101回の中のわんちゃん

次、廃校……

どういうわけか、そんな言葉がぐるぐる頭の中を廻っている眩暈の中で、今朝目が醒めた。自分の知る最も印象的な廃校は、愛媛県の山深い町、旧美川町にある。高校時代の親友が通っていた中学校の写真がこれだ。

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(画像引用元:https://www.facebook.com/1394089400863123/photos/a.1502090656729663.1073741828.1394089400863123/2023747701230620/

親友が「冬はスキーで通学していた」と語ったのを聞いて、積雪ゼロcmの地方都市に住む級友全員が「嘘をつくなよ」と笑ったが、この冬景色からすると本当だったようだ。

廃校となった中学校は、今や全国的に有名な「手のべ素麺」の工場になっている。

素麺同士が引っ付かないように、乾燥工程に何度も人の手を入れているらしい。

高校時代、私を映画作りに引き込んだのは、美川出身の彼だった。彼の交際女性をヒロインにすることがなぜか事前に決まっていて、その女の子が開業歯科医のお嬢さんだったので、歯科医の小さな病室を使って撮影させてもらった。

美川の彼は、バック宙ができるくらいのスポーツマンだったのに少女漫画に凝っていて、この台詞を絶対に入れてほしいと要求してきた。

愛とは決して後悔しないこと 

 当時の自分は知らずに演出をつけていたが、この映画が元ネタだったのではないだろうか。そのまま使ってよかったのかという疑問も残る。

自分が生まれる前に流行したこの映画は、最愛の女性が病死するという純愛映画の典型パターンの嚆矢とも言えそうだ。

英語では、予告編にこう記されている。

Love means never having to say you're soory.

(直訳:愛とは、残念だったと決して言わなくてもよいもの)

 そして映画の演出をするなら、これを読んでほしいと指定されたのが、この少女漫画だった! 正直言って、卒業生を見送る余興用映画を作るのに、少しも役には立たなかった気がするが、少女漫画初体験はそれなりに面白かった。最初から、主人公の女の子と憧れの彼が相思相愛になる展開は見えているのに、次から次へと仕組んだかのように不幸が連続発生して、二人の恋路を邪魔に邪魔するのだ。

 しかし、筋骨隆々のバック宙できる少年が、どうしてあんな少女漫画を私に読ませたのだろうか。『ONE―愛になりたい―』という漫画の書名が実は暗号になっていて、『ONE― i になりたい―』、つまりは「オネイになりたい」という告白だった可能性もないではない。現在の彼とは連絡が取れていないので、真相は謎のままだ。(オッキー、連絡待ツ)。

市内を愛車で走り回っていると、ヒロインのお嬢さんの歯科医院の前を通ることがある。そのたびに、皆で休日に集まって大騒ぎしながら作った映画のことを思い出して、とても懐かしくなる。

自分が東京の大学に進学してから、そのヒロインのお嬢さんから連絡をもらったことがあった。渋谷に詳しいなら、埼玉から出ていくので、一緒に遊ばないかというお誘い。一緒に見た映画は、渋谷のユーロスペースにかかっていたジャック・ドゥミの『ローラ』だったように記憶している。 

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 「ヌーヴェルヴァーグ」の真珠とも評される芸術性の高さがありつつも、恋愛映画としても娯しめ、しかもアート系映画館のある渋谷でしか見られない映画。我ながら、格好の決まっているデートプランだったと当時からすでに自負していた。とはいうものの、高校時代に恋愛相談を聞いたりもしていた親友の彼女には、たとえ彼と別れた後さらに綺麗になっていても、アプローチする気にはとてもなれなかった。

田舎育ちの朴訥な友人の純情が、その女子大生の美しい顔に重なっているのが見えた気がしたからだ。映画を見て、デパートとカフェで遊んで、彼女とは渋谷で別れた。それからは会っていない。

 と、今晩も映画の話に辿り着いた。今日の午前中、TSUTAYAで借りようと思っていたのは、『ノッティングヒルの恋人』の脚本家リチャード・カーティスの最新作『TRASH』だった。予告編を見た限りでは、とても面白そうだ。 

