短編小説「箱庭で見つかった失われたリンク」

 信号待ちのあいだ、助手席に座っている私は、サイドミラーに写っている歩道の花々を見つめていた。赤や黄の賑やかな寄せ植えが、歩道沿いを飾っていた。彼とイギリスに行ったとき、花飾りは一階の窓辺や二階の高さに浮いていることが多かった。

 信号が青になったので、彼がアクセルを踏んだ。鏡の中の花々は急速に縮んで見えなくなった。大人になってから、自分の卒業した小学校を訪れると、縮小模型を見せられているような気分になる。自分の身体が大きくなったせいだと頭ではわかっていても、小学校と一緒に何か大切なものまでが縮んで、失われたような気がしてしまう。

 ホテルまで彼に車で送ってもらうと、私はホテルのレストランに入って、先に紅茶を注文した。約束の時間通りに、高校時代の親友の香織がやってきた。

 私は心理学専攻の東京の大学院生で、香織は地元の信金に就職した社会人二年生だった。女性をクリスマスケーキに例えて、24才がその頂点だと嘯く男たちがいる。そういう男どもには新年が来なければいいと痛切に思う。といっても、私と香織は24才だったから、不機嫌になる理由はどこにもなかった。

 高校時代はいつも一緒にいたのに、卒業してからは香織と数回しか会っていない。私が東京の大学生活が忙しくて、南九州の地元にほとんど帰省しなかったせいだ。少女趣味ののんびり屋さんだった香織もメイクが変わって、立派に大人の仲間入りをした雰囲気がある。

 お互いの近況をキャッチアップしあったあと、私は本題を切り出した。

「ここの三段重ねのティースタンドは豪華で絶品なの。私が奢るから、香織の初恋の話を聞かせてよ」

「なに言っているのよ。杏子は全部知っているじゃない」

 香織と私は、高校2年のクラス替えで謙くんと一緒になった。その4月から卒業までの2年間、香織は謙くんにゾッコンだったのだ。恥ずかしがり屋でおっちょこちょいな香織は、私を恋の参謀役に指名した。受験勉強そっちのけで、二人で謙くんに恋のトリックを仕掛けた二年間は大笑いだらけの最高の青春時代だった。

 アイコンタクトをしたり、話しかけたり、好きな音楽を交換しあったり。普通の女子高生がすることは何でもやったが、学年一の美男子の謙くんは、女子からのアプローチに慣れているのか、いつも自然に応対して、長い脚ですたすたと自然に歩み去っていった。

 「恋の参謀役」である私が最初に仕掛けたのは、運動会の打ち上げで、皆で焼肉に行ったときのこと。仕掛けはサブリミナル恋愛術だった。言葉に二つの意味を持たせる難しいテクニックだったが、事前に想定問答を猛特訓していた香織は上出来だった。

「謙くん、わたし熱いプレートが怖いから、鉄板の私のところに、オイルを塗ってくれない?」

「いいよ」

「ずいぶん優しく塗ってくれるのね。ありがとう」

「優しいって、普通に塗っているだけだよ」

「そういう普通に優しいところが、女の子はいちばん嬉しいの。これで、きっとこんがりいい色に焼けると思うわ。いつかまたオイルを塗ってね」

「いつかまた?」

「私たちにまた海開きの夏がやってくるわ」

「夏?」

 10月の運動会当日、なぜか次の夏の話をしたのは、焼肉プレートに油を引いてもらう作業と、ビーチでサンオイルを背中に塗ってもらう作業を、サブリミナルに重ねたからだ。普通の思春期の男子なら、うまく返事をできなくても、うつむいてニヤニヤしたりするものだ。けれど、私の観察する限りでは、謙くんのクールな表情は鉄壁のままだった。規格外の美男子は、ハートもずばぬけて男前なのだろうか。

 悔しくなった私が次に仕掛けたのは、名付けて「不思議ちゃんドキドキ大作戦」。香織のふわっとしたおっちょこちょいぶりを可愛らしく演出した仕掛けだった。制服のスカートのファスナー部分を、左サイドから真後ろへ回してそこから、おもちゃの三毛猫の尻尾を垂らしたのだ。放課後の教室で謙くんが香織の尻尾に気が付いた。

