短編小説「真ん中がとびっきり美味しいドーナツ」

 同級生の葉子に、高校の廊下で声をかけられたとき、私は少し驚いた。私はチアリーダー部で、葉子は茶道部。文化圏の違う女子なので、これまでほとんど話をしたことがなかったのだ。葉子は私にお願いがあるのだという。

「ごめんなさい。今日からテスト週間で部活はお休みでしょう? うちの兄貴があなたと、30分でいいから話をしたいって言っているの。好きな飲み物をヴェンティで頼んでいいから、駅前のスタバでお話に付き合ってあげてくれない?」

 葉子に去年同じ高校を卒業した兄がいることは初耳だった。きっと目立たない性格の男子だったのだろう。私は葉子にどういう人なのかを訊いた。

「大人しいけれど、多趣味で面白くて、喋るのは好きみたい。欠点は、ちょっと前置きが長いことかな」

 私の脳裡に、緑のストローが刺さったマンゴー・フラペチーノが浮かんだ。スターバックスはテイクアウトだってできる。気に入らなければ、マンゴーフラペチーノを片手に店を出ればいいだけのことだろう。

 スターバックスの待ち合わせ場所には、眼鏡をかけた大学生のお兄さんが立っていた。私たちは自己紹介を済ませると、注文の列に並んだ。すると、さっそくお兄さんが喋り出した。

「ス… ス… あれ?何て言ったかな。スイスイ… そうだ。スイスイスーダララッタスラスラスイスイスイ」

「スーダラ節がどうかしたんですか?」

「スイスイ… というわけで、水分補給は大事ですね。ぼくたちの身体の半分以上は水でできているから。飲み物は何にする?」

 私は笑いを噛み殺しきれなくなって、手で口を覆って隠した。葉子が言っていた「前置きが長い」というのは、こういうことなのか。稀に見る不思議くんに遭遇してしまったのかもしれない。私は人間観察欲求が疼きはじめるのを感じた。

 お兄さんの独特すぎる前置き癖は、席に着いてからも続いた。

「ス… ス… スカイ・ラブ・ハリケーンって知っている? いや、ワールドカップを観戦していて、日本のサッカーアニメで育った選手がいっぱいいるのに、誰もスカイ・ラブ・ハリケーンをやろうとしないのが、少し淋しいなと思って。最近のサッカー選手が重視するのはアジリティー(敏捷性)らしい。ビッチにはアジリティーを、社会にはアジール(避難所)を。きみがこの街角のアジールにいられる時間は、あとどれくらい?」

 それにしても不思議な会話スタイルだ。お兄さんは前置きが長い性格なのではなく、単刀直入にズバッと言うのが苦手なのではないだろうか。私はお兄さんが会話の端々で、私に気付かれないように、左手の手のひらをちらちら見るのに気づいていた。手のひらに会話の鍵言葉がメモしてあるのだろう。かなり奥手の男性に見えた。

「そうか。30分しかないなら、急がなきゃ。本題に入るよ。このあいだ、従兄弟の結婚式に参列したとき、教会で合唱隊が讃美歌を歌うのを聞いたんだ。アカペラじゃなくて、弦楽器とピアノの生演奏も入っていたから、心に響いた。すると、新郎新婦を見つめているぼくの視野に、透明な数字が明滅し始めた。筆算の足し算や引き算がうっすらと浮かんでは消える感じ。ぼくは自分で自分を疑ったよ。従兄弟の結婚式で、ぼくの潜在意識は何を計算しはじめたのだろうって。不思議で仕方なかったんだ。

 生演奏の歌が続いている間じゃなきゃ、思い出せない気がしたので、ぼくは必死に記憶を掘り起こそうとした。その記憶は深いところで見つかった。

 ぼくが小学校三年生のときの話。公文式の数学教室に通っていたぼくは、自宅兼教室をやっていた阿部先生のお嬢さんのことを好きになった。小学校三年生くらいだと、まだ親に何でも話す時期だ。友達のネットワークと母親のネットワークが連動して、すぐに噂は広まってしまった。小学校三年生のくせに、お互いがお互いを意識し始めた。

 最大の影響は、ぼくが公文式の算数に真剣に打ち込み始めたことだろう。教室で阿部先生に認められれば、お嬢さんの繭子ちゃんに近づけるような気がしたんだ。ぼくは公文式のプリントを凝視した。並んでいる問題をただ順番に解くのではなく、計算問題の相互間に法則性があることを見抜いて、いつも教室で一番に解き終えた。その初恋がぼくにメタ問題認知を教えてくれたというわけさ。

 阿部先生は成績抜群のぼくに好感を持ってくれたようだった。何と、ぼくは生まれて初めてのラブレターを、友人づてに繭子ちゃんからもらったのだ。それが、小学生のぼくが初めて母親に隠した秘密だった。

 ところが、阿部先生の一家が仕事でアメリカへ引っ越すことになってしまった。ラブレターはアメリカからも届いた。手紙の中身に阿部先生の検閲は入っていなかったようだ。なにしろ「いつか日本へ帰って、ぼくと結婚したい」と書いてあったから。ぼくも「結婚しよう」と返事を送った。

 アメリカへ移住した当初は、一年間だと聞いていたのに、繭子ちゃんが帰国したのは、二年後。ぼくたちが小学校六年生になってからだった。待ちに待った再会のその日、ぼくは衝撃を受けて気分が悪くなって、帰宅して寝込んでしまった。小柄で可憐な細面だった繭子ちゃんは、身長も体重もぼくより巨大化して、やたら活発で声の大きなドラえもんみたいになっていたのだ。同級生の誰もが、その変貌ぶりに驚いた。「アメリカ人にすり替えられた」と囁く男子もいた。

 小学生のぼくは幻想を打ち砕かれて、酷く傷ついた。国際線が飛ぶほどの遠距離は、人の運命を変えてしまうこともあるんだと思い知ったんだ。

 かといって、変わってしまったその運命が、むしろ幸運へとつづくことだってあると思うんだ。あの時のショックでしばらく本気の恋から遠ざかったからこそ、19歳の今、本気の恋に出逢えたのかもしれない。そんなことを考えながら、ぼくは従兄弟の結婚式で「アベ・マリア」を聞いていたというわけさ。

 国際線が飛ぶ遠距離が人の運命を変えてしまうといえば、面白い話があるんだ。ボサノバはブラジル発祥だというのが定説のようだけど、厳密にはアメリカ西海岸にルーツがある。サンバに飽き足らないブラジル気鋭の若手ミュージシャンたちが、ジェリー・マリガンチェット・ベイカーを聴き漁ったのが発端さ。どうして西海岸のジャズだったと思う? いや、時代は50年代半ばだ。コタh\絵は意外なところにある。

 当時すでに、西海岸とブラジルを結ぶ空の直行便があったからなんだ。このアルメイダのドーナツ盤も、帰省者の手荷物で25枚も空輸されて、ブラジルの音楽家たちに行き渡ったらしい。マイルドでリラックスできる素敵な曲だろう? ボサノバを生んだのは空飛ぶドーナツ盤というわけ。そこから世界的なボサノバ・ブームが始まった。国際線が飛ぶほどの遠距離は、やはり人の運命を変えてしまうんだね。

 ……お兄さんの長広舌を何とか無事に聞き終えた私は、こう訊かずにはいられなかった。

「今のが、本題? 今日私を呼び出したのは『空飛ぶドーナツ盤』のことを話すためだったんですか?」

「ごめん、厳密に言うと、本題はまだ終わっていない。きみに訊きたかったのは、この質問だ」

 そう言うと、お兄さんは軽く咳払いして、喉の調子を整えた。

「どう? 夏になったら、どこかへ遊びに行かない?」

 私は虚を突かれて絶句してしまった。

 ここまでの長話のすべてが「どう?夏」を呼び出すための前置きだったらしいのだ。この人は不思議な感性の持ち主だ。私は呆れるのを通り越して、お兄さんに興味を感じはじめた。

「本当ですか? 実は今のも前置きなんじゃないですか? そうだ。私は手相がわかるんです。その左手を見せてくださいよ」

 お兄さんは一瞬たじろいで、左手を引込めようとした。私は何も意地悪をしようとしたわけではない。手のひらにカンペのメモ書きがあるなら、それを話のきっかけにして、もっと面白い話を聞かせてもらおうと思ったのだ。

「私、女の子の手も握れないような男性は、好きじゃないかもしれません」

 お兄さんはうつむいたまま、観念したかのように、マジック書きのある左手を私に示した。ところが、手のひらに書かれていたのは、話の種になる鍵言葉ではなかった。マジックでこう書かれていたのだ。

はい。ぼくは決断力と行動力のある男の子です! 好きな人には必ず好きだと言えます!

 スーダラ節やスカイ・ラブ・ハリケーンがどうして話題にのぼったのかを、私は理解した。年上のお兄さんがすっかり可愛らしく感じられて、彼の手のひらのマジック書きが見えなくなるように、その上に私の手のひらを重ねて握った。

「素敵な手相ですね。特に運命線がとても良いみたい」

 お兄さんは、ほっと安堵したようだった。私の手を握り返して、何か言おうとした。けれど、言葉が見つからない。私が言葉をつづけた。

「夏になったら、どこかへ一緒に遊びに行きましょう。その代わり、真ん中がとびっきり美味しいドーナツをご馳走してくださいね」

 私が笑うと、お兄さんも笑った。謎めいたお願いをしておけば、きっとこの人なら、また夏に面白い話を聞かせてくれるだろう。それを想像すると、私のくすくす笑いはなかなか終わりそうもなかった。

 

 

[参考文献] 

短編小説「ドアノーの裏のキス写真」

 半地下の凝った空間デザインとか、コンクリート打ちっぱなしとか、白木蓮のシンボル・ツリーとか。両親に子供の頃によく連れて行ってもらったおかげで、街一番のフレンチ・レストランは、見覚えのある馴染みの店だ。といっても、大学院で経営学修士号をとって、父の建設会社に取締役として入社してからは、一度も訪れてはいない。

 ひとり暮らしを始めたのだから、羽根を伸ばして遊び回っても良いはず。なのに浮かない顔をして部屋で膝を抱えていることが多いのは、地元のエステ会社を経営する美女に一目惚れしてしまったからだ。知り合いの結婚式の二次会で実也美と出逢ったとき、彼女は華やかな取り巻きに囲まれていたので、ぼくはひと言も話しかけられなかった。ぼくは何度も彼女の美しい唇を盗み見た。

 それから一か月。仕事が急に手につかなくなったぼくは、実也美と付き合いのある知人に、相談に乗ってもらうことにした。景浦という名の男がつかまったのは幸運だった。海外を飛び回るイベント・プロモーターなので、この街にいないことも多いのだという。やけに陽気な40代独身だった。

「それで、直樹くんは実也美ちゃんとどうなりたいの?」

 のっけから景浦さんは単刀直入に訊いてきた。

「どうって… 実也美さんはぼくより6歳年上ですし、まずは知り合うところから始めて…」

「ははは。要するに、ドアノーのパリの写真みたいになりたいんだろう?」 

ロベール・ドアノー (アイコン・シリーズ)

