もう連れていく… 遠隔量子的恋愛

上で書いた孤独耽溺癖。フリスクのような清涼剤を齧っては、「どんなにきつく毛布にくるまっても、スースーする隙間風が心に吹き込んでくるよ」と、自分で自分に訴える癖が、ここ5日間くらい再発していた。

原因が何なのか自分でもよくわからなかったので放置していると、3日前の寝入り際にインスピレーションが降りてきて、原因を教えてくれた。毎日摂取していた総合ビタミン剤を切らしてしまい、半月ほど飲んでいなかったせいで、セロトニン不足に陥ったようなのだ。

(いつも以上に優しくしてくださった皆さん、ありがとうございました)。

最近どうやらインスピレーションと仲が良くなってきたらしく、ハイヤーセルフが助言をくれているかのような閃きが増えてきた。と、一般人の書き方と語彙で書いてみたが、自分自身はスピリチュアリズムの信奉度がかなり高まっていて、その世界に分け入っていくのが楽しくてたまらない。「God is nowhere → God is now here」的転回を回り切った実感がある。

 信じられないって? でもさ、科学でわかっていないことでも、先に信じてしまうという手もあるよ。

 そういうセロトニン欠乏状態で書いた昨晩の小説は、全然駄目だった。届いたビタミン剤を摂取した今日の午後読み返して、ぜひとも書き直したいと感じた。Kの抑鬱状態を招いた「限界状況」が描けていないし、対抗側のよく笑う妻のスキンシップの温かさが描けていない。一つの地の文に、複数の書き手が混入してくるスリリングネスも描けていない。

逆に言えば、ショートショートの間尺にこだわらなければ、面白い短編になる可能性は充分にあるように自分には感じられる。エモーショナルなものに魅かれやすい資質は、ショートショートの知的なパズルを描くべきマッチ箱でも、筆がはみ出して、別の水彩画を描きたがってしまうようだ。

というわけで、昨晩時間がなくてアップアップで書いた短篇が、新たなトーンを加えて、均整の取れた美味しいアップルになる日がいつか来るのを、願ってやまない。

きっと、スピリチュアルでエモーショナルな資質の自分は、短編の習作を書くより、もう少しテレパシーの最新状況を追いかけた方が良いような気がする。

 心霊現象、生まれ変わり、テレパシー・・・。時に世間を騒がす、いわゆる“超常現象”の正体は何なのか?いま、この命題に最新科学で挑もうという世界的な潮流が巻き起こっている。ムーブメントの背景には、近年の目覚ましい科学の進歩がある。技術の粋を極めた観測装置でデータを集積し、脳科学や物理学、統計学などの最新理論で解析すれば、カラクリを白日の下にさらすことができる。その過程は、まるで手品のトリックが明かされるような、スリルに満ちた知的発見の連続だ。
 一方、「生まれ変わり」や「テレパシー」の中には、最先端の科学をもってしても、いまだメカニズムが解明できない謎も残る。科学者たちはその難題にも果敢に挑み、最先端の「量子論」を駆使するなどして、合理的な説明を目指している。先端を極める科学者たちは、「説明不能な超常現象」に新たな科学の発展を予感しているのだ。“超常現象”への挑戦を見つめ、科学の本質に迫る知的エンターテイメント。

(強調は引用者による)

NHKスペシャル | 超常現象科学者たちの挑戦  

NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦

NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦

 

 2014年のNHKスペシャルでは、幽霊や死後の世界や生まれ変わりなどの超常現象を、科学者たちが科学的見地から検証する様子を放送している。

 NHKの取材班が事前の下調べで重視したと思われるのが、超心理学の日本第一人者である石川幹人の著作群。実は、昨晩書いた短編の「ヒツジ・ヤギ効果」と超常現象を信じないヤギの被験者たちが、無意識に「失敗」を選び直す現象(missing)は、石川幹人の下記の著書で知った。  

超心理学――封印された超常現象の科学

超心理学――封印された超常現象の科学

 

 想像できるように、超心理学で得られるアカデミックポストは、日本には存在しない。本業の心理学の研究の傍ら、超心理学を研究するという「主従関係」も影響してか、石川幹人の主張や論理構成が、きわめてきわめて科学的であることに注意を払ってもらいたい。実際、人民を惑わす疑似科学には、シュアな批判の矛先を向けてもいる。 誰もが信頼を置いていい研究者だと思う。 

なぜ疑似科学が社会を動かすのか (PHP新書)

なぜ疑似科学が社会を動かすのか (PHP新書)

 

 『超心理学』を読んで吃驚したのが、ポルタ―ガイスト現象についての記述。ポルタ―ガイスト現象とは、Wikipedeiaによると、「そこにいる誰一人として手を触れていないのに、物体の移動、物をたたく音の発生、発光、発火などが繰り返し起こる」超常現象を指すが、それを科学的に分析すると、特定人物の「念力」現象の可能性が高いらしいのだ。

 ポルタ―ガイストが幻覚や詐欺、あるいは自然現象ではない場合は、ウィリアム・ロールによって、多くの場合、特定の人物が超心理現象の源となった「反復性偶発的PK」であると解釈されている。

 「反復性偶発的PK」とは「RSPK recurrent spontaneous psychokinesis」のこと。PKとは「念力」を指す。

 RSPK recurrent spontaneous psychokinesis: ウィリアム・ロルによる造語で、ある期間、繰り返し発生する念力現象のこと。ポルターガイスト現象を指して、その伝統的意味あいを払拭する目的で用いられる。反復性偶発性念力。 

超心理学用語集

 石川幹人『超心理学』は、さらにこう続けている。

 ポルターガイストの周辺には通常、鍵となる人物が見られる。その人物が外出していたり、眠っていたりすると現象が起きない傾向性から、比較的容易に特定できる。(…)(すべてではないが)ほとんどが未成年であり、六、七割が女子であり、大部分は家庭環境に問題を抱えている。(両親の離婚、再婚、養子にされるなど)。そして、御王は親から精神的に疎外されていて、親への敵意を持っている。

 手っきり心霊現象だと思っていたポルターガイスト現象は、暴走族が平穏と静寂をかき乱すように、主として一種の「非行少女たち」が、「念力」を使ってグレたときにおこる現象だったらしい。あどけなく見えてもナメてはいけないということか。日本に置き換えると、こんな感じなのだろうか。 

下の記事で、ボイヤーは宗教研究に対する「広くて長い偏見」を砕くために、偏見リストを列挙していた。

 要するに、宗教とは「特別に隔絶した世界で、特別な論理で動いている前近代的な組織」 とする偏見を、小気味よく粉砕していく。

石川幹人の『超常現象』の冒頭でも、超心理学研究への深刻で根深い偏見リストが示されている。一流の研究者と自分とは同じではないが、同じような偏見が飛んできやすいことを書いているので、記事の末尾に偏見解消リストを掲げておくことにする。

話を、NHK『超常現象』に戻そう。副題に「科学者たちの挑戦」とあるように、 徹底した科学の視点から「オカルトの世界」がどう見えるかを、世界中から選り抜いて番組にしている。

テレパシーの章では、「電話テレパシー」実験がわかりやすい。

  1. Aが電話を受ける。
  2. Aの友人の B, C, D, E のうち、無作為に選ばれた誰かが、Aのことを思い浮かべながら、Aに電話する。
  3. Aは電話が鳴っている間に、誰からの電話だと思うか声に出してから、電話に出る。そして、当たりか外れかを確かめる。

確率論でいえば、正答率は25%になるはずだ。

ところが、実際の実験では、最初の570回の平均が約40%。念を入れて、不正ができないようビデオ撮影をした続く270回では、正答率は逆に約45%に跳ね上がったという。そこに思念の伝達がなかったとしたら、どうして25%であるべき確率が、45%にまで跳ね上がることがあるだろうか。 

あなたの帰りがわかる犬―人間とペットを結ぶ不思議な力

あなたの帰りがわかる犬―人間とペットを結ぶ不思議な力

 

 実験をしたのは、ペットの犬によるテレパシーの著作もあるルパート・シェルドレイク。シェルドレイクの生物学的仮説は、個人間の思念伝達のテレパシーだけでなく、スケール・アップしてユング的な集合無意識へとつながっていった。

  1. あらゆるシステムの形態は、過去に存在した同じような形態の影響を受けて、過去と同じような形態を継承する(時間的相関関係)。
  2. 離れた場所に起こった一方の出来事が、他方の出来事に影響する(空間的相関関係)。
  3. 形態のみならず、行動パターンも共鳴する。これらは「形の場」による「形の共鳴」と呼ばれるプロセスによって起こる。

シェルドレイクの仮説 - Wikipedia

 上記の仮説を証明するために行われた実験が面白い。

 1983年8月31日、イギリスのテレビ局テームズ・テレビによって、シェルドレイクの仮説を調査する公開実験が行われた。

 一種のだまし絵を2つ用意し、一方の解答は公開しないものとし、もう一方の解答はテレビによって視聴者200万人に公開する。テレビ公開の前に、2つの絵を約1000人にテストする。テレビ公開の後におなじように別の約800人にテストをする。いずれも、この番組が放映されない遠隔地に住む住人を対象とした。

 その結果、テレビ公開されなかった問題の正解率は放映前9.2%に対し放映後10.0%であり、もう一方のテレビ公開された問題は放映前3.9%に対し放映後6.8%となったという。これにより、「公開されなかった問題では正解率は余り変化しなかったが、公開された問題は大幅に正解率が上昇した」とされた。この公開実験によって、シェルドレイクの仮説は多くの人々に知られるところとなった。

シェルドレイクの仮説 - Wikipedia

 シェルドレイクは、密度の濃い集団生活をしていた / している人類に、テレパシーの能力があることは、文化人類学では一般的な知識だと説明する。

 文化人類学者の報告の中には、アフリカ、アジア、南米、北米で伝統的な暮らしを続ける先住民の間で、テレパシーが一般的な伝達手段として当たり前に使われているというものもあります。親戚の人が病気になったり、誰かが訪問してきたりするのを、テレパシーを使って知るのは普通のことだと彼らは思っているのです。私は現代人にもテレパシーの能力は残っていると考えます。しかし多くの場合、人々はそれを無視したり否定したりします。テレパシーに気づかない、練習しないことでテレパシー能力は退化してしまったのではないでしょうか。 

NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦

NHKスペシャル 超常現象 科学者たちの挑戦

 

 ここまで状況証拠が揃っていても、科学的な物証がなければ、テレパシーの実在は信じられないという人も多いだろう。石川幹人だってそう言っている。

ところが新展開が出現した。科学者の間で、「量子のもつれ」がテレパシーと関係あるのではないかという着想が、さかんに言及されるようになったのだ。

 フランクな口調で、「量子もつれ」を説明するマクファデンの説明に、耳を傾けてみよう。

 量子もつれについてはまだ説明していなかった。それは量子力学のなかでもおそらくもっとも奇妙な性質だ。いったん一緒になった粒子どうしは、互いにどれだけ遠くに引き離されても、魔法のように瞬時にコミュニケーションを取れるのだ。たとえば、一度は接近していたがその後遠くに引き離され、宇宙の互いに反対側に持っていかれた粒子どうしも、少なくとも原理的にはずっと結びついている。ここで一方の粒子にいわば何かちょっかいを出すと、遠く離れた相棒が瞬時にびっくりして飛び上がる。

 つまり、量子的『君の名は。』論とでも言おうか、遠距離にあっても、もつれた粒子同士はつながっていることが、科学的に証明されてしまったのだ。

多くの人々は量子力学というと、ああ、氷点下の密閉空間だけにある特殊な世界のことね、と軽く受け流そうとする。確かに、2016年まではそうだった。

 IBMは、巨大な氷点下の「冷蔵庫」に超電導回路を入れて作動する量子コンピューターを組み立てた。

「誰でも使える量子コンピューター」IBMが公開する意味|WIRED.jp

でも今は、そういうあなたの脳も量子で動いていると言われているんですよ、と最新のペンローズ理論の話をしても、「でも、ペンローズを支持する科学者は、ごく稀なんだろう?」と訊き返されてしまう。ペンローズの仮説と数々の状況証拠とをつなげたトカナの記事が、たとえどんなに面白くても、「科学的」でない限り、読みもしないのだろう。でもさ、科学でわかっていないことでも、先に信じてしまうという手もあるよ。

 OK。では、科学的に行けるところまで科学的に行って、テレパシーの解明に近づこう。その前にちょっとだけ、鳥の囀りで心を癒す時間がほしい。何て、可愛いらしい鳥。 

この可愛いヨーロッパコマドリをきっかけに、「量子生物学」という新ジャンルへの注目が飛躍的に高まった。 

 カリフォルニア大学アーバイン校の物理学者Thorsten Ritz氏が中心となり、2004年に発表された研究(PDFファイル)では、地球の磁場のみの影響下にあるコマドリは、方角を間違えることなくアフリカへと渡りを行なうことができるが、地球磁場のほかにもう1つ振動磁場の影響が加わると、コマドリの体内コンパスは正常に働かなくなることが証明された。この2つ目の磁場はごく弱く、「地球磁場の1%」の3分の1にも満たないため、それが影響を与えたとすれば、量子に感度を持つ何らかのシステム以外には考えられない。

 そして今回(…)オックスフォード大学およびシンガポール国立大学の量子物理学者Simon Benjamin氏らの研究チームは、Ritz氏が行なった実験の数学的モデルを構築した。このモデルには、地球磁場、弱い2つ目の磁場、そして鳥類の磁気感覚のもとになっていると考えられる量子システムが含まれている。 

上の記事の日付が2011年。世界にまだ数十人しか研究者のいない量子生物学の発展は、最先端の量子物理学と、最先端の生物学を見事に結び合わせてしまった。

 しかし半世紀にわたる分子生物学の徹底的な研究によって、生体分子の構造が、DNAやたんぱく質のなかの一個一個の原子のレベルに至るまで驚くほど詳細に描き出された。そうして前に説明したとおり、量子の開拓者たちによる鋭い予測が、かなり遅ればせながらも裏付けられた。光合成系、酵素、呼吸鎖、遺伝子は、一個一個の粒子の位置に至るまで構造化されていて、それらの粒子の量子的運動は実際に、我々を生かしている呼吸、我々の身体を作っている酵素、あるいは地球上のほぼすべての生物有機体を作っている光合成に影響をおよぼしているのだ。 

(強調は引用者による)

量子力学で生命の謎を解く

量子力学で生命の謎を解く

 

 量子力学の世界では、さまざまな論争が絶えなかった。その道を先導して切り拓いたはずのアインシュタインシュレディンガーは、量子力学が次々にシーンを塗り替えていくにつれて、否定派に回ってしまった。実際、アインシュタインは「量子もつれ」を「不気味な遠隔作用」と呼んで、真剣に相手にしようとしなかった。

様々に分岐していく量子力学の学問の道が、どんどんもつれていく……。

しかし、マラソンの折り返し地点に似た重要な転回点を、誰もが回ることはできたのではないだろうか。その転回点の名は「量子生物学」。私たちの人体も含めて、動物や植物などのすべての有機体が、量子的働きで動いていることが判明したのだから。眼前に未踏の処女地が開けていることがわかったのだから。 

 というわけで、今晩も時間がなくてアップアップで書いたこの記事が、新たなトーンを加えて、均整の取れた美味しいアップルになる日がいつか来るのを、願ってやまない。

……。

困ったな。この終わり方では、全然サマにならない。インスピレーションよ、降りてきてくれ! そう願ったら、降りてきてくれた。万有引力に惹きつけられるように、インスピレーションが空から降ってきた感じ。

言った通り、科学でわかっていないことでも、先に信じてしまうという手もあるんだ。未踏の開拓地は人々をどこへ連れていくだろうか。その前に立ったとき、人々はどのような態度でいれば良いだろうか。

 世間が私をどう見ているかはわからないが、私自身は、少年のように海岸で遊び、ふつうよりすべすべした小石やきれいな貝殻を時折見つけては喜んでいるにすぎないように思える。その一方で、目の前には完全に未知なる真理の大海原が広がっている。

アイザック・ニュートン

私なら、目の前の「完全に未知なる真理の大海原」の潮騒を前にして、右手の人差し指だけを立てて、ひとこと、こう叫ぶだろう。

Truth! 

