channel は永遠にそのまま

昼食をいただいてから、海へドライブに行った。浜辺にしばらく腰かけて、静かな凪の海の潮騒を自分に聞かせる。疲れ切っている心身を空っぽにするには、うってつけの対症療法。 

女たち

女たち

 

ソレルスのどれかの小説にも、音楽を聴きながら、流れている音楽が自分の存在を聞いているのがわかる、というように書かれた場面がある。とりわけ芸術を生み出す場面で、クリエイティビティが作者と作品の双方向に流れることを知覚できるようになったら、本物の芸術家に一歩近づいたことになるとは言えるだろう。 

水と夢 〈新装版〉: 物質的想像力試論 (叢書・ウニベルシタス)

水と夢 〈新装版〉: 物質的想像力試論 (叢書・ウニベルシタス)

 

 疲労困憊の心身に溜まっていた何物かを海に捨てて、身体という容器に潮騒だけを汲み替えて、帰宅した。すると、睡眠負債を返した数時間で、海にいる夢を見た。まだこの酒持ち運び用の皮袋も捨てたもんじゃないかもしれない。これで、今晩も書けるかもしれない。 

「有機的連関」という概念が好きで、自分の意図が奏功していれば、ここに書いているブログの文章だって、概念があちこちへ飛び跳ねて、有機的な結びつきを果たしているのがわかると思う。

一方で、「田舎出身の都会羨望系シティー・ボーイ」なんだから、今さらオーガニックを謳いあげても不似合いだぜ、と助言をもらうこともある。そういう彼が日常的に撮っている写真には、人がひとりも映っていない。ありふれた住宅街のひとコマを切り取っているだけなのに、なぜか面白く感じられる。どんな色の形状のどんな事物を、どんな構図のもとにどんな角度で配置するのかに、(当然のこと風景に何も手を加えず、写真はフルフラットな平面なのに)、卓越した「造形的感覚」が生きているのがわかるのである。所与の風景ですら、その諸要素を生かせば、芸術作品に変えられるのである。

それとつながっているかどうかはわからないが、10年ほど暮らした東京は大好きな街。都会を歩いていると、瀟洒なブティックや家具店や画廊が並ぶような通りを散歩しているだけで、「欲望」の気配を感じて、生き生きとしてしまう。別段いかがわしい夜の繁華街でなくとも、寄せ植えの花の鉢ひとつにだって欲望を感じることはできる。道路の伸び具合や、個々の建築の並び、飾り窓などから感じられる、その街独特の欲望に感応しながら散歩するのが好きだった。

 中でも偏愛を寄せてしまうのは、坂の数々。地元の地方都市が二大河川で作られた煽状地系の平野なので、東京の坂の多さには、ずいぶんと魅惑されて散歩を誘われたものだ。

検索すると、同じように坂めぐりをしている人がいた。おお、懐かしい! これらの坂のうち、豊坂と富士見坂は坂の途中に住んでいたことがある。のぞき坂を降り切った麓にも住んでいたことがある。

のぞき坂は東京一の斜度を誇る急坂で、雪の日には必ず通行止めになる。下のブログをあらためて見て、その「進路消失」の不安感を体感してほしい。

これだけ坂道についてのブログ記事が多いのだから、多くの人が坂道に魅せられているのは確かだ。では、なぜ?

人がなぜ坂道に魅せられるのかは、自分の中では、都市計画を読める建築家がなぜ優れているのかにつながる。川や池は排除できても、坂は排除しにくい。坂に道や路傍の街並みを形作っていくには、坂を知り、坂と闘わねばならない。その地にア・プリオリに存在する自然を読めない建築家には、まともな建築は建てられないと断言しても良さそうだ。

 この記事で紹介した丹下健三も、東京オリンピックシンガポール湾岸エリアの都市計画に携わったし、

安藤忠雄が水都大阪の新構想に加わっていることも、この記事で紹介した。

怖がらずに話を広げると、この記事で紹介した大岡昇平の『武蔵野夫人』も、神西清の解説を要約すると、「自然と人為の相克」が三つ目の中心主題だ。

スタンダーリアンだった大岡昇平が試みたラディゲ風の心理小説であることは間違いないものの、『武蔵野夫人』には3つの独自の特徴がある。一つ目は、乱倫とは真逆の「死に至る貞淑」が、風俗小説的な情趣を極端に抑制した筆致で描かれていること。二つ目は、復員兵の精神衛生の回復の物語でもあること。三つ目は、自殺者を生み出すような家族や人間関係の崩壊に合わせて、人間の領土を武蔵野の自然が圧倒してゆくさまが描かれていること。

そして、下の記事で言及した宮崎駿が、実は「里山の人」ではないことにも、さらに詳しい説明を付け加えておくべきだろう。

ジブリという芸術制作集団の内部に、「里山」をめぐる意見対立があることはあまり知られていない。ざっと検索したところでは、この論文がその主題を論じている。

http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/8044/1/67-1-zinbun-05.pdf

