晴れ時々、UF6

正月休み。完全に身体が空いているわけではないにしても、散策するくらいの時間はあるので、冬場の空を見上げて、明日は晴れだろうな、雪や雨が降るしても、ほんの少し。「時々」にちがいないなどと考えていた。

街並みを楽しみながら散歩していたのだ。

このブログでも書いてきた通り、自動運転車の普及が都市計画を根本から変えるだろうと、未来予測本には書いてある。ただ「自動運転車が普及しても」と仮定したとしても、たぶん自分は自分の足で歩くのが好き、自分で車や自転車を運転するのが好きなままの予感がする。たぶん同じ仮定を問われたベンヤミンも、同じように応えるのではないだろうか。

パリの街並みを散策する行為自体に、ベンヤミンは哲学的意味を見出した。人気番組名に引っ掛けていえば、いわば「ブラヤミン」だったのだ、彼は。

上記のような煌びやかなパリのパサージュを遊歩するだけでなく、様々な本の間を散策することにかけては、同時代にベンヤミン以上の存在はいなかったのではないだろうか。あまりにも多彩、あまりにも縦横無尽で自由自在だったので、「ベンヤミンを体系化しようとするあらゆる試みは挫折する運命にある」としばしば語られる。街路から街路へ、書から書へ。20世紀最高の「遊歩」名人はベンヤミンで決まりだ。

阿久悠作詞の名曲にも、「遊歩」を強力に打ち出した名曲があって、幼稚園の頃の自分もみんなで踊って遊んでいた。

困ったことになった。自分は晩年のユングに嵌まりつつあるのだが、晩年になればなるほど世評が芳しくない。。フロイドの弟子のユングは師匠に比べてオカルト狂いだとして軽んじられることが多いのだ。

しかし、最晩年、錬金術の研究に没頭するユングを人々は笑ったが、常温核融合の隣接分野で、「元素変換」という錬金術が実在することは、すでに科学的に証明されている。

その学術的方向性の狂気に似た正確さひとつを取っても、若く美しい精神科医志願患者との色恋沙汰に巻き込まれたこの師弟のうち、自分はユングの方を取りたくなる。さまざまな神秘体験やシンクロニシティに愛されたという点で、どことなく親近感を感じてしまうからということもある。 

危険なメソッド [DVD]

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 さて、「オカルト狂い」という誹謗中傷で名声を失いつつあった心理学者ユングの最晩年。最後の遺作が何だったかをご存知だろうか。真打ち登場! 

空飛ぶ円盤 (ちくま学芸文庫)

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 ネット上にあるレビューを見ると、ユングが「UFOは集合無意識の心的投影である」と考えていたので、一般的なUFOマニアとは別の存在だという指摘が多い。ところが、実際に読んでみると、必ずしもそうとは言い切れないのだ。

 ユングは多数の目撃情報から、UFOが「現実のもの」であり、「ごく普通に考えてこれ以上疑う余地はなさそうである」とした上で、第一の仮説をこう説明する。「反重力という問題も、UFO現象は提起しているが、これは物理学にまかせるほかない」。第二の仮説として、「UFOがある物理学的特性をおびた、心的な何ものかであるという矛盾した見解は、ほとんどありそうもない」。では、ユングの信じる有力な仮説とは、何なのか。ユングは条件つきで、以下のような第三の仮説を提起する。

UFOは実際的に物質的な現象であり、未知の性状をもった存在なのである。

 つまり、3つの仮説のいずれも、物質的特性があることを信じるものなのである。錬金術シンクロニシティなど、多くの神秘に愛されたユングは、ここでも根拠なくUFOを否定せずにすむ幸運を生きているようだ。

となると、遊歩の足を延ばして、UFO好きの日本の大作家についても語らねばならないだろう。三島由紀夫のUFO好きは、研究者の間ではかなり知られた逸話だが、まさか会員数のべ1000人以上の団体の会員番号12番をゲットしているとは思わなかった。この人は、何かに夢中になると、寝食を忘れて子供のように夢中になるところがあると、語り伝えられている。