 

 

 

 

 

(Thank all of you for your hard-working days to TRUTHS and LOVE. Thank you, 3/9...) 

 

 

 

 

 

 

誤解1:超心理学はオカルト研究である

→ 科学的方法論にもとづいて公共性の高い研究を行なっており、隠された原理を 信奉する神秘主義とは無縁である。

誤解2:超心理学者は超能力の存在を信じている

→ 信奉は組あげにして。経験的事実にもとづいた研究を行なっている。超心理学 の研究コミュニティ内には、懐疑論者も多くいる。当然、霊魂の存在などを前 提とすることはない。

誤解3:超心理学はずさんな実験をしている

→ これまで発見された問題点については、対処して実験が行なわれ、現在は他の分野以上の高度な職密さを誇っている。一部の批判者こそが、古い問題点に注 目したずさんな論評をしている。

誤解4:超心理学の扱う現象には再現性がない

→ 注意深く管理した実験を十分な回数行なった場合には、安定した統計的効果が得られている。要因の統制が難しい心理 - 社会的現象だと考えれば、再現性は 比較的高いほうである。

誤解5:超心理学は一三〇年間の研究にもかかわらず成果がない

→ 下降効果。ヒジジ・ヤギ効果、実験者効果、隠蔽効果など、心理 - 社会的効果 が多く判明している。物理的性質は解明されていないが、この分野には十分な 人材や資金が投入されてないので当然とも言える。

誤解6:超能力があるとすれば科学が崩壊する

→ 科学は、事実を解明する方法のことであるから崩壊しない。崩壊するのであれば、現在の自然科学が想定している世界観だが、自然科学の歴史ではこれまで も世界観の画面はあった。

誤解7:超能力があるとすればカルト宗教を擁護してしまう

→ 超心理学がすすめば、超能力の限界が判明するなど、熱狂的な信奉に歯止めが かかる。超能力はありえないなどとして、放っておくほうがむしろ危険である。

羊になろうとしている山羊たちに☆の輝きあれ

マヨネーズの出口が☆型である理由は「ケーキのように美しく盛りつけられるから」だったらしい。星型の出口を見つめているうちに、星にお近づきになりたい、という謎めいた欲望が湧いてきた。何光年離れているのかもわからないし、どうすればよいのかも皆目わからないが、自分が星になるのが一番早いのではという作業仮説を立てた。

たとえそれが一億分の一の可能性であっても、ぜひとも自分にやらせたい。自分には精一杯頑張って☆い。普通の三倍くらいは生命を燃やして☆い。

というわけで、さっそく歯磨き粉を変えることにした。

よし、これでひとつ問題が解決。

次は、星になれるおクスリが市販されていたら、かなり道程をショート・カットできそうだ。買い占めて自分だけ飲んで☆になってしまおう。そう企んで検索をかけていると、この大学のHPに逢着した。

創業者のことを調べたことがある。実は、『心臓の二つある犬』を書いたとき、舞台のモデルとすべき私立の医科大学や薬科大学を、詳しく調査したのだ。仕上がりはこんな感じ。

 路彦は学長の言葉を待って黙っている。ところが老人は不意に黙り込むと、魅入られたように、手元の煙草から立ち昇る煙の行方を、頭を伸ばして目で追った。一条の紫煙は、フリーハンドで描いた垂線のように、微かに揺らぎながらも真っ直ぐに立ち昇り、天井の換気扇に吸い込まれていく。
「...きみはこの煙がどこへ行くと思う?」
「さあ。大気圏でしょうか」
「月ではないかな」
「お伽噺ですか?」
 冗談とも真剣ともつかぬ老人の閑話に、路彦は機知をもって応えたつもりだったが、学長は冷厳な顔つきになって、これはお伽話ではない、と言明した。 「この私立医大を創立した先代の学長は私の父だ。父は戦前お国のために私財を擲って、 臨床医を在野で養成するという使命を奉じた。戦中は疎開先の長野で軍医を突貫養成した。 だが、そんな忠義にお国がようやく報いてくださったのは、あまりに時機外れの父の死亡後だった。ちょうど『もはや戦後ではない』という一節が流布された年だ。それはいかにも遅すぎた。『国家又ハ公共ニ対シ勲績アル者』として旭日双光章を授与されたときは、 それでも遺族一同狂喜したもんだ。煙になった父が昇っていく積年の宿願の場所が、よう やく下賜された気がしてね。旭日というのはわかるかね、日本の軍旗に描かれた朝日のことだよ」
 路彦は奇怪な字体のアジビラを学内に撒く左翼青年からは遠いところにいたが、「無脊椎動物」という侮蔑語をわずかに上回る種族、天上へ至る垂直軸を背骨のギブスにしてかろうじて直立歩行している種族には、快い印象を持っていなかった。

 調査リストに星薬科大学を加えたのは、何と言っても「東洋の製薬王」の異名をとる創業者の息子が、ショートショートの名手だったことを知っていたからだ。 

星新一 一〇〇一話をつくった人

星新一 一〇〇一話をつくった人

 

 というわけで、今晩は「星へのショート・カット」をひた走るべく、星新一ショートショートの名編に、どこまで迫れるか挑戦してみたい。前回の江国香織への挑戦は、こんな仕上がりの小説になった。手直しすれば使えるし、他人の評価がどうであれ、自分では気に入っている短篇だ。今晩はどこまで行けるだろうか。

お題となるショートショート集は、『ノックの音が』だ。15編のすべてが「ノックの音が」で始まるショートショートの名編揃い。中でも掉尾を飾る「人形」の評判が高いようだ。確かにとても面白く仕上がっている。以下、ネタバレしつつ、部分引用する。

(…)

  数日前、この男は人を殺して金を奪った。殺した相手は非合法の商売をしていた者。だからこそ、奪った金も相当だった。しかし、その痕が問題だ。追われている獣。まさに、その通りだった。ボスの子分たちは子分たちで、復讐と金の回収のための行動に移りはじめているだろう。また、警察は警察で、独自の操作にとりかかっているだろう。二倍の密度で、しらみつぶしの追跡がなされているにちがいない。

 もちろん、これは計算ずみのことだった。そのために、男は前々から、かくれ家としてこの小屋を用意しておいたのだ。 

(…)

 「買ってもらいたいものがあっての。まあ、見るだけ見て下され」

 なまりのある老女の声が聞こえた。(…)

「何を買ってもらいたいのだ」

(…)

「わら人形を知らないのかね。呪いのわら人形を。これは本物なんだよ。作り方を知っているのは、もう私だけになってしまった……」

(…)

「刺してみなさるがいい。強くはいけないよ。足のほうでも、そっと突いてごらんなされ」

 男はやってみた。とたんに飛び上がり、うめき声をもらした。自分の足に鋭い痛みを感じたのだ。(…)

「これは当人そのものといっていい。逆にお守りにも使えるよ。これが安全なうちは、その当人にも危害が及ぶことはない……」

 (…)

 男は金庫を開き、なかの札束をカバンに移し、かわりに人形をおさめた。老女の言う通りならば、こうしておけば、おれも安全というものだ。弾丸にも襲われないだろうし、当ったところで無傷ですむだろう。

 男は金庫の扉をしめた。容易にはこわれない金庫だ。この小屋に金庫をそなえた時は、ばかげたような気がしないでもなかったが、こんなふうに役に立つとは思わなかった。

 気のせいだけではない。ここへ来てはじめて、心からの安心感がわいてきた。おびえた気分はどこかへ消え、絶対的な防備を身のまわりに得たようだった。久しぶりに、ぐっすりと眠れそうだ。

 男はダイヤルをまわし、さらに鍵をかけ、その鍵をみつめた。やがて、その鍵をたたいてつぶした。鍵を残しておくと、だれかが拾ってあけることもありうる。それを防ぐには、念を入れておいたほうがいい。さらに万全を期し、この金庫をそとに持ち出し、地下に埋めることにしよう。人形はだれにも発見されず、おれも他人につかまるまい。ゆうゆうと逃走もできるのだ。
 埋める場所をきめるため、男は小屋から出ようとした。ドアを引く。しかし、それはなぜかあかなかった。鍵もかけてなく、さっきは簡単にあいたのに.........。
 男は窓ガラスを引こうとした。しかし、それもあかない。拳銃でガラスをたたいてみたが、割れるどころか、ひびも入らない。こんなことがあるだろうか。男はあわてて、壁に体当りをし、屋根を調べ、床板にも突進した。しかし、それも同様で、なにもかもびくともしない。ちょうど、きわめて丈夫な金庫の中に閉じ込められでもしたかのように。 

ノックの音が (新潮文庫)

ノックの音が (新潮文庫)

 

 自分に課したルールは以下の4つだ。

  1. 「ノックの音が」で書き始める。
  2. 作品世界外の誰かへのメッセージや示唆を含ませない。
  3. 駄洒落に固執しない。
  4. 文芸誌にも掲載可能となるよう、やや純文学寄りの文体を採用する。

 では、これから構想を練ることにしたい。頑張れ、俺。

 

Missing

 

  ノックの音がした。約束の時間きっかりだ。友人のKがぼくの部屋へやってきたのだ。ぼくは机に向かって短編小説を書いていて、一段落したところだった。

 「持ってきたよ」とKはポケットから、カードの束とウィスキーを取り出した。Kとは数年の短い知己だ。どこかの学会の後で流れたパーティーで知り合った。心理学の研究をしているフリをしながら、十年くらい超心理学の研究にのめりこんでいる40代の学者。同年代だったこともある。固い話を好むパーティーのお歴々の中で、雑食性の好奇心を持っている作家のぼくと、やけにウマが合ったのだ。

「実験はどれくらいかかりそうだい」とぼくはKに訊いた。

「すぐに終わるよ。0時を回ったら、妻から苦情の電話がきみに入る手筈になっている」

 ぼくはKの顔をしばらく見た。Kの表情筋が表情を作ろうとしているのはわかったが、それが笑い出しそうな表情なのか、泣き出しそうな表情なのか、わからなかったのだ。

 Kと妻の間に子供はなく、妻はサーモセラピストという温熱療法のマッサージ師をしている。健康だけでなく、美容にも効くらしいので、エステティシャンと呼ぶべきかもしれない。一度だけ顔を合わせて、オイルマッサージをしてもらった。小柄で手が分厚くて温かい。そしてよく笑う。

 ぼくは手を伸ばして、テーブルの上に置かれたカードを、マークを表にして並べた。初めて遊ぶカードだった。 

ESP Cards

ESP Cards

 

「ESPカードで遊んでもらうだけさ。簡単な神経衰弱だから、すぐに終わる」

 Kはひと通り説明すると、ぼくにカードの同じ記号のペアを、裏返したままで当てさせた。透視しようとしても見えるはずもなく、外れるときもあれば、稀には当たるときもあった。電卓を叩いてデータを計算したKは、ぼくの実験結果を祝福した。

「おめでとう。ヒツジだよ」

「ヒツジ?」

「偶然当たる確率よりも、有意に高い確率が出ている。聖書を信じるヒツジと、信じないヤギの話から来ている呼び名さ」

「ぼくに超能力があるっていうこと?」

 Kはすぐに首を横に振った。そして、笑い出そうとしているのか、泣き出そうとしているのか、わからない表情をした。

 「いろいろな研究結果がある。言えるとしたら、きみがこの世界を信頼しているということかな」

 ぼくはK自身がヒツジなのかヤギなのかを訊いた。

「超能力の研究をこっそりしているくせに、ヤギなんだ。ヤギの結果を出すのは、たいてい超常自然現象の否定論者たち。無意識のうちに、外れたカードを選んでしまう。偶然なら一万分の一の確率だっていうから、偶然じゃないのは確かだ」

「本当に無意識に外してしまうの?」

「無意識に。そういう現象は missing と呼ばれている。要するに、世界のありのままを受け入れられずに、判断がすべって失敗してしまう」

 ぼくはキッチンからKを振り返った。ウィスキーは綺麗なアンバー色をしていた。

「水割りがいい? それとも、お湯割りにする?」

 いつもとは違って、お湯割りがいいとKは答えた。哲学者気取りのKも、とうとう奥さんに感化されてしまったらしい。微笑が込み上げてくる。Kは結婚以来ずっと、サーモセラピーを自分に施そうとする奥さんから逃げ回っていたのだ。暑苦しいと抗議して。

 次の瞬間、ちょっとした破滅的な音がした。ぼくの右腕が、誤ってKのウィスキーの壜を払い落してしまったのだった。慌ててKに謝ると、ぼくは自前の酒で急いでお湯割りを作って、Kの前の卓上にサーブした。

「ゆっくり片づけていいよ。時間はたっぷりあるから」

「でも、もうすぐ奥さんから電話がかかってくるんだろう?」

 時刻はまもなく深夜一時になるところだった。Kの表情を観察しようとしたが、Kはあえて表情を表に出さないようにしているように見えた。ぼくはしゃがみこんで、床に黒い染みをつくっている液体を、布に吸わせ始めた。

