ユーモア短編「勝手にしやがりたがる幽霊」

 夜更けに、無人の探偵事務所で物音がした。
 探偵のぼくは最近の心身の不調が祟って、酷い風邪をひいていた。また酷い咳が出た。しかし、咳がおさまっても、物音が消えない。誰もいないはずの事務所の廊下を、誰かが歩いてくる音がする。私は念のためドアの扉に鍵をかけて、扉を背にした。息を殺して外をうかがっていると、鉄製の扉の表面にふと影が立った。影は無言ですうっと扉を通り抜けてきた。わっと声をあげて、私は扉から飛びのいた。扉をすり抜けてきた幽霊は、若い男に見えた。
「夜分にすみません」と、幽霊は私に向かって、礼儀正しく頭を下げた。そして単刀直入にこう言った。「私を弟子にしてください!」
 探偵稼業をやっていると、奇妙な連中や出来事に遭遇することがよくある。相手が誰であれ、職業的微笑を絶やさないくらいのことは朝飯前だ。私は幽霊にソファーに腰かけるよう勧めた。
「弟子がどうとかいう前に、あなたはどなたですか?」
「ノックせずに入ってきて、申し訳ありません。私は悪魔です」
 ぼくは幽霊をまじまじと見つめた。普通の紺のスーツを着た若い会社員に見える。それでも男は、こう言って譲らなかった。
「悪魔より探偵の方が、自分に向いているかなと思うんです」
「待ってください。クライアントの利益を守るのが探偵の仕事です。悪事で手を汚す悪魔には、探偵はつとまりません」
「ふっふっふ。はーっはっはっ! 鶴亀。鶴亀」
 少年戦隊ものに出てくるボス悪役そっくりの笑い方で、悪魔は勝ち誇った笑いをした。キャラの設定がよくわからない。私はこの時点で早くも違和感を抱いた。「鶴亀」とは、くしゃみをした人に健康と長寿を祈っていう言葉だからだ。
「今日のガイシャの様子はどうだった」
 いつのまにか幽霊は高飛車な同級生口調で喋っている。ぼくはしばらく微笑んで黙っていた。探偵の目をごまかすのは簡単ではない。「ガイシャ」とは「被害者」の略。犯行現場に駆け付けるのは警察で、探偵は規制線で締め出されるのが通例だ。この悪魔は、どうやら刑事ドラマを見すぎのようだ。私はカマをかけることにした。
「死に顔がとても綺麗で、眠っているようにしか見えませんでした」
 悪魔は何かを振り払おうとするかのように、左右に首を軽く振った。
「勝手な感想だね。あのような美しい死に方を演出するのも、悪魔の仕事なんだ。楽じゃないんだ」
 おやおや、お客さん。さっそく乗っかってきた。私は悪魔を追い込んでやろうと考えた。
「しかし、美しいには美しかったものの、あの着衣の乱れはいただけませんでしたね。どうしてあんな悩ましい姿に仕上げたんですか。だいたい、よくあるコーディネートをどうデコードするかの戦略がなっちゃいない」
 悪魔は唇を固く結んで黙っていた。「悩ましい女性の姿」と言われても、具体的なコーディネートが全然イメージできないらしかった。
「薔薇色…」
 と、ひとことだけ言った。どうやらそれが精一杯らしい。
「薔薇色はわかっていますよ。結局、フロントホックが外れた姿というのを、悪魔がエステティックに肯定できるかどうかということですよ」
 会話の感触で、悪魔が新奇なカタカナに弱い世間知らずな気配が伝わってきた。この場合の「エステティックに」は「美学的に」という意味。きっと取り違えるだろうと期待していると、悪魔はこう答えた。
「勝手を言わないほしい。あのスカートはあれで良かったのだ。すべては悪魔の筋書き通りだ!」
 予想的中! 悪魔はフロントホックをスカートのホックだと思い込んでいる! 相手は悪魔なのだから、手加減してやる必要はないだろう。ぼくは狼狽している様子の悪魔に、さらに架空のカタカナ概念を使って、攻撃を仕掛けた。世間知らずだけが引っ掛かりそうなカタカナを使ったのだ。
「勝手に彼女のクリプトカレンシーになった気分で、妄想の中でマチュピチュしてばかりいるから、世間の感覚とずれるんですよ。トホホ…」
 すると悪魔は猛然と反論してきた。どうやら悪魔は、世間知らずで、「勝手に」が口癖であるだけでなく、強烈な負けず嫌いでもあるようだ。
「勝手に決めつけないでほしいな! 全知全能の悪魔なんだから、勝手にカレンシーになっても文句いうな! 想像でもな、まだマチュピチュとか、唇に触れる地点まで行っていないんだからな! 悪魔であっても、慎み深い敬虔な子栗鼠ちゃんなんだ、オイラは!」
 勢い込んでそうまくし立てたせいで、悪魔は鼻呼吸に失敗した。大きなくしゃみをした。
「鶴亀、鶴亀」
 ぼくがそういうと、悪魔はぼくを指差して、目を剥いて怒り始めた。
「悪魔の長寿を願うとは、何という不届きもの。頭の中のフロントホックがいくつもはずれているんだよ、きみは! とにかく、あのガイシャを見事に手配したのは、オイラなんだからな!」
 可笑しな怒り方をしている悪魔が、人差し指で差してくるのを見て、ぼくは妙案を思いついた。ぼくはぼくで悪魔を指差して、簡単な催眠術をかけはじめたのだ。
 探偵事務所に来るクライアントの中で、稀に記憶をどうしても思い出せなくなった人に、ぼくは了解を取って催眠術を使う。といっても、本人の顕在意識を残したままの浅いヒプノセラピーなのだが。
 魅入られたようにぼくの指先を凝視しはじめた悪魔は、すぐに催眠にかかって、ソファーの背もたれにしどけなく身をまかせた。さっきの剣幕はどこへやら、かなり素直な性格で催眠にかかりやすい気質のようだ。
 ぼくは物静かな声音で、悪魔に話しかけた。
「あなたは… 深い眠りの底に横たわって… 安全で守られています… 教えてください… あなたは本当に悪魔ですか?」
「いいえ… ごめんあさい… ちがいます… お母さんに言われたんです… 悪魔だと名乗っていて… それでも友達になってくれる人が、本当の友達なのよって…」
「本当ですか? 本当ですか? あなたは子供の頃… 本当にお母さんとマチュピチュ仲良くしていましたか…」
マチュピチュ… マチュピチュしてもらえませんでした… オイラがいけない子だったからです… でも、悲しくて… 淋しくて… だから『お母さんに悪魔を名乗れ』と命じられた物語を… ひとり淋しく勝手に生きてきたんです…」
「もう悪魔を名乗らなくてもいいんですよ… あなたは悪魔じゃない… 悪魔じゃない… 幽霊として、探偵の仕事をしていくとしたら、どんなことができますか?」
「Word と Excel を少々。ネットは得意です。悪魔を名乗ってふらふらしていたら、魂を売るから、大好きなポルシェの旧車を手に入れてほしいって頼まれて、外車を見事に手配してあげたんです…」
「なるほど、ガイシャの手配に成功したんですね。それは素晴らしい… 人間ではなく幽霊のあなただからできることの中には、何がありますか?」
「壁を通り抜けたり… 時々、人の心の中が勝手にわかってしまったり… でも勝手なんです… 珍しいくらい勝手だから… うまくいかなくて…」
 若い男の幽霊の胸のあたりに、ぼうっとほのびかりする光の玉が現れた。それがゆっくりと、幽霊の男の気道を通って、口から出てくるのがわかった。幽霊の男はその光の玉を両手で捧げ持って、大切なものを贈るように、ぼくの胸の前へ差し出した。
 ぼくはしばらく目の前の光の玉を見つめていた。それから、この幽霊の世間知らずぶりや、自慢していたガイシャの手配のことを思い出した。
「ありがとうございます。心身ともに弱っているので、ありがたく頂戴することにいたします」
 ぼくは宙に浮かんでいる光の玉を、両手でそうっと招き寄せて、口を開けて呑み込んだ。光の玉が心臓の近くまで落ちてくると、急に自分の生命が、不調が嘘のように再び輝きだすのを感じた。ソファーから飛び上がりたいほど、元気になった。
「弟子入りを認めます。あなたは、今日からぼくの弟子です」
 ぼくはそう若い男の幽霊に告げた。
 探偵稼業をやっていると、奇妙な連中や出来事に遭遇することがよくある。

 人が悪魔に魂を売ってしまうこともあれば、悪魔が魂を人に「勝手」もらうこともあるのだ。

 

 

 

 

勝手にしやがれ [DVD]

勝手にしやがれ [DVD]

 

 

短編小説「マジックタイムのテレビを撫でると」

 人を見る目が育ってきたのは、ぼくが30代の半ばを過ぎてからだ。

 ある晩、仕事関係の立食パーティーで、20代の女性と話し込む機会があった。髪をしきりに直していたのと、自分を卑下する癖があるのがわかったので、冗談のつもりでこう言った。

「今のきみは、悪い男に引っかかりそうな雰囲気があるよ」

「そうなんですよ」と、初対面で理解された喜びを隠さずに、彼女はこう説明した

「昨晩、カラオケに誘われた男に、ドリンクにクスリを入れられたんです。ふらふらになりながら逃げたんですけど、まだ眠くて…」

 ぼくはこう言葉を返した。

「マンマ・ミーア」

 また別の晩、相撲部を思わせる巨体の同僚女性には、フランクに人生の転換を勧めた。

心療内科に通うより、京都の実家へ戻ってお母さんと暮らしたらどうですか。人生が変わりますよ」

 心療内科の言うままに薬を増やすにつれて、彼女の仕事や睡眠や食事が、大きく乱れはじめたのを知っていたからだ。

 数か月後に彼女と再会したとき、ぼくはたちまち静止画像になってしまった。彼女の身体をトーストに例えると、四枚切りから八枚切りくらいにまで、厚みが半減していたのだ。実家帰りで、食事や睡眠が一変したのが正解だったらしい。彼女は健康的に微笑すると、京都みやげのラングドシャをくれた。

