「広場の孤独」の対義語を一緒に探そう!

277日前、あなたは何を考えて生きていただろうか?

昔の自分の記事を読み返しているうちに、今朝起こった偶然について話したくなった。

1か月くらい前、会社で「最後に一度顔を見たいな」と洩らしていたお世話になった年少の友人に、ばったり会ってしまった。

風が強かった。相手が自転車で通り過ぎていった数秒、「元気? 頑張ってね!」と風に負けない声をかけただけだったが、どうして、あの時間、あの場所に、友人はいたのだろうか。

神様、素晴らしいシンクロニシティをありがとうございます! まるで朝から麒麟の夢を見たような気分だ。  

キリンが出てくる夢は未来の展望が開ける吉夢!

また、より良い未来を創るために今後どのように行動を起こしたら良いか、工夫をしたら良いかが自ずと分かったり、人を通して教えられたり、幸運を維持するパワーがあなたにつくことを教えています。

 人と人との出会いは偶発的に見えて、ただの偶然ではないような感触がある。そういう出逢いをしたときは、風が動いているのが感じられる。生まれてくる以前に、現世で必ず逢おうと約束している人間関係もあるのだとか。念のため付け加えておくと、その相手は異性同性を問わず、自分の年齢より高い人もいれば低い人もいるという。当然のことながら、世界はさまざまな人間関係で満ちているのだ。

『Music for Airports』でアンビエント音楽を創始したブライアン・イーノに、もし後継者がいるとしたら、ラブラッドフォードになるというのが私見だ。この上質な環境音楽を聞きながら、またしても空港のことを考えていた。自分には、出逢いそこなった出逢いがあるのだ。 

母の友人の娘さんに画家志望の女の子がいた。私より5歳くらい下の高校の後輩。母親同士は例によっておせっかいを焼いて、同じ芸術家タイプの私と引き合わせようとした。道後の老舗旅館で珈琲を一緒に飲む手筈になっていたらしい。

ところが、その女の子が羞かしがって面会を断ってきた。やれやれ。独身時代が長いと、こんな風に、申し込んでもいないのに勝手に「失恋」するという切ない突風に見舞われることが多くなる。

というわけで、その画家志望の女の子の顔すら私は見たことがない。聞いた話では、画家としては順調に階段を登り始めていたらしく、とうとう彼女の描いた絵を航空会社が空港のロビーの装飾用に買い上げるところまで、成功物語が進んでいたと聞いた。

「へえ、彼女はやっぱり本物だったんだね」と母と話していたところで、訃報が飛び込んできた。悲しいことに、その画家志望の女の子は、ある朝、東京のマンションで冷たくなってしまったのだそうだ。20代の若さだった。心臓に病気を抱えていたとも聞いたが、最後の姿は、テーブルに突っ伏して仮眠しているかのような姿で、揺すれば今にも目を覚ましそうだったと聞いた。

その数年後、今朝友人に偶然会ったのと同じ感じで、その画家志望の女の子のお母さんと、道端でばったり出会った。母親は私を見分けると、ほとんど手を引きかねないくらい強引に、ぜひとも自宅へ寄ってほしいと私を誘った。

母親は芸術がひと通りわかると目されている私に、娘の画を見てもらいたがっていたのだ。自宅の玄関へお邪魔すると、女の子が描き残した遺作が、次々に出てきた。

絵はラファエル前派のようなテイストで天使を描いたものが多かった。

母親は私にこう訊いてきた。私のことを芸術全般なら何でも知っている人だと、買いかぶっているようだった。

「何かを必死に描こうとしていたようだけれど、娘が何を描こうとしていたのか、わかりますか? 私には全然わからなくて……」

母親は涙ぐんでいた。私はいくつかの絵画を順に凝視しながら、何とか主題の連なりを読み取って、慰めになるような気の利いたことを伝えたかった。しかし、どういって良いのか、何もわからなかった。母親の方に向き直って、こう答えた。

「わかりません」

じつの母娘の間にすら、越えられない透明な壁がある。壁があるのに、それを突き抜けて、娘が何を表現しようとしていたかを、どうしても知りたがっている母親の姿に、哀切さと感動を感じずにはいられなかった。そこで語るべき言葉を持っていなかった自分が恥ずかしかった。カンバスの向こう側にいる娘と、その娘を知ろうとして果たせない母の、それぞれの孤独について考えた。

今でも、荷物を抱えて空港を足早に歩くとき、廊下やラウンジに飾られている絵をついつい見てしまう。どの額縁の中にも天使はいない。いないのを確認したあと、「風は世界を冷やして駈ける死」という自分がかつて書いた詩句を、唇にのせて呟く。空港には、どこか死の匂いと浮遊感がある。だから、アンビエント音楽があんなにもマッチするのだろう。

時として、人と人の間には「透明な壁」が立ちはだかる。しかし、その「透明な壁」を溶かすことは、決してできないことではない。例えば自分なら、天使の絵画群と亡娘を悼む母との間に、適切な言葉を架橋できたはずだし、そうしなければならない立場だった。

救いを求めている人の救いになるような言葉を伝えられなかった後悔が、またしても社会のいたるところにある「透明な壁」について考えるよう、自分を誘っているのを感じる。

不思議なことに、この15年間、自分はそのような透明な壁の向こう側に隔離されているマイノリティになぞらえられることが多かった。

在日外国人、性的マイノリティ、引きこもり、幼児期の性的虐待被害者、統合失調症患者……。

よくもまあ、派手すぎる妄想を次々に列挙したものだと苦笑してしまう。確定的な根拠もなければ、該当している事実も一切ないのに。

 しかし、誤配されたレッテルを貼られたせいで、それぞれの社会的マイノリティが直面している「透明な壁」について、相手の立場になって考えられる機会は持てた。 言い換えれば、それぞれの孤独に間接的に触れることができたのだ。

児童虐待については、この記事で考えてみた。

ところで、NHK取材班による新書は、児童虐待へ至る親の側の心理についても取材している。50~70%の「虐待」親が精神疾患を抱えていることは先程確認したが、精神疾患には至らなくとも、かなり病的な心理機制を抱えていることが明らかになっているのだという。

  1. 暴力肯定意識   自分のストレスを発散するための暴力であっても、必要な「躾」や「体罰」だと強弁して、自分の暴力を正当化しようとする。暴力には、言葉の暴力や処遇の暴力も含む。
  2. 子供への「被害妄想」  「乳児の泣き声が自分を責めている」「子供なのに自分を莫迦にした目で見た」といった根拠のない被害妄想に囚われ、暴力を振るうことで仮想的有能感を取り戻そうとする。
  3. 自己欲求優先主義   子供の頃に愛情欲求が十分満たされなかったために大人になりきれず、自分の欲求と子供の欲求とがバッティングした場合、無条件に自分の欲求を通す子供じみた虐待行動しかとれない。 

1.2.3 は、「虐待」親の抱える問題行動にとどまらないという印象を受ける人も多いことだろう。こういう自己愛性パーソナリティ症候群に似た「症例」は、社会のいたるところで私たちが目撃させられている莫迦げた陋習にほかならない。 

性的マイノリティについては、この論文が一つのマイルストーンになっていると思う。

    The Darwinian paradox of male homosexuality in humans is examined, i.e. if male homosexuality has a genetic component and homosexuals reproduce less than heterosexuals, then why is this trait maintained in the population? In a sample of 98 homosexual and 100 heterosexual men and their relatives (a total of over 4600 individuals), we found that female maternal relatives of homosexuals have higher fecundity than female maternal relatives of heterosexuals and that this difference is not found in female paternal relatives. The study confirms previous reports, in particular that homosexuals have more maternal than paternal male homosexual relatives, that homosexual males are more often later-born than first-born and that they have more older brothers than older sisters. We discuss the findings and their implications for current research on male homosexuality.

 人間の同性愛者をめぐるダーウィンパラドックスが吟味される。つまり、男性同性愛に遺伝的要素があり、同性愛者が異性愛者よりも生殖できないなら、どうしてこの形質が集団的に維持されるのだろう? 98人の同性愛者と100人の同性愛者とその親族(合計4600人以上)のサンプル調査では、​​同性愛者の女性の母親の親戚(叔母たち)は、異性愛者の女性の母親の親戚(叔母たち)よりも高い多産性があり、この差は女性の父親の親戚には見られない。この研究では、或る同性愛者は父方の同性愛者よりも母方の同性愛者の親戚を多く持ち、同性愛者男性は長子よりも第二子以降であることが多く、姉よりも兄が多いという前回の報告が確認されている。私たちは、男性同性愛に関する現時点での研究として、その発見と含意するところを議論する。

平たく言うと、男性同性愛者は親族女性が多産な遺伝子を持つという現象を伴いつつ、生まれてきた可能性が高いのだ。つまり、「生殖不能」として社会の透明な壁の向こうに追いやられがちなその種族は、親族単位で見れば、生殖の多産性に貢献していると想定できるのである。

というこの発言も、異性愛生殖を絶対化したヘテロセクシズムの側に立って言ってみただけのことで、生殖と愛とは別個であり、愛という概念の方がはるかに普遍性を持っていると自分は考えている。 

同性愛と異性愛 (岩波新書)

同性愛と異性愛 (岩波新書)

 

 ここまで、多種多様なマイノリティたちを排除する「透明な壁」について述べてきた。この「透明な壁」をざっくりとひっくるめて一言でいうと「Social Exclusion(社会的排除)」になる。その反対の概念は、「Social Inclusion(社会的包摂)」だ。社会学を勉強して「包摂」が大事なことはを知っている学徒も、具体的に社会的包摂を向上させるにはどうしたら良いかまで、総論と個別論の双方が視野に入っている人は少ないかもしれない。

2000年のEUのリスボン戦略が、初めて「社会的包摂」を大々的に盛り込んでいるので、まずはそこを確認したい。

How will the renewed social agenda help?
(…)

Building on these achievements, the renewed social agenda brings together a range of EU policies in order to support action in seven priority areas:

  1. Children and youth - tomorrow's Europe
  2. Investing in people: more and better jobs, new skills
  3. Mobility
  4. Longer and healthier lives
  5. Combating poverty and social exclusion
  6. Fighting discrimination and promoting gender equality
  7. Opportunities, access and solidarity on the global scene 

新たな社会的アジェンダはどのように役立つでしょうか?
(...)

これらの成果を踏まえ、新たな社会的アジェンダは、7つの優先分野におけるアクションを支援するために、一連のEU政策をまとめています。

  1. 子供と若者ー明日のヨーロッパ
  2. 人々への投資:より多くのより良い仕事、新しいスキル
  3. モビリティ(移動可能性)
  4. より長くて健康的な生活
  5. 貧困と社会的排除との闘い
  6. 差別を撲滅し、男女平等を促進する
  7. グローバルな場面における機会、アクセス、連帯 

 問題とその対策が多種多様に渡っているのは、一目瞭然だ。重要なのは、これらそれぞれの分野が相互に作用するので、全体的な俯瞰図と局面的な詳細地図の二つを使いこなしながら、社会改良に取り組める人々を増やすことだ。  

ソーシャルデザインで社会的孤立を防ぐ

ソーシャルデザインで社会的孤立を防ぐ

 

 社会的包摂に関しては、現時点でこの二冊が頂上に最も近いだろうか。特に後者は、経済政策、医療福祉政策、住宅政策、都市政策、労働政策、年金政策について、それぞれの専門家が章ごとに最新の学知を寄せた労作だ。

 「社会的孤立」が、上記のような多様なマイノリティだけの問題でなく、自称「普通の人」にも及ぶのが日本の特徴だ。ドイツ、スウェーデン、アメリカ、韓国、日本を対象にした調査では、近所づきあいと友人づきあいの両方で、日本はトップの欧米諸国とはダブルスコアの低水準。お隣の韓国よりもやや下で最下位を誇ってしまっている。

人間関係の希薄化は、終身雇用制度が崩れた会社共同体でも起こっており、最後の砦であるはずの家族関係では、高齢化・少子化・非婚化などにより、総シングル化が進行している真っ只中だ。そこへ介護や育児やそのダブルケアが直撃したとき、自称「普通の人」ですら、社会的孤立を実感せざるを得ないという。

その周辺については、この記事で書いた。

現在28歳くらいの1990年生まれの女性は、生涯未婚率が23.5%。結婚した76.5%のうち36%が離婚するので、掛け算して足し合わせると23.5%+27.5%=51%の女性が、独身状態となるらしい。再婚や死別をカットしたラフな予測数だが、とんでもなく高くはないだろうか。

おまけに、男性の生涯未婚率は今後おおよそ女性の1.5倍で推移すると予想されているので、離婚率を同じとしても、男性も62.5%が独身状態となるらしい。「一億総シングル社会」という言葉が飛び出すのも頷ける独身化の急伸だ。

(…) 

全世代のシングル化が進んでいるので、全世代が協働できる多世代交流機能を、コミュニティが持たねばならないのは当然だ。介護保険制度によって、日本は介護する主体を家族から社会へと移行させた。制度から零れ落ちるさまざまな困難を、最後に掬い上げられるのは、地域コミュニティしかないかもしれない。

その零れ落ちる最大の困難のひとつが、核家族をつくった夫婦でも頻発している。それは「ダブルケア」。子育てと介護の同時進行である。

実は、少子高齢化が進行しているのは、日本だけでない。韓国や台湾や香港でも、状況はさほど変わらない。その各国の研究者が集まった「ダブルケア研究プロジェクト」が、2012年から発動しているので、その動向に注目していた。実は、同世代の団塊ジュニアで、ダブルケアに直面して苛酷な生活を強いられている話を、よく小耳にはさむのだ。 

 上記の「社会的包摂」のシリーズ本を編纂した藤本健太郎は、政策連動と公私連携を合言葉に、次の6つの提言で新風を吹かせようとしている。自分の言葉でまとめ直したい。

  1.  高齢者、病人、子供、障害者に対する在宅ケアを一元化したユニバーサルケアを確立し、ワンストップチャンネルとすること。
  2. そのユニバーサルケアに、ケア対象者だけでなく、家庭で対応にあたる家族へのケアも含めること。(上記、ダブルケア担当者などへのサポート)。
  3. ユニバーサルケアの充実により高齢者特有の住宅難を緩和しつつ、コンパクトシティ化を進めること。
  4. 不安定な非正規雇用の若者や育児や介護と並行して働く労働者を優遇する年金政策を行うこと。
  5. 少子高齢化によって人口ピラミッドに偏りが日本では生じているので、2014年以降の年齢別負担から能力度別負担への切り替えを促進すること。
  6. 労働条件のうちワーク・ライフ・バランスを改善して、女性の労働参加率を高めること。

 少し堅苦しい表現が続いただろうか。学術書が苦手な人々には、その名も『フィンランドを世界一に導いた100の社会改革』をお勧めしたい。

  • 女性の参政権と40%の定数制度
  • 汚職の排除・世界で最も汚職の少ない国
  • ホームレスへの住宅供給
  • 貧困の防止

 何と言っても、その数は100。上記のような真面目な社会政策の項目もあれば、え、こんなことで社会が良くなるの?と呟きたくなるイノベーションも含まれている。

フィンランドを世界一に導いた100の社会改革―フィンランドのソーシャル・イノベーション

フィンランドを世界一に導いた100の社会改革―フィンランドのソーシャル・イノベーション

 

