荒野での孤独なサーブ練習

従姉妹に悲恋相手のジュリエットがいる。

写真の中で唯一の男性が幼稚園の頃の私。帽子が母、一番幼いのが妹で、隣にいる可愛らしい女の子が従姉妹のジュリエット(仮名)。幼稚園の頃は、将来ジュリエットと結婚したいとの私の申し出に、両家ともが「お似合いかもね」とかいって祝福してくれていた。それが小学生になると、両家ともが家と家との関係のせいで「結婚は許さない」と猛反対し始めて、私たちは無残にも引き裂かれてしまったのだ。嗚呼、何という悲恋。

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数年前、京都在住で今や2児の母となったジュリエットが会いに来てくれた。子供たちを後部座席に乗せて、週末にあてどなくドライブするのが趣味で、ふと私のことを思い出して、四国の地方都市まで長距離を走ってきてくれたのだ。

2児の母にもなって、まだロード・ムーヴィーのヒロインのような行動を週末の日課にできるなんて、さすがはかつてのわがジュリエット。

自分の書いた小説で、主人公にはロード・ムーヴィー的な放浪癖を込めて「路彦」という名をつけ、旅行好きの集まったインカレサークル仲間のヒロインには、やはりどこか旅を連想させる「琴里」という名前をつけた。

「どうして? え? 車を貸してくれるの?」

 路彦が頷くと、琴里は嬉しそうに礼を言った。ありがとう。その笑顔に、休日に遠出する少女のような浮かれた稚気が漲っていたので、さらにこう訊かれずにはいられなかった。

「帰ってくるんだろうな」

 籠から出て自由になりさえすれば、風向き次第でどこへでも飛んでいってしまう鳥のような、そんな風情が彼女には常からあった。

 京都から四国まで、ジュリエットが不意に逢いに来てくれる以前に、小説は書き終わっていたが、引用部分を読み返すと、どことなく彼女の面影が感じられるような気がする。ひょっとするとそれは、とても魂の近い「いとこ同士」だと感じていたのに、いつのまにか疎遠になってしまったことの傷が、意識にのぼらないほど微かに痛んでいたからかもしれない。また、いつか、どこかで。

こんなところで不意に思い出話を語ってしまったのは、訳あって午前中に、昔のアルバムを見返していたから。最近、年少の友人から「あなたは動物園の前で泣きそうな顔をしている男の子に似ています」という暗号文をもらっていたので、そんなことある訳ないだろうと笑いながらアルバムをめくっていると、本当にそんな写真があるのだから、人生はわからないし、未来は面白い。

ただ、アルバムをめくっているうちに、幸運にも上の5人は健在であるにしても、亡くなった人々があまりにも多すぎると感じて、しんみりとしてしまった。懐かしさと淋しさが深く結びついた感情を、何と呼べば良いのだろう。

写真がこちらへ訴えかけてくる刺し傷のような細部を、ロラン・バルトプンクトゥムと呼んだ。プンクトゥムの語源は「棘」に近い。

上記の記事にある辞書的な説明は、少し生硬すぎるような気がする。バルト自身がプンクトゥムについて詳細に説明したあと、あれはあまりにも個人的なものだからと断って前言を撤回していることに、自分は重点を置きたい。そして、次章でその個人的な語を、彼の亡くなった母の写真の思い出へつなげていることも、重要だと思う。 

明るい部屋―写真についての覚書

明るい部屋―写真についての覚書

 

神が細部に宿るように、ここに不在の人間がかつて確かに存在したという記憶が、写真のプンクトゥムに宿っているといっても、たぶんバルトは不機嫌にはならないだろう。そして、「そこに不在の人間」とはしばしばバルトの母のように死者であり、死者がかつて存在していたという記憶が、人々の心を棘のように刺すのにちがいない。

やけに感受性の強いところのある自分は、時折り文章の中にもそのような死者のプンクトゥムを感じてしまうことがある。

実は前ブログを書いていた2005年前後、私は朝日新聞を読むのを日課にしていた。またしても「関係妄想」が発動したと笑ってもらってもかまわないが、未曽有のとんでもない苦境にあった当時の自分は、紙面上の文章に示唆を込めることによって、何人もが何度も自分を励起しようとしてくださっているように感じていた。 

完全版 いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ

完全版 いじめられている君へ いじめている君へ いじめを見ている君へ

 
時の墓碑銘(エピタフ)

時の墓碑銘(エピタフ)

 

当時の朝日新聞に連載を持っていた或る作家の方のエッセイからも、どこか文意以上に感じられるものが、小さなボールのように飛んできたような気がして、それが自分へ向かって投じられたボールなのか試したくて、打ち返してみたことがあった。

このような荒唐無稽な論証の途上で「明らかな間違いだ」と非難された丸谷才一がまことに気の毒だとは感じるものの、石川忠司の卓越したユーモアの資質を伝えて余すところがない一章である。面白いので是非一読を。