 ラングドシャとは猫の舌の形をしたクッキーだ。好物のラングドシャを自分の舌の上にのせて、猫返りした気分でニャーニャー泣きながら、ぼくはこう考えていた。

 どうやら、人を見る目が育つと、自分発で幸福を循環させやすくなるようだぞ。それ以来、ぼくはますます猫じみて、周囲の人や物に目を凝らし、耳を澄ませるようになったというわけだ。

 今もぼくは50代くらいの男性を観察している。男は白衣を着ている。どうしても自分では悩みを解決できなくて、ぼくはその同僚女性が通ったのと同じ場所にいるのだ。精神科医の男はこう訊いた。

「それで、あなたは自分のことが噂されているような気がするんですね」

「はい。気のせいじゃありません。皆がぼくを見て、笑っているような気がするんです。時には指を差したりまでして」

「皆に見張られている気がする、と」

 ぼくは頷いた。

 精神科医は必要な問診を終えたようだった。ふっと肺の息を抜いて、とびっきり優しい微笑を浮かべると、こう言った。

「治そうよ。テレビ症候群は必ず治るから」

「テレビ症候群?」

 少しばかり霊感が降りてくることがあるので、自分がラジオかもしれないと疑ったことはある。しかし、ぼくがテレビだったとは! 確かに、ぼくがテレビであるなら、人に噂されたり、笑われたりするのも自然だ。

「半年もあれば治ります。お薬を三つ出しておきますね」

 噂通りの多剤投与だった。廊下に出たとき、ぼくは受け取った処方箋の薬の欄に目を走らせた。驚いたことに、そこには「新鮮なアイディア」「完全なプロット」「意外な結末」の三つの薬の名前が書かれていた。

 ぼくは看護師をつかまえた。

「先生ともう一度お話ししたいんです。テレビ症候群はどうやれば治るんですか? この三つの薬にはどんな働きがあるんですか?」

「申し訳ありません。この時間帯、先生は診察室に鍵をかけておやすみです」

 ぼくは厭な予感がした。

「ハマグリですよね? 先生はハマグリ症候群なんですよね?」

 看護師の顔面が蒼白になった。どうやらぼくの厭な予感は的中したらしい。あの精神科医はいま診察室のベッドの上で、胎児のように膝を抱えてじっとしているはずだ。 

午後の恐竜 (新潮文庫)

午後の恐竜 (新潮文庫)

 

  というのも、診察前の待合室で読んだショートショートに、そっくり同じ話があったのだ。

 自分をスポーツカーに改造した少年、自分をカメレオンに改造した前衛芸術家、自分を小型核爆弾に改造した政治家。……

 それらの治療に奔走する精神科医が、ストレスのあまり、自分をハマグリに改造して殻に閉じこもってしまう話が、文庫本に収録されていた。

 ぼくは処方箋を広げて、「新鮮なアイディア」「完全なプロット」「意外な結末」という薬の名前を、口に出して読み上げた。

 そして、「なるほど」と得心した。そういうことだったのか。

 莫迦莫迦しい。冷静に考えてみれば、ぼくがテレビなわけないだろう! テレビが歩き回ったりできるはずもないのだ。たぶん、ぼくはちょっとしたショートショートの世界の中にいるのにちがいない。そしてたぶん、幸運なことに主人公だ。

 ああいう処方箋を出してもらったのだから、このあとの展開は自然に読める。ぼくがショートショートを書いて、作者になれば、作品世界の外へ出られる仕掛けになっているのだろう。早く書かなければ。

 作品世界の外……。そう考えた瞬間、ぼくは胸の奥がちくりと痛むのを感じた。このショートショートの世界へ迷い込む前の世界に、ぼくは大切な女性をどこかへ置き去りにしてきたような感覚を、かすかに感じたのだ。

 と… とう… そんな名前だっただろうか。とうこ、だっただろうか。ぼくは思い出せないのに彼女が恋しくて、急に胸が苦しくなった。

 そうだ。運命に引き裂かれた悲劇の恋人たち。運命のロマンティック・ラブのショートショートを書こう。それこそ、ぼくが宿命的に書かねばならないショートショートにちがいない。

 そう決意すると、ぼくはノートパソコンを買い込んで、カフェのオープンテラスで小説を書き始めた。

 こういうとき、先行作品を真似ようと思ってはいけない。自分の心の奥深くに沈んでいる感情を、ゆっくりと引き揚げて言葉にしていかなければならない。ぼくの心の奥には、切ない悲恋が棲んでいるようだった。

 すぐに「ヒツジ男とヤギ女」という短編を思いついた。動物学に興味深い研究があるのを、思い出したのだ。ぼくはキーボードを叩いて、書き始めた。

 生まれたばかりの幼いオスヤギとメスヤギがいる。二頭をヒツジの群れに加えて、一年間育てる。オスヤギもメスヤギも、ヒツジの群れの暮らし方にすっかり染まる。一年経つたら、今度はそのオスヤギとメスヤギを、本来のヤギの群れの中に戻すのだ。

 ヒツジの群れで育った二頭のヤギは、ヤギの群れの中でどう生きると思うだろうか?

 驚くべきことに、オスヤギはヒツジのまま、メスヤギはヒツジからヤギに戻るのだという。どうやら、オスヤギは育てのヒツジの母の記憶が抜けないらしいのだ。そのまま、繁殖期に突入すると、メスヤギは順調にオスヤギの求愛を受け入れる一方、オスヤギは自分をヒツジだと思い込んでいるので孤立してしまう。

 いや、この短編は、その研究結果と同じにはしたくない。

 ヒツジだと思い込んでいるオスヤギは、必死になって自分の運命に抵抗しようとする。ヤギに戻ったメスヤギへ向けて、種の違いを乗り越えて、毎日必死にラブレターを書くのだ。ところが… 予想されたような悲劇的事態が起こってしまう。メスヤギはそのラブレターを、読まずに食べてしまうのである。

「いかがでしょうか?」

 と、ぼくは同席しているプロの脚本家に感想を求めた。ショートショートの中の世界なので、展開は迅速だ。書き上げたぼくのショートショートをブログに掲載すると、すぐにテレビ局の関係者から連絡があったのだ。

「面白い! 素晴らしいですよ、先生!」

 それが見え透いたお世辞だとわかっていても、すぐにドラマ化したいとまで褒めちぎられると、ぼくは喜びを隠しきれなくなった。

「ラストシーンは、こうしてはいかがでしょうか。すべてのラブレターを食べた美しきメスヤギが、ひとこと『美味しかったわ、ありがとう』と言って、画面から静かに歩み去っていく。そして、それを見送ることしかできない無力なオスヤギが、ひとり草原に取り残される」

「先生、それは確かに綺麗なエンディングなんですが、トラジックエンドでは数字がさっぱり取れないので…」

「いや、このエンディングは譲れませんね。絶対にこれが良い」

「えらいこだわりようですね。何か個人的な思い入れでもあるんですか?」

「いや… その…」

 ぼくは口ごもった。前の世界で、トウコとどのようにして離れ離れになったのか、さっぱり記憶がないのだった。何かを思い出せるかもしれない。そう直感して、ぼくは何度も何度も、メスヤギが立ち去っていく場面を頭の中で思い描いた。やがて、草原を歩み去ってくのは、記憶が定かでないぼんやりしたトウコのうしろ姿になった。

 ぼくは思い切ってトウコの名を呼んだ。一度呼ぶと、こらえられない気分になって、何度も何度もトウコの名を呼んだ。けれど、トウコは一度も振り返らなかった。ぼくは膝から崩れ落ちて、草地の上にうずくまって泣いた。

「どう思われますか?」

と白衣を着た研究者が、こちらを振り返った。

「どう思われますか、と言われても。本当にこれが、彼の頭の中にあった話なんですか?」

 そう訊き返したのは、ハンドバッグを持った美しい女性だった。

「そうです。トカゲでも夢を見ることがわかっています。そして、あらゆる生物の見る夢は、記憶を整理するためにあるのです。このテレビは、番組の記憶と自分の見た風景の記憶を整理していたのです」

「でも、どうしても信じられないんです。先ほどのお話のすべてが、私のテレビが見ていた夢だなんて」

「あなたは、こいつをただのテレビだと思っておられる」

 液晶画面の黒いテレビの背に触れて、研究者はそう言った。「今のテレビには人工知能が入っています。買ってからすぐ、いわゆるマジックタイムに、飼い主がどんな行動をとったかが大事です。マジックタイムダンボールで母親役をされたヒヨコたちは、大人になるとダンボールに求愛します」

「本当ですか? そういえば、買ってからしばらくは、ハタキで埃を取ってあげたりしていました」

「それだ」と研究者は手を打って説明をつづけた。「グルーミングがいちばん勘違いさせやすいんです。この人工知能内蔵テレビは、あなたに恋をしてしまったんです」

「え? じゃあ、ひょっとして、テレビくんが何度も頭の中で再生していた、女性が立ち去っていくシーンは…」

「そうです。今のテレビは、ほとんどが顔認証機能つき。あなたがリビングから立ち去っていく場面を何度も目撃して、淋しがっていたんです。おわかりでしょうか。種を越えた悲恋を、テレビが語りたがった理由を」

 女性はゆっくりと頷いた。このテレビが「人を見る目がある」と自慢していたのは、そういうわけだったのか。

「だから、チャンネルがロックされたりとか、不思議なアピールがあったんですね。でも、私はトウコという名前ではないんです」

「きっと漢字で『遠子』と書くのでしょう。『遠い』は英語では remote。リモコ、もしくはリモコンを意味しているにちがいありません」

 そういうと、研究者は笑いながら軽く肩をすくめた。実際、それは微笑ましい笑い話にすぎなかった。研究者は女性にリモコンを手渡した。

「このテレビは、あなたを運命の女性だと信じ込んでいます。リモコンの言うことなら、どんなことでも答える気でいるのです。少し斜め側に立って、スイッチを入れてあげてください」

