悪魔に baby faith は貸さない
信号が青になるのを待っている。
上の記事を書いてから、約3か月。どうしたことだろう。しあわせの青い鳥に会えそうな流れには全然ならないな。 I wasn't born yesterday. 誰がどんな理由で邪魔しているのかはっきりすれば、どうだって対処できるのに。
とか考えながら、信号の青を待っている間に、とうとう読書をしなければならない羽目に陥った。必要があって車を走らせなくてはならない。その後に休日なのに出社しなければならない。それでも読まなければならない。時々、青信号に変わったのに気付かずに、後ろの車に軽くクラクションを鳴らされる。ごめんなさい。
もちろんゆっくり食事をする暇もないけれど、気分がブルーになってしまったら、気持ちだけでも「アモーレ! マンジャーレ! カンターレ!」なイタリア人の雰囲気で行きたい。まずは車中でカンターレを実践すべく、カーステレオのつまみを回すと、暗い曲がかかってしまった。
続く「カナリア」も暗いといえば暗い。「炭鉱のカナリア」の気持ちを歌っているのだろうか。今の自分には、こんな風に聞こえてしまう。
いけない、いけない。もっと気分をイタリアン・トマトな陽気な朱色にしてくれる曲を聴かなきゃ。そう思って tune したのが、この曲。
中学時代にマセた女の子に、「結局のところ、あなたって、聖子派なの? 明菜派なの?」と訊かれて「その二者択一という設定自体が間違ってはいないかい?」と複眼思考で訊き返したような記憶がある。実際は、中学三年生の数か月間、小林麻美派だった。多数派ではなかったが、風は少しくらいなら冷たい方が気持ちがいいものだ。
というわけで、やっとイタリアに辿り着いた。
これについて正確に言及している人は宮台真司しかいないみたいだ。検索でこのサイトに来る読者のために、自分の言葉で要約しておきたい。
生物多様性保護と同じベクトルの文化多様性保護。健康より地域の食文化を美味しく楽しむことに主眼がある。マーケッティング外にある食文化を地域の人々の力で維持しようとする運動。反グローバリズム的。
ロハス:
先進国に一定数生息する健康志向で環境保護志向な人々へのマーケティング戦略。スローフードより健康志向が強い。マーケティング内にある食文化を強化し、拡大しようとする消費者カテゴリー認識。親グローバリズム的。
ロハスを積極的に推進しているのは、世界最大のスーパーチェーンのウォルマートだ。
ビジネス専門誌『FORTUNE』が2006年8月7日号で,「ウォルマートが地球を救う」との特集記事を掲載し,ウォルマートの企業戦略の変身ぶりを紹介したことでも明らかなように,ウォルマートに対して,企業の社会的責任経営への要求が強まり,環境にやさしい商品や健康に良い商品へ取り組まざるを得なくなっている。10) 米国では,オーガニックブームで,「ロハス(LOHAS)消費者層」(Lifestyles of Health and Sustainability)と呼ばれる健康に良い商品を望む顧客が存在しているため,高付加価値の有機食品開発に重点を置いている。
世界最大規模のウォルマートには、それにふさわしい情報が飛び交っている。NWOはプロレスではなく、現実的闘争のようだ。
今晩は陽気な気分で過ごしたいので、話をスローフードに戻そう。
英語の Wikipedia にもきちんとした経歴が紹介されていないのは、いくら何でも情報普及がスローすぎるだろう。イタリアでスローフード運動を普及させたカルロ・ペトリーニは、実はカルチェラタンにいた「パリ五月革命」組。その運動展開に正の政治性を読もうとしない方がどうかしている。
世界標準のスローフード運動の実態は、この記事に詳しい。
スローフード運動の主な使命は、「地域の食文化や伝統の消滅を防ぎ、ファストフードやファストライフの席巻を阻止し、自分たちの食べている物について、またそれがどこから来て、私たちの食べ物の選択がどのように世界に影響を与えるかについての人々の興味の減退に対抗する」ことである。これは確かにかなり壮大な探求であるが、「おいしい、きれい、ただしい」という一般的な言葉を使って、以下のようにわかりやすく定義することができる。
スローフードとは……
- おいしい 私たちの味覚を満足させ、地域文化の一部となっている、新鮮で風味豊かな旬の食べ物
- きれい 環境、動物の福祉、または人間の健康を脅かすことのない食料生産および消費
- ただしい 生産者にとって公正な条件と報酬、および消費者にとって手ごろな価格
生産者および生産物は、「おいしい、きれい、ただしい」というテーマを満たすために、例えば「オーガニック」や「フェアトレード」といった認証を必ずしも受ける必要はない(もちろん受けた方が望ましいのではあるが)。また、サステイナビリティ(持続可能性)という言葉が大々的に取り上げられることもない。地球と人々を正しく扱うということが、この組織の哲学における前提である。それは、食べ物を単に商品とみなす考え方を否定し、食の生物多様性を世界の文化的多様性の象徴ととらえ、その両方を守ろうとする理念である。