すると、またボールが返ってきたように感じられた。私の記憶では、翌月の連載エッセイに「とんでもない愚物だと思っていた」という一言が含まれていたのだ。「思っていた」と過去形の文末になっているのがポイントで、ひょっとしたら自分への評価を上方修正してもらえたのではないかと感じた。00年代、文学理論や文芸批評を読み込めている人間は、それほどまでに絶滅危惧種となっていたのだ。

しかし、自殺すれすれの苦境は終わらなかった。見られるように、精神的な不安定さを感じさせる記事を最後にブログは途切れ、私はまたしても無名な無名作家志望に頽落せざるをえなくなった。 

袖のボタン

袖のボタン

 

ところが、単行本化された書物を最近取り寄せて確認すると、「とんでもない愚物だと思っていた」という一言がどこにも見当たらない。気のせいだったのか、勘違いしていたのか、それとも単行本化の際に微修正されたのか。

しかし、その翌月に書かれた「守るも攻むるも」という題のエッセイには、鮮明な記憶がある。

日本海軍は奇妙な記録の保持者である。みづから爆沈した軍艦が五隻もあって、これは世界有数なのだ。

 と不名誉すぎる日本軍の珍記録に言及し、爆沈の理由が、戦勝宴会の莫迦騒ぎや「制裁のひどさに対する水兵の道連れ自殺」などの可能性が高いと述べる。しかも、その蒙昧主義が戦争を経ても尚、やすやすと生き延びて、自衛官の自殺者の多さとなって表面化していると論じるのである。

自衛隊は旧日本軍と同じくリンチが盛んだし、さらに上層部はさういふ事態を、容認したり、糊塗しようとしたりしてゐる。(…)陰湿ないぢめの体質、それを傍観して平気でゐる気風は、われわれの社会から除きがたい。(…)

 そのことを端的に示すものは自衛官の自殺者数で(…)ゆるやかな増加の傾向にある。(…)脱営逃亡者の統計は発表されてゐないのだろうか。それもかなりの数にちがひないし、この種の破局に至らないリンチは数へ切れないほどだろう。

 このような部分に、自分はプンクトゥムを感じずにはいられなかった。ただし、この種の水面下の筆者の底意を読み取ろうとする作業は、精神衛生上きわめて不健全な状態を招きかねない。書かれているすべての文章が、自分に関係しているような、関係していないような気持ちの悪い不完全宙吊り状態に晒されつづければ、普通の人なら間違いなく精神を病んでしまうことだろう。

精神衛生を回復させるために、ブログの更新を停止してから、自分は新聞や本を読むことを放棄した。朝の7時から夜の0時まで、食事と入浴以外は資格試験の勉強に打ち込むよう、がらりと生活を変えた。

そんな経緯があったせいで、その後の連載エッセイの行方は知らずにいた。今回単行本を読んで、2006年の12月にその作家が、自分が離脱して無人となったテニスコートへ、こんなボールを打ち返してくださっていたことを知った。

そこでは、夏目漱石の『坊ちゃん』が赴任した田舎町を莫迦にしきっているのに、松山の人々が「坊ちゃん」をすすんで観光資源に活用しているのはなぜか、という問いがまず問われている。 

 わたしはかつてこのことに触れて、日本文学史を縦断する都と鄙(ひな)といふ対比のせいだと論じたことがある。(『闊歩する漱石講談社)。これは菅原道真大宰府に流されて怨(うら)み死にしたり、光源氏が須磨にゆくくらゐで悲嘆に暮れたりするほどの首都崇拝、地方嫌悪のことで、この宮廷文化への思慕が伝統として刷込まれてゐるから松山市民は坊ちゃんの軽蔑を気に病まなかったと見るのである。

これで充分に正解なのだろうと感じる。革新系の土佐高知と違って、四国山地をはさんだ伊予松山は、穏やかで少雨の瀬戸内式気候のもとで、江戸からずっと親藩支配下でその文化を発達させてきた。人々が驚くほど温厚でのどかな気質である一方、「中央」や「上」に対して従順な権威主義的な性格も併せ持っている。

ところが丸谷才一は、いささかアクロバティックな論理展開で「別解」を導き出す。

熊本は松山同様、激石の任地だった土地で、気風をよく知ってゐる。そして『三四郎』は現代日本文明批判といふ性格が強い小説で、端的に現れてゐるのが「亡びるね」といふ予言だが、ここで激石が熊本を借りて日本人の自己満足を批評してゐるやうに、『坊っちゃん』では松山を拉し来って日本人の島国根性を非難してゐる。識見の低さ、夜郎自大、洗練を欠く趣味、時代おくれを咎めるのに、日本の縮図として四国の一都市を用ゐたのだ。そんなふうに一国の代表として自分たちの町が選ばれ、その結果、名作が成つたことを松山の人々が光栄に感じてゐるとすれば、その読解力は 大いに評価しなければならない。

