魂込めたパスをつなごう

中学校までサッカーをしていた。その総決算ともなるべき中3の最後の大会を、私は或る大学病院の病室で迎えた。思えば、生徒会長としての激務や、反抗期で衝突続きだった父親との軋轢が、難病発病の要因だったのかもしれない。試合当日、レギュラー番号のついたユニフォームを着てベッドに横たわっていた自分に、代わる代わる看護師さんたちが励ましに来てくれた。いつかきっと良くなるからね。その言葉通り、自分は数か月で退院できたが、生きて出られなかった子供たちがたくさんいた野を、いつになっても忘れられない。

足技はそれほど巧みではなかったが、人並みより少し脚が長かったこともあって、コーナーキックは自分が蹴ることになっていた。蹴った瞬間、ペナルティエリアに蝟集している少年たちの頭上の空中を、ボールがゆっくりと弧を描いて飛んでいくスローモーション映像を、今でも時々夢に見る。

ボール捌き技術の自己顕示を生みがちな少年サッカーはともかく、プロフェッショナルなサッカーでは、得点プロセスを生み出すために重要なのは、「スペースを生み出す動き」だ。自分が得点可能性の高いゾーンからあえて外れたとしても、仲間の誰かのためにスペースを空けて、そこへ仲間を走り込ませ、決定的な勝機を創り出す空間と時間を与える。雌ライオンの群れが狩りをするときのような集団的コンビネーションが読めるようになると、サッカー観戦はますます面白くなる。

私の頭の中で動いている或るサッカーの試合展開を描き出してみたい。

この試合で「ゴールキーパー」を務めているのは宮崎駿。アニメ制作のプロセスから手作業のセル画描きを決して外さない宮崎駿は、その理由の一端を、どこかで「里山の自然の記憶を子供たちに残したいから」と語っていた。完全にCG化して自然を描けば、何かが失われると考えているらしい。哲学でいえば、ライプニッツに近いのかもしれない。宮崎駿が、デカルト以降の機械論的自然観では割り切れない残余を感じているのは確かで、典型的な生気論ではないものの、『となりのトトロ』を始め、アニミズム的な自然観とアニメーションが交差するところで生まれた作品が数多くある。それらが、子供を含めた幅広い年齢層の国民に受け入れられていることを考えると、宮崎映画を、日本の自然を描いた国民的「記憶遺産」と称えても過言ではないだろう。細田守おおかみこどもの雨と雪』は、そのフォロワーとなろうとしているのかもしれない。

里山の自然の記憶を子供たちに残したい」というゴールキーパーからのボールは、しかし、フィールドの味方プレーヤーのいない場所へ落ちてしまった。

本来ならば、そのトップ下のポジションには、吉川元忠がいたはずだ。彼はケガでピッチの外へ出ている。大変残念なことに、この試合にはもう戻ってこられないかもしれない。

昨晩、当時評判になった吉川元忠の『マネー敗戦』の続編である『マネー敗戦の政治経済学』を初めて読んで、何だかしんみりとしてしまった。ちなみに、書名の「政治経済学」とは「経済学の政治性」を表している。 

しかしノーベル経済学賞自体に大きな問題があろう。そもそも経済学は、自然科学、工学などのように「客観的科学」なのか、または文学のように「主観的なもの」なのか本来はっきりしないのである。にもかかわらず、客観性を持つように振る舞うところに最大の問題がある。しかし新古典派において典型的であるが、かつてK・マンハイムが述べたように(『イデオロギーユートピア』)、認識とはそもそもそれぞれの存在条件に縛られていることからすれば、それを言わないこと自体イデオロギー的であることに注意しないわけにはいかない。こうしたなかで「客観性」を前提としてノーベル経済学賞の授賞が行われている。しかしこれはスウェーデ ン銀行協会が創設した、元々ノーベルの遺志にはなかった賞である。ノーベルの遺族は経済学賞に批判的であり、「スウェーデン銀行協会賞」とすべきだと主張している。

