雪辱はブロックチェーン選挙から

昭和の敗戦湾で私は生まれた。日本海側だったので、冬には雪がよく降った。四国育ちの自分には、雪は珍しい遊び道具でしかなかったが、酷い降雪で電車に何時間も閉じ込められたり、閉じ込められた自動車の中で雪に適切な排気を奪われて、一酸化炭素中毒で人が亡くなったりするニュースを耳にすると、雪にはその固体温度以上の冷たさがあるのに気付かされる。

 「冷たすぎる雪」といえば、幼稚園生の頃に読んだ「雪の女王」という童話が忘れられない。

 

カイとゲルダは、ならんで掛けて、けものや鳥のかいてある、絵本をみていました。ちょうどそのとき――お寺の、大きな塔とうの上で、とけいが、五つうちましたが――カイは、ふと、
「あッ、なにかちくりとむねにささったよ。それから、目にもなにかとびこんだようだ。」と、いいました。
 あわてて、カイのくびを、ゲルダがかかえると、男の子は目をぱちぱちやりました。でも、目のなかにはなにもみえませんでした。

(…)

雪の女王は、とんでいってしまいました。そしてカイは、たったひとりぼっちで、なんマイルというひろさのある、氷の大広間のなかで、氷の板を見つめて、じっと考えこんでいました。もう、こちこちになって、おなかのなかの氷が、みしりみしりいうかとおもうほど、じっとうごかずにいました。それをみたら、たれも、カイはこおりついたなり、死んでしまったのだとおもったかもしれません。

(…)

けれども、カイは身ゆるぎもしずに、じっとしゃちほこばったなり、つめたくなっていました。そこで、ゲルダは、あつい涙を流して泣きました。それはカイのむねの上におちて、しんぞうのなかにまで、しみこんで行きました。そこにたまった氷をとかして、しんぞうの中の、鏡のかけらをなくなしてしまいました。カイは、ゲルダをみました。ゲルダはうたいました。

ばらのはな さきてはちりぬ
おさな子エス やがてあおがん

 すると、カイはわっと泣きだしました。カイが、あまりひどく泣いたものですから、ガラスのとげが、目からぽろりとぬけてでてしまいました。すぐとカイは、ゲルダがわかりました。そして、大よろこびで、こえをあげました。
「やあ、ゲルダちゃん、すきなゲルダちゃん。――いままでどこへいってたの、そしてまた、ぼくはどこにいたんだろう。」こういって、カイは、そこらをみまわしました。「ここは、ずいぶんさむいんだなあ。なんて大きくて、がらんとしているんだろうなあ。」

ハンス・クリスティアン・アンデルセン Hans Christian Andersen 楠山正雄訳 雪の女王 SNEDRONNINGEN 七つのお話でできているおとぎ物語

 幼稚園生の頃に読んだきりなので、細部は記憶が違っている。この話が心に深く刻まれているのは、カイの目や胸に入ってしまった「雪の女王」の悪魔の鏡の破片を、ゲルダが溶かすというモチーフが、琴線に触れるからだと思う。

他人の話を勝手に読み替える癖がどうしても抜けない。つまらない平凡な映画を見ていても、その映画と並行して、頭の中でシナリオを組み替えて、自分好みの映画にして、おいおい泣いてしまうことがよくある。その涙の数%は、平凡な映画をよくぞこんな良い話に変えてくれたという、自分への称賛の涙だったりもするのだが、気が付くと、事情を知らない同席者はぎょっとした表情をしている。

アンデルセンの「雪の女王」も、自分の想像では、クライマックスはこんな風に書き換えたい。

カイの胸にはびっしりと折り重なった「千のナイフ」が刺さっている。そのナイフが敵を呼び寄せるせいで、カイは現実世界で何度も戦わねばならなくなる。ところが、戦いに勝っても勝っても、「千のナイフ」のうち、勝利した数と同じ数本が胸元から消えるだけ。

