クリエイティブ×倫理×ジョイ

大晦日の晩に、渾身の糠喜びをしてしまった。天に向かって思いっきり両手拳を突き上げて、そのまま背後の芝生に倒れて、大の字になって寝そべってしまうような解放感を味わった。結論から言うと、それは例によってフェイクだったわけだが、その幸福な余韻が眠った後も続いていて、心身の不調はあらかた治ってしまったような気がする。糠喜びにも看過しがたい効用がある。それが新年最初の学びだった。

元旦の昼、初詣の道を歩きながら、ふと振り向いたとき、流れる人込みの中にジャイ子の姿を探している自分がいた。今年もジャイ子が神様にお願いしに来ているにちがいないと確信していたのだ。

神様、私に本名をください。

 兄のジャイアンには「剛田武」という名前があるのに、ジャイ子には本名がない。非公表だという噂もあるが、本名もジャイ子なのか、そもそも本名が存在しているかどうかについても、確固たる情報はない。漫画家志望のペンネーム「クリスチーヌ剛田」も悪くないセンスだが、お節介を承知で、ジャイ子の素敵な本名候補を考えてあげたい。

嗚呼、 何という尊い善行をしようとしているのだ、私は。どうやら今年も「クリエイティブ×倫理」を掛け算した領域が自分の主戦場になりそうだ。

 先に「倫理」について書くと、「倫理」を意味する『エチカ』という大著を世に送り出したスピノザが、近々思想界に回帰してくるのではないかという予感がする。これまでスピノザについてこのブログで言及したことがないのは、自分でも意外だ。偏愛する哲学者ジル・ドゥルーズの系譜を遡っていくと、必ず辿りつく17世紀の哲学者。 

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

スピノザ―実践の哲学 (平凡社ライブラリー (440))

 

ベルナール=アンリ・レヴィはここにある系譜を「ドゥルーズ / ニーチェ / スピノザ枢軸」と呼称していたように記憶する。  

サルトルの世紀

サルトルの世紀

 

 スピノザ周辺の本はいま手元にないので、いささか基本的な確認にとどめておくと、スピノザ以前に猖獗をきわめていたキリスト教宗教戦争に対して、反対側に合理主義の立場を築くことにあった。副題に「幾何学的秩序に従って論証された」と書いてあるのは、その思惟の合理性に由来する。当時、何十年も宗教戦争の当事者となっていたキリスト教のドギマティックな因習性の外側に、彼は合理論を構築した。その最大の特徴は、その外側にも「神」があるとしたことである。「自然=世界=神」であるような「汎神論」だった。

例えば、私たちが最も親しんでいる物質のひとつ「水」。周波数次第で、ほとんど無数の紋様を創り出すことが知られており、その紋様がこの世に生存する花や植物やクラゲやカメなどの紋様に、きわまて酷似していることが知られている。

さきほどの本にありましたように、音は周波数の振動によって、水の中などにこの世に実際にある様々なものと同じような形や紋様を作り出していることがわかりますが、どうも、このあたりと、いわゆる「創造」というものについて、

「存在というものの根源が、音、あるいはその周波数そのものである可能性がある」

のではないかなどと思えてきてしまったわけです。 

このような科学的事実に最も重なっているのが、「自然=世界=神」であるようなスピノザ流の「汎神論」であることは間違いないだろう。そのような神=世界のような世界で、私たちがどのような倫理を生きるべきなのか、個人的にさらに調べを進めていきたい。 

映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』オフィシャルガイド

映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』オフィシャルガイド

 

スピノザと言えば、社会におけるスピリチュアリズムのポジショニング、つまり「スピの座」も大きく変わりつつある印象がある。それを感じたのは、大衆向けの夫婦愛映画『DESTINY 鎌倉ものがたり』を、今日鑑賞したときのこと。 

