「広場の孤独」の対義語を一緒に探そう!
277日前、あなたは何を考えて生きていただろうか?
昔の自分の記事を読み返しているうちに、今朝起こった偶然について話したくなった。
1か月くらい前、会社で「最後に一度顔を見たいな」と洩らしていたお世話になった年少の友人に、ばったり会ってしまった。
風が強かった。相手が自転車で通り過ぎていった数秒、「元気? 頑張ってね!」と風に負けない声をかけただけだったが、どうして、あの時間、あの場所に、友人はいたのだろうか。
神様、素晴らしいシンクロニシティをありがとうございます! まるで朝から麒麟の夢を見たような気分だ。
キリンが出てくる夢は未来の展望が開ける吉夢!
また、より良い未来を創るために今後どのように行動を起こしたら良いか、工夫をしたら良いかが自ずと分かったり、人を通して教えられたり、幸運を維持するパワーがあなたにつくことを教えています。
人と人との出会いは偶発的に見えて、ただの偶然ではないような感触がある。そういう出逢いをしたときは、風が動いているのが感じられる。生まれてくる以前に、現世で必ず逢おうと約束している人間関係もあるのだとか。念のため付け加えておくと、その相手は異性同性を問わず、自分の年齢より高い人もいれば低い人もいるという。当然のことながら、世界はさまざまな人間関係で満ちているのだ。
『Music for Airports』でアンビエント音楽を創始したブライアン・イーノに、もし後継者がいるとしたら、ラブラッドフォードになるというのが私見だ。この上質な環境音楽を聞きながら、またしても空港のことを考えていた。自分には、出逢いそこなった出逢いがあるのだ。
母の友人の娘さんに画家志望の女の子がいた。私より5歳くらい下の高校の後輩。母親同士は例によっておせっかいを焼いて、同じ芸術家タイプの私と引き合わせようとした。道後の老舗旅館で珈琲を一緒に飲む手筈になっていたらしい。
ところが、その女の子が羞かしがって面会を断ってきた。やれやれ。独身時代が長いと、こんな風に、申し込んでもいないのに勝手に「失恋」するという切ない突風に見舞われることが多くなる。
というわけで、その画家志望の女の子の顔すら私は見たことがない。聞いた話では、画家としては順調に階段を登り始めていたらしく、とうとう彼女の描いた絵を航空会社が空港のロビーの装飾用に買い上げるところまで、成功物語が進んでいたと聞いた。
「へえ、彼女はやっぱり本物だったんだね」と母と話していたところで、訃報が飛び込んできた。悲しいことに、その画家志望の女の子は、ある朝、東京のマンションで冷たくなってしまったのだそうだ。20代の若さだった。心臓に病気を抱えていたとも聞いたが、最後の姿は、テーブルに突っ伏して仮眠しているかのような姿で、揺すれば今にも目を覚ましそうだったと聞いた。
その数年後、今朝友人に偶然会ったのと同じ感じで、その画家志望の女の子のお母さんと、道端でばったり出会った。母親は私を見分けると、ほとんど手を引きかねないくらい強引に、ぜひとも自宅へ寄ってほしいと私を誘った。
母親は芸術がひと通りわかると目されている私に、娘の画を見てもらいたがっていたのだ。自宅の玄関へお邪魔すると、女の子が描き残した遺作が、次々に出てきた。
絵はラファエル前派のようなテイストで天使を描いたものが多かった。
母親は私にこう訊いてきた。私のことを芸術全般なら何でも知っている人だと、買いかぶっているようだった。
「何かを必死に描こうとしていたようだけれど、娘が何を描こうとしていたのか、わかりますか? 私には全然わからなくて……」
母親は涙ぐんでいた。私はいくつかの絵画を順に凝視しながら、何とか主題の連なりを読み取って、慰めになるような気の利いたことを伝えたかった。しかし、どういって良いのか、何もわからなかった。母親の方に向き直って、こう答えた。
「わかりません」
じつの母娘の間にすら、越えられない透明な壁がある。壁があるのに、それを突き抜けて、娘が何を表現しようとしていたかを、どうしても知りたがっている母親の姿に、哀切さと感動を感じずにはいられなかった。そこで語るべき言葉を持っていなかった自分が恥ずかしかった。カンバスの向こう側にいる娘と、その娘を知ろうとして果たせない母の、それぞれの孤独について考えた。
今でも、荷物を抱えて空港を足早に歩くとき、廊下やラウンジに飾られている絵をついつい見てしまう。どの額縁の中にも天使はいない。いないのを確認したあと、「風は世界を冷やして駈ける死」という自分がかつて書いた詩句を、唇にのせて呟く。空港には、どこか死の匂いと浮遊感がある。だから、アンビエント音楽があんなにもマッチするのだろう。