 芸術作品に政治性を持ち込むことは、実はかなり難しい。例えば「人種差別をなくしましょう」は掛け値なしの正論だが、作品がそれを主張した途端、それは芸術作品ではなくなる。主題ではなく、方法論上の政治性を通してそれを表現しようとするのが、芸術家志望の 基礎教養とされている。しかし、方法論上の政治性を理解できるインテリ層は世界3000人?とも言われるほど少ないので、生き残りが困難だという難点もある。

ところが、驚いたことに、『TRASH』はTSUTAYAに置かれていなかった。ハリウッドの名脚本家が社会問題と商業主義をどう両立させているかは、いずれどこかで『TRASH』を鑑賞して確認したい。

無論、『TRASH』を観ようとした動機は、この映画にある。

0:34から、材木職人のノアとの交際を反対する母が、こう叫ぶ。

 

Trash, trash, not for you!

クズよ、クズよ。あなたにはふさわしくない!

 

酷いな。あんなにはっきりと怒鳴らなくても良いのに。ドルビーサウンドでまる聞こえだったぜ。本当に号泣してしまった。 

待てよ。ここはポジティブに考えなくては。『TRASH』がレンタルショップに見当たらなかったということは、自分はとうとうトラッシュ的存在から脱け出せたのではないだろうか? 今や「トラッシュ野郎 脱走一番星」になって、脱走できたのではないだろうか?

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 というわけで、わくわくしながら、今朝見ようと思ったのが、伊坂幸太郎が原作の『Sweet Rain 死神の精度』。どこかで主題歌を引用したときに、時間があったら見てみたいと思っていたのだ。

途中まで見て「間違えた」ことを悟った。この映画は三話のオムニバスもので、伊坂幸太郎の伏線操作の超絶技巧を味わえる映画ではなかった。

それでも、一話目はお気に入りだった。クレーマーにストーキングされる薄幸の女性が、両親や親戚や婚約者を次々に不慮の事故で失いながらも、最後に思いがけない展開で幸福をつかむショート・ストーリー。

誰も気に留めない場面かもしれない。若い暴漢二人組から、ヒロインと彼女を守ろうとする死神が逃げるシーンが心に残った。ヒロインを殺すために逢いに来た死神が、ヒロインの手を引いて逃げる。死神は雨男なので、屋外の通りは真っ暗なものの、背景に立ち並ぶショッピングモールの店の列が光に輝いているので、二人のつながれた手と手が、しばらくシルエットになって浮かび上がっていた。そういう細部の輝きに自分は弱い。

伊坂幸太郎が原作の『重力ピエロ』も『ゴールデンスランバー』も自分は大好きで、伏線操作の素晴らしさはハリウッド越えレベルだと、本気で思っている。下の記事で東野圭吾が原作の映画とともに取り上げたことがあった。

 しかし、困った。書く予定だった映画について、詳しく語れなくなってしまった。身体に少しだるさがあって、昼食を抜いているせいで空腹なので、「樽飯庵」という食事処にでも行こうかと思って調べてみると、やはり同じ語呂合わせの店が見つかった。残念ながら、少し前に閉店したみたいだ。 

しかたないので、ダルメシアン・アニメの予告編をぼーっと見ていた。

 しかし、困った。書く予定だった映画について、詳しく語れなくなってしまった。身体に少しだるさがあって、昼食を抜いているせいで空腹なので、……はっ! いつのまにかループしているではないか!