ロベール・ドアノー (アイコン・シリーズ)

 

「あ、見たことある写真です。この瞬間の二人は素敵ですね。でもぼくは、道端でキスなんてできる気がしません」

「固い、固い。食べ忘れた一週間前のバゲットか、きみは。真面目すぎるんだよ。実也美ちゃんは、かなりの仏蘭西好きなんだぜ。もっと俺みたいにフランスかぶれにならなきゃ。だからこうやって、今晩はフレンチ・レストランの個室で話し込んでいるというわけ。メルシー、ぼく」

「いま誰に『ありがとう』をいったんですか?」

「もちろん、この素敵なディナーを設定した『ぼく』にさ。さすがはぼく!っていう感じ。実也美ちゃんのことが大好きなら、他のものへ脇目を振らずに、彼女が好きなものに一緒にのめりこむのが鉄則だ。いわば、見ざる、聞かざる、マドモワゼルだ」

 景浦さんは大声で笑った。少しも可笑しくなかったが、ぼくも何とか愛想笑いをした。

「OK。フランス文化に疎いのなら、ビジネスの話を先にしよう。実也美ちゃんは安い女じゃないぜ。直樹くんが交際費に計上できるのは、最大いくらだ」

 ぼくの役職は取締役だったが、社長の父に頼めば、交際費の融通は利きそうだった。

「最大で、月に100万円くらいでしょうか」

「!」

 口に含んでいたペリエがむせたらしく、景浦さんはナプキンで口を拭いた。

「そんなに使えるのか! 会社で経理計算をしているだけなのに?」

「両親が裕福なところだけが、ぼくの取り柄です。こんなぼくでも、実也美さんと釣り合いますか?」

「大丈夫だ。やり方次第では、Ca va, ca va. これは転がるぞ。全額つぎこめば、ドアノーばりのキスまでは行けそうな気がしてきた」

「え? 本当ですか? 実也美さんとキスできるかもしれないんですか?」

「軍資金は充分だ。あとはきみの心の準備さえ整えばね」

「心の準備なら、死ぬ気で整えます」

「死ぬ気とは、いい言葉を聞かせてもらった。今の言葉を忘れるなよ」

「景浦さん、教えてください! どうすれば、最短でキスまで辿り着けますか?」

「いいか、基本設定はたったの二つだ。相手が世界で一番イイ女だと前提したときに、自然な言葉を言う。自分が世界で一番イイ男だと前提したときに、自然な言葉を言う。たったのこれだけだ」

「せ、世界一ですか」

「大事なのは心意気よ。よし、俺が実也美ちゃん役をやってやるから、今から早速練習しようじゃないか」

 景浦さんが人差し指の先を自分の顎にあてて、しなを作った。

「ねえ、私の時間を三日あなたにあげるっていったら、直樹くんは私にどんな三日間をプレゼントしてくれるの?」

「海外に飛ぼう。バーバリー一生懸命仕事したあとは、国内でグッチをこぼすんじゃなくて、南の島の海の自然美ィトンおいしい食事にありついて、よっシャ寝ルぞ!と快眠したいね。ベッドはツインじゃなくてダブルガ理想さ。翌朝は高級ブティック街を街プラダ
「素敵! 私が好きなものなら何でも買ってくれる?」
「もちろんさ。ぼくが選んだきみだもの。きみがあまりにも臨機応変ディー他の男に目移りしなければね」
「酷い! 何それ? 私が男を手当たり次第に乗り換えるような、心ブサイクな女だっていうの?」
「ごめん。もういイ、『ブサイク論』はいラン! きみが美しすぎて不安で、心が白から黒エ、行ったり来たりしちゃうんだ」
「さっきみたいな酷いことをいうんなら、私はもうあなたとは二度と遊んであげないから」
「そんなドルチェ&バッカーナ!」
「私の機嫌が直るように、可愛く謝ってよ」
「吾輩は猫ディオール許してニャン!」

 

 ……やりきった。世界一イイ女を、それにふさわしい絢爛豪華な煌びやかさでもてなすことができた。きっと実也美さんも気に入ってくれるにちがいない。いずれにしろ、男は最後までやりきることが大事なのだ。

 景浦さんが立ち上がって、ぼくに握手を求めてきた。

「素晴らしい状況対応能力だった。まさかきみがここまでやるとはね。間違いなく、ドアノーばりのキスまで到達する逸材だよ、きみは」

「え? そんなに良かったですか?」

「完璧だった。いや、むしろフランス語でパフェと言い直すべきだろうな。さらにもう少し言葉を足そうか。ちなみにカフェオレは『coffee to milk』という意味のフランス語だ。少しアレンジしよう」

「パフェ俺!」

「その通り! 勘まで冴えてきたじゃないか。まさしく言うことなしだ」

 景浦さんは満面の笑みを浮かべて、ぼくに着席するよう促した。そして、最後に印象的な逸話を付け加えたのだった。 

セーヌ左岸の恋

セーヌ左岸の恋

 

 あのドアノーのキスの写真には裏がある。同じ時代に、ドアノーの裏にはエルスケンという写真家がいたんだ。エルスケンが夢中になって撮ったのは、ホームレスの踊り子メイヤースの写真。アイシャドーの女王の異名をとる女だった。無数の恋人がいて、写真家のエルスケンもそのひとり。エルスケンはメイヤースにぞっこんで、彼女が他の男とデートしているときも、飼い犬のようについていった。ただ、彼女がアメリカ人水兵と遊ぶのだけは気に入らなくて、二人がレストランで食事をしているとき、隣の席で暴飲暴食して、勘定書きを水兵に回そうとした。そのまま無銭飲食でつかまって投獄されたんだ。
 女王の犬だったその写真家が撮ったキスが、これだ。 

 なあ、今の話でいちばん大事なことが何かわかるか?

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(画像引用元:http://www.editions-treville.com/artbooks/blog/archives/cat3/index.html


 ……ドアノーの写真には、街角でキスするカップルが写っていた。エルスケンの写真に写っていたのは、鏡にキスをする踊り子の姿だった。ぼくは上機嫌の余韻の中ですらすらとこう答えた。

「ホームレスの踊り子が、自分しか愛せない女だったということでしょう」

「残念ながら、はずれだ。正解はじきにわかるよ」

 景浦さんがそう言い終わるか終わらないかのうちに、他に客のいなかったフレンチ・レストランに、十数名の酔客が雪崩れこんできた。集団にはアコーディオン弾きも交じっていて、酔客たちががなりちらしたので、静かだった空間はあっという間に騒然となった。

 酔客たちの中から、屈強な若者が二人現れて、ぼくを左右から羽交い絞めにした。誰もが酔った赤ら顔で大笑いしている。左右の若者がぼくの身体を抑え込んでいるのとは逆の手で、ぼくの脇腹をくすぐりはじめた。

「はは! ははは! やめてくれ。くすぐったい!」

 しかし、男たちは一向にくすぐるのをやめようとしない。ぼくは気がふれたように笑いつづけた。ふと、男たちのくすぐりが止まった。ぼくが肩で息をして呼吸を整えていると、向こうから綺麗な身なりをした美女が、ぼくの方へ向かって歩いてきた。実也美さんだった。彼女はぼくに向かって艶然と微笑みかけると、ぼくにこう訊いた。

「私にキスしてもらいたい?」

 ぼくは魔物に魅入られたかのように、こくりと頷いた。

 実也美さんが帽子を取った。そして、まとめていたロングヘアをほどいた。魅惑的な香水の香りが漂ってきて、ぼくの鼻腔をひくつかせた。実也美さんがぼくへ向かって顔を近づけた。そして不意に酔いが回ってきたかのように、うっとりと目を閉じた。

 次の瞬間、左右の若者が猛然とくすぐりを再開した。ぼくはひいひい言いながら、やめてくれと何度も叫んだ。

 景浦さんが実也美さんに「まだ心の準備ができていないようです」と報告しているのが聞こえた。それを聞いても、実也美さんはあくまでも優しかった。くすぐりを止めるよう左右の若者に合図を出すと、もう一度ぼくに質問した。

「本当に私とキスしたいの?」

 過呼吸のせいで声が出せなくなっているぼくは、性急に何度も頷いて見せた。

「いいわよ。目を瞑って」

 実也美さんの美しい顔が、ぼくの目の前に迫ってくるのが見えた。ぼくは陶然として目を閉じた。次の瞬間、左右の男たちが猛然とくすぐりを再開したので、ぼくはのたうち回って悶絶しそうになった。

 レストランの中の誰もが笑っていた。給仕たちですら笑っていた。酒や料理が次々に運ばれてくるのが見えた。実也美さんは、何度もぼくのそばへ来て、酒を呑ませてくれたり、ピザの切れはしを食べさせてくれたりした。くすぐりが一段落して、落ち着きを取り戻したぼくが、彼女に求愛しようとするたびに、くすぐりが再開された。ぼくはドアノーの裏側にいた写真家が無銭飲食をした逸話を思い出していた。この宴会を丸抱えしたら、いくらになるのだろう。

 朦朧とする意識の中で、どうしてだかぼくは幸福だった。自分がこれほどたくさん笑った夜はないような気がしていた。笑って、笑って、笑っている間に、夢にまで見た美しい女性が、笑っているぼくを見て笑いながら、ぼくに美酒を呑ませてくれるのだった。

 朝まで続いたどんちゃん騒ぎの中で、ぼくが最後に言った台詞は、きっとこれだったと思う。

「パフェ俺!」 

 

 

 

 

 

 

短編小説「箱庭で見つかった失われたリンク」

 信号待ちのあいだ、助手席に座っている私は、サイドミラーに写っている歩道の花々を見つめていた。赤や黄の賑やかな寄せ植えが、歩道沿いを飾っていた。彼とイギリスに行ったとき、花飾りは一階の窓辺や二階の高さに浮いていることが多かった。

 信号が青になったので、彼がアクセルを踏んだ。鏡の中の花々は急速に縮んで見えなくなった。大人になってから、自分の卒業した小学校を訪れると、縮小模型を見せられているような気分になる。自分の身体が大きくなったせいだと頭ではわかっていても、小学校と一緒に何か大切なものまでが縮んで、失われたような気がしてしまう。

 ホテルまで彼に車で送ってもらうと、私はホテルのレストランに入って、先に紅茶を注文した。約束の時間通りに、高校時代の親友の香織がやってきた。

 私は心理学専攻の東京の大学院生で、香織は地元の信金に就職した社会人二年生だった。女性をクリスマスケーキに例えて、24才がその頂点だと嘯く男たちがいる。そういう男どもには新年が来なければいいと痛切に思う。といっても、私と香織は24才だったから、不機嫌になる理由はどこにもなかった。

 高校時代はいつも一緒にいたのに、卒業してからは香織と数回しか会っていない。私が東京の大学生活が忙しくて、南九州の地元にほとんど帰省しなかったせいだ。少女趣味ののんびり屋さんだった香織もメイクが変わって、立派に大人の仲間入りをした雰囲気がある。