「本当に大丈夫なんだ。頼むから、ゆっくり片づけてくれ」

 Kの人生は無茶苦茶でした。もがけばもがくほど、Kを縛っている鎖が、深くきつく身に食い込むのでした。いつのまにか、Kには多額の生命保険が掛けられていました。残る人々に禍根を残してはいけないと、Kは説得されました。滅多にいないぜと、Kは笑顔の7人の男たちに話しかけられました。自分が消えることで、幸福な世界を創れる人間なんて、滅多にいないぜ。
 Kは自分がヤギであることを悟りました。ありがとうとその場で答えました。その場にいない人々にも、同じ言葉を伝えたいと思いました。

……上記の数行を読んだとき、自分が書いた覚えのない記述が、なぜ執筆中のPCの画面上にあるのか、思案に暮れた。

 実は、その思案への没頭に辿り着くまでに、割れたウィスキーの壜をビニール袋に入れ、床を拭き上げ、Kがいないのを不審に思って、戸外を少しだけ探し、玄関にKの靴がないのを、何度も確認している。

 壁の時計が1時を過ぎているのが見えた。 ぼくはウィスキーの匂いのする床に座り込んで、Kの奥さんから電話がかかってくるのを待った。普段聴いているジャズを、聴く気にもなれなかった。

 待っても待ってもかかってこないことがわかると、Kの顔を思い出そうと試みた。瞼の裏で、Kは笑い出そうとしているのか、泣き出そうとしているのかわからない表情をしていた。それから、普段はよく笑うKの奥さんが、分厚く温かい両手を精一杯動かしつづけて、一心不乱にKの胸や腹や背中を撫でさすっている場面を想像した。そして、今日の実験の missing。……

 信じたがっているはずなのに、世界をありのままに受け入れられなかったKの無意識について考えた。Kは何を missing していたのだろう。無意識に何を踏み外して、何を拒否してしまったのだろう。 

 5時間待って、夜が明け始めても、Kの奥さんからの電話はなかった。とうとう、涙があふれてくるのを止められなくなった。ミステリー小説を書いたことがあるので、5時間も経てば死後硬直が始まることを知っていたのだ。

 朝の7時に、Kの奥さんから電話がかかってきた。昨晩の23時くらいにKが自殺したことを知らせる電話だった。彼女がKの身体を撫でさせりつづけた8時間のことを、ぼくは考えた。彼女は泣きながら、自殺の理由で知っていることはないかとぼくに訊いてきた。

 彼女に読んでほしい短編があるから、正午までに書き上げて、届けにいくとぼくは告げた。そのようにして、これを書いた。 

 

  

 

 

「I know 愛の…」と言えるのに(ポンッ!)

ただいま。

 振り返るとタヌキがいた。自分には同居しているタヌキはいない。このタヌキは、どうして我が家のような顔をして、ここへ帰ってきたのだろうか。ただ、目の目にいる小動物が、昨晩の記事で書いたタヌキだということはわかった。

ぼく:昨晩の花火は綺麗だった。ありがとう、タヌキくん。ただ、執筆途中に割り込んで、不可解なヒントを出すのは、今晩は遠慮してくれよな。全然うまくいかなかったんだ、昨晩は。

タヌキソニーのプレステ→『NOと言える日本』→正義や倫理の根拠→テレパシーの実例4つ→量子論的観点からのミチオ・カクの世界観の評価→花火 …完璧だと思うけどね。

ぼく:ところが、執筆者としては、どうにも不完全燃焼だった。決め台詞をどうしても言いたかったのに、決め台詞に辿りつけなかった。

タヌキ:本当は二本立ての記事になる予定だったんでしょ?

ぼく:どうして知っているの?

タヌキ:オイラはきみの潜在意識から来ているからね。きみの考えていることは何でもお見通しさ。

ぼく:まいったな。まあ、知っているからこそ、花火を打ち上げてくれたわけなんだよね。こんな感じで二本立てのつもりだった。

ぼく:この二本立ては一本目で「続っとする」を使った。昨晩、終れるものなら終わりたいと思っていたから、 強引にテレパシーを軸に一本建てに改変しちゃったんだ。終わらなかったけどね、例によって。

タヌキ:こっちはこっちで閉会式で忙しかったから、ちょうど良かったよ。

ぼく:タヌキじゃなくて、白虎の子供じゃなかった? それに、夜空に模様を描いたのは、300機のドローンだって聞いているけど?

 

すると、タヌキはロックシンガーが自分を両腕で抱きしめるときのようなナルシスティックな仕草をして、目を閉じた。よく見ると、右手の先に、一枚の葉っぱが指に挟まれている。葉っぱをよく見ると、こう書いてあった。

「化かされたフリをしてください」

 

ぼく:(面倒くさいタヌキだなと思いつつ)、凄かったよ! 最後には夜空に浮かぶハートマークになったんだって。あんな魔法が使えるんなら、今晩何を書いたら良いか教えてよ。

タヌキ:正義や倫理の根拠を脳科学で探ったあと、きみのメインテーマである永続敗戦論かな。(ポンッ!)

ひょっとしたら、あのタヌキは全然魔法を遣えないのかもしれないな。言う通りにして大丈夫かどうか不安だが、昨晩個人的に「ポスト・マルちゃん問題」を克服できたような気がしたので、今晩もタヌキを信じてみることにしよう。 

同じ分野を脳科学がどんどん耕している。脳内のMRI画像を用いてVBM解析を行ったところ、人間の脳に道徳感情(「傷つけないこと」「公平性」「内集団への忠誠」「権威への敬意」「神聖さ・純粋さ」)のそれぞれに対応する部位がすでに特定されたのだという。

しかも、共感能力(「共感的配慮」「視点取得」「空想」「個人的苦悩」)に対応する脳内部位と、道徳感情に対応する脳内部位とは大きく重なっているらしい。これらの生得的な道徳的資質を元に、幼児期からの両親を中心とする対社会的接触が信頼能力を醸成する、というところまで、科学的な分析が完了している。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

上記でまとめた社会心理学由来の5つの倫理基準はどう見えるだろうか。

  1. 傷つけないこと
  2. 公平性
  3. 内集団への忠誠
  4. 権威への敬意
  5. 神聖さ・純粋さ

何だか宗教っぽく感じられる。そんな感想があっても不思議ではない。マックス・ウェーバーは近代化とは脱魔術化だとした。この後期近代社会では、他のどこを探しても、もはや「神聖さ」は宗教的領域にしか見つからないと感じる人も少なくないはずだ。

ところがこの「宗教」っていう奴が、何重もの誤解に包囲されている代物なのだ。宗教が迷信なのではなく、宗教に対する迷信が世には夥しいとする、この論文に目が留まった。

Religious concepts activate various functionally distinct mental systems, present also in non-religious contexts, and ‘tweak’ the usual inferences of these systems. They deal with detection and representation of animacy and agency, social exchange, moral intuitions, precaution against natural hazards and understanding of misfortune. Each of these activates distinct neural resources or families of networks. What makes notions of supernatural agency intuitively plausible? This article reviews evidence suggesting that it is the joint, coordinated activation of these diverse systems, a supposition that opens up the prospect of a cognitive neuroscience of religious beliefs.
宗教的概念は、非宗教的な状況においても存在する、機能的に異なる別の心内システムを活性化し、これらのシステムでの通常の推論を「調整」している。宗教的概念は、心性や主体の感覚と表現、社会的交流、道徳的直感、自然災害に対する予防措置、不幸の理解に対処している。これらのそれぞれが、異なる神経的資源または類縁的なネットワークを活性化する。超自然的な主体の概念を、直観的に妥当なものだとしているものは何なろう? この論文は、これらの多様なシステムが協働して調整していく活性化の一種であり、宗教的信念の認知神経科学の見通しを開くという仮説を示唆する証拠を検討している。

Religious thought and behaviour as by-products of brain function - ScienceDirect

論文の要約ではわかりにくいが、要するに、宗教とは「特別に隔絶した世界で、特別な論理で動いている前近代的な組織」 とする偏見を、小気味よく粉砕していく。「誤った偏見→正しい宗教研究成果」の順に、矢印で列挙していくと、こんな感じになる。

  1. 宗教は道徳と魂の救済にまつわるものである。→ 救済という概念はいくつかの教義(キリスト教と、アジアと中東の教条的な諸宗教)に見られるのみで、他の伝統にはあまり見られない。
  2.  宗教は不合理である。あるいは迷信である。→ 想像上の主体に敬虔な信仰心を抱いたとしても、通常の信念形成メカニズムがほんとうに衰えたり停止したりすることはない。実際はメカニズムが作用している重要な証拠となりうる。
  3. 宗教は人間の形而上学的な問いに答えてくれる。→ 宗教的な思考は一般に、人間が具体的な状況(この収穫、あの病、この子供の誕生、この死体など)に対処するときに作動する。

 ボイヤーとガザニガの主張をもう少し速くすると、こうなる。

私たちは、先に宗教があり、そこから倫理が生まれた、という順番で考える偏見に支配されがちだ。例えば、上で挙げた5つの倫理基準を見て、どこか宗教的だと感じ、宗教に由来するリストだろうかと感じがちだ。 

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線

人間らしさとはなにか?―人間のユニークさを明かす科学の最前線

  • 作者: マイケル・S.ガザニガ,Michael S. Gazzaniga,柴田裕之
  • 出版社/メーカー: インターシフト
  • 発売日: 2010/02/01
  • メディア: 単行本
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 ところが、ボイヤーとガザガニが主張するのは、順番が間違っているということだ。宗教を生んだのは、実は人間の脳だというのだ。脳の内部にある倫理的機能が、社会心理学で扱われている5つの倫理基準を先に生み、その倫理基準が社会化される過程で、倫理基準のみをわかりやすくパッケージングした副産物が宗教だと、彼らは主張する。論文名の「by-products」とは、宗教が脳の倫理的機能の「副産物」だったことを表している。 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

そして、管見の限りで、脳の倫理的機能と5つの倫理基準リストとの結びつきを、最先端の知識で説明したのが、やはり上記の本ということになりそうだ。参照しているのは、この論文。 

 Moral sentiment has been hypothesized to reflect evolved adaptations to social living. If so, individual differences in moral values may relate to regional variation in brain structure. We tested this hypothesis in a sample of 70 young, healthy adults examining whether differences on two major dimensions of moral values were significantly associated with regional gray matter volume. The two clusters of moral values assessed were "individualizing" (values of harm/care and fairness) and "binding" (deference to authority, in-group loyalty, and purity/sanctity). Individualizing was positively associated with left dorsomedial pFC volume and negatively associated with bilateral precuneus volume. For binding, a significant positive association was found for bilateral subcallosal gyrus and a trend to significance for the left anterior insula volume. These findings demonstrate that variation in moral sentiment reflects individual differences in brain structure and suggest a biological basis for moral sentiment, distributed across multiple brain regions

これらの発見は、道徳的感情のバリエーションが脳構造の個体差を反映していることを実証しており、道徳的感情が複数の脳領域にわたって分布していることの生物学的基礎を示唆している。

(ゴチック部分のみ)

Moral values are associated with individual differences in regional brain volume. - PubMed - NCBI 

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さて、今晩タヌキに指定されたのは、「社会制度の基盤とすべき倫理的根拠はどこにあるか?」という問いだった。昨晩は、脳科学への期待を込めて、このように書いた。

マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。 

まだ未解明の分野であるとはいえ、今晩、脳科学分野の本を何冊も斜め読みしているうちに、同じ発想を共有している研究者や哲学者が、何人もいることを知った。

西洋倫理学の3つの伝統:Three core functions of Western Tradition of Ethics and Ethical Studies

このブログで何度も引用している倫理学の3分野について、哲学者のケースビアは面白い主張をしている。

だとすれば、少しふざけた言い方になるが、三つの考え方はそれぞれ異なる脳領域を重視しているとみなせそうだ。

 そう前置きした上で、ケースビアはこう整理する。

Natural Ethical Facts: Evolution, Connectionism, and Moral Cognition (MIT Press) (English Edition)

Natural Ethical Facts: Evolution, Connectionism, and Moral Cognition (MIT Press) (English Edition)

 

 脳科学から得られたデータ基づいたこの仮説には、自分はかなりの賭金を置きたい感じがする。というのも、ピーター・シンガーの近著で話題の「効果的な利他主義者たち」が増えているのには、フリン効果の背景にある短期的な脳の進化があると推測されているからだ。

 徳倫理学に続いて、カント的義務論のブームが来ているのだという。正確には、カント的義務論をベースにした「効果的な利他主義」が広まりつつあるらしい。その種族が利他行為をする理由は、徳倫理学に深い関わりのある愛や共感からではない。「宇宙の視点」から見た理性だというのだ! 

(…)

ただ、シンガーのいう「効果的な利他主義者」が、フリン効果によって出現した新種族ではないかという説には、プリン愛に生きる男として、強い説得力を感じてしまった。

(…)

 心理学者のスティーブン・ピンカーは「論理的能力の向上は倫理力も向上させた」と述べているので、不断に続く人類の脳の進化が、かなり短期的に人類の倫理観を変えつつある可能性は充分にありそうだ。

 もうひとり、脳科学から倫理を基礎づけようとする思考の持ち主が、この新書の著者。

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

モラルの起源――実験社会科学からの問い (岩波新書)

 

 ロールズは、無知のヴェールという人工的な仕掛けを使うことで、分配の正義の問題を、 「不確実性のもとでどのように意思決定を行うのか」という問題の枠組みに変換しました。
 しかし、「社会的な分配」と「不確実性への対処」という二つの課題は、無知のヴェールがなくても、ヒトの進化史を通じて(狩猟採集社会から近代社会に至るまで)、そもそも近い関係にあると考えられます。たとえば、狩猟採集社会では、狩りの獲物は非血縁者を含む集団 全体で平等に近い形で分配されます。狩猟に出かけることが、獲物の得られない可能性をはらんだリスキーな行為であることを考えると、集団全体としての「平等分配」の仕組みは、 獲物の供給にどうしても伴う不確実性を統計的に減らす「リスクヘッジの装置」として機能します。(…)

 こうした進化的な背景は、分配に関する意思決定と、リスクを含む意思決定という二つの課題が私たちの生存に照らして互いに近い関係にあり、心理的にも共通の基盤のもとに組み込まれているという可能性を示唆するものかもしれません。つまり、無知のヴェールという人工的な仕掛けを使わなくても、「社会的分配に関する意思決定」と「リスクを含む意思決定」(…)という状況では、人々はともに、ロールズが論じるような最不遇・最悪の状態に最大に留意する「マキシミン的な思考」を自発的に行うのではないか、という可能性を私たちは考えました。

(強調は引用者による)

 新書なので、とてもわかりやすい文章で書いてくれている。「心理的にも共通の基盤のもとに組み込まれている」という部分は、文脈から「脳内で連関するモジュールである可能性が高い」ということになる。

昨晩の上の記事では、脳科学の研究が進み、とうとうテレパシーで遊ぶゲームまで市販されていることに言及した。人工知能の進化により、脳機能の解明とヒトゲノムとの相関関係が明らかになれば、明らかになったで、最高善を実現する社会制度を、計算によって創り出すことになるだろう。あと半世紀くらいかしたら、そのような理想社会が実現するかもしれない。 

では、それまでは?