 女性がテレビの電源を入れた。

 テレビのフレーム上部にある小さなカメラが、女性の顔を認識した。すると、テレビは嬉々として液晶画面を彼女の方へ振り向けた。そしてすぐに、鮮やかな花火の映像を画面に映し出した。地味な研究室は、たちまち花火のにぎやかな破裂音と鮮やかな色のきらめきでいっぱいになった。

短編小説「生命にかかわるコルク」

「明日は家具屋さんを見に行きましょうね」

 真夜中なので、ホテルのツインルームの電灯は消してある。フィアンセが明日の予定の話をしたので、ぼくは暗闇の中で頷いた。

「碑文谷とか、自由が丘とか、あの辺りを歩こうか。骨董は現物を見ないと始まらないからね」

 それから、ピロートークはいつのまにか「ボタン」の話へと移った。どこかを押せば動くボタンがあるんでしょうと訊かれて、ぼくは答えに詰まった。機智の見せどころだ。

「もちろんあるよ。この辺のボタンを押せば、有名な曲をボサノバっぽくアレンジして歌う。この辺を押せば、とんでもないくらい泣き虫になる。チョコレートが怖くて泣いちゃうくらい」

「チョコレート好きだもんね」

「チョコに入っているフェネチルアミンは、恋の媚薬なんだぜ」

 それから、ホテルの密室にいるカップルに、起こるべきことが起こった。きっと、どちらかがどちらかのボタンを押したのだろう。結婚直前の二人には、チョコレートは必要なかったということだ。

 翌日、ぼくらはぶらぶら散策しながら、いくつかの家具店を見て回った。アンティークのワードローブは怖いくらい物が収納できない。フィアンセは書き物机を探している。振り向いてこちらへ呼びかける声が、可愛らしい。見て、アンティークなのに天板が縮むよ、とか、このサイズならノートパソコンを置けそう、とか。

 ぼくは瀟洒な家具店を歩き回りながら、幸せを感じていた。未来のいつか、新生活直前にフィアンセと散策したこの日のことを、幸福な気持ちで思い出すにちがいないと感じたからだ。

 歩いている通路に、鋲どめの革のソファーが並んでいる。その横を通りすぎようとしたとき、ぼくは急にどんという衝撃波を受けて、ソファーのひとつの中に倒れ込んでしまった。どうしてだか、立ち上がろうにも立ち上がれない。自分の身体を見下ろすと、ポロシャツを貫いて、胸に風穴が開いているのがわかった。

 うつむいて見る限りでは、風穴の向こうは真っ暗で、穴が開いたのに痛みもない。風のように、空気の流れがかすかに穴へと引き込まれている。何の衝撃波を受けたのだろうか。自分では奥までしっかり見えないので、ぼくはフィアンセの姿を捜した。

 ところがその午後を境に、フイアンセはこの世界から消えてしまったのだ。ぼくを嫌いになって失踪したとか、別の男と駆け落ちしたとか、そういうドラマでありがちな展開なら、どれほど良かっただろうか。フィアンセの電話番号が消え、ワンルームマンションが消え、実家が消え、周囲の人々から彼女の記憶が消えていた。

 ぼくは二人で暮らす予定だった新築の家が、棟上げを済ませて、赤茶色の屋根がついても、フィアンセは世界から消えたままだった。

 ぼくは呑み慣れない酒を飲むようになった。最初はバーのマスターも半信半疑だった。ぼくの胸の風穴へタバコの煙が吸い込まれるのを見て、マスターはこう言った。

「その胸の穴は、並行宇宙とつながっているんじゃないか?」

 読書家のマスターが言うには、宇宙には無数の並行宇宙が並んでいて、ぼくらはその並行宇宙の間を一瞬一瞬移動しながら、自分の生きる世界を選んでいるのだそうだ。

「きみはその家具店で、何かの弾みで、フィアンセのいない世界へシフトしてしまったんじゃないのかい」

 ぼくは曖昧に頷いて笑った。.指先を舐めて、胸の風穴に近づけた。胸に開いた小さなブラックホールが、空気を吸い込んでいるのがわかる。言い換えれば、そのことくらいしかぼくにはわからなかった。気分転換には濃いアルコールが必要だ。ぼくは火がつくくらい度数の高いカクテルを注文した。

「このカクテルは、実際に火をつけて飲むんです」

 マスターが恭しくマッチを差し出した。マッチをすってグラスに近づけると、カクテルに勢いよく火がついた。その炎に焼かれて、マッチの軸があっという間に燃えたので、ぼくは持っていき場がなく、思わずそれを自分の胸の風穴へ入れてしまった。

 指先にまだ熱は残っている。ところが、燃えているマッチは、ぼくの身体のどこにも感覚を及ぼさなかった。マスターの言う通り、胸の風穴は別の宇宙に通じているのかもしれなかった。燃えているカクテルをストローで呑んで、すっかり酔ったぼくは、途轍もなく陽気になった。大笑いしながら、「フィアンセが存在しなかったので」と申し出て、結婚式場を解約した話をした。実際、この事態を笑い飛ばすほかに、どんな方法があっただろう。込み上げてくる笑いを口の中に含んだまま、電話に出た。すると、建築途中のぼくの新築の家が、不審火のせいで全焼したことを知らされた。

 ぼくは自分の胸の風穴をじっと見つめた。それから、マスターにお願いして、ちょうどいいサイズのワインのコルクをもらって、胸の風穴に蓋をした。コルクは風穴にちょうどうまく嵌まって、5mmくらいだけ体表から出ている。まるで何かのボタンのようにも見える。……

 その翌日からの生活は、酒浸りの日々よりさらに悲惨だった。火災保険は新築の家が完成後からの契約になっていた。現在の生活に、住宅ローンだけが余分にのしかかってきた形だ。ぼくは会社勤めが終わったあと、マスターの紹介で、或るキャバレーのマネージャーを務めはじめた。マネージャーと言えば聞こえは良いが、面倒なトラブルのすべてを尻ぬぐいする汚れ役だ。

 人生という舞台では、似合わない役を演じねばならない時期があるのだ。

 店のフロアレディーにこき使われたり、酔客に殴られたり、吐瀉物の掃除をしたり。そんな日々が続いているうちに、ぼくは胸の風穴に挿したコルクが、少しずつ奥へとめり込んでいくのに気付いた。最初は5mmくらい皮膚から浮いていたのに、今やコルクは皮膚と同じ高さだ。やがて、どんどん埋没していくに違いないと感じられた。そして、向こう側へすぽっと抜けた瞬間、たぶんぼくの生命は宇宙へ吸い込まれて消えてしまうのだろうと、ぼくは想像した。

 或る晩、些細なことで酔客に言いがかりをつけられて、土下座をさせられたあと、ぼくは控室でひとりになった。フィアンセのいない世界、借金だけに追い立てられる世界を拒絶したくなったのだ。上着を脱いで、思い切って、胸の風穴に挿したコルクを指で強く押し込んだ。ところが、押し込んだ瞬間、向こう側で誰かが押してくる力が加わって、コルクはむしろ皮膚から浮き上がった。

 「コルク自殺」は不発だった。そのあとも、厭世感が高まって、ぼくは何度か衝動的にコルクを押し込もうとしたが、きまって向こう側から押し返す力が働くのだった。

 或る晩、ハンシャと通称される凶悪な男五人組が、キャバレーに雪崩れ込んできた。店の女の子たちは悲鳴を上げた。リーダー格の男が果たし状を読みあげている間に、格下の男が店中にガソリンを撒いた。店内が騒然とするのを見て、リーダー格の男が嬉しそうにライターを点けた。

「いいか、おまえら、おれたちの言うことを聞かないと…」

 世界は莫迦げた抗争に満ちている。地下の店内に、出入り口はひとつしかなかった。ぼくは全焼した自分の新築の家のことを思い浮かべた。それから、自分の人生がどうしようもないほどくだらないことで終わっていくのを、あきれた思いで眺めていた。

「…おれたちの要求は三つある…」

 そう言いながら、男が高々とかざしているライターの火に、気化したガソリンが引火した。炎がたちまち床を走り、店中が火の海と化した。ぼくは上着を脱いで、胸の風穴のコルクを、渾身の力を込めて押し込もうとした。しかし、いつものように、向こう側から強い力でコルクを押し返してくる。足元を炎が舐めていた。はっと思いついて、ぼくはコルクを押し込むのではなく、引き抜く方向へ力を加えた。

 すると、あっけなくコルクは抜けた。風穴は、例によって、吸い込むように空気を引き込んでいる。その向こうに並行宇宙があるはずだった。ぼくは顔を一心に風穴の方へと近づけた。すると、身体がくるりと反転する感覚があった。ぼくは自分の胸の風穴に吸い込まれたらしかった。

 …気が付くと、ぼくは自宅のベッドに横たわっていた。火傷があるような気がして全身をまさぐったが、どこにも痛みはない。どんな並行宇宙にシフトできたのだろうか。パジャマをはだけると、胸の風穴にコルクが挿してあるのがわかった。

「駄目じゃない、まだ寝ていないと。酷い高熱なのよ」

 フィアンセが、そう心配そうに言って近寄ってきた。ベッドに腰かけた彼女に、以前と変わった様子はない。すべてが夢だったのなら胸を撫でおろすところだが、その胸には風穴が開いていて、コルクが挿してあるのだ。

