短編小説「地球のあくびと引き換えに」

 籠の中の鳥は私よ。

 8歳とは思えない暗喩で、娘に抗議された土曜の夜は、あまりあくびばかりしてもいられない。

 動物好きの娘には、小学生になったときインコを飼ってやった。娘が夢中で餌やりをして芸を仕込んだので、インコは夜中でも「オハヨー!」とか「人生は最高!」とか「ゼリービーンズちょうだい!」とか喚き散らすようになった。並べると虹色になるゼリービーンズが、娘は大好きなのだ。

 住んでいるのが田舎町なので、動物園までは車で3時間かかる。夜勤明けの妻は起こさないことに決めて、早朝5時に出発した。夏休みの混雑を避けたかったのだ。

 初めて動物園を見物して娘が大喜びする姿は、何にも代えがたいにちがいない。退園までに、うちのインコと同じ声音で「人生は最高!」と、何とか言わせられたら。それが、この夏休みドライブのぼくの宿願だった。

 動物園は隣の県の盆地にある。私は古ぼけたカローラで早朝の山道を走った。娘は帽子を目深にかぶって、倒した助手席で眠っている。夏休みの休日の朝なら、早起きの家族連れが何組も車を走らせていそうなものだ。しかし、山道を走る車はまばらで、少し離れた背後を、白い軽トラックが一台走っているくらい。すいすい走って、動物園が開く時刻より、小一時間早く到着してしまった。

 ぼくは眠っている娘を残して、車を降りた。一台も車のない駐車場の向こうで、夏の新緑の森がさやさやと鳴っている。いつもより早起きだった私は、大きなあくびをして、爽やかな森の空気を肺に入れた。

 そして…

 そして… 振り返ると、死神がいたのだ。

「すまんな。せっかくはじめての動物園だったのに」

 背後から尾いてきていた軽トラは、死神が運転していたらしい。到着してすぐ、手際よく黒衣のマントをまとって、私の背後に立ったというわけだ。死神が現れたことにも驚いたが、同じくらい、死神の愛車が軽トラだということにも驚いた。棺桶を運ぶのに便利なのだろうか?

 死神は慣れた手つきで、草刈鎌をピストルに持ち変えると、銃口をこちらへ向けた。

 ここはドラマなら必死に命乞いをすべき場面だろう。

「待ってください! どうして私が殺されなくちゃいけないんですか! 娘はまだ8歳です。見逃してください!」

 涙声でそう言い終わったあと、私は自分の口元があくびをしたがっているのに気づいた。

 死神がメモ帳を見ながら、事務的な口調でこう答える。

「死神情報局では、折からの魂不足に押されて、急遽、今日をお前の命日にすることに…」

 死神が喋っているあいだに、ぼくはまんまと大あくびをすることに成功した。森の中の大あくびは何て美味いんだ。死神はまだメモを読み上げている。この調子なら、死神を出し抜けるかもしれない。私は俳優ばりの迫真の演技で、命乞いをつづけた。

「何かの間違いです。ぼくはまだ35歳で、娘はまだ8歳です。お願いですから、見逃してください!」

 死神は、扱い慣れたクレームを処理するように軽く手を振って、命乞いは無効だと伝えてきた。

「末端の死神までは、詳しい情報は降りてこないんだ。悪いが、詳細は本部で確認してくれないか。さあ、一緒に死ににいこうか」

 死神はピストルの引き金に指をかけた。

「待ってください、ぼくには…」と叫んだとき、背後から娘にぶつかるようにしがみつかれて、ぼくはよろめいた。

「パパ、危ないよ!」

 確かに、危ない。けれど、娘がそうやってぼくの背中にしがみつくと、さらに危なくなるのだ。

「パパを撃たないで!」

 娘は気丈に、下から死神を見上げて、にらみつけている。ぼくはしがみついている娘を、身体から引き剥がそうとした。

「駄目だよ、離れていなさい。危ないから」

「厭。私が離れたら、パパが撃たれちゃうもん!」

 ピンチだ。銃口を向けられながら娘ともみ合っているのも危機的だが、こんな非常時に限って、またあくびが兆してきたのがピンチなのだ。命乞いをしている男があくびをしたら、死神は逆上して即座に引き金を引くにちがいない!