時として、人と人の間には「透明な壁」が立ちはだかる。しかし、その「透明な壁」を溶かすことは、決してできないことではない。例えば自分なら、天使の絵画群と亡娘を悼む母との間に、適切な言葉を架橋できたはずだし、そうしなければならない立場だった。
救いを求めている人の救いになるような言葉を伝えられなかった後悔が、またしても社会のいたるところにある「透明な壁」について考えるよう、自分を誘っているのを感じる。
不思議なことに、この15年間、自分はそのような透明な壁の向こう側に隔離されているマイノリティになぞらえられることが多かった。
よくもまあ、派手すぎる妄想を次々に列挙したものだと苦笑してしまう。確定的な根拠もなければ、該当している事実も一切ないのに。
しかし、誤配されたレッテルを貼られたせいで、それぞれの社会的マイノリティが直面している「透明な壁」について、相手の立場になって考えられる機会は持てた。 言い換えれば、それぞれの孤独に間接的に触れることができたのだ。
児童虐待については、この記事で考えてみた。
ところで、NHK取材班による新書は、児童虐待へ至る親の側の心理についても取材している。50~70%の「虐待」親が精神疾患を抱えていることは先程確認したが、精神疾患には至らなくとも、かなり病的な心理機制を抱えていることが明らかになっているのだという。
- 暴力肯定意識 自分のストレスを発散するための暴力であっても、必要な「躾」や「体罰」だと強弁して、自分の暴力を正当化しようとする。暴力には、言葉の暴力や処遇の暴力も含む。
- 子供への「被害妄想」 「乳児の泣き声が自分を責めている」「子供なのに自分を莫迦にした目で見た」といった根拠のない被害妄想に囚われ、暴力を振るうことで仮想的有能感を取り戻そうとする。
- 自己欲求優先主義 子供の頃に愛情欲求が十分満たされなかったために大人になりきれず、自分の欲求と子供の欲求とがバッティングした場合、無条件に自分の欲求を通す子供じみた虐待行動しかとれない。
1.2.3 は、「虐待」親の抱える問題行動にとどまらないという印象を受ける人も多いことだろう。こういう自己愛性パーソナリティ症候群に似た「症例」は、社会のいたるところで私たちが目撃させられている莫迦げた陋習にほかならない。
性的マイノリティについては、この論文が一つのマイルストーンになっていると思う。
The Darwinian paradox of male homosexuality in humans is examined, i.e. if male homosexuality has a genetic component and homosexuals reproduce less than heterosexuals, then why is this trait maintained in the population? In a sample of 98 homosexual and 100 heterosexual men and their relatives (a total of over 4600 individuals), we found that female maternal relatives of homosexuals have higher fecundity than female maternal relatives of heterosexuals and that this difference is not found in female paternal relatives. The study confirms previous reports, in particular that homosexuals have more maternal than paternal male homosexual relatives, that homosexual males are more often later-born than first-born and that they have more older brothers than older sisters. We discuss the findings and their implications for current research on male homosexuality.
