このバウムクーヘンは盗ませない

他人の目からは散らかし放題に見えるのだと思う。それでも、これまでの記事でやってきたのは、多くが自分向けの整理整頓だった。時間があるときは整頓されていないと快適な気持ちになれない。なのに、時間が無くなると自己空間が乱雑になり、それでも平気で暮らしていけるようになる。他人からは、不思議な気まぐれ屋に見えるらしい。 

ベイブ 都会へ行く [DVD]

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 かつて時間がたっぷりあって、掃除好きだった頃の唯一の悩みが、掃除機をかけていると子豚みたいな動物がまとわりついてくることだった。子豚は付いてくるだけでなく、あっちへぶつかったり、こっちの足へぶつかったりする。何だかとても気になってしまうので、スティック型の掃除機に買い替えようと考えた。 

 今なら、信じられないほど安い製品がたくさん出ているので目移りしてしまうことだろう。当時はエルクトロラックス製にしようか、マキタ製にしようか、迷いに迷ったのだ。 

 けれど、自分はデザイン性に強い嗜好があり、デザインの持つ潜在能力が、世界でますます活用され始めていると考えている。その代表例が、製品デザインだけでなく、生産体制やビジネスプロセスをもデザインするシリコンバレーのデザインコンサル会社IDEOの大活躍だろう。

当時は IDEO を知らずにいて、それでもエルクトロラックス製の掃除機を買って、それ以来、掃除中に自分の足元にじゃれてくる子豚は見かけなくなった。そうなったらそうで、少し寂しくなった。

デザイン性では自分の好みではなかったマキタ製ハンドクリーナーは、しかし、性能の上では折り紙付き。圧倒的な高レビューの星の数が、顧客満足度の高さを物語っている。元々は電動工具メーカーだったことが、掃除性能の高さに直結しているのだろう。最近は、家電分野だけでなく、スポーツ分野にも進出しているという噂だ。

(1:44頃にバイクを盗む)

尾崎豊『15の夜』へのアンサーソングをファンがカバーした動画)

ここにあるのは、「バイクを盗んだ側」と「バイクを盗まれた側」のバイクをめぐる資源の奪い合いだ。「盗」という字に「んだ」と続けるか「まれた」と続けるかで、倫理上は天と地の差がある。これを「盗・バイク問題」と名付けよう。 

自分はバイクを盗んだこともないし、盗もうと思ったこともない。強いて危ない例を挙げるなら、テーブルに放置されているバウムクーヘンくらいか。名登山家の名言をもじった「そこにお菓子があるからさ」を言い訳に、思わず食べたくなる誘惑にかられてしまう。いけない、いけない。あんな完全な「輪=和」のデザインのお菓子を無断で自分だけ食べてはいけないのだ。

このような「盗・バウムクーヘン問題」に、哲学や倫理学からアプローチしているのが、その名もヌスバウム。確かフルネームは、ヌスバウム・ンデハイケナイ・クーヘンだったような気がするが、記憶は定かではない。  

さて、何しろバームクーヘンは円環の形をしているので、身勝手にひとりで好きなだけパクつくわけにはいかない。社会のすべての構成員が円環の内側に収まるように、ヌスバウムは主著の副題に「障碍者・外国人・動物という境界を越えて」と書いている。あ、このバウムクーヘンは盗まれたくないな、自分も守る側に立ちたいと思って、ざっと目を通した。 

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 

 とても面白い。ただ、バウムクーヘン以外にも語らねばならないお菓子があるので、おかしいくらい唐突だけど、ほとんど知られていないヌスバウムのもう一人の師匠について語っておきたい。  

生き方について哲学は何が言えるか

生き方について哲学は何が言えるか

 

1985年の上記の著作で、バナード・ウィリアムズは、「汝の意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行為せよ」というようなカントの定言命法が、単なる抽象論にとどまっていて、人間の生活に満ちている具体的な危機や複雑性に対処できないと批判した。後期近代では、社会の他の成員と共有できた「生活世界」が空洞化しているので、その批判は妥当だ。ところが、その対抗としてバナードが持ち出すのが、何と小説なのだ! なるほど、 具体的で複雑で時には不条理に満ちた芸術作品といえば、純文学小説が挙がるかもしれないが、小説好きの自分からしても「大丈夫かな?」と思わず心配してしまうまさかの展開だ。

ポスト・ロールズ最大の論客であるローティーが、有名な下の著書を上梓したのが、1987年。 そこでも、偶然を偶然として引き受けるリベラル・アイロニストでありながら、オーウェルの『1984年』の拷問の描写には、読者の共感可能性を引き起こす「連帯」の希望を懸けている。