 お互いの近況をキャッチアップしあったあと、私は本題を切り出した。

「ここの三段重ねのティースタンドは豪華で絶品なの。私が奢るから、香織の初恋の話を聞かせてよ」

「なに言っているのよ。杏子は全部知っているじゃない」

 香織と私は、高校2年のクラス替えで謙くんと一緒になった。その4月から卒業までの2年間、香織は謙くんにゾッコンだったのだ。恥ずかしがり屋でおっちょこちょいな香織は、私を恋の参謀役に指名した。受験勉強そっちのけで、二人で謙くんに恋のトリックを仕掛けた二年間は大笑いだらけの最高の青春時代だった。

 アイコンタクトをしたり、話しかけたり、好きな音楽を交換しあったり。普通の女子高生がすることは何でもやったが、学年一の美男子の謙くんは、女子からのアプローチに慣れているのか、いつも自然に応対して、長い脚ですたすたと自然に歩み去っていった。

 「恋の参謀役」である私が最初に仕掛けたのは、運動会の打ち上げで、皆で焼肉に行ったときのこと。仕掛けはサブリミナル恋愛術だった。言葉に二つの意味を持たせる難しいテクニックだったが、事前に想定問答を猛特訓していた香織は上出来だった。

「謙くん、わたし熱いプレートが怖いから、鉄板の私のところに、オイルを塗ってくれない?」

「いいよ」

「ずいぶん優しく塗ってくれるのね。ありがとう」

「優しいって、普通に塗っているだけだよ」

「そういう普通に優しいところが、女の子はいちばん嬉しいの。これで、きっとこんがりいい色に焼けると思うわ。いつかまたオイルを塗ってね」

「いつかまた?」

「私たちにまた海開きの夏がやってくるわ」

「夏?」

 10月の運動会当日、なぜか次の夏の話をしたのは、焼肉プレートに油を引いてもらう作業と、ビーチでサンオイルを背中に塗ってもらう作業を、サブリミナルに重ねたからだ。普通の思春期の男子なら、うまく返事をできなくても、うつむいてニヤニヤしたりするものだ。けれど、私の観察する限りでは、謙くんのクールな表情は鉄壁のままだった。規格外の美男子は、ハートもずばぬけて男前なのだろうか。

 悔しくなった私が次に仕掛けたのは、名付けて「不思議ちゃんドキドキ大作戦」。香織のふわっとしたおっちょこちょいぶりを可愛らしく演出した仕掛けだった。制服のスカートのファスナー部分を、左サイドから真後ろへ回してそこから、おもちゃの三毛猫の尻尾を垂らしたのだ。放課後の教室で謙くんが香織の尻尾に気が付いた。

「おい、それどうしたの? 何かのコスプレ?」

 振り返った香織は、素知らぬ顔をしている。

「え? 何かゴミでもついている?」

「いや、尻尾がついているよ。ほら」

 謙くんに尻尾をつかまれた途端、香織はハートマークつきの嬌声をあげた。ああいう少女声をあげさせると、香織は本当にうまい。

「やだ、わたしったら、いけない子。見えちゃってた」

 急いでファスナー部分から尻尾をスカートの中へしまうと、香織は恥ずかしそうに謙くんに耳打ちした。

「謙くん、今どこまで見えたか教えて」

「どこまでって、尻尾が見えただけだよ」

「しーっ。そんな大きな声で、私の尻尾のことを言わないで。皆に知られたらと思うと、恥ずかしくてたまらないの」

 香織は背伸びして、謙くんの耳にぴったりと自分の口をつけた。

「ごめんなさい、取り乱しちゃって。見られたら恥ずかしいところを、男の子に触られたの初めてだったから。ねえ、さっきのことは二人だけの秘密よ。誰にも言わないって、約束して」

 遠くから見ていた私にも、謙くんが「わかったよ」と口を動かすのが見えた。これはうまくいったはず。二人だけの秘密を作るのは、恋する相手との距離を縮める大きな第一歩なのだ。

 ところが、男友達に探りを入れても、謙くんの心が香織に傾いた気配はなかった。女嫌いなのだろうか。今度は私のハートに火が付いた。難攻不落の謙くんを、どうしても香織のものにしたくなったのだ。

 毎月恒例のホームルーム・ディベートに、私は狙いを定めた。事前に賛成側リーダーと反対側リーダーが決まっていて、議題は当日与えられる。今月は謙くんが賛成側リーダーで、石田くんが反対側リーダーだった。

 担任の先生が「動物園を存続させるべきかどうか」が議題だと宣言した。私と香織は前の晩遅くまで、反対側の意見を上品に牽制したり、賛成側の謙くんをさりげなくサポートしたり、家庭的なところをアピールしたりといった基本方針は固めてあった。けれど、議題が動物園ではアピールは難しかった。

 石田くんが立ち上がって、動物園反対の主張をはじめた。

「これだけICT技術の進んだ時代です。ぼくは時代の進化の香りを愛しています。動物たちの一生を犠牲にして、檻に入れておく必要なんかない。今こそ、動物の権利を見直す時期に来ているのではないでしょうか」

 私は頭を抱えた。実は、私が仕掛けた香織のキュート言動のせいで、香織のことを好きになる男子が続出していたのだ。ラグビー部の石田くんもその一人だ。猪突猛進の座右の銘に忠実に、「香織を愛しています」を冒頭からさっそく放り込んできた。

 謙くんがゆっくりと立ち上がって反論した。

「檻の中か野生かという二分法で考えすぎなのではないでしょうか。最近は動物行動学に基づいて、檻ではなく濠を使ったサファリ区画型の動物もあります。この地球で、私たちが異なる生命と共生しているのを実感できる教育的効果は、ぼくは捨てがたいと思います」

 石田くんは、昨晩から用意していたらしき「踏み絵」の質問を謙くんにぶつけた。

「動画だってある。触覚型の仮想現実だってある。あなたは残酷な男だ。どうして動物を檻に閉じ込めて拘束することにこだわるんですか。うちの飼猫は放し飼いで遊び回っています。シャンプーしたての猫は、頬ずりしたくなるほど可愛らしいです。あの自由な香織がぼくは大好きなんです。まとめましょう。あなたが愛しているのは、香織ではなく、檻なんですね?」

 ラグビー部男子による事実上の愛の告白に、事情を知っているクラスの男子たちがやんややんやの喝采を送った。謙くんの側に気がないなら香織をきちんとフッてほしい。そうなれば、自分たちにも香織に交際を申し込むチャンスができる。そのような人間関係のフローが、騒いでいる男子たちの頭の中にあるようだった。

 謙くんは立ち上がった。けれど、言葉を見つけられずに、しばらく黙っていた。

「動物を愛する気持ちはぼくも同じです。動物の自由を最大限に尊重することには、ぼくも賛成です。しかし、それを言うなら、唐揚げや牛丼が好きな肉食人間たちは、牛や豚や鶏の食肉問題を先に解決すべきではないでしょうか。テクノロジーの発達によって、半世紀後の私たちは、植物由来の人造肉しか食べなくなっていると予想されています。その時々の時代状況において、異なるそれぞれの生命が、バランスよく輝きながら生きていける地球であれば。そう願う今日この頃です。」

 今度は女子たちから盛大な拍手が起こった。主張の内容もすっきりとした正論なら、香織ひとりを依怙贔屓しなかったことも、クラスの女子の好感度に訴えたようだった。

 ただ、「恋の参謀役」の私としては、このゼロ回答の展開に不満が残った。もはやどうすれば香織が謙くんを落とせるのか、皆目見当がつかなくなってしまったのだ。

 そうこうしているうちに、高校三年の冬がやってきて、私たちの高校生活は受験勉強一色になった。東京の私立大学の合格を決めた直後の謙くんは、2月14日は充分に暇があったはずだが、香織が徹夜で作ったモンブランケーキを受け取ると、10日後に国公立大学の二次試験を残している香織を優しく励ました。お返しに、香織に合いそうな参考書をプレゼントしていた。人生の分かれ目の10日前に、他人の心を惑わすような思わせぶりを取らない男だったのだ。

 早々と10月に推薦合格を決めていた私も暇を持て余していた。それもあって、2月14日の放課後の教室に私と謙くんが二人きりで残った形になった。その年の2月14日が、私にとって生涯忘れられないバレンタインデーになった。

 謙くんは十数個もらったチョコレートの中から、香織の作ったモンブランケーキの箱を開けた。

「へえ。ホワイト・モンブランは初めて見た。これ、昨日の晩、高岡と一緒に作ってくれたんだろう?」

「一緒に作ったっていうか、私はそばで見ていただけ。香織はケーキ作りも上手いから、あっという間にそれを作っちゃったの」

 実際はホワイトモンブランを演出するホワイトチョコの色みが綺麗な白にならなかったので、悪戦苦闘したのだった。小さな可愛らしい雪山の頂上には、栗ではなく、ごくごく小粒のハート型の赤いチョコがトッピングされていた。

 サブリミナル恋愛術はまだ終わっていなかった。手作りチョコレートではファンたちに差をつけられないので、私と香織はサブリミナル恋愛術を施したケーキを手作りすることに決めた。

 冷えると固まる茶色いチョコレートではなく、冷えても柔らかい白い丸みのあるケーキを選んだのだ。トッピングの赤いハート型のチョコをめぐって、私と香織との間で激しい議論が勃発した。最終的には、「絶対に小さい小さい赤い突起を想像させたい」という香織の強硬な主張に、私が屈した形となった。

「なあ、高岡。こういうコンセプトのケーキを作ったのは、高岡の入れ知恵だよな」

 謙くんはこちらを振り返って、微笑している。

「え? 何が? チョコばっかりじゃ飽きちゃうから、冬のモンブランもいいかなと思って香織と相談して決めたの」

「高岡のは今日は持ってきてくれなかったの?」

「え?」と私は真顔で訊いた。

「高岡はさ、自分では恋愛心理がわかっていると思っているんじゃないの? 悪いけどさ、それは自惚れだぜ。高校最後のバレンタイン・デーだから、もらえるかもしれないと期待していた今日この頃だったのにな」

 私は謙くんのその言い回しに聞き覚えがあった。同じ記憶を、謙くんの方がはっきりと覚えていた。

「香織と檻のディベートがあったとき、『異なるそれぞれの生命が、バランスよく輝きながら生きていける地球であれば。そう願う今日この頃です』って俺が言ったのを覚えているかい?」

 私は目を見ひらいて頷いた。謙くんが何を云おうとしているのかわからなかった。

「やっぱり気付いていなかったのか。杏子の語呂だったんだぜ」

 謙くんは、モンブランの赤いハート型のチョコを指でつまんで、口へ持っていった。赤いチョコを食べずに、唇でチョコにキスだけすると、それを私の唇へ持ってきた。私がチョコを食べようとすると、ひらいた歯と歯の間に、男の指が差し入れられた。

