衝撃→白紙→洗脳
日本一短い渡し舟が、街の外れにあると教えられて、知人の案内で乗船した。航路わずか80m、約1分の船旅だが、市道2号線の一部なのだとか。「日本一短い渡し舟」で検索すると、120mの音戸の瀬戸が出てくるが、短さなら三津の渡しに軍配が上がりそうだ。紙飛行機が風に乗れば、対岸まで届いてしまいそうなくらい近い。
知人は町興しのために、その近所で郷土料理の鯛めしを客に振る舞っているらしい。店を構えているのは、正岡子規の兄弟弟子の実家だった古民家。往時の風情に満ちた登録有形文化財だ。伝説の開かずの金庫があるという噂も、どこかで耳にした。知人は郷土料理屋だけでなく、蔵や古民家を改装して、ジャズ・コンサートを開いたりもしているらしい。そこへアン・サリーを招聘した実績もあるのだとか。
近くの三津埠頭には、正岡子規のこんな句碑が立っている。
十一人
一人になりて
秋の暮
日清戦争に従軍して体調を崩した子規は、松山にある漱石との下宿先「愚陀仏庵」で療養したのち、再度上京して、やがて病没することとなる。その最後となる上京の三津浜での送別会に集まったのが11人。もちろん漱石も含まれていた。11人→1人の人数減は、はからずも漱石たちと、そしてこの松山の地との「最後の惜別」を表すこととなった。子規は三津浜から船で旅立ち、二度と故郷へは戻らなかった。
船の行き交う水辺の町といえば、イタリアのヴェネツィアや中国の蘇州がよく知られていて、最近そこへ大阪が名乗りを上げたのも記憶に新しい。水都大阪を推進する旗振り役は安藤忠雄が務めていた。
ただし、美しい水の都を実現するには、水質浄化が不可欠だろう。水質が改善しているとの報告もあるが、数年前に中之島から水上バスでクルーズしたときには、もう少し浄化できそうな印象を感じた。
水質浄化に関しても、日本は世界有数の技術輸出国だ。炭素繊維や納豆菌や牡蠣などが用いられ、目覚ましい成果を上げている。炭素繊維自体には水質を浄化する力はないものの、その微細な糸の隙間に微生物やバクテリアを呼び込み、ビオトープを再生することによって流域を浄化するという発想は、筋が良さそうに感じる。
さて、記事をここまで書いているあいだ、背景で鳴っていた楽曲を当ててほしい。ヒントはすべて織り込んであるつもりだ。
答えは、この愛聴曲。
「蘇州夜曲」の作詞は西條八十で、日本のコクトーとも言われたことのある詩人だ。実際に遊学中にコクトーの講演を聞きに行ったこともあるらしく、帰りにコクトーのものらしきシトロエンに、ファンから薔薇が投げ込まれているのを目撃したりもしたらしい。若い頃には苦労して、新橋に「天三」という天麩羅屋を開業して糊口を凌ぎ、そこへ友人だった日夏耿之介や堀口大学(英仏の名高い翻訳者)が日参したらしい。どんな天丼を注文したのかは知らないが、彼らの友情は特上だったにちがいない。
西條八十は少女向けの抒情詩や作詞や童謡などまで幅広く手掛けたが、現代の日本人の記憶に最も残っているのは、金子みすゞを発見した功績だろう。
現在の山口県長門市に住んでいた金子みすゞは、旅行中の「師」に数分会うためだけに、下関駅まで駆けつけたらしい。その3年後に自殺してしまった彼女を偲ぶ一文で、西條八十が描いた金子みすゞの姿が可愛らしい。
初印象に於ては、そこらの裏町の小さな商店の内儀のやうであつた。しかし、彼女の容貌は端麗で、その眼は黒耀石のように深く輝いてゐた。
「お目にかかりたさに、山を越えてまゐりました。これからまた山を越えて家へ戻ります」と彼女は言った。
ある「惨事」がきっかけで、日本人に膾炙した金子みすゞの詩を覚えている人は、まだ多いのではないだろうか。
記事の途中だが、大事なニュースが入ってしまった。大変遺憾ながら、ここで「水質浄化」ではなく「民族浄化」の話をしなければならない。
「民族浄化 ethnic cleansing」とは、ボスニア対セルビアの紛争対立において、ボスニア政府に雇われた広告代理店が、徹底的なセルビアの風評下方操作を狙って仕掛けたキャンペーン用語である。いかに欧米のメディアにナチス・ドイツを連想させるかだけに腐心したキャンペーン用語リストには、ほどなく「強制収容所」が加わり、必ずしもナチスの強制収容所に似ていない捕虜収容所についても、写真の効果が最大限に活用されて、必要な効果を挙げた。対立するセルビア側が、別の「戦争広告代理店」にPRを頼んだときは、すでに定着していたセルビア側のナチスじみた悪印象から発注を断られ、万事休す。「情報の死の商人」は、国際世論の舞台で、一方だけを黒に、一方だけを白に塗り上げることに成功したのである。