 人間の業の中には明らかに亀裂があるんです。自然と人間の関わりを考えると、人間も自然の一部でありながら、親なる自然との間に決定的な亀裂が入っている。
 人間に役立つ自然をつくるから、それが自然保護なんじゃないです。
 自然っていうものは、残忍なものです。文化とか文明とかを否定するもんです。人間が自分たちのためによかれと思っていろんな努力をするとしても、それと真っ向から対立する部分も自然の問題っていうのははらんでいます。また、個別に社会や民族の間でも亀裂を生んできましょう。

上記宮崎駿の発言は、どちらかと言えば控えめなもので、別の場所では、人々が生き生きと暮らす農村共同体を描いた「里山礼賛型」の高畑勲の映画を批判して、「共産党の回し者なのか」との痛罵を放っていた。その当否は措くとしても、上記の発言のように、自然と人間の間にある「亀裂」を念頭に置かないと、『もののけ姫』がまったくわからなくなってしまうのは明らかだろう。

この「亀裂」を中心に置いて、宮崎映画の主題論的分析を試みても面白い。宮崎映画には、少なくとも二つの自然描写上の主題論的反復があるはず。

一つは、人のあまり住まない高原、あるいは空中島のような、高度の高い人為的空間で、流れる雲が草原に下半分を切られてすべり流れていく自然描写。もう一つは、どこにでもある池のように見えて、その池が透き通っていく水面下への広がりの中に、都市建築が下へ下へ伸びているのが見える描写。

 どちらもが、自然と人工の間にあるせめぎあい(≒亀裂)の表現であることがわかるだろうか。『もののけ姫』で最高潮に達したこの「亀裂」の主題発展力は、他の主題を大きく凌駕した強力なものに見えるので、これを読んだ誰かが(クレジットなしでかまわないので)、ジャン⁼ピエール・リシャールばりの主題論的批評を展開したら面白いのではないだろうか。宮崎駿は優れた映画評論のフォルムでも記憶されるべき存在だ。彼の映画なら、紙面では再現しにくい各コマの記憶が国民に共有されているので、他のどの映画作家よりも論じやすいはず。誰か手を挙げてくれたら嬉しい。

さて、もう少し丁寧に見ると、宮崎駿は「人間の業の中に亀裂が入っている」と主張している。実は、日本語の「自然」にも英語の nature にも、二重性がある。「自然と人工」という対概念における「自然」以外に、日本語なら「『自然』にそうなる、というときの『自然(じねん)』」、英語なら「本質、本性」。

宮崎駿の分類法と、普遍的な語源論に従って、そこに亀裂を入れて腑分けし、わかりやすく二次的な意味の「自然」を「当然」とリネームすることにしたい。

すると、この世界の基底的なスペクトラムが「自然ー当然ー人工」となるのがわかるだろうか。説明つきで言い直すと、「手つかずの自然ー人類共生型自然ー非持続可能な人工」。実例化して並べ直すと、「海ー里山原発」と例示すれば分かりやすいはず。

 この三項のうち、真ん中の当然に該当する思想を、私たちが倫理学と呼んでいることを想い出してほしい。倫理学を確立したアリストテレスは、人が究極的目的として手に入れるべき幸福は、エートスにあるとした。エートスとは「倫理と習慣」の二重概念で、「倫理は後天的に習慣を通じて習得されなければならない」という社会工学的視点を含んだものだ。

社会工学には深入りせずに、倫理学に話を戻すと、この中間項の倫理学の左隣にあるのがディープ・エコロジーであり、これら三項の上位にある学問が、アリストテレスによれば「政治学」なのである。アリストテレスとディープ・エコロジーの接点は、彼の倫理学にわずかな萌芽がみられるだけだが、政治そのものが「誰から何を徴収して、誰に何を備給するかをめぐる権力的な諸関係」だと定義されることを思えば、政治学に汎学問的な基底性があることは疑いえない。

そんなことを考えたのは、都市計画と建築の双方に精細な批評眼を持つ五十嵐太郎による『戦争と建築』に、興味深い思想的エッセンスが満載だったからだ。 

戦争と建築

戦争と建築

 

五十嵐太郎は、戦時中に東京が防空都市化していった経緯を追いながら、星野昌一がこう論じた史実を明らかにする。

星野昌一は、防空建築を論じながら、防空と窓ガラスの使用は相いれないものとし、「ここにグロピウス、ミース⁼ファンデルローエ等の国際的硝子建築の終末が見られる」という。そして日本の若い建築家が「未だ硝子建築の夢を追ふ」ならば、「国を毒する利敵行為」だと強く批判した。

 ガラス建築好きの自分も、現代思想と建築の重なる領域で、下のような饒舌を書き記したことがある。しかし、広義の政治性の分析と戦略的駆使を掲げている割には、ガラスの主題的連関の追跡に終始しており、プロフェッショナルの建築家の批評精神には到底及ばない感じだ。

自分が建築関連の書物が大好きなのは、一流の建築家の多くが、建築の現場だけでなく、その現代思想的読解にも一流の知性を振り向けているからだ。上記の『戦争と建築』の中でも、そのような建築家たちの知性の輝きを、読者は何度も目撃することになる。

