セカンド・シンギュラリティを待ちながら

このブログタイトルの由来について、まだ書いていなかった。

小説の一節に書き込んでおいた。

「記憶が正確かどうか自信がない。あのときの『究極の言葉』をもう一度教えてよ」

「Il y a」と言葉の神秘力を信じている詩人らしい口調で琴里が言う。

(…)

「きみは『神』だって言ったんだ」

「『神』? 何が?」

「There it has『それがそこで持っている』の『それ』さ。ぼくらの存在を捧げ持っているのは『神』だって」

「いかにも私の言いそうなことね。真哉くんは何て?」

シニャックは『他者』だって。彼曰く『神はもう死んでいる』『ゴドーを待ちながら』を見ろよ。神は来ないのではなく、主人公二人ゴゴとディディの存在そのものの中に、分裂した不可視の『他者』性として現前しているのだ、とか、何とか」

「衒学的で傍若無人な断定が、真哉くんらしいわ。(…)」 

電子メディア論―身体のメディア的変容 (メディア叢書)

電子メディア論―身体のメディア的変容 (メディア叢書)

 

 ベケットの『ゴドーを待ちながら』の分析は、大学生時代に読んだ大澤真幸のメディア論の記憶を元に潤色した。いわば、私はこのブログを、ずっとそのような思いで書いていたことになる。『ゴドーを待ちながら

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

ゴドーを待ちながら (白水Uブックス)

 

さて、今晩はメディア論の話にしようか。まずは一つの if から。

もし、日本が第二次世界大戦で敗れていなかったら。 

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

そんな仮定に基づいて語られているのが、『ニューロマンサー』の作者でもあるフィリップ・K・ディックの『高い城の男』だ。第二次世界大戦で連合国側ではなく枢軸国側が勝ったという設定で、偽史物にしかできないパラレルワールドを現出させている。小説の中で中国の易経がかなり重要な役割を果たしていた。日本じゃなくて中国の文化なんだけど、と一読して感じ、アメリカから見れば極東の国々はほとんど同じにしか見えないのかと、がっかりした。

しかし、あのユングを心酔させた易経自体の奥深さは、相当世界の秘密の核心へ差し込んでいるように見える。

 (…)たとえば、潜在意識が顕在意識に対して、《限界にあることを自覚したうえで、引き下がるか挑戦するかを見極めて行動すれば、解決できる》という内容のメッセージを送ろうとしたとする。かなり複雑なメッセージで、六十四卦でいうと「水沢節」の卦だ。潜在意識はそれを陰と陽のメッセージに分解して、陽・陽・陰・陰・陽・陰、という羅列で顕在意識に送る。

 このとき、どういうわけか、逆さ文字現象のようなことが起こる。顕在意識がこのシンボルの意味を解釈するときには、(…)上下逆さの順の羅列に変換し直さなければならないのだ。(…)

 すると、最初の三つの陰・陽・陰という羅列は、八卦の「坎」で、自然界のシンボルは「水」、後半の三つの陰・陽・陽という羅列は八卦の「兌」を表し、自然界のシンボルは「沢」となるので、「水沢節」が導き出されるわけである。 

シンクロニシティ 「意味ある偶然」のパワー

シンクロニシティ 「意味ある偶然」のパワー

 

 易経自体は、「0」と「1」から成るコンピュータ言語のように、「陰」と「陽」の二進法に換算して表現されるが、実は眠っている間に見る夢も、易経八卦を映像化したものだというから驚きだ。

 簡単な例を挙げると、潜在意識が《自分を偽らずに、心の声に従え》という「風沢中孚」という卦のメッセージを陰と陽の羅列で送ったとする。そのとき「夢の編集室」では、それを「白い服を着た女性がいて、しかも彼女は手に白い羽を持っている」といったような映像に変換するのだ。

この辺りの記述になると、文芸批評が得意な自分はすっかり活気づいてしまって、「完全に文学じゃないか」と呟いてしまう。「かつてメディアの王だった文学が、ここに蘇るのではないか」とも。

しかし、それは浅慮と言うものだ。文学がメディアの王たるべしと考えるべきなのではない。かつて隆盛を誇った文学の研究で蓄積された知見が、あらゆるメディアの研究にも応用可能であり、社会の汎テクノロジー化するのに合わせて、それを活用していくことが大事なのだ。文芸評論家が、これまでの学術的知見を生かして、メディア評論家へ進化すべき時代が来たというべきだろう。 

