どん底からのメイク・ドラマ

 上記のような「傾向と対策」めいた属性の小説内での備給は、凡庸きわまりない営為でしかなく、文学的価値とは無縁なのだと。そのごく少数の人々とはドゥルーズ蓮実重彦のラインのことで、後者が「凡庸さ」の対極にある概念としてあげるのが「愚鈍さ」。蓮実重彦の著作ではわかりにくいので、ドゥルーズを潤色しながら説明すると、思考は主体が意志的に行うものではなく、(マドレーヌを契機に湧出したプルーストの無意志的記憶と同じく)(主体のような何かに)思考することを強いるもののすべてを思考したり、思考することを強いられる主体のような何かのすべてを思考したり、というような無意識的思考がある。その無意志的思考こそが、愚鈍たるものの代表なのである。

 現代思想好きの純文学作家志望を思いっきり前面に出すと、自分の文体はこんなに硬くなってしまうようだ。ただ、言おうとしていることは、自分の芸術的信条と変わらないし、その芸術的信条は娯楽作品にも充分に応用が利くと思っている。 

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これも評判の高い映画だ。上の記事で書いたノッティングヒルの恋人を90点とすれば、80点以上はある女性向け恋愛映画。例によって、ここからはネタバレ満載でお届けするので、未見の方はご注意されたい。

あらすじと予告編を先に紹介したい。

【起】
アメリカ、現在。老人施設に入居している老齢男性・デュークは、認知症の老女にいつも朗読をしていました。その朗読は、1940年代のアメリカ南部・シーブルックを舞台とする、2人の若い男女の恋物語です…。

…1940年6月。
 都会から避暑として別荘に、17歳の少女アリソン・ハミルトンが両親と共に訪れていました。アリソンは、通称:アリーと呼ばれており、ひとりっ子です。両親から大事に育てられていました。アメリカ南部の小さな町・シーブルックに訪れたアリーに、町の青年ノア・カルフーンがひとめぼれします。ノアはアリーの乗る観覧車に無茶をしてぶら下がり、デートの約束を強要しました。
 ノアとアリーはすぐに親しくなり、やがて恋に落ちました。初めての恋です。少女・アリーの家は裕福です。しかしノアは学歴もなく、材木屋で働く肉体労働者でした。
 初めてのデートの後、アリーは「大事なことは親が決める」とぼやきます。ノアは、アリーはもっと自由なのかと思っていましたが、金持ちの娘なので、進学や縁談などは、親が勝手に決めてしまうのだそうです。
ノアは夜の車道に横たわり、信号が変わるのをよく父と見ていたと言いました。誘われて、アリーもその場でやってみます。車がやってきてクラクションを鳴らしたので、2人は急いでどきました。その後、ノアの歌に合わせて車道でダンスをします。

 ノアとアリーの交際は、おおむね順調でした。アリーが趣味の絵を持ってノアの家を訪れると、ノアは軒先で父・フランクに詩を朗読していました。昔、ノアはひどい吃音(きつおん どもりのこと)に悩まされたそうです。朗読をすることで、吃音が治ったとノアはアリーに言いました。
ノアとアリーはよく喧嘩もしましたが、その都度すぐに仲直りをしていました。
ノアと付き合うのを見たアリーの父・ジョンが、ある時ノアを自宅のパーティーに誘います。アリーの家のパーティーは豪華でした。ノアは貧富の差を思い知らされます。さらにその席で、アリーはニューヨークにあるサラ・ローレンス大学へ進学しろと言われました。遠いので、ノアと会いにくくなります。アリーの父・ジョンと母・アンは「ひと夏の恋だ」と、娘の恋を受け止めていました。

 ある夜、ノアはアリーを廃墟となった屋敷に連れていきます。その場所は1772年にフランシスという人物が作った、ウィンザー農園でした。ノアは金を貯めてその土地を購入し、屋敷を改築するのが夢だとアリーに話します。

 

