短編小説「ピーチ豚が説く逆転の発想」

 或る真夜中、ぼくは会社の机に派手に突っ伏して動かなくなった。働き盛りの四十才独身とはいえ、深夜までの残業が連夜つづけば、疲労困憊してしまう。身体を休めるべく、家からオットマンを持ち込んで足を伸ばせるようにしたが、蓄積疲労には焼け石に水だった。今やオットマンは荷物置き場に横倒し。田舎の両親が仕事を断れないぼくの性格を心配して、留守番電話にメッセージを残してくれるが、かけ直す暇もない。ぼくは今にも自分が天に召されそうな気がしていた。 

  今週いっぱいで仕上げなくてはならない企画書が難航している。眠っている間に夢を見れば、夢の中で自分のハイヤーセルフがヒントをくれると聞いたことがある。藁にも縋りたい心地だったので、ぼくは仮眠をとることにした。

 しかも、ハードワークと不摂生が祟って、ぼくは不眠がちだった。机に突っ伏したまま、いつものように羊を数え始めた。ふわふわした白い羊たちが、牧場の柵を一匹ずつ跳び越えていくのをイメージした。

「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……」

 羊を数え慣れているせいで、ぼくはカウントしながら、いつのまにか器用に別の空想に思いを馳せていた。それは一か月前のこと。東京駅の新幹線ホームで同僚と出張に出かけるときのことだった。新幹線の乗降口からは、修学旅行で移動する女子高生たちがぞろぞろ降りてきた。全員が降りるのを待ちながら、気が付くとぼくはいつもの癖を発動させていた。

 仔猫ちゃんが一匹、仔猫ちゃんが二匹、仔猫ちゃんが三匹……。全員が車両を降りた最後の一匹で、ぼくははっと我れに返った。たぶん18匹目の仔猫ちゃんだったと思う。同じ制服を着ているのに、見ているこちらが震えるほど、美しい髪をした眉目秀麗な美少女が降りて通り過ぎていったのだ。

 ぼくが彼女の方を振り返ると、彼女もぼくの方を振り返っていた。彼女は苦しそうな表情をしていた。ぼくに何かを言いたいけれど、禁じられているので言えないというような表情だった。ぼくは運命の出会いだと感じた。発車ベルに促されて、ぼくは同僚と新幹線に乗り込んだ。同僚は美少女には気付かなかったらしい。

 最寄り駅の近くに、深夜まで「辻占」の行燈を灯している五十がらみの背の高い男性がいる。ぼくはその占い師に、美少女との運命の出会いを話してみた。

「あなたが美少女を見たことではなく、美少女があなたを見たことが決定的に大事です」

 そして、占い師は厳粛な口調でこう断言した。「いつか必ず、あなたは彼女に再会します」

「といういうことは、ぼくは…」「羊が一二一匹、羊が一二二匹、羊が一二三匹……」

 おや? いま羊に紛れて、ピンクの動物が柵を跳び越えたのが見えたような気がした。

「ちょっと待って、ピンクのきみ!」

 ぼくは頭の中の牧場で、大声で呼びかけてみた。すると、ふわふわした白い羊の群れをかきわけて、一頭のピンクの豚が出てきた。

「あ、美少女に夢中だったのに、バレちゃいましたか。ピンクより肌色に近いから、ピーチ豚って仲間からは呼ばれてるブー、コマンタレブー? おしゃべり羊の皆、これからもピーチクパーチクよろしく頼むぜ! Thank you, Tokyo!

 すると、向こうの羊の群れから、口々にメェーという鳴き声があがった。ピーチ豚の振る舞いには、どこか無駄なロック・スター気取りがあった。

「おれたちアニマルズに言わせりゃ、恋して『きみにここにいてほしい』と思うなら、突っ走っちゃいなってことよ。をぶち破って、出たとこ勝負、踊ってなんぼ。狂気のサタデーナイト次第ってこと」 

Animals (Remastered Discovery Edition)

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Wish You Were Here

Wish You Were Here

 
Wall (Remastered Discovery Edition)

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狂気

狂気

 

 どうやらピーチ豚は、ぼくにアドバイスをくれているらしかった。

「ごめん、豚くん、言っている意味がよくわからないんだけど」

「じゃあ、全国のリスナーのためにわかりやすく言い直すぜ。あんたは大事なことを忘れている。マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっているぜ、ベイビー。逆に、逆ってこと。逆転させる発想さ。月の暗い側面じゃなくて、明るい側面をしっかり見よ、模様、毎夜。Thank you, Tokyo! 夜眠れないなら、その夜を自分で自分を愛するためにフィーバーさせちゃいなよ。年齢なんて関係ないよ、そこから変えていこうよ、弾けちゃいなよ」 

Dark Side of the Moon

Dark Side of the Moon

 

 ロック・スターには似つかわしくない全裸の桃色の肌を紅潮させて、ピーチ豚は暑苦しいほど熱烈に、ぼくの固定観念を壊そうとしてくれた。牧場の羊たちは大喜びして、メェーメェー鳴きながら跳びはねた。これじゃ羊を数えられない。当分眠れないなと感じたところで、目が覚めた。

 目覚めた直後、今の夢が、仕事の壁を越えるヒントになっているかもしれないと感じて、ぼくは慌ててメモを取った。

  • 恋に突っ走れ
  • マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっている
  • 逆転の発想が大切
  • 眠れないなら、その夜を自分のために生かせ 

 ぼくはメモを読み返して頭を抱えた。どの助言も、締め切り間際の難しい仕事をこなすのに役立ちそうになかったのだ。とりわけ「マンが旦那様でウーマンが奥様なのに…」というメッセージは、まったく意味不明だった。ぼくは憂鬱なまま会社を出た。

 帰り道、ぼくは深夜まで街角で座っている占い師に、夢に出てきたピーチ豚の話をしてみた。

「結論から言うと、そのピーチ豚とやらは、あなた自身ですよ。豚が裸なのは当たり前なのに、それが気になったということは、あれはあなたの身体からのメッセージということです。過労で身体を潰すな、恋にしろ何にしろ、世界をもっと楽しめということでしょうな」

 ぼくは一応頷いて見せたが、まだ釈然としない思いが残った。今や古典となったフロイドの夢判断ですら、これよりはるかに複雑だ。何より、あの無駄なロック・スター気取りは何だったのだろう?

 占い師は時計を見た。料金外で話したいことがあるのだという。

「実は私も、あなたが話していた絶世の美少女に偶然出会ったんです。吉祥寺の家具屋さんで。すっかり心を奪われて、話しかけちゃいました」

「え? どんな話をしたんですか?」

「二言三言だけですよ。綺麗ですねと私が褒めると、彼女は嬉しそうに笑って、近々また偶然会いますからねって」

「先生は、ぼくもあの美少女と必ず再会するとおっしゃいましたね。そして、彼女が先生とまた再会すると自ら言った。これはどういう意味なんでしょうか?」

「たぶん神様が競争させようとしているんですよ。私とあなたのどちらかが、彼女の運命の男です。ひとつここは、恋敵としてフェアに競争しようじゃありませんか」

 そういって差し出した占い師と、ぼくは固い握手を交わした。聞けば占い師は昼間は普通の会社員で、深夜までこうして副業の辻占いをしているのだという。ぼくたちはすっかり仲良くなって、互いのハードワークを慰め合って、頑張って身体を大事にしようと励まし合った。立ち上がると、占い師の背丈の高さが目立った。ぼくたちは手を振って別れた。

 残業だらけの灰色の日々に、思いがけない色恋沙汰が侵入してきたせいで、ぼくは毎日ほんの少しだけ、笑う回数が多くなった。目の前に山積している仕事のほかは見えなかったぼくが、占い師に競争だと言われてから、闘争心が湧き上がってくるのを感じた。

 いつ絶世の美少女に再会してもかまわないように、ぼくは女子高生トークの研究に精を出した。ひとりっ子だったせいで、丁寧に言葉遣いを躾けられてきたぼくには、いまどきの女子高生用語は外国語のように感じられた、ゆめゆめ恋敵の勝ちを許すまじ卍。
 仕事が捗りそうにない夜は、思い切ってひとりで遊びに出かけた。仕事が過酷な会社員でも、自分で自分をいたわる時間も必要だろう。

 ある晩、以前から行きたかった京浜工業地帯の夜景クルーズ船に、ぼくは乗り込んだ。飾り立てようとはしていないのに、東京湾に広がる運河や埠頭や発電所や工場の夜景は、とても綺麗だった。飛行機の航行の安全のために、巨大な建築物の体躯を光が点々と縁取っていた。その光の破線の立体の向こうを、深夜発着の飛行機が赤の光を明滅させながら通り過ぎて行った。

 ぼくが甲板の欄干にもたれてひととおり写真を撮ったあと、東京湾の方へと振り返ると、そちらには茫洋とした暗い闇が立ち込めていた。

 そして… その闇の中に、白い垂直な筋のようなものが立ち迷っているのが見えた。人だった。その人が、制服を着た絶世の美少女だったのだ。

 ぼくはしばらく茫然と立ち尽くしたまま、美少女に見惚れていた。それから、この夜をずっと待っていたことを思い出して、彼女に近づいて話しかけた。

「こんばんは。確か、以前東京駅でお見かけしたはずです。とても可愛らしかったので、忘れられなくて」

「ありがとうございます。私もあなたのことをよく覚えていますよ」

「え? そんなの聞いたら秒でテンアゲです。とりま、ぼくにもワンチャンあるっていうことですよね。わあ、野原一面に草生える春が来た。マジで朝飲みたいのはスムージー卍」

https://jikitourai.net/schoolgirl-use-expression

 できた! ぼくは心の中で小さなガッツポーズをした。努力は裏切らない。猛練習すれば、人にできないことはないのだ。

「あの…、その若者言葉はいろいろと間違っている気がしますよ。誤解させたくないから、はっきり言いますね。私、もうあなたとはお会いしたくないんです」

 鋭利な刃物で胸が裂かれていくような心地がした。それでもぼくは勇気を出して訊いた。

「どうしてですか?」

 美少女は何かを言おうとして唇をひらいた。けれど、言葉を飲み込んで、また黙りこくてしまった。言うことを禁じられている何かが、彼女の心の中にはあるようだった。

 華奢な手首を裏返して、彼女が時計を見た。

「行かなきゃ。もう追いかけてこないでくださいね」

 海風にロングヘアを乱されながら、美少女は足早に立ち去った。ぼくは訳がわからなくなった。ぼくに会いたくないなら、どうして東京駅で振り返って、意味深にぼくを見つめたのだろう?