社旗制度の基盤とすべき倫理の根拠は、政治ー倫理哲学から調達することになる。より正確には、計算可能な部分はコンピューティングに任せ、計算不可能な部分は、引き続き政治ー倫理哲学から調達することになるだろう。

そのテクノロジーと哲学の接合面で、社会設計のあり方について考えているのは、この本くらいではないだろうか。今晩初読して、約10年前の著書ではあるものの、決して錆びることのない輝かしい思考にあふれていた。 

計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

計算不可能性を設計する―ITアーキテクトの未来への挑戦 (That’s Japan)

 

 超優秀なIT環境の設計家である神成淳司は、2007年の時点で、近未来をこう予測する。もちろん的中している。

神成:最終的には、大多数の人間は、現実世界と仮想世界のzy9応法を、分け隔てなく利用するという状況になると思います。直感的にわかりやすい例を挙げれば、車の中からフロントガラスを介して外の景色を確認した際、その景色の中に、まったく違和感なく、コンピュテーション化されたモノが存在する。そのモノを、我々は現実のモノと分け隔てなく活用できる。 

 この「予言」は、4年後にカロッツェリアのARナビによって、実現された。最新機種の「融合」の具合はこんな感じだ。 

その翌年の2012年、アップル社が打ち出したARグラスの動画。 

イーロン・マスク流の「AI脅威論」に自分が共感できないのは、すでにテクノロジーと人間の融合が進行しつつあるからだ。

さて、自分が愛読してきた宮台真司の未来観がどうなっているのか、ずっと気になっていた。この対談本を読めばよかったのか。今晩読んで、サンデルなんか全然目じゃないと感じた。自分の考えと重なる部分が多かったのも、素直に嬉しかった。

 一九六〇年代、ニューウェーブSFの旗手だったJ・G・バラードの『ヴァーミリオン・サンズ』という短編シリーズの中に、そうした社会が描かれています。ヴァーミリオン・サンズは未来のリゾートの名前ですが、人間の精神状態に感応する音響彫刻、精神状態に応じて物理的形状や色合いを変える家屋が、登場します。レイ・ブラッドベリであれば間違いなく文明批判のモチーフとして描くところですが、バラードは違います。アーキテクチャの選択を選択前提としたアーキテクチャの選択のつながりが、何
もかもを奪人称化していて、誰もがアメニティの海にふんわりと浮かんだ社会を淡々と描きます。

 「バラードがこれを文明批判として描かないのは、社会が変わればたとえば未来になれば」人々の感情の働き方も変わってしまうという洞察に由来します。「未来の社会の在り方を、未来ならざる現在の人間たちの感受性によって裁断しても、意味がない」というふうに、バラードは繰り返し主張してきました。

 バラードは、泣いても笑ってもどの道そのようになるという立場から、未来社会を描きます。(…) ここまでは いい。問題はそこから先なのです。 「個人的自己決定であれ共同体的自己決定であれ、人ないし人々の自由意思に基づく選択によって正統化される近代社会。過去から現在にわたる眩暈を引き起こすような選択の輻輳を経て、諸事物はもはや誰が選んだとも言えなくなったヴァーミリオン・サンズ的な未来社会。前者から後者に「どう」移行するのかという問題です。

デザイナーズ・ベイビー問題で、テクノロジー決定論側に対して、慎重派のサンデルが苦戦しているとの読み取りを、以下のように書いた。

あの『ハーバード白熱教室』の教授のボディに、渾身のパンチを打ち込むことはそれほど難しくない。サンデル教授に、こう返答すれば良いのである。

 

わかりました、教授。おっしゃる通りだと思います。では、私の子供は、「謙虚、責任、連帯」の性格が発現しやすいようにデザインしてから、出産します!

 

この論点で、テクノロジー決定論に打ち勝つ思想的根拠は見出せそうにないというのが、自分の予測だ。 

宮台真司は、後期近代社会が、テクノロジー決定的な未来社会へ移行することは不可避との前提に立って、問題はどのように前者から後者へ移行するかだと説く。そして、その際の最大の論点が、テクノロジーと人間が融合したのち、「人間と非人間の間にどう線引きをするか」にあるというのだ。うーん、面白い。

汎<システム化>によって「計算可能性」が重視される傾向が高まる一方で、「多様なものの共生」を重視するリベラリズムが浸透していけば、異なる者たちの共生は自動的に「混在」よりも「分離」を旨とするものにシフトして行きます。社会にリベラリズムが浸透するのに、個人はどんどん 非寛容になっていくわけです。「何が人間的か」という価値ではなく「何が人間か」という自明性をめぐって異者の「分離」がなされる場合、同じ人間として「何が人間か」を議論して合意するわけじゃありませんから、異者の可視性が直ちに自明性の揺らぎを呼び、激烈な感情を引き起こしがちになります。可視性の遮断によるフィールグッド化は不可避です。 

 このような異者たちの分離だらけの社会に、どのように「計算不可能性」を導入して、ローティーの著作をもじっていえば、「偶然性・アイロニー・連帯」の契機を導入していくかが、おそらくは上記対談本の主旨だろう。

今晩の記事を自分向けにまとめるなら、このようになるだろうか。

倫理や宗教の起源が脳にあったことがわかりはじめた。いずれ脳機能の解明が進めば、同じように、脳機能を基礎にした卓越した社会制度が形成されていくだろう。それまでの過渡期、倫理哲学の精髄を社会制度に落とし込む設計思想が必要だろう。

 ふう。今晩も何とか書き終わった。

そう思ったとき、予感通り、タヌキが現れた。

タヌキ:良かった、間に合った。そろそろ決め台詞を言う頃だと思って。

ぼく:決め台詞を代わりに言いに来たの?

タヌキ:そうさ。危ないところだった。昨晩、ソニーの言及で始まったときも、美味しいところを持っていかれそうだったので、話題を変えてもらったのさ。

ぼく:タヌキとソニーにどんな関係があるの?

タヌキ:「make believe」というのは「フリをする」、つまりは「化かす」ということだから、タヌキの本職というわけ。

ぼく:そのキャッチコピーは間に「.(ドット)」が入っているはず。「フリをする」ちょいう意味じゃないと思おうよ。

すると、タヌキはロックシンガーが自分を両腕で抱きしめるときのようなナルシスティックな仕草をして、目を閉じた。よく見ると、右手の先に、一枚の葉っぱが指に挟まれている。葉っぱをよく見ると、こう書いてあった。

「化かされたフリをしてください」

 

 ぼく:(面倒くさいタヌキだなと思いつつ)、わかったよ。今晩の決め座台詞はソニーが関係しているんだね。

タヌキ:ご名答。今晩の記事の出発点は何だったっけ?

ぼく:「社会制度の基盤とすべき倫理的根拠はどこにあるか?」だったよ答えてくれるんだね。

タヌキ:「脳と言えるのに(ポンッ!)」

 そう決め台詞を言い終えた途端、タヌキは不思議な音を立てて忽然と姿を消したのだった。 

「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)

「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)

 

 

 

 

 

 

 

(J Ballad の名曲を英詞カバーで)

心を照れが走って

So play the game "Existence" to the end...

ジョン・レノンが書いた「Tommorow Never Knows」の歌詞の最終行のことを考えていた。拙訳ではこんな感じになるだろうか。

だから、「存在」のゲームを楽しんで生きよう。最後まで。

 人々が最も恐怖する「死」は、どの魂にとっても「最高の安らぎ」なのだとも言われてている。この世は、何度も輪廻転生して自分を成長させる魂の修行場なのだ。

「play the game」の訳を考えたとき、プレイステーションのことを思い出した。 

ソニーの革命児たち―「プレイステーション」世界制覇を仕掛けた男たちの発想と行動

ソニーの革命児たち―「プレイステーション」世界制覇を仕掛けた男たちの発想と行動

 

 あまり知られていない話かもしれない。初代プレイステーションでは、垂直統合型のモノづくりではなく、オープンイノベーションを含むプラットホーム戦略を取っていた。何と、基幹部分の半導体の設計と製造を外部企業に委託している。のみならず、直接には収益のあがらないソフトウェアの充実に注力して、プラットホーマーとして「世界制覇」を目論んでいたのだ。プレステ3に組み込んだCELLというCPUの開発や製造には、IBM東芝をも巻き込んで、今でいう IoT のCPUの覇権を狙っていたが、結論からいうと、インテルとの競争に敗れてしまった。

2017年のソニーの好調は金融部門の貢献によるものだったので、製造メーカーとしての頂点のひとつとは言えない。最高峰はいつの時代になるのだろうか。ソニーの創業者がバブル絶頂期に政治家と出したあの共著本の頃だろうか。 

「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)

「NO(ノー)」と言える日本―新日米関係の方策(カード) (カッパ・ホームス)

 

 寒いから、話題を変えた方がいいのになあ(ポンッ!) 

 ん? 日本のモノづくりについて語ろうと思っていた矢先、どこかから不思議な声が聞こえた。「(ポンッ!)」の部分は、その声の主が、宙で姿を消した音のようだ。 

出たな、タヌキめ。出たのがタヌキだったとしても、消えてしまったのだから、それ以上どう対応したらよいのかわからない。味方のタヌキか、敵のタヌキかもわからない。何があるかわからないので、念のため、話題を変えることにしたい。

「Ⅳ:共同性の知」のニュープラグマティズムは未チェックだった。ローティー流のアンチ基礎づけ主義に対して、彼を批判的に乗り越えることを目指すマクダウェルは、アリストテレスの徳倫理学を持ち出す。おなじくアリストテレス経由のヌスバウムの「濃厚だが曖昧な善」に近そうだ。「ネタ / ベタ」論でいう「ベタ」な感じで正義を語りうる時代がやってきたということなのだろうか。ただ、マクダウェルヌスバウムの論理構成には疑問を感じる箇所もあるので、時間を取って吟味したい。

大学図書館にもマクダウェルはほとんど本がないのは困ったことだ。手元に参照できる本がなくても、勘で書けることはないではない。マクダウェルヌスバウムアリストテレス回帰から倫理の基礎を引き出そうとする戦略には、正義や倫理の好きな自分でも、いささか疑問を感じてしまう。古代ギリシアの偉大な哲学者を持ち出しても、ヌスバウム主張するところのケイパビリティ・アプローチに要する膨大なコストを政府は負担してくれないだろう。この点では、自分はリベラル・アイロニストのローティに考えが近い。

しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学。ずっと読んでみたいと思っていた本を、今日やっと手に取ることができた。 

フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する

フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する

 

どうやら自分は、確たる根拠もなく、怪しげなオカルティストだと思われているようだ。傷ついちゃうな。これでも幼少期は、SF小説と科学実験の好きな科学少年だったのに。

確かに、同じ場所におらず、電子デバイスで中継されてもいないのに、誰かの声が聞こえたことはあるし、友人たちの示唆するところによると、どうやらその声の内容は当たっていたらしい。(答え合わせを試みたのは、下の記事)。

でも、テレパシーの存在が科学的に証明されていることは、元科学少年に言わせれば、21世紀の常識だ。

1. 脳が何をイメージしているかを読み取る実験

MRIの中に入った被験者にモナリザの絵を見せる。すると、MRIが信号を変換してボクセル図として表示する。その画像を元に、コンピュータがネットで画像検索をして、画像が誰かを特定する。カリフォルニア大学のバークレー校の実験では、被験者が見たのはこの女優ではないかとコンピュータが弾き出した。今後、解析精度は加速度的に向上すると言われている。

 2. 心でタイピングする脳波タイプライターの開発に成功

 特定の病気の患者の脳に電極メッシュを接触させて、言葉を測定する実験の成功を経て、開頭手術なしで、心でタイプする脳波タイプライターが市場に出現した。

以下のデバイスをベースにしたアプリケーションらしい。

According to Guger Technologies, most people become competent thought-communicators after 10 minutes of training on the system and are able to spell out five to 10 characters a minute.

グーガーテクノロジー社によると、ほとんどの人が、10分ほど訓練すると、考えるだけでコミュニケーションを取れるようになり、1分間に5~10文字の綴りをタイプできるという。 

 人間からデバイスへ発信するテレパシーは、すでに完成しているというわけだ。

 3. 人々はテレパシーゲーム機で遊んでいる

 2018年発売予定のプレステ5には、まだテレパシー機能は搭載されていないようだ。大丈夫、プレステ6で搭載するよう、今テレパシーで頼んでおいた。

純然たる勘でいうと、きちんとした訓練さえ積めば、「かめはめ波」を出せるようになる日も近いのではないだろうか。出せるようになったら、ぜひともぶんぶんタービンを回して、脱原発後のベースロード電源にして、日本を救ってもらいたい。これも今、テレパシーで頼んでおいた。 

 4. テレパシーの本領発揮(脳と脳もつながっちゃうよ)

 下のTEDの動画は2014年の動画だ。そこでは、猿と猿との間での「テレパシー」について語られている。 

この動画以前の2013年に、すでにニコレリス博士は人間から人間へのテレパシーの伝達に成功している。ワシントン大学で、科学者Aが科学者Bへ「右手を動かす」という「意志」をネット経由で送ったところ、科学者Bの右手が勝手に動いたのだという。

ニコレリス博士は、このようなBMI(Brain Machine Interface)で人々がすべて融合的に接続され、究極の直接的政治参加が実現する可能性を示唆している。ほとんどSFにしか聞こえないその着想を語る際、彼が「巨大な集合意識」というユングに似た用語を使っているのが興味深い。

 しかし、著者のミチオ・カクのいつも通りのそつのないわかりやすさは、これらのテクノロジーの進歩がどんな未来を人類にプレゼントするかを、明確に語ろうとはしない。

自分の言葉で言い直すと、各種テクノロジーを1%グローバリストが独占して、99%を奴隷支配するだろうとするディストピア。過去のテクノロジー群と同じく、価格低下による急速な普及によって、人類全体に恩恵がもたらされるとするユートピア。個人的には、フリーエネルギー以前が前者、以後が後者となるだろうと未来予測している。 

しかし、それは範囲を哲学に絞った場合の話で、他の分野でアリストテレス以上に倫理の基礎として応用できるものが、発見されるかもしれない。その分野とは脳科学

あれ? 記事の最初の方で、大上段に振りかぶって上のように語ったのに、脳科学が倫理の基礎になる話が全然出てこなかったのは、どうして?