「ごめん。チョコが溶けて指が汚れたみたい」

 私が謙くんの指を舐めまわすと、指は退いていった。

「親友が可愛すぎるのもつらいよな。だから引け目を感じて、高岡はいつも舞台袖の演出家に逃げちゃうんじゃないの」

 謙くんの右手が私の髪を撫でていた。撫でている彼の手先で、さっき私が舐めた指が宙に浮かせてあるのを感じていた。

「抜群に頭が良くて、気遣いができて、ユーモアもあって……。高校を卒業したら、髪型もメイクもファッションも好きなようにできる。もうすぐ好きな自分になれるんだぜ。奈どうして自分で自分を押さえつけてしまうんだい」

 私は自分の動悸が荒くなったのを感じていた。肩で呼吸しながら、何と言うべきかわからずに黙っていた。

「俺もつらかったんだぜ。きみと親友との友情が可愛らしすぎて、どうしても壊せない気がしていたんだ。だそうこうしているうちに、あっというまに卒業が来てしまった。ごめんな」

 そういうと、謙くんは私から離れて、荷物をまとめ始めた。男の子の身体が離れたので、私はようやく言葉を話せるようになった。

「卒業したら、私も自分を変えてみたいと思っていたの。私がどんな風に変わっても、逢ってくれる?」

 教室を出る前に、謙くんはもう一度私の方を振り返った。彼はあまり饒舌な男の子ではなかった。ひとことだけ私にくれた。

「もちろん」

 大学に入学してすぐ、私は週給のウェイトレスを始めて、お給料で髪色を明るくしたりあれこれ化粧品を買ったり、素肌につける香水を買ったりした。最初の黄金週間に会ってほしいと謙くんに連絡したのが、4月の下旬。決して遅すぎはしなかったはず。

 結論から言うと、それでも遅すぎたのだ。高校三年間で一度も彼女を作らなかった謙くんは、大学のサークルの先輩に言い寄られて、初めて交際を始めたのだそうだ。何かが遅かったのはわかる。けれど、何が遅かったか自分に説明する段位なると、どんな言葉にしていいか自分でもよくわからなかった。私は幾晩も泣き明かした。

 高校三年のバレンタインデーの放課後から後の話は、香織には一切話していない。ただ、男友達から聞いた風の噂だけれど、と前置きして、「可愛らしすぎて壊せない気がした」とだけ、当時の香織には伝えた。

 私は心理学の研究もあって、香織が自分の叶わなかった初恋をどう考えているのかを聞きたかった。香織はけろりとしていた。

「『可愛らしすぎて壊せない気がした』って杏子から聞いたときは、男心って謎めいていて手に負えないと思ったわ。可愛くなるために、杏子とあんなに頑張っていたのに。でも、大学に入ってから出逢った男の人は、可愛いから付き合ってほしいの一点張りだったのよ。要するに、謙くんは私には男前すぎたということね。よくある叶わぬ片思いだったのよ」

 私はどのようにして虚偽記憶が作られるかを研究していた。その出来事がありふれていて、情報源があやふやで、情報にミッシング・リンクがあるとき、人は知らず知らずのうちに嘘の記憶を捏造するのだそうだ。

 謙くんの「可愛らしすぎて壊せない気がした」という発言を、香織が自分の可愛らしさだと自動的に受け取っていたという事実は、虚偽記憶に該当するのだろうか。厳密には難しいところだ。人々はいつだって、ミッシングリンクに出来合いの手頃なピースを嵌めこんで、複雑な事態を理解した気分になりたがる。

 私は私で、自分を振り返らずにはいられなかった。あのとき千載一遇の美男子との交際を逃してしまったのは、私の人生の鎖のどこにミッシング・リンクがあったからなのだろう。

 たぶんそれは、自分で自分の魅力を知らなかったことにあるのだろう。私にとって私は他人でありすぎたのだ。行方不明になっていたつながりとは、自分による自分への信頼だったのだろう。

 ホテルのレストランを出たあと、私と香織はカラオケボックスに入って、アップテンポな曲で踊って、修学旅行の時のようにクッションでお互いを叩き合った。

 私は心理学の箱庭療法を思い出していた。高校最後のバレンタインデー以来、私たち三人は、母校の校庭で、それぞれ視線を別方向へ向けたねじれの位置に立っている気がしていた。

 けれど、数年ぶりに香織と会っておおはしゃぎしたあと、その心の中の箱庭が、するすると小さくなっていくのを、私は感じた。懐かしい縮小模型が、みるみるうちに思い出の彼方へ縮んで遠ざかっていくような気がした。おそらくそれは、高校を卒業してから24歳になるまでに、私が失われていた自分への信頼を取り戻したからなのだろう。

 帰宅したら、ベランダの寄せ植えの花々に水をやろうと考えながら、私は駅へつづく道を、ハイヒールを鳴らしながらこつこつと歩き始めた。

 

 

 

 

Hey, back to the beginning of time
No. Nothing nor no one to find
We follow the moonlight, chase after the sun
Searching for some piece of mind
Searching for the silver line

Stop, turn, look and see
Pause, breathe, run and dream
Stay strong, live and lead
Move love across seas

 

 

短編小説「オムライス先輩、ひと肌脱ぎますぜ、ベイビー!」

 三方を山に囲まれた田舎町。視線が抜けるのは、海のある北西だけだ。北西に広がっている日本海の向こうには、朝鮮半島があった。

 小さな田舎町でも、犯罪は起こる。とりわけ、日本海からの漂着物が、この街の裏社会で悪さをしていた。夜の繁華街には暴力団員や娼婦たちがたむろしていた。

 新米刑事を連れて、俺は港はずれにある雑居ビルの陰で、張り込みをしていた。初めての張り込みとあって、フレッシュマンの後輩は心も身体も前のめりだ。

「兄貴、まだ動かないみたいです。ぼくたちは凄いヤマにぶつかっちゃったんじゃないですかね。おやおや、こっちはさっそく動いてきましたよ、ぼくの両膝が小刻みに」

「待て、もう震えているのか。しっかりしろ。麻薬の密輸はほとんどが海上取引。陸揚げされたところを押収するのが、この街の刑事の仕事だ。お前の言う通り、このヤマはビッグだから、いつかきっと映画になるぜ。今のうちに、ニックネームを決めておかないか」

「ニックネーム?」

ジーパンとか、チノパンとか、刑事ドラマでよくあるヤツだ」

「『ケチャップ』でお願いします!」

「お、即答じゃないか。やる気満々ですな、ケチャップ刑事。じゃあ俺は相方らしくオムライスでいくことにするぞ。ちなみに、お前がケチャップを選んだのは、ブラディー・メアリーに惚れているからか?」

「『惚れている』なんて遠回しな言い方はやめてくださいよ。先月ぼくは、茉莉ちゃんと婚約したんですからね!」

「ほうぼうに借金をして4桁以上の結納金を渡した挙げ句、『婚約だけならいいわよ』って彼女にOKをもらったという噂は本当なのか? 何かおかしいと思わないのか?」

 いつも不思議なくらいポジティブなケチャップが、うつむいて押し黙った。会話のパンチが痛いところに入ったらしい。

 メアリーはこの街のアイドルのような存在だ。市議会議員や実業家や金貸しのような町の有力者と盛り場でよく遊んでいるが、どんな男の交際申し込みも素っ気なくはねつけてきた。血気盛んな男たちが露骨にメアリーを奪い合うので、酒場で喧嘩になることも多いらしい。そのせいで、メアリー自身は虫も殺せない平和主義の女の子なのに、流血を意味するブラディー・メアリーの異名が付いたのだという。

 そのメアリーがケチャップと二人で親密に話し込んだりするのだから、世の中は何が起こるかわからない。

「ぼくはただの噛ませ犬なんです。茉莉ちゃんは、これで男の誘いを断りやすくなったと喜んでいます。彼女が幸福なら、それで何もかも許せる気がして……。ぼくが警官になったのも、キラートマトのような悪党に襲われたとき、茉莉ちゃんを守るためですから」

 あんなB級映画を本気で信じているのだろうか。ケチャップには頭の弱いところがある。自分の婚約の背景にある複雑な事情が、まだ呑み込めていないようだった。知らない方が幸福なことは、世界にたくさんあるにちがいない。俺はケチャップのために話題を変えてやった。

「まだ訊いてなかったな。何でマイ・ケチャップを持ち歩くほど、お前はケチャップ好きなんだ?」

「オムライス先輩は、アンパンマンが作詞した『手のひらを太陽に』を知っていますか? 歌詞の通り、太陽に透かして見ると、ぼくたちのてのひらの中にケチャップが流れているのが一目瞭然なんですよ。見たことありますよね、オムライス先輩? ぼくはああいう温かいケチャップの流れがないと、人と人とがわかり合えない気がするんですよ、直感ですけれどね」

 今さらだが、「オムライス先輩」と呼ばれることに抵抗を感じている自分がいた。まあ、それもあと少しのことだ。俺はケチャップに話を合わせてやった。

「よくわからないけど、その話は面白いな。じゃあ、ケチャップのお前が、オムライスの俺の上に文字を書くとしたら、どんな温かいメッセージにする?」

「『祝・昇進』ですかね。聞きましたよ。オムライス先輩も30才ですから、身辺を片づけて昇進して、好きな人と結婚したいんでしょう? このケチャップに任せてください。このヤマで手柄を立てて、オムライス先輩の功績になるようプレゼントしますからね!」

 不味いな。ケチャップは俺に好きな女がいるのを、どこで聞いたのだろう。まあ「好きな人」と表現しているということは、俺の恋愛事情にはさほど詳しくないようだが。

 そのとき、雑居ビルの非常階段で足音がした。二人組のチンピラが降りてきたのだ。

「おい、動くな! 警察だ」

 ケチャップが相手の前に躍り出て、さっそく銃を構えた。二人組のチンピラは一瞬ひるんだようだったが、月明かりでケチャップの若僧丸出しの人相を確認すると、悠々とスーツの内ポケットから拳銃を取り出して、こちらへ向けた。

 ケチャップはやはり莫迦だ。刑事ドラマの見すぎで、銃を構えたら犯人がフリーズしてくれると思い込んでいるのだ。俺がチンピラたちに話しかける必要があった。

「お兄さんたちの車も仲間の車も、パンクして動かないみたいだぜ。こっちは応援をいま呼んだところだ。警官がぞろぞろ到着するまで、ゆっくりお話ししようじゃないか」

 チンピラAが前に進み出て、アタッシュケースを持っているチンピラBを庇う位置取りをした。あのアタッシュケースの中に、白い粉が入っているのにちがいない。チンピラAが笑い始めた。

「へへへ。お巡りさんがタイヤをパンクさせたりして大丈夫なの? 懲戒解雇、おめでとうございます」

 ケチャップが俺を振り返って小さく頷いた。ここは自分に任せろと言いたげに見えた。

「ああ、祝福ありがとうございます! ロードサービスを呼べば、パンク車を無料で牽引してもらえるぜ、ただし半径10km以内の話だがな!」

 俺は頭が痛くなってきた。「祝福ありがとうございます」と返礼したら、パンクさせたのが俺たちだと認めたことになるではないか! 検挙のためなら手段を選ばないのは、俺の悪い癖だ。また始末書と反省文になってしまう。

