になるのだろう。そんなことを今晩考えていた。個人的には最高の知性の丁々発止が見られる『闘争のエチカ』が、思い出の戦闘的書物だ。鞄に入れて持ち歩き、大学の授業を聞き流しながら、何度も読み返したものだ。
闘争のエチカ (河出文庫―BUNGEI Collection)
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個人を離れて、この共同体最大の「紙の爆弾」とは何だったのかを考えると、それは総力戦研究所が出した第一期~第九期の情況レポートになるだろう。
この記事で三島由紀夫の日本回帰小説『絹と明察』に、「聖戦哲学研究所」が登場することを指摘し、その「聖戦哲学」が、名こそ挙がらぬものの保田與重郎の思想を表していることを突き止めた。
それは看過すべからざる人文思想上の戦争だったとはいえ、戦争とは武力にとどまらない国力あげての「総力戦」であるとのパラダイムが浸透しつつあった戦前、視線を注がなければならないのは実在した「総力戦研究所」の方だ。
フィリピンのマニラ捕虜収容所に、大岡昇平、中内功、山本七平(と私の祖父)がいたことは、この記事に書いた。
そのうちの山本七平は、戦後になると『空気の研究』に代表される日本特殊論や、敗戦国が学ぶべき「失敗学」などの著作を書き残した。失敗学の大家である一方、経営理論として「イノベーション」や「ナレッジマネジメント」などの経営鍵概念を確立した野中郁次郎の書物にも、「総力戦研究所」が登場する。
総力戦研究所の初代所長となった飯村穣は、戦前からロシア語やフランス語に長けた大使館付きの軍人だった。欧米で台頭しつつある「総力戦」のパラダイムに逸早く追随する開明性があり、同じく欧米に精通した桜沢如一(マクロビオティックの創始者)の支持者でもあった。
昭和16年の春、飯村穣は反戦論者の顔も持つ桜沢如一に頼んで、陸軍系団体主催の集会で「日米の国力の差は歴然としているので回線は回避すべし」との講演を実現している。
そして、彼が初代所長を務めた総力戦研究所の最終決算が、先ほど言及した第一期~第九期の情況レポートだ。各期の「情況」とは、日米開戦のシミュレーションの各局面を指している。
第九期の日本のレポートは、ほとんど「紙の爆弾」的な破壊力で、普通に考えればどうやったってこう負けるという敗戦状況を描き出している。それが実際の敗戦に似ていないと感じる人は皆無だろう。敗けるべくして私たちは敗けたのだ。
中国大陸での戦線がドロ沼化しているなかで、米英と戦端を開き、そのうえソ連参戦が迫っている。
「ソ連参戦」を座して待つか、もはや石油備蓄も底をついた。佐々木は両手をあげた。思わずギブ・アップのポーズをとり、教官にたしなめられた。
30代の若手官僚を中心に組閣された総力戦研究所の模擬内閣は、開戦4か月前の昭和16年夏、日米戦日本必敗の結論を出していた。それなのに、どうして東條内閣が開戦に踏み切ったのかは、多くの書物が取り組んできた難問だ。
ここでは一つだけ、そのキーポイントを確認するにとどめよう。それは商用船が沈没させられる度合いの見積もりの差にあった。
総力戦研究所:年間120万トン消耗
政府推定:年間80~100万トン消耗
昭和17年の実記録:年間89万トン消耗
昭和18年の実記録:年間167万トン消耗
昭和19年の実記録:年間369万トン消耗(全滅)
資源戦争を勝ち抜くために、南方へ進出した日本は、首尾よく占領したスマトラ島の油田の石油を、兵站上のシーレーン確保の失敗によって、ほとんど本土へ送ることができなかった。タンカーも商船も失った日本は、追いつめられて南方の島の浜辺から、ゴムの袋に石油をつめて海へ流したのだという。
太平洋戦争の話を調べていると、「B29を竹槍で突き落とす」かのような、ほとんど信じられない荒唐無稽な話が次々に出てくる。
お盆休みの今日は、遠戚のお婆さまに、戦時中の話を伺っていた。女学生だったのに学徒動員されて、大阪の陸軍工廠へ送られ、彼女はそこでやはり「紙の爆弾」を作っていたのだという。
お婆さまが作っていたのは「風船爆弾」。和紙を貼り合わせた巨大な気球で、最後の仕上げ工程では、30人くらいが「北半球」と「南半球」を一緒に持って、声を掛け合ってくっつけたのだそうだ。接着剤は蒟蒻で作った糊だった。
いろいろと悲惨な思い出があるかと思いきや、聞き出せたのは、「陸軍の施設だったから、黍(きび)交じりではあったものの、白米が食べられて嬉しかった」というような話。それだけ食糧難と飢餓の恐怖が強かったということだろうか。
大阪へ動員される前にも苦労があったそうだ。彼女の父が戦前に小売ビジネスで成功して買い上げた老朽化した小学校を、自宅には広すぎたので戦争で家を失った人に住まわせてあげていたところ、建物の規模や出入り人数のせいで工場だと誤解されて、そこだけが狙い撃ちで空襲されて、塀しか残らなかったのだという。
そんな話を実際に聞くことのできる機会は、もうこれが最後かもしれない。
宴席が開けて、温泉に浸かっているあいだ、季語のないこんな句が思い浮かんだ。
風船爆弾つくりし祖母が飼うインコ
あてどなく飛んでいく風船に青春をかけた戦時中。そして、戦後の平和の中で籠にインコを飼えるほどの生活は送れるようになったが、籠に閉じ込められて同じ言葉を鸚鵡返しに繰り返すインコが、自分の少女時代のように見える。そんな叙情が読み取れるとしたらお慰み。
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船といえば、子供の頃、ボトルシップにどうやって帆船の模型を入れたのか、不思議でならなかった。帆船がすべっていくだろう穏やかな海を思い浮かべたい。先祖の霊が帰ってくるというお盆休みに書いた今晩の記事を、かつて南方の島々から祖国へ流した石油入りのゴム袋のように、そっと海に流そうと思う。
「It's my pleasure.」の直訳は「それが私の喜びです」となる。誰かに届くさまを思い浮かべると喜びを感じる。誰かに届くといい。このささやかな「反戦」入りのボトルシップが。
1.
死んだ男の残したものは
ひとりの妻とひとりの子ども
他には何も残さなかった
墓石ひとつ残さなかった2.
死んだ女の残したものは
しおれた花とひとりの子ども
他には何も残さなかった
着もの一枚残さなかった3.
死んだ子どもの残したものは
ねじれた脚と乾いた涙
他には何も残さなかった
思い出ひとつ残さなかった4.
死んだ兵士の残したものは
こわれた銃とゆがんだ地球
他には何も残せなかった
平和ひとつ残せなかった5.
死んだかれらの残したものは
生きてるわたし生きてるあなた
他には誰も残っていない
他には誰も残っていない6.
死んだ歴史の残したものは
輝く今日とまた来るあした
他には何も残っていない
他には何も残っていない