自分もこのブログで「ノーベル経済学賞を『ヌーベル中央銀行賞』とリネームせよ」と主張したので、きっとこのブログを読んでいてくれるにちがいない、なんて軽口を叩く気にもなれなかった。9.11同時多発テロが inside job であることには気づいていたものの、自分が本格的に「覚醒」したのは2014年頃のこと。その10年以上前から、敗戦つづきの日本で孤軍奮闘していた経済学者を、私たちは2005年に胆管癌で失ってしまったのだった。この一冊からだけでも、主流メディアではほとんどお目にかかることのない貴重な指摘が、数多くある。

([引用者注] 失業保険を拡充させるために)その国庫という場合も必ずしも一般財政ということではなく、政府=日銀が外貨準備として保有する米国国債の活用が考えられないかということである。その方法は不良債権処理の項目で述べたようなことだが、ともかく保有している米国国債が肝心の日本国民の非常事態をいささかなりとも緩和してこそ大債権国だと言えるだろう。 

マネー敗戦の政治経済学

マネー敗戦の政治経済学

 

 吉川元忠は、ドイツのリストに始まった国民経済学がケインズを生み、現在の「ヌーベル中央銀行賞」の牙城である新古典派に対抗するために、彼が体系的な「ケインズ経済学」を確立せねばならなかったと説明する。それほどまでに新古典派の「呪縛」は強かったのだと。
そして、日本の経済学者が歩むべき道として、国家が当然なすべき国益追求型「国民経済学」を提唱して、このように本書を閉じている。

国民経済の理論的基礎を提供するものとして、国民経済学に課された役割も大きい。単に反グローバリズムという消極的なものではなく、積極的な、前向きのメッセージの発信が必要であろう。経済はグローバル化しているが、グローバリズムは一つのイデオロギーであるから、これに対抗すべく、隣接社会科学を採り入れた「統合の学」としての国民経済学を構築する必要があろう。

反グローバリズムより「積極的なメッセージ」を持った国民経済学? これを昨晩読んだときは当惑した。どうしてそれを教えてくれないのか、とも思った。しかし、彼はもうピッチ上にはいない。途方に暮れていると、両利きの足で、右サイドでも左サイドでも超絶技巧で相手を翻弄する日本最強のフォワードが、アマチュアの少年サッカー向けに書いた啓蒙書の終章が、ふと思い出された。きわめて重要なことが書いてあるので、長く引用する。

日本の難点 (幻冬舎新書)

日本の難点 (幻冬舎新書)

 

 市民が、想像の共同体である国家に直接コミットするということは、社会学的にはあり得ません。どんな社会も、人々を「みんな」に向けて動員する伝統的な装置を持ちますが、それを有効に利用することを通じて、最終的に国民国家としての動員を達成するに過ぎません。これは大切なことです。

どんな装置でしょうか。米国であれば社会学者ロバート・N・ベラーが言うように「(市民) 宗教」です。フランスやイタリアであれば「階級」とりわけ人民戦線的伝統、イギリスであれば「階級」とりわけビクトリア朝的伝統(高貴な利他)、中国やユダヤであれば「(血縁)ネッ トワーク」になるでしょう。

いま挙げたどれも日本にはありません。柳田が代わりに見出すのが近接性(プロクシミティ)です。ずっと一緒にいたという事実性。先祖崇拝に勤しむにしては血筋に全くこだわらず、家筋にだけコミットするという特質が典型です。こうした在り方は労働集約的な稲の生産に適合した社会構成の一つです。

血筋ではなく家筋へのこだわりが、墓守り概念に象徴されるように土地へのコミットメントと結合するところに、日本独特の風景観や国土観が生まれる――それが柳田の考えです。(…)

国土や風景が失われることは、米国人にとってもフランス人やイギリス人や中国人にとっても大事でしょうが、彼らよりも、日本人にとってさらに重大です。日本で国土や風景が失われれば、エリートの多くが収入獲得や地位達成を「日本への還元」から切り離してしまうからであり、現にそうなっています。
日本には高貴な義務(ノブレスオブリージュ)の伝統がないと言われます。半分は正しいですが半分は誤りです。なぜなら、階級的伝統はなくても、農村共同体的な代替物があったからです。それは柳田自身が注目している「『故郷に錦を飾る』『故郷に幸いをもたらす』ために国家に貢献する」という感受性です。