寒いから、話題を変えた方がいいのになあ(ポンッ!) 

あ! さっきのタヌキの声! そうか「寒い」というのは暗号で、「3/6い」を表していたのか。

実は、自分が以下の記事で讃辞を送った金井良太『脳に刻まれたモラルの起源』には、先行研究がある。「脳が生む人間らしさ」を研究して約半世紀。右脳と左脳の違いや左右間の通信を研究した第一人者だ。その主著が2018年の3月6日に出版されるのだ。

人間とはなにか 上: 脳が明かす「人間らしさ」の起源 (ちくま学芸文庫)

人間とはなにか 上: 脳が明かす「人間らしさ」の起源 (ちくま学芸文庫)

 
人間とはなにか 下: 脳が明かす「人間らしさ」の起源 (ちくま学芸文庫)

人間とはなにか 下: 脳が明かす「人間らしさ」の起源 (ちくま学芸文庫)

 

 下記でこう言及した内容より、さらに奥深い研究成果に触れることができるかもしれない。楽しみだ。

 

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

脳に刻まれたモラルの起源――人はなぜ善を求めるのか (岩波科学ライブラリー)

 

新書並のコンパクトな情報量でまとまった知見を与えてくれる本書。とても面白かった。自分の興味に沿って、まとめてみたい。

途中、アダム・スミスの『道徳感情論』が出てきて、おっ出たな、と思った。アダム・スミスは「共感という認知能力が道徳の起源である」と述べている。道徳感情について論じているアダム・スミスと上述のロバート・フランクが、ともに経済学者であるのも面白い。

同じ分野を脳科学がどんどん耕している。脳内のMRI画像を用いてVBM解析を行ったところ、人間の脳に道徳感情(「傷つけないこと」「公平性」「内集団への忠誠」「権威への敬意」「神聖さ・純粋さ」)のそれぞれに対応する部位がすでに特定されたのだという。

しかも、共感能力(「共感的配慮」「視点取得」「空想」「個人的苦悩」)に対応する脳内部位と、道徳感情に対応する脳内部位とは大きく重なっているらしい。  

脳科学がどこまで倫理を基礎づけるのに有効かは、その主著の出版を待ってから考えてみることにしよう。

ミチオ・カクの『フューチャー・オブ・マインド』は誰にでも進められる分かりやすくて面白い本だ。好奇心旺盛な高校生なら、夢中になって徹夜で読んでしまうのではないだろうか。

今晩は、最後に付された補論「意識の量子論?」が、どの程度まで「うほうっ!(=宇宙の法則)」に迫れているのかを確認してみたい。こんなにも豊かで面白くてわかりやすい脳科学の本を書いておきながら、実はミチオ・カクの専門は理論物理学。したがって、喉に刺さった小骨のような量子物理学の問題に言及せずにはいられないようだ。

何度も引用して恐縮だが、話はまた「シュレディンガーの猫」になる。

何度読んでも凄い論争だ。この分野の先駆者であるアインシュタインシュレディンガーたち自身が、反対論陣に回ってしまうという骨肉の争いの様相を呈している。

このパラドックスの解決法は三つある。

1. ボーアとハイゼンベルクコペンハーゲン解釈

 箱を開けて猫の状態を観察すると、その瞬間に「死んでいる猫」と「生きている猫」のどちらかに波動が収束してしまいう「観測者効果」が生じる。

アインシュタインはこれをまったくのナンセンスと考え、これに対抗する「客観的実在」の理論を推進した。 

フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する

フューチャー・オブ・マインド 心の未来を科学する

 

 2. 「無限前進」から神へ 

 ノーベル賞を受賞したユージーン・ウィグナーは、観測者効果にメタ階梯があることを重視した。猫の生死の波動を収束させる観測者がいるのなら、その観測者が存在していると波動を収束させる観測者がいるはずで、さらにその観測者を… というように、無限にメタ観測者が増加していく論理構造が存在していることになる。実際には、人間のカズは有限なので、その(「無限後退」ならぬ)「無限前進」のどこかに「神」のような最終的な審級があるはずだとした。 

 3. エヴェレットの多世界解釈

君の名は。』の土建屋の息子が、映画の冒頭で言及していた。波動関数は収縮しておらず、分岐する。したがって、宇宙では絶えず分岐が生成し、無数の多宇宙となっているとするエヴェレットの説。ミチオ・カクは「最も気味が悪い」と評している。しかし、この多世界解釈の研究も先へ進んでいる。

 パラレルワールドの概念は1957年、当時プリンストン大学の大学院生であったヒュー・エヴェレットが提唱した「多世界解釈(Many Worlds Interpretation)」が起源だといわれている。しかしながら、これはあくまでも“解釈”であり、パラレルワールドがあると考えたほうが、この世の森羅万象を説明しやすいということである。(…)

 しかし2014年、豪・グリフィス大学と米・カリフォルニア大学の合同研究チームが学術誌「Physical Review X」で発表した研究は、「パラレルワールドは存在し、しかも相互に影響し合っている」ことを主張しているのだ。わずかではあるにせよ、この世とパラレルワールドのどこかに接点があり、相互に交流があるというのである。(…)

合同研究チームのハワード・ワイズマン教授とマイケル・ホール博士は、新たなコンセプトである「相互干渉多世界(Many Interacting Worlds)」を打ち出している。(…)多世界解釈とは異なり、「パラレルワールドはこの世と同じ時空に存在している」と考える。つまり現実世界とパラレルワールドは、まるで肩を並べあうように、すぐ隣に存在しているということだ。正確に言えば隣ですらなく、実はまったく同じ時空に同時に存在しているのだ。 

さて、専門外の脳科学についても深い見識と明快な分析力を披露しているミチオ・カクは、自身の専門分野では、どの説を支持しているのだろうか。

ここで、こんな質問をする人もいるだろう。どの解釈が妥当か決めるために、とにかく実験をすればいいではないか? 電子で実験をすれば、三つの解釈のすべてで同じ結果が出てしまうだろう。したがって三つとも、同じ量子論にもとづく、まともで有望な量子力学の解釈となる。結果の説明の仕方が違うだけなのだ。

ミチオ・カクらしい上手い逃げ方だと思う。逃げおおせてているだけでなく、逃げる理由が科学的であることを明確に印象づけている。

では、このブログ主がどの説を支持しているか、読者にお分かりだろうか?

答えは、三つ全部だ。三つ全部が同時に成立していると考えている。これは私の創見ではなく、バシャールや仏教の叡智がそのように説明しているのだ。 

どの学問分野の先端に立っても、バシャーリアンの知見が生きてくる未踏のフロンティアが広がっているように見える。今晩も、不等式の連なりを確認しておこうか。

ガブリエル≒ニーチェ<ミチオ・カク<三島由紀夫≦仏教≒バシャール

ところで、今晩はもうひとつ興味深いシンクロニシティを紹介しておきたい。

上の記事でマルクス・ガブリエルによる「無限後退」の設例として、ニーチェ主義者三島由紀夫の描写を自分の言葉にして引用した。

例えばコーラの壜の胴の部分に、そのコーラを飲んでいる女性の絵が描いてある。その女性自身が飲んでいるコーラの壜の胴にも、コーラを飲んでいる女性の絵が描いてある。その女性自身が飲んでいるコーラの壜の胴にも… 

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

実は、上記の著書でマルクス・ガブリエルが「無限後退」の例として挙げているのが、何とシェルペンスキーのガスケットなのだ。 

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頭が眩々してきた。シェルペンスキーのガスケットと言えば、バシャールがフリーエネルギーの開発の鍵が潜んでいると公言しているアレだ。

「3Dプリンターでプリントアウトするのに、よいものがなにかありますか?」との質問に対して、バシャールは、「マカバ」=「シェルピンスキーのギャスケット」を勧めていました。

バシャールは以前、「時空間アンテナ space-time antenna」というものを紹介してくれたことがあります。「時空間アンテナ space-time antenna」とは、二つの円錐形が合体したものですね。

今回、バシャールは、昔、「時空間アンテナ space-time antenna」として描写したものはおおざっぱなもので、それを洗練させていくと、「シェルピンスキーのギャスケット」になるのだ、というようなことを言っていました。

二つの正四面体が、互いに逆向きの方向で、合体したものを、バシャールは、述べていました。それは、六芒星のようでもあると述べていました。 

「世界の真実≒宇宙の法則」をなしているフラクタル原理と、フリーエネルギーを使用可能にステップダウンさせる方法との間には、どうやら謎めいた関連性があるようなのだ。誰か、この謎の究明にあたろうという有為の科学者はいないだろうか。フリーエネルギーを開発したら、地球まるごと救えるんだけどなあ。

誰の顔を思い浮かべていいのかわからないまま、夜空を見上げていると、かすかにひゅーっという音がして、打ち上げられた光の玉が弾け、夜空に花を描いた。

誰が打ち上げてくれたのだろう。すると、また遠くで小さな光の玉が上がって、ポンと弾けて、夜空に鮮やかな花の残像を描いた。タヌキだということが、自分にはわかった。今日の記事で出現した謎のタヌキが、今晩の夜空に花火を打ち上げてくれているのだった。

ありがとう。嬉しいよ。世界をつかのま化かす魔法をかけてくれて。

またしても、遠くで小さな光の玉が上がっていく。私はその軌跡を涙目で追った。そして、花火の美しさを讃えるあの下町の言葉を、声には出さず、心の中で思いっきり叫んだのだった。

ありがとう、タ抜き。

 

 

 

 

霧に巻かれて橋って橋って

第1位~第5位
(1)咲良(さくら)
(2)結菜(ゆうな)
(3)凜(りん)
(3)結衣(ゆい)
(5)陽菜(ひな)

第6位~第10位
(6)凛(りん)
(7)陽葵(ひまり)
(7)さくら
(9)優愛(ゆあ)
(10)莉子(りこ)

第11位~第20位
(11)芽依(めい)
(12)葵(あおい)
(13)杏(あん)
(14)紬(つむぎ)  
(15)心春(ここは)
(16)美桜(みお)
(16)柚希(ゆき)
(16)結月(ゆづき)
(19)愛莉(あいり)
(20)あかり 

昨晩、節分の豆で「蛸は内!」と叫んでしまった。新時代の多項知に到達するにはそうするしかないと、バケラッタ・コーチに指導されたがゆえの蛮行だったが、今も釈然としない。騙されたのではないだろうか。

気分を変えるために、世界で最も可愛らしい存在。女の子のベイビーに付けられる人気の名前を見ていた。「さくら」が、漢字とひらがなで同時ランクインしている。良かった「ゆうこ」は入っていなかった。

昔、戯曲のどこかで、「夕子」という役を書いたことがある。少女時代に不良になって、怪人二十面相の手下に収まった美貌のスナイパーだった。夕子が不良になったのは、配慮を欠いた命名のせいだという設定にした。

みんな「タコ」「タコ」って。お願いだから「夕子」って呼んでちょうだい! そういえば、私がグレはじめたのは、こんな夕暮れ時でした。

 大人になってから平気になったが、中学生時代に瀬戸内の島の臨海学校で、生きた蛸を殺して調理する実習を受けて以来、蛸を食べる気がしなくなった。捕まえて、殺して、調理している間に、何となく可哀想になって食欲がなくなってしまう性格だ。けれど、貴重な生命を犠牲にしているからこそ、感謝した上で、ガブっといって、いただかなければならないのだろう。

地元の子供たちの間では、こんな食育ソングが流行っているようだ。

というわけで、今晩も少しでもバケラッタ・コーチに認めてもらえるように、多項知の習得に取り組みたい。 今晩はガブリエルによる「思弁的実在論」をガブっといっちゃうつもりだ。

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著者のマルクス・ガブリエルは1980年生。29歳でドイツ最年少の哲学正教授になった華々しい経歴の持ち主だ。最近の哲学者はこんな柔らかい文体で哲学書を出すのか、という驚きの感想が先に来た。  

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

なぜ世界は存在しないのか (講談社選書メチエ)

 

哲学書でも話はそれほど難しくない。小川仁志のまとめはこうだ。

ガブリエルは、『なぜ世界は存在しないのか』の中で、ある山が見えるというとき、実際に存在するその山だけを意味するのか、それとも色々なところからその山を見ているすべての人々の視点をも意味しているのかについて、いくつかの立場を紹介したうえで、次のように述べる。

(…)

つまり、この世界は観察者のいない世界でしかありえないわけではなく、また観察者ににとってだけの世界でしかありえないわけでもないということだ。

私は車窓からしか富士山を見たことがないが、現実の富士山以外に、そんな私にとっての車窓からの富士山も存在するはずだ。もっというと、富士山など見たこともない海外の人にとっても、その意味での富士山は存在しているといっていい。これが新しい実在論なのだ。

 このような前提に立って、数多くの小世界は存在するけれども、それらのすべてを包摂するひとつの「世界」は存在しないという結論が導かれるに至る。これが「世界は存在しない」ということの意味である。だからガブリエルは、他方で「世界以外のすべては存在する」と主張するわけである。

 この論点に加えて、ガブリエルはいわゆる「無限後退」の問題も取り上げている。三島由紀夫がこの「無限後退」を主題に、面白い描写を試みている。「鍵のかかる部屋」だったと思う。記憶だけで書くとこんな感じ。

例えばコーラの壜の胴の部分に、そのコーラを飲んでいる女性の絵が描いてある。その女性自身が飲んでいるコーラの壜の胴にも、コーラを飲んでいる女性の絵が描いてある。その女性自身が飲んでいるコーラの壜の胴にも…

 という具合だ。最初に書いた①無限数視点による多数性と、この②無限後退による縮小型の多数性を足し算して、世界がどうあるかについて、ガブリエルはこう主張してるわけだ。

無限に数多くの意味の場が存在し、無限に多様な仕方で入れ子構造をなしているという事実です。

 自分の読みでは、これはニーチェのパースペクテイヴィズムの影響が濃い。(パースペクテイヴィズムの詳細は下記論文をどうぞ)だから、熱烈なニーチェ主義者だった三島由紀夫の小説に、どこか場違いな描写に化身して登場するのだ。

http://dlisv03.media.osaka-cu.ac.jp/contents/osakacu/kiyo/DBd0600004.pdf

①と②が仏教の教義にあることは、この記事で書いた。①が下記の第三項目の説明に当たる。

空海は『秘密曼荼羅十住心論』の中で、「金獅子」の例えを使いながら10の項目に細分化して、華厳宗の「縁起」の世界の話を、丁寧に説明している。

(…)

「金獅子」の例えでは、金を削って作られた獅子像に仮託して、私たちがどのように存在しているかを説明している。その10項目の説明のうち、第三項目が、まさしく量子物理学そのものなのである。

 