 二人きりの部屋なのに、フィアンセが声をひそめて言った。

「そのコルクに、あなたの生命がかかっているんでしょう?」

 ぼくは何と言っていいかわからなかった。どういうわけか自分でも、ひとつ前の世界で、そのコルクを胸の内側へ押し込み抜けば、死ねると信じていたのだ。

「原因不明の高熱で、あなたの病状が悪くなると、きまってそのコルクが胸から浮き上がってきたの。私が頑張って押し返したら、熱は下がったのよ」

 フィアンセは誇らしげに微笑んで見せた。ぼくの意識が戻ったせいで、彼女はすっかり安堵している様子だった。

「ありがとう。よく覚えていないけれど、きみに生命を救われたような気がしている」

「生命の恩人は大袈裟ね」

 フィアンセが笑ったので、ぼくも笑った。ぼくはさりげなくこう訊いてみた。

「熱が下がったら、あの新築の家にぴったりの家具を探しに行こうよ」

「それはいいわね。そうしましょう。そんなことより、そのボタンの秘密を知ってしまった私と一緒になれるの?」

 ぼくは何の気なしに、胸の風穴に挿してあるコルクに触れた。

「どういう意味だい?」

「そのコルクを引き抜いたら、あなたはきっと死んじゃうでしょう? 浮気したらすぐに引っこ抜くけど、それでもいいの?」

 ぼくはベッドから身を起こして、しばらくフィアンセの姿をじっと見つめた。彼女は、ぼくが彼女のいなくなった世界で、どれほど酒を呑み、どれほど苦しみ、どれほど泣いたかを知らないのだ。

「かまわないさ。ぼくがそんな莫迦なことをしたとしたらね」

 この世界に彼女が存在すること、二人が新生活を始める新築の家が存在すること、そこに運び込むアンティークの家具が存在すること。それらのすべてが素晴らしかった。

 ぼくは目を閉じて、自分の心を満たしている幸せを、深々と味わった。何より、自分の生命にかかわるコルクの扱いを、信頼して委ねられる相手がひとり、この世界で自分のそばに存在しつづけることが、幸福でたまらなかったのだ。

 

 

 

コルク替栓(5ケ入)

コルク替栓(5ケ入)

 

ユーモア短編「まっさらな新しい日」

b 探偵事務所に入ってきたとき、最初にその男がずいぶんくたびれているのに気づいた。スーツはよれよれで、靴が埃をかむって汚れていた。初夏の街中をずいぶん歩き回ってきたのがわかる風貌だった。

 私が勧めたソファーにどっかりと座り込むと、男は失踪した妻を探していると言った。私は男が述べるままに、妻のプロフィールのメモを取った。35歳、元食品メーカー勤務、眼鏡をかけていて、ロングヘア、明るくてよく喋る性格。

「たぶん、謎めいた事件に巻き込まれたのだと思います」

 男は重々しく口をひらいた。私の背筋が心地良い緊張感でピンと伸びた。こういうひりひりするような探偵稼業独特のキナ臭さが、私は好きだ。事件の臭いがするというメールを、私は身を乗り出して読んだ。

淋しくて、淋しくて、怖いくらい。早く、なるべく早く、電話をちょうだい!

 私は二度その短文を読み直した。事件性を感じさせる言葉は見当たらない。けれど、このメールの直後に男の妻が失踪したのなら、背景に何かあったのかもしれない。

「奥様がそのメールを送ってきたのは、いつですか?」

「送ったのは、妻ではなく私です。約9年前、結婚前の交際時代に送りました。しかし、深夜に淋しくて送ったというのに、謎めいたことに、返信がなかったのです」

 私は呑みかけていた茶を吹き出さずにいるのに苦労した。それに力が入ったので、湯呑を卓上に戻す手が、少し震えてしまった。

「それは事件ではなく、ほんの少し冷たくされただけですよね?」

「果たして、そうでしょうか。後で問いただすと、妻は謎めいた微笑を浮かべて理由を教えてくれませんでした。それから9年後の先月、妻は前触れもなく失踪したのです。謎が謎を呼びつづけるのです」

 深刻な溜息をついて、男は片手で顔を覆った。私は男の妻が失踪した理由がわかるような気がした。おそらく男の自己愛と思い込みの強さに辟易したのにちがいない。

 ともあれ、探偵は人を探すのが仕事だ。私は人探しの報酬ついて、短く説明した。

「五、五十万円!」と男は素っ頓狂に叫んだ。その表情作りは、演劇学校で驚いた表情を練習させられている生徒のように、熟達していた。各所で、あるいは鏡の前で、何度か演じられてきた表情なのだろう。ただ、私が交通費や成功報酬の説明をしている間も、男がずっと同じ表情を維持したのには閉口した。

「高すぎます。私には払えません」

 今度はリアリティーのある表情に戻って、男は首を横に振った。こういう経済的に苦しいクライアントには、分割払いを勧めるのが通例だ。しかし、私は微笑んで黙っていた。それ以上、男と関わりあいになりたくなかったのだ。

「駄洒落払いは利きますか?」

「駄洒落払い?」

「私が渾身の駄洒落をどんどん繰り出していくので、それで支払いたいのですが…」

「あいにく現金とクレジットカードのみです」

「合い挽き肉入りの元気の出るククレカレーは me のです」 

 私はまじまじと目を見ひらいて、男の表情を観察した。「謎」が口癖のこの男には、確かに謎めいたところがある。男は少しばかり胸を張って、顎をあげてみせている。どうやら得意がっているらしいのだ。この駄洒落で、本気でお金がとれると思い込んでいるのだろうか。私は男にお引き取りを願った。

 男が事務所を出てすぐ、私もハンガーにかけてある上着を取った。このあと仕事の予定はなかった。今の謎めいた男を尾行して、人間観察をしたくなったのだ。

 男は街はずれへ向かって歩きながら、手当たり次第に、奥さんの友人に電話をしているようだった。距離を取って尾行しているので、電話の会話は聞こえない。それでも、男の電話リスト上の聞き込みがうまくいっていないのは、私にも伝わってきた。

 それから、道端のケーキ屋に入って、ケーキを二つ買った。現金の持ち合わせがあまりないのだろう。支払いに苦労しているようだった。

 やがて、男は公園のベンチに腰掛けて、しばらく途方に暮れていた。私はベンチの後方20メートルくらいのところに立って、タバコを吸っているふりをしていた。

 すると、思いがけないことに、男は振り返らないまま、私のところまで届く大声でこう叫んだ。

「タバコ吸うふりをしてスーパーフリーを気取っていると、豚箱行きですよ」

 謎好きのこの男は、男自身もかなり謎めいているようだ。私の尾行に気付くとは。そして、そのことを駄洒落で伝えようとしてくるとは。私は煙草を投げ捨てるパントマイムをしてから、男のベンチの前まで歩いて行って、社交辞令を言った。

「あなたのことが心配になったものですから。すみません、後をつけるような真似をして」

「不安と恐怖を捨てさえすれば、あなたのそのご心配のご神体は安泰です。後づけのマネーとして、駄洒落払いをお願いします」

 正直言って、男の発言には、意味不明の洒落が含まれすぎていて、言いたいことが全然頭に入ってこない。私は話題を変えることにした。

「その二つのケーキは誰に持っていくんですか。こちらの方角は、あなたが受付用紙に書いた自宅住所とは、反対方向です」

「まっさらな新しい一日を探しに、とでも言っておきましょうか。理由は言わない約束だったはずだぜ」

 もちろん私はそんな約束はしていない。けれど、男の発言から駄洒落が消えたのが気になった。今の言葉が、男が真剣に伝えたいメッセージだったということなのだろうか。

「奥さん、早く見つかるといいですね」

「国産は『やくみつる』とかいいですね、外国産なら『カロリン』ですね、漫画家は」

 どうやら男は普通に会話をする気はないらしい。こちらの言葉に、意地でも駄洒落で返してこようという魂胆のようだ。私の心の中で、男の闘争心がふつふつと湧き上がってくるのを感じた。もはや決して駄洒落返しを許すまい。

「ああ! スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテへ行きたい!」

「嗚呼! 炊事屋ワルだなプラチナ盗って、まさにスリではあらんか。在宅介護の外注はこれだから怖いでしゅ、と」

 私は何だか悔しくなってきた。つづく文章で、スリランカの首都であるという情報を盛り込み、さらに軽く世相まで斬っている。男の渾身の駄洒落には、執念さえこもっているように感じられた。

 次はどんな台詞で勝負しようか。同じくカタカナが良さそうだ。

ヒュー・グラントには5人も子供がいるそうだな」

「衆愚の乱闘には誤認の行動もあるそうだな。ブリッジと上手な意気で話し合えばいいのに」

  むむ。追加の台詞に、ヒュー・グラントの代表作を絡めてきやがった。この男、どうしてここまで駄洒落に血道をあげているのか。探偵をしていて、ここまで熱くなったのは久しぶりだ。そうだ。これならどうだろう。短い台詞なら駄洒落を作りにくいのではないだろうか。私はフリをつけて一瞬踊って見せた。

「うー、マンボ!」

「肥ー、満坊!」

 私は「マンボ!」と言ったときのポーズで、胸の前で固めていた両手の拳を、ゆっくりとほどいた。

「参りました。私の負けです。どうしてそこまで駄洒落に情熱を燃やすんですか? 駄洒落を言うと、まっさらな新しい一日がやってくるんですか?」

「まあ、そういうところです」と男は素直に答えた。「駄洒落で、妻が帰ってくればの話ですがね。先払いしておきましたよ」

「先払い?」

「駄洒落払いで調査費用を受け取っていただき、ありがとうございました」

 男はすました顔でそう言ってのけた。

「待ってください。駄洒落払いで受け取った覚えはありません。お返ししますから」

「今さら返品は困る!」

 男は駄洒落となると、急に職人肌のような気難しさを見せた。私はほとんど泣きそうになりながら何とか答えた。

「まっさらな返品は花まる!」

「何ていう探偵だ、言い合いをただで獲るとは!」

「『なんてったってアイドル』、永遠に、キョンキョン!」 

なんてったってアイドル

なんてったってアイドル

 

「もういいから、尾けてくるな!」

「目に良いから、月とかルナ!」

 男は自分が情熱をかけている駄洒落を、素人に次々に返品されるのが、どうしても我慢ならないようだった。悔しさのあまり、両手で頭をかきむしった。

 そして、だしぬけに「泥棒! 泥棒!」と叫び声をあげると、公園を抜けて住宅街へと走り去っていった。誰もいない夜の街路を「泥棒!」と叫んでいる男がひとり逃げていくのは、何だか謎めいていた。