もう永遠に胸に「千のナイフ」が刺さったまま戦いつづけて、死んでいく運命なんだ、ぼくは、とカイが思い込んでいた或る日、偶然再会したゲルダがいっさんにカイの胸元に駈け寄ってきて、そのナイフを両手できつく握りしめる。きつく握りしめてカイの胸から抜こうとする。しかし、「千のナイフ」は、ゲルダの両手を無惨に切ってしまうだけ。カイはカイで、千のナイフが根を生やし、心臓と一体化してしまっているので、痛いからやめてくれと叫ぶ。「千のナイフ」を握りしめるゲルダの両手からは、薔薇色の血がひとしずく、またひとしずくしたたり落ちて、雪の地面に赤い花を咲かせるのだった。「もうぼくのことはいいよ。いいから、諦めてほしい」。そうカイが言っても、ゲルダはうつむいたまま、ナイフから手を離そうとしない。ひとしずく、またひとしずく。…

しかし、雪の地面にしたたり落ちていく赤いしずくが、だんだんピンクになり、やがて白くなり、透明になっていく。

ゲルダが顔を上げて微笑する。彼女の両手の温もりが「千のナイフ」を溶かしたのだった。…… 

 アンデルセンの冷凍関係の話については、半年以上前にこの記事で言及したことがある。

商業施設には不向きな戦前の洋風建築を、広島のランドマークとして生き残らせるために、買い取って小ぶりなデパートにまで発展させたパン屋が好きで、広島を訪れたら必ず寄ることにしている。 

地元に不可欠な記憶資源を生かしつづけようとする志もさることながら、客がトングでパンをつまみあげてレジへ運ぶ、あの典型的なパン屋の販売スタイルを確立した革新性や、7年かけて開発したパン生地の冷凍技術の特許を、パン文化の普及のために惜しげもなくライバルのパン屋に公開した社会貢献意欲にも、格別な素晴らしさがあると感じる。 

アンデルセンの創業者である高木俊介が、独占すれば国内のパン屋の多くを駆逐できる可能性があったのに、それを無償公開したことの意味を

高木は、7年がかりでモノにした「冷凍パン生地」の特許(1972年)を、惜しげもなく無償で公開している。その理由を高木は「焼きたてパンの市場を育てるため」と「パン職人の負担を減らすため」と答えている。

(…)

「市場を育てよう」という大局観と、パン職人に対する仲間意識。「楽して儲けよう」という発想はみじんもない。その根幹には、「いいものを広く提供したい」という、戦後の焼け跡闇市時代に培われた、職人肌の経営者の強い思いがあった。 

アンデルセンがパン生地の冷凍技術を無償公開したのは、今から半世紀以上前の話だ。

ところが21世紀に入ってから、このような「無償共有」の周辺がやけにホットになってきた。アンデルセン童話の悪役「雪の女王」のような冷たさは一切ない。焼きたてのデニッシュパンをちぎったときの内側の柔らかな生地のように、湯気が立ちのぼっている感じなのだ。

 なぜこの記事を「雪+シェアリング・エコノミー」で書き出したかというと、時代の最先端であるシェアリング・エコノミーについて「雪かき」しなければならないほど、野口悠紀雄の入門書が、またしても冴えていたからだ。

そもそもシェアリング・エコノミーがかなりの勢いで来ていることすら、規制緩和の遅れた日本では実感しにくいかもしれない。社会の多様な動向を観測したら日本一間違いなし。三浦展の新書から、消費の発展段階図を引用しておきたい。

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第四の消費 つながりを生み出す社会へ (朝日新書)

第四の消費 つながりを生み出す社会へ (朝日新書)

 

 三浦展が区分化した「第四の消費社会」は、それ以前の消費と並行しつつ、2005年以降、前景に現れてきた。その特徴を、三浦展は以下の5項目にまとめている。

  1. 個人志向から社会志向へ、利己主義から利他主義
  2. 私有主義からシェア志向へ
  3. ブランド志向からシンプル・カジュアル志向へ
  4. 欧米志向、都会志向、自分らしさから、日本志向、地方志向へ(集中から分散へ)
  5. 「物からサービスへ」の本格化、あるいは人の重視へ

これは当たるか外れるかわからない未来予測ではなく、すでに統計的な変化や明示的兆候が現れているものだ。自分が漠然と感じていた社会の流れ再認識できて、とても面白かった。「今だけ、金だけ、自分だけ」とは対極にある方向へ、社会は動いているというわけだ。