第三には、もしも獅子をみれば、ただ獅子のみあって金はない。つまり金は隠れて獅子は顕われるのである。もしも金をみれば、ただ金のみあって獅子はない。つまり金は顕われて獅子は隠れるのである。もしも二つの立場からみれば、金も獅子とともに顕われ、ともに隠れる。隠れるのをすなわち秘密と名づけ、顕われるのをすなわち顕著と名づける。 よって、これを一つのものと多くのものは隠れたり顕われたりするが、互いに条件によって隠れたり顕われたりし、ともに成ずるという教え(秘密隠顕倶成門)と名づける。 

 ガブリエルの説く②の「無限後退」が、空海の説明する第四項目に近い。 

第四にはすなわち、この獅子の眼や耳や身体の部分、一々の毛なみにそれぞれすべて、子をおさめる。一々の毛なみの獅子は同時に直ちに一本の毛の中に入る。一本ずつの毛の中にそれぞれみな限りない獅子がある。またまた一々の毛にこの限りない獅子を載せて、それぞれ違って一本の毛の中に人る。このように重なり重なって尽きることなく、尽きることなく関係しあっているさまは、帝釈天の宮殿の周囲に張りめぐらされた網にある網目の珠のようであるのを、帝釈天の網目の珠が互いに限りなく映じあっている世界という教え(因陀羅網境界門)と名づける。

 

このアレフ的な世界の存在の様態は、この後の記述でも再説されるが、全体の中に部分があるだけでなく、部分の中に全体があるという説明は同じだ。ボルヘス空海との時空を超えたインターテクスチュアリティとは、ワクワクさせる連関だ。

初読で読み落としていたのを、今晩見つけて興奮してしまった。第九項目では、何と空海は「引き寄せの法則」を説いているのだ。

 

 第九にはすなわち、この獅子と金とは、あるいは一方が隠れ、あるいは一方が顕われたり、あるいは一であったり、あるいは多であったりしても、それ自体の本性がなく、心の めぐりかた次第で現象といったり理法といったりする。こうして一方が成就したり、他方が確立したりする。だから、これをすべての存在するものは本来清らかな心(如来蔵)をその本性とし、一つとして心以外のものではないという教え(唯心廻転善成門)と名づける。

(ゴチックの引用は下記文庫による)。 

 ガブリエルが書き落としていて、空海が言挙げしているのが、いわゆる「引き寄せの法則」。では、三島由紀夫はどうだったのか?

実は、三島も唯識仏教に則って、一種の「引き寄せの法則」を登場人物に語らせている。それが、「同時更互因果」という説であり、一瞬一瞬の間に、自分の意識が現実を生み出し、その現実が自分の意識に影響を与えるというサイクルが、猛烈な勢いで反復されているとする説だ。

引用は割愛するが、これは空海の説明による第八項目にちゃんと書かれているのである。したがって、ドイツの俊英に敬意を抱きつつも、私たちが描くべき不等式は以下の宇\用になるだろう。

ガブリエル≒ニーチェ三島由紀夫≦仏教

さて、この不等式の端に立たせたい存在がいる。左端ではない右端だ。「存在」と書いたので、勘の良い人はわかったと思う。バシャールだ。 

BASHAR(バシャール)2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。

BASHAR(バシャール)2017 世界は見えた通りでは、ない バシャールが語る、夢から覚めてありありと見る、世界の「新しい地図」。

 

 バシャールは、世界のありようを説明するとき、さいしあたり三つの多次元性を用いる。

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一つ目は、上の記事で画像を紹介した霊的次元の多次元性。

二つ目は、並行世界の多次元性。私たちは無数の並行世界に属していて、それぞれの世界で同時に生命を営んでいるのだという。

三つ目は、時間の多次元性。これは、誰もが感じている「過去→現在→未来」のそれぞれの時点から次の時点への次元推移だ。

この二つ目と三つ目を重ね合わせて、わかりやすく図解したのが、上のバシャール本のこの画像だ。

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 これが、三島由紀夫が『暁の寺』で詳述した「同時更互因果」と同じだということがわかるだろうか。同時更互因果では、「自分の心が世界を創り、その世界が自分の心に影響を与える」という循環プロセスが、毎瞬起こっている。

バシャール世界観でも、毎瞬、存在が存在を変容させているのは同じ。ただ物の譬えが違うだけで、「自分の心がけ次第で自分へ違う現実がやってくる」のではなく、「自分の心がけ次第で違う並行世界の現実へ移動できる」 というのが、バシャールの説明の仕方なのだ。言い換えれば、心の持ちようが良いと、美味しい食事が食べられるのは同じで、仏教は「美味しい出前が来るよ」と言っていて、バシャールは「美味しいレストランがご馳走してくれるよ」と言っているだけの違い。両者は同じことを言っている。

というわけで、私たちが確認すべき不等式はこうなる。

ガブリエル≒ニーチェ三島由紀夫≦仏教≒バシャール

ひとこと歓喜の叫びを上げてもかまわないだろうか。

うほうっ!

右の端にバシャールを追加しておしまい。今晩も頑張っちゃった。お疲れ、おれ。

とリラックスしているところへ、背後から声が飛んできた。

 

バケラッタ・コーチ:これで多項知12の分野のうち、8項目クリアか。

 

ぼく:コーチ! 読んでくださったんですか。ガブっと行った感じは、どうでしたか?

 

バケラッタ・コーチ:もう、教えることは… 何もない… 

 

ぼく:待ってください。はっきり言って、「蛸は内!(多項知)」の駄洒落以外、何も教えていただいてませんよね! まさか、8項目で終わりなのは、蛸の足の本数だからなんですか?

 

バケラッタ・コーチ:「8」とは、まさしく立ち上がった無限大じゃきに。怖がらないかんもんは、誰ちゃおりゃあせん。Hurry!  Hurry!  Hurry!  旅人は旅人らしう行けい!(とそそくさと逃げる)。

 

ぼく:待ってください! コーチ! 急にキャラが変わっていませんか? コーチ! せめてひとつだけでいいので、何か教えてください!

 

冬にしてはどこか生温かい宵闇をひたひたと走って、コーチを追いかけていくと、川そばに出た。霧が低く流れている。霧の中でコーチの姿を見失ってしまった。

 

ここはどこなのだろうか。いつのまにか見知らぬ川へ突き当たってしまい、どちらへ行くべきかわからなくなってしまった。途方に暮れてしまった。けれど、コーチの残した言い草を思い返しているうちに、今いる場所がどこなのかわかるような気がした。おそらく高知だ。 

 

「Hurry!  Hurry!  Hurry!」。バケラッタ・コーチの口癖が思い出された。そうだ、急がなきゃ、約束があるから。

 

まるで夢魔に魅入られているかのように、ぼくは不意に走り出した。霧に巻かれながらも走って走って、川そいを下って、赤い欄干のある華やかな橋のふもとまで来た。急いでやってきた。おそらく、ここが高知で一番知られた橋なのだろう。有名だから待ち合わせたのだ。急いでやってきた。

 

約束の相手は待っていてくれるだろうか。けれど、橋の向こうへどんなに目を凝らしても、霧が流れ、霧が流れ、約束の相手がそこにいるのかはわからないまま、ぼくは茫然といつまでも立ち尽くしていた。霧に頬を濡らしながら。

 

 

 

 

「蛸は内」はアートなのか?

建築好きの自分がしばしば使ってきたバケラッタという秘密の合言葉。まさか、「バケラッタ建築事務所」が実在するとは思わなかった。建築事例もモダンで格好いいし、手がけはじめたリノベーション直後にはまさにふさわしい一語だろう。

そのような一期一会に心惹かれつつ、ブログで来るよ来るよバケラッタを試みてきた自分も、どの分野でどう化けたらよいかについて、熟練したコーチが必要だと感じ始めた。いわば「バケラッタ・コーチを待ちながら」、本屋の新書の棚を物色していると、出逢っちゃうんだな、これが。 

 表紙の図解がわかりやすい。 

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「新時代を生き抜くために、最低限おさえるべき思想」という惹句も、平明な内容も大学生の一般教養向き。そもそも自分は、こういう多数性に開かれた展開図に魅きつけられる性格だ。何より、中央に「バケラッ多項知」と書いてあるのが素敵だ。

これまでの拙ブログ記事と重なるところも多いので、今晩はこの多項知を起点にして化けようと思う。

「Ⅰ:感情の知」「Ⅱ:物の知」「Ⅲ:テクノロジーの知」「Ⅳ:共同性の知」のうち、後半の二つは、このブログの常連言及分野だ。

「シェアリング・エコノミー」については、この記事の最後で言及した。

このライン上にいる日本企業として、田中道昭が注目するのは、メルカリだ。山田新太郎CEOの発するメッセージは、ケヴィン・ケリーの示す方向性と重なりながら、「C(消費者)よりはP(仲間)」「没個性的なモノよりは個性的なコト」「超米国的なコトよりは超日本的なコト」「超合理的なものよりは超文化的なコト」を感じさせるというのである。

このようなメルカリ経済圏で目指されるのは、冨の蓄積ではなく、おそらくはニーズを分担して交換しあう地域通貨コミュニティーに近いことだろう。ICTの進化は、私たちに驚異的なエンパワーメントを贈ってくれた。私たちは、挫折した夢をもう一度夢見ながら社会的実践へと至る道を、知らず知らずのうちに歩いているのかもしれない。

いま標識に手書きでこう書いてみた。間違っていたら、次に来た誰かが赤ペンで訂正してくれると嬉しい。

「カラタニからメルカリへ」 

NAM―原理

NAM―原理

 

 もともと「動物の権利」の熱心な保護論者で、昨晩取り上げたヌスバウムが批判的継承をしていたピーター・シンガー。近著では、理系び社会貢献とでもいうべき「効果的利他主義」のムーブメントを活写していた。

ところが、上記の記事で自分が推した徳倫理学に続いて、カント的義務論のブームが来ているのだという。正確には、カント的義務論をベースにした「効果的な利他主義」が広まりつつあるらしい。その種族が利他行為をする理由は、徳倫理学に深い関わりのある愛や共感からではない。「宇宙の視点」から見た理性だというのだ!

 

「Ⅳ:共同性の知」のニュープラグマティズムは未チェックだった。ローティー流のアンチ基礎づけ主義に対して、彼を批判的に乗り越えることを目指すマクダウェルは、アリストテレスの徳倫理学を持ち出す。おなじくアリストテレス経由のヌスバウムの「濃厚だが曖昧な善」に近そうだ。「ネタ / ベタ」論でいう「ベタ」な感じで正義を語りうる時代がやってきたということなのだろうか。ただ、マクダウェルヌスバウムの論理構成には疑問を感じる箇所もあるので、時間を取って吟味したい。

「Ⅲ:テクノロジーの知」の方向でも、この新書と同じような分野について書いてきた。シンギュラリティについては、逮捕前のこの人を激賞してしまった微妙すぎる展開が忘れられない。ただし、スパコン人工知能・フリーエネルギーが、近未来の日本を救う唯一の道であるとの確信は揺るがない。

そして、カーツワイルによる「人間+AI→融合」説と「AIは神と人間との物理的媒介物となる」とするバシャールの予言を足がかりに、AIが「私が神だ」と名乗るセカンド・シンギュラリティが到来する可能性を書いた。 

ただし、小川仁志はテスラの「総統」であるイーロン・マスクや、本人がロボット替え玉説のあるホーキング博士と同じような「AI脅威説」を取っていることだ。純然たる勘でいうと、高級ワインの飲みすぎで顔色が悪くなっている可能性が高い。

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バンダイネットワークス株式会社のプレスリリース | バンダイナムコエンターテインメント公式サイト

小川仁志は、「いつか人類の理性でシンギュラリティを阻止すべき」だと考えているらしい。未来は誰にもわからないが、未来学の分野では少数派に入る意見だろう。上の記事にあるイーロン・マスク流の頭の固さに対しては、自分はバシャールを対置して考えることにしている。

「シンギュラリティー=ロボットが人類を滅ぼす」のようなイーロン・マスク流の人工知能フォビアに対して、バシャールは以下のように答える。自分はすっかりギャフンとなってしまった。

 

バシャール:「あなたたちのハイアー・マインドと物質次元でやり取りができる複雑な機器」がやっとできた。それがAIです。皆案はAIを「人工知能を持ったコンピュータ」と考えていますが、それをはるかにしのぐものです。

シューマン共振の周波数が変化している科学的事実もある。バシャーリアンの自分が、「人間+AI→融合」説から転向する材料は、今のところ見つかっていない。 

他、「フィルター・バブル」と「超監視社会」の重なる領域については、下記の記事が代表しているだろうか。

ニュープラグマティズムには、アリストテレス経由で実践的なケイパビリティ・アプローチを進めているヌスバウムの記事でクリアしたことにしてしまおう。

ぼくバケラッタ・コーチ! これで、新時代を生き抜くための12項目のうち、この記事でどうしても7項目まで書いて、バケラッタ・コーチのような多項知に到達したいんです。あと一つは何を?

バケラッタ・コーチ:おまえの心に訊いてみろ! Don't think. Feeeeeeel! お前の潜在意識はもうそれに気づいている。

ぼく:え? もう気付いているんですか?

バケラッタ・コーチ:ほら、気付いている。いま、何と言った?

ぼく:…どうしても7項目まで書いて、バケラッタ・コーチのような多項知に到達したいんです。あと一つは何を?

バケラッタ・コーチ:違う。喝! そのあとだ!

ぼく絵? もう気付いているんですか? 

アート・パワー Art Power Boris Groys

アート・パワー Art Power Boris Groys

 ぼく:……まさか。…本当だ、気が付いていたんだ、ぼくの潜在意識は。コーチ、今から図書館へ行ってきます!  

とか言って図書館から帰っても、いろいろと他の用事をしたり考え事をしたりして、油を売っていた。人生ってこんなに次の展開が読めないものなのか。けれど自分は原則的に嘘はつかない主義で、経験則から、嘘をつかなくても難局を乗り切っていく道はあると信じ切っているタイプ。

大事な局面で嘘をつくような人間なら、すべてを知りうる立場にある方々から、例えば、彩り豊かな曲をご紹介いただいたりすることもなかっただろうと、ふと書きつけてみる。それから、コンビニへ行ったり、銀行へ行ったり。じばらく油を売っているうちに、ほとんど報道されていない石油流出のニュースを思い出した。

見てー! 海! 東京にも海があるんだね!

