夜の混沌に対抗するリトルネロ

カフェインに弱い自分も、朝だけは珈琲を飲んでも大丈夫なので、珈琲を片手に眠気覚ましに短い英文を読むのを日課にしていたことがあった。読んでいたのは、朝日新聞の社説の英語版で、「twisted Diet」という表現を覚えているから、ここで語った首相が政権の座にいた頃の話だっただろうか。 

ちなみに「twisted Diet」は「身体ねじり体操による減量」ではなく、「ねじれ国会」を表す。大文字で始まる Diet は日本の国会のこと。

今朝の眠気覚ましは、この受験英語。母校の高校生がまるごと夏休みの宿題にされていた一冊。訳してみた。

Yet it is a very plain and elementary truth that the life, the fortune, and the happiness of everyone of us, and more or less, of those who are connected with us, do depend upon our knowing something of the rules of a game infinitely more difficult and complicated than chess.

 しかし、きわめて明白で基本的な真実ではあるが、私たち全員の、あるいは私たちと結びついている人々の、人生や運や幸福は、チェスよりも無限に難しくて複雑なゲームのルールを、ある程度知っているか次第なのである。

「チェスよりも無限に難しくて複雑なゲームのルール」とは、間違いなくシンクロニシティのことを言っているな、と勝手に断定しながら、珈琲を啜っていると、

「ゆっくり大自然の中、野鳥の声をバックにお気に入りのバド・パウエルを聞きながら、"MILLE PLATAUX" を読むのが楽しい。

という文言が、著者略歴に書かれているのを発見。同時にドゥルージアンを発見。 

千のプラトー―資本主義と分裂症

千のプラトー―資本主義と分裂症

 

 最近の版でこの記述が消えているのは、「格好良すぎて逆に格好悪い」と感じたからなのかもしれないが、ドゥルーズ自体は60年代70年代の後期構造主義の思想の中で、いま最も読み直されている「格好いい」思想家であることは間違いない。

報道ニュース番組のコメンテーター席に「知的メガネ男子」の典型たる風貌をあらわすことのある國分功一郎や、やけに面白い受験生向け?勉強本が大好評の千葉雅也も、ドゥルーズ研究者だ。彼らの「本拠地」の著作にもいつか言及したい、時間が許してくれれば。

ここでは、ひとこと、「確かに野鳥の似合う思想家といえば、ドゥルーズをおいて他にいないな」とだけ呟いて、そうそう、最近カフェイン摂取の必要に迫られてモーニングへ行くカフェにあの店を選んだのは、店内のある場所で鳥が鳴いているのが好きだったからかもしれない、と連想が続くのに身を任せることにする。そんなとりとめもない連想を追いつつ、今朝はテイクアウトの珈琲を片手に、これを書いているというわけだ。

朝一番には、一番最近買った本の話をすべきだろう。 

現代思想のなかのプルースト

現代思想のなかのプルースト

 

 読書対象として文芸批評を読みこなしている作家はさほど多くないようだし、研究論文を読みこなしている作家は、尚のこと絶滅危惧種かもしれない。

プロのアカデミシャンの研究論文を、どうしてプロの作家が忌避するのか、確たる理由はよくわからないし、ここで論じるつもりもない。ただ、推したい文学研究者を何人も持っている自分とは、あまり話の合わない世界であることだけは何となく想像がつくし、だからこそ、ここでこんな目に遭っているのだろう。自分があまりにも不憫だぜ。まあ、それも諸事情あって「漱石=猫」主義に自発的に屈服した今、もうどうでもいいニャン。

どの作家や作家志望にも一度もこれを話したことがないので、誰にも知られていないことだが、土田知則は私的に推したい研究者の一人。キャリアの最初期に訳したショシャナ・フェルマン『狂気と文学的事象』で、逃げずに拮抗するような明晰な解説をつけていたのが印象に残ったので、以後追いかけるようになった。  

狂気と文学的事象

狂気と文学的事象

 

『狂気と文学的事象』は、文学理論系ではアメリカ・トップのジョナサン・カラーによって「瞠目すべき仕事」と激賞されたが、そのジョナサン・カラーは日本語 wikipedia に項目が存在せず、『狂気と文学的事象』は地元の県立と市立双方の図書館に入庫されておらず、Amazon上のレビューはゼロ。 Google を数ページ掘っても、アカデミシャンが数名言及しているくらいか。