松山の人はもちろん、全国のどこにいる普通の人も、『三四郎』が現代日本文明批判の書であることも知らなければ、熊本人による日本批判も、熊本を媒介とした松山による日本批判の可能性も、想像の彼方にしかないにちがいない。

では、ここで、このエッセイの筆者は何を伝えようとしていたのだろうか。それは、松山に関わる人間の「読解力」だったのではないだろうかとしか、自分には考えられないのである。

当時の自分は、まだ勝負作の小説を書き上げておらず、ブログ上の批評エッセイも、諸事情による精神状態のせいで、わずかしか書けていなかった。もし救いうる部分があるとすれば、それは「読解力」しかなかったのだと思う。

有名作家と関わりがあったやもしれぬ可能性を自慢げに顕示したい気持ちなんて、さらさらない。今ここで「関係妄想」だと笑われても一向にかまわない。「真相」を知っている人間は、少なくとも千人以上はいるだろうから。

ここで伝えたいことはそんなことじゃない。テニスコートに戻ってきて、約10年ぶりに雨ざらしのボールを拾い上げて、かつてあれほどの競技人口を誇ったはずのテニスコートの連なりを見渡しても、もうあのような名選手の姿をほとんど見つけられないことが、あまりにも淋しいのだ。

丸谷才一は大正最終年である14年生まれ。翌年に始まった昭和と同年齢、歴史的概念でもある「純文学」と同年齢、三島由紀夫と同年齢だ。

エッセイ集を読んで驚いたのは、ベンヤミンアウラからローティーのアメリカ論まで、読書や好奇心の対象がきわめて広いことだ。「反小説」と題されたエッセイでは、ヌーヴォー・ロマンの流行時に誰か(勝手に注を付けると、その誰かとはサルトル)が名付けた反小説で、ジョイスの名前があがらないのはおかしい、とか、その伝統は18世紀の『トリスタラム・シャンディー…』に遡る、とか、豊かな博識と確かな見識が披露されてもいる。

東京大学卒の器質因的選良性を持ち、20世紀最大の前衛作家ジョイスを師と仰ぐ一方、旧字旧仮名育ちの最終世代として、和歌文学を始めとする日本の古典にも通暁し、小説と批評の両方をものし、美術や音楽や相撲にも造詣が深い。

今これだけのことができる作家が、どれほど生き残っているのだろうか。これほどになりうる資質と環境を同時に持っている後進の作家が、どれほどの数いるのだろうか。

「惜しい方を亡くした」とか「せめて自分の小説を読んでいただきたかった」とか、普通の感覚で浮かび上がっている感慨も、もちろんないではない。

ただ、それより何より、野原が失火で焼かれ尽くされた後の不毛に似た風景の前に立たされているような心地がして、茫然としてしまうのだ。

何から始めるべきなのだろうか。テニスコートのネットの向こうに誰もいないような気がするので、サーブ練習から始めるしかないだろう。そのサーブの一打一打が、ひょっとすると誰かの心に種子の形で響いて、いつか何らかの実りにつながるかもしれないことを願いながら。

 一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき    寺山修司

 

 

(「晴れ渡る」と「Come rain or shine」の押韻が不完全ながら素晴らしい名訳)

古いアルバムめくり
ありがとうってつぶやいた
いつもいつも胸の中
励ましてくれる人よ

Turning the pages of old photographs
I whisper thanks to each and every one
Deep in my heart you have come, come to live
Sure as the sun to see me through

 

晴れ渡る日も 雨の日も
かぶあの笑顔
思い出遠くあせても
おもかげ探して
よみがえる日は 涙そうそう

Come rain or shine however the day may be
You shelter me with your smile
However far your memories may fade
Traces of you I hope to find
Then you appear and I drown in my own tears

 

一番星に祈る
それが私の癖になり
ゆうぐれに見上げる空
心いっぱいあなたさがす

I wish on a star, the first star of the night
You'll find me here every evening of the year
As twilight approaches I look to the sky
Seaching for you with all of my heart

 

悲しみにも 喜びも
思うあの笑顔
あなたの場所から私が
見えたら きっといつか
会えると信じ 生きてゆく

In grief and joy I long for you and your smile
Hoping you feel the way I do
If only you could find me from where you are
I do believe somewhere in time
I do believe I will see you once again

 

晴れ渡る日も 雨の日も
かぶあの笑顔
思い出遠くあせても
さみしくて 恋しくて
きみへの想いは 涙そうそう

Come rain or shine however the day may be
You shelter me with your smile
But as each memory of you fades away
I'm so alone longing for you
You're on my mind as I drown in my own tears

 

会いたくて 会いたくて
きみへの想いは 涙そうそう

Missing you so I'm missing you so
You're on my mind as I drown in my own tears