亡き真実のためのパヴァーヌ

昨晩以下のように書いたこの部分が不評だったようだ。引用元が誤っていたこともあり、微修正を加えたが、大筋でいえば間違った話をしたつもりはない。

すると、この世界の基底的なスペクトラムが「自然ー当然ー人工」となるのがわかるだろうか。説明つきで言い直すと、「手つかずの自然ー人類共生型自然ー非持続可能な人工」。実例化して並べ直すと、「海ー里山原発」と例示すれば分かりやすいはず。

 この三項のうち、真ん中の当然に該当する思想を、私たちが倫理学と呼んでいることを想い出してほしい。倫理学を確立したアリストテレスは、人が究極的目的として手に入れるべき幸福は、エートスにあるとした。エートスとは「倫理と習慣」の二重概念で、「倫理は後天的に習慣を通じて習得されなければならない」という社会工学的視点を含んだものだ。

社会工学には深入りせずに、倫理学に話を戻すと、この中間項の倫理学の左隣にあるのがディープ・エコロジーであり、これら三項の上位にある学問が、アリストテレスによれば「政治学」なのである。アリストテレスとディープ・エコロジーの接点は、その倫理学にわずかな萌芽がみられるだけだが、政治そのものが「誰から何を徴収して、誰に何を備給するかをめぐる権力的な諸関係」だと定義されることを思えば、政治学に汎学問的な基底性があることは疑いえない。

 確かに倫理学古代ギリシアに確立され、ディープ・エコロジーは20世紀後半に生まれた。両者の時間的懸隔はこれ以上ないほどに大きい。しかし、『ニコマコス倫理学』での「知慮(フロネーシス)」は「中庸の徳」を意味しているので、自然開発の局面では、人間の「功利主義的な自然からの搾取」(従来の環境保護活動:シャロウ・エコロジー)とは異なるあり方を指している。それをディープ・エコロジーの萌芽と呼んではならないという法はないだろう。 

飛躍しているように見えて、つながっている星座戦のつながりのことを「系譜学」という。ニーチェに淵源し、フーコーによって現代思想の表舞台に出た思想の様態だ。このフーコー的手法について詳細に解説した本を読んで、勉強してはいかがだろうか。 

ミシェル・フーコー 考古学と系譜学

ミシェル・フーコー 考古学と系譜学

 

 「飛躍する話」というのは自分の専売特許でも何でもなく、例えば、先頃思いがけずドラマ化されたカズオ・イシグロの著作を、『動的平衡』の生物学者である福岡伸一が熱狂的に推奨するような事態も、それに含まれるにちがいない。

その一部ではなく、存在の全体が臓器移植用のドナーとして生きる悲運の子供たち。そのドナーとレシピエントの社会的関係を、「動的平衡」の著者がどのように論じるかは興味がある。それとも、あらゆる場所で作用するかに見えた「動的平衡」は、生物個体間を越えると作用しなくなるのだろうか。ドゥルーズの機械概念は個体間を優に越えていくのだが…。

カズオ・イシグロはその名が示す通り日系人であり、1954年から1960年までの小学校に上がる前の約5年間を長崎で過ごし、その後イギリスへ移住した。カズオ・イシグロが長崎に生まれる少し前、長崎で暮らしていた未成年の中に、美輪明宏がいた。 

紫の履歴書

紫の履歴書

 

10歳で被爆した数年後、中学時代から芸術好きだった美輪明宏が、クロッキー帳とクレヨンを買いに文房具店へ向かっていたところ、和菓子屋の大福を万引きして逃げようとした兄弟二人を、和菓子屋の主人がとっちめて大変な剣幕で殴りつけているのに出くわした。美輪明宏クロッキー帳とクレヨンを諦めて、和菓子屋の主人に代金を手渡すと、大福盗み食い小僧2人を解放してやったらしい。

そこまでは、戦後の混乱期にありそうな挿話だし、美輪明宏にありそうな挿話だと言える。しかし、盗み食い少年たちを解放してやった美輪明宏が帰ろうとしたとき、物陰から母親が現れて、中学生の彼に何度も頭を下げて礼を言ったのだそうだ。

その場面を読んで、涙腺の脆い自分はカフェのオープン席にもかかわらず、号泣してしまった。母親が顔面の焼け爛れた長崎の被爆者だったと書いてあったからだ。

小学生の頃、父方の祖母が信仰していた新宗教の総本山が長崎にあったせいで、何度かその被爆地を訪れたことがある。時代は80年代初頭だったのに、まだ焼け爛れたひきつれのある顔で、宗教的行事に一心に打ち込む被爆者が何人もいるのを目撃した。