 さらにケチャップの無邪気な饒舌は続いた。

「そのアタッシュケースに入っている片栗粉を大人しく渡してもらおうか。今晩作る麻婆豆腐に、どうしてもとろみをつけたいんでね、ベイビー」

 ケチャップはハードボイルドな台詞回しで決めているつもりらしい。

 チンピラAとチンピラBは顔を見合わせて笑った。チンピラAがケチャップの方に向き直って、叱責しはじめた。ひょっとしたら、ベイビーという間投詞に触発されたのかもしれない。チンピラAの言葉は、泣きながら去っていく女の子が、男の不実をなじる台詞に口調が似ていた。

「ベイビー、どうしてあなたは他人から奪うことしか考えないの? あなたがとろみをつけたいなら、あなたが片栗粉を買ってお湯に溶いて入れればいいじゃないの! 私はあなたに、他人のものを奪って生きていくような男になってほしくないのよ、ベイビー!」

 ケチャップは無言だった。黙ったまま、膝頭がわなわなと震えはじめた。きっと男として自信がないのだろう。ケチャップは女に叱られることに極端に耐性のない男のようだった。

 俺はケチャップの背中に小声で囁いた。「おい、しっかりしろ、ベイビー」。それから声を張って、チンピラAの説得を始めた。

「片栗粉ってのはこの若僧なりの冗談だ。聞き流してやってくれ。うちが署をあげて探しているのは、半島製の麻薬だ。そのアタッシュケースの中身を確認させてもらおうか」

「断る」

 チンピラAが即答した。ケチャップが身体を立て直して、こう言い返した。

「自分の片栗粉でとろみをつけろと言った割には、とろみもまろやかさもない答え方だな。相手はオムライス先輩だぞ。『今回はご遠慮させていただきます』くらい言えないのか!」

 「ケチャップ、怒るべきなのはそこじゃない!」と俺は心の中で叫んだ。しかし、手柄を焦っているケチャップの台詞は止まりそうにない。

「オムライス先輩は麻薬捜査の大ベテランだ。緊急配備を敷いているので、人間はすぐに捕まる。麻薬だけは海に投棄されないように現場で押さえろ。そんな的確な指示まで出せるんだぞ!」

「それはそれは、親切に教えてくれてありがとさん。捜査方針を被疑者に教えるというのも、あんたのやり方なのかい、オムライス先輩?」

 チンピラAとチンピラBの笑い声が弾けて、夜の港の一角に響き渡った。一時の気の迷いとはいえ、どうして俺は「オムライス」などというニックネームを自分に付けたのだろう。笑われている自分がひたすらみじめだった。ケチャップが歯ぎしりして悔しがっている様子が、彼の背中から伝わってきた。

 俺はケチャップの背中に囁いた。

「奴らは応援のパトカーが来る前に逃げる気だ。5秒後だ。俺が援護するから、あのアタッシュケースをタックルして取ってこい。ケチャップ、頼んだぜ、ベイビー!」

 次の瞬間、俺はチンピラたちの足元に向かって銃を乱射した。月明かりに硝煙のけぶる中、ケチャップが猛然とチンピラBのアタッシュ・ケースに突進していくのがちらりと見えた。だが、ケチャップがあのアタッシュ・ケースに到達することは永遠になかった。しかも、俺はそのことを知っていた。

 チンピラBの放った銃弾が、ケチャップの腹に数発命中したようだった。仰向けに倒れて、夜空を見上げたケチャップが、自分の腹を手探りしているのが見えた。手は真っ赤になっていた。それを見て叫び声をあげた。

「何じゃこりゃあ!」

 そう叫んだ時には、ケチャップはもう錯乱状態になっていたのにちがいない。半泣きになって、赤い液体のついた指を必死にしゃぶっていた。それがケチャップなのか血なのかを確かめているように見えた。

 俺は銃を握っている右腕を下ろして、殉職しつつあるケチャップを黙って見つめていた。俺に手柄を譲ろうとして無謀なダッシュをした男が息絶えつつあるのを、ただ見つめていた。それ以外に、やるべきことがあるようには思えなかったのだ。

 意外なことに、直後に駈けつけた警官隊によって、チンピラの二人はあっさりと逮捕されてしまった。

 翌日の地元の新聞には、恐るべきニュースがでかでかと掲載されていた。地元の警察署が押収していた麻薬が、警察官によって秘かに地元の裏社会へ横流しされていたという衝撃的なニュースだった。

 横流しした警察官は、麻薬絡みの抗争に巻き込まれて、死んだのだそうだ。新聞に掲載されているケチャップの写真は、笑窪が出そうなくらいにっこりと笑っていた。

 これが最善の解決法だったのかはよくわからない。俺は溜息をついた。ともあれ、この田舎町にはびこっていた警察と暴力団の癒着は、この衝撃的な事件を機に断たれたのだった。俺は新聞をたたんで、ぽんと机の上にほうり投げた。

 その一か月後、俺は結婚式会場に花婿として立っていた。花嫁の茉莉はこの世のものとは思えないくらい美しかった。

「オムライス先輩も30才ですから、身辺を片づけて昇進して、好きな人と結婚したいんでしょう?」

 ケチャップの声が蘇ってくる。奴はどうしてだか真相のはしっこをつかんでいた。

 俺も深く手を染めてしまった警察の不祥事がきれいに解決すること。それが、茉莉が俺との結婚に課した条件だった。

 茉莉はこの田舎町のアイドルであり、おまけに平和主義者だった。日本海に面したこの街の陋習の根が断たれて、住民に平和と安心と繁栄が戻ることを心から希望していた。

 結婚式は街一番の披露宴会場で、華やかに進行していた。膨大なフラッシュを浴びながら、ケーキのファーストバイトを口にしたとき、俺は違和感を感じた。

 切り取られたケーキには、赤いハートマークが描かれていた。大口を開けてケーキにかぶりつき、咀嚼を始めたとき、その赤いハートマークがケチャップの味がしたような気がしたのである。

 まさか、ケチャップの呪い?

 しかし、恐ろしいことに、それは呪いではなかったのだ。

 続く式次第で、新婦の両親が入場する段取りになったとき、開かれた扉からは一人の男性しか出てこなかった。スポットライトが当てられた。そこに立っていた若い男性は、ケチャップその人だった。

 新婦の茉莉が立ち上がって、ウェディングドレスの裾を持ち上げて、ヴァージンロードを駈け下りていった。そして、ケチャップに熱烈に抱き着いた。披露宴会場は割れんばかりの盛大な拍手で包まれた。

 振り向くと、俺の背後には四人の私服警官が立っていた。列席者全員がスタンディングオベーションで喝采を送る中、俺は私服警官に促されて、会場の外へ連行されつつあった。背後で司会者がケチャップを紹介する声が聞こえた。

「警察の麻薬捜査課に任官してわずか半年。あっというまに町の病巣を手術した英雄です!」

 華やかな歓声や拍手のうねりは、すぐに小さな音量になって、やがてまったく聞こえなくなった。式場の裏口には、パトカーが待機していた。

 俺は急にオムライスが食べたくなった。これから何十年か入る刑務所の献立には、オムライスはあるのだろうか。もしあるのなら、いつか独房でそのオムライスに、ケチャップで「LOVE」という文字を描いて、じっくり味わってみたいと思った。たぶん、俺の知らない味がするにちがいないから。

 

 

 

 

 

ハインツ トマトケチャップ 逆さボトル 250g

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短編小説「ぼくは人喰い鬼じゃない」

 天涯孤独と自分のことを言うと、知人は「嘘だろう?」と好奇心で質問してくる。嘘だったらどれほど楽だろう。両親を知らずに孤児院で生きてきたぼくには、残念ながらそれは、嘘の言葉じゃない。

 物心ついてから15才まで暮らした児童養護施設は、いつも問題児であふれていて、いつも職員が人不足で悲鳴をあげていた。

 だから、15才の誕生日の次の4/1が近づいてきたとき、ぼくは嬉しくてたまらなかった。やっと働ける年齢になって、自分で生きていける。その年齢になると児童養護施設を出る決まりだった。嫌がる子供もいたが、ぼくは社会で働きたかった。

「時々ここを手伝いに来てちょうだいね」

 別れ際、寮母さんにそう声を掛けられたので、ぼくは笑って頷いた。寮母さんは感動屋なので、ここの「先輩」が社会で大成したら、どれほど子供たちの希望になるか、という話をくどくどと語った。

「まかせてください」といってぼくがウィンクすると、小柄で円い形の寮母さんが飛びついてきて、抱きしめてくれた。周りの下級生たちがいたから、ぼくは少し恥ずかしかった。寮母さんが耳元で「あなたはきっとうまくいくわ。厭なことを忘れるのが、誰よりも上手だから」と囁いた。心の底からぼくに向けてもらった言葉は、あれが最後だったと思う。

 田舎町の個人経営のコンビニが、ぼくをアルバイトで雇ってくれた。店の奥にあるシャワールームつきの仮眠室が、ぼくの仮の宿になった。主食はコンビニの余った弁当やパンが多かったが、オーナー家族がよく食事に呼んでくれたので、栄養バランスは辛うじて保たれていた。

 いちばん戸惑ったのは、夜勤明けの正午くらいに起き出したあとの果てしなく感じられる孤独だ。何もすることがないのだ。テレビもパソコンも買うお金がなかったので、部屋の隅でじっとしているしかない。じっとしていると鬱々としてしまう。休日はさらに悲惨だ。睡眠サイクルが夜型になっているので、起きてすぐに、田舎町を真っ暗な夜が包んでしまう。困った。何もやることがない上に、ひとりぼっちだ。淋しくて、胸がずきんずきんと痛くなってきた。

 電気代がもったいない気がしたので、天井の蛍光灯を消して間接照明にした。窓の外のの闇とつながると、部屋が暗々と広く見えた。ぼくは背筋に厭な何かが走るのを感じた。

 案の定、闇の中から、鬼が現れた。

「何だ、驚かないのか」

「あ、いや、絵に描いてあるのとそっくりだし、初対面であまり驚くのも失礼かなと思って」

「それはそれは。気を遣ってもらって悪かったな。オイラの方は気を遣わないぜ。それっと!」

 鬼はぼくの身体めがけて、透明な投網を投げるような仕草をした。そして、獲物を手に入れようとするかのように、自分の側へ握った手を引き寄せた。その途端、ぼくの心臓がわしづかみにされた感じがして、ぼくは悲鳴を上げて前へ倒れた。

「やっぱりお前は鬼だったな。この心臓つかみの技は鬼にしか効かないんだ。今日からオイラがお前を一人前の鬼にしてやるから、しっかり修行に励むんだぞ」

「ふざけるな。ぼくは鬼なんかじゃない」

 ぼくは床に這いつくばったまま、鬼をにらんだ。すると、尾には今度はつかんだ心臓を投げつけるような仕草をした。ぼくの身体はふわっと浮き上がって、背後の壁へ叩きつけられてしまった。