【承】
 アリーはそれを聞いて「家の壁は白で、窓は青がいいわ」と言いました。2人で将来一緒に住むことを約束します。屋敷にあったピアノをアリーが弾き、その場でアリーが望むまま関係を持とうとした時に、ノアの親友・フィンがやってきました。帰りが遅いのを心配したアリーの両親が、警察に捜索願を出していたのです。
 午前2時になっていました。ノアは急いでアリーを家まで送ります。
別室で母・アンに叱られるアリーを、ノアは聞いていました。母・アンはノアのことを「肉体労働者のクズ」と言い、交際に反対していると知ったノアは、黙って立ち去ります。

 反対されていると知ったノアは、アリーと距離を置こうとしました。アリーは怒ります。様子を見るくらいならば、いっそのこと別れようとアリーが言い出しました。喧嘩別れで終わります。
 その翌日、アリーの両親が強制的に、別荘から家に引き揚げると言い出しました。アリーはノアの仕事場に会いに行きますが、会えずに終わります。アリーはノアの親友・フィンに「愛していると伝えて」と伝言しました。

 夏が終わってから。ノアは365日、ちょうど1年間、毎日アリーへ手紙を書き送ります。ところが返事はきませんでした。なぜならば、アリーの母・アンが握りつぶしていたからです。アリーは手紙の存在を知らないままでした。

 アメリカがドイツと開戦を始めたので、ノアはその後フィンと共に、アトランタへ召集されました。パットン第3師団に入り、フィンは戦地で死亡します。アリーは大学3年の時、病院のボランティアをして、ロン・ハモンド・ジュニアという青年と知り合いました。
 ロンは南部の富豪の子孫で、優秀な弁護士でもありました。回復したロンはアリーをデートに誘い、ロンとアリーは楽しい時間を過ごします。アリーの両親は、ロンとの結婚を許しました。ロンはアリーにプロポーズします。ロンのプロポーズを受けた瞬間、アリーの脳裏に一瞬だけ、ノアのことがよぎりました。しかしロンとアリーは婚約します。

 ノアは無事に帰還しました。父・フランクの元へ戻ると、父は家を売ったと言います。家を売った金と復員手当てで、ウィンザー農園を買えと、父が言いました。


【転】
 念願の土地を購入し、家の改築許可を届け出するためにチャールストンに行ったノアは、そこでアリーを見かけます。喜んだノアですが、アリーがロンと寄り添う様子を見たノアは、声をかけられませんでした。「家の改築がうまくいけば、アリーが戻ってくる」と思い詰めたノアは、必死で家をアリーの言ったとおり、壁を白く窓を青く塗ります。父・フランクが亡くなり、家だけが残されますが、ノアは打ち込みました。

 改築が終わり、屋敷は立派になりました。それでもアリーが戻ってこないので、ノアは売りに出します。デザインが美しい屋敷なので、買い手はたくさん現れました。しかしノアは売る気はなく、ことごとく断ってしまいます。
 その頃、ノアは隣町に住む戦争未亡人マーサ・ショーと肉体関係になりました。しかしマーサも、ノアには別に思いを寄せる相手がいることに、気づきます。

 婚約に浮かれていたアリーですが、ある日、自分の結婚式を報じる新聞記事に、ノアの屋敷の宣伝が載っていることを知りました。ノアのことを思い出したアリーは、いてもたってもいられなくなります。絵を描くための旅行に出かけるとロンに言い残し、シーブルックへ出かけました。
アリーはノアと再会します…。

…そこまで話したところで、朗読する老齢男性・デュークは医者に呼び出されました。診察で席を外します。バーンウェル医師に診察してもらいながら、「認知症は治らないんですよ」と声をかけられたデュークですが、「それでもいつか…」と答えました。老女は認知症ですが、ピアノを前にすると弾けるのです。

 デュークの家族が面談にも来ました。デュークは老女に、家族を紹介します。メアリー、マギー、エドモンド、孫のデーバニー…名前を言いますが、老女は丁寧に挨拶しました。「ママは思い出さないわ」と老女を見てメアリーが言いますが、デュークはそれでも留まると言います。老女の元へ戻ったデュークは、朗読の続きを始めます…。

…ノアと再会したアリーは、やはり愛していると再認識しました。2人は7年ぶりに結ばれます。24歳のことでした。「なぜ連絡をくれなかったの」と問い詰めるアリーに、ノアは手紙を書き送ったことを告げます。