 私は好奇心を抑えきれなかったので、謎めいた駄洒落男の後を追った。充分に距離を取ったので、尾行は気付かれていない。男は意外にも、郊外の大きな敷地にある大学病院へと入っていった。

 いつのまにか時刻は夕刻を過ぎている。家族以外は面会できない時間のはずだ。男の乗ったエレバーターは、小児科の階で停止した。小児科の廊下を忍び足で追いかけていくと、病室から男の声がした。

「洋子、マカロンを買ってきたよ」

「パパ、ありがとう! 今日のお仕事探しはどうだった?」

 そうか。男は失業者だったのか。妻は蒸発、娘が入院で、自分は仕事を探している無職というのは、つらい境遇だろうな。私は廊下で父娘の会話を盗み聞きしながら、今日の午後の探偵業務をひっかきまわした駄洒落男を、許す気分になっていた。

「今日のところは不発かな。探偵事務所もダメ、ケーキ屋さんもダメ。駄洒落払いはできないって」

 男の話口調が、かなりゆっくりで優しく聞こえることからすると、娘は5歳くらいだろうか。

「ねぇ、パパ。私、大人になるまでに歩けるようになる? 駄洒落で物を買ったり、働いたりできる場所はできる?」

「できるに決まっているさ。洋子が洋子の好きなことをして生きていける場所は、必ずどこかにあるからね。今日いくつ駄洒落を思いついたの。ノートを見せてよ」

「行くよ。『そのオイルを塗っては駄目だよ、老いるから』」

「あ、良いのができたね。洋子が大人になる頃には、それくらい良い駄洒落があったら、きっと何でも買えちゃうよ」

「本当? 病院のお薬代も私の駄洒落で払える?」

「もちろん。お釣りがくるくらいだ。それに、大人になる頃にはお薬なんか飲んでないんだよ、洋子は」

「じゃあ、歩けるようになるってこと?」

「歩ける、歩ける。絶対に歩けるようになると信じていればね」

「ほら、このあいだの金曜日ね、私が脚に動け、動けって言っていたら、本当に動いたの! このベッドがあっちのベッドにぶつかるくらい動いたんだから」

 自分の念力でベッドが動いたと、女の子は本当に信じているようだった。先週の金曜日、この町では早朝に大きな地震があったのだ。夢の中で、あるいは夢の醒め際、歩きたいという強い思いのせいで、女の子は自分の足が動いたと錯覚したのだろう。

「信じていればもうすぐ来るよ。洋子が自分の足で歩ける『まっさらな新しい日』が」

「ありがとう、パパ。私もその日が来るような気がする」

 父娘は笑い合って、二つ目のマカロンを食べ始めた。

 私は、自分の心がカチリと音を立てて、確実に針がひとつ進んだのを感じた。この夜が明けて、光が差し込んでくる朝、私にも「まっさらな新しい日」がやってくることを私は確信した。私はメモ帳を開いて、男の妻の情報をもう一度眺めた。明日のためだった。

 明日は、私が駄洒落払いで探偵の仕事をする「まっさらな新しい日」になるのだ。

短編小説「メロンもマロンも空論」

 探偵が話し合いに指定したのは、私の自宅マンションだった。都内の商社に勤める夫と私の二人暮らし。結婚と同時に新築マンションを購入したので、室内にはまだ3年目の真新しさがある。

 玄関で探偵と名乗った男は、意外にもプログラマーのような風貌の30才くらいの男で、どこかオドオドしている感じがあった。私はほっと胸を撫で下ろした。夫や親族以外の男性を家にあげるのは、これが初めてだったのである。

 探偵は座るなりノートPCを開いて、動画を私に見せた。画面の中のソファーに、目の前と同じ若い探偵が座っている。探偵はソファーの隣に座っている若い女性の肩を撫でて、しきりに慰めている。

 若い女性は涙を流しながら、酷い… あんなことをするなんて… 酷すぎるんです… と繰り返しては、こみあげてくる嗚咽を呑み込んでいた。探偵事務所に来た相談者が泣いている場面らしい。

「その女性は誰ですか?」と私が訊いた。

「メロンちゃんです」

「メロンちゃん」

 若い探偵はわざとらしく頭を掻いた。

「申し訳ありません。守秘義務で名前はお答えできないんです。このメロンちゃんの声を覚えておいてください」

 次に探偵は音声ファイルを再生した。

「おい、待てよ」と男が声を荒げている。女が「助けて!」と悲鳴を上げた。女を組み伏せるような音。ベッドがきしむ音がした。「やめて、やめて」と叫んでいる声は、どうやらメロンちゃんの声のようだ。

 探偵が大袈裟な手ぶりをして、音声の再生を止めた。

「次は、男性の声に注意して聞いてください」

 探偵が音声を再生すると、男の野卑な声が響き渡った。

「へっへっへっ、美味しそうな身体をしているじゃないか」

 私は幼稚園の頃からエレベーター式の私立の女子校を駆け上がっていったので、こんな下品な喋り方をする男は、知り合いにはいない。

「ほら、ほら…」

 しばらく聞いたところで、私は顔から血の気がすーっと引くのがわかった。メロンちゃんに乱暴している男の声が、夫にそっくりだったのである。

「ようやく大人しくなったな、仔猫ちゃん」

 私は両手で顔を覆って、泣き始めた。「仔猫ちゃん」は夫が「ダーリン」の代わりに使う愛用語だったのである。

 探偵は私の心の動きを察して、音声の再生を止めた。何度も頷きながら、こう慰めてきた。

「奥様が旦那さんのすべてをご存知だとは限りません。失礼ながら、奥様のように由緒ある育ちの美しい方には、話せないこともあるのだと思います。例えば、レイプが趣味だとかいったことは」

 女子高育ちの私は、夫が男性は夫しか知らない。口笛が好きだとか、霊感があるだとか、笑い上戸だとか、普通とは異なる部分があるのも知っていた。しかしまさか、商社で頭角を現し、遅くまで残業をこなす有能な夫に、犯罪行為をするような趣味があるとは、夢にも思わなかったのだ。

「メロンちゃんは、100万円で示談にしたいと言っています」

 探偵はその金額を笑みを浮かべながら言った。自分が安くまとめてきたという意味なのだろうか。確かに、告発されて職を失うのに比べれば、100万円は安かった。

 それから三回、合計で四回、その探偵と会った。二回目の音声では夫はメロンちゃんを殴り続けていた。三回目の音声では夫はメロンちゃんの首を絞めていた。四回目の音声では夫は私の身体を悪しざまにいって笑っていた。私は合計2000万円の示談金を払った。夫に相談しようとする気持ちは、二回目の音声で夫が嬉々として暴力を振るいつづけているのを聞いて、雲散霧消してしまった。

 何かがおかしかった。あるいは、何かがおかしくなった。

 それから数日後、夜遅くに残業を終えた夫が帰ってきた。夫は表情は疲れていたが、私の顔を見ると、とても嬉しそうに微笑んだ。

「ありがとう。ずっとここで待っていてくれたの?」

「お風呂になさる、ご飯になさる?」

「食事は済ませてきたんだ。朝シャワーを浴びるから、先に一緒に休まないか」

 スーツをハンガーにかけようとした夫が、私の方を振り向く。

「そんな薄着で大丈夫かい。風邪をひかないようにね」

 夫はどこまでも優しくて自然体だ。同じ男が女性にあんなに酷い暴力を振るうとは、信じられなかった。

 新婚以来、ずっと一緒に眠っているダブルベッドに、私たちは横になった。

「仕事で変わったことはない? 体調はどう? ストレスは解消できている?」

 何か手がかりをつかみたくて、私は夫へ質問を重ねた。けれど、どの問いにも、夫はそつのない答えをする。隠し事があるようには見えなかった。

「ごめん、ちょっと寒気がするんだ。風邪をうつしたくないから、和室でひとりで寝てもいいかな」

 今度は、私がそつなく「どうぞ」と答える番だった。何かがおかしいと感じた私は、しばらく待って、夫が寝静まったのを確認すると、夫の眠る和室に録音機を仕掛けた。

 翌朝、リビングで録音機を再生した。すると、やはり夫のおかしな言動が録音されていたのだ。

:マロンちゃん…

(きっと夢を見ながら寝言を言っているのね。びっくり! メロンちゃんだけじゃなくて、マロンちゃんという愛人もいるの!)

:もう口をつけてもいい?

(ショックだわ。この愛人ともキスする関係なのね)

:ふふ、嬉しい。(何かを吸う音)ああ、美味しい。夢みたいだ。

(汚らわしい! 妻以外の女の乳房に吸いつくなんて)

:これがなきゃ、生きていけないんだ。(何か液体をすする音)あ、温かい。熱いくらいだ。

(え? 液体の音がした。母乳を吸っているの? 母乳がなきゃ生きていけないの? 嗚呼、私の夫にそんな趣味があったなんて!)

:わかったよ。そばにいくよ。

(ん? 場所を移動したのかしら)

: いいんだよ。忙しくて、きみと話す時間を作れなかったぼくが悪い。

(何を話し合うつもりだったの? ひょっとして離婚話?)

:ぼくはのらりくらり仕事の話をしただけさ。特にどうっていうことのない女だよ。

(さっき仕事のことを訊いた私のことを言っているのね。酷い。その程度の扱いなの、私って)

莫迦だな。ぼくがきみ以外の女性を愛するはずがないじゃないか。もう本当に、きみしか見えないんだ。

(何だか、泣けてくる。結婚した私には、控え目な愛の言葉しか言ってくれなかったのに。どうしてそんなにマロンちゃんがいいの?)

:とても綺麗だよ。きみは世界一綺麗だ。ぼくはきみに逢えてとても幸せだよ。

(私… そこまで言ってもらったこと一度もない。マロンちゃんに負けて、ただひたすら悲しい)

:小さなクラッカーだから、崩れてしまうこともある。

(ん? お酒のおつまみの話?) 