 「ALWAYS 三丁目の夕日」の山崎貴監督が、同作の原作者・西岸良平のベストセラーコミック「鎌倉ものがたり」を実写映画化し、堺雅人高畑充希が年の差夫婦役で初共演したファンタジードラマ。幽霊や魔物、妖怪といった「人ならざるもの」が日常的に姿を現す古都・鎌倉。この地に居を構えるミステリー作家・一色正和のもとに嫁いできた亜紀子は、妖怪や幽霊が人と仲良く暮らす鎌倉の街に最初は驚くが、次第に溶け込んでいく。正和は本業の執筆に加え、魔物や幽霊が関わる難事件の捜査で警察に協力することもあり、日々はにぎやかに過ぎていった。しかし、そんなある日、亜紀子が不測の事態に巻き込まれ、黄泉の国へと旅立ってしまう。正和は亜紀子を取り戻すため、黄泉の国へ行くことを決意するが……。主演の堺、高畑と同じく山崎監督作初参加の安藤サクラ中村玉緒をはじめ、山崎組常連の堤真一三浦友和薬師丸ひろ子ら豪華キャストが集結した。 

 以下、大いにネタバレしながら書く。

孫悟空の住む中国奥地の奇岩群のような「黄泉の国」が、自分がイメージしたものが引き寄せられて出現していると主人公が耳打ちされる場面、量子力学や「第四密度」を感得は知っているのではないかと感じた。

映画中の死神が話す「幽霊申請」という設定からも、ひょっとしたらスピリチュアリズムに詳しいのかもという印象。この世に思いが残ると幽霊となり、生者と同じ幽界に留まって、生者たちを助けられるという設定は、スピリチュアリズムでよく言われる内容そのままだ。

ジョン・レノンが心酔した『チベット死者の書』でいう「バルドゥー」、『霊界日記』のスヴェーデンボリがいう「中有」、『日月神示』でいう「幽界」らは、すべて同じ死後の世界を指している。死の直後そこにとどまった「幽霊」が、生者を助けることを通じて自分の死を受け入れ、「黄泉の国(天国)」へ旅立つというそのトランジット世界の仕組みは、多くのスピリチュアリズムの文献が記述するところだ。

そのトランジットそのものを映画にした『Lovely Bones』を、自分がいくつもの偶然に導かれるように鑑賞し、事実、(複数の)幽体の方々に助けられた実感を持っていることは、この記事に書いた。

 こういう話をまったく信じない人々もいるし、もちろんいてかまわないと思う。ただし、2017年に本格的にその世界へ没入し始めたばかりの自分にも、「スピの座」が社会の中で大きくなりつつある実感が、確かにある。下記の記事に書いた「シューマン共振」の上昇が、ひょっとしたら関係しているのかもしれない。

  1.  「2016年秋のシフト」以降、それぞれの並行現実間での「乗り換え」が難しくなるという「バシャール流ポジティブ度選別型運命論」の状況証拠として、シューマン共振の上昇がある。
  2. シューマン共振は人間の脳波やホルモン分泌に影響している可能性が高く、電磁波がそれを攪乱している可能性が高そうだ。 

個人史的にも、2017年の数々の神秘体験を通じて、神の存在を強く意識するようになった。神々が創造した「魂の修行場」で、どんな倫理をどのようにして生きていくかばかりを考えるようになった。2018年、自分はどんな人生を送ることになるのだろうか。

 さて、「クリエイティブ×倫理」が自分の主戦場になりそうだと語った以上、「クリエイティブ」の分野についても、しっかり言葉を書きつけておきたい。 

このような文学を取り巻くメディア状況にまなざしを一巡させた後、再びメディウム・スペシフィックという概念に立ち戻ったとき、「ボルヘス再び」を合言葉に「小説という媒体にしかできないこと」へと尖鋭化していく方向には、敬意を払いつつも、多くの賭金を置くのをためらう自分がいる。

ボルツがドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』をハイパーテクストで書かれた最初の哲学書の古典と絶賛しているので、ドゥルーズ風に言おう。純文学的書物というメディアが求めるものと、隣接メディアへが欲望するものとへ、同時に誘惑されうる接続機械に擬態すること。ひとことで言えば、小説が「純文学らしくかつfilmogenicであること」。それを企図するのはそれほど難しくないし、衰弱している純文学が生の飛躍(エラン・ヴィタール)を踏み切る方向は、そちらしかないように思われる。

もう一段階段を昇ったところから言うと、純文学であれ何であれ、一定以上の強度を持った欲望なら、自らを変貌させつつ或るメディアから他メディアへ飛躍することは難しくない。待たれているのは、「見るまえに跳べ」的強度の命がけの跳躍。それだけだろう。 