 やりきれなくて、諦めきれなくて、ぼくは船の左手に広がる夜景には目もくれず、考え事をしながら、船内を散歩した。乗客全員が甲板の右舷に立って、夜景を撮影していた。船内にはほとんど人がいなかった。思索を深めるにはうってつけだった。

 左舷側の廊下へ降りたとき、美少女が髪をなびかせているのが遠くに見えた。彼女は父親くらいの年齢の男と一緒にいた。背の高い父親の身体を親密そうに叩きながら、大笑いしていた。父親も笑って振り返った。

 ぼくは急に胸が痛くなった。あばら骨の奥にある臓器が、ゆっくりと燃え落ちていくような悲しみを感じた。その男は美少女の父親ではなく、ぼくがの知人の占い師だったのだ。

 どうしてこの時刻のこのクルーズに乗ったら、彼女に逢えるとわかったのだろう。自分と同じように偶然なのか、それとも自分で自分の占いを当てたのか、ぼくの失恋が確定した今、それはどうでもいいような気がした。

 占い師は満面の笑みを浮かべていた。それはそうだろう。彼は彼で恐ろしいほどの苦労を重ねて、ようやく幸せの尻尾をつかんだのだった。ぼくはあの苦労人の笑顔なら、自分の悲しみを埋め合わせられるような気がした。

 と、ふいに占い師の顔が歪んだ。苦しげな表情になってふらつくと、激しく欄干にぶつかった。そのまま、高すぎる重心が災いして、船から海へ落下してしまった。

 誰かの悲鳴が聞こえた。乱雑に階段を下りる足音がして、船員たちが入り乱れた。

 その様子にも、美少女はまったく動じる気配がなかった。船員の誰もが目撃者の彼女に気を留めようとしなかった。美少女がゆっくりとぼくに近づいてきた。

心筋梗塞だったの」

 彼女はひとことだけ、そうぼくに伝えた。すぐそばにいた人間が亡くなったというのに、どうしてこの女の子は平然としているのだろう。彼女が言葉の代わりに何かを伝えようとして、ぼくに右手を差し出した。ぼくは右手でそれを握って、握手をした。美少女の手は雪の中にある小枝のように冷たかった。ぼくは彼女が冷淡な理由がわかったような気がした。

「言わなくてもいい。きっときみは酷い病気で苦しんでいるんだね。たとえきみの余命がどれほど短くても、ぼくはきみのそばにいたい。きみのそばにいて、ずっと世界の中心で愛を叫んでみせるよ、マジ卍」

「いいわよ」

 彼女はそう言って、握手に力を込めた。

「え? 本当にいいの? ぼくと付き合ってくれるの?」

 美少女は握手の手を離して、両手で口を隠した。大笑いした。

「違うわよ。卍の使い方がさっきよりずっといいわよ、って言いたかったの。ねえ、まだおわかりにならないかしら。私、死神なのよ。あなたには、まだ人生を回復する力が残っている。当分お逢いしたくないわ。さようなら」

 そう言って、ぼくの方へ愛嬌のある手の振り方をすると、彼女は右舷の欄干を透き通って、東京湾の暗い夜の海上を歩き始めた。彼女の紺の制服姿は、すぐに夜の闇に紛れて見えなくなった。ぼくは長いあいだ海の上にある暗さを見つめていた。

 工場夜景クルーズはクライマックスを迎えていた。発電所のそばを通るのだ。ぼくは階段をのぼって、甲板の右舷側へ歩いて行った。

 夜の発電所はとても綺麗だった。いつもの癖で、発電所を縁取っている灯りを、ぼくは数えていた。

「光がひとつ、光がふたつ、光が三つ……」

 発電所の光を数えながら、ぼくはどうして工場夜景クルーズで、偶然美少女に再会できたのかを考えていた。そして、「光が七八……」まで数えたとき、その理由に気が付いたのだった。

 この工場夜景のきらめく発電所に出会うまで、ぼくの記憶の中にあったのは、ロンドン南部の発電所だった。クラシック・ロック好きのぼくは、そのジャケット写真をよく覚えていたのだ。 

Animals (Remastered Discovery Edition)

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 ぼくは急に可笑しさがこみあげてきて、ひとりでくすくす笑いはじめた。ぼくが夢に見たピーチ豚の出身地が、ピンク・フロイドのジャケット写真にあったことに思い至ったのだった。

 写真の火力発電所の4本の煙突の間を、ピンクの風船豚が飛んでいる。あの風船豚は撮影後に銃撃されて落下する予定だったのに、強い上昇気流に係留装置を切られて、上へ上へと舞い上がっていったのだった。当時上空を飛んでいたいくつもの旅客機が、上空をふわふわと浮遊する風船豚の飛び具合を、ヒースロー空港の管制に伝えたのだという。

 ぼくは自嘲気味にもう一度笑った。ピーチ豚の言うことは、神様のお告げではなかったのだ。昔の古い記憶をフックにして、ぼくが荒唐無稽な綺想を膨らませただけだったのだ。そんなふうにあの日の夢をまとめて、船を降りた。

 船を降りてから、ぼくは何かに弾かれたように、走って駅まで移動した。いや、話はもうひとひねりあるにちがいない。そんな気がしてならなくなったのだ。

 ピンク・フロイドが出典なら、夢の中のピーチ豚がロック・スター気取りなのはわかる。では、あの不可解なアドバイスの意味は?

「マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっている」

 ぼくは慌てて会社に戻った。職場の荷物置き場には、使わなくなったオットマンが横倒しになっていた。どうして忘れていたのだろう。あのロンドンの発電所ほど、ひっくり返ったオットマンに似ている建築は、世界にまたとないにちがいない。 

 ぼくは丁寧に自宅で愛用していたオットマンを起こすと、座面を開いて、中にしまっておいた七福神の宝船の置物を、机の上に置いた。それは就職祝いに両親からもらった宝物のはずだった。ハードワークと過労に押し潰されそうになって、そんな大事なものをしまっていたことすら忘れていたのだ。 

宝船 七福神 S217

宝船 七福神 S217

 

 ロンドンの発電所がひっくり返ったオットマンだと気付くまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。ぼくはすっかり遠近法を見失っていたのだと思う。何を遠くにおいて、何をそばに置いて大事にしたらよいのか。ハードワークと過労で潰されそうになったら、転職してもいいし、帰郷してもいい。選択肢は、目の前に山積している仕事のほかにも存在するのだ。上空のピーチ豚にヒントをもらって、ぼくは自分の人生の鳥瞰図を取り戻したような幸福な気分を感じていた。 

 ぼくは携帯電話を取り出した。そして、数か月ぶりに田舎の両親に電話をかけじはじめた。

 

 

 

 

 

短編小説「地球代表ライキーの夢」

 ぼくは市民公園の芝生の上をランニングしていた。この街には雨がよく降る。しぶきが飛び散るのもかまわず、雨上がりの芝生を走るのが、ぼくは好きだった。頭上の空から、誰かの話し声がした。

「ほら、視野がラリー・クラークの処女映画みたいだ」

 ぼくは立ち止まって空を見上げた。誰もいなかった。ランニング直後の呼吸を整えるために、口を開けて喘いだ。天では二人で話しているらしかった。

「スケートボーダーの目線で撮った映画ね。あれを受け継いだのは、ガス・ヴァン・サントだったかしら」

ポートランドを舞台にして、スケートボード・パークも撮影した」

「街の男の子たちが作った無許可の遊び場だったわね」

「まさしく一時的自律ゾーンさ。この星の若者文化は実に面白い」 

T.A.Z.―一時的自律ゾーン (Collection Impact)

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 やけにカルチュラル・スタディーズめいた天の声に耳を傾けているうちに、ぼくは思わず溜息をついてしまった。

 夢だったのだ。全身を動かして、生まれ育った町でランニングしたくなったのは、今の自分が、ずっと閉塞空間に閉じ込められているせいだった。

 赤い警告ランプが明滅したので、ぼくは完全に目を覚ました。警告音は1時間に1回は鳴るので、そのたびに叩き起こされることになる。警告音が鳴るのは、宇宙空間に散らばっている無数の宇宙デブリが、シャトルと衝突しそうになるせいだ。

 ところが、今回のアラームは別の原因によるものだった。外部モニターのディスプレーが電波ジャックで切り替わって、そこにきらきらと輝くUFOが姿を現したのだ。UFOはシャトルの横を無音で並行飛行しているようだった。

「地球代表の方、こんにちは」

 言葉は音声ではなく、脳に直接響くテレパシーで届いた。こちらの言語も研究済みらしく、テレパシーの内容ははっきりと理解できた。

「わ! こんにちは。ひょっとして、宇宙人の方ですか」

「その通りです。地球代表のあなたに質問してもよろしいでしょうか」

「どうぞ! ひとりでとても退屈していたところなんです」

「地球に私たちが着陸すると、大騒動になります。騒がれないように、地球の皆さんとお話をしたいのです。地球に住んでいる生命体は邪悪ですか? 善良ですか?」

「子供や動物を虐待する悪い人たちもいます。でも、だいたいは善い人たちが多いですよ」

「本当でしょうか。地球よりはるかに高度な文明を持つ私たちから見ると、地球代表のあなたですら、ペテンに騙されているように見えます。そのスペースシャトルは地球に戻れないように設計されているのではないでしょうか」

「それは嘘です! このシャトルに乗るとき、親友のネルソンが見送りに来てくれて、またすぐに逢えるよって、笑って言ってくれたんです。ネルソンがぼくを騙すはずないでしょう!」

「あなたにとって地球上の生命体がペテン師なのか、天使なのか、私たちから結論は伝えないことにします。あなたを不安にさせたことをお詫びします。質問を変えさせてください。地球は全宇宙の中で下から二番目に文明の程度が低い野蛮な星です。あなたは、地球上の生命体をまだ生かしておく価値があると思いますか? 今でさえ、とてもつらい思いをしているのではありませんか?」