「食都神戸」とも提携企画がスタートしている。
ただ、 「味の番人」たちを各地に派遣して絶滅危惧「食」を救おうとしたり、「味のサロン」というフードイベントを開催したり、「味の大学」を開講してあるべき食育をほどこしたり、といった代表的なスローフード運動よりも、カルロ・ペトリーニの思想の可能性の中心は、フランスのAMAPやアメリカのCSAにあるのではないかと、前々から感じていた。
AMAPの仕組みは至って簡単。
有機農家が近隣の自治体を通して買い手を募り、自治体が無償又は低価格で提供する場所で、予め農家が選別した野菜や乳製品、卵などの受け渡しが行われます。
頻度は週一回または隔週。
AMAPが生産者にもたらす利点は、作り過ぎや売り残しを防げるということ。(…)
買い手側のメリットは、受け渡しが近所であることはもちろん、季節の有機野菜を定期的に摂取出来るので、自然で健康的な食生活を続けられるところにあります。
また、各AMAPの宣伝は自治体が引き受け、野菜の仕分けは登録者がローテーション且つボランティアで行うなど、文字通り皆が協力することで成り立っています。
日本にも「地産地消」という言葉がありますが、それをオーガニック作物に限定したのがAMAPであり、食料自給率120%の農業大国ならではの、効率的且つ贅沢なシステムといえるのです。
日本での代表的な取り組みは、伝統ある共同購入 / 個別宅配の co-op と、最近話題になった楽天のCSA「Raguri」になるだろうか。
(神奈川、静岡、山梨県のみ)
こういう新しい農業の取り組みをネットサーフィンで覗きながら、しかし、どこか違うなと感じていたときに出会ったのが、近刊のこの本 。日常生活のどこかに農業や農産物と関わる人、つまりはほとんどの野菜好きにとって、必読の書ではないだろうか。
まだ Amazonレビューはゼロ。意外なことに、メディア露出もこれまでほとんどないようだ。予言しておくと、今後かなり近いうちにテレビ東京系の「ガイアの夜明け」の取材が入るにちがいない。自分のように押韻や言葉遊びを重視する人物がディレクターなら、「なないろ日和」が先鞭をつける可能性も高い。またしてもやってくるのか、Rainbow Connection よ!
この「なないろ畑」の運営手法は、トゥルーCSAという。著者の片柳義春はそれを「消費者参加型農業」と表現している。
- 会員制(1年ごと、1シーズンごと)である。
- 会費(代価)は事前に支払う。
- 主格物の野菜などのセット(シェア)を定期的に受け取る
- 消費者から運営資金の拠出、農作業・出荷作業などの労力提供
この基本的なスキームのもとで15年間農場を運営した結果、そこに何が育ったのか。スクロールを急がずに、当ててほしい。
このリストは、かなりニュース・バリューがあると思う。
- 年会費制かつ前払いなので、経理作業を簡略化でき、キャッシュフローを改善できた。
- 有機栽培が、技術的困難がさほどなく、安全でおいしい野菜を生産できることがわかった。
- 農場運営の工夫や効率化により、市場よりやや割安で野菜を提供できるようになった。
- 出荷場をカフェ「なないろ食堂」に改装し、そこで余った野菜や形の悪い野菜を調理して、食品ロスを減らせた。
- 持ち込み企画に応えて、地域の音楽バンドや合唱団などの発表会を開き、コミュニティーが生まれるようになった。
- 自ら企画して、講演会やドキュメンタリー映画の上映会や料理教室などの情報発信の場にできた。
- 他県の優れた農産物の共同購入組織としても機能するようになった。
- 一人暮らしの「孤食」が厭な人が集まって、食材を持ち寄って共同調理する食事会が開かれるようになった。
- 希望者有志に農地レンタル(トラスト)をする事業も好調。
- 朗読会やこども囲碁教室や吊るし雛をつくる会などのコミュニティーの場となった。
- 失業者向けの就労支援関係の人々、貧困児童向けのこども食堂、身体障碍者や精神障碍者の園芸療法の場として、現在もしくは今後、活用されることとなった。
- 農業生産法人として株式会社化できた。
- 地域通貨を発行することができた。
- 社会福祉事務所と連携して、失業者などを受け入れる「農福連携」型セイフティ・ネットとなることができた。
書き出していくと14項目になった。筆者は受け継いだ家業を45歳の時に辞めて、15年でここまで漕ぎつけたのだという。ちょっとここまでの成功例というのは考えにくい。筆者が自身の仕事を振り返って、「この農場で育った一番のものはコミュニティです」と繰り返すのも納得できる。宮台真司のいう「『近接性(プロキシミティ)』によって正の循環を回して生活世界を回復する」というのは、こういう実践例を言うのだと思う。