【結】
 アリーの母が手紙を隠したことを、ノアもアリーも気付きました。未亡人のマーサが訪ねてきますが、ノアに思い人が現れたと悟り、去ります。7年の空白を埋めるように過ごしていた2人ですが、そこへアリーの母・アンが現れました。町のホテルにも、ロンが来ているそうです。
 母はアリーに手紙の束を渡しました。アリーを連れて、ある工事現場に行きます。母も25年前に、その現場にいる男性と恋に落ちたそうです。
その男性と駆け落ちしたものの、隣町へ行く前に捕まったと言い、「ママはパパを愛している。それでもここへ来るたびに見てしまう」と、かつて愛した男性のことを見守っていたと告げました。
 母の告白を聞いたアリーは、考え込みます。ロンと会ったアリーは、「彼を撃ち殺すか、ぶん殴るか、アリーと別れるか」という言葉を聞きました。ロンから「僕だけの君でいてほしい」と、アリーはノアとの別れを迫られます…。

…そこまで聞いていた老女は「どうなったの?」と続きをせがみました。
デュークは、「ロンとアリーが、めでたし、めでたし」と答えます。
しかし老女は、違うと気付きました。アリーはノアを選び、ノアの元へ行ったのです。それと同時に、アリーとノアの話が、自分と目の前にいるデュークのことだと気付きました。認知症なので忘れていたのですが、老女とデュークは夫婦だったのです。そして途中に見舞いに来た家族は、老女の子どもたちでした。(つまりアリーとノアは結婚し、子どもたちを設けた)

 思い出した老女は忘れていたことを詫びますが、また元に戻ります。認知症があらわれた老女は、デュークを振りほどくと「なぜダーリンなんて呼んでるの!?」と怒り狂い、看護師らに鎮静剤を打たれます。毎度のことではありながら、かつての妻がまた自分を忘れてしまう様子を見たデュークは、悲しそうに顔を歪めました。若い頃の写真を見返しながら、眠りにつきます。

 翌日。
 デュークは心臓発作を起こし、運び込まれました。なんとか持ち直したデュークは、馴染みの看護師の女性のはからいで、老女に会いに行きます。目覚めた老女は、デュークのことを覚えていました。認知症の自覚もあり、不安がります。デュークは老女に「僕らの愛に不可能はない」と言い、老女の手に自分の手を重ねました。

 翌朝。
 部屋に入ってきた看護師は、デュークと老女が一緒に亡くなっているのを知り、言葉をなくします。ノアとアリーが起こした、最後の愛の奇跡でした。(老齢男性・デュークと認知症の老女は夫婦。朗読していたのは、若い頃の自分たちのなれそめ。2人は同時に息を引き取った。究極のハッピーエンド)

いけない、いけない。涙脆い自分は、この映画の数か所で涙腺が緩んでしまった。例によって、この映画の脚本家も、このブログを読んだ上で映画を作ったのにちがいない。読んでもらえたのは光栄だとしても、あの場面のあのセリフはないぜ。

号泣してしまったじゃないか。しかも予告編にまで引用されているのを見て、また涙ぐんでしまった。

 

これはぜひともクイズにしてみたい。

Q: ブログ主は、上記の予告編のどの場面をきっかけに号泣したでしょう?

答え合わせは、記事の最後で。

 

さて、運命の愛で結ばれる二人は、『ノッティングヒルの恋人』と同じく、女高男低の格差が設定されている。男性が下層階級(材木職人)で女性が上流階級(金持ちの娘)なのだ。

ノッティングヒルの恋人』では、トップ女優が本屋店主を見初める理由が、まったく描かれていなかった。思春期の少年の妄想のように、美女が現れて不意にキスをしてきて、その美女が逃げ込んできて深夜にベッドへ誘ってもらえる筋書きだったのだ。恋愛映画好きの自分としては、脚本家の精神年齢にR18指定を要求したいところだ。

きみに読む物語』では、お嬢様の少女(アリー)が最初は拒絶していた貧しい少年(ノア)を、どうして受け入れるようになるのかを、逃げずに描こうとしている。アリーがノアを好きになるのは、お稽古ごとや勉強のスケジュールで雁字搦めに拘束されている自分を、粗野で無鉄砲な田舎少年のノアが「解放」してくれたからだ。

