短編小説「神様の留守中に受け取ったハート」

 今晩は土曜日だから、我が人生最高の土曜日の話をしよう。自分の過去に酔って、いささか筋を踏み外すかもしれないが、そこは昔語りの青春話。多少の誇張はご容赦願いたい。九割のロックの酒に一割のソーダ水という配合でどうだろう。カクテルの名前は「オートフィクション」。「半自伝」という意味だ。

 信じがたいことに、ぼくはかつて17歳だった。同級生は受験生の高校三年。けれど、受験勉強をせずに演劇やら文芸やらに打ち込んでいたぼくには、時間があり余っていた。授業中は、小説や戯曲を読んだり書いたりの内職三昧。あり余っているエネルギーは、ぼくをドラキュラめいた深夜の散歩へ向かわせた。別段、盛り場に出入りするわけでもなく、夜に浸されて変質した街の表情を楽しみながら、あちこちの街角で詩を書いたり本を読んだりしていただけだ。気取って、酔いどれ詩人のトム・ウェイツを聴いていた。

 そんな折、仲良くなった同級生の女の子の家に、夜中に忍び込んだことがあった。たぶん、あれも土曜の晩だっただろう。彼女の自宅には二階建ての離れが横にあって、そこが彼女と姉の子供部屋になっていた。

 彼女が合図をすると、姉が一階の窓を開けた。一階は姉の部屋、二階が彼女の部屋。けれど、そこで姉らしい妹思いの犠牲心が示された。姉は自分のベッドを使ってほしいとぼくに囁いたのだ。深夜の少年少女の密会劇は、いざとなったら逃げられる一階が舞台でなければならなかった。

 ぼくと彼女は布団や服がこすれる音にまで気を遣った。ところが、すぐに彼女が囁き声を立てた。枕もとの方向にあった階段を見上げた。「お姉ちゃんが降りてくる」と囁いたのだ。ぼくが見上げると、こちらを見下ろすように階段に浮かんでいる姿は、先ほどの眼鏡の姉ではなかった。

 階段の斜めの手すりの上に、ぼおっと明るんで、白い雲のような光の玉が浮かんでいた。人の姿はどこにもなかった。ぼくが彼女を背中に庇いながら、白い光の玉を見つめていると、光の玉はゆっくりと階上へ昇っていった。

 それが17歳のときの話。二年後の19歳のときにも、同じような体験をした。

 高校を卒業して東京の私立大学に進学したぼくは、首輪をほどかれた犬のように、東京の夜の街をうろつき回るようになった。ずぼらだが天才肌の高校の同級生と、ばったり新宿で鉢合わせ。そいつが「2F」と書かれた茶色のスリッパを履いていたのは、居酒屋で間違えて履き帰ったものらしかった。以来常用するとは、何と酒好きらしいお洒落感覚!

 酒よりも音楽が好きだったぼくはといえば、ロックやレゲエを大音響で鳴らすクラブに出入りするようになった。そこで生まれて初めて逆ナンパされて、深夜に酔っ払い合って肩を組みながら北新宿まで歩いて、女の自宅に転がり込んだ晩、暗闇のベッドの中で、女がそのベッド上で緊急に必要となるものを買ってきてほしいと頼んできた。

 服を着直して財布を持って女の家を出ると、ぼくは急に莫迦らしくなって、すべてが面倒くさくなって、自分の家へ帰りたくなった。

 しかし、深夜バスもタクシーも動いていない。夜の街が異様なくらい静まり返っているのを感じた。夜でもともっているはずの灯りという灯りが、すべて消えていたのだ。

 どうやら新宿の街全体が停電してしまったらしい。ぼくは歩みの速度を速めた。何かとんでもない異変が起きているのではないだろうか。不安に駆られて、新宿西口へと走っていった。

 ところが、駅のすぐ近くで、ぼくは名前を呼んで呼びとめられたのだ。そこにいたのは、そのとき交際していた彼女だった。ろくでなしだったぼくは、彼女をほったらかしにして、夜の街で遊びまわっていたのだ。聞けば、23時発予定の深夜バスが停電のせいで来ないので、バス乗り場のベンチでずっと待っているのだという。真っ暗で怖いから一緒にいてほしいと言われると、ぼくには断る理由がなかった。彼女のバスを見送ってから、歩いて自宅へ帰ろうと考え直した。

「どうして?」

 ぼくが隣に座ると、彼女は最初にそう訊いてきた。何と答えるべきだろうか。黙っていると、もう一度訊かれた。

「どうして一緒に帰ってくれないの?」

 彼女とは同郷だった。同じ深夜バスで帰ってもおかしくなかったはずだった。どこかで違う道を歩きはじめていたのだと思う。どう答えたらいいのか、ぼくにはわからなかった。

「どうして、すべてを滅茶苦茶に壊してしまうの?」

 彼女が何を言いたいのか、徐々にぼくにもわかってきた。15歳のとき、ぼくが20代までの生命だと宣告を受けたことを、彼女には誤魔化して説明していた。自分の人生の映画があと10分しかないと思い込んで自暴自棄になっているくせに、真実を話して彼女に逃げられるのは、耐えられなかったのだ。ぼくは胸が疼くのを感じた。軽口を叩いて逃げることにした。