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

偶然性・アイロニー・連帯―リベラル・ユートピアの可能性

 

かつては舞台女優志願だったヌスバウムは、1990年の『愛の知識』を皮切りに、選ばれた小説や戯曲こそが、社会にあるべき法や他者への共感力を涵養するという主張を展開していくことになる。この流れが、ロールズ批判に接続されるのだ。(「倫理ー政治」的地平における、小説というメディアの倫理的可能性に就いては、重要かつ未踏のフロンティアなので、判断は留保しておきたい)。

さて、1985年バナードによる既成倫理学批判からの後期近代型哲学の必要性の主張、1987年ローティーによる「アイロニカルだけどリベラル」宣言(その文脈で、フーコーにはリベラルが足りず、ハーバーマスにはアイロニーが足りないとローティーは切り捨てる)、1990年ヌスバウムによるロールズ批判を内在させた文学の倫理的可能性の称揚。

このような動きをその一部として、現代思想における「倫理ー政治」的転回だと呼称されるのだが、わかりやすい転回点として、同時期1987年のポール・ドマンのナチズム協力者問題をあげておくべきだと思う。

上の記事で近著に言及した土田知則が、ポール・ドマンのナチス協力問題について、こう述べている。  

 ド・マンがベルギー時代に書いた記事は全部で216編あります。(…)問題の対独協力記事らしきものは、実は1941年3月4日付けの『ル・ソワール』紙に載った「現代文学におけるユダヤ人」という記事1編だけです。
当時ド・マンは21歳で一児の父です。その頃のベルギーはナチズムが席巻し、自由に動けない状態で、加えてド・マンを取り巻く記事の書き手たちは非常に辛辣なユダヤ批判を繰り広げています。その中で、ド・マンはユダヤ批判をしているかのような文章を苦労しながら練り上げます。この記事の有名な出だしには「卑俗な反ユダヤ主義は~」とあります。この「卑俗な」という形容詞はどこにかかるのか。ここにはのちのド・マンの批評戦略につながる重要な問題意識が垣間見られます。
 またこの記事の中には「マダガスカル計画」、つまりユダヤ人をまとめてマダガスカル島に移住させようという内容のことが書かれていますが、これはド・マンの発案ではなく、当時のイギリス首相とローマ法王が話し合って決めたことであり、ド・マンはその情報をそのまま伝えているだけです。それがあたかもド・マンの意見として捉えられています。この部分は慎重に読みなおすべきだと思います。
(…)ベルギーにいた当時は確かに親ナチ的なそぶりを見せたかもしれません。しかし彼は友人のユダヤ人を自宅にかくまい、シャルル・ペギーというドレフュス派の詩人を非常に高く評価する記事を書いています。つまりユダヤ人を擁護しているわけです。これらは全て同じ時代の話です。 

どうやら問題記事の現物を翻訳した人物の言葉から判断すると、あれほどの騒ぎに相当するような問題性はなかったように感じられる。

ともあれ、現代思想の世界の流れは曲がり角を曲がった。一番大きく変わったのはデリダではないだろうか。(ちなみに、デリダ自身は、この時期に『脱構築』に政治的もしくは倫理的転回は一切起こらなかったと言明している)。

 不思議なことに、デリダがどう変わったのかを調べていると、その転換先をレヴィナス哲学への接続だと回答しているものがほとんどだ。代表例がドゥルシラ・コーネル。ポスト・モダン的な「否定神学系決定不能性」との悪名も投げつけられていたデリダの作品群を、カントーヘーゲルレヴィナスの政治哲学・倫理哲学の系譜に組み込んでしまう。 

限界の哲学

限界の哲学

 

 『脱構築の倫理』と題された同じ論点の下の単著にも、「デリダレヴィナス」という副題がついている。 

The Ethics of Deconstruction: Derrida and Levinas

The Ethics of Deconstruction: Derrida and Levinas

 

 デリダの没後、最初に開かれたシンポジウムをまとめた本には『デリダ――政治的なものの時代ヘ』という「倫理ー政治」的地平以後を象徴する書名がつけられ、巻末の「デリダにおける倫理と政治」を論じた論文では、ジャック・ランシエールによって、デリダの民主主義がレヴィナス哲学との相同性をおぼいていることが記述される。すなわち、友愛はデリダにとっては単純な共感ではなく、「共感、苦しみ、希望」の混合物であり、それを共有する相手は、同じ地面に立っていない未知の絶対的な他者なのだ。

