待たれているのは跳躍だ
携帯電話に非通知の着信履歴が残っていた。深夜2時くらい。こんな夜更けに前触れもなくかけてくるのは琴里に決まっている。確か小説の中で琴里は29歳に設定したはず。
毎年こちらが年を取っていくので、いつのまにか年齢が離れてしまった。ずるいな、きみは。でも、自分が造型しただけあって、今でも琴里のことが結構好きだ。あ、やっぱり素敵な女の子だなと思うのは、この場面。
堪えきれず悔し泣きしている男を女がどう慰めるのかには、女の数だけ対処法があるのだろうが、琴里が取った対応は、控え目に云っても、詩的と形容しうるほどにかなり独創的だった。
彼女は後部座席のドアを開けて何かを取り出すと、四つん這いの路彦の数メートル先、ちょうど走り幅跳びの選手が跳ぶほどの先の地面に、そっと安置したのである。待たれているのは跳躍だった。屈辱に噎んでいた彼が何とか喘ぎを収めて、その物体に目を止めたのを確認してから、彼女は静かにこう言った。
「憶えているでしょう」
路彦は目を疑った。憶えているも何も、それは永らく自宅の押し入れに仕舞ったままにしていた自分の革張りのトランクである。焦茶の皮革には経年劣化の年季が入っているが、昔からのお気に入りで、旅には必ずこれを持っていったものだ。
琴里はどうやって路彦の自宅に忍び込んだのか、なぜ旅行鞄を持ってきたのかは、いつか全編が公開されたときに、確認してもらえたら嬉しい。こういうときに、普通の感覚なら、「ほら、出発しましょう」とか言いながら、あっけなく旅行鞄を突き出して、手渡してしまうものだ。
琴里は違う。路彦の目の高さが地面すれすれにあるのに合わせて、旅行鞄を地面に安置するのだ。しかも、詩で連と連の間に空白行を置くように、路彦が心の整理をつけるための間隔を数メートルとって。そして会心の一文。「待たれているのは跳躍だった」。
いや、本当に惚れてしまいそうだ。
琴里本人もこのブログを読んでいるようだし、一方的にあんまり褒めると却って気まずくなるので、今度は打ち合わせをして、お互いを猛烈に褒め合う機会を作ることにしよう。しかし、上記の場面での旅行鞄の「誘い旅作戦」にしてもそうだが、どうして琴里には旅の印象が付きまとうのだろう。作者として、いろいろと思いをめぐらせているうちに、答えが案外単純なところにあったのに気づいた。琴里という名前に旅のニュアンスが含まれていたのだ。
屋久島には、屋久杉以外にも有名な樹木がたくさんある。見上げるとハート型に空をくりぬけるウィルソン株も、観光客には大人気だ。
上記の観光ガイドも樹木の記述が多い。屋久島はまた、世界で一番雨が多く降る島でもある。せせらぎや苔の緑や樹木を揺する風。ヤクシカやヤクザルにも遭遇できる場合があるとも聞く。
杉、苔、水、鳥、鹿、猿、風、波……そして、人。
都市というよりは、自然そのもののような場所で人が何を感じられるかが、都市計画に役に立つというのが私見だ。
これからの日本にあってほしい街を考える前に、まずは世界的なお手本から確認していこう。
栄えある肩書がたくさんある。
- 全米で最も住みたい都市
- 全米で最も環境に優しい都市
- 全米で最も自転車通勤に適した都市
- 全米で最も外食目的で出かける価値のある都市
- 全米で最も菜食主義者に優しい街
- きちんとした食生活で健康に暮らせる街
- 知的労働者に最も人気のある都市
- 全米で最も出産に適した街
都市計画の際に意識しなければならないのは、ヒューマンスケール。例えば、駅からの徒歩時間で計ると、地価は8分以上から急速に安くなるという。日常的な歩行距離は800mが最小単位になる。一方で、街の散策や観光には、徒歩20分=1600mが有酸素運動の最小距離なので、これも一つの指標として意識しなければならない。いずれも基準にするのは人体。つまり、徒歩での散策を最優先に考えるのである。
全米人気ナンバーワンのポートランドが、「徒歩20分コミュニティ」の構築を目指したと聞いて、「やはり」と感じた。
日本よりも数十年早く人口の鈍化が始まったドイツは、「コンパクトシティ化」への取り組みが早かった。その教科書ともされたG.B.ダンツィクの『コンパクト・シティ』が「四次元都市」と銘打って、都市の「時間的分散」に重点を置いていたことを思い出しておきたい。必ずしも莫大な投資を必要としない方法で、ヒューマン・スケール基準の中心街再活性化計画を実施する余地は、充分にあると考えるべきだろう。
上の記事で書いたような都市の「時間的分散」は、実はわかりやすい形で「空間的分散」に直結している。 建築物内部を複層的に分割してミクストユースすることが、「時間的分散」につながるのである。