 お気づきの読者も多いと思う。今日の記事のテーマは「孤独」だった。

実は下記の記事で「居所不明児童」の問題を扱った。 

しかし、実数としては「居所不明高齢者」の数の方が、はるかに深刻だと言われている。無縁で亡くなって、しかるべき手続きが未済のまま、住民台帳に記載されている「幽霊」の数がとんでもなく多いらしい。NHKの「無縁社会」特集が、視聴者の生の声をFAXで募ったところ、こんな声が寄せられたという。

「誰も助けてくれる人はいません。孤独で耐えきれなくて、心が折れそうです」

「まるで心の中では無人島で暮らしているに等しいです。孤独そのものです。私が死んでも、誰が気付いてくれるでしょう」

「苦しい夜は電話をかけます。いのちの電話です。つながらなくても、呼び出し音だけでも、つながれているような気がします」 

無縁社会 (文春文庫)

無縁社会 (文春文庫)

 

この記事の隠しテーマは「孤独」。そして文章のところどころに、風を吹かせておいた。 宮崎駿の『風立ちぬ』の真価を、まだ分かっていない人々が多いような気がしたからだ。太平洋戦争を取り上げつつも、好戦にも反戦にも拠らない主人公たちの姿を描いたのには、『広場の孤独』があるにちがいないというのが、自分の読みだ。 

風立ちぬ [DVD]

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広場の孤独 漢奸 (集英社文庫)

広場の孤独 漢奸 (集英社文庫)

 

堀田善衡が想定していた「広場」とは、クレムリン広場やワシントン広場のようなもの。八紘一宇ファシズムや冷戦や高度成長などの「支配的思想」が、人心を掌握してしまうことを象徴する場所のことだろう。しかし、個人の内面は、そのような「支配的思想」に回収されない。「支配的思想」に抵抗する軸を維持したまま、個人と個人とが互いの孤独を溶かし合う機会を創出できたら、どれほど社会は生きやすい場所になるだろうか。

さしあたり社会資本と呼ばれるそれらの財産を、具体的にどのような社会構成要素にしていくのか、言い換えれば、「広場の孤独」の対義語を、どのように実践的な生き方で定義していくのかが、今もっともアクチュアルな問いとして、私たちの眼前で風に吹かれて揺れているような気がしてならない。

 

 

 

 

 

世界の真実をたずねて三千里

 スペインから遠く海を越えた極東の島国から、サグラダ・ファミリアが完成するまで、どれくらいの道のりがあるのだろうと考えていた。 時間にすると、1882年の着工から136年経った2018年現在、あと8年というところらしい。

2040年の新世界: 3Dプリンタの衝撃

2040年の新世界: 3Dプリンタの衝撃

 

 まず、一体どうしてそんなに早く完成を見込めるようになったのか、気になるところですよね。その理由には大きく二つあり、一つ目はさきほどサグラダ・ファミリアの工事がなかなか進まない理由としても挙げた建設方針の手探り状態が、近年のIT技術を駆使することでだいぶクリアになったことがあります。

コンピュータのない時代には模造実験のための模型も手作業で作らなくてはなりませんでしたが、今は3Dプリンターやコンピュータによる設計技術も進んでいるため、進捗はかなりスムーズになっています。 

二つ目は、サグラダ・ファミリアを建設する予算が観光客増加によって潤沢になったから、というのもサグラダ・ファミリアを語る上で欠かせないポイントです。サグラダ・ファミリアは贖罪教会という特性から、その建設予算は人々の寄附によってまかなわれてきました。

かつては工事費の不足により建設が遅れてしまっていた側面も大きかったのです。  

良かった。3Dプリンタのおかげで、工期が短縮されて完成予定日が前倒しされているそうだ。完成したら、いつか海を越えて、スペインへ世界遺産が内定した巨大な建築群を観に行きたい。

明るい未来を思い描いていると、不意に誰かが淋しくさせるような不安にさせるような言葉を送ってきたので、思わずこうつぶやいてしまった。

マルちゃん。

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

 

M:わかった。じゃあ、しばらく「マルちゃん」で代用するのは、どう? 

もう何が何だか分からなくなってきた。さしあたり、確認しておかなくてはならないのは、東洋水産の即席麺「マルちゃん」が、海を渡って、スペイン語圏のメキシコで大人気になっているという事実だ。

誰もが心に傷を抱いて生きている。なぜ「マルちゃん」なのかは、もう訊かないでほしい。今晩語りたいことは、むしろ自分の心の傷が、「マルちゃん」ではなく、「マルコくん」だったのかもしれないという話だ。 

嗚呼、どうしてこの主題歌はひどいくらいの物悲しさで、子供に不安きわまりない寄る辺なさを喚起しようとするのだろう。自分が見たのは、幼稚園生の4歳のとき。今から振り返ると、このアニメとの出会いは、自分にとって宿命だったようにも感じられる。

オイディプスを変形したこのクライマックスに、当時の自分が何を賭けていたのか、今ならわかる気がする。それは自罰感情だ。思い通りの愛を得られないのは、自分に欠けているもの、自分が殺したものがあるからだと自分を責めてやまない気持ち。

19歳なんて、本当に子供なんだな。  

上記のような文言だけだと、自分を責めてばかりで、自尊感情の乏しい内気な少年に見えるかもしれない。ところが、自分をよく知る周囲の人々は、誰にも褒められても認められてもいないのに、内心に謎の自信満々があるのがわかるらしい。

とうとう、初めてその秘密を明かさねばならない夜が来たようだ。実は、物心ついた頃から、自分には「来歴否認」の精神的傾向があるのだ。あれ? 関連情報がネット上にほとんどない。「来歴否認」とは、実の両親を名乗る父母が、実は育ての親にすぎず、本当の理想的な生みの親が、どこかにいると仮構する考え方だ。

幼稚園の頃から、自分もいつかマルコのように「母を訪ねて三千里」の旅をしなければならないと感じていた。その理想の家族への恋慕が、19歳で書いた戯曲では理想の女性に投影され、現在では理想的な双子の娘がいたらという夢想につながっている。後期高齢者になる頃には、架空の孫娘のことを夢想しているにちがいない。

現実世界でどんなに不遇でも、理想の両親や恋人や子供たちがどこかで待っているにちがいないから、不思議と心が満たされて状態で生きてきたというわけだ。

 実は来歴否認のことを書いては?というインスピレーションは、数日前に自分に来ていた。 

上の記事を書いたとき、骨髄バンクの新書を調べたら、どうもレビューの中身がおかしいのだ。下記のリンクを踏んで、確認してほしい。図書館で手に取ってみると、中身は普通の骨髄バンクの話だった。なのに、2018年2月20日現在、本書に誤って木村敏の新書のレビューが結び付けられていないだろうか。 

 今朝まで、「自罰感情」をフォローしようとする優しい言葉に触れたような気がして、心を動かされてしまい、すぐに打ち消すために「来歴否認」の話を書かなくてはと感じた。実は、誤リンクで想起させられた木村敏は、日本で最も多く「来歴否認」に言及した精神科医なのだ。今日もおはよう、シンクロニシティ! 

残念ながら、今日は来歴否認を直接論じた文献にはアクセスできなかった。ただし、精神科医が言及する事例のひとつに自分が該当するからといって、自分が狂人であるかのような「診断」はご遠慮願いたい。確か、思想家の柄谷行人も「来歴否認」の経歴があると語っていたように記憶する。むしろ、普遍化されたオイティプス・コンプレックスの周辺に出現する徴候で、フロイトはそれを「ファミリー・ロマンス」と呼んだ。 

    In his article, Freud argued for the widespread existence among neurotics of a fable in which the present-day parents were imposters, replacing a real and more aristocratic pair; but also that in repudiating the parents of today, the child is merely "turning away from the father whom he knows today to the father in whom he believed in the earliest years of his childhood"

記事の中で、フロイト神経症患者の間に、現在の両親がより高貴な本来の両親からすり替えられた偽者であるとして、現在の両親を拒否する寓話が、広く存在していると述べた。そのとき子供は単に「現在知っている父親に背を向けて、子供時代の最初期に信じ込んだ父親へ固着しているだけ」だとも主張した。

Family romance - Wikipedia 

 北杜夫やなだいなだのような作家兼精神科医のような種族を除くと、非精神科医の一般人にも娯しめる研究を残しているのは、木村敏中井久夫がまず挙がることだろう。人文学界隈でも評判の高い『徴候・記憶・外傷』を開いてみた。

冒頭から文学青年度が高い。

 ふたたび私はそのかおりのなかにいた。かすかに腐敗臭のまじる甘く重たく崩れた香り――、それと気づけばにわかにきつい匂いである。

 それは、ニセアカシアの花のふさのたわわに垂れる木立からきていた。雨あがりの、まだ足早に走る黒雲を背に、樹はふんだんに匂いを振りこぼしていた。

徴候・記憶・外傷

徴候・記憶・外傷

 

 このように文学的叙情を過剰に湛えた書き出しから、文脈にヴァレリープルーストやジョイスの固有名詞が織り込まれていく好エッセイ。しかし、精神科医としての本領は、この巻頭の「文学的出発」以降の心的外傷をめぐる研究にある。

よって、この巻頭エッセイでも、精神科医木村敏の人格分類への言及の方に注意を払うべきだろう。中井久夫はそこで、精神病理学を二分する基礎構造論と失調破綻発病論のうち、前者を木村敏が重点化しており、後者を自分が重点化しているので、木村と自分は相互補完的な関係だと分析している。これくらいの簡単な分類なら、門外漢の自分でもわかる。

木村敏が提起しているのは、主要な精神病のあり方から、人格類型を導出しようとする試み。ドゥルーズ=ガタリが、パラノイア(偏執狂)とスキゾフレニー(分裂症)が、世界を二分する原理をなしており、前者でなく後者の社会的文脈を顕揚したのと、論理構成が似ている。しかし、この二大原理が精神医学の世界では、必ずしも対立概念ではないという話は、しばしば指摘される論点だ。

というのも、本書内で「分裂症」と表現されているものは、おそらくは、主に破瓜型統合失調症のことであろうと思う。それに対するものとして提出されている「パラノイア」とはだいたい妄想性障害周辺を指しているものではないかと憶測される。しかし本来、統合失調症に厳しく対立する概念としてパラノイアがあるわけではないのだ。妄想性障害のみを指す場合もあるとは思うが、統合失調症に含まれる代表的なサブカテゴリに妄想型統合失調症があるのであって、より不完全なものは妄想性障害や妄想性人格障害として、それら異常で体系化された妄想を持つ疾病群をひとくくりとして「パラノイア」と呼ぶことは普通にある。 

スキゾはパラノ - purplebabyのブログ

となると、主要な二つの精神病に基づいた人格分類には、果たして汎用性があるのだろうか。木村敏は、統合失調症が未来志向(アンテ・フェストゥム)の人格に対応しており、鬱病が過去志向(ポスト・フェストゥム)の人格に対応しているという。さらに癲癇と躁病を現在志向(イントラ・フェストゥム)の人格に対応しているとして、木村敏の精神病に基づいた人格分類は完成する。

少しここで戯れておけば、「フェストゥム=祭り≒事件」を文学に導入すると、起こるべき「事件」が未来にあって追い詰められていくのがサスペンス。つまり、サスペンス好きは、未来志向(アンテ・フェストゥム)ということになる。起こってしまった「事件」が過去にあって過去の事件を探求していくのがミステリー。つまり、ミステリー好きは、過去志向(ポスト・フェストゥム)ということになる。

こういった分類は分類としては成立しても、どんな役に立つのかがわかりにくい。

木村敏の主張にも同じ感触があって、それぞれの精神病を「時間」という一本の輪ゴムで、過去ー現在ー未来の順に重ねてまとめた手際の良さは見事とは言えても、これがどのように活用できるのか、にわかにはわからない。

木村敏現代思想にもかなり精通していて、フッサールハイデッガーのラインで時間論を展開もしている。そこで「時間の間主観性」という章題を発見すると、やっと彼のポジショニングの手がかりをつかめたような気になれる。 

偶然性の精神病理 (岩波現代文庫)

偶然性の精神病理 (岩波現代文庫)

 

精神科の臨床現場を知らない自分は、そんな風に診察しているとは夢にも思わなかった。鍵言葉は「間主観性」だ。木村敏の主著から引用しよう。

 分裂病の臨床的診断にあたっては、表面的な症状に基づく診断のほかに、精神科医が患者から感じとる一種の直観がかなりの役割を果す場合がある。(…)ビンスヴァンガーの「感情診断」、ミンコフスキー の「洞察診断」、ヴェルシュの「直観断」、リュムケの「プレコックス感」などはいずれもこの現象を言い表わしたものであって、人間学的・現象学分裂病研究者がいずれもこの現象に着目しているのは興味深い。私は、分裂病への現象学的接近の可能性は、分裂病者が診察者に与えるこの一種独特な人間的雰囲気への着目によって開かれたと言ってもよいのではないかと思っている。

 この独特の人間的雰囲気というのは、分裂病者がときとして示す明白な拒否的、自閉的な態度や、旧い分裂病者が陥っている感情の起伏に乏しい平板な印象とは全く異ったものである。つまりそれは患者の表面的な対人的態度が拒否的であるか友好的であるかには関係なく、また患者との言語的交流や意思の疎通が可能であるかいなかとも無関係に、患者と出会った相手が本能的・直観的に感じとる一種異様で不自然な全体的雰囲気である。それはいわばなにか根底的な「生命的関係」とでもいうべきものの途絶感、あるいは言語的には表現しにくい過大な(ときには過小な)内的疎隔感であって、得体の知れぬ不安感を伴っている

(…)この直観的に感じとられる不自然さの印象は、恵者と人間的に接近しようとする相手の心中に忽然と生じる全く主観的な感覚である。しかし主観的ということはこの場合、なんの根拠もない好き嫌いや、狂人に対する恐怖感のような先入見を意味してはいない。というのは、分裂病者が相手に対してこの種の異和感を与えている場合、分裂病者の側でもそれと同時に、その相手から全く同質の異和感を感じとっているのであって、このことは多くの患者の証言からも明らかなことだからである。つまりこの不自然さの感じは、主観的ではあるが完全に相互的で、語の本来的な意味における「相互主観的」あるいは「間主観的」な性質の現象だということができる。

(強調は引用者による) 

自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

自己・あいだ・時間―現象学的精神病理学 (ちくま学芸文庫)

 

 知らなかった。そんな風に診察していたのか。ここで言われている「間主観性」は、聞きなれない言葉かもしれない。

世界の意味了解は、個人の主観においてなされるのでなく、超越論的な場における他者と共同体の構成という、複数の主観の共同化による高次の主観においてなされるということ。

間主観性とは - はてなキーワード 

 ここで言われていることは、ユング集合的無意識とほぼ一緒だ。つまり、精神科医は患者を診断するとき、健康な人々との間にはある「集合的無意識」による触れ合いが、患者に対して感じられるかどうかを、診断の重要な直感的手がかりにしているのだ。

「自己とは何か」から「時間とは何か」へ向かったあと、木村敏は「生命とは何か」へと向かう。ここまでくると、ほとんどユンギアンもしくはカワイアンと言ってもいいのではないだろうか。河合隼雄との相互評価を知りたくなる。木村敏は、個別の生命を「ビオス」、個別性を越えて連続する集合的生命体を「ゾーエー」と呼んで峻別し、人間が「ゾーエー」から切り離された不全状態こそが精神病だと考えるようになるのである! 