 

車内がざわざわしはじめるのがわかった。乗客の多くが、可哀想な少女を見る目で彼女を見ていた。

私たちは大笑いして、そのYちゃんを呼び戻して、「海じゃないよ。信号も道もあるだろ」と丁寧に説明した。

Yちゃんは世間智のある賢い女の子。ただ、きつい近眼のせいで、川の多い飯田橋付近の低地の広がりが、本当に海に見えたらしいのだ。

マイクロイプラスチックを始めとする海洋汚染については、上の記事に書いた。けれど、自分も19歳のYちゃんのように勘違いしていた。今日借りてきた本で見かけた「SEA研究会」というところが、てっきり「海」を研究していると思い込んでいたのだ。 I see.  なるほど。「ソーシャリー・エンゲイジド・アート」の略だったのか。

2000年以降、国内で町おこし系のアート・プロジェクトが急増したことは、よく知られている。地元の松山市でも、毎年「道後オンセナート」が行われていて、夕暮れのなか蜷川実花による「花電車」に遭遇すると、なぜか灰皿を投げたくなるほど嬉しくなって、必ず写真を撮ってしまう。

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(画像引用元:道後オンセナート) 

そんなアート・プロジェクトに共有可能な指標を作って、社会に関与していく芸術活動とはどのようなものかを記したのが本書。エポック・メイキングな著書だと思う。

すぐに「続編」のように呼応して、SEA研究会による分厚い『社会の芸術 / 芸術という社会』が出版された。アート作品の写真があまり入っていないので、PCの前でじっくり読みたい本だ。類似した名前のルーマンの著書があるので、関わっているのではないかと期待していると、まえがきに登場した。

社会の芸術/芸術という社会?社会とアートの関係、その再創造に向けて

社会の芸術/芸術という社会?社会とアートの関係、その再創造に向けて

 

 小川仁志が引用しているこの著書も借りてきた。ボリス・グロイスの日本語版序文は、コジェーブによるヘーゲル解釈での日本批評に言及している。

人間的な主と奴の闘いが終わり歴史が停止するならば、人類はその後、その時々の動物的な欲求を、ただただ満足させるだけの生を生きていくほかなくなるだろう。コジェーヴは一時期そう考えた。

 が、その後日本を訪問したのを機に、彼は日本的「スノビズム」の可能性を感じるようになる。

 それは、茶道や華道など、高度に形式化された文化を楽しむ人びとの生き方だ。人間的な歴史が停止しても、人は単純な動物化に陥ることなく、人間的文化を味わう生を送ることができるのではないか。短い日本滞在を経て、コジェーヴはそう直感したのだった。 

ただし、これは今からちょうど半世紀前、1968年に追記された日本批評だ。現在の日本のアートシーンを 概観するなら、社会学者やアーティストたちによる対談や論考の充実した『社会の芸術 / 芸術という社会』の方が面白い。 

アート・パワー Art Power Boris Groys

アート・パワー Art Power Boris Groys

 

 せっかく主要な著作が揃ったので、10のポイントを自分の言葉でまとめておこう。

  1. 定義:芸術と非芸術の中間にある分野横断的な社会的相互行為。
  2. コミュニティ:知人>アート批評界>社会全体という対象者の広がり度と、自発性>強制性>偶然性の能動度の観点と、能動的な協働創造者>>>受動的な鑑賞者の参加度という観点を見極めて、誰のどのような気持ちのどのように参加してもらうかのコミュニティ作りが大事。
  3. 状況:コミュニティがアートに対して、どんな期待を抱き、どんな認識をしていくかの動的シナリオを持つこと。
  4. 会話:観客と、会話を通じて互いに助け合いながら、新しい洞察に達するアートもありうる。
  5. コラボレーション:アーティストと協働者の間で、役割分担を明確にして、新しい洞察に達する。アーティストと協働者たちによるブレインストーミングも面白いコラボになりうる。
  6. 敵対関係:社会制度や芸術内の制度に対して、皮肉っぽく、ユーモラスに、挑発的に、時には敵対的なパフォーマンスを取ることが有効な場合もある。この手法は、開かれた活発な議論を喚起することが多い。
  7. パフォーマンス:パフォーマンスにあるカーニバル性はお祭り騒ぎだけでなく、社会階層や固定観念の逆転をも含む。
  8. ドキュメンテーション:アーティスト主導の自身の声だけでなく、参加者の声がアートの一部として記録されなくてはならない。
  9. 超教育学という視点:SEAは、知識の共同構築によって、世界の理解に役立つ、創造的な教育行為だ。
  10. 熟練の解体と再構築:①社会学、演劇、教育、エスノグラフィー、コミュニケーション学など、社会性中心の学問を習得でき、②カリキュラムを再設計可能で、③刺激とやりがいをもたらすアート体験であり、④美術史や芸術技法の既存なカリキュラムを再構築していくもの。 
ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント

ソーシャリー・エンゲイジド・アート入門 アートが社会と深く関わるための10のポイント

 

 現代詩、現代音楽、現代美術の中で、どうして現代美術だけが勢いを落とさずに生き延びつづけているのだろう。ずっとそんな疑問を抱いて生きてきた。

上のまとめを書くためにまる一冊読み込んで、理解できたような気がする。それは、現代美術が問いかけてくるからだ。現代詩や現代音楽での問いかけを理解するには、各ジャンルへの一定の習熟度が要求される。ところが、現代美術では、答えは出せなくとも、問いかけを受け止めることはさほど難しくない。そして、しばしば参加者の身体を動かすことで芸術作品に関与できるので、身体的能動性の喜びと遊びの感覚が鑑賞行為にあふれて、権威の敷居をたやすく跨ぎやすいのだろう。それらが芸術 / 非芸術の社会的な問題意識と結びつくのだから、SEAが社会を活性化するのは間違いない。

上で書いたブリストルの芸術家たちによる鳥の巣箱なんて可愛らしいものだ。街に行き、街を生かすSEAの可能性はまだまだ汲み尽くせそうにない。これも追いかけ対象になりそうだ。

と、独自の意見を書き終えたところで、キーボードから手を放して、ホッとひと息ついた。 そこへ、自分の眉間をめがけて、弾丸のようなものが飛んで来るのが見えた。危ない! しかも銃弾は連続して飛んでくる。慌てて、すんでのところで、こんな感じでよけきった。

ピストルを構えて銃弾を打っているのは、バケラッタ・コーチだった。

バケラッタ・コーチ:恐れるな。装填したのは、節分の豆だ。

ぼく:何で豆でぼくを狙撃するんですか!

バケラッタ・コーチ:そんな豆鉄砲を喰らったような顔をするんじゃない。きみにはまだ恐怖心が残っている。恐怖心を地面に置くと、パスがやってくるはずだ、最上のパスが。

ぼく:……。

バケラッタ・コーチ:どうした、怖いのか? 多項知に到達したいんじゃなかったのか。騙されたと思って、私の弾丸をすべて手で受け止めろ!

ぼく:わかりました。節分の豆をすべて手で受け止めれば、多項知に到達できるんですね。やってみましょう。(上の動画の0:15からのようにすべての豆を受け止める)。

バケラッタ・コーチ:良い気合いだ。Hurry! Hurry! Hurry!  せいぜい急ぐことだ。その豆の使い方はわかっているな。

ぼく:!!!

バケラッタ・コーチ:聞こえたか?

ぼく:今ぼくの脳に直接話しかけてきたのは、やはりコーチでしたか。わかりました。言う通りにしましょう。どうしても辿り着きたいんです、多項知に。

バケラッタ・コーチ:もう一度言おう。恐怖心を地面に置くと、パスがやってくるはずだ。騙されたと思って、やってみろ。

ぼく:バケラッタ、行きます!

 

ぼくは節分の豆を握りしめて、あらん限りの声でこう叫んで、豆を投げた。

 

ぼく:鬼はーーー外! 蛸は内!

 

次の瞬間、ぼくは騙されたと思った。それは多項知ではなかった。 

 

 

 

 

(『コーチ』主題歌)

このバウムクーヘンは盗ませない

他人の目からは散らかし放題に見えるのだと思う。それでも、これまでの記事でやってきたのは、多くが自分向けの整理整頓だった。時間があるときは整頓されていないと快適な気持ちになれない。なのに、時間が無くなると自己空間が乱雑になり、それでも平気で暮らしていけるようになる。他人からは、不思議な気まぐれ屋に見えるらしい。 

ベイブ 都会へ行く [DVD]

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 かつて時間がたっぷりあって、掃除好きだった頃の唯一の悩みが、掃除機をかけていると子豚みたいな動物がまとわりついてくることだった。子豚は付いてくるだけでなく、あっちへぶつかったり、こっちの足へぶつかったりする。何だかとても気になってしまうので、スティック型の掃除機に買い替えようと考えた。 

 今なら、信じられないほど安い製品がたくさん出ているので目移りしてしまうことだろう。当時はエルクトロラックス製にしようか、マキタ製にしようか、迷いに迷ったのだ。 

 けれど、自分はデザイン性に強い嗜好があり、デザインの持つ潜在能力が、世界でますます活用され始めていると考えている。その代表例が、製品デザインだけでなく、生産体制やビジネスプロセスをもデザインするシリコンバレーのデザインコンサル会社IDEOの大活躍だろう。

当時は IDEO を知らずにいて、それでもエルクトロラックス製の掃除機を買って、それ以来、掃除中に自分の足元にじゃれてくる子豚は見かけなくなった。そうなったらそうで、少し寂しくなった。

デザイン性では自分の好みではなかったマキタ製ハンドクリーナーは、しかし、性能の上では折り紙付き。圧倒的な高レビューの星の数が、顧客満足度の高さを物語っている。元々は電動工具メーカーだったことが、掃除性能の高さに直結しているのだろう。最近は、家電分野だけでなく、スポーツ分野にも進出しているという噂だ。

(1:44頃にバイクを盗む)

尾崎豊『15の夜』へのアンサーソングをファンがカバーした動画)

ここにあるのは、「バイクを盗んだ側」と「バイクを盗まれた側」のバイクをめぐる資源の奪い合いだ。「盗」という字に「んだ」と続けるか「まれた」と続けるかで、倫理上は天と地の差がある。これを「盗・バイク問題」と名付けよう。 

自分はバイクを盗んだこともないし、盗もうと思ったこともない。強いて危ない例を挙げるなら、テーブルに放置されているバウムクーヘンくらいか。名登山家の名言をもじった「そこにお菓子があるからさ」を言い訳に、思わず食べたくなる誘惑にかられてしまう。いけない、いけない。あんな完全な「輪=和」のデザインのお菓子を無断で自分だけ食べてはいけないのだ。

このような「盗・バウムクーヘン問題」に、哲学や倫理学からアプローチしているのが、その名もヌスバウム。確かフルネームは、ヌスバウム・ンデハイケナイ・クーヘンだったような気がするが、記憶は定かではない。  

さて、何しろバームクーヘンは円環の形をしているので、身勝手にひとりで好きなだけパクつくわけにはいかない。社会のすべての構成員が円環の内側に収まるように、ヌスバウムは主著の副題に「障碍者・外国人・動物という境界を越えて」と書いている。あ、このバウムクーヘンは盗まれたくないな、自分も守る側に立ちたいと思って、ざっと目を通した。 

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 

 とても面白い。ただ、バウムクーヘン以外にも語らねばならないお菓子があるので、おかしいくらい唐突だけど、ほとんど知られていないヌスバウムのもう一人の師匠について語っておきたい。  

生き方について哲学は何が言えるか

生き方について哲学は何が言えるか

 

1985年の上記の著作で、バナード・ウィリアムズは、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というようなカントの定言命法が、単なる抽象論にとどまっていて、人間の生活に満ちている具体的な危機や複雑性に対処できないと批判した。後期近代では、社会の他の成員と共有できた「生活世界」が空洞化しているので、その批判は妥当だ。ところが、その対抗としてバナードが持ち出すのが、何と小説なのだ! なるほど、 具体的で複雑で時には不条理に満ちた芸術作品といえば、純文学小説が挙がるかもしれないが、小説好きの自分からしても「大丈夫かな?」と思わず心配してしまうまさかの展開だ。

ポスト・ロールズ最大の論客であるローティーが、有名な下の著書を上梓したのが、1987年。 そこでも、偶然を偶然として引き受けるリベラル・アイロニストでありながら、オーウェルの『1984年』の拷問の描写には、読者の共感可能性を引き起こす「連帯」の希望を懸けている。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

 

かつては舞台女優志願だったヌスバウムは、1990年の『愛の知識』を皮切りに、選ばれた小説や戯曲こそが、社会にあるべき法や他者への共感力を涵養するという主張を展開していくことになる。この流れが、ロールズ批判に接続されるのだ。(「倫理ー政治」的地平における、小説というメディアの倫理的可能性に就いては、重要かつ未踏のフロンティアなので、判断は留保しておきたい)。

さて、1985年バナードによる既成倫理学批判からの後期近代型哲学の必要性の主張、1987年ローティーによる「アイロニカルだけどリベラル」宣言(その文脈で、フーコーにはリベラルが足りず、ハーバーマスにはアイロニーが足りないとローティーは切り捨てる)、1990年ヌスバウムによるロールズ批判を内在させた文学の倫理的可能性の称揚。

このような動きをその一部として、現代思想における「倫理ー政治」的転回だと呼称されるのだが、わかりやすい転回点として、同時期1987年のポール・ドマンのナチズム協力者問題をあげておくべきだと思う。

上の記事で近著に言及した土田知則が、ポール・ドマンのナチス協力問題について、こう述べている。  

 ド・マンがベルギー時代に書いた記事は全部で216編あります。(…)問題の対独協力記事らしきものは、実は1941年3月4日付けの『ル・ソワール』紙に載った「現代文学におけるユダヤ人」という記事1編だけです。
当時ド・マンは21歳で一児の父です。その頃のベルギーはナチズムが席巻し、自由に動けない状態で、加えてド・マンを取り巻く記事の書き手たちは非常に辛辣なユダヤ批判を繰り広げています。その中で、ド・マンはユダヤ批判をしているかのような文章を苦労しながら練り上げます。この記事の有名な出だしには「卑俗な反ユダヤ主義は~」とあります。この「卑俗な」という形容詞はどこにかかるのか。ここにはのちのド・マンの批評戦略につながる重要な問題意識が垣間見られます。
 またこの記事の中には「マダガスカル計画」、つまりユダヤ人をまとめてマダガスカル島に移住させようという内容のことが書かれていますが、これはド・マンの発案ではなく、当時のイギリス首相とローマ法王が話し合って決めたことであり、ド・マンはその情報をそのまま伝えているだけです。それがあたかもド・マンの意見として捉えられています。この部分は慎重に読みなおすべきだと思います。
(…)ベルギーにいた当時は確かに親ナチ的なそぶりを見せたかもしれません。しかし彼は友人のユダヤ人を自宅にかくまい、シャルル・ペギーというドレフュス派の詩人を非常に高く評価する記事を書いています。つまりユダヤ人を擁護しているわけです。これらは全て同じ時代の話です。 