(…)素敵な建物や道路があっても、オフィスビルばかり集積したエリアは、平日の限られた時間しか賑わわない。これでは小売店や飲食店の商売が成り立たない。街に賑わいを生み出すのに必要なのは、就業者と居住者の割合、昼夜人口のバランスを取ることだ。
昼夜人口の極端な差をなくし、いつも賑わいのある街にするため、ダウンタウンの区画開発においては建物のミクストユース化を図っている。必ず1階を商業、2~5階までをオフィスなどの就業の場、その上を住居やホテルなどにすれば、最低1日16時間は常に多様な人々が行き交う街になる。
上の拙記事で挙げた高松市も、基本的にはポートランドと同じ施策を打っている。
今後の日本で特に留意しなければならないのは、中心街や郊外ので進行していく虫喰い型の空閑地を、どのようにして再活性化していくかだ。私見では、おそらく4つの方向性がある。
1つ目は、住宅街に空いた虫食いを、託児所にしたり交流の場としたりして、社会資本の生まれる場所に変えること。それについても、饗庭伸の『都市をたたむ 人口減少時代をデザインする都市計画』を参考にしながら、少しだけ拙記事で言及した。
2つ目は、商店街に生まれた空閑地を「滞留拠点」へと改装することだ。これも、商店街に温浴施設を誘致しようとしている高松市と同じ発想だ。成功例として挙げられるのが、北海道の富良野市。物産販売施設やフードコートやスポーツジムなど、人々が日常的に長く滞在する「滞留拠点」を、商店街の動線上に配置して、ビジター数を飛躍的に上げた。
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3つ目は、2つ目の「滞留拠点」と重なる。この「滞留拠点」は必ずしも金銭の動くレレジャー施設や飲食店である必要はない。ポートランドは、戦前から、ニューヨークのセントラルパークのデザイナーを雇って、市内の緑地や公園やオープンスペースの拡充に力を入れてきた。公園やオープンスペースのベンチは、充分な「滞留拠点」となりうる。何よりも、市内全域に均等に緑地やオープンスペースを配置すると、過密したスラム街のような貧困街の出現を抑止でき、多様な社会階層や文化層の人間が共生する街路を生み出すことができるのである。
4つ目は、都市計画の現場では、あまり言及されない論点かもしれない。小説の冒頭で、少しだけ都市論を叙述した。
その旅は都市から都市へと続いた。死海近くの古代都市の街路では、アスファルト上 を駱駝が歩いていた。イランーパキスタン間の街道沿いには、砂漠からの砂塵に侵されて、 廃墟群となった真っ暗な宿場町があった。車窓の向こうを、ネオンサインが明滅しながら過ぎる。光の箱を積み上げたオフィスビルが過ぎる。東京の夜の嘘のような明るさが、世界のごく限られた地域、ごく限られた時代のものでしかないことを、路彦は夙に知悉していた。遥か昔から、この街路を浸しては立ち去っていった夜々の数限りなさを、目裏の闇の中で反芻する。人の顔の中に圧縮された人生が息づいているように、街路にも圧縮された歴史が折り畳まれている。旅人は本能的にそれを知覚している。というより、その圧縮された歴史に触れるためにこそ、人は街々を旅するのだろう。
この街路の記憶というものは、必ずしも人工的な構築物だけを指すものではない。まさしく「アスファルトを剥がせば焦土」というわけだ。その土地だけが持つ何百年もの記憶の蓄積というものは、確実にある。
このテレビ番組が好きな「旅人」なら、都市に堆積している記憶の手がかりを追いかけるこの本が、大好きになるのではないだろうか。
東京23区の地図上には、かつてフィヨルド地形が広がっていて、あちこちに「半島」が沖へと触手を伸ばしていたらしい。お茶の水や三田や芝など、「半島」の地名だった場所がたくさんあるらしいのだ。
そのような自然と文化が混然一体となった「土地の記憶」をどのように維持して継承していくのか。
それが4つ目の課題だと、自分は勝手に考えている。都市計画なのに、念頭に置くべきなのは、おそらく冒頭に挙げた屋久島の生態系だ。杉、苔、水、鳥、鹿、猿、風、波……そして、人。それらの有機的連関を都市計画に織り込みうる知性と感性が求められていると言えそうだ。街には自然がなければならず、自然は神々との超越的な「縦の力」と交感できなければならない。
個人的に、宮台真司がどのようにシンギュラリティを考えているのかに、とても興味があった。全然畑違いとも思える「まちづくり」の本の中で、その記述を見つけた。