少子化対策について調べたばかりの自分は、「第四の消費社会の消費の担い手」が「全世代のシングル化した個人」となっているのが気に懸かった。数字が恐ろしいのだ。

現在28歳くらいの1990年生まれの女性は、生涯未婚率が23.5%。結婚した76.5%のうち36%が離婚するので、掛け算して足し合わせると23.5%+27.5%=51%の女性が、独身状態となるらしい。再婚や死別をカットしたラフな予測数だが、とんでもなく高くはないだろうか。

おまけに、男性の生涯未婚率は今後おおよそ女性の1.5倍で推移すると予想されているので、離婚率を同じとしても、男性も62.5%が独身状態となるらしい。「一億総シングル社会」という言葉が飛び出すのも頷ける独身化の急伸だ。

 上記の分析は日本国内に限定したものだが、日本特殊的ないくつかの要因がシェアリング・エコノミーを招いたわけではない。同じ動きが世界中で、むしろ規制の多い日本より速いペースで進行している。

インターネット普及期もそうだった。新しい地殻変動が起こっているとき、それを説明しようとする情報があまりにも溢れかえって、却って人々が混乱して「単純な物語」に飛びついてしまうことがよくあるものだ。

いまシェアリング・エコノミーをめぐっては、どうやら二つの派閥があるらしい。古谷利裕の偽日記で引用されていたのを読んで以来、心に懸かっていた記事。

一方に、エクスポネンシャルなテクノロジーによって人類の貧困や環境問題を一気に解決しようとする人々がいて、彼ら彼女らから見ると、人間性回帰を志すシンプルライフの類いは、個人としての救済や倫理的な満足としては結構かもしれないが、より大きなスケールで解決策を模索し社会に大きなインパクトを与えようとしない点で、しょせんは世界の現実から目を背けた世捨て人の生き方だと映る。

一方で『壊れた世界で“グッドライフ”を探して』に描かれているような人々は、経済格差と見知らぬ国の奴隷労働によって成り立つ企業や、環境を破壊し貴重な資源をめぐって戦争を始める政府には加担しないと決めている。そのために自給自足で石油も電気も自動車も使わないような生き方を選ぶ人々から見れば、シンギュラリタリアンのような人は、自分の特権やその生活こそが世界の貧困とか環境破壊の原因になっていることは棚に上げ、自分が1ミリも変わろうとしないまま世界を救うと言っている傲慢なエリート主義者にしか見えない。 

 シンギュラリティ大学とは、あのカーツワイルが作った大学で、テクノロジーで10億人にプラスの影響を与える人材の育成を目指しているようだ。具体的に言うと、「エネルギー、環境、食、シェルター、宇宙、水といった資源の問題、そして災害へのレジリエンス、ガヴァナンス、健康、ラーニング、経済的繁栄と安全といった社会的資源の問題」だと、上の記事を書いた最先端の出版人は説明する。

自分から見ると、上で問題にされている派閥間の対立は、猛練習してオリンピック出場を目指している野球チームと、のんびり草野球を楽しみたい野球同好会くらいの違いにしか思えない。

しかし、同じく最先端の書物である『限界費用ゼロ社会』の著者リフキンを、かなり緻密な読み込みをしておきながら、ヒッピー文化の洗礼を受けた旧世代の左翼思想家のような印象操作をしてしまうのは、もったいないと思う。彼はメジャーリーグ級のプロ野球せんしゅではないにしても、草野球に興じる野球好きではないからだ。 

いくつかシェアリング・エコノミー関連の書物をあたったが、あまりピンとこなかった。Uber が凄い、Air B&B が凄い。確かに、それらは凄いに違いない。 

シェアリングエコノミー

シェアリングエコノミー

 

しかし、いまこの変革を動かしているのが、すぐ直後にブロックチェーン技術の普及を控えたIoT技術そのものであることを、見落としてはならない。テクノロジーには左翼的 or 右翼的、あるいは、グローバリズム的 or 反グローバリズム的、いずれもの属性があり、いずれもを活性化することが可能だ。時代の変化が工学的基礎に基づいたテクノロジー主導で進みつづけていることに、さらなる注意が必要だろう。

例えば、リフキンの著作で拾うべきところは、生産性の測定指標が機械資本と作業能率しかなかったところ、それらに「エネルギー利用の熱力学的効率」を(西欧の最新研究から)加えたことにある。アメリカでは、熱力学的効率が、第一次と第二次産業革命を通して13%にまで達した。それが、今後40年のうちに40%達するというのだから、「限界費用ゼロ」への漸近は充分に進む可能性があると言える。