二人が最初に親密になるのは、映画を見た帰り、ノアが無人の道路に寝そべって、アリーも隣に寝転がるよう誘う場面。誘いに応じて、行儀よく脚を揃えて道路に横たわると、車にクラクションを鳴らされて大騒ぎ。そこから、アリーはずっと元気弾ける自由奔放なキャラクターとして映画の中を動き回りつづける。

レビューを見ていると、アリー役の自由すぎる女優が嫌いだという男性陣らしき意見が目立つ。ヒロイン役レイチェル・マクアダムスの演技は、とても巧みだ。とくに奔放に叫ぶ演技が上手で、それが保守的な日本人男性の癇に障るらしい。もっと「奥ゆかしい」女性が理想なのだろうが、「ゆかし」とは「見たい、知りたい」をあらわす古語。男性特有の「探究システム(=奥まで見たい・知りたい)」の欲望形態に沿って、女性の性格が画一的であってほしいというのは、わがままというものだろう。好みはどうあれ、相手の魂を見なくては。

この映画はまだ1回しか見ていない。それでも、映画を見ている間に、パラプロット(自分だったらこうプロッティングする)はたくさん明滅した。自分の恋愛小説の参考材料にするために、書き記しておきたい。

1. 初体験未遂の演出がおかしい

いつかリノベーションしたがっている廃屋に入り込んで、二人は初めて異性を体験する流れになる。しかし、少年少女が脱衣していく演出が、全然おかしくて笑いが込み上げてしまう。

男と女はなぜか数メートル離れて、向き合って立っている。男が肌着を脱ぐと、それを見た女が肌着を脱ぐ。男が下着を脱ぐと、それをもいた女も… という無ジャンケン野球拳をするのは、いったいどういう演出意図なのか このはかなり巨大だ。読者の中に、そういう脱ぎ方を二人でやった人はいるだろうか? 

少年少女の初体験にある「羞かしさ」を表現したかったのかもしれないが、たぶんこの演出の方が羞かしいだろう。

原作小説に縛られているせいだろう。脚本作りのところどころに歪みが生まれている。原作の成果とも思ったが、「監督世間知らず説」も捨て切れない。というのも、初体験の場面で、廃屋の床にシーツを敷いて横たわっているからで、マットレスやクッションなしというのは、男性として女性の痛みに対して無神経だと思う。

 2. 遠距離恋愛先の住所がわかっているなら、365通手紙を書く前に、そこへ行け! 

とても良い恋愛映画だけれど、こういう脚本上の不自然さが随所にあるので、涙脆い自分が5回くらいしか泣けなかったのは、本当に困ったことだ。うまくすれば10回くらいは行けた。

デートのOKを取り付けるのに、観覧車の骨組にぶら下がるほどのノアだ。住所がわかっているなら、365通書く前に、NYへ飛ぶに違いない。「きみが鳥になれというなら鳥になる」と宣言だってしているのだ。

返事が来ないならNYへ行くつもりだったのに、戦争で軍隊に召集されて行けなくなった、という筋書きの方が説得力がありはしないだろうか。

3. 決闘は不可避のはず

 映画はこんな風に進行する。結婚式直前に、新聞で初恋のノアを見かけたアリーは、すぐに車で逢いに行く。将来を約束しあったリノベーション後の邸宅で、二人は断ち切られた初恋を再び燃え上がらせる。しかし、帰らない娘を心配した母が到着し、如才ないキレ者の婚約者もその避暑地に到着する。

ここまでのシナリオの流れで、観客の「期待の地平」には「決闘」の二文字がネオンサインで煌々と輝いているはず。アリーが結婚式直前の婚約者を捨てて初恋の男に走るという選択を、日本的な集団主義から、どうしても受け入れにくいというレビュアーも散見された。多数の登場人物、多数の要素のうち、ひとつでも苦い味が後を引くと、「後味が悪く」なる。