 「……妻が、『アラ、変なものが』と言った。見ると、西北の黒雲の帯の上に、一点白いものが現われていた。それは薬のカプセルによく似た形で……西へ向って動きだした。……円盤にも葉巻型というのがあるのを知っていたから、それだな、と思った」(「社会料理三島亭」)

 このUFO研究体験が小説となり、2017年に映画化されたDVDを今朝鑑賞した。以下、ネタバレを気にせずに書いていくので、ご注意を。

これは一般人が見たら、かなり持て余す映画なのではないだろうか。辛口レビュアーの皆さんは、ほとんど映画化不可能な原作を、かなりの「剛腕」でよくぞ一般人でも楽しめる映画にしてくれたという三島ファンの感慨を知らないのだろう。はっきり言うと、原作とはまったく違う話になっている。公式サイトに比較表もある。 

 forget-me-notの語源の挿話がcoolかどうかはともかく、花と死の結びつきは世界に普遍的に存在する。そして、それこそが「人類を滅亡から救ってやる美質」なのだと説いた珍しい小説があったことを思い出した。

 人類を救おうとする人々と滅亡させようとする人々が衝突すると書けば、幼児向け番組から大人向けまで、多すぎる類似作品が思い浮かんで煩く感じるだけだが、この小説には地球防衛軍ウルトラマンも登場しない。三島の独創は、人類を滅亡させるか否かを、ハイデッガーの哲学用語を駆使しながら、ほとんどシャンタル・ムフ的な闘技的熟議でやってのけたことにある。

 三島の生涯を追った或るドキュメンタリーは、「あの人はデカイ虚無です」と親しかった詩人が正鵠を射た発言をする場面で、そのノンフィクションを終わらせていた。三島はニーチェからハイデッガーに至るニヒリズムの系譜を内面化しているので、人類を滅亡させる側が投げつける主張や呪詛には、かなりの冴えがある。これでは人類を救おうとする側の反論が負けてしまうかもしれない、と読者が危機感を感じたところで、作者は人類を救うべき論拠をわずか数行にこう要約する。

 

「彼らは嘘をつきっぱなしについた」

「彼らは吉凶につけて花を飾った」

「彼らはよく小鳥を飼った」

「彼らは約束の時間にしばしば遅れた」

「そして彼らはよく笑った」

 

上記の第二項に関して、作者は登場人物にこう説明させている。

 彼らは吉事につけ凶事につけ花を飾った。この萎みやすい切花のふんだんな浪費によって、彼らは幸福が瞬時であることは認めながら、同時に不幸も瞬時であってほしいと望んだ。

それらが人類を救うに足るほどの美質なのかは判断が難しいところだが、元人類が自分を鏡に映して見た割には、何と可愛らしい「自画像」を描いたのだろうと、くすくす笑いが洩れてしまう。

ここで「自分が地球を救う使命をもって地球に生まれ直した宇宙人だと気付くこと」を「覚醒」と定義すると、或る日卒然と一家丸ごと覚醒するのではなく、主人公一家が別々に次々に偶発的なきっかけで覚醒していくシナリオ運びがいい。これは最近のスピリチュアリズム関係者がよく言う「スピの座上昇気流」の流れとよく似ている。さらに、原作では敵役が「核兵器による地球の滅亡」を願うのに対し、映画の敵役は覚醒した宇宙人の監視役のような位置にいる。地球を救いに来た宇宙人たちが、輪廻転生しながら、何度もミッションを果たそうとするのを補佐する役目となるのだ。映画の出来は別として、こういうスピリチュアリズムの真理が投影された映画が、2017年に公開されたことの方に意味を感じてしまう。

前掲の「人類の愛すべき五か条」が、いつ出てくるのか楽しみにしていたら、何とあっさりカットされていた。どうせ、ここまで大手術をするのなら、もっとコミカルタッチにした方が良かったかもしれないと感じた。