「知っているよね? 神様はもうすぐ仕事で地球を留守にするのさ。1999年に世界は終わるんだよ。だから、1999年までは思いっきり羽目を外しておくことにしたんだ。いわば、20世紀の残り、世界が滅亡するか、オレが滅亡するかの二択だよ。でも、ひょっとしたら、この様子だと、世界はもう終わっちゃったのかもしれないよ」

 いつもはぼくの冗談に笑ってくれる彼女が、唇をきつく結んでいるのが、暗闇の中に見てとれた。夜の街はずっと真っ暗なままだった。暗闇の中を彼女の手探りの手が伸びてきて、ぼくの右手を両手で握った。

 彼女はそれ以上何も喋らなかった。握ってきた彼女の手に、手のひらから伸びて、手首を親指の下まで回り込むほど長大な生命線があるのを、ぼくは知っていた。なぜだか、いつも暑苦しいほど、常人より体温が高いことも知っていた。

 ところが、握られた手にその熱い体温を感じているうちに、知らなかった不思議なことが起こり始めた。ぼくの手を握った彼女の両手が、内側からぼおっと白んで、明るい光に満ち始めたのだ。光は彼女の手を透き通って、赤い血色を闇の中に浮かび上がらせた。

 ぼくは自分の手が温かいぬくもりを感じるだけでなく、溌剌とした明るさや伸びやかさが浸透してくるのを感じた。ほとんど信じられない思いで、ぼくは自分の右手に染み入ってくる白い光の玉を見つめた。右手から入ったあと、その光の玉はゆっくりと全身をめぐっていくようだった。ぼくのやさぐれた毛羽立った心の傷に、白い光は蜜のように沁み込んで、ぼくを幸福感をふちいっぱいまで湛えた花瓶のようにした。

 真っ暗な夜の街は、まだ静まり返ったままだった。ぼくはいつのまにか夜の街にひとりぼっちで立っていて… 次の瞬間に、知らない部屋で目覚めた。しばらく記憶を振り返って、そこがレゲエの鳴るクラブで意気投合した女の部屋だと見当がついた。意外にも女は看護師だったらしく、早くも出勤したようだった。「鍵を閉めて郵便受けに入れておいてほしい」という乱雑なメモ書きが残されていた。二人とも酔って寝てしまったのだ。

 そしてここで、冒頭で話した姉妹部屋への不法侵入も、街をふらつきまわっていたせいで疲労困憊していたぼくが、彼女に何もしないまま眠ってしまった話だったことを、告白しなければならない。以後、その同級生には無視されるようになったというオマケつきだ。

 エンロンの粉飾会計を描いた映画に、トム・ウエイツは「God's Away on Business」という曲を寄せている。カジノ資本主義での利益追求至上主義を皮肉って、しわがれ声で諷刺のきいた歌詞を響かせている。エンロン社の放漫経営は、カリフォルニアの大規模停電まで引き起こした。実際に、「神様は仕事で地球を留守」にしてしまったというわけだ。

 今でも、夜の森を散歩していて、光が失われて真っ暗になると、どこかのターンテーブルトム・ウェイツのレコードが回り出すような錯覚にとらわれてしまう。彼のしわがれ声が歌っているのは、ぼくの好きな「(Looking For) The Heart Of Saturday Night」。ガール・ハントに明け暮れる空しい日々を歌った孤独な歌だ。

 今日話した二つの土曜日でも、ガール・ハントは失敗に終わった。我が人生最高の土曜日の話が、結局ふたつとも、あっけない夢オチのワンナイトラブ未遂に終わったのは事実だ。事実だから仕方ない。

 あきれた顔をしないでほしい。

 あのころ以来、ぼくはあの白い光の玉の夢を何度も見るようになった。イラストに描いて、名前まで付けるほど親密な仲になった。本当だ。白い光の玉が夢オチだからつまらないのではなく、繰り返し夢で反復されることが、ぼくの人生上の事件になったのだ。

 ぼくは直感で、あの白い光の玉は、何らかの生命力のこもった霊的なエネルギーだと確信している。

 いずれにしろ、ぼくにとっての「The Heart Of Saturday Night」は、あの夢の中で手を握って伝えてもらった白い光の玉、そのぬくもり、その溌剌とした明るさや伸びやかさだ。ぼくにとっては、あれこそが街をうろつきまわって「探し求めていた土曜日のハート」なんだ。

 

 

 

 

 

ふわもっち ハートクッション ラズベリーピンク 2504-294

ふわもっち ハートクッション ラズベリーピンク 2504-294