「正直に言うと、今はとてもつらいです。宇宙でひとりぼっちだし、狭いところでじっとしてなきゃいけないし、地球に帰れるのかどうかも、とても不安になってきました」

 ぼくはうつむいた。ネルソンに再会できないかもしれないと考えただけで、淋しくて淋しくて、ちょっとだけ脚が震えた。それでも、ぼくは自分の運命を信じる気持ちを強く持って、顔を上げた。

「お願いです。地球上の生命体を全滅させないでください。確かに、人や動物を殺すのが好きな悪い人もたくさんいます。でも、全然顔見知りでもないのに、路上で暮らしている相手に、食べ物や眠る場所を提供しようとする素晴らしい人々もいるんです。文明の程度は低くても、地球は美しい星です! 地球上の生命を殺さないでください!」

 ぼくは地球代表として何とかそう言い切ったが、自分がどう主張しても、自分はもう地球に戻れないかもしれないと思うと、急に悲劇的な気分になった。

 すると、UFOからのテレパシーに優しい音楽が入り交じった。音楽がぼくをリラックスさせてくれたようだった。

「お答えありがとうございました。では、思念ではなくイメージ映像の形で、あなたが知っている地球上の幸福な記憶を見せてもらうことにします。今から簡単な催眠をかけますね」

 UFOはそうテレパシーで言い終えると、ぼくの脳内を風の音や鳥の鳴き声や潮騒のような幸福な音で満たしはじめた。

 あれ? ぼくの意識はどうしちゃったんだろう? さっきまでの苦しい切ない気持ちが、嘘みたいに消えてしまった。意識の中に、明るい金色の世界がなだらかに広がって、風にそよぐ稲穂のように揺らめいていた。

「さあ、私たちに教えてください。あなたが地球で体験した最も幸福な思い出は何ですか?」

車… 後部座席に乗せてもらって… 西海岸まではそんなに遠くない… ビーチへ出かける週末が、最高の思い出… 大好きなあの遠浅のビーチ… 砂粒が細かい… 裸足で走るのがとても気持ちいい… 親友のネルソンが投げるフリスビーを、跳びあがってキャッチするのが最高の快感で… そう、いつも賭けをしている… キャッチに成功すると、ネルソンが冷たいエビアンを奢ってくれる約束… だから、ぼくもネルソンもいつも大はしゃぎで… 冷たい硬水が美味しい…

「ありがとうございました。では、地球代表のあなたが、あと少し、もっとこうだったら、とても幸福だという空想を教えてください」

何だろう?… ネルソンの末の妹… キャシーはまだ小学生… 10月はキャシーの誕生日なのでネルソン家はいつも大騒ぎ… でも、躾の厳しい家庭だから… いけないのはぼく… 思春期に家出してホームレスだった過去があるから… 家の中には入れてもらえなくて… 外庭からこっそり誕生パーティーを眺めていた… これまで毎年… ぼくだって、きちんとした服を着て、きちんとした言葉遣いをすれば… 真っ直ぐに腕を伸ばして、堂々とネルソン家の呼び鈴を押したい… あら、ライキーじゃないの! おめかししてパーティーにきてくれてありがとう(とハグ)… ネルソンのママらしい出迎え方をされたい… テーブルには誕生ケーキ… 何かのジョークで皆が笑うとき、ぼくも一緒に笑うことができて… 末っ子のキャシーが誕生日のキャンドルを吹き残してしまったら… ぼくが身を乗り出して悪戯で吹き消す… 明るくなった食卓で、キャシーが頬をふくらませていて… 駄目だよ、ライキー。やり直し、やり直し… もう一回電気を消してってば… ぼくが跳びあがって俊敏に電気を消す… またしても真っ暗… おい、何やってんだよ、換気扇まで消すなよ、ライキー… ごめん、ネルソン。じゃあ、こうしよう。誰が最初に換気扇をつけられるか競争!… 私もやる!… あっというまに暗闇のスイッチ早押し競争になる… 三人できゃあきゃあ言い合ってじゃれあう… そして、ケーキの後は、ぼくからの誕生プレゼント… 秘密特訓していたユニークすぎるオリジナルダンス… キャシーは手を叩いて大笑いしてくれる… それがぼくにとって最高の幸福… 

 「ありがとうございました。どうかしましたか? 泣いているのですか?」

「ちょっと心が震えて揺れてしまいました。いろいろと想像しているうちに、どうしてもああいう誕生パーティーに参加したくなっちゃって… もう外庭からの見学は厭だっていう気持ちになって… どうしてもああいう風になりたいのに、どうやったらその夢が叶うのかもわからないのが、ただ淋しくて」

「あなたの心の奥に温かい愛があるのを感じました。大好きなんですね。その親友や周りの人たちのことが」

 ぼくは頷いた。

 すると、驚いたことに、シャトル内部の六面すべての壁が、眩しいくらいに煌々と輝きはじめた。六面の壁は輝くだけでなく、壁を通り抜けて、眩しい光を帯びた不思議な物体が、壁の形状を変えながら、出たり入ったりしているのが視認できた。

 驚いて身を固くしているぼくに、優しい声音のテレパシーが降ってきた。

「地球代表のあなたの心の奥に、宇宙最大の構成要素があるのを確認できました。熟議の結果、地球に着陸して生命統制活動をするのを、私たちは中止することにしました」

「本当ですか? 嬉しくてたまりません! 地球上に生きているネルソンやキャシーなどの生命体が、全員助かるんですね!」

「それだけではありません。たった今、宇宙調整を行いました」

「宇宙調整?」

「宇宙の法則、略して『うほうっ』と呼ぶ人類もいます。次の週末に、このシャトルが地球へ帰還して、あなたのお友達の住む西海岸へ不時着するよう、宇宙調整をしておきました」

「え! 本当ですか? ありがとうございます! 宇宙調整、最高です! 地球に帰ったら、次のキャシーの誕生パーティーに向けて、ダンスの練習をしなくちゃ!」

「後ろ足で立ち上がって、呼び鈴を押す練習も必要かもしれませんね、ライキー」

「地球に帰れるなら、できる仲間の真似をして、それもどんどん練習しちゃいますよ! どこかの宇宙人さん、ありがとう!」

 ぼくは目を瞑って集中して、最大の感謝のテレパシーをUFOへ向かって送った。ありがとう! ありがとう! ありがとう! ぼくのライキーという名前は、ソ連が打ち上げたロケットに搭乗していたライカにちなんでいる。名前を覚えてもらえたのも嬉しかった。

 モニター画面から、オレンジ色の発行体が遠ざかっていくのが見えた。ぼくはテレパシーだけでは足りないような気がして、声に出して、ワン、ワン、ワンと吠えて、にぎやかに尻尾を振った。

 やがて、モニター画面の遠くに、小さな青いビー玉のような美しい星が見えてきた。
 嬉しくなって、もう一度、ワン、ワン、ワンと鳴こうとしたとき、感極まって喉が詰まったせいで、うほうっとぼくは鳴いてしまった。

 

 

 

 

短編小説「古城にあった炎の記憶」

 彼からのプロポーズを受け入れたあと、来年には結婚式を挙げられたらいいねと、互いに微笑み合った。まだ私たちは、幸せな結婚というものが、実際にどんな形をしているのかを知らない。けれど、最初に私が触れたそれは、色とりどりの植物で飾りつけられていた。どの結婚式場のサイトも、信じられないくらいの数の花々で満ちあふれていたのだ。

 私は一人暮らしのワンルームから、ベランダに出た。南向きのベランダに、陽がよく当たるように棚をもうけて、私はリンドウの鉢を置いていた。花々が日光浴をしているときの鮮やかな紺色が好きだったのだ。私は花びらに触れて、それから空を見上げた。真っ青な空に、刷いたように白い筋雲が流れていた。なぜとなく、青空のどこかに鳥が飛んでいないかを私は探した。

 結婚式場を調べる前、私の趣味は読書だった。イギリスに留学していたこともあったので、英米文学の書棚からよく小説を選んだ。お気に入りはポール・オースター

 中でも、オースター自身が書いたのではなく、オースターがラジオで全米から集めた実話のショートストーリー集が好きだった。

 すべて実話で、すべて数ページの短さ。順番に呼んでいくと、実話の世界は驚くほどシンクロニシティーにあふれかえっていた。偶然とは思えない奇跡的な偶然に満ちていたのだ。

 私が好きなのは「青空」という話。

 少女時代、姉の飼っていた青インコを公園へ連れていくと、インコが青空へ飛び立ってしまった。姉は「きっと新しいお家を見つけたわよ」と慰めてくれた。

 それから20年。結婚して子供ができて、家族ぐるみで仲の良い友人夫婦もできた。友人の夫が人生最高のペットの話を始めたとき、私は耳を疑った。ある日、少年の指に空から青インコが舞い降りてきて、少年の指にとまったのだそうだ。日付は一致した。姉の言う通り青インコは「新しいお家を見つけた」のだった。…… 

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

 

 私はもう一度、空の青みを見回した。鳥はいなかった。それでも幸福だった。

 そんなある日のこと。「海外でもいいんだよ」と、式場探しに夢中の私に、彼が背後から声をかけた。そして、彼は私を後ろから抱きしめた。彼は呼吸を置いて、落ち着いて話す癖がある。

「新婚旅行も兼ねられるから、かえって安くなることもあるんだって」

 振り返った私の顔は、きっと自分史上最高の笑顔のひとつだったと思う。彼は彼で下調べをしてくれているらしい。新婦に丸投げして無関心でいる新郎とは、この人は違う。

 建物がまばらな海外なら、写真には広々とした青空が写っていることだろう。何となく、海外の結婚式場サイトの写真に、鳥が写っていないかどうか、探してみたくなった。

 検索窓にどんな英語を打ち込めばいいだろう。迷っていると、ふと clear... well... という単語が思い浮かんだ。打ち込んでみると、イギリスの由緒ある古城を舞台にした結婚式場が画面に現れた。

 ぼんやりと式場の紹介ムービーを見ていると、あっと声があがってしまった。どこかで見たことがあると思ったら、イギリス在住の家族と一緒に、参列したことがある結婚式場だったのだ。くすんだ土色の古城の外壁は、少女の私が見たときと同じまま。