例えば、 台湾のテレビ局では、番組の収録中に音響効果の達人がその場で効果音をつけていく。

そして、驚いたのは、
バラエティ番組でよく使われる、「ボヨヨヨヨーン」

「ファンファンファァァン」などの効果音は、

その場で流していました
効果音は後から付けるものだと思っていたので、
絶妙なタイミングで流れる効果音は、
どこから流れるんだろうとキョロキョロ探しましたが、
よくわかりませんでした。 

映画でも、主人公が対立する政治家の発言中に映像加工を施すところが一番盛り上がったので、番組スタッフ内を主人公派とアンチ主人公派に二分して、オンエア上で対決させるのを観たかった気もする。政治家と主人公のやり取りに、笑い声や通販番組風の嘆声や各種BGMをかぶせて対決しあったら、抱腹絶倒だっただろうな。

映画のシリアスなパートで光っていたのは、末期癌の主人公を家族が「誘拐」して、「お迎えUFO」へ連れていく道すがら、夜の森で自由すぎる牛に出会うところ。

あの牛は、自分がここで書いた福島の野生化家畜だったにちがいない。「お迎えUFO」は、福島の原発周辺の立ち入り禁止区域に着陸したようだった。  

『美しい星』の原作が書かれたのは、キューバ危機に代表されるような米ソ核大国の冷戦中のことだった。映画版が冷戦以後の新しい世界的な枠組みを、積極的に取り込もうとしていることは評価できる。ちらっと核融合の話も出てくるし、人類滅亡誘導型の敵役は、NWOよろしく「アフリカに少しだけ人類を残して、再度やり直させようか」とまで口にする。

しかし、その中心が「地球温暖化」なのには、個人的に少々不満だった。それが自分の限界だと言われようと、どうしても「別解」を頭に思い描いてしまうのだ。 

日本の常識は世界の非常識。トレンドの転換点は2009年のクライメート・ゲート事件だった。

  • 2013年、地球温暖化人為説を信じているアメリカ国民は24%。
  • 2013年、オーストラリアの気候変動・エネルギー省廃止。翌年、炭素税廃止。
  • 2015年、スイスの炭素税導入の国民投票は賛成が8反対が92。 

他人の解答用紙を採点したいなんていう欲望はさらさらない。今晩は、もともと個人的な興味に合わせて、原作にあったハイデッガー経由のニヒリズムについて書くつもりだった。映画は原作とは大きく異なるものになっていたが、ハイデッガーなんてまったくわからなくてもいいと思う。ただ、「核の恐怖」思想小説を生み出した現実は確実にあったので、それを現代化するという難業には、難業にふさわしい概念操作作業が要求されるというだけのことなのだろう。むしろ、『美しい星』では、あんな風変わりな思想小説を、映画化しようと考えた蛮勇の方に驚くべきなのだろう。

個人的には、「スピの座上昇気流」をうまく捉えたこの映画を、2018年の最初に観られたことが嬉しかった。

 せっかく、映画化候補小説に三島由紀夫を入れてくれるのなら、次の映画化は『命売ります』が良いのではないだろうか。そう提案しようと思って、検索をかけたら、今月ドラマ化されて放映されるらしい。最近、やけに売れていると噂の娯楽小説。時間が許せば見てみたい。 

さて、UFO周辺を遊歩したあとは、なぜユングと三島がUFOに惹きつけられたかについて考えてみたい。そこに、日本の文芸批評がこれまで言及してこなかった未知の水脈があるというのが、自分の読みだ。

ここでいう「伝統への結びつき」とは、シュタイナーにおいては、自然や人間や事物のすべての存在に神が宿っているとした汎神論的「霊学」に、ベンヤミンにおいては、人間の言語と自然の事物それぞれが持つ言語が交響しあう「魔術的共同性」に、遡行的につながっている。