Hawaiian Music

Hawaiian Music

 

 (写真はハワイアン音楽)

さて、この記事に合わせるかのように、集合的無意識が実在することを示す記事が、ネット上に出現した。

以上の結果から、音声は図形と共感覚のように密接に結びついていることが証明されたが、この実験で最も重要なのは“無意識のうちに”音声から図形を連想させた点である。被験者らは、ほとんど認識できないほどぼやけた文字を見せられ、それが認識できた時点で瞬時にボタンを押すよう指示されていたため、文字と図形の関係をじっくりと考える時間がなかった。つまり、意識的な連想ではなく、無意識的な連想の実在が今回の実験で証明されたというわけだ。

「ブーバ/キキ効果」は、特定の地域や言語に特有の現象ではなく、人間の無意識にインプットされた普遍的な現象であるといわれている。

(強調は引用者による)

しかし、すっかり参ってしまった。インスピレーションのなすがままに書いていると、従来のアカデミック領域のそこここに、次々にスピリチュアリズムに通底する研究結果を発見してしまうではないか!

「神様」と私は声に出してお願いごとをした。「走って辿りつけるなら、三千里でも走ります。授けてくださった使命を果たしながら、生きていきます。ですから、…」とお願いごとの部分は心の声でお願いした。

そして、今晩この場所を始点にしてはじまる旅の道程を、瞑目した瞼の裏でイメージした。神様から答えは返ってこなかった。けれど、その返答であるかのように、瞼の裏で遠くまで果てしなく伸びている道が、燦然と輝いたのだった。 

 

 

 

(ハワイの波音)

ゴールの先にある白紙を見つめて

今朝、目が醒めたとき、今晩は何を書こうかと考えていると、鳥の啼き声のような声で、no, no, ...という声が、どこかから聞こえた。何を否定したいのだろう? 朝からネガティブな言い草はよしてくれよ、と思って起き上がろうとしたときに、先ほどの声が、高校生の時に流行したこの曲の歌い出しに似ていることに気付いた。

この曲は当時も今も格好いいと感じる。でも、この曲しか好きじゃなかったので、自分の思い出ディスコグラフィーの中ではデュラン・デュランはミニサイズだ。自分に舞い降りてくる多種多様なインスピレーションの中では、「Actually」を降ろしてくださったとき(非公開記事)に感触が似ているような気がした。

きっと今朝のインスピレーションにも意味があるにちがいないと信じて、頭の中でミッシングリンクを探しまわっていた。曲名の「Nortorious」は「悪名高い」という意味。悪評について考えてみたが、手掛かりはつかめない。

「わかった」と思った瞬間、可笑しくて吹き出してしまった。頭の中でこんな連想がつながったのだ。

「Nortorious」=「能登→リアス」=「敗戦湾(若狭湾)」 

くすくす。いくら何でも、これを「神様からの霊言」としてブログに書いたら、神々を信じている方々が憤然とするにちがいない。霊感なのか、自前のインスピレーションなのか、今の自分は区別がついていない。自分の言語センスの卓抜さだということにして、今晩ブログで使おうと考えていた。

ジム経由で大学図書館へ行く。本棚に並んでいる膨大な本の背表紙に目を走らせる。数学の本を探していたのに、フランスの小説に目が留まった。というより、その小説と目が合ったような気がしたのだ。最近はテレビの録画を見ていても、目が合って羞かしくなって消してしまうこともある。きっと、全身麻酔にかかっているせいだと思う。 

 偶然手に取ったこの小説をパラパラめくって、偶然指を止めて見入ったページに、こんな文章が書かれていた。ざわっと鳥肌が立った。

 一生の間には、どこからかお告げの声を耳にする、選ばれた朝の来ることがあるもの だ。目がさめた瞬間、まだあてもないさまよいが続いている中を、ひときわ荘重な調べ がわれわれに向けて鳴り渡る。それはちょうど、何をしてよいかわからぬままに自分の部屋の使い慣れた品物を一つ一つ手にとってぐずぐずしているうちに、早くも大旅行への出発の時が来てしまったようなものだ。夢よりももっと予覚に満ちたそのうつろな朝の光の中を、遥かな警告のようなものが忍び寄ってくる。それは街路の舗石に一歩だけ聞こえた足音かも知れないし、覚めぎわの眠りをくぐってかすかに届いてきた最初の鳥の声かも知れない。

(ゴチック部分は原文では傍点)

 正直にいうと、ジュリアン・グラックは『陰鬱な美青年』と『アルゴールの城にて』しか読んだことがなかった。『アルゴールの城にて』は白水社版を持っているはずだ。 

アルゴールの城にて (白水Uブックス)

アルゴールの城にて (白水Uブックス)

 

『シルトの岸辺』は、没落しつつある都市国家オルセンヌが、「冷戦」中のシルト海対岸の相手国と、まもなく軍事衝突して滅亡するだろう緊張状態を、美しい文体で描き上げた傑作だ。「敗戦岸」小説と言っても良いのではないだろうか。

もともと詩的な文体の見事さには定評のあるグラック。グラックに一番近い日本の文学者は、このブログでたびたび言及してきた天沢退二郎であることは、上記の引用部分に「舗石」という天沢語があることからもわかるだろう。(ただし、詩には詩人の完全な独創がある)。

その「舗石」について、フランスと日本を0体市\比して、こう書いたことがある。 

自分が生まれる前の五月革命については、知らないことの方が圧倒的に多いが、カルチェ・ラタンの学生たちが敷石を剥がして投石し、唱和すべきモットーとして「敷石を剥がせば砂浜」と叫んでいたことが心に残っていた。詩的なー句が物語っているのは、旧体制(アンシャンレジーム)への、若者たちからの鮮烈な異議申し立てだろう。

ベルリンの壁の痕跡を辿る記述にも、敗戦国日本の文脈を紛れ込ませずにはいられない自分は、45年以降n度目の局地的敗戦を経て、ますます属国化の進むこの国の方へ、振り返ってまなざしを向けずにはいられない。小説の冒頭に、こんな一句を書きつけずにはいられなかった。

アスファルトを剥がせば焦土」 

というように、シンクロニシティーを媒介にして、すべてがみるみるうちにつながってしまうのは、「God is no where」ではなく「God is now here」だからなのだろう。そんな確信を、感謝の気持ちとともに、あらためて噛みしめた朝だった。 

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

ゲーデル、エッシャー、バッハ―あるいは不思議の環 20周年記念版

 

 上記も面白い本。ゲーデルには昔から興味があったが、自分の専門分野から遠かったので、なかなか手が出なかった。トリオ語りなら、こっちの三人の方が面白そうだと感じて、本を買ってきた。一般教養向けなので、とてもわかりやすく手際よくまとめられている。図書館に置いていないのは、どうして?  

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

ノイマン・ゲーデル・チューリング (筑摩選書)

 

 この三人のうち、フォン・ノイマンの「驚異的な頭の良さ」と「徳盲」との組み合わせについて、こう書いたことがある。

このストレンジラブ博士のモデルと目されているのが、数学者のフォン・ノイマンだ。

神童としてハンガリーに生を享け、純粋数学界、理論物理、応用物理、意思決定理論、気象学、生物学、経済学に足跡を残した。「人間ではなく、人間のふりをするのがうまい人間に何か別の生き物」とか「悪魔のように頭が良い」とか評されるほど、とにかく頭が良かったし、その悪魔的な頭脳で、文字通り世界を変えていった。コンピュータが発展させていく未来を、最も正確に予測していたのも、フォン・ノイマンだった。

(…)

実際、メディア論史では、「1対1」のコミュニケーションが、印刷機の普及により「1対n」となって以降を「グーテンベルグの銀河系」という。それがインターネットの発達により「n対n」となって以降を「フォン・ノイマンの銀河系」と呼ぶこともあるほどだ。

(…)
けれど、フォン・ノイマンの悪評はかまびすしい。それも無理はない。

普通ならまだ学生のはず。ところが、20代前半で世界的な科学者となっていたフォン・ノイマンは、弱冠30歳でプリンストン大学の最年少の教授になると、軍産複合体お抱えの科学者として「大活躍」し始める。原爆の父オッペンハイマーに乞われて「原爆製造計画」に参加すると、長崎に投下されたプルトニウム型原爆の最大のボトルネックだった爆縮法(爆縮レンズ)の開発を成功させる。原爆なければコンピュータはなく、コンピュータがなければ原爆はなかった時代。コンピュータの飛躍的発展にも貢献した上で、原爆の空中起爆を考案して、投下都市を広島と長崎に決定する徹底的討論も主導した。

第二次世界大戦後の冷戦下、1950年に遺した凄まじい台詞は、実在したマッド・サイエンティストに最もふさわしい台詞だろう。

 

明日ソ連を[核]爆撃しようと言うのなら、私は今日にしようとし言うし、今日の五時だと言うのなら、どうして一時にしないのかと言いたい。

 

悪夢の両世界大戦時代に生きつつも、理想主義をも内包していたアインシュタインオッペンハイマーと違って、フォン・ノイマンには「徳盲」と詰られるほど倫理的呵責がほとんどなかった。 

このノイマン1903年生)に、どうしてゲーデル(1906年生)とチューリング(1912年生)が連なるのだろうか。

実は、三人はノイマンを媒介に、1936年から1938年まで、同じプリンストン大学の数学科に集結していたのである。「ゲーデルをヨーロッパの瓦礫の中から救い出すことほど重要なことはない」と断言するほど、ノイマンにとっては特にゲーデルの知性への評価が高かったようだ。

ノイマンについては、或る程度書いたので、読書はゲーデルへと向かったが、まさか『夜の蝶』所属の踊り子と結婚するような人だとは思わなかった。完全性定理を証明した約半年後に不完全性定理の証明に成功したゲーデルは、同じ半年の間に人妻の踊り子と相思相愛になるという「難業」にも成功しているのだ。

不完全性定理の発見は、20世紀の論理学と数学における最大の発見だとされるほど稀有の偉大な業績だが、ゲーデル自身はその偉業を、踊り子との出会いの喜びのおかげだと語ったのだという。

人生って何があるかわからない。

わからないと言えば、ゲーデル不完全性定理も、初見ではかなりわかりにくい代物だ。1987年になって、これを情報数学者のグレゴリー・チャイティンがさらに発展させて、「ゲーデルチャイティン不完全性定理:任意のシステムSにおいて、そのランダム性を証明不可能なランダム数GがSに存在する」という帰結を証明してしまった。 

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

セクシーな数学―ゲーデルから芸術・科学まで

 

 数学の論理構造は完璧──というのは実は幻想にすぎない。かつてゲーデルの「不完全性定理」がこの事実を示したが,いま注目されるのは「オメガ」という数だ。完全に定義でき,確定値を持つのに,決して計算しきれない数とは? 
 ゲーデルは,数学が不完全であり,きちんと証明できないにもかかわらず正しい記述を含んでいることを示した。ところが「オメガ」という特別な数は,数学にさらに大きな不完全性が存在することを明らかにした。有限個の公理をいかに組み合わせても証明できない定理が,無数にあるのだ。したがって数学の「万物理論」はありえない。 
 オメガは,あるコンピューターに関して考えうるすべてのプログラムの集合から1つのプログラムをランダムに選んだ時,そのプログラムがいずれ停止するものである確率だ。完全にきちんと定義され,決まった値を持つ。しかし,どんな有限プログラムを使っても,オメガのすべての桁の値を計算し尽くすことは不可能。言い換えると,証明不能な数学的事実が無数に湧き出る泉のようなものだ。
 この特性は,数学者が新しい公理をもっと仮定してよいことを示している。物理学者が実験結果をもとに論理的証明のできない基本法則を導くのと同様だ。 

流石、サイエンスライターが書くと、不完全性定理すらわかりやすく読めてしまう。

いくつか付け加えたい。引用文中の「そのプログラムがいずれ停止するものである確率」とは、チューリングが取り組んだ「停止性問題」のことでございますので、何卒ご注意をばお願い申し上げます、という低姿勢にもつながっている。サイエンスライターは「数学者が新しい公理をもっと仮定してよい」と、自然数論にまで広く及ぶこの「ネオ不完全性定理」を、新しい数学の可能性のように書いている。しかし、ネオ不完全性定理は一般人が読むと、神の存在可能性を大きく増やす発見なのではないだろうか。

実際、チャイティン自身が「私は、神が、物理学だけでなく、純粋数学においても、自然数論においてでさえ、サイコロを振ることを証明した」と語っている。 

(英語が得意な人向けの動画)

 では、チューリングは?

チューリングについては、プログラム型コンピュータ(チューリング・マシン)の最初の開発者として言及されることが多い。しかし、ほぼ同じ発見をほぼ同じ時期にノイマンが成し遂げていることから、ノイマンの業績としてみなされることも多い。ノイマン型コンピュータ、ノイマン環、ノイマンの定理など、彼の輝かしい業績のリストは世界一なのだ。

むしろ自分は、チューリングをコンピュータの発設計者やドイツの暗合機エニグマの解読者ではなく、同性愛絡みで自殺する2年前に発表した「反応拡散方程式」の数理生物学者として記憶したい気持ちが強い。

テレビ番組でも取り上げられている。キャプチャー画像を紹介しているブログを見つけた。

シマウマや縞のある魚などの体表の模様は、変数がたった二つの連立偏微分方程式によって表せることを、チューリングは発見したのだ。その二つの変数とは、下の例では、活性化因子と抑制因子である。

タテジマキンチャクダイの模様を見ると一本の模様から二本の模様に枝分かれしている部分があります。ここに注目します。なぜか。

「何か起りそうな気がするではないですか」

(…)

この活性化因子は自分自身を合成するよう細胞に働きかけます。そうすると細胞はどんどん活性化され活性化因子を放出します。さらに他の物質を放出するように細胞に働きかけます。

(…)

 この物質は活性化因子が作られるのを抑える抑制因子で、これが増えれば活性化因子は減少していきます。

 活性化因子と抑制因子の量が作りだす波形、この波こそ細胞が自分で模様を作りだすメカニズム。というわけです。

(…)

チューリングの言葉】

 二つの物質が、ある条件のもとで反応しながら広がるとき、そこに物質の濃淡の波ができその波が生物の形や模様を作りだす。

そして物質の反応の強さや広がる速さを変えるとどんな波ができるのか、チューリングは次の方程式を残しています。 

 チューリングは、たった二つの変数(拡散と濃度)から、あらゆる生物の複雑極まりない組成物が作られていくプロセスを数式化することに成功したのだ。チューリングの最晩年の仕事が、「神の領域」に到達していたことを疑う人はいないだろう。

縞馬や豹の体表の模様を「神の書跡」と呼んだ小説家を、このブログではすでに紹介している。

 牢獄に幽閉された男が、隣の牢にいるジャガーの身体の模様を暗記して、それを「神の書跡」だと信じ込むという話。男はその「神の書跡」が「宇宙=世界」だと信じて、狂喜する。それが、14文字から成る「祈りの言葉」だと知って、それを口にすれば全能の存在になると確信するに至るが、その確信があまりに強すぎたために、その「祈りの言葉」を口に出す必要がないと錯乱して、健忘症となり果てるのである。 

ノイマンゲーデルチューリング』は、難解な学術知と三人のライフヒストリーを、実にうまくまとめてある本だ。後世による歪曲つき簡略化に抵抗するために、ナマの講演録が入っているのも良い。

本書をもとに、三者の共通点をまとめると、「両大戦の爆撃光に浮かび上がった天才科学者たちの光と影」という章題を付けられそうだ。

広島と長崎に落とされた原爆に「爆縮機能」を加えて莫大な死傷者を生み出した挙句、自身も水爆実験による副作用で早逝したノイマン。20世紀最大の不完全性定理を証明したものの独裁国家によって弾圧され、救出してくれたノイマンや友人のアインシュタインを失うと精神病と栄養失調で死んだゲーデルナチスドイツの暗号機エニグマを攻略し、コンピュータを開発したものの、戦後まもない反共保守の風潮の中、同性愛を告発されて有罪先刻と強制ホルモン治療を受けて自殺したチューリング。 