ここは、どうしたって決闘しなければ収まりがつかない局面だろう。その決闘では、田舎者の材木職人ノアよりも、洗練された有能なハンサム婚約者が圧倒するにちがいない。

男としても、婚約者の勝ち。しかも、名家同士の結婚式直前でもある。

ハッピーエンドになりそうにないと観客がやきもきしたところで、アリーの金持ち父さんをぜひとも登場させようではないか。

映画の中では、金持ち父さんは「売春宿ジョーク」が得意だった。

自分のパラプロットでは、その父が悪所で婚約者とばったり出会い、バチェラー・パーティーで商売女たちとふしだらで不誠実な醜態を晒しているのを目撃する。

そして、駆けつけた避暑先で、決闘で婚約者が勝ったにもかかわらず、二人ともに「不合格」を言い渡す。そんなドンデン返しが有力なのではないだろうか。このプロットなら悪い後味は消えるので、純愛の残響だけを余韻にできる。

4. 脚本家は「想起の喜び」を知らない

 原題の『Notebook』は、ノアがアリーに朗読して聞かせている二人自身の恋愛物語を指している。映画の最後で、その自作小説はアリーが書いたことになっている。「自分の認知症が進行したらこの物語を読んで私を連れ戻して」という意味の自署が冒頭に書かれているのだ。

この設定は、あまり上手くない。物語は夫のノアが認知症の妻アリーのために書いたことにした方が、絶対に創造の幅が広がるのだ。

ノアによる恋愛物語の朗読で、アリーは時々理性を取り戻しはじめる。そして、その正常な理性のもとで、二人の他愛のない愛の逸話にアリーから訂正が入り始めると、映画空間はグッと面白くなる。

アリーは「違うわ。あのとき、あなたはこんな姿勢でこう言ったのよ」などと言うだろう。「そうだった、そうだった」とノアは嬉し気に応じて、二人であの時と同じ姿勢、同じ台詞、同じ感情を再体験する。二人の中で、記憶がまざまざと蘇ることだけでも心が気持ち良いのに、それを認知症の妻と共有できることの喜びの強さは何にも代えがたいことだろう。

 その「想起の喜び」は、実は映画の登場人物だけに生起するわけではない。人はどうして、伏線が緊密に生きている映画を、あれほど愉快だと感じるのだろう? それは、映画前半で観客が記憶した伏線が、映画後半で想起させられるからだ。人間は記憶が蘇ることに、快楽を感じる動物なのである。

5. 「想起の喜び」の文芸批評上の含意

 「想起の喜び」の文芸批評上の含意を、自分用に追記しておきたい。実は、その「想起の喜び」のこの延長線上に、プルースト失われた時を求めて』の「無意志的記憶」が存在するのだ。 

 それにたいしてプルーストが重視するのが、無意志的な記憶である。これはまったくの偶然の経験として主人公を訪れる。あるとき主人公が紅茶に浸して柔らかくなったマドレーヌを紅茶とともに口にすると、「素晴らしい快感、孤立した原因不明の快感が、私のうちに入り込んでいた」[8]ことを、突然に感じたのだった。

 これは有名な実例だが、きっと誰にも、数回は訪れたことがあるだろうと思う。風の肌触りや物の匂いなどで、その時いる場所や時間とはまったく違う場所と時間での経験が、奇蹟のようによみがえってきて、その記憶にさらわれてしまうことがあるものだ。そのときぼくたちは時間を忘れ、場所を忘れて、よみがえってきた過去の記憶に恍惚となる。プルーストはこれを無意志的な記憶と呼ぶ。意志によってこれをよみがえらせることは決してできないからである。これは偶然が感覚に与えた特権的な瞬間なのだ。 

(強調は引用者による)

この無意志的記憶を、さらに拡大して精緻化した概念が「エピファニー」だ。時間にまつわるものを、プルースト的「間時間的な」エピファニーとし、空間にまつわるものをベンヤミン的「間空間的」エピファニーとする分類は、わかりやすいと思う。 

先に「エピファニー」の、この分脈での定義を確認しておきたい。文学におけるエピファニーの諸相を探った唯一の上記の書では、このように書かれている。

 文学はエピファニー、つまり、日常の些事に紛れて見えなくなっている生の意味、あるいは超越論的なレベルの存在を、なぜかも知れず瞬間的に気づく様子を表す最良の媒体である。