「向かい風(アゲインスト)でもポジティブに」を座右の銘に加えたばかりの自分は、「なないろ農場」にかなり強い追い風(フォロー)を感じる。今後マスメディアで引っぱり凧になるのではないだろうか。
運転の信号待ちで読了したので、読み落としているかもしれない。一定の農作業を消費者が提供して、農作物を分かち合うCSAは、最高の「食育施設」になるにちがいないことにもいま思い至った。
個人的なことを2つ付け加えさせてほしい。
実は、自分はかなりのベビーリーフ好きだ。産直市場に行くと必ず買い求める口だが、あまり良いものが出回っていない。鮮度が落ちやすいらしいのだ。月に一回でも、子供たちの「食育」がてら、ベビーリーフを摘みにいくような生活を送れたら、それは幸福な休日の過ごし方になるような気がした。
もう一つ、「なないろ畑」の成功の背景には、45歳で農業へ転身した片柳義春が、慶応大学出身という学歴以上に、きわめて勉強熱心であり、かつ強いリーダーシップの持ち主であることにも言及しておかなければならない。巻末の参考文献リストには、一見したところ有機農業とは無関係な書物も散見される。宮沢賢治や賀川豊彦はギリギリわかるとしても、自分がこの記事で言及したナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』や堤未果の『貧困大国アメリカ』までリストアップされているのにはビックリだ。
片柳義春の人生上の転機は2002年頃、「なないろ畑」を始めた時、ということになるだろう。なぜ2002年だったか推測できるだろうか? その転機で踏み出した「新時代の方向性」へは、2011年の3月11日以降、さらに多くの人々が合流した。
3.11以降も、多くの人は「震災や原発事故を忘れよう。忘れたい」という正常化バイアス(精神の傾向)が働き、以前の状態に戻っていきました。
しかし「これまでのことは信用できない、自分で何とかするしかない」と気づき、自ら情報を集め、考え、行動することで「変えよう、変わろう」と動き出した人たちも少なからず出てきました。(…)
CSA農場は、そうした人たちにとっては格好の学びの場になれると思いますし、なないろ畑も、そうした姿勢の人たちを育てていきたいと考えているのです。
2001年の9.11の直後、ゼロから「新時代の農業コミュニティ」を創出した片柳義春も、あのとき弾けた菫の種子の一人だったのかもしれない。そう自分は推測する。
堤未果の近刊の中では、例の四既成概念の提唱者であるレッシグが、大統領選挙へ立候補する原点となった逸話が紹介されている。
『で、先生は何をするんだい? 今起きている問題、根っこが腐ってる今の政治を、どう やって立て直すつもり?』と」
アメリカの憲法と民主主義が、カネで政治を買う1%の超富裕層によって破壊されていることを、まだ若いアーロンはその時すでに気づいていた。 レッシグ教授が「私は学者だし、そういうのは専門外だ」と答えると、アーロンは教授の顔を不思議そうにじっと見てから、こう言ったという。「それは、学者としてはそうかもしれないけど。じゃあ市民としては? 一人の父親としてはどうなんだい? それなら諦めないだろ?」
「彼のその言葉を聞いた時、何故か我が家のリビングで4歳の息子に急に抱きつかれた時と同じ気持ちになりました。なんというか、私の心の深い部分が、強い力で揺さぶられたような感じです。
今まで『自分は学者だ。政治とは距離を置く』などと思っていたことを、初めて恥ずかしく思った瞬間でした。そして、そこから全てが始まったのです」
「子供が信じられる世界」を、子供が信じている大人が創り出さなくては。そのような原初的な衝動の強さを、他の何が否定しきることができるのか、自分は知らない。baby faith にどんな face を向けるべきなのかを、私たちは考えるべきだろう。
また「幼い子供」を持ち出すのは、それ自体が幼い引用行為だろうか。中三の頃、生徒会長として少年式の自作の式辞を読み上げるとき、「稚心を去れ」 という橋本左内の言葉を引用したのを思い出した。と、「幼い」と「左内」の音韻上の重なりから、話を続けていくと、ますます文章は幼い感じになってしまうだろうか。
いや、もはやそんな曖昧な文章精神年齢の高低にこだわっても、意味をなさないだろう。レディー・ガガは悪魔に魂を売ったことを酷く後悔しているという。
「悪魔に魂を売らない」だけでなく、どんな特殊な状況にあっても、心揺らぐことなく、「悪魔に魂を貸さない」ことが大事、とだけ押韻しつつ書きつけて、この文章を終えようとしたその筆先が、「行かなくちゃ。きみに会いに行かなくちゃ」とつづけて文字を書き継いでしまう理由を、読者はすでに理解しているにちがいない。
(自分のお気に入りの「Amore」は、この曲)