(2016年、過去イギリスで同性愛によって「罪人」となった人々の名誉を回復する「アラン・チューリング法」が可決された)。

私的には、別の視角があると感じている。

ノイマンの華麗かつ多彩な業績の中では霞がち。しかし、忘れてはならない業績がある。

ノイマンはその1925~1927年で、量子力学の理論のうちの数学的側面を完成させてしまったのだった。1927年に開かれたソルベー会議が量子力学にとって画期的なものになったのには、フォン・ノイマンの大きな貢献があったのである。

 もう一度整理しよう。

量子物理学の基礎の完成に貢献して物理世界に「神が存在しうる余地」を生み出したノイマン。数学のほぼすべての世界に「不完全性定理」が成立しうることを証明して「神が存在しうる余地」を生み出したゲーデル。変数がわずか二つの連立偏微分方程式によって、ほぼすべての生物が自然に自発的形成を遂げる「神のデッサン」をモデル化することに成功したチューリング

 両大戦間を中心に、20世紀を飾った三つの天才の綺羅星たちは、互いに交錯しつつ、それぞれの流儀と推進力で、未踏の「神の領域」にその輝かしい軌を跡残したというのが、私の独自の考えだ。

 世界の話を地方都市に縮小して考えると、四国の片隅にある松山でも、綺羅星たちの交錯が豊かな物語を紡ぎ出した。

同じ松山で生まれ育った正岡子規と、日露戦争で活躍した秋山兄弟。子規は病と闘いながら俳諧の革新に挑み、秋山兄弟はそれぞれ日本の騎兵、海軍の技術向上に尽力した。当時最強とうたわれたロシアのコサック騎兵を打ち破るべく、ひたすら仕事に打ち込む兄好古と、文学の世界に未練を残しながらも海軍に入隊し、海軍戦術を研究し続けた弟真之。2人のまじめな努力の成果は、歴史が証明している。誰もが立身出世を目指した時代に、彼らがどうやって自分の人生の意義を見出したのか。そんな視点から読んでみるのもおもしろい。 

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

坂の上の雲 全8巻セット (新装版) (文春文庫)

 

 しかし、司馬遼太郎自身は、秋山兄弟にせよ正岡子規にせよ、決して天才的な存在ではなかったと言明している。「彼らはその時代の人らしくふるまったにすぎない」と突き放す。司馬遼太郎がこの大作で描き出したかったのは、個人的資質の個々の輝きではなく、天才ならざる一般大衆に浸透していた「時代精神」だったというのである。

時代精神」という言葉を吟味しながら、その司馬遼太郎自身の同時代人を探すと、二歳年下に三島由紀夫が見つかる。三島由紀夫は「時代精神」とほぼ同じ概念を、文化的側面に集中させながら「文化意志」という概念で、最晩年に主張した。

民俗学精神分析とによる「底辺の国際主義」(≒構造主義)へ引き込まれることを執拗に警戒しつつ、三島由紀夫は島国固有の境界線の定立を試みる。

はじめ個我によく似た民族我は、排他性、絶対的自己同一性、不寛容、などによって他との境界を劃し、以て民族的自覚に到達するが、「我」としての文化、いはば文化我も、排他的な自意識を、最初の文化意志として定立するであらう。

民俗学精神分析を厳しく退けつつも、文化の形式を通じて発現する「集合無意識」があると、三島が信じているようにしか読めない。その「集合無意識」を民族単位で括りたいという留保をつけているだけなのではないだろうか。

「実際にそうなっている」というのが、興隆著しいスピチュアリズムからの答えだ。ここはユングを引用すべきところなのかもしれない。けれど話を早くしたい。  

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 ピラミッド型の階層構造は、別名ではツリー型構造という。個々の人間から垂直に上へ伸びているのは、オーバーソウル層が積み重なった逆ツリー型のレイヤー構造だろう。もう少しスピリチュアリズムの周辺を調べてみないと、確言はできないかもしれない。

ただし、それぞれの教義間で、霊性をめぐる言説に、それほど大きな差はないというのが、自分の読書経験からくる印象論だ。 

10数年前、自分に割り当てられた電話番号をじっと眺めているうちに、「924-5310」が「国を良くするゴミ当番」に見えて仕方ない気がした。自分のソウルの上、小さい順に重なっている何層か上に、「日本のオーバーソウル」があるはずだ。そこを通じてつながっている(上の「手のひら」の図のように、個々人はオーバーソウルでつながっている)人々と、何とかして上手く協働して、この国がもう少し上手く操縦されるよう努力してみたい。そんなことを考えてみたりもする。これが今晩のゴールであり、着地点だ。

ここから先は白紙。私たちの未来が描かれていく白紙だ。酔い覚ましをするかのように、しばしその白紙を見つめながら、じっと立ち止まっていた。

或るゴールの白にて。

 

 

 

麻酔めいた阿頼耶識を略したい

美学という言葉を使うと、大袈裟になるかもしれない。

それでも、自分がこだわってきたものや好きなものは数え切れないほどあって、そういう存在のそれぞれが、人生のいろいろな局面で、不意に近くなったり遠くなったりするのを感じて生きてきた。

それが映画なら、クローズアップで描写するところだ。映画でない小説での遠近調節を、この場面の描写で試した。映画の比喩を使っている。

主人公の路彦は、6年前に理由も告げられないまま、交際女性と音信不通になった過去がある。29歳の男なので、まなざしには性的なニュアンスが少しだけ入り交じっている。

 待ち合わせた大学の正門に愛車の兜虫を停めていると、表通りの向こう、信号の下に 蝟集している人混みの林から、細く白い腕が上へ伸びて、賑やかに振られるのが遠見された。路彦はまだガラスで隔てられた車中にいるので、待ち焦がれたはずの再会のこの瞬間が、夢の醒め際に似たつかみどころのない曖昧な映画のように感じられる。琴里が大通の横断歩道上をこちらへ駆け寄ってくる数秒、映画でクローズ・アップが群衆からヒロイ ーンを選り分けるように、雑踏の隙間から女の顔が現れ、細身の全身が現れ、ヒールが高いせいで細い腰が女らしく左右にゆらゆらと揺れる様子が、フロントガラス上に次第に大き くなってくる。6年間の夜々の孤独がまざまざと蘇る。あの細い華奢な身体が、自分の塞がらない傷口にガーゼのようにそっと覆いかぶさってくれたらと、どれほど痛切に願ったことだろう。路彦が知っている唯一の女の身体。身体は歩いて近づきつつあったが、見知らぬ派手な布地にくるまれたそれには、もはや触れることさえ叶わないのである。痛みのある感傷が心中に満ちる。けれど、それも数秒のことだ。

 わずか数秒でも、謎の理由で失恋した男の傷を「絵」にしなければならない。小説というものは、本当は、絵になる瞬間より絵にならない瞬間をどのように書くかに、その作家の真骨頂が現れやすい。しかし、だからこそ「絵」になる瞬間への嗅覚が大切だともいえる。

そして、その「絵」の守備範囲を、映画やドラマなどの動画だけでなく、絵画や写真の静止画まで広げておいた方が、描写力の育成に資するというのが、持論だ。そういうわけで、若い頃にファッション系の写真家の作品もチェックしていた。 

現在のHP上では、多彩な主題の連作群を持つトマス・ルスも、90年代は、耽美系のフェティッシュな主題で、村上龍の一部の作品世界に重なるような写真を撮っていた。「Paradise Lost」という写真集の名前を、今でも覚えている。

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(画像引用元:https://www.lensculture.com/books/11853-paradise-lost

自分が好みだったのは、toni meneguzzo で、現在は「Divine bovine(神聖な牛)」という連作で、ヒンズー教徒たちが収穫と牛の聖性を祝うためにしつらえる「飾り牛」を撮っているようだ。こんなお洒落な牛たちは初めて見た!

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(画像引用元:Toni Meneguzzo – Divine Bovine

 写真家は元々いろいろな被写体を撮りたいという欲求が強い種族だ。だから、キャリア全体を俯瞰するとファッション以外の写真がどうしても多くなる。それなのに、被写体にかかわらず、ファッション写真の作法が作品に色濃く残っているのが面白い。当然、遠近法の制御やズームの in / out なんて、朝飯前なのだろう。

どういう風の吹き回しか、90年代の自分はファッションショーなども定期録画して、チェックしていた。当時、確かパリのコレクションに山口小夜子以来?となる日本人女性モデルが出演していたのを見かけて強く魅かれたような気もするが、それは気のせいかもしれない。

木を見て森を見ず。森を見て木を見ず。遠近法を操るテクニシャンなら、その両方を見て、その両者の間もしっかり見られるのだろうが、自分はまだどこか遠近法に惑わされたまま生きているのだ。

Paradise Lost」という写真集名をぼんやり眺めているうちに、『豊饒の海』の『天人五衰』のラストシーンを、ハッピーエンドからトラジックエンドに書き換えて、三島由紀夫が自決したことの意味を考えていた。

 本多死なんとして解脱に入るとき、光明の空へ船出せんとする少年の姿、窓越しに見ゆ。(バルタザールの死)

(『豊饒の海』創作ノート18冊目) 

三島由紀夫 幻の遺作を読む?もう一つの『豊饒の海』? (光文社新書)

三島由紀夫 幻の遺作を読む?もう一つの『豊饒の海』? (光文社新書)

 

 いまだに毎年出版される三島由紀夫研究本の中で、この新書は出色の素晴らしい出来だ。難解で知られる『豊饒の海』四巻の解読を、ほぼ完全に成功させた労作で、三島通を自認する自分にも、教えられるところが多かった。

上記引用部分の「バルタザール」は「バルダサール」の誤記であり、後者はプルーストの初期短編だそうだ。主人公の「バルダサール」は、最終場面でインド行きの船と鐘の音にふと触発されて、これまでの記憶の数々が湧き出るように次々と蘇っていくのに身を任せて、幸福な臨終を迎えるのだという。『失われた時を求めて』での有名なマドレーヌによる「無意志的記憶」の想起は、この初期短篇が元になっているというのだ。

迂闊にも気付いていなかった。太宰治人間失格』に対抗意識をもって初期出世作仮面の告白』を書いた三島由紀夫は、20世紀最高の小説『失われた時を求めて』の「無意志的記憶」に対抗意識をもって、「唯識」大作小説を書き上げていたのだ。  

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)

天人五衰―豊饒の海・第四巻 (新潮文庫)

 

 この新書が凡百の研究書を上回っているのは、創作ノートに手掛かりのあるレファランスだけでなく、筆者の頭にある「教養書庫」から、戦後の思想や文学との切り結びを指摘している点だ。

初読のとき最も驚いたのが、丸山真男の有名な「ファシズム的権威の垂直軸」の構図を、三島自身が日本文化論の中心へ導入している点だった。当然のことながら、天皇主義者の三島とファシズム批判急先鋒の丸山真男とは、思想的に対極に位置する。 

 ところが超国家主義にとって権威の中心的実体であり、道徳の泉源体であるところの天皇もまた、この上級価値への順次的依存の体系に於て唯一の主体的自由の所有者とはなり得なかった。天皇は無限の古にさかのぼる伝統の権威を背後に負っていて、その存在はこうした祖宗の伝統と不可分であり、皇祖皇宗もろとも一体となってはじめて内容的価値の絶対的体現と考えられる。天皇を中心とし、それからのさまざまの距離に於て万民が翼賛するという事態を一つの同心円で表現するならば、その中心は点ではなくして実はこれを垂直に貫く一つの縦軸にほかならぬ。そうして中心からの価値の無限の流出は、縦軸の無限性(天壌無窮の皇運)によって担保されているのである。 

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

超国家主義の論理と心理 他八篇 (岩波文庫)

 

 丸山真男を一躍有名にしたこの短い論文には、亜インテリを魅惑するちょっとした中毒性があるというのが、私見だ。実際、自分も理系の青年に権威を批判させるときに、丸山真男の語彙を流用して、批判させたことがある。 

その対極にあるはずの文脈から鍵概念を抜き出して、自説を補強してしまえる柔軟性が、実は三島の凄いところ、言い換えれば、作家らしい作家の凄いところなのだ。

こういう概念の編み替えを無節操だと批判するのは誤っている。

三島由紀夫寺山修司も「(多数性に開かれたメディアである)小説はファシズムへの抵抗性を高める」 という意味の発言をしている。作家にも統御しきれない、無数の記号のざわめきは、間違いなく、硬直した閉鎖意味体系の外側にあるのだ。

日本の文芸批評が、小説の情操教育上の効用をどうして語らないのかは知らない。しかし、それは日本特殊的現象なのではないだろうか。どこかの一般向けの英語文献で、小説を読むことで他者への共感可能性が高まること、娯楽性よりも純文学性(seriousness)が高ければ高いほど、人格的陶冶の効用が高いことが主張されているのを見た。誰かが日本語で書いてくれると嬉しい。

さて、丸山真男から換骨奪胎した「垂直軸」は、三島の頭の中で、さまざまな事物と組み合わされ、このような形へと発展していった。

 澁澤龍彦が「皿屋敷 / 阿頼耶識」と書いたものに相当するものを、文化的文脈に目敏い椎根和は、すでに見つけてしまっていた。何と、遺作『豊饒の海』の背後にあった仏教哲学も、ユング心理学と重なり合う領域にあったのだ。三島は、ユングのこの本を読み込んでいたらしい。 

 (…)

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そこに出てくる「宇宙時計」の夢をみた頭脳明晰な患者とは、アインシュタインの絶賛を受けたノーベル賞物理学者のパウリ。三島由紀夫は、ユングによる「宇宙時計」の概念と阿頼耶識との共通性を探ろうとして、熱心に松山俊太郎に質問していたらしいのだ。パウリは物理学でありながらユングとともに、シンクロニシティの研究もしている。シンクロニシティ関連の本に「宇宙時計」の図が載っていた。なるほど、これは確かに、外見としては、時空が直交交錯した「皿屋敷」に似ているし、阿頼耶識自体も一種の時空論なのだから、三島由紀夫の着想は鋭いと言えるのではないだろうか。

(…)
偉大な文学者を個として称えることを間違っているとつもりはない。しかし、三島由紀夫という不思議な存在を研究すればするほど、三島個人の凄さとは別に、凄い何かが彼に強力に働きかけているのを感じるようになった。外的な作用力のあるその未知の水脈とは、ユング研究第一人者の河合隼雄と親交のあった村上春樹が、しばしば井戸の比喩を用いることが示唆しているように、(ユング―三島―春樹をつなぐ)「集合無意識」に似た何かだろう。 

井上隆史の新書では、阿頼耶識について、諸流派における専門用語の異同を確認しながら、丁寧な解説がなされている。しかし、その部分はこのブログでは話を急いでもよいところだと思う。空海華厳宗の教えを解説した部分と、内容は大筋で同じだ。 

チベット密教に私淑して、新たにした認識でジョン・レノンが書いた曲も、大筋で同じ内容を歌っている。私たちは現世に「魂の修業」をするために来ているのだ。「だから『存在』のゲームを最後まで楽しもう」とジョンは歌っている。

ジョン・レノンが依拠したのは、ティモシー・リアリーの『チベット死者の書』。心理学者のユングも、この書物を座右の書としていた。

同じ書物の内容を映像化すべく、NHKとカナダとフランスのテレビ局が共同制作したこの番組は、かなり見ごたえがある。死者が亡くなると、このブログでも言及してきた「幽界」(=バルドゥ=中有)へと、死者は彷徨い出る。その彷徨いの道先案内となるように、死に瀕した病人のそばで、僧侶たちが読経しつづける様子が映し出されている。 

さて、井上隆史は数日前にも『豊饒の海』を分析した書物を上梓した。これらの二冊にざっと目を通しただけでも、明確にわかることがある。 

 それは、三島由紀夫が、唯識仏教の訓詁学的な細部に足を取られることなく、大掴みで世界の神秘の核心へと分け入り、当時の日本人作家としては、とんでもなく深い所まで到達していたことだ。

唯識仏教について詳述している『暁の寺』のこの一節は、10年代の私たちにはどう読めるだろうか。新字旧仮名で引用しよう。

 従つて、阿頼耶識は滅びることがない。滝のやうに、一瞬一瞬の水はことなる水ながら、不断に奔逸し激動してゐるのである。

 世界を存在せしめるために、かくて阿頼耶識は永遠に流れてゐる。

 世界はどうあつても存在しなければならないからだ!

