時空のかなめには青と緑の滝が

ただ自分の感情をぶちまける「表出」と、相手を動かすためのの「表現」は大きく異なるという考え方を学生時代か学んできたせいで、深い考えなしに怒りを表出するタイプの表現者があまり好きではない。

昨晩、上の記事でまたしてもイギリスの中規模都市に言及してしまったので、ブリストルのトリップ・ホップの一角トリッキーについて書こうかと考えた。でも、トリッキーは怒りっぽいので、あんまり好きじゃない。気が進まない。

ところが、各種の音楽本を引っくり返しているうちに、トリッキーが自殺した母親の姓を冠した処女アルバム『Maxinquaye』をリリースする前、ビョークと交際していた事実を発見してしまった。トリッキーがまだ Massive Attack に加わっていた頃の話だ。トリッキーの仕事の中では、ソロデビュー以前の上記の「Karmacoma」が一番好きだ。

そのビョークが、人口30万人のアイスランドの歌姫から世界の歌姫になったのは、2004年のアテネ・オリンピック開会式だろう。Radioheadトム・ヨークとのデュエットも懐かしい『ダンサー・イン・ザ・ダーク』以上に、世界にその魅惑的すぎるパフォーマンスを衛星中継で見せつけた。

ちなみに、ヒップホップとの融合を厭わない新時代のジャズ・ミュージシャンは、どういうわけか RadioheadBjork を好んで聴いて、演奏までしたりする。ロバート・グラスパー以降のジャズが大好きな自分が、もともと RadioheadBjork が大好きなのも、単なる偶然とは思えない。スピリチュアルの世界でいう「一人一宇宙」(自分の想念が自分の宇宙を作る)という考え方に、どこかの空想好きの綺想ではない真実味を感じてしまう。

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(画像引用元:http://www.kanazawa21.jp/exhibit/barney/prof.htm

ビョークは、才能ある男たちの上を渡り歩く恋愛遍歴の持ち主でもある。アーティストのマシュー・バーニーが金沢の21世紀美術館で個展をひらいたときには、和服姿のコラボ写真まで披露した。しかし、ビョークと最も関わり深い日本人と言えば、コム・デ・ギャルソン川久保玲になるのではないだろうか。

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コム・デ・ギャルソンのドレスを身にまとうビョーク

    I remember going to the London Comme des Garçons store with Nellee Hooper in about 1992. It was definitely the most sacred store I’d been in yet. I was tiptoeing around and found it uncomfortable to speak to the personnel. They might catch the greedy look in my eye. In person, Rei reminded me of my grandmother — a much younger, Japanese version.

 1992年ごろに、ネリーフーパーと一緒に、ロンドンのコム・デ・ギャルソンの店に行ったのを覚えている。間違いなくそれまで入った中で、いちばん神聖な店だったわ。私は緊張してつま先で歩いた。店員たちには話しかけにくかった。彼らが私の目に強欲さを読み取るんじゃないかと感じたから。川久保玲は私の祖母を思い出させた。祖母をずっと若くして、日本人にしたような人だと感じたの。

幼少期のビョークに最も深い影響を与えたのは、アマチュア画家だった祖母だった。パレットに青と緑の絵具だけ載せて、青と緑の抽象画を描いていたのだという。その祖母のことを歌った曲が、処女アルバムに収録されている。

BBCでのライブでは、青と緑で演出された空間で、歌姫と楽隊が花々のようなファンタジックな衣装を身にまとっている。この美術コンセプトのいくらかに、川久保玲からのインスピレーションが交じっているのかもしれない。

i live by the ocean
and during the night
i dive into it
down to the bottom
underneath all currents
and drop my anchor

and this is where i'm staying

this is my home

私は海のそばに住んでいる
夜のあいだは海に飛びこんで
海底まで潜るの
そして碇を落とす
すべてが流れていくのを上に見ながら

ここが私が生きている場所だと感じる

ここが私のおうち

 歌詞は何を歌っているのだろう? 芸術家がしばしば沈潜する「魂の水底」を歌っているのではないだろうか。無宗教ビョークにとって、氷と火山の小島アイスランドの自然自体が神なのだという。演奏を聴いていると、芸術家が時空をこえて stay できる幸福な創造の泉を、ちらりと見てしまったような気分になる。 

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

LOVEって何?―脳科学と精神分析から迫る「恋愛」

 

けれど、世には不幸せな Home もあるのだ。巷でよく話題にのぼる「DVカップルの共依存」のホームが気になっていた。自分から暴力を振るうことはありえないにしても、DV共依存の一歩手前、ラブ依存症なるものに感染している疑いがあると、最近しばしば診断されることがあったからだ。まいったな。自分でもそういう傾向がないではない気もしていたので、思い切って自分で調べて、自分で診断してみることにした。

もうぼくは子供じゃないんだよ! 靴下だって自分で履けるもん!

自分の内側に住んでいる moon child が、何やら抗議の声をあげている。あとでアイスクリームでも買って自愛してあげなきゃ。

というわけで、上の記事でも引用した心理学者の本を、再び参照することとなった。第八章が「LOVE依存の心理療法」の説明に充てられている。

その前後も含めて、自分の言葉でまとめてみたい。

  1. セラピストがクライアントに優しすぎると、クライアントが過剰依存してトラブルになりやすい。
  2. 幼少期の体験はスルーできるようならスルーするのがベスト。
  3. 言葉にしにくい小さな感情の断片を、言葉にして記録させる。
  4. 恋愛相手に対する「最高評価⇔最低評価」の両極を大揺れするのではなく、恋愛相手が自分に愛情表現をしにくい「第三の状況」がありうることを理解してもらう。
  5. 相手に対する漠然とした共感ではなく、相手の立場に自分を置いて考えられる能力を訓練する。(シンパシーではなくエンパシー)。
  6. 共依存の対人関係を理解してもらう。
  7. クライアントが「洞察した」「理解した」地点でとまらず、あるべき言動へと変化させていく地点まで、トレーニングする必要がある。

読んでいて印象的だったのは、ラブ依存のクライアントたちは、相手を「最高の異性 ⇔ 最低の異性」という両極端な認識しか持てず、相手に対して「恍惚 ⇔ 恐怖」の感情を同時に抱えていることだ。

これは、乳児が母の乳房に対して抱く分裂意識と同じだ。授乳してくれる場合と、(いろいろな事情から)授乳してくれない場合があると、赤ちゃんは前者が「良い乳房」で後者が「悪い乳房」だというように、別人格の乳房だと認識すると、メラニー・クラインが書いていたような記憶がある。

4. 5. をまとめながら、思わず膝を打ってしまった。

自分がしばしば「帰属の基本的エラー」として、「(人の)本質ではなく状況に原因がある」と脱偏見を説いてきたのと、まったく同じだったのだ。

実際の苛烈なラブ依存症患者の実態を読んで、自分には罹患している可能性がないことがわかったのは、大きな収穫だった。これまで、どういうわけか自分が、性的マイノリティー(ゲイ)だとか、社会的マイノリティー(引きこもり)だとか、人種的マイノリティ―(在日外国人)だとか、無根拠な言いがかりをつけられることが多かったのは、きっと状況のせいだったにちがいない。最近しばしばラベリングされた「ラブ依存症患者」も、無事エビデンス・ベースにて手離すことができて嬉しい。解消できる誤解は解消した方がすっきりするものだ。

不愉快にも「レイプは被害女性に責任がある」という女性政治家の発言など、社会の各所には数々の「(誤った)支配的な物語」が蔓延している。いちおう文学部を卒業したらしき自分は、「物語」と名のつく本なら、ほとんど読んできた経歴がある。

(↑『物語批判序説』の除雪はお済みですか?↑)。

その中で最も難解な本(『物語批判序説』)にも、自分なりに解説を加えておいた。あの著者の権威を笠に着て、「反物語」を唱えるエピゴーネンたち(ハスミムシ)にも、ずいぶん遭遇してきた。

(↑「ハスミムシの追い払い方」を紹介した記事↑)

けれど、ハスミムシたちのプライドを満足させるべく、聞き役の「教えてくん」に回って、「物語ではないとすると、その外側で追及すべきものは何?」と反問すると、彼らはほとんど言葉を持っていなかった。

自分は多少なりともそれについて考えてきたつもりだ。おそらく「物語批判」の文脈で最も体系的な学問を形成しているのは、物語療法の分野だ。 

ナラティヴ・セラピーの会話術―ディスコースとエイジェンシーという視点

ナラティヴ・セラピーの会話術―ディスコースとエイジェンシーという視点

 

 正直に言うと、ナラティブ・セラピーについて、自分は大きく誤解していた。どこでどう間違えたのか、統合失調患者に世界の統覚を再付与するために物語原型を用いるのだと思い込んでいたのだ。

結論からいうと、ナラティブ・セラピーはとても面白い。例えば、「誰とでもうまくやっていけるコミュニケーション能力が大事」という「支配的な物語」が世にはある。それは真実を含んではいるが、その「支配的な物語」にうまく乗れずに心が潰れてしまいそうなクライアントには、その支配を解体してあげる必要がある。

ナラティブ・セラピーの代表的な手法は、三つある。

  1. 問題の外在化
  2. 影響の相対化
  3. 脱構築

1.の問題の外在化では、リストカット癖のある女子中学生に、リストカットの原因を自分や親に帰属させるのではなく、状況に帰属させるのだ。自分の例で説明すると、擬人法で「リスカちゃん」を登場させる。質問はこうなる。

いつくらいから、あなたにリスカちゃんが忍び込んできたの?