確か2003年に始めた処女ブログでも、同じ「情報の死の商人」の手による「ナイラの涙」に言及したような記憶がある。湾岸戦争勃発は1990年。今から四半世紀以上前のことだ。
心理的動員目的の情報戦争の行方を追ったその後の重要な成果としては、ナオミ・クラインの『ショック・ドクトリン』 を挙げなくてはならない。
ここで使われている用語は「shock doctrine」もしくは「disaster capitalism」。ある社会が、政変や自然災害などの危機に見舞われ、ショック状態になったときこそが、市場原理主義の導入の好機となるとする「政策」である。
ナオミ・クラインは「ショック・ドクトリン」の「臨床研究」として、「Blank is beautiful」というグロテスクな標語を唱えるCIA御用達の科学者たちが、洗脳や拷問をさらに高度に完遂すべく、被験者にぎりぎりの過剰な身体的ショックを与えて、人の脳を「白紙状態」にする研究が行われていた史実から、この浩瀚な告発の書を説き起こしている。
訳者が気を利かして、「災害資本主義」ではなく「惨事便乗型資本主義」と訳し直して、ナオミ・クラインの主張の重要性を洩らさず伝えようとしているものの、2011年9月に邦訳されたこの本でも、遅かったという印象は否めない。それは、3.11の東日本大震災に間に合わなかったというだけでなく、そこで行われていたあまりにも闇深い謀略を照らすには、やや光量が不足していたからだ。
9.11の真相を知り、3.11を経験した日本人には、別の訳語がありうる。勝手に新たに命名し直すことを許してほしい。「惨事動員型資本主義」と呼び直してもかまわないだろうか。悪の手先たちを動員して惨事を引き起こし、その惨事によってショックを受けた人々を動員し、所期の政治的経済的目的を達成する謀略。
「予定通り」、原発の安全装置は外され、東日本大震災が発生し、原発はメルトダウンした。この「予定通り」という副詞句は、事実として、上の文章のどこまでを修飾していると解釈すべきなのだろうか。
上の記事ではあのように書いたが、3.11はもちろん津波だけでは終わらなかった。金子みすゞの公共広告機構の CMと同じくらいの圧倒的な高頻度で、この母娘のCMが流されていたことを、この国の人々は記憶しているだろうか。
東日本大震災後、テレビで執拗に反復されたこの「検診のすすめ」の背後では、日本の未成年の少女たちへの「予防ワクチン接種のすすめ」が国策として進められていた。2010年から2013年まで、子宮頸がんワクチンの予防接種は、厚生労働省によるワクチン接種「緊急促進」事業だった。
何をそんなに緊急に急いでいたのだろうか。間に合わせなくてはならない「予定」でもあったのだろうか。その3年余りのあいだ、日本の未成年の少女たちの接種率は7割弱にまで高まったという。
まったくナオミ・クラインの言うとおりだ、と溜息が出てしまう。甚大なショックを与え、人々の脳を「白紙状態」にして、同一情報のシャワーによって洗脳する。……
当時国会で予防接種法の改正に唯一反対した元参議院議員が、子宮頸がんワクチンがどう見ても不必要なのに、どう見ても不自然な拙速さで承認された過程を、国会質問の議事録を引用しつつ、この本に記録している。現在は山本太郎参議院議員の秘書をしているのだとか。その人脈のあり方が、この国で数少ない誰がまともな正論を吐いているのかを、またしても人々に思い起こさせる。
子宮頸がんワクチンは必要ありません 定期的な併用検診と適切な治療で予防できます
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主流メディアに親しみすぎている人々には、まだ信じられないという気持ちの方が強いかもしれない。原発の安全装置の取り外しがメルトダウンさせるための意図的なもので、3.11が外国勢力によって引き起こされた「人工地震」で、外国勢力に浸透された厚労省ぐるみで「民族浄化」が挙行されていた可能性があるなんて…。そんな非現実的な考えは、ネットの片隅にしかない妄想なのでは?