そうか。これといった語るべき映画作品がないのなら、「ループ物語論」について、語れべき時期が来たのではないだろうか。実は、高校時代に書いた『憂いの街』という処女戯曲もループも物語であり、伝説の駒場小劇場で上演した芝居もループ物語だった。

後者は、約束に遅れてきた少年が、変幻自在の変装術を駆使する怪人二十面相一味の罠にかかり、誤って恋する少女を刺殺してしまうトラジック・エンド。かと思いきや、その世界は円環構造になっていて、彼方の虹を追って走りつづければ、世界がループしてその物語をやり直せるという設定。少女との約束を果たすため、少年が虹を追って走りつづけるところで、幕が下りる芝居だった。 

時間ループ物語論

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上で言及したジャック・ドゥミの処女恋愛映画『ローラ』もループ物語だったし、 最近鑑賞した映画でも、ループ物語は頻用されていた。

エターナル・サンシャイン』では、喧嘩別れして記憶を消し合った恋人たちが、また新たに出会い直すプロットだった。典型的なループ物語。

きみに読む物語』でも、ループ・プロットが部分的に使われていた。下層階級の粗野な男と上流階級のお嬢さまの組み合わせは、ヒロインと主人公だけではなかったのだ。主人公を「トラッシュ」となじった厳格な母親も、実は若い頃に下層階級の粗野な男に惚れていたことが、映画終盤で明かされる。

しかし、そのループ・パートの生かし方を脚本家があまりわかっていないように思えて、自分はちょっと不満だった。

同じ趣向の古典小説『嵐が丘』を、まさか知らないはずはないだろう。 何度も映画化されてきた『嵐が丘』の中で、ジュリエット・ビノシュ主演のこの映画は、主人公の恋人二人が結ばれて子供をもうけたのちも、子供たちが同じ「下層階級の粗野な男と上流階級のお嬢さま」の恋愛劇を生きることを暗示して、映画を終わらせている。

いわば、中心主題の世代間ループだ。

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 ところが、『きみに読む物語』では、母はかつて愛していた石材職人を遠くから見るだけで、石材職人の方は何も気づかない。しかも、母は自分が選んだ金持ち夫との結婚を全肯定して、娘によく考えるよう促すのだ。

自然界には全体と部分の形が似ているという自己相似性があるので、簡略化した数式の計算を繰り返すことにより詳細な全体形をつくることができるという数学理論。フラクタルの語はラテン語の形容詞fractus(壊れて不規則な断片ができた)から1975年に提唱者マンデルブロB.B.Mandelbrot(1924― )が名づけたもの。はじめは物理、化学、地理学などの形状解析に導入され、1982年IBM社のR.ボスがマンデルブロの協力の下、フラクタル理論を用いて、現実感のある惑星の風景をCG(コンピュータ・グラフィクス)でつくってから、コンピュータ関係者の注目を浴びている。
 雲の形、山の起伏、動植物の組織など一見複雑な形でも、その一部分を拡大すると元の図形と同じになる自己相似性をもつものが多い。このような図形を「フラクタル図形」とよぶ。原図を分割してフラクタルの基本図形で表し、その各部を次々と縮小した基本図形で置き換えて塗りつぶす操作を繰り返すと、原図に非常に近い図形が得られる。CGではマンデルブロ集合、ジュリア集合などを用い、関数を次々と入れ子にし、描きだす。応用例としては、伝送時には各基本図形と組合せ法を少量の符号化情報で送り、受信側において組合せて復元すると、拡大に耐える原図が得られる。この場合、伝送時の情報量は少なくてすむ。

原作の縛りがきつかったのか、フラクタル理論を知らなかったのか。

ジュリア・クリステヴァは大構造と小構造の相似を「テクストのナルシシズム」と呼んだ。実証的なデータはないものの、シナリオ・メイクでも、筆を作為的に動かすだけでなく、登場人物や筋が勝手に動き出すような「フロー状態」をうまく招き入れられれば、フラクタル相似は発生しやすくなる。