柳田に従えば、国土が荒廃し、農村が空洞化すれば、「顔が見える者たちのために道具主義的に国家にコミットする」という帝大エリート的な感受性も失われる道理です。「みんな」と いうといきなり国連や世界人民へと短絡する馬鹿が、昨今の日本社会に溢れてはいないでしよ うか。

異星人との間に宇宙戦争が起これば別ですが、対象が日本人であれ誰であれ、一般に人をそのように動機づけることはできません。それが社会学の基本定理です。宗教であれ階級であれ 血縁ネットワークであれ、承認を与えてくれる感情的安全の場がなければ、世界貢献へのチャ レンジは(一般には)あり得ません。

とすると、問題は以下のように集約されます。既に生じている国土の荒廃が、ナショナリズムも含めた公的貢献への関心を希薄化させているとして、さて、我々は国土を回復ないし再構築できるのか。それとも国土に代わる代替的な「公的貢献のプラットフォーム」を新築できるのか。いずれなのか。

我々が数百年単位の長い話をしているのでもない限り、宗教や階級や血縁など代替的なプラットホームを利用できるようになることは、まずありません。従ってそうしたことは政策になり得ません。我々に可能なのは、国土や風景の回復を通じた〈生活世界〉の再帰的な再構築だけなのです。 (下線は引用者による)

 この主張に付け加えることはないと思う。というか、宮崎駿が映画作品の一部を通じてやってきたことも、「国土や風景の回復を通じた〈生活世界〉の再帰的な再構築」なのだとしか言いようがないのではないのだろうか。

そして、生前の吉川元忠が最後に求めようとしていたもの、反グローバリズムより「積極的なメッセージ」を持った国民経済学が、どのようなものかも明敏な読者は見当がついたにちがいない。

ゴールキーパーからフィードされたボールが、プレーヤーが離脱して空いたスペースを転がっていく。危うく敵の足に渡りそうになったところを、俊敏なフォワードが何とか競り勝って、味方が前を向いてプレーできる場所へ、ポストプレイでボールを落とした。いま戦況はちょうどそんなところだと思う。

味方が必死になって空けたスペースに、どうにかしてこの人に全力で走り込んでほしい。心からそう思う。

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く (角川oneテーマ21)

 

 大人気のこの新書の冒頭は、自分もこの記事で触れた真庭市バイオマス発電の取り組みで始まる。他にも、疲弊した地方の人々を活気づける事例に満ちた素敵な良書だと思う。

絶賛は他の人々が書き立てているので、自分は大好きなこの本の批判側にあえて立ってコメントすると、この本のある場所は著者の本来のポジションではないと思う。もっとゴールに近い場所へ、決定的な仕事をできるポジションへ、全力で攻め上がっていってほしい。

地域振興アドバイザーの立場から、「田舎 対 都会」の二項対立をひっくり返すのも面白いし、マネー資本主義システムの横に、田舎だからできるマネー依存のないサブシステムを協働構築するのも素晴らしい。しかし、昨晩言及した『未来の年表』によれば、都会の代表である東京も、今から10~20年後には、深刻な病いを病み始める。少子化によって若者の流入が止まり、その代わりにアラフォーやアラフィフの子供を頼って80代の老人たちが流入し始め、若者型都市だった東京の医療系や福祉系の施設が次々にパンクしていく。田舎と都会の衰退は、異なる種類の「病気」ではあるものの、まもなく同時に進行するのである。

お金の循環で言うなら、やはり防衛線を、田舎と都会の間にではなく、国境と重なて引くべきだろう。そして、その国境を跨いで私たちの富を収奪しつづける「新帝国循環」(吉川元忠)に対して、徹底的に対抗しうる国民経済学を確立できるよう闘おう。そのとき、新たに立ち上がりつつある国民経済学を、その内実が異なることを承知で、もう一度「里山資本主義」と呼んでみたい気がしている。

自分がいま頭に思い浮かべているサッカーの試合展開を、読者のうちどれくらいの人々が共有してくれただろうか。付け加えておきたいのは、このサッカーが草サッカーであり、参加者が有名でも無名でも誰でもいいことだ。草サッカーは一人ではなく、皆でやるもの。この国の先人たちが空けてくれたスペースに、一緒に全力で走り込んで、同じく全力で走っている味方へ、魂込めたパスを幾世代も連綿とつないでいこうぜ。