どうやら問題記事の現物を翻訳した人物の言葉から判断すると、あれほどの騒ぎに相当するような問題性はなかったように感じられる。

ともあれ、現代思想の世界の流れは曲がり角を曲がった。一番大きく変わったのはデリダではないだろうか。(ちなみに、デリダ自身は、この時期に『脱構築』に政治的もしくは倫理的転回は一切起こらなかったと言明している)。

 不思議なことに、デリダがどう変わったのかを調べていると、その転換先をレヴィナス哲学への接続だと回答しているものがほとんどだ。代表例がドゥルシラ・コーネル。ポスト・モダン的な「否定神学系決定不能性」との悪名も投げつけられていたデリダの作品群を、カントーヘーゲルレヴィナスの政治哲学・倫理哲学の系譜に組み込んでしまう。 

限界の哲学

限界の哲学

 

 『脱構築の倫理』と題された同じ論点の下の単著にも、「デリダレヴィナス」という副題がついている。 

The Ethics of Deconstruction: Derrida and Levinas

The Ethics of Deconstruction: Derrida and Levinas

 

 デリダの没後、最初に開かれたシンポジウムをまとめた本には『デリダ――政治的なものの時代ヘ』という「倫理ー政治」的地平以後を象徴する書名がつけられ、巻末の「デリダにおける倫理と政治」を論じた論文では、ジャック・ランシエールによって、デリダの民主主義がレヴィナス哲学との相同性をおぼいていることが記述される。すなわち、友愛はデリダにとっては単純な共感ではなく、「共感、苦しみ、希望」の混合物であり、それを共有する相手は、同じ地面に立っていない未知の絶対的な他者なのだ。

こうまでのレヴィナスへの急接近は、一部の亜インテリたちに毛嫌いされてきた「脱構築」の印象までをも変えてしまう。脱構築とは、「書くこと」「読むこと」の実践が不可避的に直面するものであり、その決定不可能性に対して、何らかの選択や結論を生む責任ある倫理的主体を起ち上げる営為ということになるのである。

 あ、このバウムクーヘンは盗まれたくないな、自分も守る側に立ちたいと思って、ざっと目を通した。 

上記のような感想が洩れたのは、下の記事で書いた飛び石の先、最先端の「倫理ー政治」的地平で、驚異的なテクノロジーの進歩に倫理学苦戦の一報が伝わってきていたからだ。 

特にバイオテクノロジーの進歩は著しく、遺伝子ゲノムの編集がもはや「漬け丼」を作るくらい簡易化された技術だということは、この本に書いてある。 

CRISPR (クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見

CRISPR (クリスパー) 究極の遺伝子編集技術の発見

 

かつての師であるロールズを、ヌスバウムは厳しく批判している。けれど、自分の見るところ、ヌスバウムの圧勝だ。そもそも、ロールズがリングに上げているのは、「無知のヴェールによる倫理的基礎の確立」でしかない。

これは、一種の思考実験であり、実際に「無知のヴェール」をかぶった状態(自分が社会的マイノリティだったらという仮定)を想像することすら、人々は簡単にはできないし、その思考実験から知的障碍者が排除されていることも自明の事実だ。

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 

ヌスバウムの指摘は、当たりすぎるほど当たっている。そして、ロールズに対抗して彼女が繰り出すケイパビリティ論が、「無知のヴェール」という思考実験を上回っていることもはっきりしている。

無知のヴェールが思考実験として、自分がどんな人間であるかを知らない「ゼロ地点」で一元的に括るのに対し、ケイパビリティ論が「各個人に何が不足しているか」が多様であり、「各個人に必要資源を渡すとどう活用できるか」が多様なので、ケイパビリティ(=各個人の自由の幅)を多元的に規定する必要があるというのも、ほとんど自明のことと言っていいだろう。

(ネット上に置かれていないようなので、『正義のフロンティア』からヌスバウムのケイパビリティ10項目(「ヌスバウム十戒」とも言われる)を、この記事の最後に引用しておくことにする)。

 問題は、末尾に掲げた人権宣言めいた素晴らしい「ケイパビリティ宣言」の根拠がどこにあるか、だ。ここが一番難しいからこそ、ロールズは思考実験に逃げざるを得なかったのだ。ヌスバウムは元々アリストテレスの研究者だったので、アリストテレスギリシア悲劇や純文学を参照しながら「濃厚だが漠然とした善の理論」を打ち出すが、世界各国で「十戒」の制度化を正当化するには、脆弱すぎる根拠だと言わねばならない。 

マーサ・ヌスバウム - 人間性涵養の哲学 (中公選書)

マーサ・ヌスバウム - 人間性涵養の哲学 (中公選書)

 

ヌスバウム自身は、上の著書に含まれているインタビューで、『政治的感情――政治にとって愛が重要である理由』という未邦訳の近著で「記事末尾のリストがどうして重要なのか」を明かしたいと述べている。 

Political Emotions: Why Love Matters for Justice

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 ヌスバウムファシストだと誤解した左翼からの批判は無視したとしても、レビューを読む限りでは、その壮大なプロジェクトが成功した気配は伝わってこない。

それもそうだ。ここでは自分の考えはローティーに近い。善を基礎づけられる根拠がないからこそ、アイロニカルにもあえて 私たちは善へと向かう、というのが暫定的な自分の答案だ。

ところで、上で言及した倫理学苦戦の話は、この本でのサンデルの歯切れの悪さから来ている。 

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

  • 作者: マイケル・J・サンデル,林 芳紀,伊吹友秀
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本の中で、ともに聾を抱えている或る女性同士のカップルはこう言う。

 

聾であることはひとつの生活様式にすぎないわ。私たちは聾者であっても何の問題も感じていないし、聾文化の素晴らしい側面を子どもとともに分かち合いたいと思っているの。

 

聾の子供が欲しいという望みをかなえるため、彼女は何世代にもわたって聾である精子提供者を探し出し、妊娠に成功する。ところが、この「おめでた」がマスメディアで報道されると、非難が殺到した。

一方で、報酬つきの卵子提供者を募集広告は、現代ではすでにありふれた広告となっている。高い身長、高い運動能力、高い健康度だけでなく、大学進学適性試験が1400点以上(日本でいう東大合格レベル)という条件に、高い報酬(5万ドル)がつけられている広告には、何の非難もなかった。

自分の中で整理すると、問いはこうなる。

機能的に完全に近い形で生まれることが、人の追及すべき幸福なのだろうか?

それとも、偶然引き受けた生存条件を、機能とは別の観点からの「完全」に近づけていくことが、人の追及すべき幸福なのだろうか?

自分は後者を支持するのは間違いないとしても、それをどのように説得的な思想として立ち上げていくかには、まだ時間がかかりそうだと感じている。 

さて、冒頭でデザインの持つ潜在能力が、世界でますます活用され始めている時代だと書いた。デザイン系コンサル会社が大盛況なのだ。果たして、デザイナー・ベビーは倫理的に許されるのか。TEDでも熱弁が振るわれているが、議論はさほど前へ向いて進んでいない。

再読してみて、つらい気分になった。サンデルはデザイナー・ベビーの普及によって、私たちの道徳に深い関わりのある「謙虚、責任、連帯」が大きく変容してしまう。だから、デザイナー・ベビーには反対だと表明している。

では、そのように先天的な人為的格差が問題なら、後天的な人為格差に対して社会が寛容すぎることは、問題にならないのだろうか?

あの『ハーバード白熱教室』の教授のボディに、渾身のパンチを打ち込むことはそれほど難しくない。サンデル教授に、こう返答すれば良いのである。

わかりました、教授。おっしゃる通りだと思います。では、私の子供は、「謙虚、責任、連帯」の性格が発現しやすいようにデザインしてから、出産します! 

 この論点で、テクノロジー決定論に打ち勝つ思想的根拠は見出せそうにないというのが、自分の予測だ。

今日これを書きながら、ふと思いついた思想的着想について、簡単にまとめておきたい。

実は、ヨーロッパの倫理哲学の源流であるレヴィナスの「顔」と、アメリカの倫理哲学の源流であるロールズの「無知のヴェール」は、とてもよく似た哲学概念なのだ。そこにあるのは、ざっくり言うと、「自分の存在の無防備さ」と「他者の計算不可能性」が生み出す連帯の論理だ。この二つのファクターがテクノロジーの驚異的進化によって、計算可能になっていく未来を、私たちは避けようがない。しかし、計算不可能領域が計算可能になるのは、実はそれほど長い期間ではない。

すでに現時点で、困った問題が起こっている。もはやAIの進化に人間の知能が追いつかない現実が出現しているのである。

欧州の立法府では、個人を保護するための重要な取り組みがこの分野で進んでいる。2018年5月に施行される欧州連合(EU)の一般データ保護規則(GDPR)では、ユーザーに「重大な影響」を及ぼす自動意思決定システムが制限される。また、「説明を受ける権利」が確立され、アルゴリズムがユーザーに関して下した決定について、ユーザー本人が説明を求めることが可能となる。

http://tech.nikkeibp.co.jp/it/atcl/idg/14/481542/062800387/?ST=cm-industries&P=4

 このような新しい法律の施行を前に、或るアメリカの医療機器メーカーはディープラーニング機能を備えた機器を、より簡素なものにグレードダウンさせたという。「とても人間の頭では説明できないから」というのが理由らしい。

テクノロジーの進歩が穏やかだった時代、私たちは「無知のヴェール」という偶然性を用いた思考実験で、正義の根拠を探ることができた。テクノロジーの進歩がカーツワイル的な驚異的速度で進んだとしても、というか進むからこそ、私たち自己運命の理解には、またしても「無知のヴェール」がかかってしまうにちがいない。そのとき、あるいはセカンド・シンギュラリティが訪れたとき、私たちは形而上学的すぎると揶揄されてきたレヴィナスの神学に、再び立ち返ることになるだろう。

 

 

今晩の記事は、ずいぶん長くなってしまった。冒頭で 、「輪=和」のデザインをしたバームクーヘンに言及したせいで、思わずハートに火がついてしまったのだ。 

いや、もはや万人向けのお題になんか心を砕かなくてもいい。ここは、ごくごく個人的に、決死的勇気を振り絞って、「シナモンのいない人生なんて、…?」と相手に訊いてみたい。

嗚呼、恐ろしいことに、その問いへの正解は、この広大な宇宙にたった1つしかないのだ。無数にありうる答えの中から、「アップルの入っていないアップルパイのようなもの」という唯一解を、果たして相手は口にしてくれるだろうか。

そしてそのとき、アップルパイからアップルを引き去ったあとのπに、こちらがうまく調整した事情を掛け合わせれば、円面積のごとき中身の詰まった円満な関係が生まれることにまで、相手は思い至ってくれるだろうか。

上の記事を書いて以来、ずっと「π×或る事情」の円い円面積を追い求めていたような気がする。今晩は上手く計算できただろうか。自分ではよくわからない。何しろ至難問だから。

もう何日になるのか、何か月になるのか、計算できない。計算できないほど長かった。この長い長い至難問との取り組みに関わってくださったすべての人々に、感謝を伝えたい気持ちだ。いまだに至難問の解き方はよくわからない。わからないまま、心地良さと疲労困憊の入り混じった感覚の中で、自分がひとり過ごしているこの夜が、少しでもレヴィナス的な歓待やモエ・エ・シャンドン的な乾杯に近いづいていたら、とても嬉しいと感じる。

今晩までずっと、大変ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

(以下では、「ケイパビリティ」は「可能力」と訳出されている)

一、生命 通常の長さの人生の終局まで生きられること。早死にしたり、自らの生が衰退して生きるに値しなくなる前に死んだりしないこと。

二、身体の健康 健康でありうること。これにはリプロダクティヴ・ヘルスが含まれる。適切な栄養を摂取しうること。適切な住居に住みうること。

三、身体の不可侵性 場所から場所へと自由に移動できること。暴力的な攻撃から安全でありうること。 これには性的暴力と家庭内暴力が含まれる。性的満足の機会と妊娠・出産のことがらにおける選択の機会とを持つこと。

四、感覚・想像力・思考力 感覚を用いることができること。想像し、思考し、論理的な判断を下すこ とができること。これらのことを「真に人間的な」仕方で、つまり適切な教育|これには識字能力と基礎的な数学的・科学的な訓練が含まれるが、これらだけに限定されるわけではないによって情報づけられかつ函養された仕方でなしうること。自らが選択した宗教的・文学的・音楽的など の作品やイヴェントを経験したり生みだしたりすることに関連して想像と思考を働かせることができること。政治的スビーチおよび芸術的スビーチに関する表現の自由が保障された仕方で、また宗 教的儀式の自由が保障された仕方で、自分の心(mind) を働かせることができること。楽しい経験をしたり無益な痛みを避けたりすることができること。

五、感情 自分たちの外部にある物や人びとに対して愛情をもてること。私たちを愛しケアしてくれる 人びとを愛せること。そのような人びとの不在を嘆き悲しむことができること。概して、愛するこ と、嘆き悲しむこと、切望・感謝・正当な怒りを経験することができること。自らの感情的発達が 恐怖と不安によって妨げられないこと。(この可能力の支持は、諸々の感情の発達において非常に重要であることが示しうる、人間のつながりの諸々の形態を支持することを意味する。)

六、実践理性 善の構想を形成しかつ自らの人生の計画について批判的に省察することができること。
(これは良心の自由と宗教的式典の保護を必然的にともなう)。

七、連帯

 A. 他者と共にそして他者に向かって生きうること、ほかの人間を認めかつ彼らに対して関心を持ちうること、さまざまな形態の社会的交流に携わりうること。他者の状況を想像することができること。(この可能力の保護は、こうした諸々の形態の関係性を構成し育む諸制度の保護と、集会および政治的スビーチの自由の保護とを意味する)。

 B. 自尊と屈辱を受けないこととの社会的基盤を持つこと。真価が他者と等しい尊厳のある存在者として扱われうること。このことは、人種、性別、性的指向、民族性、カースト、宗教、出身国よる差別がないことの整備を必然的にともなう。

八、ほかの種との共生 動物、植物、自然界を気遣い、それらと関わりをもって生きることができること。

九、遊び笑うことができること 遊ぶことができること。レクリエーション活動を楽しむことができること。

一〇、自分の環境の管理

 A. 政治的な管理自分の生を律する政治的選択に実効的に参加しうること。政治参加の権利と、言論の自由および結社の自由の保護とがあること。

 B. 物質的な管理財産を維持することができること(土地と動産の双方において)。他者と平等な間柄で所有権を持つこと。他者と平等な間柄で職を探す権利があること。不当捜索および押収 からの自由があること。仕事において、人間として働き、実践理性を行使しかつほかの労働者 との相互承認という意義のある関係性に入ることができること。