She maybe the reason I survive
どういうわけか、自分でも理由がわからないのに、自分がそれに引き寄せられていくのがわかることがある。
逆に無数の破片の散らばりの周りを散歩していると、明らかに輝いている破片だとわかるのに、まるで頭上の飼い主に「待て」をかけられているかのように「待った方が良い」と分かるときもある。
シンクロニシティや引き寄せの法則を体感したことがない人には、さっぱりわからない話だろう。なるべく実感してもらえるように、この記事を書いていきたい。
「待て」の話から。
というわけで、スチャダラパーのBOSEが加山雄三と一緒に、小野リサがボサノバの創始者たるカルロス・ジョビンと共演した時の話をしているのを、引き込まれて見ていた。
実はこのテレビ番組が放映されたのは、記事の日付の数か月前だったはず。「待て」がかかったような気がしたので、年が明けてからの「待て」解除の勘を頼りに書いたら、知る人ぞ知る美味しい展開になった。
さて、このブログ読者が抱いているパブリック・イメージには「センスが良い」というありがたいイメージもあって、昨晩の悪ふざけを含んだ記事に対して、「恋をしているのならもっともっと繊細に」との感想をもらったようだ。確かに、恋してる相手の女子のことを充分に考慮できないようでは、モエ・エ・シャンドンにはまだ早い。というわけで、鯉に恋するカープ女子のことを考えながら、どこかで広島カープの3選手を織り込みながら、記事を書いていくことに決めた。
上の記事を書いているときに、すでにフレンチ・タクシーの洒落は思いついていたけれど、「待て」がかかっている気がして、この日には書かなかった。しばらくたった日の朝、ブログの構想を練っているとき、ヘンゼルとグレーテルのお菓子の家にプジョーが突入するイメージがふと脳裡に蘇った。何のイメージだったかな、と考えに考えて、昔書きそびれた洒落だったと、ようやく思い出した。ひとり声を出して笑ってしまった。
自分でも笑えるくらい面白いので、それをバウムクーヘンに絡めて書いたのが、この記事。
「自分でも理由がわからないのに、自分がそれに引き寄せられていくのがわかる」という冒頭の不思議な現象については、この映画に引き寄せられたときのことを、ここで詳しく書いた。 そこで数え上げた①~⑦のシンクロニシティは、本当にただの偶然の一致でしかないように見えるだろうか? この一年間、種々のスピリチュアル系の本を読み込んできた自分には、それらの偶然に自分が引き寄せられてきたのを感じずにはいられない。
『ラブリー・ボーン』と同じことが、別の映画でも起こった。
自分はかなりの家具好きでもあって、上の記事のように椅子の歴史に詳しかったり、下の記事のように、天上に据え付けるライトやソファーにも一家言あったりする。
ソファーは、なぜとはなしにチェスターフィールドを第一候補に考えて、デザインや機能性が高い第二候補を探しにいくことが多い。
さて、昨日たまたまDVDで鑑賞して、なるほど、ここ数か月間、自分はこの映画を見るよう引き寄せられていたのかもしれないと感じた。有名な恋愛映画で、生涯最高の恋愛映画に掲げる人も多いらしい。
これまで、(ゴダールのような)フランス映画が好きだというと、ではハリウッド映画は嫌いなんだね?とよく訊き返された。当たらずとも遠からず。ヨーロッパ映画の方が陰影に富んだ芸術性が高いような気がして、最初にそちらを選ぶことが多い。『ノッティングヒルの恋人』が大流行しているのは、当時知っていたものの、未見だった。
概要を説明するだけで、心が震えてしまう。オードリー・ヘップバーン主演の『ローマの休日』を現代にアダプトした映画で、主人公は『ラブ・アクチュアリー』のヒュー・グラント(!)(『ラブ・アクチュアリー』については非公開記事あり)。
例によって、ネタバレ満載で書いていくので、未見の方はご注意を。
『ノッティングヒルの恋人』は、『ローマの休日』と同じく、社会階層トップの「お姫様」女優が、一般人男性と恋に落ちる話。主人公はロンドンの下町にある小さな赤字本屋の経営者で、そこをハリウッドのトップ女優が偶然訪れ、二人の恋が始まる。