「はっはっはっ。お前は鬼なんだよ。どうして自分で自分のことがわからないんだ。忘れっぽいのか?」

 ぼくは壁に背をつけて、肩で息をしていた。そのとき、懐かしい記憶がよみがえってきた。児童養護施設の遊び場で、女の子がぼくに向かって「鬼! 鬼!」と叫びつづけている声が、蘇ってきたのだった。どうして自分が「鬼!」と言われているのか頭の中を探ったが、それらしい記憶はなかった。ぼくには厭なことをすぐに忘れてしまう癖がある。施設で女の子を酷く虐めたりしたのかもしれない。ぼくは自分で自分が信じられなくなってしまった。涙目になった。

「そうだ。いいぞ。早速ずいぶん鬼らしい表情になったじゃないか。その調子だ。鬼の最終的な仕事は、人間の魂を食べることじゃ。見習い期間中のお前は、まずは人を喰った行動をとるのが仕事になる」

「人を喰う?」

「平気な顔をして人を騙して遊ぶんじゃ」

「人を騙すなんて、ぼくは厭です!」

「まあよく聞け。最初のミッションは、平気な顔で人を騙したあと、相手が『そいつはずいぶん人を喰った話だね』と言ったらクリアだ。うまく誘導することだ」

「そんな修行はやりたくないです」

「心臓を抜いてほしいなら、今すぐ抜いてやってもいいぜ。そうなったら、悲しむだろうな。親でもないのに、きみを育ててきた多くの人々が」

「脅すんですか?」

「オイラはそんな怖い顔でにらまれるのは厭だな。考えてもみろ。人をうまく笑わせるだけでミッション・クリアだぞ。死ぬ気でやれば、すぐにできることさ」

 鬼は愉快そうに笑っていた。ぼくに選択肢はなかった。

 次の日の晩、ぼくは個人経営のコンビニのレジに立った。最初の客は、40代くらいの派手な女性だった。水商売の安い雰囲気はなかったが、化粧の感じがどこか愛人風だった。

「ポイントカードをお持ちですか?」

「あ、はい」と答えて、女性はハンドバッグの中を探しまわっている。

「ぼくも持っているんですよ。少しずつでも、ポイントがたまっていくのが嬉しいですよね。おや、奥さん、こつこつチャーム・ポイントを溜め込んじゃって、塵も積もれば大和撫子、美人の作り方を教えてくださいよ。うちの女房にも聞かしてやりたい」

 15歳のぼくが、「うちの女房」という昭和の古い言い回しを使うギャップが面白いはずだった。ところが、愛人風の女性は、ぼくを悠々と無視して店を出て行った。

 ぼくは溜息をついた。この調子だと、客は永遠に「そいつはずいぶん人を喰った話だね」なんて言ってくれそうにない。ぼくはレジの会話パターンを練り直した。

 深夜に弁当を買いに来た20代の男性には、こう訊いた。

「お弁当をあたためますか?」

「お願いします」

 ぼくは弁当のプラスチックの表面を、手のひらでこすり始めた。

「信長さま、温めております。あと5時間くらいお待ちを」

「そこのレンジで温めてもらえませんか?」

「ぬお、ありがたき幸せ。レンジで加熱すると油分が発がん性物質に変異するので、ロシアでは80年代まで使用が禁止されていました。綺麗なお姉さんと発がん性物質はどちらが好きですか?」

「……。」

「あら、嬉しいわ。やっぱり私の方が好きなのね。私が温めてあげるから、あと5時間待ってて」

 そこまで言うと、ぼくは再び弁当の表面を手のひらでこすり始める。そしてこう訊くのだ。

「というこの話を、あなたはどう思いますか?」

「その弁当買うのをやめます」

 そう言って立ち去る人もいれば、「綺麗なお姉さん」に化けたタイミングで、「淀君でいらっしゃいますか?」などと、よくわからない世界観で話をふくらませてくる客もいた。

 バックヤードに呼び出されたとき、オーナーは苦り切った表情をしていた。

「真面目な子だと思ったのに、急にお客さんと変な会話をしはじめたのは、どうしてなんだい?」

 説明はとても難しかった。強いて言うなら、ぼくが鬼だったからだろう。身寄りのない少年を働かせてくれているオーナーのことが、ぼくは好きだった。ペコペコ頭を下げて謝って、淋しいので人と会話をしたいのだと嘘をついた。胸がずきんずきんと痛かった。

 上機嫌なのは鬼だけだった。ぼくの一人暮らしの部屋に現れては、乱暴にぼくの心臓をつかんだ。このミッションは必ずやり遂げろと、毎晩のように脅しに来た。

 けれど、数日そうしているうちに、潮目が変わったような気がした。

 深夜に若い男が煙草を買いに来た。ぼくは店員として年齢を確認する必要があった。

「お客様、年齢を確認するスクール水着はお持ちですか?」

「持ってねえよ。鞄にスクール水着入れて持ち歩いている奴がいるわけないだろ!」

「まさか… 着用中?」

「そうそう、着替えるのが大変だから、水着を着たあと、上から私服を着てきたんだ… てなわけないだろ! だいたい、スクール水着を見て何がわかるんだよ?」

スクール水着のゼッケンのお名前と免許証のお名前を照合します?」

「無駄が多くねえ? 免許証だけでよくねえ?」

 ぼくが一瞬、シナリオ通りの台詞に詰まると、相手が助け舟を出してくれるようにまでなった。

「あ? 店員さんふざけないでよ、タバコのこと何もわかってないんじゃないの?」

「はい、吸いません」

 やがて、この個人経営のコンビニが、田舎町のちょっとした名物店になったようだった。隣県から30分かけて、遊びに来る客まで現れはじめた。苦虫を噛み潰したようだったオーナーの表情が、手のひらを返したように、にこにこの恵比寿顔になった。けれど、ぼくの心の霧は晴れなかった。いつになったら客に『そいつはずいぶん人を喰った話だね』と言ってもらえるのだろうか。

 今晩も隣県からの客がやってきた。両親と中学生くらいの娘の三人が、買い物かごにいろいろと入れて、レジカウンターに並んだ。

「温かいものと袋は一緒でもよろしいでしょうか」

 ぼくがそう訊いたのは、財布を取り出して準備していた母親に向かってだった。母親が頷いたので、ぼくは「人を喰ったシナリオ」を喋りはじめた。

「ありがとうございます。何といっても、『温かいおふくろと一緒』。それにまさるものはありませんものなあ。結婚式でもよく言うじゃないですか……」

 シナリオはこう流れる予定だった。昭和の結婚式スピ―チによくある「三つの大事な袋」(堪忍袋、給料袋、おふくろ)のパロディーをやると見せかけて、「ほら、東京の駅にありますよね」と前フリをする。きっと「池袋」と言うだろうと思わせておいてからの、「中目黒」「双羽黒」「カズオ・イシグロ」という謎めいた展開。かなり自信はあった。

 しかし、そのとき事件は起こった。

 向こうから、追加のお菓子を持ってレジへ歩み寄ってきた女子中学生が、ぼくの顔を見るなり、「鬼! 鬼!」と大声で叫んだのだった。その叫び声は、心なしか夢で聞いた思い出の声に似ているような気がした。

 ぼくは女子中学生の顔をまじまじと見つめた。眉が手入れされて細くなっていたが、それは紛れもなく妹の顔だった。

「お兄ぃ! お兄ぃ!」と叫んで、妹はカウンターを越えて、ぼくに抱きついてきた。ぼくも生き別れた妹をきつく抱きしめた。

 めったに見つからない里親が、妹ひとりならという条件で見つかったとき、それでもぼくはとても嬉しかった。けれど、里親の経済的な理由で、兄のぼくまでもたれかかってきたら困るからという理由で、ぼくには連絡先を教えてもらえなかったとき、胸がずきんずきんと痛んだ。

 ぼくは厭でたまらないその記憶を、心から消し去ってしまったのだった。

 働き先に恵まれて収入のできたぼくを、妹の里親は快く迎え入れてくれた。ぼくは隣の県へ引っ越した。

 今でも、電気の点っていない暗闇に遭遇すると、15歳の春、ぼくの心臓をつかんで脅した鬼のことを思い出す。あんなにも絵に描いてあるのとそっくりの鬼なんて、本当は鬼じゃなかったのだと思う。

 どんなにひとりぼっちの孤独の中にいても、神様は決してきみを見捨てない。たぶん、そういうことを神様はぼくに伝えたかったんだと思う。というわけで、この話はぼくの心の一番深い底にある温かい愛の話なんだ。ぼくはこの話を「人を喰った話」ではなく「神様が人に愛を送った話」と呼んでいる。だから、天涯孤独という言葉には、嘘がある気がしてならないんだ。

 

 

 

 

 

 

And the blood will dry
Underneath my nails
And the wind will rise up
To fill my sails

 

So you can doubt
And you can hate
But I know
No matter what it takes

 

I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home
Let the rain
Wash away
All the pain of yesterday
I know my kingdom awaits
And they've forgiven my mistakes
I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming

 

Still far away
From where I belong
But it's always darkest
Before the dawn

 

So you can doubt
And you can hate
But I know
No matter what it takes

 

I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home
Let the rain
Wash away
All the pain of yesterday
I know my kingdom awaits
And they've forgiven my mistakes
I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming

 

I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home
Let the rain
Wash away
All the pain of yesterday
I know my kingdom awaits
And they've forgiven my mistakes
I'm coming home
I'm coming home
Tell the world I'm coming home 

Don't Look Down

Don't Look Down

 

短編小説「フェネックになりたいので、さようなら」

 冬になると鬱の患者が増えるように、梅雨の時期も心療内科は忙しくなる。だから、開院二年目の新米院長の私は、休日を返上して診療にあたっていた。会社員にも心の病を抱えている患者が多いので、診療が終わるのは21時くらいになる。帰宅すると、妻の準備した夕食と風呂にありついて寝る日々が、一年半以上続いていた。

 研修医の若僧だった頃に、ベテラン看護師だった妻と知り合った。妻との間に子供はない。「梅雨が明けたら」というのが、最近の私の口癖だった。繁忙期の梅雨が明けたら、長期休暇を取って妻と海外旅行に出かける予定なのだ。旅行先はどこに決まったのだろう。私は知らない。家内に訊いてくれないか。

 その日の最後の患者は20代の男性で、入室してくるなり、ひと目で様子がおかしいのがわかった。顔は笑っているのに、目には凶暴な光を湛えている。胸ポケットにナイフを隠し持っていたりするのは、このタイプだ。気を付けなくてはならない。

 開口一番のこの台詞もおかしかった。

「先生、毎晩ぼくは未来の夢を見るんです」

 私は黙って微笑んで、若い男の安心を引き出した。それから、順番にゆっくりと必要項目を訊いていった。よくよく聞いてみると、男が「未来」と言っているのは、夢の風景が夏だからにすぎなかった。梅雨のあとに夏が来るのは確かでも、夢の中の夏がいつの夏なのかはわからない。精神医学に予知夢の項目はないのだ。