 しかし、なぜ?

 なぜなら、迷界としての世界が存在することによつて、はじめて悟りへの機縁が齎されるからである

 世界が存在しなければならぬ、といふことは、かくて、究極の道徳的要請であつたのだ。

(ゴチック部分は、原文では傍点) 

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

 

 「スピの座上昇気流」と私が呼んでいる現象(「スピリチュアリズムの興隆」)は、1970年代以降に始まり、自分の仄聞する限りでは、2000年、2012年、2017年にさらに上昇気流の強度が高まったらしい。 

スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

スピリチュアリティの興隆―新霊性文化とその周辺

 

少年時代からの輪廻転生の確信、隠れユンギアン、UFOへの強い関心、唯識仏教(≒精神世界)への傾倒。…… 

三島由紀夫とは何者なのか」、私の解答用紙に、いまこう書きつけたところだ。

戦後最大のスピリチュアル作家!

 「どうも、ちょっとばかし自分に霊感がついてからというもの、あいつはスピスピうるさい」と憮然となさっている読者のために、文学研究者の顔で付け加えておきたいこともある。

井上隆史の二冊の「豊饒の海」解読本をざっと読んだ上で、もし自分が付け加えられることがあるとしたら、少年時代からの三島の「輪廻転生」への傾倒が、ニーチェの「永劫回帰」経由だった可能性を探ると、さらに面白くなりそうだということだ。

三島由紀夫がラディゲだけでなくコクトーに傾倒していた一時期があることを、 澁澤龍彦が指摘している。悲恋小説『春の雪』ではじまる『豊饒の海』のどこかに、コクトーのこの映画の投影がなかったことは言えないかもしれない。 

「悲恋」という映画名で日本では流通した。原題のフランス語は「永劫回帰」を意味している。

少年時代の三島は、「輪廻転生」を「小輪廻」と「大輪廻」の二つに分けて把握していた。「大輪廻」はニーチェの「永劫回帰」由来と見て、ほぼ間違いないだろう。

実は思想小説『美しい星』でも、ニーチェ的な「永劫回帰」が思想的な転換点として用いられている。自決当日、机上に『悲劇の誕生』を据えてこの世界を捨てた作家は、骨の髄までニーチェ主義者なのだから。

もう一点、三島由紀夫が数々の社会思想や宗教思想の中から、なぜ唯識論を選び取ったのか、なぜ世界崩壊やニヒリズムに浸されつづけたかを問うときに、同性愛におけるエロス / タナトスの特性への探究が不足しているように思われる。

例えば拙記事で語った「3」の数字は、老残の本多にも出現する三島的三角形のエロス構成要素だ。

 田中美代子の『決定版三島由紀夫全集』の最後の月報は、『仲間』が「3人」であることを述べて、その結語としている。驚くべきことに、田中美代子には3がわかってしまう!(ただし3人目が「精霊」であるという解釈には、私は懐疑的だ)。

この3という数字が、実は三島文学を読解する上で、欠かせない鍵なのである。

わかりやすく三角形に図示すれば、「エロスとタナトスの絡み合い」とかつて述べた両極を、頂点B「愛する / 愛される」、頂点C「殺す / 殺される」と言い直して、正三角形の底辺の両端とすれば、3つ目の頂点Aは「見る / 見せる」である。

三島偏愛の自作『憂国』は、Aの天皇からのまなざしが不可視なので、辺BCが際立っている。同工異曲の匿名ポルノ「愛の処刑」は、美少年の目前での切腹という筋書きなので、辺ACが中心線だ。 

 さらに、もう一歩踏み込んでみたいのは、三島由紀夫プルーストに匹敵すべき「全体小説」の基礎として唯識哲学を採用した理由に、「種子(しゅうじ)」という阿頼耶識の因果の原因物の名前が、積極的な役割を果たしたやもしれぬ可能性の探究だ。

LGBTの種族による創造物に、「種子」や「生殖」が頻出することについては、二度言及したことがある。

戦場のメリークリスマス』の最終場面に、「(デヴィッド・ボウイが演じたイギリス人捕虜の)彼は私たちの中に種子を植えつけた」という台詞が現れたように記憶する。

その台詞が、原作の『種と蒔く人』から来たのか、大島渚の遺作『御法度』と同じくホモ・セクシャルの含意からきたのか、調べる時間がなかった。 

主人公が恋人とともに食べた魚卵入りの鮎は、「無精卵」だった。恋人が学歴詐称を口実に父に勘当され、戸籍を抹消される経緯には、生殖はおろか戸籍からも峻拒される主人公を含めたLGBTの実存上の苦悩が反映されていると読むべきだろう。では、引っ込み思案な主人公と恋人の交流は、何も生み出さなかったのだろうか?

小説がこの問いに短く「否」と答えているのが聞こえるだろうか。「有精卵」を生み出しているやも知れぬ上流の施設へ、それまでの引っ込み思案が嘘のように、主人公が「自分の足で確かめてみよう」と能動的に歩き出す最後の一文には、この小説を小説らしく終わらせるに足る見事さがあると思う。 

早朝6時くらいに起きて、井上隆史の『三島由紀夫 幻の遺作を読む』を再読し、本屋に新作『「もう一つの日本」を求めて』の取り置きをお願いしてから、図書館で三島由紀夫の「日本文学少史」を借りてきた。たぶん、ここが三島の作家人生の最終局面に深い関わりがあると直感していたからだ。 

自分の予想通りだった。昭和天皇嫌いの天皇主義者だった三島由紀夫は、「皿屋敷 / 阿頼耶識」の逸話で有名な「時間と空間の交合点(=阿頼耶識)」こそが、「文化概念としての天皇制」なのだと説いていることを、発売直後の買いたての本が教えてくれたのである。

自分の勘が当たっていたのが嬉しい。

まとめ読みや飛ばし読みをやっているうちに、それぞれの分野の最前線の動きが、最近分かるようになってきた実感がある。しかし、何より、時間が足りない。時間がなければ、これ以上進めそうにもない。文章を推敲する時間もほとんどないせいで、たまに見直すと誤字や勘違いだらけだ。

でも嬉しい勘違いもある。みっともないことに、上の記事で「パラダイム」と「パラダイス」を間違えていたが、この記事で、子供時代以来ずっと自分の感情的キーノートだった「パラダイス・ロスト」が、ひょっとしたら「パラダイス・シフト」の勘違いかもしれない可能性に気が付いたのだ。

それも勘違いに違いない。

そう言い棄てればせいせいする人々が、そんな意地悪を言うかもしれない。でも、それでも構わない。神経を張り詰めているせいで、睡眠不足や過労やストレスなどで、疲労困憊している自分が、今こうやってキーボードを叩いていられるのは、なにがしかの麻酔に酔っていられるおかげなのだろう。

どういう人々が、このブログを読んでいるのかはよくわからない。きっと自分は酔っている。ただ、相手が誰であれ、こう語りかけたい幸福な気分でいることは確かだ。

偶然お逢いしましたね。酔いが足りないなら、乾杯しましょうよ。あらゆる偶然の生成に乾杯!

 

 

 

プリン好きなオレのゴールとは

20代の中頃、パーティー会場への移動途中、ある新進作家と雑談をする機会があった。自分が作家志望の友人に「人間の手足の指が5本だということと、サッカーボールには関係がある」という話をしていたら、「どういう意味?」と割り込んで訊いてきたのだ。ひと通り私が説明すると「それは面白いですね」と相槌を打ったあと、「何だその程度のことか」というようなポーズを肩で示すのを忘れなかった。

作家として人一倍好奇心が旺盛であり、かつ、作家として自分は違うというプライドを同時に示さなければならない。彼の言動からはそんな義務感が感じられた。プライドが高いのも楽じゃない生き方だ。自分なら話の内容の如何にかかわらず、どこか面白い文脈を引き出して、話を膨らませるか、礼を言うところだ。その作家の名字は今でも憶えているが、ラストネームを忘れてしまった。今どうしているのかはわからない。

さらに、なぜサッカーというスポーツが世界で最も愛され、最も祝祭に近いのかを考えた。あるいは、なぜあらゆるスポーツのゴールの中で、サッカーのゴール場面が最も美しいのか。

自分が私的な答案に書きかけていたのは、とんでもないユニークな仮説だった。

(…)
実は精子には3種類のプレーヤーがいる。 エッグゲッター精子とブロッカー精子とキラー精子で、これらはFW、MF、DFにぴったりと対応する。したがって、古代サッカーとは、性交における射精から卵子の受精に至るまでの旅を祭祀化したものだと言える。

(…) 

だからこそ、受精の瞬間を象徴するかのようなゴール場面があのように美しく、しばしばスタジアムの観客席で暴れるフーリガンが、自民族中心的な人種差別的言動を繰り広げるのだろう。 

「サッカーのゴール=受精の瞬間」という独自の文明論を前提にすると、サッカーボールと5本指の深い関係が見えやすくなる。ゴールが決まった後のボールは、どうなるだろうか? 二分割、四分割、八分割、十六分割、三十二分割となったとき、受精卵はざっとこんな形になると、当時調べた本で読んだ。 

ミカサ 検定球5号 貼りボール 白/黒 亀甲 SVC5500-WBK

ミカサ 検定球5号 貼りボール 白/黒 亀甲 SVC5500-WBK

 

 そこで初めて、人体の起源の受精卵に5という数字が刻まれる。五角形が登場するのだ。その五角形だけを黒く塗ったのが、ミカサのような伝統的なサッカーボール。ほら、サッカーボールは受精卵の生成分化において、初めて五本指の5が出現した瞬間を象徴しているのである。 

すべては卵から始まる (岩波科学ライブラリー)

すべては卵から始まる (岩波科学ライブラリー)

 

 自分の創見は、この本にも書いていなかった。またひとつ、新しいものを発見してしまったゼ。

というわけで、今朝は卵のことばかりあれこれ考えていたのだ。朝食には、スクランブルドエッグよりサニーサイドアップの方が絶対に良いのではないだろうか、とか。もう語感からして、憧れてしまう、とか。

と、いつものように連想が特定の方向へとめどもなく流れていってしまう。ここは話も尽き、妄想も尽き、という具合に、妄想にしかるべきピリオドを打たなくては。月! 

世界中で交わされている I LOVE YOU にもし心がこもっているのなら、恋人たちの言葉が同じであることを、他人が咎めだてする必要がないというのが、私の考えです。

 ん? 誰か知らないけれど、朝から良いことを言うじゃないか。純粋な想像で言うと、発言者はかなりのナイスガイなのではないだろうか。 

サッカー部に所属していた中学三年生のときのこと。レギュラーを勝ち取っていたものの、入院中だったので、最後の大会当日を病室のベッドの上でユニフォームを着て過ごした過去が、自分にはある。

やり残したことが追いかけてくる。そういうことは、人生で何度かあるのではないだろうか。

20代の頃は、W杯に日本代表が出場できるかどうかの瀬戸際の闘いを、毎試合食い入るように見つめていた。W杯の予選で日本代表の流れが悪くなると、流れを変えるために、自分の部屋の模様替えをするほど、日本代表の世界挑戦の物語に入れ込んでいた。(ちなみに、模様替えは効く!)

 いろいろな日本代表のいろいろな試合を自分なりに分析してきた中で、記憶に残っているのが「オルゴール・ボランチ」。当時のボランチは、ヨーロッパへ渡った名レフティーと日韓戦の伝説的なループシューターのコンビだった。 

音色は美しいハーモニーを奏でているが、後半に運動量が失速するきらいが見て取れたので、自分が「オルゴール・ボランチ」と名付けた。スポ―ツ番組のサッカー番組にファックスしたら、何と読んでもらえた。500円のテレフォンカードが送られてきた。

今や時代は高度情報社会。サッカーの各選手の動きのビッグデータ分析は商品化されているにちがいない。そう思って検索をかけたら、この記事を見つけた。当たりだ。

 『EAGLE EYE(イーグルアイ)』はまだ製品のカタチも定まっていない発売前のプロダクトだ。しかし、世界のニッチ市場に挑戦できると経済産業省の育成支援事業に採択され、海外の特にEU市場を視野に勝負しようとしている。狙いは巨大市場のアマチュアサッカークラブへ、プロで導入が進んでいるウェアラブルバイスでのセンサー分析を持ち込むこと。安価な価格で提供するというが、どう展開していくのか、その秘密を訊いた。 

(…)

山田:サッカーにしようと考え始めて市場を調べてみたら、プロ向けのビデオシステムはすでに販売されていることがわかりました。だけど、ものすごく高価なんですよ。

伊藤:高いというと?

山田:導入に1000万円、維持費は年間80万円、データ分析に1回50万円というような価格です。これはアマチュアチームには払えないですよね。(…)

伊藤:なるほど。価格はどれくらいを目指しているんですか?