都市計画家の芹沢高志が、やすやすとレヴィ=ストロースの「ブリコラージュ(器用仕事)」概念を援用して、資材の窮乏に直面した現場で、いかにそれが生きるかを論じるさまが引用されているかと思うと、建築家の石山修武が、集団化して指揮系統が分散しがちな現代建築の現場に対して、ブリコラージュを「技術に対するある意味での保守性を保持し、また、それに対して主体性を失わない」拠り所となると主張するさまが描かれる。

こういうのを目撃してしまうと、現代思想の数々が絶えまなく最も多く言及してきた文学が、どうして現代思想に対する応答的な言葉を、こうまで失ってしまったのかという問いを抱かずにはいられない。

 その問いとは別に、石山修武について付言すれば、やはり芸術作品の政治性への嗅覚の鋭い建築家だったことは間違いなく、彼が公園へつづく通路につける手すりをデザインした早稲田の大学院生を、こっぴどく怒鳴りつけているのを見たことがある。デザインの出来が悪かったのではなく、私大上がりの大学院生の自己表出的な「ブルジョア趣味」に我慢がならなかったようだった。

そのような一流の厳格なアカデミズムの場所が、同じく基底的な政治性に最も嗅覚の働く「ジャーナリスト」を輩出したことに、私たちは驚くべきなのだろうか。

いや、ドゥルーズ的な「アーキテクチャ」という概念が、「建築」よりも「制度設計」を指していることを知れば、建築家養成の場から稀有のジャーナリストが弾け出た偶然を、私たちは喜びをもって肯定すべきだろう。 

国家の存亡 (PHP新書)

国家の存亡 (PHP新書)

 

 政治そのものが「誰から何を徴収して、誰に何を備給するかをめぐる権力的な諸関係」だと、上で書いた。広義の政治が、私たちの社会や存在を規定している基底的な闘争の場であることも述べた。

話しの流れをうまくつかんでもらえただろうか。

小品ではなく、画面の広い芸術作品を作る場合には、「自然ー当然ー人工」の図式が視野に入らざるをえない。そして、その基底には「資源」配分の「政治学」がある。

自分がこれまで、言葉を持たない過去の他者(死者)、言葉を持たない未来の他者(生まれ来る子供たち)などに、頻繁に言及してきたのは、そこに理由がある。政治という原初の基底的な闘争の場で、誰かが言葉を持たない他者たちを「代行=表象represent」しようと考えたからだ。

同じように、宮崎駿がディープ・エコロジーからさほど遠くない場所で、『もののけ姫』に代表される「亀裂の向こうにある親である自然」を描こうとする衝動にかられたのは、「自然ー当然ー人工」の第一項である「自然」を、「代行=表象represent」しようとしたからだったのかもしれない。

今晩も含めて、「海峡」について自分が何度も多くの記事を書いてきたのも、それに関連しているような気がする。中学生の頃に訪れた関門海峡の一景に、強く心を奪われたときのことが忘れられないのだ。

関門海峡 - Google 検索

「海峡」をあらわす英語には strait と channel の二つの単語があるが、channel の方が広く使える単語なのだという。

海と陸とその間に架かる橋梁と橋の麓へのぼっていく坂道と… そのような海峡channel にある事物の連関を実際に見つめていると、中学生の頃にそうなったのと同じく、きっと自分はロックを掛けられたようにまた凝固してしまうような気がする。

少し離れた都市にあるアルド・ロッシ設計のホテルで食事だけでもしてみたいと考えていたことなんて忘れて、ロックされた錠前の鍵を「海へ捨てて」と頼まれて海へ捨ててしまったような心地がして、もうその凝固が解けないまま、魅了されつづけてしまうかもしれない。 

都市の建築

都市の建築

 

そのような想像が仮に錯覚や勘違いだったとしても、瞼の裏に思い描こうと思えばいつでも思い描ける美しい風景の残像を持っているだけでも、それは幸福なことなのだと自分に言い聞かせたい。

海と陸と橋と… きっと、瞼の裏にあるあの channel は、永遠にそのままだろう。 

 

 

 

I don't mind your odd behavior
It's the very thing I savor
If you were an ice cream flavor
You would be my favorite one

 

My imagination sees you
Like a painting by Van Gogh
Starry nights and bright sunflowers
Follow you where you may go

 

Oh, I've loved you from the start
In every single way
And more each passing day
You are brighter than the stars
Believe me when I say
It's not about your scars
It's all about your heart

 

You're a butterfly held captive
Small and safe in your cocoon
Go on you can take your time
Time is said to heal all wounds

 

Oh, I've loved you from the start
In every single way
And more each passing day
You are brighter than the stars
Believe me when I say
It's not about your scars
It's all about your heart

 

Like a lock without a key
Like a mystery without a clue
There is no me if I cannot have you 

 「Like a lock without a key」という部分が、本文と同じモチーフ。 keyは誰かが持っているということだろうか。