人間の同性愛者をめぐるダーウィンのパラドックスが吟味される。つまり、男性同性愛に遺伝的要素があり、同性愛者が異性愛者よりも生殖できないなら、どうしてこの形質が集団的に維持されるのだろう? 98人の同性愛者と100人の同性愛者とその親族(合計4600人以上)のサンプル調査では、同性愛者の女性の母親の親戚(叔母たち)は、異性愛者の女性の母親の親戚(叔母たち)よりも高い多産性があり、この差は女性の父親の親戚には見られない。この研究では、或る同性愛者は父方の同性愛者よりも母方の同性愛者の親戚を多く持ち、同性愛者男性は長子よりも第二子以降であることが多く、姉よりも兄が多いという前回の報告が確認されている。私たちは、男性同性愛に関する現時点での研究として、その発見と含意するところを議論する。
平たく言うと、男性同性愛者は親族女性が多産な遺伝子を持つという現象を伴いつつ、生まれてきた可能性が高いのだ。つまり、「生殖不能」として社会の透明な壁の向こうに追いやられがちなその種族は、親族単位で見れば、生殖の多産性に貢献していると想定できるのである。
というこの発言も、異性愛生殖を絶対化したヘテロセクシズムの側に立って言ってみただけのことで、生殖と愛とは別個であり、愛という概念の方がはるかに普遍性を持っていると自分は考えている。
ここまで、多種多様なマイノリティたちを排除する「透明な壁」について述べてきた。この「透明な壁」をざっくりとひっくるめて一言でいうと「Social Exclusion(社会的排除)」になる。その反対の概念は、「Social Inclusion(社会的包摂)」だ。社会学を勉強して「包摂」が大事なことはを知っている学徒も、具体的に社会的包摂を向上させるにはどうしたら良いかまで、総論と個別論の双方が視野に入っている人は少ないかもしれない。
2000年のEUのリスボン戦略が、初めて「社会的包摂」を大々的に盛り込んでいるので、まずはそこを確認したい。
How will the renewed social agenda help?
(…)Building on these achievements, the renewed social agenda brings together a range of EU policies in order to support action in seven priority areas:
- Children and youth - tomorrow's Europe
- Investing in people: more and better jobs, new skills
- Mobility
- Longer and healthier lives
- Combating poverty and social exclusion
- Fighting discrimination and promoting gender equality
- Opportunities, access and solidarity on the global scene
新たな社会的アジェンダはどのように役立つでしょうか?
(...)これらの成果を踏まえ、新たな社会的アジェンダは、7つの優先分野におけるアクションを支援するために、一連のEU政策をまとめています。
- 子供と若者ー明日のヨーロッパ
- 人々への投資:より多くのより良い仕事、新しいスキル
- モビリティ(移動可能性)
- より長くて健康的な生活
- 貧困と社会的排除との闘い
- 差別を撲滅し、男女平等を促進する
- グローバルな場面における機会、アクセス、連帯
問題とその対策が多種多様に渡っているのは、一目瞭然だ。重要なのは、これらそれぞれの分野が相互に作用するので、全体的な俯瞰図と局面的な詳細地図の二つを使いこなしながら、社会改良に取り組める人々を増やすことだ。
孤立社会からつながる社会へ―ソーシャルインクルージョンに基づく社会保障改革
- 作者: 藤本健太郎
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2012/10/01
- メディア: 単行本
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社会的包摂に関しては、現時点でこの二冊が頂上に最も近いだろうか。特に後者は、経済政策、医療福祉政策、住宅政策、都市政策、労働政策、年金政策について、それぞれの専門家が章ごとに最新の学知を寄せた労作だ。
「社会的孤立」が、上記のような多様なマイノリティだけの問題でなく、自称「普通の人」にも及ぶのが日本の特徴だ。ドイツ、スウェーデン、アメリカ、韓国、日本を対象にした調査では、近所づきあいと友人づきあいの両方で、日本はトップの欧米諸国とはダブルスコアの低水準。お隣の韓国よりもやや下で最下位を誇ってしまっている。
人間関係の希薄化は、終身雇用制度が崩れた会社共同体でも起こっており、最後の砦であるはずの家族関係では、高齢化・少子化・非婚化などにより、総シングル化が進行している真っ只中だ。そこへ介護や育児やそのダブルケアが直撃したとき、自称「普通の人」ですら、社会的孤立を実感せざるを得ないという。
