川べりに誕生した「棄民文学」
どこかでブラッド・ピットの話をした。自分史の中で印象に残っているのは、まだ彼がスターダムにのし上がる前、29歳の頃の映画。実年齢よりずっと若く見えるブラピが、責任感の強い実直な兄とは対照的に、軽薄で危なっかしいが憎めない良い奴で、小さなことで足を踏み外して早逝する弟を好演していた。
兄弟が共有していた記憶が、幼い頃から故郷の川で二人でやっていたフライ・フィッシング。高度なテクニックを駆使して、釣竿を巧みに振りながら、釣り糸の先の餌を水上を飛ぶ蝿(fly)に見せかけて釣る釣法だ。折りたたみ椅子に座ったまま地蔵のように動かない一般的な釣りに比べて、故郷の川の美しさを存分に収めた「引き」の画面で、川面をスイングする釣り糸が光に煌めきながら揺れやまないさまは、フィルモジェニックだった。映像美だけでなく、兄弟が子供の頃から操ってきた光る糸の揺れやまなさが、子供時代から感じやすい思春期を経て、大人へとさしかかる若い男の未熟さと危うさと共振しているところに、この映画の魅力はあったように記憶する。
釣りを題材にした純文学小説で、真っ先に挙がるのは丸山健二の『夏の流れ』ではないだろうか。弱冠23歳で芥川賞を射止めたこの小説は、まず文章の質の見事さに読者を唸らせてくれる。
「奴ら、人間じゃないんだ」と私が付け足した。「形は人の形をしとるけどな。どんな優秀な機械にしたって数多くつくるうちにゃ必ず不良品を出すだろう。その不良品はどうする? 捨てるよりほかないんだ。人間だってこんなに多くいれば同じことさ。不良品をそのまま使うわけにはいかないんだ」
中川は何かを言おうとして口を開きかけ、すぐ閉じた。
「こんな話よそう」
私は少し喋りすぎたと思い、照れ隠しに言った。
「とにかく、明日は俺がやるよ」と堀部。
「もう少し釣ろう」
「ああ」
「あのー」と中川が言った。
「もう言うな」と堀部が止めた。
日が暮れるまで三人で数十匹釣った。大型のは腹を裂き、指を突っ込んで腸を出して、流れで洗ってからえらに笹を突き通した。
選考委員の三島由紀夫は、このハードボイルドな文体をこう評している。
しかし二十三才という作者の年齢を考えると、あんまり落着きすぎ、節度がありすぎ、若々しい過剰なイヤらしいものが少なすぎるのが気にならないではない。そして一面、悪い意味の「してやったり」という若気も出ている。
相変わらず、くっきり見えているなという印象を受ける。ちなみに、ハードボイルドというと、バーでドライマティーニの杯を重ねるタフガイといったイメージを持つ人もいるが、ハードボイルドの文体が読者に感じさせる或る種の酷薄さの印象は、主人公や登場人物の内面に一切耳を傾けず、外形的な情報処理のみで小説を進行させるところに由来する。つまり、酷薄なのは作者であり、ここで作者の伝記的事実を導き入れれば、若さがありつつ、かつ、対峙した登場人物に残酷な仕打ちができるのは、この小説を書いていた前後の丸山健二が、ボクシングをやっていたからに他ならない。
上記引用部分でも、かなり強烈なハードパンチが撃ち込まれている。釣りをして「大型のは腹を裂き、指を突っ込んで腸を出して、流れで洗ってからえらに笹を突き通した」三人の職業は、死刑執行官であり、彼らが川魚にしたのと似た殺害行為を、彼らは日常的に遂行しているのである。
ラストの抑制された叙情も見事に決まっている。
妻は水平線の遠くを走る、白い漁船の群を見ていた。
「子供たちが大きくなって、俺の職業知ったらどう思うかな?」
「どうして? あなた今までそんな事言ったことないわ」
「そうか」と私は言った。「ただ、思ってみただけだ」
漁船の群が一斉に汽笛を鳴らした。驚いた海鳥が波間から飛び立ち、旋回しながら高く空に吸い込まれた。
妻が大声で子供を呼んだ。子供たちは足を砂だらけにして走ってきた。
純文学で釣りを描くなら、この『夏の流れ』の結晶度の高さが、一つのメルクマールになるはず。最新の芥川賞が、釣りの描写が上手いという噂を小耳にはさんだので、選評も含めて午前中に読んでみたが、大先輩とのマッチアップはなかなか厳しそうだ。