 土田知則の最新作が優れているのは、プル-ストを読む8人の文学者を同時に読むことで、その8人に通っている「横糸」を分析できているところ。8人とは、この顔ぶれで、仏語圏、独語圏、英語圏を軽々と横断しつつ秀逸な論考が紡がれているので、「前人未到の野心的企て」と出版社が書くのも頷ける。

ベンヤミンバタイユ、バルト、ドゥルーズレヴィナスポール・ド・マンジラール、J・ヒリス・ミラー

 「研究対象者が死んでから研究すべき」という確たる根拠のない不文律に縛られて同時代的なアクチュアリティの確保に遅れたり(通時的限界)、研究対象者ひとりにもっぱら研究資源を集中させすぎて往時の状況論的布置を見失いがちだったりする(共時的限界)のが、凡庸な研究者の通弊だ。土田知則はその外側にいる。

彼のさらなる美質は文章が明晰なこと。『早稲田文学』周辺は好きだったが、「ハスミ虫」なる蔑称のある蓮実重彦の模倣者が多く生息しているのが迷惑だった。実際に話してみると、その著者に見事に「眩惑されている」人々ばかりだったので、傷つけたら可哀想な気がして「こんな蓮実重彦はイヤだ」みたいな莫迦話にいつも誘導してあげたような記憶がある。土田知則の文章は、複雑で多量の情報を的確な操作で巧みに織り込みながらも、高校生でも読める明晰さがあるので、他人に勧めやすい。

第一章がベンヤミンなのは、おそらくはプルーストの典型的な読みを冒頭で示しておきたかったからだろう。少年時代の思い出につながる「靴下」というプルーストの偏愛モチーフにベンヤミンが執着しているのを受けて、いや、それは各文学者がすでに指摘しているように、「ヴィヴォンヌ川のガラス瓶」とのモチーフ上の共通性がある、と土田知則は論を進める。

その各文学者のラインナップを読んで、ちょっとくらっと眩暈がして、自分が演劇にかまけた仏文の劣等生だったことを思い出してしまう。( )内に思い出を書き込みながら引用しよう。

 ジェラール・ジュネット物語論naratologyの泰斗、非ぺスカトーレ系本家textologyの提唱者)、ジャン⁼ピエール・リシャール(蓮実重彦の自称影響元、主題論批評の代表)、クロディーヌ・ケマール、ディヴィッド・メンデルソン、ジャン・リカルドゥー(初期渡部直己の参照先、物語論の先駆者のひとり)、フィリップ・ルジュンヌ(自伝研究の第一人者、オートフィクション研究も。自分が自発的に屈服する前の「漱石=猫」主義の実証的根拠)。 

自分もいくつかこの周辺についてブログアップしてきた。

日本ですっかり誤解されている物語論の周辺について、誤解を解こうとした記事。

リシャールの主題論批評について。

『自伝契約』をベースにした「オートフィクション」の定義と可能性について。 

現代思想のなかのプルースト』のベンヤミンの章に話を戻すと、「靴下」から「ヴィヴォンヌ川のガラス瓶」の主題的連関は、すぐさま(作中では祖母の死に代えられて表象された)母の死(母喪)につながっていることが確認される。いかにも文弱な文学青年の中に熱狂的なプルースト支持者がいるのは、そういった理由によるのだろう。

あからさまに第1章で典型的なプルースト読みを提示しておいて、最終部近くの第七章で、それをドゥルーズにひっくり返させるという章立ては、やられてみるとそれしかないなという気もするが、まずは実際にこのように国境横断的に8人のプルースト読解の読解をした人間がいないのだから、やはり前人未到になるのだろうか。

従来のプルースト読解を、ほとんど倒立させたかのようなドゥルーズの読みは、まさにエポック・メイキングな事件だった。ドゥルーズはこの短い『プルーストシーニュ』という書物によって初めて、怪物の巨躯を現したのだった。

 プルーストの作品は、過去や記憶による発見ではなく、未来や習得の進展に向けられている。

 これは「マドレーヌを契機に無意志的記憶に存在を支配されて、想起の喜びに浸る特権的な瞬間」といった従来のプルースト読解の完全な逆ベクトルだ。かといって、ドゥルーズ牽強付会に自説を展開しているかというとそうではなく、散歩道の思いがけない交錯を根拠に「横断性」を読んだり、プルーストの「無意識的記憶」をもとに「偶然性に強制される無意志的思考」へと発展させたりと、『失われた時を求めて』という巨編のさまざまなセリーを実地に引き出しながら、次作のこれまた怪物的傑作である『差異と反復』の主題を準備していくのだ。