こうまでのレヴィナスへの急接近は、一部の亜インテリたちに毛嫌いされてきた「脱構築」の印象までをも変えてしまう。脱構築とは、「書くこと」「読むこと」の実践が不可避的に直面するものであり、その決定不可能性に対して、何らかの選択や結論を生む責任ある倫理的主体を起ち上げる営為ということになるのである。

 あ、このバウムクーヘンは盗まれたくないな、自分も守る側に立ちたいと思って、ざっと目を通した。 

上記のような感想が洩れたのは、下の記事で書いた飛び石の先、最先端の「倫理ー政治」的地平で、驚異的なテクノロジーの進歩に倫理学苦戦の一報が伝わってきていたからだ。 

特にバイオテクノロジーの進歩は著しく、遺伝子ゲノムの編集がもはや「漬け丼」を作るくらい簡易化された技術だということは、この本に書いてある。 

CRISPR (クリスパー)  究極の遺伝子編集技術の発見

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かつての師であるロールズを、ヌスバウムは厳しく批判している。けれど、自分の見るところ、ヌスバウムの圧勝だ。そもそも、ロールズがリングに上げているのは、「無知のヴェールによる倫理的基礎の確立」でしかない。

これは、一種の思考実験であり、実際に「無知のヴェール」をかぶった状態(自分が社会的マイノリティだったらという仮定)を想像することすら、人々は簡単にはできないし、その思考実験から知的障碍者が排除されていることも自明の事実だ。

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

正義のフロンティア: 障碍者・外国人・動物という境界を越えて (サピエンティア)

 

ヌスバウムの指摘は、当たりすぎるほど当たっている。そして、ロールズに対抗して彼女が繰り出すケイパビリティ論が、「無知のヴェール」という思考実験を上回っていることもはっきりしている。

無知のヴェールが思考実験として、自分がどんな人間であるかを知らない「ゼロ地点」で一元的に括るのに対し、ケイパビリティ論が「各個人に何が不足しているか」が多様であり、「各個人に必要資源を渡すとどう活用できるか」が多様なので、ケイパビリティ(=各個人の自由の幅)を多元的に規定する必要があるというのも、ほとんど自明のことと言っていいだろう。

(ネット上に置かれていないようなので、『正義のフロンティア』からヌスバウムのケイパビリティ10項目(「ヌスバウム十戒」とも言われる)を、この記事の最後に引用しておくことにする)。

 問題は、末尾に掲げた人権宣言めいた素晴らしい「ケイパビリティ宣言」の根拠がどこにあるか、だ。ここが一番難しいからこそ、ロールズは思考実験に逃げざるを得なかったのだ。ヌスバウムは元々アリストテレスの研究者だったので、アリストテレスギリシア悲劇や純文学を参照しながら「濃厚だが漠然とした善の理論」を打ち出すが、世界各国で「十戒」の制度化を正当化するには、脆弱すぎる根拠だと言わねばならない。 

マーサ・ヌスバウム - 人間性涵養の哲学 (中公選書)

マーサ・ヌスバウム - 人間性涵養の哲学 (中公選書)

 

ヌスバウム自身は、上の著書に含まれているインタビューで、『政治的感情――政治にとって愛が重要である理由』という未邦訳の近著で「記事末尾のリストがどうして重要なのか」を明かしたいと述べている。 

Political Emotions: Why Love Matters for Justice

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 ヌスバウムファシストだと誤解した左翼からの批判は無視したとしても、レビューを読む限りでは、その壮大なプロジェクトが成功した気配は伝わってこない。

それもそうだ。ここでは自分の考えはローティーに近い。善を基礎づけられる根拠がないからこそ、アイロニカルにもあえて 私たちは善へと向かう、というのが暫定的な自分の答案だ。

ところで、上で言及した倫理学苦戦の話は、この本でのサンデルの歯切れの悪さから来ている。 

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

完全な人間を目指さなくてもよい理由?遺伝子操作とエンハンスメントの倫理?

  • 作者: マイケル・J・サンデル,林 芳紀,伊吹友秀
  • 出版社/メーカー: ナカニシヤ出版
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本の中で、ともに聾を抱えている或る女性同士のカップルはこう言う。

 

聾であることはひとつの生活様式にすぎないわ。私たちは聾者であっても何の問題も感じていないし、聾文化の素晴らしい側面を子どもとともに分かち合いたいと思っているの。

 

聾の子供が欲しいという望みをかなえるため、彼女は何世代にもわたって聾である精子提供者を探し出し、妊娠に成功する。ところが、この「おめでた」がマスメディアで報道されると、非難が殺到した。

一方で、報酬つきの卵子提供者を募集広告は、現代ではすでにありふれた広告となっている。高い身長、高い運動能力、高い健康度だけでなく、大学進学適性試験が1400点以上(日本でいう東大合格レベル)という条件に、高い報酬(5万ドル)がつけられている広告には、何の非難もなかった。

自分の中で整理すると、問いはこうなる。

機能的に完全に近い形で生まれることが、人の追及すべき幸福なのだろうか?