「おい、それどうしたの? 何かのコスプレ?」

 振り返った香織は、素知らぬ顔をしている。

「え? 何かゴミでもついている?」

「いや、尻尾がついているよ。ほら」

 謙くんに尻尾をつかまれた途端、香織はハートマークつきの嬌声をあげた。ああいう少女声をあげさせると、香織は本当にうまい。

「やだ、わたしったら、いけない子。見えちゃってた」

 急いでファスナー部分から尻尾をスカートの中へしまうと、香織は恥ずかしそうに謙くんに耳打ちした。

「謙くん、今どこまで見えたか教えて」

「どこまでって、尻尾が見えただけだよ」

「しーっ。そんな大きな声で、私の尻尾のことを言わないで。皆に知られたらと思うと、恥ずかしくてたまらないの」

 香織は背伸びして、謙くんの耳にぴったりと自分の口をつけた。

「ごめんなさい、取り乱しちゃって。見られたら恥ずかしいところを、男の子に触られたの初めてだったから。ねえ、さっきのことは二人だけの秘密よ。誰にも言わないって、約束して」

 遠くから見ていた私にも、謙くんが「わかったよ」と口を動かすのが見えた。これはうまくいったはず。二人だけの秘密を作るのは、恋する相手との距離を縮める大きな第一歩なのだ。

 ところが、男友達に探りを入れても、謙くんの心が香織に傾いた気配はなかった。女嫌いなのだろうか。今度は私のハートに火が付いた。難攻不落の謙くんを、どうしても香織のものにしたくなったのだ。

 毎月恒例のホームルーム・ディベートに、私は狙いを定めた。事前に賛成側リーダーと反対側リーダーが決まっていて、議題は当日与えられる。今月は謙くんが賛成側リーダーで、石田くんが反対側リーダーだった。

 担任の先生が「動物園を存続させるべきかどうか」が議題だと宣言した。私と香織は前の晩遅くまで、反対側の意見を上品に牽制したり、賛成側の謙くんをさりげなくサポートしたり、家庭的なところをアピールしたりといった基本方針は固めてあった。けれど、議題が動物園ではアピールは難しかった。

 石田くんが立ち上がって、動物園反対の主張をはじめた。

「これだけICT技術の進んだ時代です。ぼくは時代の進化の香りを愛しています。動物たちの一生を犠牲にして、檻に入れておく必要なんかない。今こそ、動物の権利を見直す時期に来ているのではないでしょうか」

 私は頭を抱えた。実は、私が仕掛けた香織のキュート言動のせいで、香織のことを好きになる男子が続出していたのだ。ラグビー部の石田くんもその一人だ。猪突猛進の座右の銘に忠実に、「香織を愛しています」を冒頭からさっそく放り込んできた。

 謙くんがゆっくりと立ち上がって反論した。

「檻の中か野生かという二分法で考えすぎなのではないでしょうか。最近は動物行動学に基づいて、檻ではなく濠を使ったサファリ区画型の動物もあります。この地球で、私たちが異なる生命と共生しているのを実感できる教育的効果は、ぼくは捨てがたいと思います」

 石田くんは、昨晩から用意していたらしき「踏み絵」の質問を謙くんにぶつけた。

「動画だってある。触覚型の仮想現実だってある。あなたは残酷な男だ。どうして動物を檻に閉じ込めて拘束することにこだわるんですか。うちの飼猫は放し飼いで遊び回っています。シャンプーしたての猫は、頬ずりしたくなるほど可愛らしいです。あの自由な香織がぼくは大好きなんです。まとめましょう。あなたが愛しているのは、香織ではなく、檻なんですね?」

 ラグビー部男子による事実上の愛の告白に、事情を知っているクラスの男子たちがやんややんやの喝采を送った。謙くんの側に気がないなら香織をきちんとフッてほしい。そうなれば、自分たちにも香織に交際を申し込むチャンスができる。そのような人間関係のフローが、騒いでいる男子たちの頭の中にあるようだった。

 謙くんは立ち上がった。けれど、言葉を見つけられずに、しばらく黙っていた。

「動物を愛する気持ちはぼくも同じです。動物の自由を最大限に尊重することには、ぼくも賛成です。しかし、それを言うなら、唐揚げや牛丼が好きな肉食人間たちは、牛や豚や鶏の食肉問題を先に解決すべきではないでしょうか。テクノロジーの発達によって、半世紀後の私たちは、植物由来の人造肉しか食べなくなっていると予想されています。その時々の時代状況において、異なるそれぞれの生命が、バランスよく輝きながら生きていける地球であれば。そう願う今日この頃です。」