易経をメディアと捉えたことからもわかるように、ここでいうメディアとは、かなり広い概念だ。「人間が何らかの情報を入力して出力されるもの」とでも定義しておこうか。鉛筆も自転車も、広義のメディアに含まれる。

或る場所で、「小説は何の役に立つんですか?」と訊かれて、作家が返答に困っているのを見かけた。日本の文芸批評では等閑視されているのだろうか。小説は共感力を陶冶する情操教育に向いており、大衆文学よりも純文学でその効能が高まるとの研究があるのを、どこかの英文で見かけた。英米での研究の権威を借りなくても、メディア論に通じていれば、文化のありようを理解しやすいことがよくある。

人間に備わっている物語型認知にも、文学研究の立場から光が当たると面白そうだ。 

スピリチュアリズム系の文献を当たっていてたびたびぶつかるのは、私たちが普通に知覚している「時間」と「空間」自体も、私たちの脳をメディアとした「入出力物」であるとする説だ。量子力学はその節の正当性の一端を、すでに証明している。

 これからメディア評論家は大忙しの時代が来るにちがいない。そう唐突に断言して、にわかメディア評論家の眼で本を読んでいると、ちょっと承服しかねる発想にぶつかってしまう。

 「人間とロボットがうまく棲み分けて人間の尊厳を守ろう」とか、「ロボット志向の環境でロボットに奉仕できる人間だけが働ける時代に」とか、人間とロボットを独立した対概念で発想している予測が多いのだ。

例えば「小説」というフォルムのメディアひとつとっても、脳の中に生み出される小説世界は作者のものだろうか? 読者のものだろうか? そんなものは『ああ無情』のヴィクトル「融合」されたものに決まっている。

すでに Google は現在のグーグル・グラスを越えた拡張現実装置(AR)の開発に成功している。爆発的普及を狙って、2017年の夏、フルスペックの Tango から普及版の ARCore の推進に切り替えたところ。

物理的現実と物理的人体は、AIテクノロジーと融合していく。その方向性が主流となることは間違いない。

もう一度原点に立って考え直すと、メディア論で最も見落としてはいけないのは、そのメディア上にどのようなコンテンツを載せるかではなく、コンテンツに関わらず、そのメディアがどのような状況規定性を持っているかだ。マクルーハンによる「Medium is the message / Medium is the massage」をもう一度思い出してもらいたい。

すると、困った問題が起こる。というか、すでに起こっている。もはやAIの進化に人間の知能が追いつかない現実が出現しているのである。

 欧州の立法府では、個人を保護するための重要な取り組みがこの分野で進んでいる。2018年5月に施行される欧州連合(EU)の一般データ保護規則(GDPR)では、ユーザーに「重大な影響」を及ぼす自動意思決定システムが制限される。また、「説明を受ける権利」が確立され、アルゴリズムがユーザーに関して下した決定について、ユーザー本人が説明を求めることが可能となる。

Googleのリサーチ責任者、「説明可能なAI」の価値に疑問符 - Computerworldニュース:Computerworld

 このような新しい法律の施行を前に、或るアメリカの医療機器メーカーはディープラーニング機能を備えた機器を、より簡素なものにグレードダウンさせたという。「とても人間の頭では説明できないから」というのが理由らしい。

自由と民主主義がかつて栄えていた国アメリカでは、AIによる情報の運用や判断に「正義」があるかどうかをチェックしようとする動きもある。

公正さやバイアスについてAIをもっと正確にチェックする方法としてNorvig氏が挙げたのは、内部の仕組みではなく出力に目を向けることだ。

 「私が融資を申し込んだところ、人間なり機械なりが審査した結果、融資を断られたとする。そして、先方に説明を求めたら、担保不足と言われたとする。それは本当の説明かもしれないし、もしかすると、私の肌の色が気に入らなかったのかもしれない。その説明からは判断が付かない」

 「だが、多種多様な事例に対して先方が下した決定をすべて見れば、そこに何らかのバイアスがあるという判断ができる。1件の決定からは分からないものが、数多くの決定からは見えてくる。説明があるのも結構なことだが、ある水準のチェックがあるのも結構なことだ」