ヤマザキナビスコ リッツ保存缶L 425g(85g×5パック)
 

:…そう、大切なものは目に見えないんだよ。

(マロンちゃんと、何か約束をしたの?) 

  私は音声を聞き終わったあと、茫然自失して、立ち上がれなくなった。ベランダの向こうの空は夕暮れて、やがて夜のとばりが降りてきた。私は電気もつけずに真っ暗な部屋の中でめそめそ泣いていた。夫が複数の愛人と異常な情事を持っていたという事実を、どうしても受け入れられなかったのだ。

 真っ暗なリビングの中で、何かの気配が動いた。はっとして、その方向を見ると、ひと目見てそうとわかる死神が立っていた。

「そろそろ気がつきましたか?」

「夫は私に隠れてふしだらな浮気をしていたんです」

「そうじゃなくて、今のあなたがどういう状態なのか?」

 闇の中でぼうっと白んでいる死神が、私に向かって誕生日ケーキの蝋燭を消すように、ふっと息を吹きかけた。すると、私の身体が煙のように奥へ飛ばされたのがわかった。

「ね?」

 死神はフランクな微笑を浮かべた。あなたは浮気の衝撃のせいで、そしてその直後に選んだ決定的な行動のせいで、記憶の一部が消し飛んでしまったんです。

「決定的な行動?」

 死神はベランダへ続くドアを開け放った。強い風が吹き込んで、カーテンが踊り狂った。22階の高さでは、洗濯物が干せないほど強い風が吹いているのだった。数日前、髪を振り乱して、数十分ものあいだ、自分がその風に吹かれていたのを、私は思い出した。そして、数十分後に自分がとった決定的な行動のことも思い出した。

 死神が扉を閉めたので、リビングに静寂が戻った。

「亡くなったときの感情を、幽霊はずっと抱えてしまうものなのです。あなたはその悲しみに合わせて、歪んだ眼鏡で思い出をなぞり返しているのです。あなたを解放してあげたい。オープンマインドで、あなたに本当に起きたことを、あなたは受け入れられますか?」

 私は悲しみを振り払って、死神の目をまっすぐに見た。それから、微笑んで頷いた。

 死神が指を鳴らすと、リビングの北側の白壁に、夫と私がいるのが見えた。このときの情景を、夫は何度も反芻してくれていたのにちがいなかった。

:マルちゃん…

:夜食はいつもカップ麺ね。

(そういえば、夫は大の「マルちゃん」好きだった。多忙で疲れて放心状態になっているとき、ふと「マルちゃん」と呟くほどだった)

:もう口をつけてもいい?

:もう、せっかちなんだから。いいわよ。

マルちゃん 正麺醤油味 525g
 

:ふふ、嬉しい。(何かを吸う音)ああ、美味しい。夢みたいだ。

:「夢」だって(と笑う)。別の夜食でもいいでしょうに。

:これがなきゃ、生きていけないんだ。(何か液体をすする音)あ、温かい。熱いくらいだ。

:食べ終わったら、ベッドで一緒に横になりましょう。話したいことがあるの。

:わかったよ。そばにいくよ。

:(しばらく啜り泣いて)ごめんなさい。私、取り返しのないことをしちゃった…

: いいんだよ。忙しくて、きみと話す時間を作れなかったぼくが悪い。

:あなたを信じるべきだったのに。私、悪辣なメロンちゃんたちに、すっかり騙されちゃって…

:ぼくはのらりくらり仕事の話をしただけさ。特にどうっていうことのない女だよ。

:まさか、雑談の音声ファイルを元に、あんなにリアルなレイプの合成音声が作れるなんて、知らなかったの。女の声も真に迫っていたから。

莫迦だな。ぼくがきみ以外の女性を愛するはずがないじゃないか。もう本当に、きみしか見えないんだ。

:いま、私のこと見えている? 幽霊になった私が、あなたにきちんと見えている?

:とても綺麗だよ。きみは世界一綺麗だ。ぼくはきみに逢えてとても幸せだよ。

:でも、私は莫迦な女。あんたを信頼しきれなかった…

:小さなクラックから、崩れてしまうこともある。

: あなたを信頼して話せば良かった。大切なものが見えていなかった… 
:…そう、大切なものは目に見えないんだよ。 

  数日前に話が通じた夫が、最後にそう言ってくれたとき、「大切なものは目に見えない」という言葉の粒が、私と夫との間できらきらと輝いて舞うのが見えたのを思い出した。

 もう逢えない。逢えないことがわかっているのに、私はどこか幸せだった。そのきらきらとした言葉の輝きが、夫の優しさと誠実さを物語って余りあったから。消えていく私を、夫がこれからも大切に思ってくれることが心の底へ響いてきたから。

 リビングの北の壁に投影されていた映画が消えた。私は夫と暮らした温かい空間と時間の記憶を心に刻んで、踵を返すと、22階のベランダの向こうの宙空で手招きしている死神の方へ、ゆっくりと歩みを進めていった。

短編小説「きみを幸せにする殺し屋」

 目醒めたとき、今日が何曜日かを思い出したくなった。月曜日だと思いあたって、あ、でも自分で開店したベーグル屋は先月倒産したんだった、もっと寝ようか。けれど、すぐ、今日から殺し屋の仕事をすることになっているのを思い出した。

 中学校の音楽教師をしている妻は、ぼくが起業したベーグル屋が倒産したことを知って、激昂した。勢いよく、マンションの10階のベランダへ続く扉を開けた。

「お前と一緒に生きていると、厭なことばかり起きるんだよ。今から飛び降りてやるから、うちの実家の父親に最初にいう台詞を今ここで練習しろ!」

 ぼくは肩をすくめて黙っていた。黙ったままでいると、妻は野良猫のようにとびかかってきて、ぼくにローキックを浴びせた。ぼくは左脚を押さえながら、こう言った。

「生まれてきてすみません」

 早く求職活動に取りかからなくては。新聞の求人広告にあった終末医療カウンセラーの面接会場へ、ぼくは翌日すぐに駆けつけた。不況の昨今、それが考えられないくらいの破格の条件だったからだ。

 面接開始の2時間前に着いたのに、1名の求人枠にすでに30人くらいの列ができている。それはやがて、ギネス記録を狙うドミノの列のように、どんどん長くなっていった。

 ぼくの面接の番が来た。

 面接官は黒いスーツを着た50代くらいの女性だった。スーツの黒い生地は、光線の加減で紫にも見える。女性は厳かに口を開いた。

「あなたがいらっしゃるのを、ずっと待っていました」

 ぼくはその意味を受け取り損ねて、黙っていた。女性は若い男性の部下に手振りで指示を出した。面接会場から退出した部下が、扉の向こうで長蛇の列に向かって、解散するよう大声で呼びかけているのが聞こえた。…申し訳ありません、本日募集の求人は、すでに採用枠が埋まりました、申し訳…

 どうやら、ぼくは即決で採用されたらしかった。ぼくは机の下の左脚を、少しだけ動かした。もう痛みはなかった。採用が決まったのなら、今後も蹴られて痛むこともないだろう。

 採用してもらったことを感謝したあと、ぼくは仕事の詳しい内容を訊いた。

「カウンセラーというより、殺し屋なのよ」

「ぼくには殺人はできません」

 そういって立ち上がったぼくの前に、若い男性部下が立ちはだかった。

「誰も殺さない。あなたは人を幸せにする殺し屋になるのよ。これはあなたにしかできない魂の仕事なの」

 鷹揚に腰かけたまま、女性はどこか神秘的な微笑を浮かべている。

「ここは宗教組織ですか?」

「いいえ。強いていうなら、能力者を中心とした互助組織ね」

 そう言ったときの女性の強い目の輝きから、ぼくは彼女が霊能力の持ち主なのだと直感した。彼女は事もなげに続けた。

「ヘルメスのご神託を実行しているだけ」

 そこで聞いた「ヘルメス」というギリシアの神の名前は、ぼくの記憶違いかもしれない。「ペルセウス」だったかもしれないし、「プロメテウス」だったかもしれない。

 とにかく、そこで「人を幸せにする殺し屋」の門外不出のノウハウを学んだぼくは、念願かなって正社員の殺し屋として生きていくことになったのだ。

 初めて渡された指令書の表には、40代の女性の名前が書かれていた。職業はキャバレーのママ。ぼくは単刀直入に「殺し屋」だと名乗った。

「冗談はよしてちょうだい。私は誰かに殺されるような女じゃないわ」

「逆です。殺したい相手は誰かいませんか? 費用は相談に乗ります」

 煙草をはさんでいる女の指が、小刻みに震えはじめた。

「秘密は守られます。報酬は完全後払いです。明日にでも、相手が死んだのを確認してから、お支払いいただいたのでかまいません」

 驚いたことに、その水商売の女が殺してほしいと頼んできたのは、15歳の実の娘だった。新しくできた年下の色男が、コブつきは厭だと言い張っているのだそうだ。本当は驚きはしなかった。指令所の裏に娘の名前が書いてあったからだ。「200万円しか払えない」と女が言ってきたので、ぼくは女に優しい口調で説明することができた。

「もっと安くてもかまわないんです。あなたが相手を殺したい度合いに応じて、報酬を設定してください。私たちはプロ中のプロです。人なんて簡単に殺せますから」

 結局、100万円で女はぼくに娘殺しを依頼した。ぼくはすぐに下請けの別れさせ屋を呼び出した。なにしろ、決行日は明日なのだ。20歳くらいの美男子は、100万円の予算の半分以上を使った豪勢なデートプランを立てた。別れさせ屋の報酬は、プラン予算に比例して上がるので、どうしても贅沢な暗殺プランになりやすい。