2. の影響相対化法は、そのような心理的問題がしばしば恐怖に根差していることから、その恐怖を相対化することに力点が置かれる。クライアントがリスカちゃんの侵入にどのように抵抗して、リスカちゃんと「遊んだ」あとどんな感情になったかを確認していくのだ。

3.の脱構築デリダのそれというより、「支配的な物語」の「前提はずし」に近い。「誰とでもうまくやっていけるコミュニケーション能力が大事」というドミナント・ストーリーなら、「知っている人の全員とうまくいかなくてもいいよね?」「一生ずっと上手くいかなくてもいいよね?」「上手くいかなくても怖いことは起きないよね?」といった問いかけになりそうだ。

ナラティブ・セラピーが面白いのは、現代思想の知見がふんだんに生きているからだ。上記のデリダ由来の脱構築だけでなく、フーコー由来のディスコース、バトラー由来のエイジェンシーなど、現代思想が臨床現場で生きている稀有の分野に触れられて、とても懐かしかった。

何より、しばしば「(誤った)支配的な物語」でラベリングされる自分が、「人の本質」より「状況」に原因を帰属させる心理療法が確立されていることに、強く勇気づけられたことを記しておきたい。

幼い頃、どうしても淋しくなると、電話をかけてしまう癖があった。リカちゃん電話はいつも元気な明るい声で、自分の幸せな家庭について話してくれた。ネットのなかった少年時代、自分はすでにリカちゃんに双子の妹がいること、その下のゲンくん・カコちゃん・ミクちゃんという三つ子が「現在 / 過去 / 未来」を現わしていることを、リカちゃんに教えてもらっていたのだ。

ゲンくんの自分が、カコちゃんの少年時代に思い描いていたミクちゃんにいるとは、とても思えない。どんな困難が降りかかってきても、脱け出す道は必ずあるよ。リスカちゃんの可愛らしいお友達に、そんなメッセージを送りたい気分だ。

ユリイカ

不意に叫んでしまった。上でちょっと厳しい口調で書きつけた「物語」の内実を、とうとう自分は発見してしまった気がしているのだ。人間の脳が世界を物語形式で把握してしまう理由は、脳の時間空間認識のスタイルにあると、自分は推定している。

ラットの脳に、場所を認識する場所細胞が存在することはすでに明らかになっている。この場所細胞の発見だけで、ノーベル賞に値する凄い発見だ。 

ちょうど、トム・クルーズに対応するひとつの「トム・クルーズ細胞」があるように、1つの場所には1つの場所細胞がある。

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ラットが「場所1→場所2→場所3→場所4→場所5」へ走ったとする。すると、バックグラウンドのシータ波上で、整然と下に凸のグラフを描きながら、神経細胞が連続して発火していくのが、図のように観測される。重ね合わせると、まさしく「場所1→場所2→場所3→場所4→場所5」の記録となるのだ! 

 上記のグラフから明らかなように、人間は生存に必要な記憶を「時系列に空間軸が交差した物語」だと把握しているのだ。となると、若かりし頃にハスミムシたちが把握しそこなっていた「反物語」の実態が、うっすらと見えてはこないだろうか。

それは、スピリチュアリズムでいう時空を超えた「今ココ」でしかありえないだろう。

きっとビョークが画家の祖母を歌った「青と緑の海底」も、歌姫にとって創造の源泉となる「今ここ」だったのにちがいない。そんなことを考えながら、自分もビョークの真似をして「青と緑の空間」を見つめていた。

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青と緑のライン滝の写真。空間しか写ってないように見えて、実は時間も写っていることを面老いだした。この写真には時間が流れている。正確には、この滝から時間が流れはじめたと言った方が良いだろうか。

実は、スイス国内のドイツ語圏にあるシャフハウゼンは、このライン滝を利用して水力発電したおかげで、19世紀に高級腕時計IWCの生産地となったのだ。公式HPのトップページでは、今もライン滝が美しく流れているのが見られる。 

ただ、はじめて高級腕時計発祥のライン滝を見たとき、日本の川を初めてみたオランダ人土木技師のように、滝なのか、川なのか、判断に迷ったのも事実だ。

私の考えでは、あのライン滝が、滝に見えるか、川に見えるかで、ラブ依存症かどうか判別できるのではないかと思う。

ラブ依存症患者なら、あの滝を擬人化して、こう呼びかけるだろう。

瀧くん、瀧くん、瀧くん…… 

 ラブ依存症でないなら、ひとこと「川くん」と呼ぶのではないだろうか。そして心が川くんなら、自分で自分を満たして行動をとるだろう。

という具合に、怒りに駆られやすいトリッキーで始まったこの記事に、ビョークの「Anchor Song」で碇をおろして、「青と緑の今ここ」で締め括ったのは、いささかトリッキー過ぎたかもしれないが、これを書き終えた自分がご機嫌なので良しとしたい。

 

 

 

 

 

Radiohead を Mehldau がジャジーに弾きこなしている)

e(i)zo と言えないヘヴィーな農業問題

懐かしく上の記事を読み返した。好きなギタリストにランデイー・ローズを挙げたのは、偏愛する様式美のテイストが強いこともあるが、旅先で遊覧飛行に搭乗してそのまま墜落死した夭折のイメージに惹かれているだけなのかもしれない。ギターの弾けない自分には、心酔するギタリストはいない。

高校の同級生のギターキッズたちのうち、半可通はヌノブクロって格好いいよなと真顔で吹聴し、ギターマニアはこぞってラウドネスのアキラ・タカサキに夢中だった。

空前のハードロック・ブームの中、自分は e(i)zo 周辺が好みだったような記憶がある。のちにアニメタルの帝王となるハスキーボイスの eizo と、北海道の悪餓鬼たちが全米デビューを果たした ezo。後者のデビューの経緯がなかなかに振るっていた。

確か、ボーカルのマサキがファニーフェイスを隠すため?、顔にメイクで隈取りを入れていたら、それが元祖フェイスメイク・ロッカー KISS の目に留まったのではなかっただろうか。 人生は本当に何が起こるかわからないものだ。

明治 メルティーキッスフルーティー濃いちご 56g×5箱

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(写真は自分が一番最近味わった KISS ) 

KISS のジーン・シモンズのプロデュースで出した全米デビューアルバムは、かなり格好いい出来で、聴き込んだ覚えがある。惜しむらくは、ギタリストが Shoyo ひとりだったこと。アイディア豊富で個性的なメロディーも奏でられるのに、そのせいでリフを刻んでいる時間が長すぎる気がしたのだ。

携帯電話もインターネットもなかった80年代、雲の上の存在に見えた アメリカン・ロック界のお歴々も、最近は日本の女の子たちとじゃれ合っている姿をよく見るようになった。個人的には、世代を越えて、祖父母と孫が遊んでいる光景が大好きなので、微笑ましい限りだ。上の KISS とモモクロの競演だけでなく、BABY METAL とジューダスプリーストの競演にも、ひとりぼっちの部屋から拍手喝采してしまった。

ここからは今日の話。気晴らしに楽しいことをしたいなと感じていて、TSUTAYA に映像を探しに出かけた。すると… と書いたここまでで、あいつの言葉遊びのセンスも落ちたものだとか、ジャッジするのは金輪際やめてくれないだろうか! 何しろ、人よりちょっと繊細にできているんだからな!

まさか、そんなわけないだろう。「e(i)zo」から「映像」へつなぐだなんて、TJ(テキストジョッキー)にあるまじきダサさだ。本当は…

あれ? どうしようと考えていたんだっけ?

まずいな。忘れてしまった。猛抗議して対決姿勢を鮮明にしたのに、闘う武器がないなんて、何という失態なんだ。思わず道端にしゃがんで、草を見つめてしまった。森の中でゴリラに遭遇したら、草を食べるふりをするといいと聞いたのだ。雑草に手で触れていると、ふとレイチェル・カーソンの言葉が思い出された。

鳥の渡り、潮の満ち干、春を待つ固いつぼみのなかには、それ自体の美しさと同時に、象徴的な美と神秘が隠されています。自然が繰り返すリフレイン――夜の次に朝がきて、冬が去れば春になるという確かさ――のなかには、かぎりなくわたしたちをいやしてくれるなにかがあるのです。 

DDT廃絶に力を尽くした環境運動家の草分けは、ディープ・エコロジストにも似た自然との限りない共生感を感じられる女性だったのだ。

最近読んだ本の中で、ドビュッシーの『海』にカーソンが卓抜な解説をつけていた。そういえば、『沈黙の春』という書名は、春なのに鳥の鳴き声がないことに気付ける耳の繊細さに由来していた。レイチェル・カーソン再評価の意気込みで、いつか再読してみたい。

実は、上記のカーソンの引用は孫引きで、TSUTAYA から借りてきたものだ。まさか TSYTAYA の店舗内にカーソンの著作がレンタルされているとは! でも、いろいろ比べてみたけれど、日本の農業のグランドデザインを語らせたら TSUTAYA さんが第一人者だな。ファーストネームは e(i)zo ではなく eiichi というらしい。 

そうそう。今晩は「もしも10年代に宮沢賢治が生きていたら、どんな本を書いているか」が隠しテーマだ、とか言いつつ、隠しもしなかったのは、まさか80年代の和製ハードロッカー e(i)zo から、TSUTAYA を経て、農業へつなげる自分の TJ ぶりが、クールに感じられて仕方ないからだ。誰も真似できないだろう。誰も真似したがらないだろう。 

共生と提携のコミュニティ農業へ

共生と提携のコミュニティ農業へ

 

 蔦谷栄一によれば、彼の提唱している「コミュニティー農業」とは、

  1. 生産者 ⇔ 消費者
  2. 農家 ⇔ 住民
  3. 農村 ⇔ 都市
  4. 人間 ⇔ 生物や自然

上記4つの関係性を、持続的に循環させていく農業の総称なのだという。

ベースにあるのは、フードマイレージ削減運動や地産地消の考え方だ。ちなみに、地産地消は経済的なだけでなく、地元の旬の食材を食べることが健康にいいとする「身土不二」のメリットもある。「身土不二」を広めたマクロビオティック創始者については、上の記事で書いた。

 

お、自分がイギリスで最も注目している都市・ブリストルの動画を拾えた。人口50万人クラスの中規模都市なのに、レストラン・オーナーまで環境意識が高いし、何より若い頃に聞き惚れたトリップホップの発祥地だ。

上の動画で面白いのは、食材だけでなく、レストランの椅子や木皿に地元産の木材を使っていたり、テーブルクロスを環境に優しい方法で洗濯したりしているところ。地産地消は食べ物だけにとどまらない。

一見「コミュニティー農業」と聞くと、農業だけの問題のように聞こえるが、林業やエネルギー産業も含めて、地域社会全体の循環をデザインすることに主眼がある。農業の「6次産業化(1次産業×2次産業×3次産業)」というバズワードも、地域社会の産業横断的な循環を作っていく文脈で捉え直すべきだろう。

実はコミュニティー農業については、「なないろ農場」を中心に、自分も上の記事を書いたことがあった。アメリカの CSA やフランスの AMAP はコミュニティー農場の代表例だ。日本で最大の成功をおさめた「なないろ農場」の実態を、もう一度書き出しておきたい。