 今度は女子たちから盛大な拍手が起こった。主張の内容もすっきりとした正論なら、香織ひとりを依怙贔屓しなかったことも、クラスの女子の好感度に訴えたようだった。

 ただ、「恋の参謀役」の私としては、このゼロ回答の展開に不満が残った。もはやどうすれば香織が謙くんを落とせるのか、皆目見当がつかなくなってしまったのだ。

 そうこうしているうちに、高校三年の冬がやってきて、私たちの高校生活は受験勉強一色になった。東京の私立大学の合格を決めた直後の謙くんは、2月14日は充分に暇があったはずだが、香織が徹夜で作ったモンブランケーキを受け取ると、10日後に国公立大学の二次試験を残している香織を優しく励ました。お返しに、香織に合いそうな参考書をプレゼントしていた。人生の分かれ目の10日前に、他人の心を惑わすような思わせぶりを取らない男だったのだ。

 早々と10月に推薦合格を決めていた私も暇を持て余していた。それもあって、2月14日の放課後の教室に私と謙くんが二人きりで残った形になった。その年の2月14日が、私にとって生涯忘れられないバレンタインデーになった。

 謙くんは十数個もらったチョコレートの中から、香織の作ったモンブランケーキの箱を開けた。

「へえ。ホワイト・モンブランは初めて見た。これ、昨日の晩、高岡と一緒に作ってくれたんだろう?」

「一緒に作ったっていうか、私はそばで見ていただけ。香織はケーキ作りも上手いから、あっという間にそれを作っちゃったの」

 実際はホワイトモンブランを演出するホワイトチョコの色みが綺麗な白にならなかったので、悪戦苦闘したのだった。小さな可愛らしい雪山の頂上には、栗ではなく、ごくごく小粒のハート型の赤いチョコがトッピングされていた。

 サブリミナル恋愛術はまだ終わっていなかった。手作りチョコレートではファンたちに差をつけられないので、私と香織はサブリミナル恋愛術を施したケーキを手作りすることに決めた。

 冷えると固まる茶色いチョコレートではなく、冷えても柔らかい白い丸みのあるケーキを選んだのだ。トッピングの赤いハート型のチョコをめぐって、私と香織との間で激しい議論が勃発した。最終的には、「絶対に小さい小さい赤い突起を想像させたい」という香織の強硬な主張に、私が屈した形となった。

「なあ、高岡。こういうコンセプトのケーキを作ったのは、高岡の入れ知恵だよな」

 謙くんはこちらを振り返って、微笑している。

「え? 何が? チョコばっかりじゃ飽きちゃうから、冬のモンブランもいいかなと思って香織と相談して決めたの」

「高岡のは今日は持ってきてくれなかったの?」

「え?」と私は真顔で訊いた。

「高岡はさ、自分では恋愛心理がわかっていると思っているんじゃないの? 悪いけどさ、それは自惚れだぜ。高校最後のバレンタイン・デーだから、もらえるかもしれないと期待していた今日この頃だったのにな」

 私は謙くんのその言い回しに聞き覚えがあった。同じ記憶を、謙くんの方がはっきりと覚えていた。

「香織と檻のディベートがあったとき、『異なるそれぞれの生命が、バランスよく輝きながら生きていける地球であれば。そう願う今日この頃です』って俺が言ったのを覚えているかい?」

 私は目を見ひらいて頷いた。謙くんが何を云おうとしているのかわからなかった。

「やっぱり気付いていなかったのか。杏子の語呂だったんだぜ」

 謙くんは、モンブランの赤いハート型のチョコを指でつまんで、口へ持っていった。赤いチョコを食べずに、唇でチョコにキスだけすると、それを私の唇へ持ってきた。私がチョコを食べようとすると、ひらいた歯と歯の間に、男の指が差し入れられた。

「ごめん。チョコが溶けて指が汚れたみたい」

 私が謙くんの指を舐めまわすと、指は退いていった。

「親友が可愛すぎるのもつらいよな。だから引け目を感じて、高岡はいつも舞台袖の演出家に逃げちゃうんじゃないの」

 謙くんの右手が私の髪を撫でていた。撫でている彼の手先で、さっき私が舐めた指が宙に浮かせてあるのを感じていた。

「抜群に頭が良くて、気遣いができて、ユーモアもあって……。高校を卒業したら、髪型もメイクもファッションも好きなようにできる。もうすぐ好きな自分になれるんだぜ。奈どうして自分で自分を押さえつけてしまうんだい」