きみに読む物語』の原作は、あの『マディソン郡の橋』を上回る売り上げを叩きだしたモンスター恋愛小説だ。

自分なら、母娘の世代間ループパートは、こういう心理機制の絡み合いで描いてみたいところだ。

  1. 母は、父を普通の意味で愛している。
  2. 母は、娘が父のように裕福な男を選ぶことを願っている。
  3. 母は、娘の婿選びが下層階級の男へ向かないように、自分の婿選びを正しかったと説明しようとして、かつて恋した下層階級の男が働く石切り場へ、娘を案内する。
  4. 母の恋していた下層階級の男が、母に気付いて何十年ぶりかに心ある言葉をくれる。すると、母の押し殺されてきた愛情が、涙となってあふれ出す。二人の別れ際の光景には、まるで『マディソン郡の橋』のような切なさがある。娘はそれを目撃する。
  5. 母は、変わらず、自分の婿選びは正しかったので、正しい選択をしてほしいと娘に告げる。
  6. 娘は、心理的に距離のあった厳格な母を、これまでで一番近くに感じることができたと告げて、母にありがとうを言う。

1. 2. 3. までは、本編の映画と同じ。せっかく登場させた(母が恋していた)石材職人に、母が自己肯定する選択の正しさだけでなく、ありえたはずの別の恋物語を想像させて、選択可能性を二重化させてから、ヒロインがどちらを選択するかのクライマックスへもっていった方がベターだったような気がする。

なぜ、ループ・パートの細部にこだわるのか。それは、構造主義的知見を最大限に援用していうと、直感でいうと、ループ物語が「観客との情念の共有」という機能を持つからだ。上のフラクタル理論に戻って言い直すと、ヒロインの恋愛物語があり、それと同型の恋愛物語が細部にも現れることで、縮小方向のフラクタルが完成するだけでなく、拡大方向にも同型の構造がありうることを示唆できるのだ。映画の外側、つまりは映画館の観客とも同じ情念でつながり、それを保護しようとする姿勢を示すことになりうるのだ。

「A→B→C→D→E」という物語があったとして、「A→B→C→D」まで行って、さらに次に「A→B→C→D」をループさせると、結末はオープンエンディングにできるので、結末に不服な観客を生み出すこともない。そこまでの「A→B→C→D」で醸し出された情念も、結末によって打ち消されることがないので、そのすべてを残存させられる。共感した観客のすべてを包摂することができる。

行ってみれば、通常の 「A→B→C→D→E」のプロットは、数学でいう「式の展開」にあたるだろう。「A→B→C→D→A→B→C→D→A→B→C→D……」というループ物語は、因数分解にあたるだろう。( )に包含されるのは、プロットや情念だけでなく、それらを共有する観客もそこに含まれているのである。 

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しかし、ループ物語には、さすがにもう食傷気味だという観客も少なくない。メルクマールとされているのは、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』で、上映は1984年だ。その他に、同型や類似型のループ物語が大量に生み出されたことは、浅羽通明の『時間ループ物語論』に詳細に書かれているところだ。

時間とは記憶の順序性から生まれた意識であり、その時間意識の上に、物語や空間の記憶が乗っている。そんな風に読める脳科学の最先端の知見には、心底驚いてしまった。 

 実は、上の記事で最新の脳科学が、物語形式の認知が、私たちの時間や空間の認識を定義していることを明らかにしたことを知って、ひょっとしたら物語における時間や空間の認識も、アップデートできるかもしれないということを考え始めた。

 世界は水でつながり、鏡で隔てられている。

 

そんな一行を念頭に置きながら、リゾーム的?にあちこちで癒合している平行世界を登場人物たちが行き来しなければならない世界を構想したことがある。「行き来しなければならない」と書いたのは、平行世界と別の平行世界との接合面にあるロタ・ホールのような水路で、登場人物たちにそれぞれ別の方向へ浮力がかかるからだ。

未来少年コナンで譬えれば、コナンを海底に固定する重い鋼鉄製の手枷はもはやない。しかし、ラナが空気を含みつつ浮力に逆らって海面から泳ぎ下ってくるのとは逆に、コナンの浮力は海底方向へかかっており、泳いでも泳いでも、二人は同じ方向へは浮上できない。ラナは空気を口移しては、しきりに首を横に振って何かを伝えようとするが、言葉を伝えようとすると、生命を守るための空気が水泡となって流れてしまう。それでも、ラナは何かを最後に伝えようとして、大きな泡を口から生み出したのち、二人の絡み合った指は離れ、別々の水面(≒鏡面)へ向かって浮上していかねばならない。

