見るまえに跳べ

(2019.8.8.注: 難局にある純文学について、「純文学作家ならこれくらいのことは考えていますよね?」と挨拶代わりの難題提示(①)、そのあと「純文学の可能性の中心」が①の尖鋭化と多メディア横断(②)の二つにあるというマッピングの下で、自分は②へ跳躍するだろうという予測を示している。約2年後のご現在、予測通りになったことがわかる。純文学愛好家向けの文章)。

 

小説を書くのが好きな人間としては、そっちは文芸評論家が仕事をしてくれていたらと思うこともたびたびなのだが、自分の関心領野なら自分の足で歩くべきなのも一片の真理だろう。たとえそれが孤独な道行きだったとしても。

構造主義に対するポスト構造主義の関係がそうであるように、近代に対するポストモダンの関係は補完的なものなので、「post(≒after)」という語がイメージするヘーゲル的な継起的乗り越えを想定すべきではない。前近代、近代、ポストモダンは、それぞれが世界をまだらに覆っている色相だとイメージすれば、話が速くなる。

となれば問題系として浮上するのは、近代が不可避的に抱えるアポリアを見極め、そのアポリアに小説がどう取り組んでいるのかの検証になるはずだが、それらしいことが本になっているのをついぞ見かけない。検索しても無関係情報の砂漠だ。

ポストモダン思想の勃興以前に、「近代の限界」は幾度も批判的論考が重ねられてきたが、最初の外延、つまり近代哲学の父デカルトの2つの限界と同一視しながら考えてみるとわかりやすいのではないだろうか。

1つ目は、「我思う、ゆえに我あり」のコギトの限界。アリストテレス以来、第一哲学だった存在論を無視する形で、デカルトはコギトの自明性を基礎にして認識論へ傾斜していったが、コギトの「我あり」とそれ以前に出現している意識(意識は常に何者かの行為物)との峻別を怠った。その曖昧さが20世紀のハイデガーの「存在論的差異」を生む。

2つ目は、世界は私たちが観念的に知覚しうる現象にすぎないとして、観念論+機械論的立場に立って、デカルトがその諸現象を数学的な合理主義で整合的に説明しようとしたこと。

その合理的知性の支配範囲が広がれば広がるほど、それ自身が切り捨てたはずの「神」に似てしまう自己矛盾に、カントは独創的な解決を与えた。人間の合理的知性に限界線を引き、その先を(超越論的な)「物自体」と呼んで、人間の知りえない領域としたのである。

1つ目のコギト以前の意識と、2つ目のカント的な超越論的なものは繋がっているというのが私見だ。

さて本題に戻って、この2つの近代の限界に文学はどのように取り組んでいるのか。

壮大な近代の話に文学を接合すると、急に話が小さくなってしまうが、1つ目の近代の限界に関する誘導問題が「①私が私を書くとき、書かれる私が他者になってしまうのはどうしてなのか?」で、その先にある発展問題が「②エクリチュールの現場で書いている私は、私ではなく他者なのではないだろうか?」だろう。

2つ目の近代の限界に関する誘導問題が「③レクチュールの現場で読んでいる時の私も、私ではなく他者なのではないだろうか?」で、発展問題が「④小説や詩に唯物論的な接触をしても尚、それらがエロスや快楽を感じさせることがあるのはなぜだろう?」だろう。

これらすべての問いも、不可知とされている或る領域と繋がっているというのが私見。ただし、ここでは自分の答案は披露しない。

代わりに、別の観点から近代文学にささやかなお見舞い状を。

このエントリ自体は、美術思潮のモダニズムについての討議の中で、「近代独特のアポリアに無自覚である芸術家は許容できない。これについては反動的な立場を取る」と「文化英雄」が述べていたのを思い出して、書き始めたもの。

いまだに彼に思考を支配されているわけではなく、そういう反動的な立場を取ってまでも、或る種の思考 / 試行を擁護したいと思う気持ちがよくわかる、という程度に自分が年を取ってしまったという単純な話だ。

英雄ではないので引き続き単純な話しか書けないが、或る種の思考とはメディウム・スペシフィックな観点からの思考のこと。小説に応用していえば、なぜこの時代にこの国で小説を書くのかという原初的な問いを引き受けることを指す。

グーテンベルク銀河系の終焉―新しいコミュニケーションのすがた (叢書・ウニベルシタス)

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 キットラーと並ぶ世界的なメディア論者のノルベルト・ボルツは、刺激的な書名で「文学たち」の安住の地が「終焉」すると挑発している。先頃「近代文学の終わり」が宣告されたとも聞くが、「終わり」の最大の理由は表現物の他メディア移行であるにちがいない。ネット上に氾濫する夥しい「私小説」の群れ、他メディアへの夥しい才能の流出、文学を支えるべき下部構造たる「資本」の弱体化… 

近代文学の終り―柄谷行人の現在

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このような文学を取り巻くメディア状況にまなざしを一巡させた後、再びメディウム・スペシフィックという概念に立ち戻ったとき、「ボルヘス再び」を合言葉に「小説という媒体にしかできないこと」へと尖鋭化していく方向には、敬意を払いつつも、多くの賭金を置くのをためらう自分がいる。

ボルツがドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』をハイパーテクストで書かれた最初の哲学書の古典と絶賛しているので、ドゥルーズ風に言おう。純文学的書物というメディアが求めるものと、隣接メディアへが欲望するものとへ、同時に誘惑されうる接続機械に擬態すること。ひとことで言えば、小説が「純文学らしくかつfilomogenicであること」。それを企図するのはそれほど難しくないし、衰弱している純文学が生の飛躍(エラン・ヴィタール)を踏み切る方向は、そちらしかないように思われる。

もう一段階段を昇ったところから言うと、純文学であれ何であれ、一定以上の強度を持った欲望なら、自らを変貌させつつ或るメディアから他メディアへ飛躍することは難しくない。待たれているのは、「見るまえに跳べ」的強度の命がけの跳躍。それだけだろう。