 古城の一室に、小さなテーブルや燭台や飾り花が綺麗に整っているのを見ていると、私は急に悲しくなった。7歳の私は、花嫁の後ろにくっついて、金髪の男の子と、ウェディングドレスの裾を持ち上げる役だった。男の子が私の近くに立つのをどうしても厭がって、そのたびに大人にたしなめられていた。

 私は胸が苦しくなって、胸骨に手をあてて撫で下ろした。この悲しみは、もっと深い傷から来ているような気がした。

「clear... well...」という英単語を思い出したのは、きっと離婚後の母がよく使っていたからだと思う。

「文字通り、いい厄介払いなのよ。あの人はイギリスの古い城と同じ」

 一人娘の私を引き取って、外で仕事をするようになってから、家の中でいつも笑顔を振りまいていた母の性格は一変した。離婚前は言わなかった父の悪口を、いつも食卓に載せるようになり、養育費の支払いが遅れた月は、酒を呑んで大声でそこにいない父を罵倒した。

 母にはひた隠しにしていたけれど、私は父のことが好きだった。父に新しい妻ができて、新しい娘ができたと聞いたときは、自分が嘘まみれの偽者になったような所在なさを感じた。

 けれど、今のこの悲しい気持ちは違う。

 イギリスにいたのは一年だけ。日本人学校にいたので、英語を話せるようにはならなかった。それでも時々、少女時代に触れた英単語が、吃音のように私の存在をノックしてくることがある。

 Bだと私は思った。心理学でいう舌先現象が、自分の心の中で起こっていた。Bで始まる4文字のスペルだとまでわかっているのに、単語が舌先にひっついたまま声にならない。私は口をぱくぱくさせた。不思議なことに、自分の悲しみの中心にあるのが BLUE ではないことは、はっきりとわかるのだ。

 B には BLUE よりも怖い感じが含まれている気がする。ひょっとすると、あの古城へ行く途中のドライブが、少女の私には怖かったのかもしれない。父は黒の礼服姿で、髭もきちんと整えていたので、いつもより格好良く見えた。それなのに、怖がる私に悪ふざけをして、幽霊や魔女の話ばかりしたのだ。

「これから行くお城には、本当に幽霊や魔女が棲んでいるんだよ」

 そして、カーステレオの音量を上げて、その古城で録音されたやかましい曲を鳴らした。曲の歌詞には魔女の台詞が含まれていた。私は耳を塞いで金切り声をあげた。

 どうやらクリアウェルの古城で録音されたのは、ロックの伝説的な名曲だったらしく、大人になってからも何度もテレビやラジオで耳にした。そのたびに私は耳を塞ぎたい気分になった。

 どうしてあんなに「Burn」という曲が厭だったのだろう。そこまで考えると、私はチェストから新しいハンカチを出して、目に押しあてた。箱にしまって鍵をかけた少女時代の悲しみが、どこに由来するのかを、私はようやく思い出したのだった。

 離婚が決まってからも、父と母と一人娘の私は、一か月だけ一緒に暮らした。そのあいだに、幼い頃からの最大の遊び相手だった柴犬が亡くなったのだった。私は病気で餌を食べなくなった柴犬のムクを、自分の部屋に連れ込んで、毎晩添い寝して世話をした。

 ムクが亡くなった日、私たちはムクの犬小屋のあった庭に出て、冷たくなったムクを囲んで食事して、7年分のアルバムを家族三人で振り返った。ムクと家族が写っている写真を父母娘で指差し合って、懐かしさで誰もが朗らかになり、それから、ムクも家庭も戻ってこないことを悟って、皆で泣いた。おかしなことに、あれが私たち三人家族が一番仲の良かった日だった。

 三人でムクの遺骸を囲んで写真を撮った。父母娘とも、泣き腫らした顔をしているのに、涙の筋を光らせて笑っている不思議な写真になった。

 それから、ムクの身体を一斗缶の中に丁寧に曲げて入れて、油をかけて火葬した。あの晩、もう住まなくなる庭先にあった赤々とした炎のゆらめきを、私は一生忘れないと思う。燃えていたのは、ムクの遺骸だけではなかった。私たち三人で作ってきた家庭が、燃やされていたのだった。

 私は涙を流しながら、もう一度胸骨に手をあてた。そして、マッサージで皮膚の下のリンパ液を押し流すように、少女時代から鬱積していた悲しみを、胸から押し流そうとした。しばらくずっと、自分の中にいる少女を撫でさすっていた。

 それから、ハンカチで涙を拭くと、彼の方を振り返った。

「ねえ、私が10歳のときに離婚してから、ずっと会っていないんだけれど、式にはお父さんも招いていいかしら」

「もちろん」と彼は即答した。それから、いつものようにひと呼吸置くと、こう言った。

「きみのお父さんにも、花嫁姿を見てもらおうよ」

 彼は私が泣いていたことに気が付いたようだった。テーブルの上のハンカチを手に取って、私の目を瞑らせて、涙の残りを丁寧に拭き取っていった。

「どうしたの。ひとりしかいないお父さんなんだから、招いて当然だろう」

 私は目を閉じたまま微笑んで頷いた。私にはこの人ひとりしかいない。あらためて幸福を感じながら、瞼の裏に広がっている残像の空に、私はいつまでも鳥の形を探していた。

 

 

 

(クリアウェル城に呼ばれたのは、当時無名のカヴァデール)

短編小説「マッチ箱サイズのバイオレンス」

「知らない写真家の個展に迷い込んだことがあってね」と、ハンドルを握っている30代の男は喋りつづけた。「画廊の壁には、マッチ箱くらいの写真があったかと思うと、オレよりデカい巨大な写真まである。サイズがバラバラな写真が、白壁に撒き散らされている感じなんだ」

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(画像引用元:Wolfgang Tillmans - Exhibition - Andrea Rosen Gallery

「順路に沿って見ていくと、近づいたり遠ざかったりしなきゃいけなそうですね」と助手席の20代の女が答えた。彼女はロングヘアで、赤いショルダーバッグを腰の前に抱えていた。

「ところが実際はそうじゃない。小さな写真を見たあと、大きな写真を見ると、わっと眼前に迫ってきた感じがする。さっき遠くで手を振っていたきみも、そんなふうに見えたんだ」

「高原でヒッチハイクする女性なんて、珍しいから」

「なんて言うか、きみは遠くに立っていたのに、わっと近くに迫って見えた」

「ふふふ。ロマンティックなことを言いますね。乗せてくださって、ありがとうございます」

 女はダッシュボードに手を伸ばして、貼りついているシリコン製のマットに触れた。

「柔らかい。これ何ですか?」 

「知り合いからもらったんだ。単なるマットに見えて、小物入れ。スマホを載せてもビクともしないんだぜ」

 女は自分のスマートフォンを載せて、手を離した。

「本当だ。ぴったりひっついている」

 高原の真ん中で、男は急に車を路肩に寄せた。

「なあ、オレたちもひっついてみないか」

 女はすぐに拒絶した。

「いやです。ごめんなさい。この車に乗せてもらったときから、すごく悪寒がするんです。背中がぞくぞくして、後ろに誰かいるような気がするの。誰かに追いかけられているんじゃないですか?」

「後ろなんかに誰もいねえよ。誰もいねえからこそ、できることをしようじゃないか」

「やめてください。警察を呼びますよ!」

「呼べるなら呼んでみろ!」

 男は大声を上げて威嚇したが、女は男の腕をするりと抜け出して。助手席から転がり落ちた。そのまま一目散に森の中へ駈け込んでいった。

 男は追いかけようとしたが、森の夕暮れの暗さを見て、追いかけるのをあきらめた。暗がりの中で見失ったのだ。

 男は車に戻ると前照灯をつけた。車通りのない林道を走りながら、女が言った台詞を思い出していた。

「背中がぞくぞくして、後ろに誰かいるような気がするの。誰かに追いかけられているんじゃないですか?」

 バックミラーで後部座席を覗いても、もちろん誰もいない。

 バックミラーが光った。背後から、こちらを追尾してくる車両があるのだ。どうして車の走っていない夜の山道で、この車を追いかけてくるのだろう。男は背筋が冷たくなって、手に厭な汗をかくのを感じた。

 林道が山へと分け入った。背後の車両はまだ追尾してくる。くねくねとしたカーブが続くので、男はハンドルを繰り返し左右に切った。

 次の瞬間、フロントガラスが急に白々と明るくなって、画廊で見たあの巨大写真のように、昔の女の顔がこちらに迫ってきた。女の顔は殴打された傷とむくみで腫れ上がっていた。傷だらけの顔をした女がこちらへ手を伸ばしてこようとした瞬間、男はわあと悲鳴をあげてハンドルを切り、路肩の樹木に正面衝突した。大破した車のフロントから火の手があがり、車はたちまち炎に包まれた。燃え上がった炎が、夜の樹々を高々と照らし出した。

 後ろから追尾していた車が、事故車を通り過ぎてから、急停車した。

 助手席から、長髪の赤いショルダーバッグの女が出てきた。携帯電話で警察に通報しているようだった。炎上している事故車まで走ってきて、自分を襲おうとした男がかろうじて炎の中から這いだしたのを確認すると、そのまま自分の男の待つ車へと戻っていった。ダッシュボードに置いた投影機能つきの忘れ物を、女はあきらめたようだった。

 夜の山道を走り出した車の中で、運転席の男が女に訊いた。

「映像を見ただけで、本当に事故を起こすとはね」

「暴力を振るう男って、要するに怖がりで淋しがりなのよ」

「車はきれいに燃えちゃったね」

「手品のフラッシュ・コットンみたいに、きれいに消えたわけじゃない。姉はあの男に酷い目に遭わされたんだから。でも、妹として感じた傷も、マッチ箱サイズの写真くらいには縮んだ気がするわ」

 そういうと、女はハンドルを握っている男の手にそっと触れた。それから囁くようにこう言った。

「何されるかわからないから、本当はとても怖かったの。あなたがすぐそばにいてくれて嬉しい」

 

 

 

 

 

 

 