「夢の中で女の人が泣いています。女の人は四十代後半くらいの綺麗な人。夫が謎めいた珍しい遺書を残して自殺したから、悲しいらしいです」

「その泣いている女性が毎晩きみの夢に出てくるというんだね。その女性はきみのお母さんではないかね?」

「いえ、母親には全然似ていません。彼女はほっそりとしていて、綺麗な高級な服を着ています。きらきらした指輪もしてます。先生、ぼくは未来のどこかで、現実の世界でその女性に会う気がするんです」

「それはどうだろう。夢に出てくるのは、実在の人物ばかりではないからね。わかった。化学物質で妄想を消すよりも、一種の行動療法を試みた方がいいかもしれないね」

「回鍋肉どう?」

「行動療法。毎晩夢に出てくるなら、夢の中できみが彼女を慰めればいいんだ。ヒントをメモしておいてあげるから、今晩から彼女を慰めてごらん」

 翌日の診療時間の最後、若い男は外来にすべりこんできて、前の晩に見た夢の報告をしてくれた。男の夢の話は、ざっとこんな感じだった。

: とにかく、どうして自殺したのかわからないの。仕事人間だったけど、仕事はうまく行っていたから。結婚して七年にもなるのに、大事なことは結局何も話してくれなかった。それが悲しくて。

 

若い男: わかりますよ。わかりあえないことが一番悲しいですもんね。小学生の頃、副担任の先生がぼくにつきっきりで分数の足し算を教えてくれたんです。でも、いつまでたっても理解できないぼくを見て、とても悲しそうな顔をしていました。ぼくはぼくで、1/2+1/3=2/5でいいとしか思えないんです。分かり合えないことって、本当に悲しいですよね。

 

: それは慰めてくれているつもりなの? (目頭の涙をハンカチで拭って、あきれて笑う)。可笑しな人ね。

 

若い男: (右手を生き物のように動かして、女性の肩を登らせる。甲高い別の生き物の声で)泣カナイデヨ、綺麗ナ女ノ人ガ泣イテイルト、ボクマデ悲シクナルワン。

 

: 今のは何?

 

若い男: フェネックっていう珍しいキツネです。生まれたての顔はネコみたいで、習性はイヌに近くて、キツネなので化けます。

 

フェネック: 直子サンガ泣イテイルナラ、ボク今日ノ晩御飯ハ食ベナイカラネ! 一緒ノヒモジイ気持チデ、ソバニイルヨ!

 

直子: あら、もう私の名前を知っているのね。ふふふ。この子は私がひもじくて泣いていると思っているのかしら。

 

若い男: このフェネックはまだ生まれたての子供なんです。

 

直子: 何だか少し元気が出てきたような気がするわ。ありがとう。明日の晩もまたここで逢えるかしら。

 私は若い男に向かって拍手した。

「ブラボーだ。私のヒントは二つだった。相手の話を聞くことと、第三のキャラを作ること。かなりうまくやれているような気がするな」

「先生、次はどうしたら良いですか? 先生がいないと、ぼくは何もわからないんです」

「よし。次は、告白だ。夫の自殺で悲しみに暮れている女性に、愛の告白をしよう。それで、きみの夢の中の女性が泣きやんで笑いはじめたら、治療は成功したようなものだ」

 私は、激務の傍ら、いつのまにかこの男の妄想を楽しんでいる自分に気付いた。男も上気した顔を輝かせている。

「未来の夢を良くしていくと、未来が来るのが楽しみになりますもんね」

「夏の夢だから、未来の夢だとは限らないよ。明日も報告を待っているね」

 翌日の夢の報告は、さらに興奮させる物語になっていた。私は夢中になってメモを取った。

直子: こんばんは。


フェナック: 良カッタ、今日はハ泣イテナイネ! サテハ、美味シイモノヲ食ベタネ。

 

直子: 美味しい物もいただいたわ。あなたが心配してくれたおかげで、元気が出たから。


フェナック: ソイツハ最高ダ! 今晩ハ、オ兄サンカラ大事ナ話ガアルンダッテ!


若い男: おい、フェナック、それは言わない約束だったろう!(すると、右手で自分の耳をつまんで)痛い、痛い、痛い。わかったから、耳を噛まないで。(と左手で右手をつかんで遠ざける)いいよ、自分で言えるから。最初から、自分で言うつもりだったんだ。(すると、右手で自分の耳をつまんで)痛い、痛い、痛い。わかったから、耳を噛まないでってば。…というわけで、直子さん、旦那様を失くした直後に、こんなこと言うのはおかしいのを分かっているんですけれど、ぼくは直子さんの力になりたいんです。フェナックと一緒に、これからもそばにいてもかまいませんか。


直子: 私は夫に自殺で先立たれた直後よ。そばにいてくれるのは、とても嬉しいわ。でも冷静に考えてみて。私は40代後半で、あなたは20代でしょう? 私はあなたにとっておばあさんすぎるのよ。


フェネック: 年齢ハ関係ナイヨ。ボクノ寿命ハ十年シカナイケド、イツダッテ、ソバニイタイ人ノソバニイタイヨ。


若い男: フェネックの言う通りです。痛みや幸せを分かちあうのに、年齢は関係ないと思いますよ。ぼくには半分もわからないかもしれないけれど、これからもお話を聞かせてくださいよ。明日の晩もここへ来てくれますか?


直子: ありがとう。そうさせてもらうわ。

 検査をしてみなければわからないが、臨床医の勘でいうと、若い男には軽い知的障害があるような気がする。社会常識や判断力が弱いだけでなく、目に危ない光が宿ることがあるのが気になっていた。それなのに一方では、夢の中の自分の傷と対話させると、相手の心の傷まで感じられる優しい台詞が言えるのだ。つくづく不思議な男だと思う。

「先生、次はどうしたら良いですか? 先生がいないと、ぼくは何もわからないんです」

 ふと思いつきで、私は男にこう訊いた。

「きみの設定ではその未亡人と会うのは、次の夏。あと1、2か月後なんだよね。もっと近い未来の夢を見れば、それが予知夢かどうだか、すぐにわかるはず。たとえば、今は21時。今晩起こることの夢をいまそのソファーで夢見てしまえば、今晩中に答え合わせできるよ」

「先生、教えてくれてありがとうございます。それこそが、ぼくが一番やりたかったことですよ! 次の夏に直子さんに本当に会えるかどうか、気がかりで気がかりで夜も眠れないんです!」

 「眠れない」どころか、私が若い男をソファーに案内すると、男はすぐにすやすやと眠ってしまった。口が少し半開きで、唇の端がよだれで濡れているところが、いかにもこの男らしかった。

 若い男がソファーで寝返りを打とうとした。その次の瞬間、男は眠ったまま「わああ、そんなことしたら駄目だ」と大声で寝言を云った。そして、ぱちりと目を開けると、内ポケットから取り出したナイフで身構えて、牛のように私めがけて突進してきた。

 私は自分の腹部がお湯のように温かい液体で濡れるのを感じた。ナイフの刺さった身体よりも、頭の中で激しく情報の筋がのたうち回っていた。

 直子というのは、何てありふれた名前なのだろう。私の妻も直子という名前なのだ。私は目の前の若い男を、単なる妄想狂の患者だと思っていた。それは間違っていた。彼が見ていたのはまさしく予知夢だったようだ。

 こんな世間知らずな男でも、いや、こんな純真な優しい男だからこそ、私が亡くなったあとの妻のそばに置いておいてやりたいと、私は感じた。

 私は机の上にある紙に、乱雑な字で遺書を走り書きした。

「先生、次はどうしたら良いですか? 先生がいないと、ぼくは何もわからないんです」

「間違えるなよ。私はいま自殺しているところだ。直子をよろしくな」

 私はナイフの柄をしっかりと握って、自分の指紋を残した。

 若い男は、何も理解できずに、茫然自失しているようだった。

 絵画に例えるなら、彼は白い無地のカンバスのようだった。いや、本当に白い無地のカンバスだったのかもしれない。「わかりあえないと悲しい」とか「痛みや幸せを分かち合いたい」とかいう言葉は、仕事に忙殺されてきたこの数年間以前に、新婚当時の私が妻によく伝えていた言葉だったのだ。

 私は遠のく意識の中で「まだ希望はある」と自分に言い聞かせていた。生まれたての顔がネコみたいなフェネックに生まれ変われば、珍しいのでかなり高い確率で、また直子と一緒に暮らせるだろう。

 私は机の上に突っ伏して、息絶えそうになりながら、走り書きした遺書をじっと見つめていた。

フェネックになりたいので、さようなら」

 

 

 

 

Collcta フェネック

Collcta フェネック

 

fennec と deer は仲良しのはず)

短編小説「背の高い美しい先輩」

 女子高育ちの私は、年上の女性に憧れの人ができることが多い。大学で劇団サークルに入ってからも、背が高くて美人で何でもできる先輩女性に、いつのまにか魅きつけられていた。誘われるままにファミレスのバイトを始めた。

「あなたは私のできないところをやってくれるから助かるわ。睡眠不足だと、私はほとんど仕事ができなくなっちゃうから」

 先輩は自分の有能さを隠したがるので、私にかけるねぎらいの言葉がこんな調子になってしまう。実際は、注文取りや食事のサーブなど、私にできる簡単な仕事をわざと残してくれているのだ。料理の最後の盛り付けやレジ対応など、高いスキルの必要な仕事は先輩が進んでやるので、私にはほとんど回ってこない。笑顔も素敵で、人当たりも良くて、冗談も上手で、どの面をとっても、眩しいくらい私より背の高いところばかりだった。

 休憩時間に二人きりになったとき、そんな先輩にも悩みがあることを知った。学生劇団に演出をつけてくれているのは、フリーターの卒業生の男性。先輩が交際中のその男と一緒にいるとき、ヒステリックな女の罵声を浴びせられたのだそうだ。

「彼が話していた電話を私に手渡してくるから、何かと思ったら、受話器の向こうの女が、喚き散らしてきたの。彼と別れないと私を殺すっていうのよ。昼ドラみたいなみっともない泥仕合で、笑っちゃったわ」

「その女性は彼の浮気相手だったんですか?」

「ちょっと遊んだだけって言っていた。私という彼女がいながら、どうして遊ぶの?と訊くと黙り込んじゃうの。いつもはインテリぶって威張っているくせに、男って子供じみていて好きになれないわ」

 そう口では言っているが先輩が男のことが大好きなのを私は知っている。厨房で淹れてきたレモンティーに先輩が唇をつけた。私は先輩の細い喉を、かぐわしい液体が通りすぎるのを見つめていた。

 事件はその直後、休憩から仕事場へ戻ったときに起こった。時間帯は深夜0時を回ったところ。私たちは1時あがりの予定で、一緒に上がる社員の男性の車で送ってもらう予定だった。あがりまで、あと少しだった。