選評の中で目を引いたのは、吉田修一による絶賛だった。それもそのはず。受賞作の『影裏』は、吉田修一の若書きの習作だと言われると、思わず頷いてしまうような共通性の高い小説だ。
自分は最近、とうとう自発的に「漱石=ネコ」主義に屈服したので、もはや擁護できないものは何もニャイような気がしている。かつて「関係妄想」により、自分を「悪人」だと思い込んでいた時期もあった誼で、吉田サンガ推シタイノナラ、オ付キ合イサセテイタダキマス、とでも呟いて、文庫本の解説に近い方向で、その可能性の中心を論じてみたい。
『影裏』を読んだ評者のうち、釣りの場面の drawing が上手く書けていると云う人もいれば、全般的にそうでないと云う人もいる。けれど、小説に精通した読者が考えさせられるのは、withdraw という言葉の意味についてかもしれない。「引く」という意味を持つその英単語は、withdrawn という過去分詞になると「引っ込み思案」を意味する。
『影裏』は、岩手に移り住んだ「わたし」という男性が、その地の「日浅」という男性と魅かれ合っていた日々を描き出した小説だ。その秘められた恋を読ませるために、初読者にはわかりにくい箇所に、作者は76個もの傍点をふっている。
しかし、どうしてこうも「わたし」は恋人に対して引っ込み思案なのか。「わたし」の恋人へのまなざしはあまりにも抑制されていて、なぜ彼のことを好きなのか、どういうところが好きなのかを、さっぱり伝えてくれない。
本当に好きなら、恋人のちょっとした言動や仕草や癖にも目が行って、それを解釈する心の動きが、恋を恋と語らないまま、読者に同じ恋心を追体験させるはずだ。本当に好きなら、最終場面で元父に不自然すぎる問わず語りをさせるのではなく、自分の恋心が聞き知った断片的な情報を元父にぶつけて、恋人の真の人生を引き出そうとするだろう。しかし、主人公はそのようなあるべき恋物語からは身を引いて、まなざしを逸らしつづける。
その逸らしたまなざしが、代わりに生き生きと捉えるのが、倒木と酒と魚卵だ。
注意深い読者なら、川べりにある倒木は、LGBTとして崩壊や転落の淵にいる二人の生の困難を象徴しており、それとは反対に、酒と魚卵は二人の愛を象徴していることに気付かずにはいられないだろう。主人公と恋人の愛が好調なら酒は飲まれ、不調なら酒は飲まれない。酒の肴である魚卵入りの鮎も、同じくアルコールの酔いと同期した恋の酔いに随伴している。
その恋人が災害死もしくは失踪した後、ようやく主人公は恋人の捜索願を出すよう彼の父のもとを訪ねる。そこで、主人公にはどうしてだかその父が、非アルコール的な「喫茶店のマスター」のように見えてしまうことに注意しなければならない。
恋人と父の間にあったらしき父子間の性的虐待や、それを覆い隠すためだろう学歴詐称による偽装勘当工作?や、生き延びて震災泥棒をしているという恋人の裏の顔の暴露?のギミックの成否は、実はこの小説ではさほど重要ではない。それらの当否がいずれであっても、そのような「風変わりな先輩を慕う後輩小説」は、これまで数多く書かれてきた。
重要なのは、なぜか妙に愛されるその恋人を、主人公も元父も失ってしまったことが確かであり、そこでは珈琲はあっても揮発するアルコールと恋の酔いが永遠に失われ、主人公が再び釣りに行く川辺からも魚卵入りの魚をアテに酌み交わす恋人が永遠に失われたことである。
恋人を失ったあと、川で思いがけず虹鱒を釣り上げてしまった主人公は、誰かが放流したのか、上流に養殖施設があるのかどうかを訝る。
自分の足で確かめてみようと思い直して、釣り竿をわたしは畳み、蜉蝣が無数に水面を上下している生出川沿いを上流に向かって歩き始めた。
主人公が恋人とともに食べた魚卵入りの鮎は、「無精卵」だった。恋人が学歴詐称を口実に父に勘当され、戸籍を抹消される経緯には、生殖はおろか戸籍からも峻拒される主人公を含めたLGBTの実存上の苦悩が反映されていると読むべきだろう。では、引っ込み思案な主人公と恋人の交流は、何も生み出さなかったのだろうか?