 私は自分の動悸が荒くなったのを感じていた。肩で呼吸しながら、何と言うべきかわからずに黙っていた。

「俺もつらかったんだぜ。きみと親友との友情が可愛らしすぎて、どうしても壊せない気がしていたんだ。だそうこうしているうちに、あっというまに卒業が来てしまった。ごめんな」

 そういうと、謙くんは私から離れて、荷物をまとめ始めた。男の子の身体が離れたので、私はようやく言葉を話せるようになった。

「卒業したら、私も自分を変えてみたいと思っていたの。私がどんな風に変わっても、逢ってくれる?」

 教室を出る前に、謙くんはもう一度私の方を振り返った。彼はあまり饒舌な男の子ではなかった。ひとことだけ私にくれた。

「もちろん」

 大学に入学してすぐ、私は週給のウェイトレスを始めて、お給料で髪色を明るくしたりあれこれ化粧品を買ったり、素肌につける香水を買ったりした。最初の黄金週間に会ってほしいと謙くんに連絡したのが、4月の下旬。決して遅すぎはしなかったはず。

 結論から言うと、それでも遅すぎたのだ。高校三年間で一度も彼女を作らなかった謙くんは、大学のサークルの先輩に言い寄られて、初めて交際を始めたのだそうだ。何かが遅かったのはわかる。けれど、何が遅かったか自分に説明する段位なると、どんな言葉にしていいか自分でもよくわからなかった。私は幾晩も泣き明かした。

 高校三年のバレンタインデーの放課後から後の話は、香織には一切話していない。ただ、男友達から聞いた風の噂だけれど、と前置きして、「可愛らしすぎて壊せない気がした」とだけ、当時の香織には伝えた。

 私は心理学の研究もあって、香織が自分の叶わなかった初恋をどう考えているのかを聞きたかった。香織はけろりとしていた。

「『可愛らしすぎて壊せない気がした』って杏子から聞いたときは、男心って謎めいていて手に負えないと思ったわ。可愛くなるために、杏子とあんなに頑張っていたのに。でも、大学に入ってから出逢った男の人は、可愛いから付き合ってほしいの一点張りだったのよ。要するに、謙くんは私には男前すぎたということね。よくある叶わぬ片思いだったのよ」

 私はどのようにして虚偽記憶が作られるかを研究していた。その出来事がありふれていて、情報源があやふやで、情報にミッシング・リンクがあるとき、人は知らず知らずのうちに嘘の記憶を捏造するのだそうだ。

 謙くんの「可愛らしすぎて壊せない気がした」という発言を、香織が自分の可愛らしさだと自動的に受け取っていたという事実は、虚偽記憶に該当するのだろうか。厳密には難しいところだ。人々はいつだって、ミッシングリンクに出来合いの手頃なピースを嵌めこんで、複雑な事態を理解した気分になりたがる。

 私は私で、自分を振り返らずにはいられなかった。あのとき千載一遇の美男子との交際を逃してしまったのは、私の人生の鎖のどこにミッシング・リンクがあったからなのだろう。

 たぶんそれは、自分で自分の魅力を知らなかったことにあるのだろう。私にとって私は他人でありすぎたのだ。行方不明になっていたつながりとは、自分による自分への信頼だったのだろう。

 ホテルのレストランを出たあと、私と香織はカラオケボックスに入って、アップテンポな曲で踊って、修学旅行の時のようにクッションでお互いを叩き合った。

 私は心理学の箱庭療法を思い出していた。高校最後のバレンタインデー以来、私たち三人は、母校の校庭で、それぞれ視線を別方向へ向けたねじれの位置に立っている気がしていた。

 けれど、数年ぶりに香織と会っておおはしゃぎしたあと、その心の中の箱庭が、するすると小さくなっていくのを、私は感じた。懐かしい縮小模型が、みるみるうちに思い出の彼方へ縮んで遠ざかっていくような気がした。おそらくそれは、高校を卒業してから24歳になるまでに、私が失われていた自分への信頼を取り戻したからなのだろう。

 帰宅したら、ベランダの寄せ植えの花々に水をやろうと考えながら、私は駅へつづく道を、ハイヒールを鳴らしながらこつこつと歩き始めた。

 

 

 

 

Hey, back to the beginning of time
No. Nothing nor no one to find
We follow the moonlight, chase after the sun
Searching for some piece of mind
Searching for the silver line

Stop, turn, look and see
Pause, breathe, run and dream
Stay strong, live and lead
Move love across seas