それとも、偶然引き受けた生存条件を、機能とは別の観点からの「完全」に近づけていくことが、人の追及すべき幸福なのだろうか?

自分は後者を支持するのは間違いないとしても、それをどのように説得的な思想として立ち上げていくかには、まだ時間がかかりそうだと感じている。 

さて、冒頭でデザインの持つ潜在能力が、世界でますます活用され始めている時代だと書いた。デザイン系コンサル会社が大盛況なのだ。果たして、デザイナー・ベビーは倫理的に許されるのか。TEDでも熱弁が振るわれているが、議論はさほど前へ向いて進んでいない。

再読してみて、つらい気分になった。サンデルはデザイナー・ベビーの普及によって、私たちの道徳に深い関わりのある「謙虚、責任、連帯」が大きく変容してしまう。だから、デザイナー・ベビーには反対だと表明している。

では、そのように先天的な人為的格差が問題なら、後天的な人為格差に対して社会が寛容すぎることは、問題にならないのだろうか?

あの『ハーバード白熱教室』の教授のボディに、渾身のパンチを打ち込むことはそれほど難しくない。サンデル教授に、こう返答すれば良いのである。

わかりました、教授。おっしゃる通りだと思います。では、私の子供は、「謙虚、責任、連帯」の性格が発現しやすいようにデザインしてから、出産します! 

 この論点で、テクノロジー決定論に打ち勝つ思想的根拠は見出せそうにないというのが、自分の予測だ。

今日これを書きながら、ふと思いついた思想的着想について、簡単にまとめておきたい。

実は、ヨーロッパの倫理哲学の源流であるレヴィナスの「顔」と、アメリカの倫理哲学の源流であるロールズの「無知のヴェール」は、とてもよく似た哲学概念なのだ。そこにあるのは、ざっくり言うと、「自分の存在の無防備さ」と「他者の計算不可能性」が生み出す連帯の論理だ。この二つのファクターがテクノロジーの驚異的進化によって、計算可能になっていく未来を、私たちは避けようがない。しかし、計算不可能領域が計算可能になるのは、実はそれほど長い期間ではない。

すでに現時点で、困った問題が起こっている。もはやAIの進化に人間の知能が追いつかない現実が出現しているのである。

欧州の立法府では、個人を保護するための重要な取り組みがこの分野で進んでいる。2018年5月に施行される欧州連合(EU)の一般データ保護規則(GDPR)では、ユーザーに「重大な影響」を及ぼす自動意思決定システムが制限される。また、「説明を受ける権利」が確立され、アルゴリズムがユーザーに関して下した決定について、ユーザー本人が説明を求めることが可能となる。

http://tech.nikkeibp.co.jp/it/atcl/idg/14/481542/062800387/?ST=cm-industries&P=4

 このような新しい法律の施行を前に、或るアメリカの医療機器メーカーはディープラーニング機能を備えた機器を、より簡素なものにグレードダウンさせたという。「とても人間の頭では説明できないから」というのが理由らしい。

テクノロジーの進歩が穏やかだった時代、私たちは「無知のヴェール」という偶然性を用いた思考実験で、正義の根拠を探ることができた。テクノロジーの進歩がカーツワイル的な驚異的速度で進んだとしても、というか進むからこそ、私たち自己運命の理解には、またしても「無知のヴェール」がかかってしまうにちがいない。そのとき、あるいはセカンド・シンギュラリティが訪れたとき、私たちは形而上学的すぎると揶揄されてきたレヴィナスの神学に、再び立ち返ることになるだろう。

 

 

今晩の記事は、ずいぶん長くなってしまった。冒頭で 、「輪=和」のデザインをしたバームクーヘンに言及したせいで、思わずハートに火がついてしまったのだ。 

いや、もはや万人向けのお題になんか心を砕かなくてもいい。ここは、ごくごく個人的に、決死的勇気を振り絞って、「シナモンのいない人生なんて、…?」と相手に訊いてみたい。