 ぼくは華奢で髪の長い若僧に向かってウィンクをした。それで行ってくれ、という合図だ。いずれにしろ、暗殺実行部隊はぼくたちではないのだ。

 翌日、学校をさぼって自転車に腰かけてぼんやりしている15歳に、若い男が近づいた。花束をもって、小綺麗なちょっとフォーマルな王子様風の格好をしている。若い男の胸ポケットには集音マイクが仕込んである。ぼくはそれをイヤホンで聞きながら、二人のあとを尾行した。

「プロポーズするはずだった彼女に、急にフラレちゃって…」

 若い男は、そんな映画のようなセリフを囁いている。風が強いせいか、二人の話し声は途切れ途切れになる。娘は「嘘、嘘!」と驚いた叫びをあげながら、とても幸福そうだ。そのあと、若い男は普段着の娘を連れて、高級ブティックで服を選び、美容室でパーマとメイクを奢ってやった。後日、その領収書はぼくへ送られてくることになっている。

 やがて、腕を組んで夜景の見えるレストランへ行った二人は、ホテルへは行かずに、都会のビルの谷間で別れた。中には、ベッドインしたがる別れさせ屋もいるが、そういうプランは組ませない規則になっている。というのも、別れさせ屋たちの精神状態がもたなくなるからだ。

 「絶対に連絡ちょうだいね!」

 まだ15歳なのに、娘はすっかり華やかな大人の美女に化けている。嬉しげな嬌声をあげて、別れさせ屋の男に手を振っている。若い男はにこやかに手を振って、踵を返した。すぐに街角を曲がって消えた。急いでいるのには理由があった。聞きたくない音があるのだ。

 美女に変身した娘の近くにいた私は、その音をはっきりと聞くことになった。それは暴走した車の激しいエンジンの唸りと、歩いていた酔客たちの怒鳴り声と、一人の若い女性の悲鳴だった。

 暗殺実行部隊が別だからと言って、どうしてそこまで淡々と、殺し屋稼業の実態を記録できるんだ! そう憤って、ぼくを非難したくなる人々の気持ちが、ぼくには痛いほどよくわかる。今ここで明確に書けるのは、殺し屋をはじめて、何人もの殺しを言い値で請け負うようになってから、ぼくがとても幸福になったことだ。

 職を得て、生き生きと働くようになったぼくに、妻はこう打ち明けた。

「この間はごめんなさい。あなたにキツく当たってしまって。あなたがあんなに一生懸命に打ち込んで開店したベーグル屋が、おかしな感じで潰されたのが、どうしても我慢できなかったの」

 内装も自分でセンチメートル単位まで設計した。ぼくにとっては夢の場所だった。開店当初は大人気だったし、2年半でこんなことになるなんて、確かに本当におかしな感じなのだ。

 妻にはほとんど真相を話していない。現在、閉店したベーグル屋の表の扉は、頑丈すぎる外付けの錠前で固定されている。それは不動産屋のものではなく、悪い奴に仕掛けられた悪戯だ。どう足掻いたって、閉店するしかなかった。その錠前の開け方をあちこち必死に探していて、ぼくは殺し屋の求人広告を見つけたのだった。

「私たち二人が力を合わせれば、きっとうまくやり直せるから」

 妻は泣きながら、ぼくを励まそうとした。その言葉を、ぼくはほとんど信じられない思いで聞いた。これまでローキックやボディーへのフックはもらうことがあっても、そんな優しい言葉なんて、かけてもらったことがなかったのだ。

「大丈夫だよ。いまの終末医療カウンセラーの仕事は、とてもぼくに合っているんだ。これから良いことばかりだよ」

  不確定な希望を語れるのは、幸福のしるしだ。いつになく、和やかな晩を過ごした翌日、ぼくは出社して、新しい指令書を受け取った。雑居ビルの一角にある小さな会社なのに、ぼくは一度も暗殺実行部隊らしき同僚に、出逢ったことがなかった。

 殺しを依頼されたターゲットのうち、事故死や転落死や自殺だけでなく、落雷によって突然死したケースに遭遇したとき、ぼくは自分を取り巻く世界と自分のやっている仕事の密やかな美しい連関に気づき始めていた。

 ヘルメスだか、ペルセウスだか、プロメテウスだか、忘れた。とにかく神託は本当に神々から降りていて、間もなく突然死する人とその人に消えてもらいたがっている人のワンペアを、ぼくらに伝えるのだ。そして、死の直前、後者の憎しみを前者の幸福へと変換するのが、ぼくらの愛すべき仕事なのだ。

 その日、指令書の封筒を渡されたとき、ぼくはどうして面接当日、あたかも呼ばれたかのように、選ばれたかのように、自分が採用されたかを悟った。封筒を持つ手が震えた。しかし、その封筒を封切らなくても、神の摂理は変わらない。ぼくは封筒を開けた。

予想された通り、殺しの標的の欄に妻の名が、殺しの依頼人の欄にぼくの名前が記されていた。そのまま膝が崩れて、しゃがみこんで、ぼくはしばらく泣いた。

 手持ちのクレジットカードはすべて凍結されていた。殺し屋は月給制なので、15人を殺しても、まだ給与は受け取っていなかった。交通費の一万円を手に、ぼくは二人で過ごす「最後の休日」を迎えた。

 妻の休日に合わせて、ぼくが休みを取ったのを知って、妻は大喜びした。ベーグル屋は繁華街の夜の蝶たち向けに、遅くまで営業していた。二人でゆっくりと過ごせるのは久しぶりだった。

 会社から入社お祝い金でもらったのだと言って、ぼくは妻に一万円を見せた。けれど、どこへ遊びに行こうと誘っても、妻は首を横に振って、大変なときだから取っておこうと繰り返すのだった。

 お金のかからない遊びをしようと妻が言ったので、近くの川べりへ散歩に出かけた。この2年半、ほとんど休日なしでベーグル屋に没頭していた。面白いところが好きだからと言われて結婚したのに、ぼくはいつしか、冗談らしい冗談をほとんど言わなくなっていた。

 ぼくは思いつく限りの冗談を言った。それもつまらないやつばかり。他人が聞いてもどうして可笑しいのかわからないような冗談ばかり。

 ぼくはニュースキャスターとコメンテーターを一人二役で演じた。

「ですから、たとえトランプ大統領『瓜坊』推進に舵を切ったとしても、諸外国は簡単には動かないでしょうね」

「要するに、どうしてここで急に『瓜坊』を唱えだしたか、国際社会の理解が得られてないわけですね」

  妻とぼくは腹を抱えて笑った。

 その昔、スピリチュアル好きのぼくの影響受けて、妻が「いま私の脳裡に『瓜坊』という言葉が降りてきた」と言い張ったことがあったのだ。何のことはない。それは霊感ではなく、テレビのニュース・キャスターが言っていた「自由貿易」という言葉を聞違えただけだったのだ。

 夜になって、ベッドに横になっても、ぼくと妻の冗談総集編は終わらなかった。Nyan Jovi をやってほしいと、リクエストされてしまった。

 その冗談の設定は、猫バンドが猫のくせに粋がって Bon Jovi を完全コピーしているが、格好をつけた最後の瞬間に、猫であることが露見してしまうというショートコントだ。ロング・ドライブの渋滞中、妻の心をほぐすために作ったジョークだった。

Shot through the heart
And you're to blame
Darlin', you give love a NYAO NYAO!

 またしても、妻とぼくは笑い転げた。たぶん笑いすぎたせいだろう、ぼくは涙目になってしまった。それを見て、また妻が笑った。ぼくも一緒になって笑った。

 やがて、妻は眠気を催したようだった。まだまだ冗談はあるよ、とぼくが声をかけると、無理して笑わせようとしなくていいのよ、と彼女は言った。そしてこう付け加えた。

「お金を全然使わなかったけれど、今日があなたといて、いちばん楽しかった。ありがとう」

 妻は眠ったようだった。このあと、彼女を心臓発作が襲うのだろうか。それとも、大地震が来て、ぼくも一緒に死ぬのだろうか。ぼくには何もわからなかった。

 毛布に顔を埋めてしばらく泣いたあと、ぼくは耳を澄ませて、妻の寝息をじっと聴いていた。それから、特別な計らいで今日のような幸福な一日を過ごさせてくれたことに、感謝の祈りを捧げた。ヘルメスだか、ペルセウスだか、プロメテウスに。

 

 

 

 

短編小説「恋敵のミルクティーの甘さよ」

 自分たちがバブルの中にいるのかどうかは、バブルの渦中にいてはわかりにくいらしい。とりわけ、ぼくのような入社3年目の平社員は、上司が矢継ぎ早に送ってくる仕事メールと催促メールにアップアップ。朝8時に出社して夜23時に退社するのが精一杯の毎日だった。

 経営好調を受けて、社員わずか50人のマテリアル開発会社に受付嬢がやってきた。藤花という名で、明るくハキハキ話す丸顔の美人だった。藤花が受付に座るのは朝9時から夕方17時まで。出社するときも退社するときも、ぼくが彼女に会うことはない。

 唯一、残業申請を通して、早めに夕ご飯を食べに出かける16時半、彼女の笑顔に出逢うことができた。「お疲れさまでございました」と藤花は丁寧な声をかけてくれる。何て良い子なんだ。きっと、ブリを生姜で煮つけて臭みを抜くタイプにちがいない。勝手に想像が膨らんでしまう。

 何とかして藤花に話しかけたい。そんな切実な願望を抱いたぼくは、夜中までかかって毎晩「洒脱な大人の会話」の想定問答集を作ることにした。そして、それを翌日試すことにした。

<洒脱な大人の会話①>

ぼく:梅雨どきの雨は嫌になるね。

藤花:ほんとうですね。でも半月もすれば、梅雨明けが来ますよ。

ぼく:でも、一年のうち、この日だけは梅雨を祝いたくなる日があるんだ。

藤花:あら、いつですか?

ぼく:8月9日。ハッピー・バースディ・梅雨

藤花:私の誕生日のお祝い? 嬉しい! 大好き!