脚本が入念に作られていて、ヒュー・グラントの演技と佇まいが良いので、ハリウッドが苦手な自分でも好きな映画だ。好きというか、他に代わりが利かない映画だと感じて、完全に嵌まってしまった。流し見も含めると、3回も観てしまったのだ。
あらすじと予告動画を紹介しておきたい。
【起】
アナ・スコットはアメリカ・ハリウッドで押しも押されぬ大女優です。そのアナがある日、ロンドン西部のノッティングヒルにある旅行書専門の書店に立ち寄りました。その書店は大して儲かっておらず、店主のウィリアムはバツイチのさえない男でした。ウィリアムは大女優の突然の来店に非常に驚きます。アナはウィリアムに微笑して店を去りますが、その後、飲み物を買いに出たウィリアムは街でアナとぶつかって、オレンジジュースをアナの服にかけてしまいました。慌てふためいたウィリアムは、アナの服を乾かすためにすぐ近くにある自宅に招きます。
【承】
洗面所で服の汚れを取ったアナにぎこちなく飲み物を進めたウィリアムは、なんとかその場をやりすごしてアナを送り出しますが、なんとアナは引き返してきて、ウィリアムにキスをしました。ウィリアムは、この夢のような出来事に、文字通り夢見心地になります。その興奮も冷めやらぬ数日後、ウィリアムのルームメイト・スパイクが、ウィリアムに「アナとかいう女性から電話があった」と告げました。早速アナが宿泊しているリッツホテルに電話し、偽名のフリントストーンという名を告げて電話を繋いでもらい、雑誌記者と偽って部屋に入りました。そこでウィリアムは、妹・ハニーの誕生パーティにアナを誘います。
【転】
その後もデートを重ねるウィリアムとアナでしたが、ある晩アナの部屋に行くと、有名俳優の恋人・ジェフがアナの帰りを待っていました。アナとの進展に有頂天になっていたウィリアムは、ジェフの存在にショックを受けます。ウィリアムはアナに別れを告げて去りました。独り者の暮らしに戻ったウィリアムのところに、半年後、突然アナがやってきました。アナは売れない時代にヌード写真を出しており、そのゴシップでマスコミに追われています。ほとぼりが冷めるまで家に置いてほしいとアナは頼みました。しかしルームメイトのスパイクがバーで口を滑らせたことでマスコミに知れ、殺到します。
【結】
ゴシップが増やされて怒ったアナは、ウィリアムに二度と会わないと言って去りました。一年後、アナの撮影現場を訪れたウィリアムは、アナから愛の告白をされます。しかし撮影現場でアナの輝く姿を見たウィリアムは、不釣り合いだと思ってアナを振りました。アナが書店に来てもつれなく振る舞います。しかし友人たちに慰められたウィリアムはアナを受け入れることにし、ホテルの記者会見の場でウィリアムはアナに告白しました。アナもプロポーズに応え、会場は結婚会見に変更されます。二人はそのまま結婚しました。そして数ヶ月後、お腹の大きくなったアナとウィリアムは、街の公園で寄り添っていました。
(字幕つきの予告編は見当たらなかった)
初見では、心をぐらぐら揺さぶられて、最高の恋愛映画だと感じた。けれど、さらに2回くらい流し見をしていると、プロットメイクは自分ならこうするのにな、というパラ・プロットが次々に思い浮かんでくる。自分が書こうとしている恋愛小説の参考材料として、記録しておきたい。4つほど思いついた。小さい順に書いていきたい。
1. 本屋のウィリアムの文芸映画転向の勧めを生かし切る
ウィリアムとアナはマスコミから一緒に隠居している間、屋上で台詞の練習をしていた。そこで、ウィリアムが文芸映画への転向を進めて、実際にアナは転進する。
しかし、アナが文芸映画(ヘンリー・ジェイムズ)の撮影をしている場面はやや描き方が不十分だ。手の届かないところにいるアナが再成功している描写を入れて、それをウィリアムが喜ぶ場面はあった方がいい。その「共作」が成功して二人が交際すると思いきや、マイクロフォンから洩れてきた「ウィリアムを突き放した台詞(ただの過去の男よ)」で、ウィリアムが意気消沈するという流れの方がベターだと思う。
どこかのレビューで脚本家が「ブッキッシュなイケ好かない奴」というコメントを読んだ。ヘンリー・ジェイムズ好きがその鑑賞者の気に触ったらしい。