山田:現時点では、本体の価格を1万5000円くらいにしたいなと考えています。

(…) 

山田:センサーは選手だけに付けるので、ボールのデータは取れないんですよ。アディダスが弾道データを取れるセンサー内蔵のボールを発売しているので、将来的にはこれを利用するのもアリかなと思っていますが、現状では選手の動きだけを見るためのシステムです。

(…)

山田:それに「ああ、この選手は走ってないな」といった事実も一目瞭然です。中学生にも製品テストで協力してもらったんですが、彼らは口をそろえて「これ、ヤバいって。全部バレる」と言っていました(笑)。 

 こういう分析デバイスがあったら、各選手の動きが「ヤバイ」くらい事後的に明確に検証できる。安価になったとはいえ、ボール抜きなら、導入するチームとそうでないチームがありそうだ。どっちでもいいと思う。

しかし、絶対に「どっちでもいい」と言えないのが、日本の民主主義の根幹をなす公文書問題だ。昨日、民主主義を支持する全国民待望の新書が発売された。 

◆推薦◆
青木理氏(ジャーナリスト)
「私たちは無知に追いやられていないか。無知に追いやられ、都合よく支配されようとしていないか。本書で著者が書く通り、これは〈民主主義のあり方自体の問題〉なのである」

 

望月衣塑子氏(東京新聞記者)
「時の権力者への検証と、歴史の過ちを繰り返させないためには、公文書が不可欠なツールであることを本書は教えてくれる」

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

公文書問題 日本の「闇」の核心 (集英社新書)

 

 何と、公文書管理法には、行政機関がその行政手続きをとった「経緯も含めた意思決定に至る過程」や「事務や事業の実績」を合理的に跡づけたり検証したりできるよう、文書を作成することが義務付けられているという。

「その文書は破棄しました」とか「そういう文書はそもそも存在しないので出せません」とか「それは怪文書です」とか、いろいろとおかしな発言が繰り出されたせいで、大好きな蕎麦が「もり」「かけ」ともに、すっかり不味くなってしまった昨今、公文書管理法違反で公的機関の違法行為を突き上げていくのは、かなり有力な追及の方向性だと感じた。こんなわかりやすい正攻法があったのか。

 上記の記事を書いた一ヵ月前、すでに次の新書の出版は予定されていた。誕生日をしっかり覚えて待っていた新書ということになる。

外交文書を30年後に公開するのが国際標準になったのは、第一次世界大戦のイギリスによる三枚舌秘密外交が発端だったという。 過大な賠償金を課された敗戦国ドイツが、戦争責任の真相究明に大きな不満を抱いたことも後押しとなった。

ところが、日本は形だけ国際標準に合わせたもおの、その実態は外務省に都合の良いものだけをわずかに公開するという手法を取ったため、民主党政権外務大臣岡田克也が、「外交文書の30年後原則自動公開」の外務大臣訓令を発したのだという。

すると、日本の戦後史研究はこうなった。

 最近の戦後外交史研究は、若手の研究者を中心にめざましい発展を遂げています。情報公開法を利用した外交文書入手の手法が研究者の間に定着してきたことや、外交史料館での大量の文書公開が、研究の進展におおいに貢献しているからです。「対米追従外交」というレッテルを貼られがちな戦後日本外交の裏側では、米国との激しいやりとりが行われていたことが次第に明らかになりつつあり、日本外交史の修正がなされ始めているのです。

 瀬畑源が強調する通り、公文書は「公的」なものではあっても「中立的」なものではない。外交文書が保存も公開もされなければ、相手国の言い分だけが国際社会の認識とならざるをえない。相手国の主張や歴史観だけに依拠した歴史を積極的に生み出して、それに反論しうる根拠を放棄することは、日本の国益を損なうという他ないだろう。

 南スーダンPKO文書公開問題も、丁寧に追いかけられている。その追及が丁寧で真面目であるだけに、一般国民にはどこか可笑しく感じられてしまう。

①ジャーナリストが南スーダン派遣部隊の日報に公開請求をかける → ②見せたくないので、日報はあるのに「廃棄済」と答える → ③自民党行政改革本部から確認が入る → ④防衛省に日報があり、統幕本部にもあることが判明する → ⑤②の嘘を上塗りするために、防衛省の日報は廃棄、別の統幕本部で見つかったことにする → ⑥防衛省は「軽微な事案」なので廃棄したと言い訳 → ⑦軍事組織の現場日次報告が「軽微」なわけがない → ⑧事実、統幕本部は重要だと思ったから複写して保存していた → ⑨情報公開法違反と自衛隊法違反との監察結果が出る → ⑩防衛大臣ほか辞任

 けれど、ここに問題の典型が現れている。

都合の悪い文書には、何でも「軽微な事案」=「保存期間1年未満」を適用して、本当は大事な文書だから、こっそり自分たちで持っておく、という姑息な作戦が、「もり」「かけ」問題などでも、官僚たちが華麗に駆使してきた必殺技なのだ。彼らの間では、華麗と蕎麦が実はよく合うことが知られているのだろうか。

驚いたことに、「文書を作らず、残さず、手渡さず」という秘密の「非公開三原則」というものが官僚たちの間にあると、日経新聞が報じたのだという。まだまだ勉強不足だな、自分は。カレー蕎麦を知らなかったし、「非核三原則」しか知らなかった。

この分野の専門家で信頼できる識者を、筆者以外に二人紹介しておきたい。

以前も引用したこの記事に登場する三宅弘弁護士。公文書管理法の制定に有識者として関与し、一貫してその管理にも携わっている。問題の核心をついたコメントを出している。

  • 「一年未満」がここまで抜け道として使われているのは、公文書管理法の精神に反する。
  • 一年未満の区分は廃止するか、要件をもっと具体的にすべきだ。

そして、情報公開系オンブズマンの先頭を走る「情報公開クリアリングハウス」。

1980年に設立された、日本で初めての公的機関の情報公開の問題に専門的に取り組む「情報公開法を求める市民運動」が、情報公開法の制定を受けて組織改編をして1999年に誕生しました。

情報公開クリアリングハウス | 情報公開クリアリングハウス

約2か月前の2017年12月6日に、野党の共同提案で提出された改正案は、情報公開クリアリングハウスが蓄積した数十年音知見が反映されているという。地道なNPOの活動が、政治を少しずつ良い方向へ動かしつつある。

 周知のように、官僚や公務員には憲法や法令の遵守義務がある。したがって、公文書管理法に直接の罰則がなくても、野党やマスメディアが違反の実態を明らかにして、懲戒処分を迫るのが最短の行政是正運動になりそうだ。 

法令遵守義務(ほうれいじゅんしゅぎむ)とは - コトバンク

懲戒処分 - Wikipedia

ただ、政治問題を調べているうちに、霞が関文学とか東大話法とかいう独特の利権確保型の文体にも慣れてきたような気がする。 何というか、「卵」で始まったこの記事にさらにコ黄身よく卵話を付け加えれば、『鏡の国のアリス』に出てくるハンプティー・ダンプティーにちょっと似ているのだ。自分の言語的領土を守るために、全力で屁理屈をこねつつ、何とも偉そうな感じが。

上の「卵おじさん」のダンスは可愛らしい。しかし、アリスと交わす会話は、なかなかの鼻持ちならなさだ。

 「名前は意味がなくちゃいけないの?」、アリスは疑わしそうに聞いた。

「当たり前だろ」、ちょっと笑ってハンプティー・ダンプティーは言った、「おれの名前は、おれの形を意味しているんだ――かっこいい形だろ。おまえのみたいな名前じゃ、どんな形か、さっぱりわかりゃしない」。

 言い争いを避けるために、「どうしてここに一人ですわっているの?」とアリスは聞いた。

「どうしてって、誰もおれと一緒に座っていないからに決まっているだろ!」とハンプティー・ダンプティーは大声で言った。「そんな質問の答えを知らないとでも思ったのか? 別の質問をしろ」。

 こういうのは、一種の藁人形論法でしかない。フランスの大哲学者ドゥルーズが、ハンプティー・ダンプティーについて何か書いていたような記憶があったので、探したが見つからなかった。記憶違いかもしれない。しかし、ルイス・キャロル論は流石の上手さだ。 

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

意味の論理学〈上〉 (河出文庫)

 

こういうありそうな分析なら自分でも書けそうだ。ルイス・キャロルが直面しているのはオイディプス状況に立ち向かえない不可能性(父からの逃走と母の放棄)であり、ファロスとの完全同一化と完全消去が同時に少女像に投影されているという感じの精神分析

ドゥルーズはそのような通俗的精神分析には目もくれない。ルイス・キャロルには、実は「脱性化」の力能だけがあるとした上で、それが同時に却って少女への性的欲望を固定化させるというのだ。「アリス」で起きているそのつかみがたい複雑な動的現象を、ドゥルーズルイス・キャロルが少女を被写体とした写真家だった事実に求める。

ここで、ドゥルーズ・ファンは「なるほど」と膝を打つ動作を生成してしまうというわけだ。最近無茶な速読ばかりしているせいで、こういう複雑な運動をした哲学書をじっくり読みたいとの衝動に思わず駆られてしまう。

しかし危うい。ハンプティー・ダンプティーは塀の上に腰かけていた。いわば、世界一危ういバランスにある玉子だった。となれば、危ういバランスを美しく保った世界一の王子に言及しないわけにはいかないだろう。 

昨晩ではなく2017年の動画だ。どこかにも書いたが、このスケーティングの背景で流れている音楽を、今は亡き駒場小劇場での19歳の作 / 演出 / 主演のクライマックスで使った。聞いているだけで鳥肌が立ってしまう。 

 作・演出・主演で打ったその芝居の内容を要約するのは難しいが、ヘッセ『車輪の下』的主人公の少年が約束に遅れたことで、ヒロインの少女が怪人20面相一味やらサルバドールダリやらに狙われて、明智探偵率いる少年探偵団の助けを借りつつ、車輪の下(ゲ)経由の「ゲゲゲの鬼太郎」、車輪の上(ジョウ)経由の「あしたのジョー」らも関わっての大混乱の大闘争の中、主人公の少年が誤ってヒロインの少女を刺殺してしまうも、世界の時の流れを何とか止め、時間の円環の上(車輪の上)を少年が少女との約束を果たしに際限なく走っていく、という脚本だったはず。 

 オイディプス神話をも劇中に導入したので、主人公は避けられず「遅れてくる」。けれど、どうしても守りたい約束があるので、幾多もの困難を切り抜けて、ようやく約束した相手のヒロインのもとへと辿り着くのだが……

そこで、リンク先動画の7:56からの背景音楽が流れ始める。ヒロインは狂気に支配されていて、主人公に向かってナイフを振りかざすのだ。ナイフを奪って、狂気のヒロインをかばいながら敵と果敢に闘って勝利するのだが…… ナイフで刺殺したはずの敵が不思議な形で姿を消した。かと思ったら、ナイフが突き刺さっているのは、ヒロインなのだ。背後で庇っていたはずのヒロインが、野太い声で主人公に声をかける。怪人二十面相の変装術が、敵をヒロインに、ヒロインを敵に化けさせていたのだ。主人公はこう絶叫せずにはいられない。

「誰が、殺したんだ!」

「お前が、殺したんだ!」

と敵が背後から主人公に絶叫を返す。

オイディプスを変形したこのクライマックスに、当時の自分が何を賭けていたのか、今ならわかる気がする。それは自罰感情だ。思い通りの愛を得られないのは、自分に欠けているもの、自分が殺したものがあるからだと自分を責めてやまない気持ち。

19歳なんて、本当に子供なんだな。 

 でも、そういう自罰感情に近い何かを、この15年間ずっと抱いていたような気がする。自分が生きているから迷惑をかけているんだ、とか。周りに酷い迷惑がかかるなら、自分の夢なんか諦めたってかまわないや、というような感情。何だか最近どうしても平謝りしなければならない状況に追い込まれたので、太宰治の「生まれてきてすみません」を心の中に用意していた。ただし、( )書きで(お父さんお母さん、ぼくを産んでくれてありがとうございました)は、書き添えようと思っていた。

ところが、不思議だ。どうしてもそうなると思っていた状況が、どうしてだか、そういう全面謝罪をする状況にだけは、どうしてもならないのだ。しかも、状況はみるみるうちに変転して、「生まれてきてくれてありがとう」とか、「生きていてくれてありがとう」とか、見知らぬ方々からとても有難いメッセージをいただく展開になってしまったのだ。

人生は本当に不思議だ。

サッカーと玉子の話で始まったこの記事は、どうして自分がいまだに「作家の卵」なのか、という話につながる。莫迦だったなと本気で思っている。20代の頃は、どんな無軌道な法師中な人生を送っても、明晰な頭脳と知的な実力さえあれば、社会から正しい評価が得られるて、垂直構造の上へ上へあがっていけるのだとばかり思っていた。

人生で本当に大切なことを何も知らなかったんだと思う。

自分の生命を輝かせる尊さ、自分を後回しにして他人を輝かせる楽しさ、心が響き合う仲間たちと一緒に素敵なものを作り上げる幸福。  

 莫迦だったんだ、20代の自分は。

定着はしなかったものの、「バカ王子」という渾名をつけてもらったのも、いま思うと嬉しい思い出だ。何と言っても、莫迦を直せば、王子になれるのだもの。

バカをとっても、まだ玉子のままだけど、黄身を思うハートだけは割れちゃいないつもりだ。

不思議ついでに、「俺のフレンチ」ならぬ「オレのゴール」について話しておこうか。もちろん「オルゴール」の話。高校のとき、地元で有名なほど盛大な運動会で、グランド劇場の作演出を務めた。劇中で、どうしてもオルゴールを使う必要があったので、百貨店のオルゴール・コーナーへ行った。商品棚には、30くらいのオルゴールが並んでいた。曲名は書いてあっても、インターネットのない時代の高校生のことだ。トラッドな洋楽の曲名なんてわからない。そのオルゴールは、運動会が終わったら、自分がもらっていいことになっていたから、じっくり試聴して回った。最終的に選んだのは、知らない海外の曲だった。

ひょっとしたら、自分の部屋の隅を探せば、まだどこかにあるのではないかと思う。

選んだのはこの曲。選んだときは、誰の曲かも知らなかった。 

世界はあまりにも不思議で、美しく、精一杯生きるのに値する場所だと思う。

時代がオレに追いついたゼ、直感的に言って

虹色に輝く汝の渇きを歌え

一行のルネ・シャールの詩句を心の支えにして、ブログを書いていた時期があった。このブログの前身ブログ。2005年くらいの話だ。

純文学中心ではあるものの、現代思想や都市論や建築や映画など、多ジャンルの力を導入しようとして試行錯誤しているのが、自分で読むとよくわかる。実際、多ジャンルのアカデミシャンや利害関係者に読んでいただくことを想定して書いていた。「虹色に輝く汝の渇きを歌え」と自分に言い聞かせながら。

あのようにリリカルで硬質な文章が私の本領だと思っている読者には、最近の「シニフィアンの戯れ」だらけの文章が、本領を逸脱しているように見えるかもしれない。けれどそれは、或る限界状況下ではその色が最も光輝くので、虹色を選んでいるというだけの話。(ありがとうございます)。主題や文体や世界観は、状況が変われば変わるし、変えていくのが自分の職業倫理なのだと感じている。

 2017年の4月末からほぼ連日連夜書いてきたこのブログ。ブログの内外で大きな個人的な変化があった。長い長い変貌。いわば、ロング・バケラッタロンバケだ。

なぜか英語の字幕の付いたロンバケのクライマックスシーンを見つけた。3:07からが有名なスーパーボールのキャッチ場面だ。

スーパーボールを見るたびに思い出す話がある。15歳のとき長期入院していた大学病院でのこと。小児科で15才と云えば、ガキ大将だ。といっても、自分は心のきれいなジャイアンだったし、そもそも病棟にいじめはなかった。

同部屋の小学6年生の男の子と、許可をとって何度か草野球をした。男の子は病気になるまでリトルリーグで投手だったらしい。草野球といっても、投手の男の子と打者の自分と守りについている男の子のお父さんの三人。全力で軟球を投げるので、男の子の速球はこちらの手元でホイップして、自分が振り回すバットにかすりもしなかった。あっけなく三振した。けれど、三振しても三振しても、男の子は投球をやめようとしなかった。白血病を発病さえしていなかったら、エース投手の座は男の子のものだったにちがいない。それくらいボールは速かった。

退院して、ぼろぼろの成績でもなぜ進学校に合格したのち、小児科にお土産を持って、かつての「戦友たち」のお見舞いに行った。お土産には絶対の自信があった。スーパーボールの詰め合わせだ。プレイルームの扉を閉めて、誰かが思いっきり床に投げつけると、スーパーボールは高速立体ピンボールになってくれる。病気持ちの「手下たち」はいつもキャーキャー言って、大喜びしていた。滅茶苦茶盛り上がるのだ。