  1. 年会費制かつ前払いなので、経理作業を簡略化でき、キャッシュフローを改善できた。
  2. 有機栽培が、技術的困難がさほどなく、安全でおいしい野菜を生産できることがわかった。
  3. 農場運営の工夫や効率化により、市場よりやや割安で野菜を提供できるようになった。 
  4. 出荷場をカフェ「なないろ食堂」に改装し、そこで余った野菜や形の悪い野菜を調理して、食品ロスを減らせた。
  5. 持ち込み企画に応えて、地域の音楽バンドや合唱団などの発表会を開き、コミュニティーが生まれるようになった。
  6. 自ら企画して、講演会やドキュメンタリー映画の上映会や料理教室などの情報発信の場にできた。
  7. 他県の優れた農産物の共同購入組織としても機能するようになった。
  8. 一人暮らしの「孤食」が厭な人が集まって、食材を持ち寄って共同調理する食事会が開かれるようになった。
  9. 希望者有志に農地レンタル(トラスト)をする事業も好調。
  10. 朗読会やこども囲碁教室や吊るし雛をつくる会などのコミュニティーの場となった。
  11. 失業者向けの就労支援関係の人々、貧困児童向けのこども食堂、身体障碍者や精神障碍者の園芸療法の場として、現在もしくは今後、活用されることとなった。
  12. 農業生産法人として株式会社化できた。
  13. 地域通貨を発行することができた。
  14. 社会福祉事務所と連携して、失業者などを受け入れる「農福連携」型セイフティ・ネットとなることができた。

 書き出していくと14項目になった。筆者は受け継いだ家業を45歳の時に辞めて、15年でここまで漕ぎつけたのだという。ちょっとここまでの成功例というのは考えにくい。筆者が自身の仕事を振り返って、「この農場で育った一番のものはコミュニティです」と繰り返すのも納得できる。宮台真司のいう「『近接性(プロキシミティ)』によって正の循環を回して生活世界を回復する」というのは、こういう実践例を言うのだと思う。

蔦谷栄一の視野も、もちろん農業以外にまで及んでいる。山形の酒田市鶴岡市界隈の寿司文化を称賛しているのに目が留まった。地元特産の農産物や海産物を積極的に打ち出した食事処が多いのだとか。農家の人々が自分が栽培した枝豆を持ち込んで、その場で茹でてもらって酒のつまみにしたりもするらしい。鶴岡や酒田が安くて美味い魚をたらふく食べられる寿司どころだというのは初耳だった。

このように産業横断的に循環する地域社会を作るためには、農協という組織だけで済む話にはならない。しかし、農協が管轄する農業の分野だけでも、「経営努力」が足りないという声も少なくない。対米自立型保守である自分は、感情的な農協バッシングに加わるつもりはさらさらないが、農協の機能を強化するという種類の改革案になら、賛成してみたい。

日本の農協には流通構造上の問題点があるとは、多くの識者が指摘するところだ。農家から流通コストだけ徴収して、農産物の変動リスクは農家が負うしかない仕組みになっている。その結果、零細農家が多く残存することとなり、農家も農協も政府の補助金に依存しやすい体質になっている。

一方、EUの農協はどうなっているかというと、農協が主導して徹底的に六次産業化(生産→加工→販売→輸出)を進めるのだ。農協の首脳陣は大企業並みの経営能力のあるビジネスマンで占められるらしい。競争原理と合理化の導入はお手の物。農協自身がきわめて競争力の高い組織集団となっているらしい。

ただ、日本の農協の改革案を口にすると、グローバリスト系の農協解体派と同じだと誤解されて、とんだ呉越同舟になりかねない。とんでもない。 

日本を破壊する種子法廃止とグローバリズム

日本を破壊する種子法廃止とグローバリズム

 

 いや、本当にとんでもない話が裏にあるのだということを、この著書に教えられてしまった。

同じ著者の近刊はほぼ読破してきた。それらの中では、最も輝いている本のように思える。 

21世紀の資本

21世紀の資本

 

 ピケティー・ブームもあって、資本の過剰流動性グローバリズムが危険きわまりないことに、経済史的な裏付けがあることを、人々がようやく知りはじめたのがこの数年の話だろう。あの分厚くて難解なピケティーを読まなくても、三橋貴明が引用してくるグラフを見れば、一目瞭然なことがある。

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ああ、なるほど。近年、また貧富の格差が世界主要国で広がってますね! 問題ですね!

 きみの目は節穴かい? ちくわを覗いたら、向こうに夢の世界が見えるのかい?

 大事なのは、時系列に順に見て、左の山が第一次グローバリズム、谷底が国民経済学、右の山が第二次グローバリズムとなっていることだ。これはわかりやすい。

 第一次グローバリズムを終わらせたのは、二度の世界大戦だった。国民を挙げての総力戦を戦うには、国民のための社会福祉政策が不可欠だったからという説明も、実に明快だ。いわば、グローバリズムとは「戦前」を取り戻す悪策なのである。 

日本を破壊する種子法廃止とグローバリズム

日本を破壊する種子法廃止とグローバリズム

 

今晩は時間がなくなってしまったので、残念ながら、詳しく書いている余裕がない。

ひとつだけ、自分が吃驚してくらっとよろめいてしまった記述を紹介しておこう。

農協と全農の違いは、組織関係では「全農>農協」、資本関係では「全農<農協」となっているようだが、この話にそれほど厳密な区別は必要ない。

全農の子会社に全農グレインという穀物輸入会社があり、本社を輸入元のアメリカに置いている。アメリカやその意向を受けたグローバリスト系政治家たちが、どうして「農協の株式会社化」を推進するのか。

実は、農協の株式会社化はダミーの論点であり、「本丸」は株式会社化によって全農グレインを買収することなのだと三橋貴明は説明する。全農グレインは先進的な会社なのだ。ニューオリンズに世界最大級の船積み施設を持ち、各農家と個別契約して、配合飼料などの分別管理まで実施している。

では、カーギルなどのグローバル企業も全農グレインを買収するのではなく、自社の生産管理を進化させればよいではないか?

残念ながら、答えはNOだ。それでは秘密目的を達成できない。

カーギルは全農グレインの技術が欲しいのではなく、株式会社化したあと買収した暁には、むしろその技術を捨てたいのだ。どうして先進的管理技術を捨てたいのか?

少し立ち止まって、この問いの答えを一緒に考えてほしい。きっとがっくりきてしまうことだろう。

答えはこうだ。

世界的に見て、全農グレインが「遺伝子組み換え作物でない農作物」を安全確実に調達できるほぼ唯一の調達先だから!

スーパーで売っている醤油や納豆のラベルには、「遺伝子組み換えでない」と明示されているものが多い。その安心を可能にしているのは全農グレインであり、独立国としての食料安全保障のために、全農≒農協が株式会社化されずに守られているからなのである。グローバリスト系政治家たちによる感情誘発的な農協改革案は実に危険だと言わなければならない。

食料の安全保障については、自分も何度か記事に書いてきた。

(↑戦後の日本にアメリカが小麦を売り込んだ戦略について↑)

(↑ジャズ喫茶論から遺伝子組み換え食物反対へ↑)

(↑趣旨法廃止反対と日本の種を守る↑)

さて、農水省の官僚は種子法を廃止する理由として、花粉症に効く米の開発を理由の一つに挙げたらしい。民間ニーズへの対応は民間でやればよいだけで、それが食料安全保障上の国民財産を全廃する理由になるはずない。種子法廃止以前だって、寿司に合う米や牛丼に合う米など、外食産業はコメの品種の選定や収量の確保に成功してきたのだ。

三橋貴明の『日本を破壊する種子法廃止とグローバリズム』には、「眩暈がする」とか「日本は狂っている」とかいう表現が頻発する。未読の人には過激な言葉に聞こえるかもしれないが、自分はまさしく同感だ。おい、このままだと本当に危ないぜと、熱いシャウトを吐き出したくなるのは、この国の危機的状況に、どこかロック魂を揺さぶられているからかもしれない。

いや、轟音のようなロックを聞いて、頭を振りたい気分になっているわけではない。むしろ、のどかな農村の昼下がり、コミュニティー農業が成功して、人々が集まる農産物直売所で、ご老人たちが楽し気に田舎言葉を交わす光景を見てみたいのだ。

えーぞう (ezo)

ええぞう (eizo

そんな相槌を交わしながら、三世代の地域住民が集まって、交流している場面は美しい日本の風景のひとつだろう。果たして、日本の農業は再生できるのだろうか。

冒頭で紹介した e(i)zo の鍵言葉はここへ逢着する。

EZOのギタリストはグリーンカードを取得して、アメリカで寿司職人をしているらしい。そのシャリにどんな品種のコメを使っているのかは不明だが、できれば日本産のコメであってほしい。彼が考案した巻き寿司には、バンド名と同じく日本の地名が冠されているからだ。

 

短編小説「ピーチ豚が説く逆転の発想」

 或る真夜中、ぼくは会社の机に派手に突っ伏して動かなくなった。働き盛りの四十才独身とはいえ、深夜までの残業が連夜つづけば、疲労困憊してしまう。身体を休めるべく、家からオットマンを持ち込んで足を伸ばせるようにしたが、蓄積疲労には焼け石に水だった。今やオットマンは荷物置き場に横倒し。田舎の両親が仕事を断れないぼくの性格を心配して、留守番電話にメッセージを残してくれるが、かけ直す暇もない。ぼくは今にも自分が天に召されそうな気がしていた。 

  今週いっぱいで仕上げなくてはならない企画書が難航している。眠っている間に夢を見れば、夢の中で自分のハイヤーセルフがヒントをくれると聞いたことがある。藁にも縋りたい心地だったので、ぼくは仮眠をとることにした。

 しかも、ハードワークと不摂生が祟って、ぼくは不眠がちだった。机に突っ伏したまま、いつものように羊を数え始めた。ふわふわした白い羊たちが、牧場の柵を一匹ずつ跳び越えていくのをイメージした。

「羊が一匹、羊が二匹、羊が三匹……」

 羊を数え慣れているせいで、ぼくはカウントしながら、いつのまにか器用に別の空想に思いを馳せていた。それは一か月前のこと。東京駅の新幹線ホームで同僚と出張に出かけるときのことだった。新幹線の乗降口からは、修学旅行で移動する女子高生たちがぞろぞろ降りてきた。全員が降りるのを待ちながら、気が付くとぼくはいつもの癖を発動させていた。

 仔猫ちゃんが一匹、仔猫ちゃんが二匹、仔猫ちゃんが三匹……。全員が車両を降りた最後の一匹で、ぼくははっと我れに返った。たぶん18匹目の仔猫ちゃんだったと思う。同じ制服を着ているのに、見ているこちらが震えるほど、美しい髪をした眉目秀麗な美少女が降りて通り過ぎていったのだ。