短編小説「聖夜の失神エレベーター」

 もしそんな稀少な思い出があるなら、誰もがホワイト・クリスマスのロマンティックな思い出を語りたがるだろう。

 でもぼくはあの思い出を語りたくない。自分の胸にだけしまっておきたい。

 ぼくは部屋の飾り棚にある小物入れから、女物のレースのハンカチを取り出した。ハンカチを鼻に押しあてると、かすかな花の香水がぼくの鼻腔をくすぐってくる。あの晩の記憶が蘇って、どうしても息が乱れてしまう。ハンカチを顔から離して、レースの刺繍を指でなぞる。花々の形に編まれた繊細な糸の連なりが、ぼくの指先の動きに抵抗してくる。

 あのホワイトクリスマスの晩、ぼくはその女物の香水に理性を奪われて、手錠をされたまま、パトカーの後部座席に放りこまれたのだった。

 話はクリスマスの半月前に遡る。

 雪の降るクリスマス、彼女のいなかった大学一回生のぼくは、宅配ピザのアルバイトに初出勤した。

 クリスマス当日は忙しい上にバイトが働きたがらないので、ぜひとも出勤してほしい。グルにそう頼まれたのだ。半月前の面接のときのことだった。いま思い返すと、あれはとてもユニークな採用面接だった。

 …控室のドアをノックして着席すると、店長から自己紹介があった。

「私のことは『店長』ではなく『グル』と呼んでほしい」

「?」 

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「安心してほしい。ここはただの宅配ピザ屋だ。小さい頃、絵本の『ぐりとぐら』が好きだった。私は三人兄弟の末っ子だったので、『グル』という呼び名が定着してしまっただけだ」

 店長がひとりで乾いた笑い声を立てた。

「いくつか大事なことを質問させてもらうよ。好きなピザは何?」

マルゲリータでしょうか。イタリアの王妃に捧げるために作られたピザなので、王妃をイメージしながら食べちゃうせいだと思います。心の中では、親しみを込めて『マルちゃん』って呼んでいますけどね」

「ほう、王妃というキーワードが出てきたか。じゃあ、好きな恋愛映画は何?」

「『君の名は。』でしょうか。ちょっと待ってください、グル。それ、宅配ピザのバイトに関係ありますか?」

「関係あるに決まっているだろ! 初めて電話注文を受けたときには、必ず『君の名は』?って訊き返さなきゃいけないんだ」

「言葉遣いがフランクすぎません? 『お客様のお名前は?』じゃないですか?」

「そうそう、大事なことを訊き忘れていた。彼女と初めてお泊りした夜、眠りに落ちる直前の30秒で言ってほしい台詞は?」

「グル、もう一度言いますけど、それピザに関係ないですよね?」

「関係あるに決まっているだろ! キザな台詞が好きなのか、反対に、ピザな台詞が好きなのか、それが問題だ」

「待ってください。キザとピザは反対の概念なんですか?」

「そうやって、すぐに左脳で理解しようとしては駄目だ。理解は感情を奪う。いったんそのソファーに寝てみると、キザかピザかのイメージが湧くはずだ。遠慮するな。寝てごらん」

 宅配ピザの面接だったはずが、思いもかけない展開になってきた。グルは先に立ち上がって、楽しそうに微笑んでいる。一緒に働きやすい憎めない人だと感じたので、ぼくも腰を上げた。そして、隣に置いてあるソファーに横たわって、目を閉じた。

 店長は部屋の電気を消すと、先に女役で喋りはじめた。

「ねえ、何だか眠くなってきちゃったわ」

「ぼくも眠くなってきたかな」

「……」

 目を閉じたまま、ぼくは自分がどんな台詞を欲しがっているのか、真剣にイメージした。やがて、ぼくは目を開けた。

「グル、聞こえました。『ずっとそばにいて』ですね。これで間違いありません」

 店長は電気をつけて、ぼくに駈け寄ってきた。両手をバンザイのポーズに挙げて、ハイタッチを求めてきた。ハイタッチすると、店長は喜びの声をあげた。

「素晴らしいキザっぷりだ。最後にひとつだけ聞かせてくれ。きみは高所恐怖症かい?」

「実は… そうなんです。まずいですかね?」

「まずいどころか、ブラボーだ! おめでとう、採用決定だ!」

「ありがとうございます!」

 その場では、調子を合わせてハイタッチしたぼくだったが、自宅へ帰ってから、何とも釈然としない気持ちになった。同じ店でバイトしたことのある先輩に訊いたが、そこは美味しいせいで固定ファンが多いことを除いては、特に変わったことはなかったという。

 アルバイト初日のクリスマス、雪がちらついていた。路面が濡れる程度の雪だったので、宅配バイクを走らせる分には問題なさそうだった。制服に着替えて、バックヤードに立つと、店長が電話注文を受けているところだった。パーティー・シーズンなので、ピザは8枚。すぐ近隣の区域には、30分以内で配達する約束になっている。

 ピザが焼けるまでに、ぼくは急いで配達へ向かう準備をした。グルはいつになく真剣な表情で、ぼくの背後から声をかけた。

「注文入れてきたの、怖い兄ちゃんだから気をつけな。30分以内配達厳守で頼むぞ」

 ぼくは伝票の注文時間を見て、時計を見た。土地勘もあるし、配達バイクはナビつきだ。注文後15分前後で到着できそうだった。ぼくはグルを振り返って「わかりました!」と返事した。

 数分で到着したのは、40階建ての高層マンション。このマンションには、各駅停車、偶数階停車、奇数階停車、20階以上停車の四種類のエレベ-ターがある。四基のうち、開いていた各駅停車の一基に乗り込むことができた。ぼくの姿を見つけた女性が、扉を開けて招き入れてくれたのだ。

 ぼくはエレベーターに乗り込むと、礼を言って最上階のボタンを押した。すると、女性はぼくの背後から回り込んで、2階から39階までのボタンをするすると指でなぞって、全部押してしまったのだった。

 ぼくは激しく動揺した。各階に停車していたら、間に合わなくなるかもしれない。すると、女性が振り返って、ぼくの目をまともに見た。背筋がぞくっとするほど綺麗な女性だった。

「ごめんなさい。少しでも長く、あなたと二人きりでいたかったから。40階までは長いわ。荷物を下へ置いてくださらない」

 女性の美しさに眩々しながら、ぼくは操られるように、ピザの入った保温ボックスを床に置いた。すると、女は金糸を縫い込んだワンピースをきらめかせながら、ぼくの胸板にすがりついてきた。ぼくの顔の下にある彼女の髪から、切なくなるような素敵な匂いが立ち昇ってくる。

 女が顔を上げた。

「あら、キスをするときは、目を瞑るものよ」

 ぼくは言われるままに目を閉じた。目を閉じると不安になったので、彼女の身体に腕を回そうとした。すると女の両手がぼくの両手を抑え込みに来て、ぼくの身体の後ろでつなげた。その両手に冷たい何かがあたって、カチリと音がした。

「大丈夫よ」と女は耳元で囁きながら、しっとりとした細い手で、ぼくの頬に触れている。「このマンションで各駅停車の昇りエレベーターを気にする人はいないわ。最上階まで、好きなように愛撫させて」

 手錠を掛けられるとすぐ、ぼくの両目を覆うように、女物のショールがぼくの頭に巻かれた。手錠をかけられ、目隠しされて、ぼくは箱の中でもてあそばれるがままの人形になった。胸を波打たせて、荒い呼吸をするだけの人形になった。耳元では、まだ女が囁いている。

「ずっと捜していたのよ。もうどこにも行かないで。ずっとそばにいて」

 ぼくは身体だけでなく心も痺れてしまった。ますます動けなくなった。

 女はしばらくぼくの頬や胸を優しく撫でていた。女の手からは舶来のハンドクリームのような香りが漂っていた。或る瞬間から、女の手は力強くなって、ぼくの制服のボタンを順に外して、パンツのベルトの留め金を外した。そして、こう囁いた。

「いま18階よ。街のクリスマスのイルミネーションが綺麗。オス犬みたいに喘いでいるあなたを、東京の夜景の光のひと粒ひと粒が見ているわ」

 ぼくは高所恐怖症と羞恥心が入り交じったおかしな気分になって、脚が震えはじめた。

「ねえ、美人は好き?」と女が囁いた。ぼくはこくりと頷くのが精いっぱいだった。囁きは続く。

「うふふ。正直で可愛いわ。じゃあ、美人の履いているレースの下着は好き?」

 ぼくがどう答えるべきか迷っているうちに、女の身体が離れて衣擦れの音がした。まさか、フランス映画みたいな展開が、本当に起こるのだろうか。ぼくは息を呑んだ。 

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  ふいに頬に繊細な肌触りの布切れが触れた。かと思うと、っそれが丸められて、ぼくの口の中へ突っ込まれた。ぼくは放心状態になって、口から涎を垂らした。女がぼくを夢中にさせる台詞を囁いた。

「ずっとそばにいて」

 ぼくはそのまま失神してしまった。

 気が付いたとき、ぼくはパトカーの後部座席にいた。上下とも下着姿で、後ろ手に手錠をされて、口にはレースの下着が突っ込まれていた。

 話し声がしている。後部座席の隣には店長が座っている。警官と身元引き取りの話をしている。パトカーでピザ店まで送ってもらったぼくたちは、裏口から従業員控室へ入った。

 店長がぼくの口からレースの布を抜き取った。驚いたことに、それは下着ではなく、ハンカチだった。それがどうしても信じられなくて、ぼくは珍しい生き物を見るように、ハンカチを凝視した。店長はぼくの背後へ回って、手錠を外せるかどうかを確認していた。