OK。気を落ち着けて、オープンマインドで冷静にこれを見てほしい。そういう人たちがお気に入りの主流メディアでも、一種の「民族浄化」について、こんな格好の補助線を提供してくれている。
太平洋戦争、日航機「墜落」事件+プラザ合意、日本バブル崩壊、阪神淡路大震災+オウム真理教事件。……
1度目の敗戦から約10年後、戦後の復興のさなか、大江健三郎は「奇妙な仕事」「死者の奢り」「飼育」などの短編で、日本の文壇に鮮烈なデビューを飾った。サルトル由来の実存主義的な主題展開や詩情と斬新さのこもった欧文翻訳調の文体もさることながら、そういった舶来の意匠を剥ぎ取ると、そこには敗戦の刻印、死者の存在感、残存しつづける被支配の屈辱が避けがたく刻まれていた。
磯田光一は『戦後史の空間』で「占領の二重構造」を語るにあたり、
ここで大江健三郎氏の『不意の唖』と『人間の羊』との内的連関に触れないわけにはいかない。
と、やや切迫した口調で、最初期の大江健三郎の短編群を手繰り寄せている。
大岡昇平の『俘虜記』は、被支配者の捕虜の中に、支配者に媚びへつらう者とそうでない者が発生して対立するさまを描き、それが同時に占領期の戦後社会の戯画ともなるよう小説化されていた。
大江健三郎の『人間の羊』では、占領下の日本で、米兵に屈服する日本人と正義感にあふれて抵抗しようとする日本人が登場し、前者が後者に暴力を振るう。(日本の現在の状況に、まるでそっくりだ)。「屈服した日本人」は、自分たちの精神状態をこう説明する。
唖、不意の唖に僕ら《羊たち》はなってしまっていたのだ。そして僕らの誰一人、口を開く努力をしようとしなかった。
もし、この被害者の容態を見ても何も感じず、何も言うべき言葉を持たないのなら、あなたも「人間の羊」確定だ。
「犬殺し」を描いた「奇妙な仕事」は自分が偏愛する短編だし、「飼育」は歴代の芥川賞受賞小説の最高峰だと見てきっと間違いない。それでも、今世紀最も輝きを放つ大江健三郎の初期短編は「人間の羊」で決まりだろう。
実はすでに世界中の人たちがそのことを知っている。最初期の目立ちにくい短編を取り上げても、大江健三郎はやはり世界の人なのだ。「人間の羊」の最適な訳語である「sheeple」は、今や希望や愛や民主主義を求める世界中の人々の語彙の中に存在している。
検索してみると、「sheeple」の最もよくあるコロケーションは「wake up」のようだ。
目を覚まして空を見上げよう。二足歩行で独立独歩しよう。自分の頭で考えよう。最初は太陽が眩しくて眼が痛むかもしれないが、歩きだそう。私たちの希望の手がかりは、すぐそこにある。紙飛行機が風に乗れば届きそうなくらい近くに。
歩きながら口ずさむ詩句はルネ・シャールが良いかもしれない。
覚醒は太陽に最も近い傷口
覚醒さえできれば、私たちを導く光が、すぐそばにあることがわかるだろう。