 ぼくが彼女の方を振り返ると、彼女もぼくの方を振り返っていた。彼女は苦しそうな表情をしていた。ぼくに何かを言いたいけれど、禁じられているので言えないというような表情だった。ぼくは運命の出会いだと感じた。発車ベルに促されて、ぼくは同僚と新幹線に乗り込んだ。同僚は美少女には気付かなかったらしい。

 最寄り駅の近くに、深夜まで「辻占」の行燈を灯している五十がらみの背の高い男性がいる。ぼくはその占い師に、美少女との運命の出会いを話してみた。

「あなたが美少女を見たことではなく、美少女があなたを見たことが決定的に大事です」

 そして、占い師は厳粛な口調でこう断言した。「いつか必ず、あなたは彼女に再会します」

「といういうことは、ぼくは…」「羊が一二一匹、羊が一二二匹、羊が一二三匹……」

 おや? いま羊に紛れて、ピンクの動物が柵を跳び越えたのが見えたような気がした。

「ちょっと待って、ピンクのきみ!」

 ぼくは頭の中の牧場で、大声で呼びかけてみた。すると、ふわふわした白い羊の群れをかきわけて、一頭のピンクの豚が出てきた。

「あ、美少女に夢中だったのに、バレちゃいましたか。ピンクより肌色に近いから、ピーチ豚って仲間からは呼ばれてるブー、コマンタレブー? おしゃべり羊の皆、これからもピーチクパーチクよろしく頼むぜ! Thank you, Tokyo!

 すると、向こうの羊の群れから、口々にメェーという鳴き声があがった。ピーチ豚の振る舞いには、どこか無駄なロック・スター気取りがあった。

「おれたちアニマルズに言わせりゃ、恋して『きみにここにいてほしい』と思うなら、突っ走っちゃいなってことよ。をぶち破って、出たとこ勝負、踊ってなんぼ。狂気のサタデーナイト次第ってこと」 

Animals (Remastered Discovery Edition)

Animals (Remastered Discovery Edition)

 
Wish You Were Here

Wish You Were Here

 
Wall (Remastered Discovery Edition)

Wall (Remastered Discovery Edition)

 
狂気

狂気

 

 どうやらピーチ豚は、ぼくにアドバイスをくれているらしかった。

「ごめん、豚くん、言っている意味がよくわからないんだけど」

「じゃあ、全国のリスナーのためにわかりやすく言い直すぜ。あんたは大事なことを忘れている。マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっているぜ、ベイビー。逆に、逆ってこと。逆転させる発想さ。月の暗い側面じゃなくて、明るい側面をしっかり見よ、模様、毎夜。Thank you, Tokyo! 夜眠れないなら、その夜を自分で自分を愛するためにフィーバーさせちゃいなよ。年齢なんて関係ないよ、そこから変えていこうよ、弾けちゃいなよ」 

Dark Side of the Moon

Dark Side of the Moon

 

 ロック・スターには似つかわしくない全裸の桃色の肌を紅潮させて、ピーチ豚は暑苦しいほど熱烈に、ぼくの固定観念を壊そうとしてくれた。牧場の羊たちは大喜びして、メェーメェー鳴きながら跳びはねた。これじゃ羊を数えられない。当分眠れないなと感じたところで、目が覚めた。

 目覚めた直後、今の夢が、仕事の壁を越えるヒントになっているかもしれないと感じて、ぼくは慌ててメモを取った。

  • 恋に突っ走れ
  • マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっている
  • 逆転の発想が大切
  • 眠れないなら、その夜を自分のために生かせ 

 ぼくはメモを読み返して頭を抱えた。どの助言も、締め切り間際の難しい仕事をこなすのに役立ちそうになかったのだ。とりわけ「マンが旦那様でウーマンが奥様なのに…」というメッセージは、まったく意味不明だった。ぼくは憂鬱なまま会社を出た。

 帰り道、ぼくは深夜まで街角で座っている占い師に、夢に出てきたピーチ豚の話をしてみた。

「結論から言うと、そのピーチ豚とやらは、あなた自身ですよ。豚が裸なのは当たり前なのに、それが気になったということは、あれはあなたの身体からのメッセージということです。過労で身体を潰すな、恋にしろ何にしろ、世界をもっと楽しめということでしょうな」

 ぼくは一応頷いて見せたが、まだ釈然としない思いが残った。今や古典となったフロイドの夢判断ですら、これよりはるかに複雑だ。何より、あの無駄なロック・スター気取りは何だったのだろう?

 占い師は時計を見た。料金外で話したいことがあるのだという。

「実は私も、あなたが話していた絶世の美少女に偶然出会ったんです。吉祥寺の家具屋さんで。すっかり心を奪われて、話しかけちゃいました」

「え? どんな話をしたんですか?」

「二言三言だけですよ。綺麗ですねと私が褒めると、彼女は嬉しそうに笑って、近々また偶然会いますからねって」

「先生は、ぼくもあの美少女と必ず再会するとおっしゃいましたね。そして、彼女が先生とまた再会すると自ら言った。これはどういう意味なんでしょうか?」

「たぶん神様が競争させようとしているんですよ。私とあなたのどちらかが、彼女の運命の男です。ひとつここは、恋敵としてフェアに競争しようじゃありませんか」

 そういって差し出した占い師と、ぼくは固い握手を交わした。聞けば占い師は昼間は普通の会社員で、深夜までこうして副業の辻占いをしているのだという。ぼくたちはすっかり仲良くなって、互いのハードワークを慰め合って、頑張って身体を大事にしようと励まし合った。立ち上がると、占い師の背丈の高さが目立った。ぼくたちは手を振って別れた。

 残業だらけの灰色の日々に、思いがけない色恋沙汰が侵入してきたせいで、ぼくは毎日ほんの少しだけ、笑う回数が多くなった。目の前に山積している仕事のほかは見えなかったぼくが、占い師に競争だと言われてから、闘争心が湧き上がってくるのを感じた。

 いつ絶世の美少女に再会してもかまわないように、ぼくは女子高生トークの研究に精を出した。ひとりっ子だったせいで、丁寧に言葉遣いを躾けられてきたぼくには、いまどきの女子高生用語は外国語のように感じられた、ゆめゆめ恋敵の勝ちを許すまじ卍。
 仕事が捗りそうにない夜は、思い切ってひとりで遊びに出かけた。仕事が過酷な会社員でも、自分で自分をいたわる時間も必要だろう。

 ある晩、以前から行きたかった京浜工業地帯の夜景クルーズ船に、ぼくは乗り込んだ。飾り立てようとはしていないのに、東京湾に広がる運河や埠頭や発電所や工場の夜景は、とても綺麗だった。飛行機の航行の安全のために、巨大な建築物の体躯を光が点々と縁取っていた。その光の破線の立体の向こうを、深夜発着の飛行機が赤の光を明滅させながら通り過ぎて行った。

 ぼくが甲板の欄干にもたれてひととおり写真を撮ったあと、東京湾の方へと振り返ると、そちらには茫洋とした暗い闇が立ち込めていた。

 そして… その闇の中に、白い垂直な筋のようなものが立ち迷っているのが見えた。人だった。その人が、制服を着た絶世の美少女だったのだ。

 ぼくはしばらく茫然と立ち尽くしたまま、美少女に見惚れていた。それから、この夜をずっと待っていたことを思い出して、彼女に近づいて話しかけた。

「こんばんは。確か、以前東京駅でお見かけしたはずです。とても可愛らしかったので、忘れられなくて」

「ありがとうございます。私もあなたのことをよく覚えていますよ」

「え? そんなの聞いたら秒でテンアゲです。とりま、ぼくにもワンチャンあるっていうことですよね。わあ、野原一面に草生える春が来た。マジで朝飲みたいのはスムージー卍」

https://jikitourai.net/schoolgirl-use-expression

 できた! ぼくは心の中で小さなガッツポーズをした。努力は裏切らない。猛練習すれば、人にできないことはないのだ。

「あの…、その若者言葉はいろいろと間違っている気がしますよ。誤解させたくないから、はっきり言いますね。私、もうあなたとはお会いしたくないんです」

 鋭利な刃物で胸が裂かれていくような心地がした。それでもぼくは勇気を出して訊いた。

「どうしてですか?」

 美少女は何かを言おうとして唇をひらいた。けれど、言葉を飲み込んで、また黙りこくてしまった。言うことを禁じられている何かが、彼女の心の中にはあるようだった。

 華奢な手首を裏返して、彼女が時計を見た。

「行かなきゃ。もう追いかけてこないでくださいね」

 海風にロングヘアを乱されながら、美少女は足早に立ち去った。ぼくは訳がわからなくなった。ぼくに会いたくないなら、どうして東京駅で振り返って、意味深にぼくを見つめたのだろう?