小説がこの問いに短く「否」と答えているのが聞こえるだろうか。「有精卵」を生み出しているやも知れぬ上流の施設へ、それまでの引っ込み思案が嘘のように、主人公が「自分の足で確かめてみよう」と能動的に歩き出す最後の一文には、この小説を小説らしく終わらせるに足る見事さがあると思う。
最終場面で、川岸を上流へ歩いていく主人公の姿は、私たちに「引き」の画を想像するよう仕向けるだろう。上流へ向かうにつれて、未整備の倒木がいくつも行く手を遮るかもしれない。「引き」の画の中で、この主人公の「無精卵」を中心に起きつつ、視野に入ってくる事物に思いを致すとき、部分的に放射能汚染された東北地方、耕作放棄地や管理放棄林だらけの国土、LGBTの戸籍上の排除、ブラックな非正規労働者の絶望、どこまで歩いても崩壊の淵にいる感覚、などが、ひとり性的マイノリティだけのものではないことに、私たちは気づかされるだろう。
かつて小泉竹中路線以降の非正規労働者の実態を描いた小説を、柄谷行人は「ネオプロレタリア文学」と名付けた。この異様な風景を見る読者は、新たな「棄民文学」の誕生を目撃しているのかもしれない。川べりを上流へ遡行しながら、主人公が裏声で「棄民が代」を歌っているような気がしてならない。
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バシュラールは一連の著作で、火、空、水、土の四元素に対して、人間がどのような想像力を発揮してきたかを明らかにした。ここでバシュラールが強調したのは、人間が主体的に四元素それぞれについて想像したのではなく、四元素それぞれが物質的想像力を内包していて、人間が物質に触れることで想像力が花ひらいたという考え。宮崎駿が空(風)に触発される芸術家であることは、よく知られている。
自分の場合は、「水」で川のように蛇行しつつも一方向へ流れるのではなく、地表の七割が海、人体も同じくらい水で組成されているので、水の循環をイメージして文章に取り込むことが多い。
きっと心臓が魂だというのは俗説だろう。天上から降りてきた魂は、心臓に化身してはいない。地上の生命の内側で、心臓に吸い上げられては送り出され、刻々に新しくなる水の流れこそが魂なのだ。路彦はいつしかそう確信するようになった。水の流れが魂であるなら、人が死んだのちも魂が死なないというのも筋道が通る。火葬されて蒸発した魂は、空の高みでふたたび水に返って、雨となり雪となる。雨や雪の降りしきる音に、時として語り交わされる未知の言葉が交じっているように聞こえるのは、そのせいなのだろう。魂が水溶性だとすれば、恋人たちが舌を差し入れ合って口づけを交わすのも、互いに相手の水を味わって魂に触れるためなのかもしれない。
お、と、階下から、「川」について歌うギターの弾き語りが聞こえてきた。いま自分がタイプしていたのは、
...lived alone except for a nameless cat.
(名もない猫をのぞいて、独りで暮らしていた)
ヘップバーンの弾き語りに登場するムーン・リバーは、自らの歩んでいく「夢の道」を指している。それは追い求める夢の道なので、「あなた」と二人称で呼ぶほど親密で、まるで一緒に夢を追いかけていく人生の相棒のようだ。
「ムーン・リバー」の弾き語りが終わった。
え? ヘップバーンに可愛らしい顔でこう訊かれてしまった。
何しているの
さしあたり、こう応えておいた。
書いている