その周辺については、この記事で書いた。
現在28歳くらいの1990年生まれの女性は、生涯未婚率が23.5%。結婚した76.5%のうち36%が離婚するので、掛け算して足し合わせると23.5%+27.5%=51%の女性が、独身状態となるらしい。再婚や死別をカットしたラフな予測数だが、とんでもなく高くはないだろうか。
おまけに、男性の生涯未婚率は今後おおよそ女性の1.5倍で推移すると予想されているので、離婚率を同じとしても、男性も62.5%が独身状態となるらしい。「一億総シングル社会」という言葉が飛び出すのも頷ける独身化の急伸だ。
(…)
全世代のシングル化が進んでいるので、全世代が協働できる多世代交流機能を、コミュニティが持たねばならないのは当然だ。介護保険制度によって、日本は介護する主体を家族から社会へと移行させた。制度から零れ落ちるさまざまな困難を、最後に掬い上げられるのは、地域コミュニティしかないかもしれない。
その零れ落ちる最大の困難のひとつが、核家族をつくった夫婦でも頻発している。それは「ダブルケア」。子育てと介護の同時進行である。
実は、少子高齢化が進行しているのは、日本だけでない。韓国や台湾や香港でも、状況はさほど変わらない。その各国の研究者が集まった「ダブルケア研究プロジェクト」が、2012年から発動しているので、その動向に注目していた。実は、同世代の団塊ジュニアで、ダブルケアに直面して苛酷な生活を強いられている話を、よく小耳にはさむのだ。
上記の「社会的包摂」のシリーズ本を編纂した藤本健太郎は、政策連動と公私連携を合言葉に、次の6つの提言で新風を吹かせようとしている。自分の言葉でまとめ直したい。
- 高齢者、病人、子供、障害者に対する在宅ケアを一元化したユニバーサルケアを確立し、ワンストップチャンネルとすること。
- そのユニバーサルケアに、ケア対象者だけでなく、家庭で対応にあたる家族へのケアも含めること。(上記、ダブルケア担当者などへのサポート)。
- ユニバーサルケアの充実により高齢者特有の住宅難を緩和しつつ、コンパクトシティ化を進めること。
- 不安定な非正規雇用の若者や育児や介護と並行して働く労働者を優遇する年金政策を行うこと。
- 少子高齢化によって人口ピラミッドに偏りが日本では生じているので、2014年以降の年齢別負担から能力度別負担への切り替えを促進すること。
- 労働条件のうちワーク・ライフ・バランスを改善して、女性の労働参加率を高めること。
少し堅苦しい表現が続いただろうか。学術書が苦手な人々には、その名も『フィンランドを世界一に導いた100の社会改革』をお勧めしたい。
何と言っても、その数は100。上記のような真面目な社会政策の項目もあれば、え、こんなことで社会が良くなるの?と呟きたくなるイノベーションも含まれている。
フィンランドを世界一に導いた100の社会改革―フィンランドのソーシャル・イノベーション
- 作者: イルッカタイパレ,Ilkka Taipale,山田眞知子
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お気づきの読者も多いと思う。今日の記事のテーマは「孤独」だった。
実は下記の記事で「居所不明児童」の問題を扱った。
しかし、実数としては「居所不明高齢者」の数の方が、はるかに深刻だと言われている。無縁で亡くなって、しかるべき手続きが未済のまま、住民台帳に記載されている「幽霊」の数がとんでもなく多いらしい。NHKの「無縁社会」特集が、視聴者の生の声をFAXで募ったところ、こんな声が寄せられたという。
「誰も助けてくれる人はいません。孤独で耐えきれなくて、心が折れそうです」
「まるで心の中では無人島で暮らしているに等しいです。孤独そのものです。私が死んでも、誰が気付いてくれるでしょう」
「苦しい夜は電話をかけます。いのちの電話です。つながらなくても、呼び出し音だけでも、つながれているような気がします」
この記事の隠しテーマは「孤独」。そして文章のところどころに、風を吹かせておいた。 宮崎駿の『風立ちぬ』の真価を、まだ分かっていない人々が多いような気がしたからだ。太平洋戦争を取り上げつつも、好戦にも反戦にも拠らない主人公たちの姿を描いたのには、『広場の孤独』があるにちがいないというのが、自分の読みだ。
堀田善衡が想定していた「広場」とは、クレムリン広場やワシントン広場のようなもの。八紘一宇やファシズムや冷戦や高度成長などの「支配的思想」が、人心を掌握してしまうことを象徴する場所のことだろう。しかし、個人の内面は、そのような「支配的思想」に回収されない。「支配的思想」に抵抗する軸を維持したまま、個人と個人とが互いの孤独を溶かし合う機会を創出できたら、どれほど社会は生きやすい場所になるだろうか。
さしあたり社会資本と呼ばれるそれらの財産を、具体的にどのような社会構成要素にしていくのか、言い換えれば、「広場の孤独」の対義語を、どのように実践的な生き方で定義していくのかが、今もっともアクチュアルな問いとして、私たちの眼前で風に吹かれて揺れているような気がしてならない。