ある種の芸術体験と宗教体験とは、確実に重なる部分があるのだ。科学的に言えば、昨晩のリサ・ランドールの話につながりそうだ。すでにその痕跡が科学的に観測されている五次元空間の関与。つまり、私たちが知覚可能な四次元空間に、余剰次元が交差したときの感覚に近いのかもしれない。文芸批評でも、このスピリチュアルな領域との交錯について、目立った研究がなされていないのが現状だろう。

自分は簡単にこうまとめたことがある。

平たく言えば、ベンヤミンアドルノ的な「間空間的エピファニー」とは、本来なら関連がありえない物同士(地上から見る星は、遠近法の働かない視覚上どれほど近接していても、その星と星との間には、実際は気の遠くなるような距離がある)のあいだに、つかのまの「星座線」を引くことによって、「世界はそうなっているのかもしれない」という脱日常的な「顕現」の感覚を得ることなのである。

事実、ジョイス自身も『フィネガンズ・ウェイク』でそのような「間空間的エピファニー」の最高度の現出に成功しており、そもそも、作家が作品に対して神の位置をもって日常世界への alternative を提出している以上、あるいは、その創造過程において自己統御可能な自意識以上の何かにしばしば浸潤される以上、ベンヤミン的な「間空間的」、プルースト的な「間時間的な」エピファニーにコミットせざるをえないことは自明なのだが、ジョイスを貧しくしか読まないと、教科書のような名著でも、しくじってしまうことはあるのだろう。 

7. 個人的に撮りたかったエンディング

認知症患者の女性は、化粧をしなくなると聞いたことがある。最初から、ばっちりメイクで美貌の老婆として登場している「老いたアリー」に、私は違和感を感じずにはいられなかった。

どうして、この映画は認知症の妻と夫を、最終場面で同時死亡させてしまったのだろうか。「自然心中」は、上の要約サイトが言うような「完全なハッピーエンド」ではないように感じられる。認知症は必ずしも治癒不能の病気ではない。

下の動画をご覧いただきたい。

 誰もが「不治の病」だと誤認しているエイズ。適切な治療を施せば、このCMが意外な印象を観客に喚起するのと同じく、エイズも快方へ向かう。化粧療法が認知症にも有効であることは、科学的に認められている。

 高齢者が専門スタッフ(ビューティーセラピスト)のサポートを受けながら化粧を楽しむことで、表情が明るくなるだけでなく、化粧が筋力トレーニングになり、日常生活の基本動作が自力でできるようになるといいます。

 (…)

 健康・長寿の秘訣は、「運動」「食事」「交流」の3つであるといわれています。私たちの研究では、その3つのすべてに「化粧」が関わってくることを明らかにできました。 

私がこの映画を撮るとしたら、老け込んでいた認知症のアリーに、ノアが献身的に化粧する場面を入れたい。自伝小説の読み聞かせと化粧療法によって、アリーがだんだん理性を取り戻し、ノア執筆の恋愛小説にケチをつけはじめたら、絶対に面白い。

この映画でもそうだったように、「ボケる」「正気に返る」のスイッチはかなりご都合主義的に使える魔法の装置だ。アリーとノアが病室で青春時代の再現ドラマをやろうとしているときに、アリーに無神経なことを言うと、急にボケはじめたり、アリーを優しくいたわると、急に正気を取り戻したりする展開は、きっと面白いにちがいない!

 

 

 さて、クイズの答え合わせをしよう。同じく、クイズを出すことにしたこの記事の経緯を読めば、答えは簡単に出せたことだろう。

琴里:その通り。先生は、ハートの真ん中に i があるから。絶対にクズ野郎なんかじゃないから。

ぼく:…まさか、まさか。ぼくがク i ズ野郎だってこと? 

 0.34から、材木職人のノアとの交際を反対する母が、こう叫ぶ。

Trash, trash, not for you!

クズよ、クズよ。あなたにはふさわしくない! 

酷いな。あんなにはっきりと怒鳴らなくても良いのに。ドルビーサウンドでまる聞こえだったぜ。本当に号泣してしまった。

どう反論したらよいのかわからないまま、自分の両手はカタカタと動いて、昔書いた記事の一行を引用していた。 

クズがどうした。クズが一輪の薔薇を咲かせることだってあるさ。 

 

 

 

 

 

 

(ノアとアリーのラブソング)