まいったな。自分もヘンリー・ジェイムズにチェックを入れている人間だ。
文芸批評史に従えば、口承のように語り手が現前するか否かによって小説言説がどのような変容を蒙るかは、石川が強調するような近現代文学特有の問題ではなく、プラトンのdiegesisとmimesisの対立にまでその起源を遡るべきものである。詩人が語り手として介在する叙述がディエゲーシス、詩人が語り手ではなくあたかも誰かになったかのように模倣して話すのがミメーシス。この詩法の二様式の水脈はともに演劇へと受け継がれたが、小説言説にもディエゲーシス性のいくらかが流れ込んで「叙述性」となり、ミメーシス性のいくらかが「描写性」を形成した。後にヘンリー・ジェイムズらがミメーシス=showingこそが小説の理想的な形態であるとして規範化しようと試みたのは、今からちょうど一世紀ほど前のことだ。
ヘンリー・ジェイムズも良いけれど、その『ねじの回転』を論じたショシャナ・フェルマンの『狂気と文学的事象』は、ラカンを適用した文芸批評の中では最高峰だ。確か文学理論に世界一詳しいジョナサン・カラーも「瞠目すべき仕事」と絶賛していた記憶がある。
と、『ノッティングヒルの恋人』の脚本家より、さらにブッキッシュなところを披露してしまったが、実は、そのレビュアーのいう「イケ好かない奴」というのは、自分にも同じように響くところがある。4.で詳述したい。
2. アナがフラれて泣く場面を入れる
しかし撮影現場でアナの輝く姿を見たウィリアムは、不釣り合いだと思ってアナを振りました。アナが書店に来てもつれなく振る舞います。
当然のことながら、あらすじは簡略化されて書かれている。しかし、見どころはここなのだ。終盤のクライマックスのひとつでアナがいう台詞に、アナをハグしたい気持ちが起こらないウィリアムと男性観客には、自分は不信感を抱いてしまう。原文では、アナはこう告白している。
William: Anna, look, I'm a fairly levelheaded bloke, not often in and out of love. But, can I just say no to your kind request and, leave it at that?
Anna: Yes, fine. Of course, I, of course, I'll just be going, then. It was nice to see you.
William: The thing is... with you I'm in real danger. It seems like a perfect situation, apart from that foul temper of yours, but my relatively inexperienced heart would, I fear, not recover, if I was once again cast aside, as I would absolutely expect to be. There are just too many pictures of you, too many films. You'd go and I'd be, well, buggered, basically.
Anna: That really is a real no, isn't it?
Willam: I live in Notting Hill. You live in Beverly Hills. Everyone in the world knows who you are. My mother has trouble remembering my name.
Anna: Fine. Fine. Good decision. Good decision. The fame thing isn't really real, you know. Don't forget I'm also just a girl...standing in front of a boy...asking him to love her... Good-bye.