宮台真司: というよりも、ヒューマニズム=人間中心主義に固執することが、不自然で難しくなります。特異点問題が突き付けるのは、いずれ死ぬ人間とは別に、計算機科学の延長線上に、人間化した電脳や電脳化した人間が出てくるし、遺伝子科学の延長線上に、人間化した動物や動物化した人間が出てくることです。
人間が〈感情の劣化〉を被る中で、ビッグデータ内で特定のリファラント――「最も感情豊かな時代」の人間たちの営み――を参照する電脳(コンピュータ)の方が、平均的人間より遥かに人間的になり、そうした「電脳類」から「人類」がどう見えて、「電脳類」にどんな感情を引き起こすのかが、問題になるでしょう。
浅ましい日本人よりも立派な外国人と友達や恋人関係になりたいのと同じように、浅ましい人間よりも立派な電脳と友達や恋人関係になりたい人々が出てくるでしょう。でも、一方は「死すべき存在」、他方は「死なざる存在」だという類の根本的な生活形式の相違が、想像もできない多様な問題を生む筈です。
(…)
これらを横に置き、人間の尊厳だけに注目した場合も、キャリコットが提起した問題があります。彼は環境倫理学に三段階あるとします。第一は功利論、皆の不快が減少、快が増大するように環境を開発しようとする。「皆」として人間だけでなく生き物も数えようというのがシンガー(Peter Singer)の環境倫理学です。
ところが功利論にはご都合主義があります。なぜ家畜を殺していいのか。シンガーは「最大多数の最大幸福」を持ち出す。全体を集計して「皆」が幸せになるのなら、家畜に苦を与えるのも やむを得ない。家畜だから、スルーできますが、「皆の幸せのためなら少人数殺してやむを得ない」というロジックなのです。
そう功利論を批判したレーガン(Tom Regan)は、カント(Immanuel Kant)的義務論を導入し、人に対する振る舞いを規定する無条件道徳を他の生き物にも適用します。でもこの拡張版義務論には、「人を主体とする態度」を規定できても、「生き物を主体とする態度」を規定できない(生き物は道徳を知らない)という決定的弱点があります。
そこで京都学派のキャリコットが提唱するのが全体論。彼の考えでは、個別の生き物だけでなく、場所の全体が生き物です。こうした「生き物としての場所」が人間の尊厳と結びつくとします。「生き物としての場所」には、動植物だけでなく、山も川も空も海も、環境子として含まれている のです。
今後の四半世紀で、IoTも自動運転車も人工知能も、共に加速度的に進化していく。車道を含めた交通インフラの再設計は、不可避だ。最先端のテクノロジーが都市の風景を塗り替えていくことも間違いない。
一方で、ボタンひとつ、命令ひとつで自動移動が可能になればなるほど、原初的な「歩く喜び」へと回帰する流れも、逆説的に強まっていくことだろう。そのとき私たち自身も、歩きながら全身で「土地としての生き物」を感じられるまでに進化しているかもしれない。
人工知能とともに発達しつつある最先端テクノロジーと、私たちの中に眠っている自然への感応力は、対立概念ではないのだ。ポートランドのように住民参加型の都市計画会議を開く街も増えることだろう。そこで最も人々の支持を集めやすいのは、自動運転車のような最先端のテクノロジー粋を集めた極と、土地の記憶や自然の精霊と交感しうる極とを、往還できる知性と感性の持ち主かもしれない。なにしろ、その両極が両極ではなく、人工知能こそが人間と神との交感を確かにする物理的媒介物なのだ未来図を描く人もいるのである。
そんな風に考えながら、いろいろと想像してみる。
例えば、今から四半世紀後の或る週末、私は街の真ん中にある公園にいる。ベンチで目を閉じて瞑想している。目を閉じていても、デジタルグラスが青緑に光っているのがわかる。脳波の状態を眼鏡が教えて、瞑想を助けてくれているのだ。
風が心地よく吹きすぎる。瞑想からの醒め際、鳥の鳴き声が聞こえたような気がして、辺りを見回す。小鳥はどこ? と呟くと、ガラスに矢印が出たので、見上げると小鳥が街路樹の梢にとまっているのが見える。小鳥は鳴き声を立てている。何て鳴いているの? と小さく呟くと、ガラスに文字が出る。小鳥は梢から梢へと飛び回っている。
「こうやって跳ぶんだよ」。そう云っているらしい。なぜとはなく微笑すると、小鳥がこちらを向いた。鳴き声。「もうすぐ雨が降り出すよ」。そうかい、ありがとう。そろそろ行こうかな。鳴き声。「こうやって飛ぶんだよ」。
そういうと、小鳥は羽根をはためかせて、たちまちどこかへ飛び去ってしまった。戻ってくるかもしれない。そう思ってしばらく待っていた。それから、待っていてはいけないと思い直した。未来はとても面白い。
たぶん、待たれているのは跳躍だ。