 深夜0時過ぎのファミレスは、終電を乗り過ごした客で多少の賑わいがある。ウェイトレスが二人いないときつい時間帯だ。客のいないまばらな喫煙席に座った男が、ベルで先輩を呼びつけて、こう話しかけてきた。

「不味いことになっちまったんだ。取り返しがつかないことをしてしまった。きみは賢そうな顔をしているから、きみに訊きたい。東京から逃げるなら、西か北か、どっち?」

「その二択ではなく、逃げないことも含めた「サンタクでどうする?」と考えてはいかがでしょうか? どうぞ、サンタクロースから珈琲お代わりのプレゼントです」

 遠くでやりとりを見守っていた私は、先輩の様子が少しおかしいことに気付いた。先輩は魔法のかかったシンデレラ。0時を過ぎると睡眠不足で少しおかしくなるのだ。以前も持ち場で立ったまま眠って、水辺の水仙のように揺れているのを見たことがあった。

「いや、珈琲どころの話じゃねえんだ。逃げないと生きていけないんだよ。西?」

「8」

 先輩は笑顔で即答した。

「誰も小学校の九九の話なんかしてねえし。何だこのウェイトレスは。泣きっ面に蜂だぜ、まったく」

「蜂に刺された何回刺された?」

「蜂に…だから16回! って、誰も小学校の九九の話なんかしてねえし。俺は真剣に悩んでいるんだぞ!」

「西の名古屋や大阪方面は人口が多いので、隠れやすいかもしれません。だからこそ逆に、北の東北や北海道へ逃げる人もいるのでしょう。でも悪いことをしたのなら、近くの西署へ自首するのが良いと思います」

 あ、不味い、と私は心の中で呟いた。美人で何でもできる先輩にかかっていた魔法は、0時を過ぎて今や完全に解けてしまっている。危なそうな男や酔客に絡まれたら、黙って微笑んで聞き流せばいいだけなのに。

「おい、俺が犯罪者に見えるってのかよ。あんた、可愛い顔して勘の鋭いところがあるな。そうさ、女をひとり殺してきたところよ。派手に血が飛び散ったぜ。こんな風にな!」

 男はそういうと、珈琲のお代わりを注ぐピッチャーを先輩から奪って、振り回して周囲に中身をぶちまけた。先輩は後ずさりした。鳥のような声で悲鳴を上げた。男はからっぽになったピッチャーを床に投げつけて、叩き割った。立派な器物損壊が成立した瞬間だった。

「おい、そこの九九好き姉ちゃんよ、俺と話したことを絶対に誰にも言うなよ! 俺は逃げ切りたいんだ。西とか北とか訊かれたら、『俺はこの世界にな西に北のか』を悩んでいたようだったと言って、ごまかすんだ。わかったな!」

 男は金も払わずにファミレスから逃亡した。警官は15分後にやってきた。

 店長が深夜出勤してきたので、私たちは別室で警官の事情聴取に臨むこととなった。

 警官は30代くらいの若さに見えた。

「その男は何才くらいだった?」

 先輩が指を負って数え始めた。

「20代後半くらいです。会話の中で8と16が出てきたので24才でしょう、きっと」

「会話に出てきた数字をどうして足すの?」

「何というか、私ってプラス思考なんです」

 私は静かに溜息をついた。時計の針は1時を回っている。普段は有能で頼りがいのある先輩が、どんどんおかしくなっていく時間帯なのだろう。けれど、私が助け舟を出そうにも、警官は犯人と直接コミュニケーションを取った先輩にしか、興味がないようなのだ。

「本当に『女性を殺した』と打ち明けてきたんだね」

「刑事さん、生意気を言って恐縮ですが、それを取り調べるのが、あなたの仕事じゃないんですか?」

「いや、だから、いま取り調べてるんだよ。犯人は本当に殺しを認めたのかって」

「……。」

「まいったな。黙ってちゃわからないんだよ」

「わ、私が殺しました」

「え? きみが殺したの?」

「先ほど息を殺しました」

 先輩の暴走が止まらない。睡眠不足で女はこんなにも変わってしまうものなのだろうか。警官は私の方に向かってお手上げのポーズを取った。先輩が急に警官の腕を握って、震える声でこう言った。

「ごめんなさい。私は関西の方々と話すとき、いつも自分の発言に笑いがないといけないという強迫観念に襲われるんです」

「いや、それはかまわないけど、どうしてぼくが関西出身だと分かったの。10年以上東京暮らしなんで、関西弁は完全に抜けたはずなんだけどな」

 先輩の勘の鋭さは一級品だ。誰がどういう人間か、今ここがどういう状況か、いつも素早く読み取って、緻密な気配りができる女性なのだ。憧れているのは、私以外にもたくさんいた。

 先輩が警官に向かってはじめてにっこりと笑った。

「根拠のない勘です。勘で関西の方だと思ったので、いま鎌をかけてみたんです。的中でやねん」

「『何でやねん』の使い方、間違ってるよ。『何でやねん』」の『何』は、未知数で何でも代入できるゆうわけやないからな。きみみたいなお嬢さんが無理して関西弁つこうて、おもろいこと言おうとせんとき。みっともないだけやで」

 警官の発言に関西弁が混入してきた。どうやら、東京人に先に面白いことを言われてしまったことが癪に障ったらしい。取り調べ内容よりも、その場の会話をいかに面白くするかに心を砕き始めたのがわかった。

「そして男とは九九の話をしたと。まあ、九九は話の流れでちょっと出てきただけやね。ほな聞くけれども、ボンカレーのボンはフランス語で美味しいという単語から来とるやろ。じゃあ、ククレカレーが千点満点の『990』っていうところから来とるとしたら、足りない10点は何やと思う?」

 意外なことに、警官はお笑い対決を挑まれたと勘違いして、大喜利を出題してきた。そして「そっちの彼女から」と私に回答を求めてきたのだ。私は急に心臓の動悸が高まるのを感じた。

「調理作業でしょうね。Cook が零(レイ)だから、ククレなんじゃないでしょうか」

「真面目か!」

 何と警官と先輩が同時に私に突っ込んできた。二人とも熱くなって、本気でお笑い対決を始めたようだ。警官の口調が100%関西弁になった。

「ぼけんと、ぼけんと、大喜利なんやから」

「おまわりさんのボケを聞かせてください。ククレカレーが千点満点の990点が由来だとしたら、足りない10点は何?」

「その10点を足りへんもんって考えるからおかしなるんよ。その10がないことがどれだけありがたいことか。ククレカレーはずばり日本社会の平和を象徴しとんや。アメリカとちごうて、日本には銃があれへんからな」

 警官は満足そうに息をついた。どうやら勝利を確信しているらしい。

「お嬢さんの答えを聞こうやないか。ククレカレーが千点満点の990点が由来だとしたら、足りない10点は何?」

「それは決意です。人生のターニングポイントにさしかかったとき、これからは華麗に生きるぞとの決意が足りていないから、ククレカレーにこう喝を入れられるんです。『肚をくくれ!』と」

 私は心の中で拍手をした。勘が鋭いだけでなく、先輩は何でもそつなくこなせる有能なオールマイティーでもあるのだ。

 警官は自身を失くしたらしかった。口調を標準語に戻して、男の逃亡先が「西か北」の可能性が高いことを確認して、ファミレスの控室を後にした。話があちこちへ脱線したせいで、事情聴取には一時間半もかかってしまった。睡眠不足に弱い先輩は、ぐったりとしていた。

 私は先輩に訊きたかったことを訊いた。

「普段は全然違う感じなのに、今晩はどうしてお巡りさんと、あんなに熱くやりあったんですか?」

「やりあいたかったんじゃなくて、何となく、あの取り調べの時間がもっと長く続けばいいって感じていたの。要するに、私は淋しかったんだと思う」

 私は黙っていた。先輩が唐突に口にした「淋しさ」をどう取り扱ったらよいか、わからなかったからだった。先輩が私の方へ身を乗り出した。

「ねえ、握手してもらっていい?」

「握手、ですか?」

 私と先輩は少しはにかみながら、真夜中のアルバイト控室で握手を交わした。先輩の手からは一本一本の指が細くて華奢な印象が感じられた。そして、先輩の手はひんやりと冷たかった。その細い手で私の手を強く握ると、先輩が私に微笑みかけた。

「あなたは私のできないところをやってくれるから助かるわ。睡眠不足だと、私はほとんど仕事ができなくなっちゃうから。明日からも、よろしくね」

 おそらく第三者がこれを聞いても、何でもない台詞だと感じて、聞き流すだけだろう。その晩の先輩があんな突飛な言動を取ったのは、少しも睡眠不足のせいではなかった。シナリオのすべてを聞かされているわけではない私にも、先輩が恋人の男をどれほど愛しているかを痛感せずにはいられなかった。

 それにしても、先輩は何重底にもなっているこの状況を、どこまで理解していたのだろう。

 ファミレスでコーヒーをぶちまけた男は、先輩の恋人だった。「ヒステリックに喚き散らす女につきまとわれて、弾みで殺してしまった」というのが、その演出家の男が書いた下手なシナリオだった。

 愚かにも、その男は先輩と別れたがっていたのだ。男は自分が逃亡する時間を稼ぐために、先輩に演技させて、「西と北」というキーワードを残し、自分は東京の北西にある北陸地方の実家へ戻った。

 翌日の新聞の三面に、女性が殺された事件は載っていなかった。私はあのヒステリックに喚き散らす女のことをよく知っている。あの感情的な罵倒や脅しは、私が電話口で渾身の演技をしたものだ。バイト先だけでなく劇団サークルでも、私は美人で何でもできるあの先輩の後輩だった。

 生活に行き詰った演出家の男が北陸の実家へ帰ったあと、学業に行き詰って休学した私が、彼の後を追った。愚かにも彼が先輩と別れたがったのは、「先輩の勘が鋭すぎて何もかも見透かされるのがつらい」という理由からだった。「彼女の唯一の欠点は俺のことを愛していることだ」。そんな気取った台詞を、彼は無神経にも私に聞かせたりもした。

 きっと勘の鋭い先輩は、すべてを見通していたのではないだろうか。私は細くてひんやりとした手で私と握手しながら、先輩が言った台詞を思い出していた。

「あなたは私のできないところをやってくれるから助かるわ。睡眠不足だと、私はほとんど仕事ができなくなっちゃうから。明日からも、よろしくね」

 これで良かったんですよ。私は先輩に話しかけているつもりで、心の中でそう呟いた。

 今でも、都会の華やかな街角で背の高いロングヘアの女性を見かけると、私は自分の目が、いつのまにか先輩の姿を追いかけているのに気づく。先輩と交わした華奢なひんやりとした握手を思い出す。「明日からも、よろしくね」。

 若い頃、莫迦げた小芝居で私たちが分断線を引いてしまったその向こうに、私の手が決して届かなかった愛と献身の温かさが、蜃気楼のように揺れているような気がして、いつまでも街角を行き交う群衆を眺めてしまうのだ。

 

 

 

 

 

 

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