息子たちに食べるものも食べさせられず、中学生相手に焼け爛れた顔で頭を下げつづけたあの母が、当のアメリカ人ですら、戦争倫理学の観点からはあの原爆投下を正当化できないことを知ったら、どんな感想を持っただろうか。 

正しい戦争と不正な戦争

正しい戦争と不正な戦争

 

そう、今晩は飛躍する話だった。ただし、跳ね具合はいつもとほぼ同じくらい。いつもと同じ夜の中にいる。

世界的な作家と生物学者の取り合わせの妙と同じく、世界的な詩人と歴史学者の取り合わせにも注目しておきたい。

戦後のフランスでもっとも名高い詩人のひとりルネ・シャールを、最も精細に論じたポール・ヴェーヌは歴史学者だ。ただし、数多くの詩編を暗誦するほど、ルネ・シャールに絶対的に精通しているので、1990年出版のその浩瀚な研究書は、いまだにルネ・シャール研究の頂点にあるのだとか。 

詩におけるルネ・シャール (叢書・ウニベルシタス)

詩におけるルネ・シャール (叢書・ウニベルシタス)

 

 ざっと目を通した感じでは、例のジャン=ピエール・リシャールの『マラルメの想像的宇宙』に似た緻密さのある大変な力作のようだ。

訳者あとがきで唯一難点として挙げられているのが、親交のあったハイデガーの「ナチス加担問題」の周辺だ。その嵐からルネ・シャールハイデガーを守ろうとするあまり、論旨が歪んでしまっている部分があるのだという。

個人的には、ハイデガーのナチ問題はかなりセンシティブで危険な話題なので、あまり深入りしたくない。問題には触れないまま、その周りを周回するように言葉を紡いでいこうと思う。

このハイデガー「ナチ加担」問題について、信頼できる思想的読解に基づいた論考は、西谷修の『不死のワンダーランド』だと相場が決まっているようだ。先ほど読了した第4章「褐色のシャツ」は、自分のような出自の人間には滅法面白かった。

だが、不幸にして正しく「聴き従う」耳をもたない不敬の者や不肖の弟子たちが、「考え抜いて」導かれる「開け」は深淵のように暗い。そこには、<歴史>が<存在>に遭遇する不連続線の周辺に発生した、晴れることのない霧が立ちこめている。早くからその厚い霧の奥に目を凝らし、というよりその霧に呑み込まれて無限定な「夜」に沈み、眠りを奪われた目醒めのなかで、それが惜しみなく与えども尽きないおおらかで豊饒な<存在>ではなく、逃れるすべのない非情で無尽の<ある(イリヤ)>だと悟った者もいた。だが、外から見ようとするものの前には濃い霧が壁のように立ちはだかって視線をさえぎり、その壁に「ハイデガーはナチだったのか?」というむくつけき疑問が浮きあがる。

2003年の阿部和重シンセミア』は「田舎ノワール」という新ジャンルを創始したとも言われたが、この「仏文ノワール」調には、それよりはるかに長い伝統がありそうだ。上記引用中の「<ある(イリヤ)>だと悟った者」とはレヴィナスを指している。やけに似たようなテイストの文章を、かつて自分も書いたことがあるような気がする。

犬たちが吠えている。この国を浸してきた無数の夜々のうち、最も新しい夜の闇の中でも、犬の吠え声が依然として執拗に響き渡っている。言語には分節しがたいその暗い吠え声を、かつてブランショは「窮極の言葉」と呼び、それが「存在する」を表すフランス語の構文 Il y aのように聞こえる、と或る小説中に唐突に記したことがある。いや、その不意の言及はおそらく、同時代を生きたレヴィナスの初期鍵概念 Il y a への思想的共鳴を示していたのだろうが、ここではあれら言葉ならざる犬の吠え声が、この国に存在することの核を貫通する「窮極の言葉」たりうる可能性を耳朶の奥で意識するのみに留めて、文芸批評の光がほぼ途絶えたらしきこの国の夜を批評(たび)していくことにしよう。 

さて、問題にすべきは、文章スタイルよりも文章の内容だ。

ジャン・ボーフレという哲学者は、フランスにおけるハイデガーの特権的代理人のような立場を務め上げてきた。しかし、そのボーフレが「修正主義の法王」ロベール・フォリソンの主張に同調する内容の手紙を書いていたことが明らかになったことを、西谷修は問題視している。それに続けて、ヴィダル=ナケの著作から衝撃的なゴシップを引用する。何と、フォリソンの高等師範学校準備級時代に、規定外の留年をするよう特別に取り計らったのが、ボーフレだったというのである。