 嗚呼、無念。あくびが止まらない。私が娘を道路にたたきつけるくらい強く突き飛ばしたのと、口元を大きくOの字に開けて大あくびをしながら死神を振り返ったのは、ほとんど同時だった。

 死神はぼくの大あくびを見て、即座に引き金を引いた。銃声が森に谺した。

 ところが、撃たれた!と思って胸元を探っても、どこにも銃弾は命中していない。顔を上げると、驚いたことに、まだ宙に銃弾が浮かんでいるのが見えた。私は空中をすーっと静かに自分めがけて進んでくる銃弾を、指でつまみあげると、正確に逆方向へ向けた。異様なスローモーションの時間が流れていたのは、わずか数秒だったと思う。

 世界の時間が元通りに流れはじめた瞬間、死神は叫び声を上げて地面に倒れた。そして、流血だけを残して、蒸発してしまった。

 娘が私に飛びついてきて、喜びの叫びをあげた。

「凄い、パパ! やっつけちゃったの? パパがそんな強いって、全然知らなかった!」

 ぼくは辛うじて笑いながら、娘の頭を撫でた。

「強くはないさ。あくびのおかげ」

「あくびのおかげ?」

「あくびが止まらないときは、誰かにあくびを伝染すのがいい。それに、あくびが伝染る順番ってね、何となく決まっているものなんだ。パパが何度もあくびをしていると、地球に伝染って、地球があくびをするのさ。いま地球があくびをしている間に、死神をやっつけたんだ」

「本当? パパがあくびをすると、地球がつられてあくびをするの?」

「そうそう。そうやって、地球にあくびを引き取ってもらった代わりに、地球上の悪い奴らをこっそり害虫駆除しちゃう。誰にも気づかれないうちに」

「パパって、スーパーマンなの?」

「スーパーマンじゃないよ。だけど、地球はガイアっていう大きな生命体で、地球があくびをしているあいだに害虫を駆除しておくと、地球が喜ぶんだ。これは本当だよ」 

ガイア―地球は生きている (ガイアブックス)

ガイア―地球は生きている (ガイアブックス)

 

 「パパの嘘つき。いつも嘘ばっかりつくんだから。このあいだも、ゼリービーンズを買ってくれるっていったのに、買ってくれなかったじゃない」

 娘はぼくのお腹にグーを突きたてると、振り返って、世にも可愛らしく口を開けて、あくびをした。

 いつのまにか、無人の駐車場に立っているぼくたちの周りに、鳥がぽつりぽつりと集まってきた。囀りながら歩いたり、地面をついばんだりしている。

 ぼくは、娘にこの話を信じてほしくて、学校の理科の先生の真面目な口調を真似て、こう言った。

「地球にも立場があるから、何度もあくびはできない。だから、いまお前にあくびを引き取ってもらったんだ。だから、あくびを引き取ってくれたおまえに、こうやって鳥を呼んでお礼をしてくれているんだ」

「パパの嘘つき。そんな子供だましの嘘になんか、わたし引っ掛からないもん」

 そうやって、そろりそろりと鳥たちに近づいたのを皮切りに、娘は動物園ではしゃぎ回り、初めて見る動物たちに大興奮の一日を過ごした。動物の餌やりに夢中になって、何時になっても帰ろうとしない。ようやく帰ることを納得させたあと、ぼくは娘にこう訊いた。

「今日はどうだった? 家で飼っているインコの真似で、感想を言ってよ」

 すると、間髪入れず、娘はインコの声音でこう言った。

「ゼリービーンズちょうだい!」

 期待が外れてぼくはがっかりした。仕方なく、代わりにぼくが、同じくインコの声音で、娘から聞きたかった台詞を言った。

「人生は最高!」

 そう言い終えたあとで、娘の満足そうな表情を見下ろしていると、その台詞があながち自分の台詞だったとしても、おかしくない気がした。

 ぼくは娘の手を引いて古ぼけたカローラに近づいていった。帰り道でゼリービーンズを売っていそうな店に、思いをめぐらせはじめた。

 

 

 

 

 

 

Just a little lovin'
Early in the mornin'
Beats a cup of coffee
For starting off the day

 

Just a little lovin'
When the world is dawnin'
Makes you wake up feeling
Good things are coming your way

 

This old world
Wouldn't be half as bad
It wouldn't be half as sad
If each and everybody in it had, yeah

 

Just a little lovin'
Early in the mornin'
That little somethin' extra
To kinda see them through

 

Nothing turns the day on
Really gets it dawnin'
Like a little bit of lovin'
From some lovin' someone like you

 

This old world
Wouldn't be half as bad
It wouldn't be half as sad
If each and everybody in it had

 

Just a little lovin'
Early in the mornin'
Just a little lovin'
Early in the mornin'
Just a little, just a little

 

(上記サイトで dawning が yawning と歌詞情報が誤記されている箇所にインスパイアされました。ありがとうございました)。