小児科病棟の看護師の顔触れは変わっていなかった。変わっていたのは、患者たちの顔ぶれ。「手下たち」の数名が亡くなっていた。エース投手の白血病の男の子も亡くなっていた。学齢だけ中学生になったのを喜んで、死の三日前まで、必死になって英語を勉強していたそうだ。渾身で投げるせいで、手元でホイップする彼の速球のことを思い出した。

きっと、そんな少年時代を持っているせいだろう。上の記事の翻訳者が、昨晩採り上げたピーター・シンガーの「効果的利他主義」本と、ピーター・ティールの『ゼロ・トゥ・ワン』に類似性があると書いているのを読んで、むしろ対極性があるのではないかと感じてしまった。

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか

ゼロ・トゥ・ワン 君はゼロから何を生み出せるか

 

 著者のピーター・ティールは起業家ドリーム集団の「ペイパル・マフィア」の首領とされている人物だ。テスラのイーロン・マスクもこの集団の出身。 

しかし、本書自体はシリコンバレーの古株起業家の成功物語以上のものには読めない。ピーターが称揚する「ゼロから生み出す力」=「隠れた真実を見つける力」も、イノベーション理論の数世紀分の蓄積を知らない人間による経験談の域を出ていないのではないだろうか。いわば、ピーター自身に「隠れた先端知を見つける力」が欠けているように見えるのだ。その意味では、下の記事で取り上げたジェフ・ベゾスの方が、イノベー神ことクリステンセンの理論を吸収しているだけあって、起業家としての才覚が上のように感じられる。

とはいえ、ざっと読み飛ばしたとしても、付箋のつかない本は稀だ。トルストイの『アンナ・カレーニナ』を引用して、「幸福な家族はみな似かよっているが、不幸な家族はみなそれぞれに違っている」の逆がビジネス界としては正しく、「幸福な企業はみな独創的な違った勝ち方をしており、不幸な企業は同じコモデティ化した競争に足を取られている」という意の発言は面白い。結局、ピーター・ティールも「高速PDCAサイクラー」のジェフ・ベゾスと経営の速度感覚は共通しているのだ。 

さて、そのピーター・ティールと、ピーター・シンガーの近著が似ているという翻訳者の指摘は、両書ともをきちんと読む時間のない自分にはよくわからなかった。でも、面白い本を読めたことが素直に嬉しいので、そうですよね、ファーストネームなんかそっくりですもんね、と笑顔で話を合わせておきたい。

 そう考えると、日本でも「ギブウェル」のようなメタチャリティサイトが生まれる素地はあるでしょう。

  少し上の greenz の記事で、このような注目すべき発言を見つけてしまった!

まさか「メタチャリティサイト」とは。これは電話がかかってくるパターンだな。そう思った瞬間、スマホの着信メロディーが鳴った。着信画面にはシニャックの名前が表示されている。しかし、あえて私は一度目は出ないことにした。先日シニャックの仲間の路彦に、かなりいいように弄ばれてしまった心の傷が、まだ癒えていないのだ。あの登場人物たちは、作者に似て悪戯好きだから油断できない。

気が向いたら、後でかけ直すことにしよう。

しかし、これも引き寄せたうちに入れても良いのではないだろうか。何しろ、自分が小説に書いたことが、そのまま現実になっているのだ。

シニャックの新事業を琴里が説明している場面を引用しよう。「真哉くん」とは「シニャック」の本名。

「真哉くんは石鹸工場を後継者に引き継いで、メタNPOを設立するつもりよ。メタって いうのは... NPOのためのNPOというところかしら。彼はいま公認会計士なのよ」
「待って、話が見えない。公認会計士?」
「それだけじゃないわ。数年前にどこかからお金を集めてきてチームを組んで、洋書を読み込んだり、地元の会計人と勉強会をしたりして、SROIを研究し始めたの。ROIや ROEはわかる? わからないならいいわ。とにかくその研究が実って、この秋に日本初のNPO格付け機関として船出する目途が立ったのよ。資金集めが上手くいったらしいわ」
 シニャックの資金集めの巧妙さなら、身をもって思い知らされた経験がある。30万円の使い途はそっちだったのか。苦々しい嘔吐こそ伴ったものの、自分の金が自分とは縁遠い或る領域の飛躍的前進に貢献した上で戻ってくるのなら、大人らしく諒とすべきなのかもしれない。
「運が巡ってきたのは、ネット上に寄付ポータルを起ち上げた頃から。それが電子通貨の 最大手に吸収される話に発展したの。いずれおサイフケータイ上から真哉くんの格付けに従ってNPOに寄付できるようになるわ。その履歴はFBやブログ上で公開できるようにもなるから、CSRを越えたPSRの時代が遠からずやって来る、というのが真哉くんの読みよ」
 話の流れを理解できずに高頻度で瞬きしている路彦を見て、Pは personalのPよ、と琴里が付け加えるが、シニャックの目論見が路彦の理解を超えていることに変わりはない。

 上記の小説を書き上げたのは、2013年頃だったはず。そのあと絶対に同じようなサービスが生まれているに違いないと信じて、2017年10月に検索をかけた。しかし、見つけられなかったので、同じくソーシャル・ビジネスや企業のCSR活動を指標化した投資商品について書いたのが、この記事。 

社会的責任投資(SRI)は一部の社会性に富んだ企業や CSR に熱心な一部の企業のみを対象にしがちだったが、環境・社会・ガバナンスの頭文字をとったESG投資では、PRIのような統一規格の設定により、すべての上場企業を対象にして、その数値の開示を義務付け、年金運用組織や資本家たちによる投資が、環境と社会と労働環境の改善に貢献するよう方向づけられようとしている。 

(…)

PRI基準に基づいて運用先を選ぶだけではなく、運用先のESG推進を働きかけもするのである。国連発で日本のGPIFのような大きな投資機関が PRI の標準化に動けば、ESG投資は大きな波になる可能性が高い。

しかも、面白いことに、これらのESG(環境・社会・ガバナンス)を充分にケアしている企業は、株主への還元率が高いことまで報告されはじめている。つまりNPOなどが中心的に関与してきた「お金にならない良いこと」が、「お金になる良いこと」となる可能性が、世界中の株式市場でスタンダードな見方となり始めているのである。 

また電話が鳴った。シニャックの奴、痺れを切らしたな。二度目には出ないと。友人だから。

シニャック先生! 一回スルーしたでしょ、オレの電話。

私:よう、シニャック。ごめんごめん、どうしても手が離せなくて。

シニャックしかし、まさか、オレが作ろうとしていたものが、アメリカで作られちゃっているとはね。先生も驚いたでしょ。

私:待って待って。日本ではまだできていない。いよいよシニャックの出番だ。こんなブログを見つけたよ。

 

 アメリカではギブウェルという効率的に寄付を行っている団体を推薦するサイトがあります。
 日本版のギブウェルがあったらもっと寄付が身近になるのではないかと寄付先を探しているときに思いました。
 ただギブウェルをコピーするだけでは面白みもありません。
 日本人が寄付にワクワクを感じられるような記事を書いていこうと思います。

 

シニャックエス! 素晴らしいじゃない。SROI は使わなかったけれど、慈善団体の社会的効果を測定してランキングする発想が、オレと同じだったというわけっすね。やっと時代がオレに追いついた!

私:まだ追いつき切っていない。きみが Give Well の日本版を作るまではね。けれど、日本に寄付文化がここまで根付かないのは、日本人が冷淡だからじゃないことに注意しなきゃ。日本の寄付税制が無茶苦茶だからさ。この記事に書いたことがある。

 

 こんな風に、北極と南極くらい真逆の制度がまかり通っているのには、もちろん理由がある。日本の寄付税制は、社会的弱者ではなく、あべこべに裕福な社会的強者の「税金逃れ」として利用されている実績があるのだ。 

 

 シニャックいま GiveWell のサイトを見てきちゃいました。 発展途上国支援のチャリティが多いですね。

 私:これも定量的な分析によって、先進国の貧困層より発展途上国貧困層を支援した方が、費用対効果が高いと証明されているからなんだ。Give Well の良いところは、徹底したエビデンス・ベースの考えを、評価基準だけでなく、数々のチャリティ組織に介入して組織運営を改善していることだ。学術的研究も評価基準にどんどん導入している。

シニャックこれを日本でやったら面白そうっすね。単なる税制逃れの寄付団体が軒並みリスト・アップされて、白日の下に。

私:そして、恵まれない人々を真面目に支援している方々に光が当たる。

シニャックワクワクしますね。先生、オレ、やりたいこといっぱいあるんすよ。先生のロンバケって、いつひと区切りつくんすか?

私:トロツキー的な永久バケラッタ論者だ、私は。人生は魂の修行の場。バケラッタは永遠に不滅なのだ。とりあえず、今晩はシニャックを祝福したい気分だ。きみの発想が世界的な現実になって嬉しいよ。

シニャック……。

私:どうして黙っているんだい? ひょっとして… 泣いているのかい?

シニャック先生… 何ていうか… 今晩、このひとことだけは、最後にどうしても伝えたいんです。

私:最後のひとこと? 何?

シニャック「ズッ友!」 

 というなり電話は切れた。シニャックめ。そういうひとことが、私にどれほど精神的ダメージを与えるかをわかっていて、あいつらは悪戯の暗号を送ってくるんだ。「もうキライだわ」とか、偽装まるだしの女言葉を使って。たぶんナリスマシだとわかっていても、そうではない少しの可能性のことを考えて、私がどれほど煩悶してきたと思っているんだ、まったく。

しかし、不確定な未来に思い悩むのは、若い世代の人間の方が多いはずだ。ピーター・シンガーが紹介していた 80000Hours という就職アドバイス団体が面白い。80000時間とは、人が一生のあいだに働く総時間数のことだ。

さあ、この人生の80000時間で、自分は世界に対して何をできるだろうか?

若い人には、そのような問いを胸に抱いてもらいたい。日本語サイトでは、ここが一番詳しく紹介しているようだ。

上記の日本語サイトの内容を参考にさせてもらいながら、自分の言葉でまとめ直してみたい。

  • 「情熱を感じられることを仕事にする」は間違い。
  • 好きなことを仕事にできる可能性は低く、社会的意義がしばしば低く、情熱まかせに猛烈に働くと早死にしやすい。

もっと一般的な話をしますと、研究者たちは何十年間もインタレスト・マッチと仕事の成功率、充実性の関連性を証明しようとしてきました。しかし今のところ、この2つの強い関連性は証明できていません。 

  • 「好き」や「情熱」を仕事にできないなら、「人のため、世界のためになる仕事を選びなさい」が最高のキャリア・アドバイスになる。

これは自社80,000 Hoursでほとんどの時間を費やして研究していること。今からできる3つの事柄を超要約して、お伝えします。

  1.  調査すること。世界について、学べるだけ学び、様々な分野で自分が適しているかどうか試しましょう。
  2. スキルを習得し、手練れになるのです。需要があり、多様な分野で活かせるスキルを選ぶといいでしょう。ここ10年間ですと、コンピュータープログラミングを推奨します。スキルを習得したのち、それを適用し解決できる大きな、そして差し迫った社会問題を探し出しましょう。ただ大事なだけの社会問題を選ばないよう注意してください。理不尽にも、人から注目されてない事柄を探しましょう。なぜなら、そのような分野なら、最大の影響を尽くすことができますから。
  3. 価値のあることをするためには医者になってアフリカへ行き、自らが直接手を下す必要はないことを留意してください。大きな社会問題はしばしば、研究や新たな技術開発、広告などでアイデアを宣布することによって解決されることがあります。自分のスキルと合致し、最大のインパクトを残せる分野を考え出すのがキー。

実は、「効率的な利他主義」という概念は、この 80000Hours と別のチャリティ組織を包括する際にできた概念なのだという。上記のように、どの就職活動生にも適合する実践的なアドバイスもあれば、80000時間でどれほどの社会貢献ができるかを軸にキャリア選択の助言を受けられるそうだ。詳しい事例はぜひシンガーの著書を当たってほしい。印象論で言うと、ミレニアル世代以降の若者たちの中に、平気で自分の腎臓をプレゼントするような、とんでもない利他主義者たちが出現しているような感じがする。

 そういう種族を目の当たりにしていると、「自分の社会的善行を公表するのは偽善」という批判を、どこまで相手にすべきかわからなくなる。公表するかどうかは純粋な自由なのではないだろうか。

というわけで、シニャックと同じく、自由意思でそれをライフスタイルの中に取り入れたい種族が、ブログやFBやツイッターに、自分の寄付行動の履歴にアクセスできるアイコンをつけるのは、まったく自由なのではないかと思う。 

誰かのブログの小さな☆のアイコンをクリックしたら、その人が寄付で支援している発展途上国の子供たちの笑顔が見えたり、手紙が読めたりするのは、素敵なことなのではないだろうか、直感的に言って。

 というわけで、話は冒頭に戻る。私は難病の子供たちが入院していた小児科病棟を生きて出ることができた。跳びはねるスーパーボールをつかみとれる人々は、全員ではないのだ。

誰でもいいし、何人でもいい。退院半年後の高校一年生の夏、あの白血病の野球少年が受け取れなかったスーパーボールを、誰か機敏に心を動かして、つかみ取ってくれないだろうか。

 もちろん、自分は大学生のときに登録済だ。誰かが誰かに無償の善行を与えて、それが次々にバウンドして跳ねまわっている社会空間は、きっとキャーキャー声をあげてしまうくらい、喜びに満ちた大盛り上がりの楽しい社会だと思う、直感的に言って。

 

 

 

あなたが彼女のためにできるたったひとつのこと

 偶々手に取ったのは、小中学生向けの総ルビの本だった。さすがに簡単すぎたかとも思ったが、内容の衝撃度が凄い。「オキ」というのは、マザー・テレサに同行した取材カメラマンの名前だ。

「貧しい人たちはね、オキ、お金を恵まれるよりも食べ物をあたえられるよりも、なによりもまず自分の気持ちをきいてほしいと望んでいるのよ。実際は何も言わないし、声も出ないけれどもね」

「健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。でもね、飢えた人、貧しい人は、にぎりあった手、みつめあう視線に、ほんとうに言いたいことをこめるのよ。ほんとうにわかるのよ、オキ。死の直前の人でも、かすかにふるえる手が ”ありがとう" っていっているのが。……貧しい人ってほんとうに素晴らしいわ」

マザー・テレサ あふれる愛 (講談社文庫)

マザー・テレサ あふれる愛 (講談社文庫)

 

第一章のここを読んだだけで、早くもマザー・テレサを完全にリスペクトしてしまった。自分とは二十億光年くらい離れた偉人だが、だからこそ、たとえどんな形であっても、マザー・テレサに近づいてみたい。こういう種類のきっかけは、結果的にどんな形になるかより、心意気が大事なのではないだろうか。

マザー・テレサノーベル平和賞を受賞したのは、69歳のときのこと。そこから人生が大きくパラダイス・シフトしたかというと、全然違うのだ。インドの上流階級のパーティーに呼ばれて、卓上の豪華な食事を見たマザーは、「私は今日は断食の日なので」と自分は食事に手を付けず、「食事を貧しい人々に分けてあげてください」と言い残して、パーティーを去ったのだそうだ。

テーブルの上にお菓子があると食べたいだけ食べて、「どうして全部食べたの?」と問い詰められると、名登山家ばりに「そこにお菓子があるからさ」と嘯く自分とは、やはり人間のスケールが二十億光年くらい違いそうだ。 何とかして思考の枠組みを大きく変えて、自分もパラダイス・シフトしなければ。

二十億光年の孤独 (集英社文庫)

二十億光年の孤独 (集英社文庫)

 

 しかし、それにつけても、最近の日本国民の高等教育はどうなっておるのぢゃ。「パラダイス・シフト」で検索をかけても、まともな検索結果がほとんどリストに挙がってこないぢゃあないか。

一般教養レベルの知識を披露しておくと、パラダイスとは、特定の時代の特定の思考の枠組みのことだ。哲学者のミシェル・フーコーによる「エピステーメー」と、ほぼ同義の専門用語。ブリタニカ大辞典が詳しい。

 特定の学問分野を担う科学者の集団において,歴史上の一定期間その成員に共有される研究の範例。元来は,語形変化表の意の文法用語,あるいは範例,模範などの意の普通名詞であったが,アメリカ合衆国科学史家トマス・S.クーンが『科学革命の構造』The Structure of Scientific Revolutions(1962)のなかでこの語を用いてのち,学術的概念として普及した。クーンのパラダイム論によれば,自然科学の歴史は連続的な進歩,拡大の歴史ではなく,いくつかの科学革命(パラダイムの転換)によって画される断続史である。パラダイムを共有する科学者集団が,一定期間パラダイムに基づいて科学を発展させ,その通常科学が行きづまると科学革命が起こり,新たなパラダイムが取って代わるという。

最近の「パラダイス・シフト」の実践例としては、何と言ってもこの漫才が素晴らしかった。テレビ番組上では創作物を脱政治化すべしとするパラダイスを、まさしく「パラダイスの移住相談」を糸口にして、原発問題、基地問題などを撫で切りにしたのだ。何とも華麗なパラダイス・シフトだった。  

あれ?