 やりきれなくて、諦めきれなくて、ぼくは船の左手に広がる夜景には目もくれず、考え事をしながら、船内を散歩した。乗客全員が甲板の右舷に立って、夜景を撮影していた。船内にはほとんど人がいなかった。思索を深めるにはうってつけだった。

 左舷側の廊下へ降りたとき、美少女が髪をなびかせているのが遠くに見えた。彼女は父親くらいの年齢の男と一緒にいた。背の高い父親の身体を親密そうに叩きながら、大笑いしていた。父親も笑って振り返った。

 ぼくは急に胸が痛くなった。あばら骨の奥にある臓器が、ゆっくりと燃え落ちていくような悲しみを感じた。その男は美少女の父親ではなく、ぼくがの知人の占い師だったのだ。

 どうしてこの時刻のこのクルーズに乗ったら、彼女に逢えるとわかったのだろう。自分と同じように偶然なのか、それとも自分で自分の占いを当てたのか、ぼくの失恋が確定した今、それはどうでもいいような気がした。

 占い師は満面の笑みを浮かべていた。それはそうだろう。彼は彼で恐ろしいほどの苦労を重ねて、ようやく幸せの尻尾をつかんだのだった。ぼくはあの苦労人の笑顔なら、自分の悲しみを埋め合わせられるような気がした。

 と、ふいに占い師の顔が歪んだ。苦しげな表情になってふらつくと、激しく欄干にぶつかった。そのまま、高すぎる重心が災いして、船から海へ落下してしまった。

 誰かの悲鳴が聞こえた。乱雑に階段を下りる足音がして、船員たちが入り乱れた。

 その様子にも、美少女はまったく動じる気配がなかった。船員の誰もが目撃者の彼女に気を留めようとしなかった。美少女がゆっくりとぼくに近づいてきた。

心筋梗塞だったの」

 彼女はひとことだけ、そうぼくに伝えた。すぐそばにいた人間が亡くなったというのに、どうしてこの女の子は平然としているのだろう。彼女が言葉の代わりに何かを伝えようとして、ぼくに右手を差し出した。ぼくは右手でそれを握って、握手をした。美少女の手は雪の中にある小枝のように冷たかった。ぼくは彼女が冷淡な理由がわかったような気がした。

「言わなくてもいい。きっときみは酷い病気で苦しんでいるんだね。たとえきみの余命がどれほど短くても、ぼくはきみのそばにいたい。きみのそばにいて、ずっと世界の中心で愛を叫んでみせるよ、マジ卍」

「いいわよ」

 彼女はそう言って、握手に力を込めた。

「え? 本当にいいの? ぼくと付き合ってくれるの?」

 美少女は握手の手を離して、両手で口を隠した。大笑いした。

「違うわよ。卍の使い方がさっきよりずっといいわよ、って言いたかったの。ねえ、まだおわかりにならないかしら。私、死神なのよ。あなたには、まだ人生を回復する力が残っている。当分お逢いしたくないわ。さようなら」

 そう言って、ぼくの方へ愛嬌のある手の振り方をすると、彼女は右舷の欄干を透き通って、東京湾の暗い夜の海上を歩き始めた。彼女の紺の制服姿は、すぐに夜の闇に紛れて見えなくなった。ぼくは長いあいだ海の上にある暗さを見つめていた。

 工場夜景クルーズはクライマックスを迎えていた。発電所のそばを通るのだ。ぼくは階段をのぼって、甲板の右舷側へ歩いて行った。

 夜の発電所はとても綺麗だった。いつもの癖で、発電所を縁取っている灯りを、ぼくは数えていた。

「光がひとつ、光がふたつ、光が三つ……」

 発電所の光を数えながら、ぼくはどうして工場夜景クルーズで、偶然美少女に再会できたのかを考えていた。そして、「光が七八……」まで数えたとき、その理由に気が付いたのだった。

 この工場夜景のきらめく発電所に出会うまで、ぼくの記憶の中にあったのは、ロンドン南部の発電所だった。クラシック・ロック好きのぼくは、そのジャケット写真をよく覚えていたのだ。 

Animals (Remastered Discovery Edition)

Animals (Remastered Discovery Edition)

 

 ぼくは急に可笑しさがこみあげてきて、ひとりでくすくす笑いはじめた。ぼくが夢に見たピーチ豚の出身地が、ピンク・フロイドのジャケット写真にあったことに思い至ったのだった。

 写真の火力発電所の4本の煙突の間を、ピンクの風船豚が飛んでいる。あの風船豚は撮影後に銃撃されて落下する予定だったのに、強い上昇気流に係留装置を切られて、上へ上へと舞い上がっていったのだった。当時上空を飛んでいたいくつもの旅客機が、上空をふわふわと浮遊する風船豚の飛び具合を、ヒースロー空港の管制に伝えたのだという。

 ぼくは自嘲気味にもう一度笑った。ピーチ豚の言うことは、神様のお告げではなかったのだ。昔の古い記憶をフックにして、ぼくが荒唐無稽な綺想を膨らませただけだったのだ。そんなふうにあの日の夢をまとめて、船を降りた。

 船を降りてから、ぼくは何かに弾かれたように、走って駅まで移動した。いや、話はもうひとひねりあるにちがいない。そんな気がしてならなくなったのだ。

 ピンク・フロイドが出典なら、夢の中のピーチ豚がロック・スター気取りなのはわかる。では、あの不可解なアドバイスの意味は?

「マンが旦那様でウーマンが奥様なのに、それがひっくり返っちゃっている」

 ぼくは慌てて会社に戻った。職場の荷物置き場には、使わなくなったオットマンが横倒しになっていた。どうして忘れていたのだろう。あのロンドンの発電所ほど、ひっくり返ったオットマンに似ている建築は、世界にまたとないにちがいない。 

 ぼくは丁寧に自宅で愛用していたオットマンを起こすと、座面を開いて、中にしまっておいた七福神の宝船の置物を、机の上に置いた。それは就職祝いに両親からもらった宝物のはずだった。ハードワークと過労に押し潰されそうになって、そんな大事なものをしまっていたことすら忘れていたのだ。 

宝船 七福神 S217

宝船 七福神 S217

 

 ロンドンの発電所がひっくり返ったオットマンだと気付くまでに、ずいぶん時間がかかってしまった。ぼくはすっかり遠近法を見失っていたのだと思う。何を遠くにおいて、何をそばに置いて大事にしたらよいのか。ハードワークと過労で潰されそうになったら、転職してもいいし、帰郷してもいい。選択肢は、目の前に山積している仕事のほかにも存在するのだ。上空のピーチ豚にヒントをもらって、ぼくは自分の人生の鳥瞰図を取り戻したような幸福な気分を感じていた。 

 ぼくは携帯電話を取り出した。そして、数か月ぶりに田舎の両親に電話をかけじはじめた。

 

 

 

 

 

短編小説「地球代表ライキーの夢」

 ぼくは市民公園の芝生の上をランニングしていた。この街には雨がよく降る。しぶきが飛び散るのもかまわず、雨上がりの芝生を走るのが、ぼくは好きだった。頭上の空から、誰かの話し声がした。

「ほら、視野がラリー・クラークの処女映画みたいだ」

 ぼくは立ち止まって空を見上げた。誰もいなかった。ランニング直後の呼吸を整えるために、口を開けて喘いだ。天では二人で話しているらしかった。

「スケートボーダーの目線で撮った映画ね。あれを受け継いだのは、ガス・ヴァン・サントだったかしら」

ポートランドを舞台にして、スケートボード・パークも撮影した」

「街の男の子たちが作った無許可の遊び場だったわね」

「まさしく一時的自律ゾーンさ。この星の若者文化は実に面白い」 

T.A.Z.―一時的自律ゾーン (Collection Impact)

T.A.Z.―一時的自律ゾーン (Collection Impact)

 

 やけにカルチュラル・スタディーズめいた天の声に耳を傾けているうちに、ぼくは思わず溜息をついてしまった。

 夢だったのだ。全身を動かして、生まれ育った町でランニングしたくなったのは、今の自分が、ずっと閉塞空間に閉じ込められているせいだった。

 赤い警告ランプが明滅したので、ぼくは完全に目を覚ました。警告音は1時間に1回は鳴るので、そのたびに叩き起こされることになる。警告音が鳴るのは、宇宙空間に散らばっている無数の宇宙デブリが、シャトルと衝突しそうになるせいだ。

 ところが、今回のアラームは別の原因によるものだった。外部モニターのディスプレーが電波ジャックで切り替わって、そこにきらきらと輝くUFOが姿を現したのだ。UFOはシャトルの横を無音で並行飛行しているようだった。

「地球代表の方、こんにちは」

 言葉は音声ではなく、脳に直接響くテレパシーで届いた。こちらの言語も研究済みらしく、テレパシーの内容ははっきりと理解できた。

「わ! こんにちは。ひょっとして、宇宙人の方ですか」

「その通りです。地球代表のあなたに質問してもよろしいでしょうか」

「どうぞ! ひとりでとても退屈していたところなんです」

「地球に私たちが着陸すると、大騒動になります。騒がれないように、地球の皆さんとお話をしたいのです。地球に住んでいる生命体は邪悪ですか? 善良ですか?」

「子供や動物を虐待する悪い人たちもいます。でも、だいたいは善い人たちが多いですよ」

「本当でしょうか。地球よりはるかに高度な文明を持つ私たちから見ると、地球代表のあなたですら、ペテンに騙されているように見えます。そのスペースシャトルは地球に戻れないように設計されているのではないでしょうか」

「それは嘘です! このシャトルに乗るとき、親友のネルソンが見送りに来てくれて、またすぐに逢えるよって、笑って言ってくれたんです。ネルソンがぼくを騙すはずないでしょう!」

「あなたにとって地球上の生命体がペテン師なのか、天使なのか、私たちから結論は伝えないことにします。あなたを不安にさせたことをお詫びします。質問を変えさせてください。地球は全宇宙の中で下から二番目に文明の程度が低い野蛮な星です。あなたは、地球上の生命体をまだ生かしておく価値があると思いますか? 今でさえ、とてもつらい思いをしているのではありませんか?」

「正直に言うと、今はとてもつらいです。宇宙でひとりぼっちだし、狭いところでじっとしてなきゃいけないし、地球に帰れるのかどうかも、とても不安になってきました」

 ぼくはうつむいた。ネルソンに再会できないかもしれないと考えただけで、淋しくて淋しくて、ちょっとだけ脚が震えた。それでも、ぼくは自分の運命を信じる気持ちを強く持って、顔を上げた。

「お願いです。地球上の生命体を全滅させないでください。確かに、人や動物を殺すのが好きな悪い人もたくさんいます。でも、全然顔見知りでもないのに、路上で暮らしている相手に、食べ物や眠る場所を提供しようとする素晴らしい人々もいるんです。文明の程度は低くても、地球は美しい星です! 地球上の生命を殺さないでください!」

 ぼくは地球代表として何とかそう言い切ったが、自分がどう主張しても、自分はもう地球に戻れないかもしれないと思うと、急に悲劇的な気分になった。

 すると、UFOからのテレパシーに優しい音楽が入り交じった。音楽がぼくをリラックスさせてくれたようだった。

「お答えありがとうございました。では、思念ではなくイメージ映像の形で、あなたが知っている地球上の幸福な記憶を見せてもらうことにします。今から簡単な催眠をかけますね」

 UFOはそうテレパシーで言い終えると、ぼくの脳内を風の音や鳥の鳴き声や潮騒のような幸福な音で満たしはじめた。

 あれ? ぼくの意識はどうしちゃったんだろう? さっきまでの苦しい切ない気持ちが、嘘みたいに消えてしまった。意識の中に、明るい金色の世界がなだらかに広がって、風にそよぐ稲穂のように揺らめいていた。