アナの最後の台詞だけは、どうしても和訳したい。
アナ: ええ、いいわ。良い決断ね。本当はね、名声って架空のものなのよ。忘れないで。私はただの女の子。好きな男の子の前に立って、愛してほしいとお願いしているだけの… さよなら。
スキャンダルが巻き起こったときに激怒したり、辛辣なウィット℗を披露してきたアナの「素顔」がここで初めて示される。
ぼく:おい、ウィリアム、ちょっと顔貸せよ。どうしてアナをフッたったんだ!
思わず義憤に駆られて、勝手に映画に出演してしまった。残念なことに、上記の台詞はDVD盤ではカットされている。
カットしてはいけないのは、フラれたアナが、ひとりノッティングヒルの小さな公園のベンチで泣く場面だろう。雲の上のスターであっても、下町の公園で泣く普通の女の子になりうるから、ハッピーエンドの説得力が増すのだ。
3. 「敵対者の反転」をプロットに入れる
ほのぼの恋愛コメディーに仕上げたいからといって、いくら何でも妨害者がゼロでは、映画は面白くならない。妨害者が登場するなら、助力者も登場しなければならない。助力者はノッティングヒルの地元民とすべきだろう。親友宅のあるケンジントンを巻き込んでもかまわない。
何と言っても『ローマの休日』のリメイクだ。ウィリアムの下層生活圏を表現するのに、パパラッチから逃れるウィリアムとアナを、土地勘のあるノッティングヒル住民が皆で助けるという筋書きは最初に思いつきそうなものだが、どうして排除されているのだろう。
地元民は秘密を厳守して、二人を守ろうとするが、そこへ妨害者が現れる。自分なら、ここでアナ親衛隊を登場させるところだ。例のハリウッドの柄の悪い元彼が裏で金を出していてもいいし、アナを絶対視する熱狂的な親衛隊でもいい。アナにふさわしい理想の男性を勝手に選定済みなので、親衛隊たちは続々とノッティングヒルに引っ越してきて、ドジな騒動を繰り広げる。ウィリアムの恋の行く手を阻もうとする。
ところが… 最後の最後で、2.のアナの涙を目撃した親衛隊リーダーが方針を一転、ウィリアムに加勢して、散ってしまいそうだった恋を、最後ギリギリのところで結びつけるというシナリオが、自分の脳裡には浮かんだ。それっきゃないのでは?
4. ウィリアムをしっかり男性化する
猫っ毛で高校まで「ヘナチョコ」と呼ばれていた逸話はまだしも、「こいつは全然男らしくない」というのが率直な感想だ。ただし、これはヒュー・グラントが悪いのではなく、脚本家の問題だ。
冒頭からして、街角での衝突という思春期コメディー的すぎるきっかけで、大女優を家に呼ぶことに成功すると、玄関で大女優の方からウィリアムにキスしてくるという展開は、思春期男子的のご都合主義がすぎはしないか。男性中心主義の匂いがプンプンして、男性の自分ですら楽しめない。レビューの中に、ウィリアムの優柔不断ぶりを指弾する女性レビューが散見されるのも頷ける。
英国インテリアのチェスターフィールドのソファー上から、寝る段取りになった時、変人の同居人が「手遅れになるかもしれないぜ」とレイプを示唆するのに、ウィリアムはよくそのまま眠れるものだ。そして、その次の瞬間には、大女優の方からベッドに誘いにきてもらえるとは! 何て「イケ好かない」男性中心主義!
そこは、ウィリアムが慌てて移動すべき場面だ。変人の同居人の不穏な行動を抑止すべく、アナに貸した部屋の入口へ移動して、番犬よろしく廊下で毛布にくるまって眠るのが男だろう! そして、トイレに立とうとしたアナが、真っ暗闇の廊下でウィリアムを踏んづけてひと騒動。そこからその保護行為が好意に変わって、シーツとシーツの間の行為になるという移行で行こう、とどうして思いつかないのか。
何だか、恋愛映画が恋愛映画らしくないせいで、自分も興奮してきた。やはり 2.の場面で、無防備な少女になって「愛してほしいとお願いしているだけ」と告白するアナを、どうしてウィリアムは優しくハグできないのだろう。
興奮のあまり、脚本家だけではなく、ヒュー・グラントも悪いような気がしてきた。
ぼく:おい、ヒュー・グラント。どうしてハグすべき相手をハグすべきときにハグせずに、別の映画のプロモーションで別の女性をハグしたりするんだ!(と手袋を投げつける)
投げつけた手袋の意味は知っているな!