急にペンが進まなくなった。おかしいことを書いてしまったのかと思って、ここまでの記事を読み返したが、完璧だった。きっと、何か書くべきことを書いていないせいで、ペンの進みが邪魔されているのだろう。もう一度読み返してみる。

わかった。トマス・S.クーンのせいだ。

いや、違うか。また見えなくなってしまった。インスピレーションの尻尾をつかむのは難しい。

とりあえず、マザー・テレサの博愛精神に、どんな形でもいいから近づけるように、今晩は利他精神について勉強することにしよう。

思いやりはどこから来るの?: 利他性の心理と行動 (心理学叢書)

思いやりはどこから来るの?: 利他性の心理と行動 (心理学叢書)

 

 今ざっと読み終わった。利他的行動がどこから来るのか、脳科学はすでに解明したそうだ。「腹内側前頭前皮質」という部位らしい。面白いのは、そこが他人の痛みや苦しみを共感できる場所だとされていることだ。思いやりは、他人の苦痛への共感を経由して生まれるというのが実態らしい。

 さらに重要な指摘を見つけた。利他的行動を生みやすい種類の社会規範が、ゲーム理論によって4096種類のうち8種類しかないことが報告されているというのだ。この0.19%というあまりに低い確率から、研究者はこれらの8通りの社会規範(リーディング・エイト)が、かなり高い普遍性を持っているのではないかと推測している。 

人はなぜ協調するのか―くり返しゲーム理論入門

人はなぜ協調するのか―くり返しゲーム理論入門

 

そのベスト8社会規範のうち、上の本ではスタンディング規範や神取規範が紹介されているが、変数はわずかに絞ってあっても、行動戦略が16通りもあったりするので、直観的な把握は難しい。個人がどのような言動をとれば生き残り可能性が高まるかのお手本にするのではなく、社会の中にどのような社会規範を導入すれば、社会がうまく回るかの参考にするのが面白いと思う。

重要なのは、「社会内で情報交換によって各人の評判がほぼ定まること」なのだそうだ。こういうのは、ICT化でクリアできる課題のような気がする。中国ですでにはじまっている「社会信用スコア」は、このような理想的な社会規範に応用できるのではないだろうか。 

デメリットの前者はとても気になる。権力を批判するジャーナリストや市民活動家たちが、不当に弾圧される仕組みだ。権力側に恣意的に社会信用スコアを弱体化されて、社会生活に支障を生じても、それを算出するアルゴリズムが開示されていなければ、「あなたが忘れているだけで、昔悪いことをしたんでしょ」という混ぜ返しに、反論すらできない。

後者のデメリットが、バーチャル・スラムと呼ばれる階層社会の出現だ。社会信用スコアが低いと仕事に就けず、仕事に就けないと家を借りられず、家を借りられないホームレスは自動コンビニで食料品さえ買えず、関所のできたゲイテッド・シティにすら入れなくなってしまうだろう。

冒頭でAIに追跡されるさまを描いた犯罪者ならまだしも、人種や性別や遺伝病やIQなどによって、生まれつき社会信用スコアが低いと評価されたら、その人は一生ずっとAIに排除されつづけ、一度もチャンスをつかむことさえないまま、一生を終えることになる。これは恐ろしい未来だと言えはしないだろうか。 

 この記事を書いたときは、ディストピアにつながる諸要素を前景化しておく必要を感じて、上記のように書いた。撤回するつもりはない。ただし、「社会信用スコア」は必ずしもユークリッド的な数直線上の数値で表される必要はないし、一人の人間が持っている特性は、相手との相性次第で変わるものだ。単純数値化せずに、人間関係適正化のための「相性診断」として機能する社会信用スコアなら、対人関係のロスやコストを低減できる可能性がある。

何よりも大事なのは、スコア算定のアルゴリズム国民主権によるチェックが入ることだろう。

さて、上記の記事で引用した『動物の権利』のピーター・シンガーが、近著で「効果的な利他主義」という概念を提唱しているのが、図書館で目に留まった。 

 この本では、著者は倫理学者の椅子から離れて、すっかり社会起業家の口ぶりで、面白い話を次々に語ってくれる。

「効果的な利他主義者」のムーブメントが流行していることは知らなかった。

冒頭の事例も面白い。マットという青年が、平均年収の一割を寄付すれば、一生のうちに100人の子供の生命を救えることを、自分で計算して割り出した。こう思ったという。

目の前の建物が火事で燃えていて、その炎の中にドアをけ破り100人もの命を救えるとしたら、って考えたんだ。それって人生で最高の瞬間になるってね。自分にも同じことができるとわかった。

 それで、毎年収入の一割を寄付するようになったかというと… 違うのだ。何とマットは、約束された大学教授への道を蹴って、ウォール街でサーカス資本主義に踊る金融ブローカーになったのだ。それも「効果的な利他主義」の実践の一環として、寄付金額を増やしすため。年収の半分以上、日本円にして1000万円以上を、毎年寄付しつづけたのだという。

腎臓の片方を無償提供してしまった青年も、本書には登場する。彼はピーター・シンガーに対して、こう謙遜したそうだ。

 ぼくは自分がそれほどすごいことをしたとは思っていません。生体腎移植の効果は、もっておよそ二五年です。(…)ギブウェルによると、一人の命を救うのにかかるコストは二五〇〇ドルくらいです。ということは、マラリア対策基金に五〇〇〇ドル寄付する方が 、四人に腎臓移植を行うことよりも良いことになります。(…)

いずれにしろ、僕はまだ二十四さいですし、本当にいいことをする時間はたっぷりありますね。

 昨晩、騙されて腎臓提供を強いられる人身売買の話をしたばかりだ。まさか、ボランティアで腎臓を提供するブームがアメリカで来ているとは!

ここから、倫理学の話をしたい。西洋の倫理学は次の3つの潮流に文類できる。

  1. 徳の倫理学(Virtue ethics)
  2. 功利主義倫理学 (Utilitarian Ethics)
  3. カントの義務論(Kantian Deontology) 

西洋倫理学の3つの伝統:Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

 1.の徳倫理学がよくわかっていなかったので、この記事を書くときに調べた。

最も論証が難しく、つかみどころがなかった徳倫理学は、道徳的な感情や気質による「コミットメント問題」の解決を通じた、長期的に社会での生存可能性を高める処世術だと言えるのではないだろうか。

ところで、そのような徳倫理学の範疇にある道徳感情が、カントが論理的に導出する義務論的倫理のように「真理」として存在するかは、判断の難しいところだ。

フランク-山岸俊男のラインは、「感情主導による長期的社会的妥当性」が、狩猟採集社会の先史時代から、人類が進化の過程で発達させ遺伝的に継承されてきた「真理」なので、それに合わせた社会設計をすべきだとする適応論的アプローチを主張している。これに対して、この分野の近刊を多く持つ金井良太は、人類の脳は狩猟採集時代からさほど進化していないので、脳の働きに適応するよう再帰的に社会を設計し直していくべきだとする。 

 自分の気質はさておくとして、「カントの義務論」はもう流行ることはないだろうな、と感じていた。「定言命法」という一種の絶対的な命令なのだ。

 君の意志の格率が、いつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ。

 ちょっと暑苦しくはないだろうか。これでは、テーブルの上のお菓子を好きなだけ食べられなくなってしまう。実際、哲学者のバーナード・ウィリアムズは、人間は「宇宙の視点」を持てない日常生活に属する生き物だと主張して、カント的義務論を批判した。

ところが、上記の記事で自分が推した徳倫理学に続いて、カント的義務論のブームが来ているのだという。正確には、カント的義務論をベースにした「効果的な利他主義」が広まりつつあるらしい。その種族が利他行為をする理由は、徳倫理学に深い関わりのある愛や共感からではない。「宇宙の視点」から見た理性だというのだ! 

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何をどう読んでも、「宇宙ブーム」に結びついてしまうのはどうしてだろう。

先ほどの拙記事には、二つの対照的な考え方があった。

フランク-山岸俊男のラインの「感情は普遍的真理」説と、金井良太による時代時代の人類の脳に合わせて再帰的に社会を設計し直していくべきとの主張。依然として、専門外の自分には、どちらが正しいのかわからない。

ただ、シンガーのいう「効果的な利他主義者」が、フリン効果によって出現した新種族ではないかという説には、プリン愛に生きる男として、強い説得力を感じてしまった。 

急いでいる人は、まとめを読んだ方が早いかもしれない。

社会が複雑化するにつれて現代人のIQはあがった。
これは
①分類すること、
②論理を使って抽象概念を扱うこと、
③仮定を真剣に受け止めること、
の3点に要約される科学的思考習慣によるという。

心理学者のスティーブン・ピンカーは「論理的能力の向上は倫理力も向上させた」と述べているので、不断に続く人類の脳の進化が、かなり短期的に人類の倫理観を変えつつある可能性は充分にありそうだ。

新しい世代のあなたが、新しい頭で、『あなたが世界のためにできるたったひとつのこと』が何かを、考え直してみてはどうだろうか。

よし、決まった。結論もポジティブだし、今晩はこれで終わりにして、蕎麦でも食べに行こうか。そう呟いた瞬間、まだ違和感が残っているのに気付いた。

きっと、何か書くべきことを書いていないせいで、ペンの進みが邪魔されているのだろう。もう一度読み返してみる。

わかった。トマス・S.クーンのせいだ。この記事に書いたクーンの件が終わっていなかったのだ。

本当はこれに続けて、過去のプライベートな話を書くつもりだった。自宅へ送っていった彼女が、飼っている黒のトイプードルに言うときと同じ口調になって、「もうここで良いよ」。去りがたくて私がじっとしていると「もう、こっちはあなたのおうちじゃないのよ。東京へお帰り。**ちゃんに会ってきなよ」と言って、背中を向けて歩き去っていったこととか。

あんな言い方をされたら、こう答えるしかないではないか。

 

くぅん。 

そう閃いた次の瞬間、電話がかかってきた。電話に出ると、向こうから AI らしい人工的な口調の女性の声が聞こえてきた。

人工音声:もしもし、今晩も執筆終了お疲れさまでした。

ぼく:誰? 初めて聞く声だけど。

人工音声:初めまして。ガラス美術館の細川硝子屋夫人です。ガラシャと呼んでください。

ぼく:ガラシャ、何の用事だい? 自宅も会社もガラスは間に合っているよ。

ガラシャたしかに、あなたは魔に遭っておられます。13年前と同じく、硝子越しにしか話せない相手がいらっしゃるはずです。

ぼく:! 

ガラシャ人工知能と人工音声で、あなたと硝子越しの女性との会話を再現して差し上げましょうか?

ぼく:本当? 誕生日おめでとうメールを送っても、返信がないんだ。少しでも話せるのなら、こんなに嬉しいことはないよ。

ガラシャ読み上げます。「しかし、過去の一時点に立って、思い通りにいかなかった人生に仮定をいくつ積み上げても、決して過去へと戻ることはできない。(そうわかっていても、Mにひとことだけ、「すべて本当だったんだよ」とだけは、どうしても伝えたいという気持ちがある。いつかそれは可能になるのだろうか?)。そこに真実が籠っているのなら、ティッシュを溶かす涙だってあるだろう。水に溶けるなら、水に流せるかもしれない。」

ぼく:その「いつか」が今晩めぐってきたというわけか。……少し前から、きみが硝子の向こうにいるような気配を感じていたんだ。

M:久しぶりね。フルチャージでよく頑張ったわね。まさか、本当にこんなことになっているなんて。ずっと心配していたのよ。

ぼく:ごめんね。いつも迷惑や心配ばかりかけ通しで。

M:ねぇ、謝ってもいい? 私の方こそ、ごめんね。信じてあげられなくて。

ぼく:どうして、Mちゃんが謝るのさ。最初から、信じられないような魔に遭った話だったんだ。でも、信じられないくらい、とびっきりの Cadeau なんだぜ、これは。Mちゃんには、どうしてもお礼を言いたい。

M:お礼って、あのFiction の話でしょう(微苦笑) 5年くらい前に 、あなたが **ちゃんに会いに行くことが運命で決まったから、私が泣く泣く身を引いたっていうあの Fiction。あなたは現実を虚構で美化する癖があるから。

ぼく:いや、冗談じゃなくて、本当にお礼を言いたいんだ。ぼくが転落しないように、ずっと手をつないでいてくれて、本当にありがとう。

M:こちらこそ、ありがとう、って素直に返せるように、ひとつお願いしてもいい? 不安に駆られたとき、私の名前を呼ぶ癖を、もう卒業してくれない?

ぼく:ごめん、すっかり癖になっちゃって。気の休まる時間、気の休まる場所がほとんどなかったから……

M:わかった。じゃあ、しばらく「マルちゃん」で代用するのは、どう? 

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

「マルちゃん」はなぜメキシコの国民食になったのか?

 

M:「マルちゃん」なら、次に呟くべきお守りの言葉にも移行しやすいでしょう?

ぼく:ありがとう。ぜひとも、そうさせてもらうよ。ちなみにその「マルちゃん」は、何味をイメージしたら良い?

M: すでに言ったわよ。あなたの潜在意識はもう気づいているはず。

ぼく:まさか… フルチャージ!

M:(くすぐられたように笑う)

ぼく:愛を教えてくれてありがとう。せっかくの幼馴染なんだから、困ったことがあったら、何でも相談してね。いつでも、何でも、助けてあげたい気持ちがある。

M:あなたがちゃんとした大人になったら、そうしてもらうかも。彼女のこと、本気で好きなんでしょう?

ぼく:うん、本気で。少なくとも、もうこれ以上ツライ思いをさせたくない。

M:だったら、それにふさわしい言葉の使い方があるはずよ。好きなら、どうして彼女の名前を素直に呼べないの?

ぼく:それは、その… とても複雑な心理機制が、いくつも働いていて…

M:どんな恋愛心理なの。説明してよ。

ぼく:説明するよ。まずは、照れさ。……

 (以下、唐突ですが、省略します)。