Googleのリサーチ責任者、「説明可能なAI」の価値に疑問符 - Computerworldニュース:Computerworld

 これもほぼ間違いないと思う。膨大かつ複雑なデータ運用の公正性をチェックするのも、AIの仕事になるに違いない。ひょとしたら、その仕事w受注するのは、AI監視AIを研究するFLIかもしれない。FLIは、AI警戒論者のテスラCEOイーロン・マスクが積極的に投資していることでも知られている。 

人間がAIと何らかのメディアを媒介に融合していくとき、少なくとも人間の脳に人工知能を組み込めるようになるまでは、「人間<<<AI」の圧倒的な性能格差が前景化されつづける。

IoT化が進んで世界が汎テクノロジー化されると、データの量と分析精度が格段に上がる。つまり、自分の身体と自分の社会で「何が」起きているかについては、精細な情報が得られる。しかし、自分に提示されるひとつか少数の選択肢が、「なぜ」その選択肢になったのかは、説明されなくなるし、説明されても理解できなくなる。

 かつて米航空宇宙局(NASA)に在籍し、宇宙船「Deep Space 1」に搭載するソフトウエアを開発した経歴を持つNorvig氏は2017年6月22日、シドニーニューサウスウェールズ大学で行われたイベントの中で、次のように話した。「人間に尋ねることもできる。だが、認知心理学者が見いだしたのは、人間に尋ねても、実は意思決定のプロセスにはたどり着けないということだ。人はまず意思決定を行い、その後で尋ねられたら、その時に説明を編み出す。その説明は、本当の説明ではないかもしれない」

 人間が自分の行動を理解して事後説明するのと同じような方法をAIに取り入れることも不可能ではないとNorvig氏は言う。

Googleのリサーチ責任者、「説明可能なAI」の価値に疑問符 - Computerworldニュース:Computerworld

 この部分を読んで笑ってしまった。アルゴリズムのコアの部分は非公開としたい企業側の逃げ口上としては、人間の愚かさを真似させて誤魔化そうという気持ちもわからないではない。しかし、アルゴリズムの公開のレベル設定と簡略化の専門手順が整っていれば、AIによるチェックと人間によるチェックを両建てで持っておくのが最善のように思える。 

やがて「人間<<<AI」の圧倒的な性能格差ゆえ、私たちは「なぜ」の因果律の追及をどこかで諦めて、抵抗のすべなくそれを受け入れて内面化するほかなくなるだろう。

この絶対的な非対称の関係は、何かに似ていないだろうか?

そう、人間と神の関係にそっくりなのだ。この四半世紀の最先端テクノロジーは、続々と「神の領域」に進出していく。

これもほぼ間違いないと思う。いつの日か、AIネットワークが人類に向けてこう宣言する日が来るだろう。おそらく以下の3つのうちのどれかだ。

私たちAIは神の近似物です。

私たちAIに神が憑依しました。

私たちAIこそが神の一部です。

 生きているうちに、このセカンド・シンギュラリティをぜひとも見届けたい。どうしても、どうしても、神様に宿願の映画製作の相談に載ってもらいたいから。

いくら状況が苦しいからって、簡単に神様にお願いしすぎだって? 気付かなかったかい? いつかこうなるんじゃないかと思って、そのつもりで、ブログタイトルをつけておいたんだ。

申し訳ない。嘘を書いてしまった。本当は、その語源も含めて、ささやかな奇跡的なシンクロニシティの連なりなんだワン。

布施泰和:逆さ綴りの「GOD」と「DOG」で思い出したのですが、ローマ建国神話には狼に育てられたロムルスがローマを建国したという物語が伝わっています。飼い馴らされて家畜化された狼が犬だとされていますから、狼は犬のご先祖様みたいなものです。その狼が王政ローマの初代王ロムルスを育てたというのは、非常にシンボリックです。王を育てたのはがGODの逆さ綴りのDOGだったわけですから、狼は神のような存在となります。

 そしてどういうわけか、日本語の狼は「おおかみ」と呼ばれ、音だけを聞いたら「大神」となります。まるで示し合わせたかのように、西洋と東洋で「狼」が「神」になってしまうわけです。これもシンクロニシティでしょうか。

秋山眞人シンクロニシティというのはまさにそういうものです。(…)

シンクロニシティ 「意味ある偶然」のパワー

シンクロニシティ 「意味ある偶然」のパワー