「毎年パーティーの季節になると、ああいうケチな客が出るんだよな」

「ケチな客?」

「知らなかったっけ。ほら、近隣区域に30分以内に配達できなかったら、ピザ代を無料にすることになっているから、好き放題仕掛けてくるんだ」

 背後に回っていた店長が、簡単に手錠を外してくれた。ニッパーではなく、鍵を使ったようだった。店長がぼくを慰めようとした。

「でも、お前にハニートラップを仕掛けたのは、綺麗な女だったんだろう?」

「はっきり覚えていないんですけど、何ていうか、好きになってしまったような気がするんです」

「どのあたりでハートを持っていかれたの?」

 店長は洗ったあとの手に、ハンドクリームを塗っている。ぼくは手首に残った手錠の痕を触りながら、こう言った。

「ぼくのことをずっと捜していたと言って、彼女はぼくの頬を愛おしそうに撫でてくれたんです」

「そいつは素敵なラブシーンだな。『オス犬みたいに喘いでいるあなたを、東京の夜景の光のひと粒ひと粒が見ているわ』の方はどう感じた?」

 ぼくは目を見開いて、店長の方を振り返った。そのとき、店長愛用の細身のハンドクリームのチューブが視野に入った。 

 「どうして知っているんですか、店長!」

「言い直せ。俺を何と呼ぶべきだと教えた?」

「どうして知っているんですか、グル!」

 その台詞の最後の二文字は、ぼくがこれまでの人生で口にした中で、最もつらい二文字だった。ぼくはがっくりと肩を落とした。

 店長は黙っていた。その沈黙は雄弁だった。あのときは夢中だったので、気がつかなかった。各階停車のエレベーターは密室ではない。ぼくの耳元にあった甘い囁き声の持ち主と、ぼくを愛撫していた二つの手の持ち主は、別人だったのだ。ぼくはグルの愛撫で失神してしまったのだ。急に喉元に嘔吐が突き上げてくるのを、ぼくは感じた。

 店長がぼくを気遣って隣に座った。

「わかるよ。俺も今でもあの女のことが好きで、夢にまで見るんだ。ちょうど去年の今頃から、ずっとだ」

 ぼくは返事をしなかった。そのまま着替えて、傷ついた心を抱えて無言で店を出た。

 店長は自分も同じハニートラップの被害者だと言いたいのだろう。あの女を忘れられない被害者が、翌年「グル」になって別の被害者を招き寄せて、愛する女のピザ・パーティーを無料の祝宴にする。

 そういう奸計は、可能性としてはありうると思う。けれど、ぼくはピザよりもキザな言葉を大切にする男だ。目隠しされた悲しさで、「ずっと捜していたのよ。もうどこにも行かないで」というあの彼女の囁きだけが、確かにあそこにあったものだと感じられてならない。

きっと、ぼくたちの間に、想像もつかないような不運があったのだろう。ぼくのもとから彼女が立ち去ったのは、彼女がマフィアのような組織に脅されたからではないのだろうか。そうでなければ、「ずっとそばにいて」と自らぼくに囁きかけた女性が、急にいなくなるなんてことがあるはずない。

どうすれば… 彼女にまた逢えるだろうか。実際に彼女に逢って、ぼくへの気持ちを確かめるには、どうすればいいだろうか。

ぼくは夜の街路を引き返して、宅配ピザ店へ向かった。来年のクリスマスまでに、店長にグルの座を譲ってもらうよう、直談判しようと思った。

 

 

森羅万象の声に耳を傾ける日曜日

日曜日を日曜日らしく過ごす日曜日が、たまにはほしい。

そんなことを考えながら、今日は休日気分で、ドライブして買い物に行ったり、図書館で読みたい本を借りてきたり、昔好きだった音楽を聴いたりして過ごしていた。

このところ掌編小説を一日一本書くのを日課にしていた。自分の思う完成度に遠く及ばなくても、とりあえず目を瞑ってアップして、連載物を含めると50篇前後を書き飛ばしてきたというわけだ。掌編小説はアイディア勝負なので、今は読み返す気にならないほどのクオリティーでも、リライト次第で生かせるものばかりのはずとは、作者の弁。

自分の資質の盛りつけとしては、ペーソスとユーモアとセンス志向の生きたこの短編なんか、可愛らしいのではないかと思う。

ずっと前から書きたいと思っていたのが、遠隔運命愛のこの短編。女性が真夏のオーストラリアを訪れて、南半球のその地が厳寒であること思い知る場面を書き忘れている。思いの温度が正反対となっている描写で「片思い」を表現すれば、さらに好きになれそうな短編だ。実はこれは実話だ。というのは嘘。どうしてだか、今日は嘘をつきたくなってしまう。

今日は梅雨の晴れ間で天気も良いので、気分転換をしようと思う。掌編小説には使えそうもなかった読書の一部を、備忘録として記録しておきたい。

これも90年代の曲。You Tubeで「Luca」という懐かしい曲に再会したとき、日本でいちばん古い「ルカ」のことを思い出した。戦時中は「大東亜中央病院」という名前に改名させられたらしい。「聖路加」国際病院を「聖ルカ」と読むことを人々に最も多く知らしめたのは、名誉院長だった日野原重明だと思う。

人間ドック制度を発案したり、成人病を生活習慣病にリネームしたり、病院を有事緊急医療可能に設計して、その先見の明が地下鉄サリン事件で見事に生きたり、若い頃には日航よど号ハイジャック事件に遭遇したりと、耳目を引く偉人級の逸話に事欠かない。戦後最大の「国民的医師」だったのではないだろうか。2017年に105才の現役医師として逝去した。

著作は数え切れないほどあるし、自分が50才を過ぎてから読もうと考えて、敬遠していた。ところが、今日大学図書館で書棚を歩いていたとき、小さなストロボを焚いたように本が光ったのだった。そんな風に、物理的に本が光ったかのような錯覚にとらわれることが時々ある。半年前の記録がこちら。

 今晩はベンチャー企業の話を書こうと思っていた。ところが、図書館の蔵書に検索をかけても、ほとんど引っかかってこない。街一番の本屋さんへ行けばあるだろうと思って書棚の前に立ったが、ほとんど見当たらなかった。

 そのような読書候補の残骸の中で、最も輝いていたのが本書。 

あれ? 分かる人にだけわかるように、遠回しにしか書いていないな。あのときも間違いなく本が光ったような気がしたので、街一番の本屋さんで迷わず購入した。読んでいるうちに、どうして神様があの本を読めと自分に囁きかけたのか、わかった気がしたのだ。

音楽力

音楽力

 

今日もぱっと光ったこの本を、中身も確認しないまま図書館から借り出して、帰りの信号待ちの車内で読み始めた。なるほど、と私は膝を打った。あちこちのページが、自分がこれまで追いかけてきた主題につながる本だったのだ。夢中になって、あっという間に読了した。

驚いたことに、日野原重明音楽療法の推進者でもあり、シュタイナー発案のライアーを使って治療にあたっていたというのだ。これは嘘ではない。実際に拒食症患者が大きく回復した臨床例もあるのだという。

このライアーという竪琴はしシュタイナー教育の中から生まれた楽器で、開発者のシュタイナーは、音階の周波数にきわめて強い警告を発したことでも知られている。

音の基準音が 432 Hz から変更されるようなことがあれば、この世は悪魔の勝利に近づくだろう。

ところが、その432Hzは「悪魔」の手によって、440Hzに変更されてしまった。その経緯は、(シュタイナーの上記発言も含む)下記の貴重な記事で確認できる。音楽の個人的なデジタルデータを、432Hzに戻すテクニックも、別の記事で紹介されている。

読みにくい文章で、440Hzを国際平均律にした歴史的陰謀を確認したい読者は、拙記事をどうぞ。

このソルフェジオ周波数には、人を暗澹たる気持ちにさせる悪魔的な弾圧の歴史がある。ジョン・レノンを始め、音楽家は直感的にほぼ確実にソルフェジオ周波数を支持するらしいが、その身体的効果そのものの科学的測定は難しい。しかし、世界的な弾圧の歴史が史実として残っているからこそ、そこに人々の心身の利益が隠れているとするという推測は、かなり有力だ。そもそも、1%軍産ー金融複合体の非音楽家たちが、大勢の音楽家たちの反対を押し切って、独自の世界標準を作らねばならない理由を、他に求めることは難しいからだ。

人民をエンパワーするソルフェジオ周波数を禁じて、軍産複合体を潤す戦意高揚に適した周波数を研究して、人々を音楽でも支配しようとしたのは、両大戦間のアメリカ海軍と1%グローバリストだった。音楽を大衆支配の道具にすることに反対した研究者ハンス・アイスラーは、フーバー時代のFBIに尾け回されて、最終的に国外退去処分を受けたのだそうだ。そして、アメリカ発の平均律A=440Hz(ソルフェジオ周波数と調和するのはA=444Hz)は、ナチス・ドイツの推奨や陰での国際銀行家たちの金の力によって、数多くの音楽家たちの反対にもかかわらず、「国際平均律」となったのである。  

さて、今朝大学図書館で発光したようにみえた本には、まだまだ読みどころがあって、何度も感動の唸りをあげてしまった。対談相手をつとめる音楽評論家の湯川れい子の発言が、スピリチュアリズムの深いところまでぐいぐい喰い込んできているのだ。

どこかで「スピの座上昇気流」と呼んだスピリチュアリズムの興隆は、日本で最も著名な音楽評論家の思想にまで及んでいたのだ。

スピリチュアリティという用語の主流文化における広がりは、1998年に世界保健機関(WHO)が新しく提案した健康定義にspiritualが含まれていたことに始まる。以下が提案された健康定義である。

Health is a dynamic state of complete physical, mental, spiritual and social well being and not merely the absence of disease or infirmity.