と勝手に映画に乱入して、嫉妬交じりに自分が決闘を申し込むシーンは、残念ながらDVD盤ではカットされている。
*
と、ずいぶん勝手にパラプロットを書き込んでしまったが、実はこの映画にケチをつけたいわけではなく、この映画が大好きで、映画なのになぜか愛しくてたまらないほどなのだ。3回も連続して観るなんて、自分にしてはとても珍しいことだ。
スピリチュアルな方々の口癖を真似れば、こんな感じだろうか。
(会話主表示以外の)ゴチック部分にエネルギ-を込めました。それらを虚心にじっと見つめてください。そうすれば、ブログ主が幸福感に浸っている様子がありありと伝わってきます。
ゴチック部分を追加しておこう。
初対面の別れ際、ウィリアムが大女優のアナにいった言葉。
How heavenly
オードリー・ヘップバーン主演『ローマの休日』のラストそっくりの設定で、インタビュアーに扮したウィリアムの問いに応えて、アナが答える台詞。
Indefinetely(字幕:「永遠に」)
ひょっとしたら、必死になって集中して取り組めば、自分も「ノッティングヒル級」の恋愛小説が書けるかもしれないような気がしてきた。コメディータッチのウェルメイドでありながら、芸術性の高い細部と哲学的洞察(例えば、愛とは何か)を織り込んだ恋愛小説を、ぜひとも真剣に考えてみたい。
最後に、自分が一番好きだったシーンと主題歌を引用しておこう。
(劣化加工したこの動画の1:13:18から)
実はウィリアムの親友マックスの妻ベラは、ウィリアムの昔の彼女だ。ベラは階段から落ちて障害を負い、車椅子生活を送っている。階段を登れない妻のベラを、夫のマックスが抱え上げて昇るのを、「元彼」のウィリアムがじっと見つめている数秒。
他の観客は気にも留めないところかもしれないが、その数秒に自分は芸術性の濃縮を感じてしまう。三人の会話で、ちょうど「運命の女性とはもう会えない」とウィリアムが愚痴をこぼした直後だ。
昔の彼女が、階段から落ちて障害を負うという過酷な運命を生きている。しかし、運命の伴侶と出逢って、二人でその苛酷な運命を乗り越えて、他でもない階段を昇りながら二人が笑っているのだ。正直に言うと、美男美女のハッピーエンドよりも、自分はこの数秒の方に美しさを感じてしまう性格だ。いいな、本当に。
まあ、何というか、笑ってしまうくらい、繊細で感じやすいのだ。
She maybe the face I can't forget
The trace of pleasure or regret
Maybe my treasure or the price I have to pay
She maybe the song that summer sings
Maybe the chill that autumn brings
Maybe a hundred different things
Within the measure of a day
She maybe the beauty or beast
Maybe the phantom or the feast
May turn each day into a heaven or a hell
She maybe the mirror of my dreams
The smile reflected in a steam
She may not be what she may seem inside her shell
She who always seems so happy in her proud
Who's eyes can be so prouder than so proud
No one's allowed to see them when they cry
May comes a need from shadows of the past
That I rememmber till the day I die
She maybe the reason I survive
The why and when for I'm alive
The one I care for through the rough in many years
Me I'll take her laughter and her tears
And make them all my souvenirs
For where she goes I've got to be
The meaning of my life isSHE SHE SHE
正直に告白しよう。今朝、主題歌が上のゴチック部分にさしかかったとき、こらえきれなくなって、自分は号泣してしまったのだった。