ハイデガーボーフレーフォリソンの3人が、ナチス支持と歴史修正主義で結びついてしまった格好だ。自分はこの周辺の論文を取り寄せたり、いろいろ分析したりした時期があった。(現在は、当時の見解とは異なる考えを、フォリソンに対して抱いている)。

この複雑極まりない論争の渦中からいったん抜けて、西谷修がひと呼吸おく場面がある。無理もないことだ。

鬱陶しいことだが、ごく基本的なことから考え直してみよう。ハイデガーのナチ関与がこれほど物議をかもすのは、ナチズムがあってはならないおぞましい悪だとみなされているからである。ナチズムとは戦後のヨーロッパの「公共的正義」(つまり公認で共有された正義)の踏み石であり、ナチズムの「野蛮」を否定することがこの正義のまず第一の公準になってさえいた。 

 「ごく基本的なことから考え直すこと」に、心の底から賛成したい。何かが大きく間違っているのかもしれない。

 機密解除されたファイルによると、CIA西半球局は1955年、秘密の短い文書を受け取った。そこでは、CAIベネズエラ支局長が自身の情報提供者から、ヒトラーが今も生きており、アルゼンチンにいるという内容の報告を受けたと述べられている。
 情報提供者は報告の中で、ナチス親衛隊の元兵士フィリップ・シトロエンと接触を持っていたと指摘している。シトロエンは、現在ヒトラーとのつながりを維持していると主張したという。またシトロエンが、ヒトラーがアドルフ・シャトルマイヤーという偽名をつかっていると話したほか、1955年1月までヒトラーとおよそ月に一度会っていたと語ったという。また報告には、シトロエンヒトラーにとてもよく似た男性と一緒に写っている白黒画像も添えられていた。

上記の記事はロシア発の有力新聞によるもの。下記はブロガーによる後追い記事で、CIAが機密解除した写真を確認できる。

完全包囲されていたはずのヒトラーが戦後も生きていたとするなら、誰が、どんな理由で、逃がしたのだろう? 

私たちが教えられてきた「歴史」は、根本のところで大きく違っているのかもしれない。

そういえば、世界恐慌のさなかでの金解禁について、どうも歴史教科書の記述がおかしいと感じられて仕方ないことをここに書いた。

そういえば、広島と長崎の原爆投下には、「人体実験説」の煙がいっこうに消えようとしない。

米国空軍のカーティス・ルメイ将軍は、「戦争は、本来、ロシアの侵入なしで、そして、原子爆弾なしで2週間で終わっていました。原子爆弾は、全く戦争の終わりと、関係がありませんでした。」と言っていました。

カーター・クラーク准将は、「我々は、ますます多くの商船を沈め、日本人をますますひどい飢餓に陥れていた。このことだけでも、彼らに卑屈な屈服を強いることができた。我々はそれ(原爆投下)を行う必要がなかった。我々は、それを行う必要がないということを知っていた。それでも、我々は日本人を2発の原爆の実験のために利用した。」と言っていました。

(…)

米軍は、タイプの異なる原爆を広島と長崎に投下しました。広島にはウラン235型、長崎にはプルトニウム239型の原爆を落としました。

原爆の威力を確かめるため、以下の条件に該当するところが投下候補地になっていました。

①直径3マイルを超える都市
②爆風により効果的に破壊できる地形を持つ都市
③8月までに通常爆弾による爆撃を実施していない都市

最終的に原爆投下の候補地になったのは、広島、京都、新潟、小倉の4都市でした。

(…)

戦後に進駐してきた米国は、広島と長崎に原爆傷害調査委員会(ABCC)を設置して放射能の影響調査を始めました。そこに生存者を連れて行き、血液を採取し、傷やケロイドの写真、死亡した被爆者の臓器などを摘出して、様々な調査や記録を行っていましたが、治療をすることはほとんどありませんでした。 

敗戦の悲惨さ。

私たち国民を、その一部ではなく、その全体を逃れがたく巻き込まれた犠牲者として、国家は戦争へと差し出した。

繰り返しません、あやまちは、というとき、少なくとも知識の点において、私たちは大きな誤りはなく、この国の犠牲者たちの歴史を知っているのだろうか? いや、さらに正確さをもってこう問い直すべきだろう。

誰が、どんな理由で、誤った「歴史」を普及させているのだろう? 誰が、どんな理由で、真実を殺しているのだろう?