「健康とは、完全な身体的、心理的、スピリチュアル及び社会的福祉の動的な状態(静的に固定されていない状態)であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない。」

スピリチュアリティ - Wikipedia

 

「スピの座上昇気流」を説明する定番の上記資料にアクセスしたあと、湯川れい子は凄いことを言ってのける。

 もっと、自然が発するメッセージに、私たち人間は耳を傾けなさいということなのでしょう。おじいさんは聞き耳頭巾をかぶることで、鳥の声もウサギのおしゃべりもわかるようになりました。私たちにはそんな便利な頭巾はありませんが、本来、ありとあらゆる物体は、人間の耳には聞こえないメッセージを出しているのだと思うのです。

 こうした民話が世界中どこにでもあるということは、目にも見えず、音にも聞こえないで、すべての物体は振動し、互いに共鳴し合って生きていることを示していて、これまで真空と思われていた宇宙空間にも、量子と呼ばれるエネルギーが満ちていて、振動している。とうことは、すべてがリズムと情報を持って存在しているということです。  

(…)私は以前、木が出している情報を増幅して音にしたというものを聴かせていただいたことがあります。サキソフォンに似たような音で、亡くなったテナー・サックスの松本英彦さんは、その音と掛け合いで演奏をしたことがありました。

プレスリービートルズに最も近かった日本人音楽評論家は、今や宇宙の真理にかなり近いところまで接近しているように見える。そう思うのは私だけだろうか。宇宙の真理とは、我流でひとことでまとめると、こんな感じだ。

この世のあらゆる森羅万象が音(周波数)を持っている。というより、音(周波数)が森羅万象の形を作り出している。

この世には、サイマティックスと呼ばれる「周波数と物質形状の相関関係」を扱った科学分野がある。かつて、自分も下記の記事でこう書いた。

エヴァン・グラントは、テクノロジーと自然と愛との調和を目指しているテクノロジカル・アーティストのようだ。たぶんサイマティックススピリチュアリズムとの関わりについては、あまり知らないのではないだろうか。

TEDの動画でも紹介されているサイマティックスの名付け親であり創始者でもあるハンス・ジェニーは、何と「人智学」のシュタイナー派の自然科学者だったのである。 

TEDの演説でスピーカーは「サイマティクスが宇宙の形成に影響を与えていたかもしれない」と力説しているが、「宇宙の形成」という呼び方は、ややミスリードか。それだと「宇宙の誕生(Big Bang)」を想像してしまう。

むしろ、「周波数が自然界のあらゆる事物の形を作っているかもしれない」と考えた方が、はるかにスリリングなのではないだろうか。そして、そのワクワクするような「神の領域」の神秘に、少しずつ科学が分け入りつつある。

 またしても、そこにシュタイナーという固有名詞が召喚されていることを、私たちはどう考えるべきなのだろうか。

またかよ。話がスピリチュアルに飛びすぎて、ついていけないよ! 

そんな声も聞こえる。 ワールドカップもやっていることだし、今晩は攻め急がずにバックパスをして、自陣でゆっくりボールを回すことにしようか。

つまり、私たちが接している美しい建築に、美しい音楽と同じ法則が働いているとしたら? そうなら、森羅万象と音楽の関係を、私たちは新しい心で捉え直すことができるかもしれない。

前身ブログで、昭和の文豪である三島由紀夫を論じたことがあった。

(明晰と理性の神アポロンをいただく)アポロン的存在の薄い皮膜を(酒と陶酔の神デュオニュソスをいただく)ディオニュソス的存在が荒々しく突き破って、渾然一体と相交じり合う劇が、ミシマの作品で執拗に反復されていることに、もう少し多くの文学研究の言葉が費やされるべきではなかったか。アポロン的な「建築」とディオニュソス的な「音楽」を交合させた「建築に音楽があり、音楽に建築がある」という対句が頻出するのはささやかなその直叙だが、金閣寺』で主人公が女と性的交渉を持とうとすると、「憂鬱な繊細な建築」が現れ、私の「人生との間に立ちはだかり」「巨大な音楽のように世界を充たし、その音楽だけでもって、世界の意味を充足するものになった」と書かれる名高い場面にも、ニーチェ経由の二項対立の秘教的な合一が顕現している。  

ニーチェの『悲劇の誕生』が三島由紀夫に深い影響を与えたことは知られていても、その両者を読み込んで、そこに「建築⇔音楽」の二項対立を読み取った研究者は、管見の限り知らない。そこに、シンメトリーと逆説を頻用した三島好みの修辞以上のものがあることも、未言及の論点だろう。

ロザンヌ・ハガティーのNYのホームレス避難所もいい。日本のメタボリズムの影響を受けた「Half-build」方式のチリの集合住宅もいい。どちらもソーシャルデザインとして素晴らしい。しかし、そのソーシャルデザインの背景には自然が見えてなければならない。言い換えれば、鴎外のように、改描だらけの歪んだ地図の下に、幾何学模様の水脈が見えてなくてはならない。

ソーシャルデザインをさらに透かし見て、ネイチャーデザインを視野に入れて、それと調和していく線の引き方が、デザインの未来で輝いているような気がしてならない。 

地域社会と調和するデザインの先に、(人も含んだ)自然と調和するデザインがあると、記事をまとめた。そこで最後に言及したジョージ・ドーチの本を今日手に取って、これも自分が読むべき本だったのだと直感した。

序文の書き出しからして、こうなのだ。

 どうしてリンゴの花には5枚の花びらがあるのか。子供だけがこんな質問をする。大人は、われわれが十指で数えられる数しか使わない事実のように、分かりきったこととしてこのような事象には注意を払わない。

どこかから声が聞こえる。

悪いけれどね! 大人でもね、人間の指がどうして5本なのか、一生懸命に考えて、得意げにブログで披露したりするんだよ!

ひょっとしたら、40代男性の心の中に6才くらいの子供がいて、そんな子供っぽい反論をしたり、東京から帰ってきて号泣したり、もうイヤでたまらないので出してくださいと懇願したりすることもあるかもしれない。ただし、ラシュタイナー由来のライアーを扱った生地だけに、嘘か本当かはよくわからないのだ。

ブログにけ検索をかけると、こんな記事が見つかった。

20代の中頃、パーティー会場への移動途中、ある新進作家と雑談をする機会があった。自分が作家志望の友人に「人間の手足の指が5本だということと、サッカーボールには関係がある」という話をしていたら、「どういう意味?」と割り込んで訊いてきたのだ。(…)

「サッカーのゴール=受精の瞬間」という独自の文明論を前提にすると、サッカーボールと5本指の深い関係が見えやすくなる。ゴールが決まった後のボールは、どうなるだろうか? 二分割、四分割、八分割、十六分割、三十二分割となったとき、受精卵はざっとこんな形になると、当時調べた本で読んだ。 

ミカサ サッカーボール5号 SVC50VL-BK

ミカサ サッカーボール5号 SVC50VL-BK

 

そこで初めて、人体の起源の受精卵に5という数字が刻まれる。五角形が登場するのだ。その五角形だけを黒く塗ったのが、ミカサのような伝統的なサッカーボール。ほら、サッカーボールは受精卵の生成分化において、初めて五本指の5が出現した瞬間を象徴しているのである。

ただし、「先駆者パパネックの直系の道を進んでいる」という私の予想は的中していた。卵割から推測した五本指の起源なんていうヤワなもんじゃない。

日本の桂離宮を分析したこのページには、度肝を抜かれるデザイナーも少なくないのではないだろうか。

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ブルーノ・タウトが絶賛したというから、桂離宮が縦軸でも横軸でも黄金比が駆使されていることは、事前に想像できる範囲だ。しかし、その黄金比の配置具合と、画像の右端にある音楽のルート・ハーモニーが対応しているのには吃驚だ。東洋の音楽は5音でできているので、東洋人は図に書き込まれているディアペンテ(ペンタは5)という2:3の比例に快美感を感じるのだ。

まさしく美しい建築と美しい音楽は重なっているのだ! これは空前の研究成果なのではないだろうか。

この世のあらゆる森羅万象が音(周波数)を持っている。というより、音(周波数)が森羅万象の形を作り出している。 

 上記の自分のまとめはあまりにも深遠で、どんな学術分野に探索をかけても、ほとんど手掛かりらしい手がかりは得られない。

ただ、自分なりの情勢分析として近未来の相貌は、多少は見えてきたような気がする。

元々ドゥルージアンだったこともあって、ブログ元年の2003年から学術分野の領域横断を意識したブログを始めた。ところが、都度都度の異種混交からの創造という動きは、大会社の製品開発の現場でも、オープンイノベーションという形で広がりつつある。

そして、自分が偏愛を寄せているジャズ+ヒップホップ+エレクトロニカの分野でも、同じような異種格闘技戦が繰り広げられているのだ。自分に響いた発言を拾ってみたい。

村井: ジャズの定義というのは難しいですが、馬鹿な言い方をすれば、どれだけ自由かということ。(…)つまり、何をやってもいいってことは、ブルーグラスをやったってクラシックをやったっていい。(…)ただ、最近すごいなと思うのは、その自由な場所に入るには大変な目に遭うってことです。(…)ものすごいセオリーとテクニックが必要になっていて、それはジャズだけではなく、ブルーグラスもクラシックも、ある種のロックもみんなそうなんですけど。ここに入るためには相当な技術と知識とセンスhがなきゃいけない。

(…)

村井: (…)あと、いまいろんあジャンルが交じるようになったっていうのは、実はそれぞれのいろんなジャンルの人たちが、他の音楽についての知識と技術を共有できるようになったからなんです。(…)ポイント・オブ・ノー・リターンを過ぎてしまったという気がすごくするんです。

(…)

後藤: 70年近く生きてきて、ここ数年は明らかに世界が根本的に変容しているという感じはすごくするのね。ジャズだけじゃなく、音楽だけでもなくて。(…)とにかくすべては変わっていくという予感は強くするんですよ。  

100年のジャズを聴く

100年のジャズを聴く

 

学問でもジャスでもイノベーションでも、共通して起こっている大変化の背景には、ICT技術の急速な発達があることは、誰の目にも明らかだろう。

 私たちの旅の最終地点はどこだろうか。人も物も音でつながっている。そう書くと短すぎるような気がする。再び言い直そう。

この世のあらゆる森羅万象が音(周波数)を持っている。というより、音(周波数)が森羅万象の形を作り出している。 

この最終地点に見えている見取り図が、どこまで充分なものかはわからない。ただ、単一の学問、単一の専門だけで、独立した閉鎖体系を打ち立てることは、もはや不可能な時代に私たちはいる。

異種格闘技を恐れず、異種人材と積極的に協働して、アドホックな共同創造を繰り返すことのできるスキルが、必須になることだけは間違いないだろう。そのためには、異なる領域にいる人や物の声に耳を傾けることができるといい。異業種の人々だけでなく、風や雨や動物や植物の声に耳を澄ます心の余裕が必要だろう。

上で引用した高名な音楽評論家は、木の幹が発する音に無耳を傾けたことがあるのだという。今日、気晴らしに川沿いを歩きながら、自分も川の流れに耳を傾けていた。投げ入れた小石が川の淀みに波紋を広げるのを見つめていた。