嗚呼、恐ろしいことに、その問いへの正解は、この広大な宇宙にたった1つしかないのだ。無数にありうる答えの中から、「アップルの入っていないアップルパイのようなもの」という唯一解を、果たして相手は口にしてくれるだろうか。

そしてそのとき、アップルパイからアップルを引き去ったあとのπに、こちらがうまく調整した事情を掛け合わせれば、円面積のごとき中身の詰まった円満な関係が生まれることにまで、相手は思い至ってくれるだろうか。

上の記事を書いて以来、ずっと「π×或る事情」の円い円面積を追い求めていたような気がする。今晩は上手く計算できただろうか。自分ではよくわからない。何しろ至難問だから。

もう何日になるのか、何か月になるのか、計算できない。計算できないほど長かった。この長い長い至難問との取り組みに関わってくださったすべての人々に、感謝を伝えたい気持ちだ。いまだに至難問の解き方はよくわからない。わからないまま、心地良さと疲労困憊の入り混じった感覚の中で、自分がひとり過ごしているこの夜が、少しでもレヴィナス的な歓待やモエ・エ・シャンドン的な乾杯に近いづいていたら、とても嬉しいと感じる。

今晩までずっと、大変ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

(以下では、「ケイパビリティ」は「可能力」と訳出されている)

一、生命 通常の長さの人生の終局まで生きられること。早死にしたり、自らの生が衰退して生きるに値しなくなる前に死んだりしないこと。

二、身体の健康 健康でありうること。これにはリプロダクティヴ・ヘルスが含まれる。適切な栄養を摂取しうること。適切な住居に住みうること。

三、身体の不可侵性 場所から場所へと自由に移動できること。暴力的な攻撃から安全でありうること。 これには性的暴力と家庭内暴力が含まれる。性的満足の機会と妊娠・出産のことがらにおける選択の機会とを持つこと。

四、感覚・想像力・思考力 感覚を用いることができること。想像し、思考し、論理的な判断を下すこ とができること。これらのことを「真に人間的な」仕方で、つまり適切な教育|これには識字能力と基礎的な数学的・科学的な訓練が含まれるが、これらだけに限定されるわけではないによって情報づけられかつ函養された仕方でなしうること。自らが選択した宗教的・文学的・音楽的など の作品やイヴェントを経験したり生みだしたりすることに関連して想像と思考を働かせることができること。政治的スビーチおよび芸術的スビーチに関する表現の自由が保障された仕方で、また宗 教的儀式の自由が保障された仕方で、自分の心(mind) を働かせることができること。楽しい経験をしたり無益な痛みを避けたりすることができること。

五、感情 自分たちの外部にある物や人びとに対して愛情をもてること。私たちを愛しケアしてくれる 人びとを愛せること。そのような人びとの不在を嘆き悲しむことができること。概して、愛するこ と、嘆き悲しむこと、切望・感謝・正当な怒りを経験することができること。自らの感情的発達が 恐怖と不安によって妨げられないこと。(この可能力の支持は、諸々の感情の発達において非常に重要であることが示しうる、人間のつながりの諸々の形態を支持することを意味する。)

六、実践理性 善の構想を形成しかつ自らの人生の計画について批判的に省察することができること。
(これは良心の自由と宗教的式典の保護を必然的にともなう)。

七、連帯

 A. 他者と共にそして他者に向かって生きうること、ほかの人間を認めかつ彼らに対して関心を持ちうること、さまざまな形態の社会的交流に携わりうること。他者の状況を想像することができること。(この可能力の保護は、こうした諸々の形態の関係性を構成し育む諸制度の保護と、集会および政治的スビーチの自由の保護とを意味する)。

 B. 自尊と屈辱を受けないこととの社会的基盤を持つこと。真価が他者と等しい尊厳のある存在者として扱われうること。このことは、人種、性別、性的指向、民族性、カースト、宗教、出身国よる差別がないことの整備を必然的にともなう。

八、ほかの種との共生 動物、植物、自然界を気遣い、それらと関わりをもって生きることができること。

九、遊び笑うことができること 遊ぶことができること。レクリエーション活動を楽しむことができること。

一〇、自分の環境の管理

 A. 政治的な管理自分の生を律する政治的選択に実効的に参加しうること。政治参加の権利と、言論の自由および結社の自由の保護とがあること。

 B. 物質的な管理財産を維持することができること(土地と動産の双方において)。他者と平等な間柄で所有権を持つこと。他者と平等な間柄で職を探す権利があること。不当捜索および押収 からの自由があること。仕事において、人間として働き、実践理性を行使しかつほかの労働者 との相互承認という意義のある関係性に入ることができること。