  面白いのは作中で、ドゥルーズの論考を多く持つ篠原資明が、ベルクソンベンヤミンドゥルーズを参照しながら「交通」論を詳述しているのを紹介している箇所。それは明らかに柄谷行人の仕事とつながっているのだが、時代の寵児だった柄谷行人を崇拝している人間から、そのような世界的固有名詞の仕事との通底性について、まともな話を聞いたことはない。亜インテリの限界。一神教的な思想や文化に行き止まりがあるのは明らかで、少なくともそれが非ドゥルーズ的であることは間違いない。

現代思想のなかのプルースト』は、8人の思想家を計8章で扱っているので、章あたりの紙幅にゆとりがあるとは言えない。

もし自分がプルーストドゥルーズという算式に付け足すことがあるとしたら、プルーストから中上健次へのやや見えづらい系譜だろうか。『プルーストシーニュ』と同じく『マイナー文学のために』書かれた文学論には、いかにもドゥルーズらしい「美しい書物は、或る種の外国語で書かれている」という一文が見える。しかし、実はこれはプルーストが書いた一文なのである。

とすれば、『批評空間』諸氏の称賛を浴びた中上健次が、「日本語でどもること」をそのエクリチュールの中心に据えたことの重要性が、その系譜に連なっていることは明白だろう。別段『批評空間』諸氏を礼賛したいというわけではなく、世界的な思想家や文学者の仕事を、(権威づけられた系統に従ってではなく)、自然に読み込んでいくと、日本では系譜学的な糸が『批評空間』絡みの文脈につながることが多いというだけの話。それ以上でもそれ以下でもない。

現代思想のなかのプルースト』では、レヴィナスの章がやや冴えを欠いていたように感じられた。それは筆者の責任ではなく、プルーストレヴィナスの関わりがやや薄いせいで、豊かな系譜学的文脈を紡ぐのが困難だったからだろう。ただし、土田知則がプルーストを読む8人の思想家の「横糸(共通性)」として剔抉した「他者(性)」と「内的差異」は、レヴィナスにかかわりが深い概念だ。

となると、プルーストレヴィナスを繋ぐ系譜について、レヴィナス専門を名乗らない著者によるこの短い一章より豊かな専門知を持つ人物は確実にいるはずなので、その人物がブログ日参更新主義者なら、豊かな知見に満ちた刺激が、なるべく早く現代思想や文学の後進の人々に波及することを願ってやまない。

この記事の最初の方で、まだ醒め切らない頭で、「確かに野鳥の似合う思想家といえば、ドゥルーズをおいて他にいないな」と呟いたが、それもそのはず、ドゥルーズに「リトルネロ」という有名な概念があるのをいま思い出した。これも出典は『ミル・プラトー』。

 リトルネロとはテリトリーを示すものであり、領土の編成なのである。たてば、鳥の歌。鳥は歌をうたうことによって自分のテリトリーを示す。

BOOKSTEADY Lesson.1 7/13「ドゥルーズレッスン 差異と反復、リトルネロの論理について」PART.1 - donner le mot

リトルネロの詳しい解説は上記の「授業」に譲るとして、ここでは昔書いた記事で引用した曲が、きわめてリトルネロ的である偶然に触れておきたい。 

オリジナル・バージョンはこちらで聴ける。

冒頭に鳥の鳴き声が入っているのがわかるだろうか。

Words are flowing out like endless rain into a paper cup,
They slither while they pass, they slip away across the universe
Pools of sorrow, waves of joy are drifting through my open mind,
Possessing and caressing me.
言葉が流れでて
降りやまない雨のように
紙コップへ降り注ぐ
通り過ぎながらすべっていき
言葉は宇宙を横切っていく
積み重なった悲しみや喜びの波が
ぼくの開かれた心を通り抜けて漂っていく
ぼくをつかまえて 優しく撫でながら


Jai guru de va om
Nothing's gonna change my world,
Nothing's gonna change my world.
私たちの導師である神に幸あれ
何もぼくの世界を変えない
何もぼくの世界を変えない

(後略)

 サビの「Nothing's gonna change my world,」というリフレイン(リトルネロ)は、明らかに今この歌が画定していく自分の「領土」を、何とかして守ろうとしている宣言のように聞こえる。

私たちが何気なくあちこちで耳にする鳥の歌は、「守りたい」に通じていると、ドゥルーズは主張しているのである。ちょうど彼が例に引く子供が、夜の混沌の中で歌を口ずさんで自分のいる場所をほんの少し安心と勇気で満たそうとするように。