「さあ、私たちに教えてください。あなたが地球で体験した最も幸福な思い出は何ですか?」

車… 後部座席に乗せてもらって… 西海岸まではそんなに遠くない… ビーチへ出かける週末が、最高の思い出… 大好きなあの遠浅のビーチ… 砂粒が細かい… 裸足で走るのがとても気持ちいい… 親友のネルソンが投げるフリスビーを、跳びあがってキャッチするのが最高の快感で… そう、いつも賭けをしている… キャッチに成功すると、ネルソンが冷たいエビアンを奢ってくれる約束… だから、ぼくもネルソンもいつも大はしゃぎで… 冷たい硬水が美味しい…

「ありがとうございました。では、地球代表のあなたが、あと少し、もっとこうだったら、とても幸福だという空想を教えてください」

何だろう?… ネルソンの末の妹… キャシーはまだ小学生… 10月はキャシーの誕生日なのでネルソン家はいつも大騒ぎ… でも、躾の厳しい家庭だから… いけないのはぼく… 思春期に家出してホームレスだった過去があるから… 家の中には入れてもらえなくて… 外庭からこっそり誕生パーティーを眺めていた… これまで毎年… ぼくだって、きちんとした服を着て、きちんとした言葉遣いをすれば… 真っ直ぐに腕を伸ばして、堂々とネルソン家の呼び鈴を押したい… あら、ライキーじゃないの! おめかししてパーティーにきてくれてありがとう(とハグ)… ネルソンのママらしい出迎え方をされたい… テーブルには誕生ケーキ… 何かのジョークで皆が笑うとき、ぼくも一緒に笑うことができて… 末っ子のキャシーが誕生日のキャンドルを吹き残してしまったら… ぼくが身を乗り出して悪戯で吹き消す… 明るくなった食卓で、キャシーが頬をふくらませていて… 駄目だよ、ライキー。やり直し、やり直し… もう一回電気を消してってば… ぼくが跳びあがって俊敏に電気を消す… またしても真っ暗… おい、何やってんだよ、換気扇まで消すなよ、ライキー… ごめん、ネルソン。じゃあ、こうしよう。誰が最初に換気扇をつけられるか競争!… 私もやる!… あっというまに暗闇のスイッチ早押し競争になる… 三人できゃあきゃあ言い合ってじゃれあう… そして、ケーキの後は、ぼくからの誕生プレゼント… 秘密特訓していたユニークすぎるオリジナルダンス… キャシーは手を叩いて大笑いしてくれる… それがぼくにとって最高の幸福… 

 「ありがとうございました。どうかしましたか? 泣いているのですか?」

「ちょっと心が震えて揺れてしまいました。いろいろと想像しているうちに、どうしてもああいう誕生パーティーに参加したくなっちゃって… もう外庭からの見学は厭だっていう気持ちになって… どうしてもああいう風になりたいのに、どうやったらその夢が叶うのかもわからないのが、ただ淋しくて」

「あなたの心の奥に温かい愛があるのを感じました。大好きなんですね。その親友や周りの人たちのことが」

 ぼくは頷いた。

 すると、驚いたことに、シャトル内部の六面すべての壁が、眩しいくらいに煌々と輝きはじめた。六面の壁は輝くだけでなく、壁を通り抜けて、眩しい光を帯びた不思議な物体が、壁の形状を変えながら、出たり入ったりしているのが視認できた。

 驚いて身を固くしているぼくに、優しい声音のテレパシーが降ってきた。

「地球代表のあなたの心の奥に、宇宙最大の構成要素があるのを確認できました。熟議の結果、地球に着陸して生命統制活動をするのを、私たちは中止することにしました」

「本当ですか? 嬉しくてたまりません! 地球上に生きているネルソンやキャシーなどの生命体が、全員助かるんですね!」

「それだけではありません。たった今、宇宙調整を行いました」

「宇宙調整?」

「宇宙の法則、略して『うほうっ』と呼ぶ人類もいます。次の週末に、このシャトルが地球へ帰還して、あなたのお友達の住む西海岸へ不時着するよう、宇宙調整をしておきました」

「え! 本当ですか? ありがとうございます! 宇宙調整、最高です! 地球に帰ったら、次のキャシーの誕生パーティーに向けて、ダンスの練習をしなくちゃ!」

「後ろ足で立ち上がって、呼び鈴を押す練習も必要かもしれませんね、ライキー」

「地球に帰れるなら、できる仲間の真似をして、それもどんどん練習しちゃいますよ! どこかの宇宙人さん、ありがとう!」

 ぼくは目を瞑って集中して、最大の感謝のテレパシーをUFOへ向かって送った。ありがとう! ありがとう! ありがとう! ぼくのライキーという名前は、ソ連が打ち上げたロケットに搭乗していたライカにちなんでいる。名前を覚えてもらえたのも嬉しかった。

 モニター画面から、オレンジ色の発行体が遠ざかっていくのが見えた。ぼくはテレパシーだけでは足りないような気がして、声に出して、ワン、ワン、ワンと吠えて、にぎやかに尻尾を振った。

 やがて、モニター画面の遠くに、小さな青いビー玉のような美しい星が見えてきた。
 嬉しくなって、もう一度、ワン、ワン、ワンと鳴こうとしたとき、感極まって喉が詰まったせいで、うほうっとぼくは鳴いてしまった。

 

 

 

 

短編小説「古城にあった炎の記憶」

 彼からのプロポーズを受け入れたあと、来年には結婚式を挙げられたらいいねと、互いに微笑み合った。まだ私たちは、幸せな結婚というものが、実際にどんな形をしているのかを知らない。けれど、最初に私が触れたそれは、色とりどりの植物で飾りつけられていた。どの結婚式場のサイトも、信じられないくらいの数の花々で満ちあふれていたのだ。

 私は一人暮らしのワンルームから、ベランダに出た。南向きのベランダに、陽がよく当たるように棚をもうけて、私はリンドウの鉢を置いていた。花々が日光浴をしているときの鮮やかな紺色が好きだったのだ。私は花びらに触れて、それから空を見上げた。真っ青な空に、刷いたように白い筋雲が流れていた。なぜとなく、青空のどこかに鳥が飛んでいないかを私は探した。

 結婚式場を調べる前、私の趣味は読書だった。イギリスに留学していたこともあったので、英米文学の書棚からよく小説を選んだ。お気に入りはポール・オースター

 中でも、オースター自身が書いたのではなく、オースターがラジオで全米から集めた実話のショートストーリー集が好きだった。

 すべて実話で、すべて数ページの短さ。順番に呼んでいくと、実話の世界は驚くほどシンクロニシティーにあふれかえっていた。偶然とは思えない奇跡的な偶然に満ちていたのだ。

 私が好きなのは「青空」という話。

 少女時代、姉の飼っていた青インコを公園へ連れていくと、インコが青空へ飛び立ってしまった。姉は「きっと新しいお家を見つけたわよ」と慰めてくれた。

 それから20年。結婚して子供ができて、家族ぐるみで仲の良い友人夫婦もできた。友人の夫が人生最高のペットの話を始めたとき、私は耳を疑った。ある日、少年の指に空から青インコが舞い降りてきて、少年の指にとまったのだそうだ。日付は一致した。姉の言う通り青インコは「新しいお家を見つけた」のだった。…… 

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

ナショナル・ストーリー・プロジェクト

 

 私はもう一度、空の青みを見回した。鳥はいなかった。それでも幸福だった。

 そんなある日のこと。「海外でもいいんだよ」と、式場探しに夢中の私に、彼が背後から声をかけた。そして、彼は私を後ろから抱きしめた。彼は呼吸を置いて、落ち着いて話す癖がある。

「新婚旅行も兼ねられるから、かえって安くなることもあるんだって」

 振り返った私の顔は、きっと自分史上最高の笑顔のひとつだったと思う。彼は彼で下調べをしてくれているらしい。新婦に丸投げして無関心でいる新郎とは、この人は違う。

 建物がまばらな海外なら、写真には広々とした青空が写っていることだろう。何となく、海外の結婚式場サイトの写真に、鳥が写っていないかどうか、探してみたくなった。

 検索窓にどんな英語を打ち込めばいいだろう。迷っていると、ふと clear... well... という単語が思い浮かんだ。打ち込んでみると、イギリスの由緒ある古城を舞台にした結婚式場が画面に現れた。

 ぼんやりと式場の紹介ムービーを見ていると、あっと声があがってしまった。どこかで見たことがあると思ったら、イギリス在住の家族と一緒に、参列したことがある結婚式場だったのだ。くすんだ土色の古城の外壁は、少女の私が見たときと同じまま。

 古城の一室に、小さなテーブルや燭台や飾り花が綺麗に整っているのを見ていると、私は急に悲しくなった。7歳の私は、花嫁の後ろにくっついて、金髪の男の子と、ウェディングドレスの裾を持ち上げる役だった。男の子が私の近くに立つのをどうしても厭がって、そのたびに大人にたしなめられていた。

 私は胸が苦しくなって、胸骨に手をあてて撫で下ろした。この悲しみは、もっと深い傷から来ているような気がした。

「clear... well...」という英単語を思い出したのは、きっと離婚後の母がよく使っていたからだと思う。

「文字通り、いい厄介払いなのよ。あの人はイギリスの古い城と同じ」

 一人娘の私を引き取って、外で仕事をするようになってから、家の中でいつも笑顔を振りまいていた母の性格は一変した。離婚前は言わなかった父の悪口を、いつも食卓に載せるようになり、養育費の支払いが遅れた月は、酒を呑んで大声でそこにいない父を罵倒した。

 母にはひた隠しにしていたけれど、私は父のことが好きだった。父に新しい妻ができて、新しい娘ができたと聞いたときは、自分が嘘まみれの偽者になったような所在なさを感じた。

 けれど、今のこの悲しい気持ちは違う。

 イギリスにいたのは一年だけ。日本人学校にいたので、英語を話せるようにはならなかった。それでも時々、少女時代に触れた英単語が、吃音のように私の存在をノックしてくることがある。

 Bだと私は思った。心理学でいう舌先現象が、自分の心の中で起こっていた。Bで始まる4文字のスペルだとまでわかっているのに、単語が舌先にひっついたまま声にならない。私は口をぱくぱくさせた。不思議なことに、自分の悲しみの中心にあるのが BLUE ではないことは、はっきりとわかるのだ。

 B には BLUE よりも怖い感じが含まれている気がする。ひょっとすると、あの古城へ行く途中のドライブが、少女の私には怖かったのかもしれない。父は黒の礼服姿で、髭もきちんと整えていたので、いつもより格好良く見えた。それなのに、怖がる私に悪ふざけをして、幽霊や魔女の話ばかりしたのだ。