確かに、リフキンが限界費用をゼロへ近づけつつあるとしている4つの要素(情報、再生可能エネルギー、3Dプリンティング、オンライン大学講座)は、その看板である「ゼロ」に対して、役不足であることは否めないだろう。しかし、すでにインターネットによって実現されている情報を除けば、限界費用ゼロ化へ向けた主役が「エネルギー(の熱力学的効率)」だと学術知に基づいて宣言したことは、やはり大きいと思う。

というのも、すでに発見されているフリーエネルギーが、世界中の製品の生産コストを限界費用ゼロに近づけていくにちがいない未来を、現時点でリフキンほど明確に道筋づけた文明評論家はいないからだ。いわば、リフキンはエネルギー革命の「前特異点」について、誰よりも先んじて語ったという位置づけになるだろう。 

リフキンが紹介していたクリーンエネルギーのハッカソンでは、数百人の開発者が集合して、28時間集中的に取り組んで、数々のソリューションの開発に成功したという。

誰か、バシャールが示唆する通り、シェルペンスキーのガスケットを使って、フリーエネルギーを開発してくれないだろうか。

さて明日の東京は大雪の予報が出ているらしい。話を「雪かき」に戻さなくては。

「入門」と銘打っているだけに、これまでの野口悠紀雄の著作に親しんでいる人間にとって、目新しい情報が満載だというわけではない。しかし、よく読むと、随所に野口悠紀雄らしい卓見が生きているのがわかる。この入門書は全編が初心者向けのQ&A方式で書かれている。

Q:シェアリング・エコノミーとブロックチェーンがどう関係するのですか?

A:現在のシェアリング・エコノミーには、仲介者がいます。部屋の場合は AirBnB、車は Uber という仲介サービスを提供している会社あります。

 つまり、事業の管理者がいるわけで、技術的に見れば従来のものとあまり違いません。いままで規制されていた分野で規制緩和が行われるという意味では大きな変化ですが、技術的な意味では大きな変化ではありません。(…)

 ブロックチェーンを使えば、信頼性を確保しつつ、提供者と需要者がサービスを直接にやり取りできるようになります。遠からず、両者の業務は自動化されるでしょう。

 サービスを提供する人とサービスを受けたい人が、ブロックチェーンを用いて直接結びつくようになれば、AirBnBUber は不要になります。つまり、これらは過渡期の仕組みであり、近い将来に消え去ると考えられます。 

 他にも卓見に数えて良いと思うのは、ブロックチェーン技術によって、シェアする車や自転車に「スマートロック」(施錠・解錠機能)できることで、シェアリング・エコノミーが進むという指摘。

ブロックチェーン技術によって、プライバシーが守られる形を創れるからこそ、IoTの家庭機器のデータやセンサー経由の生体情報の収集とビッグデータ化が進むとの意見。

未来学者カーツワイルの肝煎りで設立されたシンギュラリティ大学では、どう教えているのだろうか。

今晩も5冊以上の本を読み飛ばしながら、あるいは跨ぎ越しながら感じたのは、種々のテクノロジーをイデオロギーの眼鏡越しに見分けていくのではなく、種々のテクノロジー自体に内在する政治性を見極めて、変化に適応するとの前提のもとで、それらから社会的倫理的価値をどう引き出していくかを実践していくことだと思う。

自分がやってみたい最初の実践?

選挙の投票集計を、ブロックチェーン技術で改竄不可能なものにするプログラムを、優秀な開発者をたくさん集めたアイディアソンで完成させること。

別に自分がやらなくてもいいし、私のクレジットなしで、誰かがまるで自分が思いついた独自企画であるかのような設定で、急いでやってしまってくれても、もちろん嬉しい。選挙が完全に公正になる分には、どの政治的立場であれ、文句のつけようはないことだろう。

限界費用ゼロ社会」になるまでには、まだ時間がかかる。日本を「不正選挙ゼロ社会」にするのが、最速でこの国をあるべき姿へ振り戻す、最善のルートかもしれない。

不正選挙がゼロになった暁には、権力構成が大きく変わるだろうこの国を、或る特殊な感情を込めて、「美しい国」とあらためて呼び直してみたいような気がしている。