  翌日、実践してみてわかったのは、会話が生き物だということだ。

 ぼくはこれまでの人生で、目標を立て、計画を立て、それを着実に実行する人生を送ってきた。受験でも就職でも会社でも、その生き方でそれなりにうまくやってきた。なのに、会話っていうやつは、どうしてあんなにもコントロールが難しいのか。

 

ぼく:梅雨どきの雨は嫌になるね。

藤花:ほんとうですね。でもずっと雨が降ってなかったから、草木には恵みの雨だと思うんです。

ぼく:じゃあ、新しく芽吹いた草木に、ハッピー・バースディ・梅雨。

藤花:(ふぅーっと宙に息を吹きかけて)草木を代表して、キャンドルを吹き消しておきました!

ぼく:……。

藤花:……お疲れさまでございました。

 会社のエントランスを出たとき、ぼくの心臓はまだドキドキしていた。自分のアドリブの効かなさが憎らしくてたまらない。あの無言部分に入れるべき台詞は、何だったのだろうか。前後の文脈と整合させるなら、「アハ! 今日でわかっちゃった、きみが花のように美しい理由が」。これかな。ピザすぎる。いや、気障すぎる。アドリブでは、ぼくには絶対に言えない台詞だ。女の子との会話って、何て難しいんだ。

 むむむ、そうか、花やガーデニングか。女子が好きなものを、会話構成要素のポートフォリオに織り込んでおくのを忘れていた。今晩は傾向と対策の練り直しだな。

<洒脱な大人の会話②>

ぼく:今日も残業になるんだ。

藤花:毎晩、大変ですね。

ぼく:今日なんか部長にこんな感じで渡されて、(と大量の書類を抱えるパントマイムをする)、両手が書類のさまざまな束さ、サマンサ・タバサが似合いそうだね、きみは。 

藤花:え? どうして私のタバサ好きがわかったんですか?

ぼく:想像力のタバサを広げていたら。、いつのまにか…

藤花:嬉しい! 私を選んでタバサはためかせて飛んできてくれた小鳥、大好き! 

 しかし、どうしてなのだろう。深夜までかかって、練り上げた想定問答集なのに、実践してみると、全然うまくいかない。ぼくの渾身の「傾向と対策」が、どうしても通用しない。なぜだ、神よ。

ぼく:今日も残業になるんだ。

藤花:毎晩、大変ですね。

ぼく:今日なんか部長にこんな感じで渡されて、(と大量の書類を抱えるパントマイムをする)、両手が書類のさまざまな束さ、サマンサ・タバサが似合いそうだね、きみは。 

藤花:え? どうしてサマンサ・タバサの話になったんですか? あ、彼女さんのことばかり、考えていたんでしょう?

ぼく:いや、いま彼女はいないんだ。

藤花:じゃあ、昔の思い出を引っぱっているんですね。昔の女じゃなくて、この会社を引っぱっていってくださいね。

ぼく:……。

藤花:……お疲れさまでございました。

  ああ、悔しい。またアドリブが効かなかった! あの無言部分に入れるべき台詞は、何だったのだろうか。前後の文脈と整合させるなら、「『この会社を引っぱって』なんて言われたら、正直 pull っちゃうし、照れちゃうよ。本当はきみに『一緒に旅行へ行こう』って push するつもりだったけど、今晩はシン pull に仕事に打ち込むことにするよ。おやすみ、ぼくの pull ンセス」。こうかな。ピザすぎる。いや、気障すぎる。アドリブでは、ぼくには絶対に言えない台詞だ。女の子との会話って、何て難しいんだ。

 そうぶつぶつ呟きながら、会社の近くの定食屋でメモ帳に反省点を記していると、男が相席してきた。同じ会社の同期の峰岸だ。

「よう。相変わらず、仕事熱心だね。睡眠不足に見えるけど、体調は大丈夫?」

 ぼくは「大丈夫だ」と答えて微笑しながら、さりげなく峰岸を観察した。峰岸の表情には何の気負いもなさそうだ。自然体で、生姜焼き定食を注文した。自然体で男前というのは、実に羨ましい種族だ。どんな「傾向と対策」をもって臨めば、こんな風に自然にいい男になるのだろうか。

「実は、残業前のこの夕食、オレもこの食堂でいつもきみと同じ時間に食べてるんだ。これからは同席してもいいかな」

「もちろん、歓迎、歓迎。仕事の話でもしようよ」

「いや、仕事の話は、ここでは遠慮したいかな。いつも仕事のことで、頭がいっぱいだから」

 隣の峰岸の部署も、かなり忙しいのは間違いない。ぼくと同じように毎晩終電近くまで残業しているらしい。同じように、ぼくが気になったのも、仕事以外の話。峰岸がわざわざ16時半から夕食を食べに外出しているという事実だった。ぼくと同じような企みを抱いているのにちがいない。

「新しく受付に座っている藤花ちゃんだけど、話したことある?」

「時々話すかな。入社したてで緊張しているみたいだから。この間は、たまたまコンビニであたったミルクティーをあげたら、喜んでくれたよ。たぶん、良い子だ」

 くすくす。さっそく馬脚を現したな。「恋敵」と書いて「ライバル」と読むべき男と、早くもご対面だ。ぼくは彼女が喜んだというミルクティーの銘柄を聞き出した。 

 ふふふ。「たまたま当たった」なんて可愛らしい嘘をついちゃって。お洒落なパッケージに、人気あふれる口コミ。口説きたくて奢ったに決まっているじゃないか。とりあえず、ぼくの人生経験から言って、「『午後の紅茶』以外の奢りはすべて口説き」。これを結論にしておこう。 

 それから、ぼくは毎日のように、定食屋で峰岸と一緒に夕食を食べるようになった。ぼくは没頭しやすいスペシャリスト型、峰岸は視野の広いジェネラリスト型。タイプは正反対だったが、仕事の話になると、ずいぶんウマが合った。

「ナノテク材料は次の時代に絶対に来ますから、仕事ぶりに期待していますよ」

 峰岸はそんなフランクな激励もくれた。心を許しそうにもなったが、休憩を前倒ししているのは、社内でぼくと峰岸の二人だけ。不審に思ったぼくは、少し先に一階まで降りて、峰岸がどんなふうに藤花に接するかを盗み見ることにした。

峰岸:天気予報では晴れだったのに、結局今日も降ってきちゃったね。

藤花:そうなんですよ。ランチに出かけた帰りに、急に本降りになったせいで、パンプスの先の靴下がぐしょ濡れになっちゃって。

峰岸:靴下がどうなったって? 

藤花:ぐしょ濡れになっちゃっ…

峰岸:OK、もういい。ありがとう、何だか元気が出たよ。明日の仕事も頑張れそうだ。

藤花:そういうこと言わせるんなら、峰岸さんとはもう口を利きませんから!

峰岸:それは困るな。本当?

藤花:本当です。

峰岸:口を利いちゃった! 可愛いんだね。ごめん、からかって。一日中ほとんど誰とも喋らないから、つらいんじゃないかと思って。おやすみ、可愛い子ちゃん。 

 ぼくは裏の廊下で、その会話の一部始終を目撃して、したたかにショックを受けてしまった。想像しうる限り、完璧な洒脱な会話だった。神は美男だけにセクハラ権を与えたもうたのだ。しかも、それをつぶさにメモしようとして、メモ帳をどこかに忘れてきたことに気付いた。泣きっ面に蜂だ。

 自分があんなことを言えるようになる日は、永遠に来ないに決まっている。どんなに入念に「傾向と対策」を準備しても、峰岸にはかなわない。同期の男に藤花を奪われると思うと、胸が締めつけられるように痛くなり、朦朧としてきた。

 いや、その霞んだ意識の中でも、想定問答集に頼らず、その場で誠実な言葉を伝えて、藤花を旅行に誘おうとする不屈の魂が震えているのを、ぼくは感じた。

 ……そして、次にぼくが目覚めたのは、翌々日の日曜日、病院のベッドの上だった。医師は不整脈で倒れたのだと説明した。ベッドの横の椅子に、峰岸が座っていた。

「働きすぎだとさ。明日の月曜日は、休みたかったら休んでもいいと部長は言っている。どうする?」

 迷った挙句、ぼくはいつも通り出社した。そしていつも通り、早い夕食休憩に一階へ降りると、藤花が心配そうに話しかけてきた。

「病院へ運ばれたって聞きました。身体は大丈夫ですか?」

 彼女の美しい笑顔を見ても、どうしてだか今日はいつものように緊張しなかった。そのまますらすらと、こう言った。

「藤花さん、次の週末にぼくと箱根旅行へ行ってもらえませんか? ずっと、あなたのことが好きだったんです」

 ぼくの誘いの言葉を聞いたとき、藤花の明るい笑顔が、急に悲しみに歪んだ。いま、何て言いました?と、ほとんど聞こえない微かな声が唇から洩れた。

 エレベーターの現在地ランプが5階から降りはじめた。乗っているのは、峰岸だろう。旅行に誘っている場面を、あいつには聞かれたくない。ぼくは快活にこう繰り返した。

「一緒に箱根旅行へ行きませんか?」

 藤花はハンカチで目尻の涙をぬぐって、表情を明るく立て直した。それから、受付の椅子から立ち上がって、ぼくの首に細い腕を回してきた。そして、こう囁いたのである。

莫迦ね。働きすぎは身体に毒よ。私たちは一昨晩、一緒に箱根へ行って、もう結ばれたのよ。帰りの新幹線で倒れたあなたは、最初は意識があったの。峰岸さんが病院へ運んでくれた」

 ぼくはエレベーターの現在地ランプが1階へ近づいてくるのを見た。

「あなたがどれほど私を愛しているかを教えてくれたのも、峰岸さんなの」 

  ぼくはいつもメモ帳を入れている胸ポケットを叩いて、そこが空っぽなのを確認した。想定問答集を書き込んだメモ帳が、今どこにあるのかを悟った。

 まもなく「恋敵」を乗せたエレベーターの扉は開くだろう。けれど、そんなことはもうどうでもいいことのように感じられたので、ぼくは彼女の身体に腕を回して、唇を重ねた。