「これから行くお城には、本当に幽霊や魔女が棲んでいるんだよ」

 そして、カーステレオの音量を上げて、その古城で録音されたやかましい曲を鳴らした。曲の歌詞には魔女の台詞が含まれていた。私は耳を塞いで金切り声をあげた。

 どうやらクリアウェルの古城で録音されたのは、ロックの伝説的な名曲だったらしく、大人になってからも何度もテレビやラジオで耳にした。そのたびに私は耳を塞ぎたい気分になった。

 どうしてあんなに「Burn」という曲が厭だったのだろう。そこまで考えると、私はチェストから新しいハンカチを出して、目に押しあてた。箱にしまって鍵をかけた少女時代の悲しみが、どこに由来するのかを、私はようやく思い出したのだった。

 離婚が決まってからも、父と母と一人娘の私は、一か月だけ一緒に暮らした。そのあいだに、幼い頃からの最大の遊び相手だった柴犬が亡くなったのだった。私は病気で餌を食べなくなった柴犬のムクを、自分の部屋に連れ込んで、毎晩添い寝して世話をした。

 ムクが亡くなった日、私たちはムクの犬小屋のあった庭に出て、冷たくなったムクを囲んで食事して、7年分のアルバムを家族三人で振り返った。ムクと家族が写っている写真を父母娘で指差し合って、懐かしさで誰もが朗らかになり、それから、ムクも家庭も戻ってこないことを悟って、皆で泣いた。おかしなことに、あれが私たち三人家族が一番仲の良かった日だった。

 三人でムクの遺骸を囲んで写真を撮った。父母娘とも、泣き腫らした顔をしているのに、涙の筋を光らせて笑っている不思議な写真になった。

 それから、ムクの身体を一斗缶の中に丁寧に曲げて入れて、油をかけて火葬した。あの晩、もう住まなくなる庭先にあった赤々とした炎のゆらめきを、私は一生忘れないと思う。燃えていたのは、ムクの遺骸だけではなかった。私たち三人で作ってきた家庭が、燃やされていたのだった。

 私は涙を流しながら、もう一度胸骨に手をあてた。そして、マッサージで皮膚の下のリンパ液を押し流すように、少女時代から鬱積していた悲しみを、胸から押し流そうとした。しばらくずっと、自分の中にいる少女を撫でさすっていた。

 それから、ハンカチで涙を拭くと、彼の方を振り返った。

「ねえ、私が10歳のときに離婚してから、ずっと会っていないんだけれど、式にはお父さんも招いていいかしら」

「もちろん」と彼は即答した。それから、いつものようにひと呼吸置くと、こう言った。

「きみのお父さんにも、花嫁姿を見てもらおうよ」

 彼は私が泣いていたことに気が付いたようだった。テーブルの上のハンカチを手に取って、私の目を瞑らせて、涙の残りを丁寧に拭き取っていった。

「どうしたの。ひとりしかいないお父さんなんだから、招いて当然だろう」

 私は目を閉じたまま微笑んで頷いた。私にはこの人ひとりしかいない。あらためて幸福を感じながら、瞼の裏に広がっている残像の空に、私はいつまでも鳥の形を探していた。

 

 

 

(クリアウェル城に呼ばれたのは、当時無名のカヴァデール)

短編小説「マッチ箱サイズのバイオレンス」

「知らない写真家の個展に迷い込んだことがあってね」と、ハンドルを握っている30代の男は喋りつづけた。「画廊の壁には、マッチ箱くらいの写真があったかと思うと、オレよりデカい巨大な写真まである。サイズがバラバラな写真が、白壁に撒き散らされている感じなんだ」

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(画像引用元:Wolfgang Tillmans - Exhibition - Andrea Rosen Gallery

「順路に沿って見ていくと、近づいたり遠ざかったりしなきゃいけなそうですね」と助手席の20代の女が答えた。彼女はロングヘアで、赤いショルダーバッグを腰の前に抱えていた。

「ところが実際はそうじゃない。小さな写真を見たあと、大きな写真を見ると、わっと眼前に迫ってきた感じがする。さっき遠くで手を振っていたきみも、そんなふうに見えたんだ」

「高原でヒッチハイクする女性なんて、珍しいから」

「なんて言うか、きみは遠くに立っていたのに、わっと近くに迫って見えた」

「ふふふ。ロマンティックなことを言いますね。乗せてくださって、ありがとうございます」

 女はダッシュボードに手を伸ばして、貼りついているシリコン製のマットに触れた。

「柔らかい。これ何ですか?」 

「知り合いからもらったんだ。単なるマットに見えて、小物入れ。スマホを載せてもビクともしないんだぜ」

 女は自分のスマートフォンを載せて、手を離した。

「本当だ。ぴったりひっついている」

 高原の真ん中で、男は急に車を路肩に寄せた。

「なあ、オレたちもひっついてみないか」

 女はすぐに拒絶した。

「いやです。ごめんなさい。この車に乗せてもらったときから、すごく悪寒がするんです。背中がぞくぞくして、後ろに誰かいるような気がするの。誰かに追いかけられているんじゃないですか?」

「後ろなんかに誰もいねえよ。誰もいねえからこそ、できることをしようじゃないか」

「やめてください。警察を呼びますよ!」

「呼べるなら呼んでみろ!」

 男は大声を上げて威嚇したが、女は男の腕をするりと抜け出して。助手席から転がり落ちた。そのまま一目散に森の中へ駈け込んでいった。

 男は追いかけようとしたが、森の夕暮れの暗さを見て、追いかけるのをあきらめた。暗がりの中で見失ったのだ。

 男は車に戻ると前照灯をつけた。車通りのない林道を走りながら、女が言った台詞を思い出していた。

「背中がぞくぞくして、後ろに誰かいるような気がするの。誰かに追いかけられているんじゃないですか?」

 バックミラーで後部座席を覗いても、もちろん誰もいない。

 バックミラーが光った。背後から、こちらを追尾してくる車両があるのだ。どうして車の走っていない夜の山道で、この車を追いかけてくるのだろう。男は背筋が冷たくなって、手に厭な汗をかくのを感じた。

 林道が山へと分け入った。背後の車両はまだ追尾してくる。くねくねとしたカーブが続くので、男はハンドルを繰り返し左右に切った。

 次の瞬間、フロントガラスが急に白々と明るくなって、画廊で見たあの巨大写真のように、昔の女の顔がこちらに迫ってきた。女の顔は殴打された傷とむくみで腫れ上がっていた。傷だらけの顔をした女がこちらへ手を伸ばしてこようとした瞬間、男はわあと悲鳴をあげてハンドルを切り、路肩の樹木に正面衝突した。大破した車のフロントから火の手があがり、車はたちまち炎に包まれた。燃え上がった炎が、夜の樹々を高々と照らし出した。

 後ろから追尾していた車が、事故車を通り過ぎてから、急停車した。

 助手席から、長髪の赤いショルダーバッグの女が出てきた。携帯電話で警察に通報しているようだった。炎上している事故車まで走ってきて、自分を襲おうとした男がかろうじて炎の中から這いだしたのを確認すると、そのまま自分の男の待つ車へと戻っていった。ダッシュボードに置いた投影機能つきの忘れ物を、女はあきらめたようだった。

 夜の山道を走り出した車の中で、運転席の男が女に訊いた。

「映像を見ただけで、本当に事故を起こすとはね」

「暴力を振るう男って、要するに怖がりで淋しがりなのよ」

「車はきれいに燃えちゃったね」

「手品のフラッシュ・コットンみたいに、きれいに消えたわけじゃない。姉はあの男に酷い目に遭わされたんだから。でも、妹として感じた傷も、マッチ箱サイズの写真くらいには縮んだ気がするわ」

 そういうと、女はハンドルを握っている男の手にそっと触れた。それから囁くようにこう言った。

「何されるかわからないから、本当はとても怖かったの。あなたがすぐそばにいてくれて嬉しい」

 

 

 

 

 

 

 

短編小説「聖夜の失神エレベーター」

 もしそんな稀少な思い出があるなら、誰もがホワイト・クリスマスのロマンティックな思い出を語りたがるだろう。

 でもぼくはあの思い出を語りたくない。自分の胸にだけしまっておきたい。

 ぼくは部屋の飾り棚にある小物入れから、女物のレースのハンカチを取り出した。ハンカチを鼻に押しあてると、かすかな花の香水がぼくの鼻腔をくすぐってくる。あの晩の記憶が蘇って、どうしても息が乱れてしまう。ハンカチを顔から離して、レースの刺繍を指でなぞる。花々の形に編まれた繊細な糸の連なりが、ぼくの指先の動きに抵抗してくる。

 あのホワイトクリスマスの晩、ぼくはその女物の香水に理性を奪われて、手錠をされたまま、パトカーの後部座席に放りこまれたのだった。

 話はクリスマスの半月前に遡る。

 雪の降るクリスマス、彼女のいなかった大学一回生のぼくは、宅配ピザのアルバイトに初出勤した。

 クリスマス当日は忙しい上にバイトが働きたがらないので、ぜひとも出勤してほしい。グルにそう頼まれたのだ。半月前の面接のときのことだった。いま思い返すと、あれはとてもユニークな採用面接だった。

 …控室のドアをノックして着席すると、店長から自己紹介があった。

「私のことは『店長』ではなく『グル』と呼んでほしい」

「?」 

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「安心してほしい。ここはただの宅配ピザ屋だ。小さい頃、絵本の『ぐりとぐら』が好きだった。私は三人兄弟の末っ子だったので、『グル』という呼び名が定着してしまっただけだ」

 店長がひとりで乾いた笑い声を立てた。

「いくつか大事なことを質問させてもらうよ。好きなピザは何?」

マルゲリータでしょうか。イタリアの王妃に捧げるために作られたピザなので、王妃をイメージしながら食べちゃうせいだと思います。心の中では、親しみを込めて『マルちゃん』って呼んでいますけどね」

「ほう、王妃というキーワードが出てきたか。じゃあ、好きな恋愛映画は何?」

「『君の名は。』でしょうか。ちょっと待ってください、グル。それ、宅配ピザのバイトに関係ありますか?」

「関係あるに決まっているだろ! 初めて電話注文を受けたときには、必ず『君の名は』?って訊き返さなきゃいけないんだ」

「言葉遣いがフランクすぎません? 『お客様のお名前は?』じゃないですか?」

「そうそう、大事なことを訊き忘れていた。彼女と初めてお泊りした夜、眠りに落ちる直前の30秒で言ってほしい台詞は?」

「グル、もう一度言いますけど、それピザに関係ないですよね?」

「関係あるに決まっているだろ! キザな台詞が好きなのか、反対に、ピザな台詞が好きなのか、それが問題だ」

「待ってください。キザとピザは反対の概念なんですか?」

「そうやって、すぐに左脳で理解しようとしては駄目だ。理解は感情を奪う。いったんそのソファーに寝てみると、キザかピザかのイメージが湧くはずだ。遠慮するな。寝てごらん」