ベンヤミンに導かれて、いつのまにかロマン派から系譜を手繰ってドイツ神秘主義を長々と呼び寄せてしまったが、ここはドイツではなく日本。

シュタイナーの影響を受けたカール・グスタフユングを媒介にして考えれば、民族的共同性の深層へ分け入って近代の孤独の溶融を図ろうとした三島由紀夫(隠れユンギアン)と、現代の孤独な個人が心の奥に掘り下げられている井戸の深みで(他者や前近代的民俗と)つながっていることを主題にする村上春樹(公認カワイアン)が、かなり強い連関で繋留されているのがわかるだろうか。

おそらく、そこに日本の文芸批評が探しあてるべき未知の水脈がある。

 自死に至る最後の5年ほど、三島由紀夫がドイツ語でユングを読んでいたことを、親しい編集者だった椎根和に教えられた。偏愛中の偏愛の画「セバスチャンの殉教」に、ユングを使って「供犠」との解説を加えていたことも知らなかった。

どこかで少しだけ言及した安部公房との対談で、フロイトを念頭において「20世紀は性の世紀だね」と言い放ったあと、「集合的無意識」というユング用語を二回用いて話を進めているのだとか。三島由紀夫ユングの取り合わせでは、まだ研究論文は書かれていないのではないだろうか。 

完全版 平凡パンチの三島由紀夫

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 「歴史は二度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というマルクスの警句は、笑い話だった歴史的事実には、どう適用すればよいのだろうか。「悲劇として繰り返される」とまでは行かなくても、真剣に目を凝らすべきものとして、繰り返されるかもしれない。 

 それはともかく、その晩の三島は唯識説にすっかり熱中していて、口をひらけば阿頼耶識阿頼耶識といっていた。阿頼耶識の説明をするのに、やおらテーブルの上にあったお皿を二枚とりあげ、一枚を水平に、もう一枚をその上に垂直に立てて、「要するに阿頼耶識というのはね、時間軸と空間軸とが、こんなふうにぶっちがいに交叉している原点なのではないかね」というのである。目をまん丸にして、両手にお皿をもって、夢中になって説明しているその様子があんまりおかしかったので、私は思わず、
 「三島さん、そりゃアラヤシキではなくて、サラヤシキ(皿屋敷)でしょう」
 同席していた高橋睦郎も、横尾忠則も、金子国義も、これでいっせいにげらげら笑い出してしまう始末だった。さすがに三島も苦笑するほかなく、「まいった、まいった。もう申しますまい」(…) 

最近の自分も、「時空」を越えて起こるシンクロニシティについて考えていて、私たちが普段感じている「時空」が、どのように構成された「虚構」なのかを考えていた。

澁澤龍彦が「皿屋敷 / 阿頼耶識」と書いたものに相当するものを、文化的文脈に目敏い椎根和は、すでに見つけてしまっていた。何と、遺作『豊饒の海』の背後にあった仏教哲学も、ユング心理学と重なり合う領域にあったのだ。三島は、ユングのこの本を読み込んでいたらしい。 

心理学と錬金術 I 新装版

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心理学と錬金術 II 新装版

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 そこに出てくる「宇宙時計」の夢をみた頭脳明晰な患者とは、アインシュタインの絶賛を受けたノーベル賞物理学者のパウリ。三島由紀夫は、ユングによる「宇宙時計」の概念と阿頼耶識との共通性を探ろうとして、熱心に松山俊太郎に質問していたらしいのだ。パウリは物理学でありながらユングとともに、シンクロニシティの研究もしている。シンクロニシティ関連の本に「宇宙時計」の図が載っていた。なるほど、これは確かに、外見としては、時空が直交交錯した「皿屋敷」に似ているし、阿頼耶識自体も一種の時空論なのだから、三島由紀夫の着想は鋭いと言えるのではないだろうか。

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シンクロニシティ

シンクロニシティ

 