半年以上前はこんな硬質の文体で書いていたのか、自分は。文体は変わったが、小説に対する考えは変わっていない。「filmogenic(映画化が良く似合う)な小説を目指す」と啖呵を切った以上、映画についてもクリエイティブな批評眼を披露しておかなくては。

この映画の鑑賞中に5回くらい泣いた。いくら涙脆い性格だとはいえ、Activeすぎる「涙活」をさせてもらったというわけだ。大好きな映画であることに間違いはない。

同じ監督が作った別の映画の或る場面では、ソファーに座っていたのに、床に倒れ込んで泣いてしまった。ダウンキャット。そして、続きの場面を見るためにアップキャット、という順序でポーズを取ってしまったニャン。 

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http://mumlifestyletip.blogspot.jp/2015/10/go-yoga.html

あの映画は忘れられないな。いつか文芸誌『青純』に自分の恋愛小説を掲載してもらえる物書きになりたい。

さて、映画のレビューサイトをいくつか覗いてみると、思った以上に毀誉褒貶が割れているようだ。映画の鑑賞中に、いくつかパラプロットが思い浮かんだ。ほとんどは自分向けに、創作上の何かのヒントになるかもしれないと考えて、ここに書きつけておくことにする。

映画の中で4回反復されている中心主題が、充分に展伸されていない可能性が気になる。レビューを瞥見する限り、気付いている観客はほとんどいなさそうだが、中心主題は「愛する対象が占領されることの恐怖」で間違いないだろう。

  1. 編集者が急死したのち、遺した妻と娘が新しい再婚候補男性と懇意になるのを、妖怪ガエルに変貌して見守る。
  2. 幼少時に母が父とは別の男の家に通っているのを尾行して目撃する。
  3. 愛妻がディズニーランドで別の家族と楽しそうに歩いていたと報告される。
  4. 黄泉の国の天頭鬼が主人公の愛妻を力ずくで奪い娶ろうとする。

ここまで同一の構造からの派生物が並んでいる場合は、「愛する対象が占領されることの恐怖」の描き出し方に、もう少し丁寧な統一性を持たせた方が、観客にわかりやすいような気がする。

1.はもっと占領された方がいい。編集者の妻と娘の食卓に、早速あがりこんだ再婚候補男性が加わる。それを窓から覗き見ていた妖怪ガエルを、娘が見つけて悲鳴を上げ、妻は激しく取り乱す。母娘を再婚候補男性が模範的にかばって、バットで妖怪ガエルを叩きのめす。嫉妬に狂って呻き声しか出なかった妖怪ガエルが、「二度と来るな」と罵られて叩かれながら、「(自分の代わりに母娘を守ってくれて)ありがとう」と何度も呻き声を洩らす。娘だけにその言葉が伝わる。という展開の方が、モチーフが際立ちそうだ。

2.幼少期の精神的外傷になったのなら、想念の投射がその形をとる黄泉の国では、天頭鬼は間違いなく「昔の母の愛人男性」に化けて戦いを挑んでくるに違いない。

3.に直面したら、主人公は根掘り葉掘り相手男性の特徴を聞くような気がする。その聞き込みが「霊に乗っ取られた若妻の身体」の捜索に役立つ展開となりそうだ。

4.では勧善懲悪の構図が明瞭になりすぎないように、何らかの魔法にたぶらかされて、若妻が新しい花婿候補に心奪われる局面を織り込みたくなる。

1.2.3.4.で生じる「愛する対象が占領されることの恐怖」に対して、主人公とヒロインは何で対抗すべきなのか。実は、山崎貴監督は、日本の共同体のあり方が必ずしも現行の血縁基盤ではないことに着眼できる、稀有の批評眼の持ち主でもあるのだ。

村は自治的で生産だけでなく子育ても教育も村を基本単位としており、性関係・婚姻関係は極めて開放的で、父子の血縁関係を特定する必要はありませんでした。これは、現在の血族の親子を核とする「家族」とは様相がまったく異なります。 

Always 続・三丁目の夕日』 の引用場面でも、「他人の子のために作ったライスカレー」という一節が登場する。血縁より、「一緒にいた時間・やった仕事」が家族的な共同体を創ることも、充分にありうるのである。