どこかの街角の鏡から浮かび出て、路傍にびしょ濡れで倒れ込んだコナンは、ラナから最後に聞いた言葉が「逆方向reverse」と聞こえたような気がして考え込むが、あれはひょっとしたら「生まれ直しなさいrebirth」だったかもしれない と思いあたる。……

最近見たタイムトラベル物の『ある日どこかで』と『アバウト・タイム』の両方が、何と念力だけでタイムトラベルする「力技」を中心に据えた映画だった。

タイムマシン・マニアからは評判が芳しくないようだが、「情念」が時間や空間を変容させるという基本的な考え方は、荒唐無稽というより、むしろ世界の基本的な実際の様態なのではないだろうか。

「人は毎瞬毎瞬、自身の意識に応じて、無数の並行宇宙の間をシフトしながら生きている」とするバシャールの説明を、そのまま映画の時空に設定するのは難しいとしても、上の記事で自分が想像した「世界にあるすべての鏡が、時には液化して別世界へ通じる通路になる」という異空間接合の世界観は、かなり利用可能性が高そうだ。

ある世界の鏡を抜けると、別の世界の同じ場所の鏡に出るわけではない。そこには、「情念」の力による何らかの引き寄せが働き、引き寄せた場所に近い鏡からくぐり出ることになる。逆にいうと、「情念」を使っても引き寄せられない場合は、その鏡は分厚いガラスのように機能して、逢いたい二人が触れ合おうとしても声の聞こえない透明な壁になることだろう。時間は主観的な様態にあるとするベルグソン的な「純粋持続」に似て、強い「情念」があれば並行世界に流れる時間が局所的にギア・チェンジすることもありそうだ。

傷ついて息絶えそうな誰かを、別の誰かがずっと持続しながら温めている光景が、自分の脳裡にはよく舞い降りてくる。

「手延べ素麺」から始まって、「二人のつながれた手と手」や、ループ物語における「情念の共有」など、自分の興味の対象が、非時間的に温もりや情念を分かち合うことに向かい始めたような感触がある。

時間も空間も、人間の物語認知が生み出したフィクションなら、そのフィクションたる時空を最大限に生かした物語があってもいいはず。ポスト『君の名は。』のような位相で、そのような時空特殊的な物語の運命のロマンティック・ラブを、ぜひとも考えてみたくなった。 

しかたないので、ダルメシアン・アニメの予告編をぼーっと見ていた。

 しかし、困った。書く予定だった映画について、詳しく語れなくなってしまった。身体に少しだるさがあって、昼食を抜いているせいで空腹なので、……はっ! いつのまにかループしているではないか!

またしても、自分がループの中にいることに気が付いてしまった。それにしても、どうして『101匹わんちゃん』なのだろう。自分が心の核心部分に抱いている「情念」とはいったい何なのか?

ずっとそれを悩みながら、記事を何度も読み返してみた。

そうか、わかった。それはきっと 2018/3/15(木) 20:01 にお送りしたメールが、あれやこれやの洪水に押し流されて有耶無耶になってしまったり、「会いに」行ったのに会えなかったりしたことが、癒しがたい傷となって、私の心のそこで疼いているからに違いない。

今晩引用した漫画の書名は『ONE―愛になりたい―』だった。「会いに」行ったのに会えなかった、つまり「会いに」を消さねばならなかったとしたら、書名は『ONEになりたい』と短くなる。

自分の潜在意識は何を求めているのだろう? ひょっとしたら、犬に変身してどこかへ走っていきたいのだろうか? それとも、あの大切なメールを『ONE』と数えて、さらに「100」回の間に、「わんちゃん」を諦めずに狙っていこうと情熱を燃やしているのだろうか?

冒頭で、雪深い山間の写真を引用した。雪がれるべきものが雪がれたあと、なおも消えない魂の熱さを感じながら、自分の潜在意識が呟くままにこう書きつけて、この記事を締め括りたい。

ぼくは死にません!