 宅配ピザの面接だったはずが、思いもかけない展開になってきた。グルは先に立ち上がって、楽しそうに微笑んでいる。一緒に働きやすい憎めない人だと感じたので、ぼくも腰を上げた。そして、隣に置いてあるソファーに横たわって、目を閉じた。

 店長は部屋の電気を消すと、先に女役で喋りはじめた。

「ねえ、何だか眠くなってきちゃったわ」

「ぼくも眠くなってきたかな」

「……」

 目を閉じたまま、ぼくは自分がどんな台詞を欲しがっているのか、真剣にイメージした。やがて、ぼくは目を開けた。

「グル、聞こえました。『ずっとそばにいて』ですね。これで間違いありません」

 店長は電気をつけて、ぼくに駈け寄ってきた。両手をバンザイのポーズに挙げて、ハイタッチを求めてきた。ハイタッチすると、店長は喜びの声をあげた。

「素晴らしいキザっぷりだ。最後にひとつだけ聞かせてくれ。きみは高所恐怖症かい?」

「実は… そうなんです。まずいですかね?」

「まずいどころか、ブラボーだ! おめでとう、採用決定だ!」

「ありがとうございます!」

 その場では、調子を合わせてハイタッチしたぼくだったが、自宅へ帰ってから、何とも釈然としない気持ちになった。同じ店でバイトしたことのある先輩に訊いたが、そこは美味しいせいで固定ファンが多いことを除いては、特に変わったことはなかったという。

 アルバイト初日のクリスマス、雪がちらついていた。路面が濡れる程度の雪だったので、宅配バイクを走らせる分には問題なさそうだった。制服に着替えて、バックヤードに立つと、店長が電話注文を受けているところだった。パーティー・シーズンなので、ピザは8枚。すぐ近隣の区域には、30分以内で配達する約束になっている。

 ピザが焼けるまでに、ぼくは急いで配達へ向かう準備をした。グルはいつになく真剣な表情で、ぼくの背後から声をかけた。

「注文入れてきたの、怖い兄ちゃんだから気をつけな。30分以内配達厳守で頼むぞ」

 ぼくは伝票の注文時間を見て、時計を見た。土地勘もあるし、配達バイクはナビつきだ。注文後15分前後で到着できそうだった。ぼくはグルを振り返って「わかりました!」と返事した。

 数分で到着したのは、40階建ての高層マンション。このマンションには、各駅停車、偶数階停車、奇数階停車、20階以上停車の四種類のエレベ-ターがある。四基のうち、開いていた各駅停車の一基に乗り込むことができた。ぼくの姿を見つけた女性が、扉を開けて招き入れてくれたのだ。

 ぼくはエレベーターに乗り込むと、礼を言って最上階のボタンを押した。すると、女性はぼくの背後から回り込んで、2階から39階までのボタンをするすると指でなぞって、全部押してしまったのだった。

 ぼくは激しく動揺した。各階に停車していたら、間に合わなくなるかもしれない。すると、女性が振り返って、ぼくの目をまともに見た。背筋がぞくっとするほど綺麗な女性だった。

「ごめんなさい。少しでも長く、あなたと二人きりでいたかったから。40階までは長いわ。荷物を下へ置いてくださらない」

 女性の美しさに眩々しながら、ぼくは操られるように、ピザの入った保温ボックスを床に置いた。すると、女は金糸を縫い込んだワンピースをきらめかせながら、ぼくの胸板にすがりついてきた。ぼくの顔の下にある彼女の髪から、切なくなるような素敵な匂いが立ち昇ってくる。

 女が顔を上げた。

「あら、キスをするときは、目を瞑るものよ」

 ぼくは言われるままに目を閉じた。目を閉じると不安になったので、彼女の身体に腕を回そうとした。すると女の両手がぼくの両手を抑え込みに来て、ぼくの身体の後ろでつなげた。その両手に冷たい何かがあたって、カチリと音がした。

「大丈夫よ」と女は耳元で囁きながら、しっとりとした細い手で、ぼくの頬に触れている。「このマンションで各駅停車の昇りエレベーターを気にする人はいないわ。最上階まで、好きなように愛撫させて」

 手錠を掛けられるとすぐ、ぼくの両目を覆うように、女物のショールがぼくの頭に巻かれた。手錠をかけられ、目隠しされて、ぼくは箱の中でもてあそばれるがままの人形になった。胸を波打たせて、荒い呼吸をするだけの人形になった。耳元では、まだ女が囁いている。

「ずっと捜していたのよ。もうどこにも行かないで。ずっとそばにいて」

 ぼくは身体だけでなく心も痺れてしまった。ますます動けなくなった。

 女はしばらくぼくの頬や胸を優しく撫でていた。女の手からは舶来のハンドクリームのような香りが漂っていた。或る瞬間から、女の手は力強くなって、ぼくの制服のボタンを順に外して、パンツのベルトの留め金を外した。そして、こう囁いた。

「いま18階よ。街のクリスマスのイルミネーションが綺麗。オス犬みたいに喘いでいるあなたを、東京の夜景の光のひと粒ひと粒が見ているわ」

 ぼくは高所恐怖症と羞恥心が入り交じったおかしな気分になって、脚が震えはじめた。

「ねえ、美人は好き?」と女が囁いた。ぼくはこくりと頷くのが精いっぱいだった。囁きは続く。

「うふふ。正直で可愛いわ。じゃあ、美人の履いているレースの下着は好き?」

 ぼくがどう答えるべきか迷っているうちに、女の身体が離れて衣擦れの音がした。まさか、フランス映画みたいな展開が、本当に起こるのだろうか。ぼくは息を呑んだ。 

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  ふいに頬に繊細な肌触りの布切れが触れた。かと思うと、っそれが丸められて、ぼくの口の中へ突っ込まれた。ぼくは放心状態になって、口から涎を垂らした。女がぼくを夢中にさせる台詞を囁いた。

「ずっとそばにいて」

 ぼくはそのまま失神してしまった。

 気が付いたとき、ぼくはパトカーの後部座席にいた。上下とも下着姿で、後ろ手に手錠をされて、口にはレースの下着が突っ込まれていた。

 話し声がしている。後部座席の隣には店長が座っている。警官と身元引き取りの話をしている。パトカーでピザ店まで送ってもらったぼくたちは、裏口から従業員控室へ入った。

 店長がぼくの口からレースの布を抜き取った。驚いたことに、それは下着ではなく、ハンカチだった。それがどうしても信じられなくて、ぼくは珍しい生き物を見るように、ハンカチを凝視した。店長はぼくの背後へ回って、手錠を外せるかどうかを確認していた。

「毎年パーティーの季節になると、ああいうケチな客が出るんだよな」

「ケチな客?」

「知らなかったっけ。ほら、近隣区域に30分以内に配達できなかったら、ピザ代を無料にすることになっているから、好き放題仕掛けてくるんだ」

 背後に回っていた店長が、簡単に手錠を外してくれた。ニッパーではなく、鍵を使ったようだった。店長がぼくを慰めようとした。

「でも、お前にハニートラップを仕掛けたのは、綺麗な女だったんだろう?」

「はっきり覚えていないんですけど、何ていうか、好きになってしまったような気がするんです」

「どのあたりでハートを持っていかれたの?」

 店長は洗ったあとの手に、ハンドクリームを塗っている。ぼくは手首に残った手錠の痕を触りながら、こう言った。

「ぼくのことをずっと捜していたと言って、彼女はぼくの頬を愛おしそうに撫でてくれたんです」

「そいつは素敵なラブシーンだな。『オス犬みたいに喘いでいるあなたを、東京の夜景の光のひと粒ひと粒が見ているわ』の方はどう感じた?」

 ぼくは目を見開いて、店長の方を振り返った。そのとき、店長愛用の細身のハンドクリームのチューブが視野に入った。 

 「どうして知っているんですか、店長!」

「言い直せ。俺を何と呼ぶべきだと教えた?」

「どうして知っているんですか、グル!」

 その台詞の最後の二文字は、ぼくがこれまでの人生で口にした中で、最もつらい二文字だった。ぼくはがっくりと肩を落とした。

 店長は黙っていた。その沈黙は雄弁だった。あのときは夢中だったので、気がつかなかった。各階停車のエレベーターは密室ではない。ぼくの耳元にあった甘い囁き声の持ち主と、ぼくを愛撫していた二つの手の持ち主は、別人だったのだ。ぼくはグルの愛撫で失神してしまったのだ。急に喉元に嘔吐が突き上げてくるのを、ぼくは感じた。

 店長がぼくを気遣って隣に座った。

「わかるよ。俺も今でもあの女のことが好きで、夢にまで見るんだ。ちょうど去年の今頃から、ずっとだ」

 ぼくは返事をしなかった。そのまま着替えて、傷ついた心を抱えて無言で店を出た。

 店長は自分も同じハニートラップの被害者だと言いたいのだろう。あの女を忘れられない被害者が、翌年「グル」になって別の被害者を招き寄せて、愛する女のピザ・パーティーを無料の祝宴にする。

 そういう奸計は、可能性としてはありうると思う。けれど、ぼくはピザよりもキザな言葉を大切にする男だ。目隠しされた悲しさで、「ずっと捜していたのよ。もうどこにも行かないで」というあの彼女の囁きだけが、確かにあそこにあったものだと感じられてならない。

きっと、ぼくたちの間に、想像もつかないような不運があったのだろう。ぼくのもとから彼女が立ち去ったのは、彼女がマフィアのような組織に脅されたからではないのだろうか。そうでなければ、「ずっとそばにいて」と自らぼくに囁きかけた女性が、急にいなくなるなんてことがあるはずない。

どうすれば… 彼女にまた逢えるだろうか。実際に彼女に逢って、ぼくへの気持ちを確かめるには、どうすればいいだろうか。

ぼくは夜の街路を引き返して、宅配ピザ店へ向かった。来年のクリスマスまでに、店長にグルの座を譲ってもらうよう、直談判しようと思った。