 そのような日本的共同体の起源に通暁した山崎貴なら、決闘のどんでん返しは、ヒロインと貧乏神との交流物ではなく、主人公とヒロインの共有時間を象徴する何かにした方が、映画監督としての作家性が輝いたように思われる。

以上は、映画を見ている途中、見終わった後に感じた個人的な空想にすぎない。あまつさえ、蓄積疲労のせいで映画の序盤ところどころで眠ってしまった自分に、まともな何かを語ることができたとは思えない。ぜひとも軽く読み流していただきたい。 

冒頭に書いた糠喜びの余韻は、まだ続いているのだろうか。今日は気持ちよく記事を書けているような気がする。

三島由紀夫バタイユを参照しつつ最晩年を賭けた「ne pas 喜び」(≒「禁断の喜び」)だけでなく、「糠喜び」にも一種の思想的裏打ちがある。

バシャールは「ワクワクする気持ちを持とうとして、現在の夢が実現した様子を思い浮かべるのは最善ではない」というのである。現在の夢が叶えるべき本当の夢とは限らない。藪蛇に出てきた凶事のような何かが、いつのまにか当初の夢以上に夢のような状態を生み出す可能性が充分にあるのだという。バシャールは、「現在の夢が実現した様子を思いう浮かべてワクワクしたあと、その実現した夢の具体性を忘れて、ワクワクの余韻だけを温かく維持しなさい」という意味の助言をするらしい。

なるほど。「糠喜び」にも看過しがたい効用があると冒頭で書いたのは、当たっていたのか。

今年は、もっとバシャールを研究して、一人前のバシャーリアンを目指したい。

と何気なく書いたこの「バシャーリアン」という「バシャール主義者」を表す単語は、使い方は適切なのだろうか。長寿で有名だった頃の沖縄人は海外で「Okinawan」と呼ばれていたし、断捨離に取り組む人を「断捨離アン」というらしいから、自由に使ても大丈夫だろうか。

そう書きつつ、どんどん自由に話題を飛ばしてきたこの記事も、次の行にどんな固有名詞が書かれるか、読者はもう想像がついてしまったのではないだろうか。

そう、ジャイアンの妹、ジャイ子の本名問題だ。この問題を考えているとき、次のようなパラ・プロットが見えたような気がした。ジャイアンとは単に剛田武の渾名ではなく、「『ジャイ』という王国の臣民」を意味している。ジャイ王国は「邪意」の国だったので滅ぼされてしまったが、その末裔である剛田家のみが生き延びている。この恐るべき血脈を断とうとして、次々に暗殺者たちが送り込まれてくる。ジャイアンは逃げ回りつつ、歌唱による「邪意サウンド」兵器で、辛うじて敵から逃れつづける。

或る日、ふとこう思い至る。暗殺者に追われる俺様と対極にある生き方とは何だろう? つまり、「邪意」の反意語とは何なのだろう?

難しい。即答できない。至難の問題だと言ってもいいかもしれない。

とか、あれこれ考えながら、元旦の昼、初詣の道を歩いていて、ふと振り向いたとき、流れる人込みの中にジャイ子の姿が見つかった。ベレー帽をかぶってスケッチ帳を胸に抱いていたジャイ子は、漫画家志望らしい闊達さでさらさらとスケッチ帳にこう書いて、私に見えるよう掲げた。それを読んで、私は「邪意」の反意語を知った。

逆は「JOY」

ありがとう。きみはどこかで流竄の王女の末裔として、暗殺されずに生き延びるため、「邪意」を「JOY」に変換する大手術を成功させたのだね。

「ジョイ子」。それがきみの新しい名だ。バシャールは、あの状態を必ずしも「ワクワク」 と形容しなくてもいいと助言する。私は初詣の人込みの中で、今年こそ JOY とともに生きていこう、喜びを忘れない倫理を抱きつづけよう、と固く決意したのだった。

 確かにそれは難しい。即実行できない。至難の問題だと言ってもいいかもしれない。

けれど、スピノザの『エチカ』を熟読しているシナモンだって、こう言っているじゃないか。やまない雨はなく、明けない夜はなく、解けない至難問はないんだ、きっと。

喜びと欲望が行動を起こすきっかけ、エネルギーになる。

(はたらきをなす限りの精神に関係する感情はすべて、喜びかあるいは欲望に関係する感情だけである。スピノザ『エチカ 第三部 定理五九』)