 偉大な文学者を個として称えることを間違っているとつもりはない。しかし、三島由紀夫という不思議な存在を研究すればするほど、三島個人の凄さとは別に、凄い何かが彼に強力に働きかけているのを感じるようになった。外的な作用力のあるその未知の水脈とは、ユング研究第一人者の河合隼雄と親交のあった村上春樹が、しばしば井戸の比喩を用いることが示唆しているように、(ユング―三島―春樹をつなぐ)「集合無意識」に似た何かだろう。

ところで、この検証しようがないと思われてきた「集合無意識」だが、その端緒となるような¥研究は進んでいて、さまざまな議論を引き起こしている。有名なのが「自由意思に準備電位が先立つ」という仮説。有名なリベットの実験が議論の発端になった。

Libet は、被験者の脳の活動が、意識的に動作を決定するおおよそ1/3秒前に開始したことを発見した。これは、実際の決定がまず潜在意識でなされており、それから意識的決定へと翻訳されていることを暗示している。

自由意志 - Wikipedia

 「そうだよな、人間の脳の顕在意識は約10%、潜在意識は約90%だもんな、わかるよ」。そう呟いたあなたはわかっていないかもしれない。早くからこの分野を研究していたエクルズ―ポパーは、非物質的な外的意識が脳に作用すると論じている。  

自我と脳

自我と脳

 

 え? 「外的意識」?

そう、「外的意識」だ。そして、「外的」であることを媒介に、この分野の研究は、現在も毀誉褒貶の激しい「量子脳理論」へとつながっているというわけだ。 ペンローズは、量子力学の「波動の収束」が脳内でも起こっているという仮説を主張している。つまり、何らかの外的意識の働きかけがあってはじめて、そこで波動が収束して意識が生じるというのである。

科学も凄いところまできたものだ。凄いところまできたが、あと少しのところでまだ解明されていないことが、無数にある。ワクワクしてきた。さしあたり、今のところその「外的意識」を、ユングの術語である「集合無意識」と呼んでも、差し支えないだろう。

ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて (ちくま学芸文庫)

ペンローズの“量子脳”理論―心と意識の科学的基礎をもとめて (ちくま学芸文庫)

 

 街路から街路へ、書から書へ。20世紀最高の「遊歩」名人の顰に倣って、UFO的な何かを駆け足で追いかけてきた。駆け足だったので、自分がUFOを見た話を書きそびれていた。

若い頃、空腹時にスーパーで買い物をしていると、目にも止まらぬ速さで、私の右手に似た何かが勇敢にもUFOを捕捉して、買い物かごの中に捉えるのを目撃したことがある。あまりにも素早い自然な動作なので、レジに並んだ時に、かごにUFOが入っていることが信じられなかったほどだ。 空腹は怖い。

日清 焼そばU.F.O. 128g×12個

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 い、いけない。未確認飛行物体と勘違いしてしまった。それは焼きそばにつられて、空腹のせいで衝動買いしただけの話にすぎなかった。

 ふう。溜息が出てしまう。よりによって、力を入れた記事に、こんな結末しか考えつけないのか、おれは。情けないな。やり直し、やり直し。いま書いた結末部分は全部消すからな。消しちゃえ。

そう思いながら、ぱちぱちとバックスペースキーを叩いたが、どうしても消えない文字がある。

…は焼きそばに…

あれ? この六文字だけ、どうして消せないのだろう? 自分の潜在意識に深く刻まれている言葉なのだろうか。それが何なのかはさっぱりわからないが、明日の天気は「晴れ時々ぶた」だということだけがわかって、むしろその何かが「時々」というより「ドキドキ」に近いという直感に満たされたまま、そのUF6(未確認飛行六文字)が、頭の中を天使の輪のようにぐるぐる回り続けるのだった。

 

 

 

 

 

明日が 来る前に 直したい 気持ちがある

さみしさで 未来さえ

曇って見えない目も

涙ならそっと洗い流せる

ほら 東京 星は消えて

地上は 眩しい 想いが煌めいている

 

東京 ビルの灯り

無数の 眠れない 理由が煌めいて

静かに 明ける空の向こう ...