ふと『シベールの日曜日』という懐かしい映画を思い出した。

第一次世界大戦で精神的外傷を受けた帰還兵が、懇意になった少女と森で遊んでいるところを銃殺される映画だったと思う。二人が引き裂かれるのは、木の幹にナイフを突き立てて、少女と一緒に木の声を聴いていたからだった。(1:05:26から、二人で木の声を聴く場面)。「シベール」という少女の名は「とても美しい」に由来している。

自分とは異なる人や物や、いつも異なる風や空や自然の声に耳を傾けながら、広すぎる子の世界を遊撃手として生きていくこと。川辺でそんな想念に満たされながら、しばらく自分の近未来を思い描いていた。とても美しい日曜日だった。

 

 

 

(90年代によく聴いていた曲)

短編小説「真ん中がとびっきり美味しいドーナツ」

 同級生の葉子に、高校の廊下で声をかけられたとき、私は少し驚いた。私はチアリーダー部で、葉子は茶道部。文化圏の違う女子なので、これまでほとんど話をしたことがなかったのだ。葉子は私にお願いがあるのだという。

「ごめんなさい。今日からテスト週間で部活はお休みでしょう? うちの兄貴があなたと、30分でいいから話をしたいって言っているの。好きな飲み物をヴェンティで頼んでいいから、駅前のスタバでお話に付き合ってあげてくれない?」

 葉子に去年同じ高校を卒業した兄がいることは初耳だった。きっと目立たない性格の男子だったのだろう。私は葉子にどういう人なのかを訊いた。

「大人しいけれど、多趣味で面白くて、喋るのは好きみたい。欠点は、ちょっと前置きが長いことかな」

 私の脳裡に、緑のストローが刺さったマンゴー・フラペチーノが浮かんだ。スターバックスはテイクアウトだってできる。気に入らなければ、マンゴーフラペチーノを片手に店を出ればいいだけのことだろう。

 スターバックスの待ち合わせ場所には、眼鏡をかけた大学生のお兄さんが立っていた。私たちは自己紹介を済ませると、注文の列に並んだ。すると、さっそくお兄さんが喋り出した。

「ス… ス… あれ?何て言ったかな。スイスイ… そうだ。スイスイスーダララッタスラスラスイスイスイ」

「スーダラ節がどうかしたんですか?」

「スイスイ… というわけで、水分補給は大事ですね。ぼくたちの身体の半分以上は水でできているから。飲み物は何にする?」

 私は笑いを噛み殺しきれなくなって、手で口を覆って隠した。葉子が言っていた「前置きが長い」というのは、こういうことなのか。稀に見る不思議くんに遭遇してしまったのかもしれない。私は人間観察欲求が疼きはじめるのを感じた。

 お兄さんの独特すぎる前置き癖は、席に着いてからも続いた。

「ス… ス… スカイ・ラブ・ハリケーンって知っている? いや、ワールドカップを観戦していて、日本のサッカーアニメで育った選手がいっぱいいるのに、誰もスカイ・ラブ・ハリケーンをやろうとしないのが、少し淋しいなと思って。最近のサッカー選手が重視するのはアジリティー(敏捷性)らしい。ビッチにはアジリティーを、社会にはアジール(避難所)を。きみがこの街角のアジールにいられる時間は、あとどれくらい?」

 それにしても不思議な会話スタイルだ。お兄さんは前置きが長い性格なのではなく、単刀直入にズバッと言うのが苦手なのではないだろうか。私はお兄さんが会話の端々で、私に気付かれないように、左手の手のひらをちらちら見るのに気づいていた。手のひらに会話の鍵言葉がメモしてあるのだろう。かなり奥手の男性に見えた。

「そうか。30分しかないなら、急がなきゃ。本題に入るよ。このあいだ、従兄弟の結婚式に参列したとき、教会で合唱隊が讃美歌を歌うのを聞いたんだ。アカペラじゃなくて、弦楽器とピアノの生演奏も入っていたから、心に響いた。すると、新郎新婦を見つめているぼくの視野に、透明な数字が明滅し始めた。筆算の足し算や引き算がうっすらと浮かんでは消える感じ。ぼくは自分で自分を疑ったよ。従兄弟の結婚式で、ぼくの潜在意識は何を計算しはじめたのだろうって。不思議で仕方なかったんだ。

 生演奏の歌が続いている間じゃなきゃ、思い出せない気がしたので、ぼくは必死に記憶を掘り起こそうとした。その記憶は深いところで見つかった。

 ぼくが小学校三年生のときの話。公文式の数学教室に通っていたぼくは、自宅兼教室をやっていた阿部先生のお嬢さんのことを好きになった。小学校三年生くらいだと、まだ親に何でも話す時期だ。友達のネットワークと母親のネットワークが連動して、すぐに噂は広まってしまった。小学校三年生のくせに、お互いがお互いを意識し始めた。

 最大の影響は、ぼくが公文式の算数に真剣に打ち込み始めたことだろう。教室で阿部先生に認められれば、お嬢さんの繭子ちゃんに近づけるような気がしたんだ。ぼくは公文式のプリントを凝視した。並んでいる問題をただ順番に解くのではなく、計算問題の相互間に法則性があることを見抜いて、いつも教室で一番に解き終えた。その初恋がぼくにメタ問題認知を教えてくれたというわけさ。

 阿部先生は成績抜群のぼくに好感を持ってくれたようだった。何と、ぼくは生まれて初めてのラブレターを、友人づてに繭子ちゃんからもらったのだ。それが、小学生のぼくが初めて母親に隠した秘密だった。

 ところが、阿部先生の一家が仕事でアメリカへ引っ越すことになってしまった。ラブレターはアメリカからも届いた。手紙の中身に阿部先生の検閲は入っていなかったようだ。なにしろ「いつか日本へ帰って、ぼくと結婚したい」と書いてあったから。ぼくも「結婚しよう」と返事を送った。

 アメリカへ移住した当初は、一年間だと聞いていたのに、繭子ちゃんが帰国したのは、二年後。ぼくたちが小学校六年生になってからだった。待ちに待った再会のその日、ぼくは衝撃を受けて気分が悪くなって、帰宅して寝込んでしまった。小柄で可憐な細面だった繭子ちゃんは、身長も体重もぼくより巨大化して、やたら活発で声の大きなドラえもんみたいになっていたのだ。同級生の誰もが、その変貌ぶりに驚いた。「アメリカ人にすり替えられた」と囁く男子もいた。

 小学生のぼくは幻想を打ち砕かれて、酷く傷ついた。国際線が飛ぶほどの遠距離は、人の運命を変えてしまうこともあるんだと思い知ったんだ。

 かといって、変わってしまったその運命が、むしろ幸運へとつづくことだってあると思うんだ。あの時のショックでしばらく本気の恋から遠ざかったからこそ、19歳の今、本気の恋に出逢えたのかもしれない。そんなことを考えながら、ぼくは従兄弟の結婚式で「アベ・マリア」を聞いていたというわけさ。

 国際線が飛ぶ遠距離が人の運命を変えてしまうといえば、面白い話があるんだ。ボサノバはブラジル発祥だというのが定説のようだけど、厳密にはアメリカ西海岸にルーツがある。サンバに飽き足らないブラジル気鋭の若手ミュージシャンたちが、ジェリー・マリガンチェット・ベイカーを聴き漁ったのが発端さ。どうして西海岸のジャズだったと思う? いや、時代は50年代半ばだ。コタh\絵は意外なところにある。

 当時すでに、西海岸とブラジルを結ぶ空の直行便があったからなんだ。このアルメイダのドーナツ盤も、帰省者の手荷物で25枚も空輸されて、ブラジルの音楽家たちに行き渡ったらしい。マイルドでリラックスできる素敵な曲だろう? ボサノバを生んだのは空飛ぶドーナツ盤というわけ。そこから世界的なボサノバ・ブームが始まった。国際線が飛ぶほどの遠距離は、やはり人の運命を変えてしまうんだね。

 ……お兄さんの長広舌を何とか無事に聞き終えた私は、こう訊かずにはいられなかった。

「今のが、本題? 今日私を呼び出したのは『空飛ぶドーナツ盤』のことを話すためだったんですか?」

「ごめん、厳密に言うと、本題はまだ終わっていない。きみに訊きたかったのは、この質問だ」

 そう言うと、お兄さんは軽く咳払いして、喉の調子を整えた。

「どう? 夏になったら、どこかへ遊びに行かない?」

 私は虚を突かれて絶句してしまった。

 ここまでの長話のすべてが「どう?夏」を呼び出すための前置きだったらしいのだ。この人は不思議な感性の持ち主だ。私は呆れるのを通り越して、お兄さんに興味を感じはじめた。

「本当ですか? 実は今のも前置きなんじゃないですか? そうだ。私は手相がわかるんです。その左手を見せてくださいよ」

 お兄さんは一瞬たじろいで、左手を引込めようとした。私は何も意地悪をしようとしたわけではない。手のひらにカンペのメモ書きがあるなら、それを話のきっかけにして、もっと面白い話を聞かせてもらおうと思ったのだ。

「私、女の子の手も握れないような男性は、好きじゃないかもしれません」

 お兄さんはうつむいたまま、観念したかのように、マジック書きのある左手を私に示した。ところが、手のひらに書かれていたのは、話の種になる鍵言葉ではなかった。マジックでこう書かれていたのだ。

はい。ぼくは決断力と行動力のある男の子です! 好きな人には必ず好きだと言えます!

 スーダラ節やスカイ・ラブ・ハリケーンがどうして話題にのぼったのかを、私は理解した。年上のお兄さんがすっかり可愛らしく感じられて、彼の手のひらのマジック書きが見えなくなるように、その上に私の手のひらを重ねて握った。

「素敵な手相ですね。特に運命線がとても良いみたい」

 お兄さんは、ほっと安堵したようだった。私の手を握り返して、何か言おうとした。けれど、言葉が見つからない。私が言葉をつづけた。

「夏になったら、どこかへ一緒に遊びに行きましょう。その代わり、真ん中がとびっきり美味しいドーナツをご馳走してくださいね」

 私が笑うと、お兄さんも笑った。謎めいたお願いをしておけば、きっとこの人なら、また夏に面白い話を聞かせてくれるだろう。それを想像すると、私のくすくす笑いはなかなか終わりそうもなかった。

 

 

[参考文献]