Cat or Dog?

幼稚園の頃、犬と猫は同じ種類の動物で、オスが犬でメスが猫だと思い込んでいた。今でも、「メス犬」と「オス猫」には、何となく違和感を感じる。

と書き出したのを見て、毎晩仕事の傍ら更新しているせいで、とうとう書くことがなくなって、幼稚園時代の思い出話になってしまったか、と感じた読者は鋭いと思う。

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確かに読書時間が取れないせいで、書けることは少なくなってきた。好きな建築で例えると、上の写真のような作業員専用通路を歩いている感じ。ほとんど綱渡り同然だ。しかし、あの細い通路だって、日本語では「犬走り」、英語では「Catwalk」というのだから、やはり今晩は、犬なのか、猫なのか、それが問題のようだ。

昨晩、スーザン・ソンタグの話を書いていて、時間がなくて書き落としてしまったのが、この写真。初めて見たとき、感動のあまりファイル保存してしまった。

https://i.pinimg.com/736x/96/4a/84/964a843d4d6c75c03baa3f6397fc0c24--finnegans-wake-susan-sontag.jpg

ソンタグが恐ろしく詳細なメモを書き込んでいるのは、ジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』。この記事で言及した丸谷才一は、英文学随一の難解さを誇るこの前衛文学を愛読しただけでなく、翻訳にも加わっている。

ジョイスの翻訳者としての名声と知名度では、柳瀬尚紀に真っ先に指を屈するべきかもしれない。造語や地口やスラングに満ちたジョイスの小説は、世界最高の翻訳難度を誇るが、その翻訳に苦しみ抜いた翻訳者なだけが到達しうる世界的な新発見が、この新書には記されている。 

 帯に書かれた「吾輩は犬である」「発犬伝」という惹句を読んだだけで、パロディや駄洒落に眉を顰める堅物な人もいるかもしれない。しかし、ジョイス文学自体に言語の更新可能性を求める強靭な革新志向性があるのだから、それは訳者の罪ではないんだぜ、ムスメゼール、と思わず見知らぬ日本人未婚女性に話しかけてしまいそうだ。というか、あんな翻訳不可能な小説をよく翻訳しようと思ったものだ、というのが、普通の文学好きの感想だろう。

ジョイスは最初から難解な文章を書いていたわけではありません。初期の頃の作品『Dubliners(ダブリン市民)』は比較的写実的で、故郷ダブリンに生きる人々の生活を鮮やかに描いています。それが徐々に文学の可能性を探るかのように作風が変化し、読者を惑わす文体になっていったのです。
最後の作品である『Finnegans Wake(フィネガンズ・ウェイク)』では、日本語の「娘」とフランス語の「マドモアゼル」を合体させ、「ムスメゼール」という造語を作ってしまったほどです。歴史や世界情勢はもちろん、複数の言語での理解が求められます。読者を振り回す独特の世界観が、ジェイムズ・ジョイス作品の魅力のひとつなのです。

ジョイス初心者や大学生向けのわかりやすい講義が、ここで聴講できるようだ。

ジェイムズ・ジョイスとアイルランド| 京都ノートルダム女子大学 須川 いずみ 教授 | 夢ナビTALK

 しかし、『フィネガンズ・ウェイク』の一部の章の話者が犬であることを発見した柳瀬尚紀自身は、むしろ愛猫家としてよく知られている翻訳者だ。 

猫文学大全 (河出文庫)

猫文学大全 (河出文庫)

 

 やはり、今晩は犬派か猫派かという問いが、この場を去りそうもない。

話が猫派の側に振れたので猫で進めると、文壇有数のこの愛猫家に言及しないわけにはいかないだろう。 

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

書きあぐねている人のための小説入門 (中公文庫)

 
小説の自由 (中公文庫)

小説の自由 (中公文庫)

 
小説、世界の奏でる音楽

小説、世界の奏でる音楽

 

 何か月くらいだろう。アウトボクシング・スタイルではあったものの、ずっとスパーリングをしてきたような気がしている。相手側の状況に隙が見えたら、そこへジャブを打ち込まなければ生き残れない闘いだった。

そんなことは全然やりたいことではなかったのに、先輩の嫉妬や嫌がらせに耐える鈍感力を持てと激励いただいた人に、自分と同じ主題の小説を並べて比較を誘おうとした。せっかく、この本をもっと読んだら良いとの示唆をいただいた人に、どうして同系統のあの本ではなかったのかと難癖をつけなければならなかった。

人が人に対して、常に自分が上だと示しつづけなければならない場なんて、常にブルデュー的な「卓越性」を顕示しなければならない場なんて、楽しくなりようがない。つらい、申し訳ない気持ちだったが、他に方法はなかったような気がしている。

 そんな経緯は忘れてしまった気まぐれな猫のふりをして、素知らぬ顔で続けると、いま手元にある『小説の自由』のこの部分は、そこで引用元とされているフロイトだけでなく、ラカンやショシャナ・フェルマンも引用している有名な場面だ。

 フロイトの『夢判断』(正しく訳せば『夢の解釈』)に出ていた例だが、幼い子どもが死んでその通夜のこと。 その土地では通夜に一晩中棺の傍のロウソクを灯しつづけるのがならわしで、父親が夜を徹してロウソクの番をしていた。しかし子どもの看病から通夜までで憔悴していた父親は、睡魔に勝てずうたた寝をしてしまう。そのうたた寝の中で彼は夢を見る。

 棺が炎に包まれて、棺の中で死んだはずの子供が「お父さん、ぼくは日に焼かれているよ。熱いよ」と助けを求めている。そこではっと父親が目を覚ますと、棺にロウソクが倒れて、棺にかけた布が燃えていた……。

実はこの有名場面にいたく感動した自分は、独創的なアレンジを加えて、自分の小説の中で生かす道はないだろうかと思案に暮れた。

フロイトラカンのこの挿話の構成要素は、「現実の死者が夢で生きて話しかけてくる」、「火による眠りから覚醒への移行」の二つになるだろうか。この二つは踏襲しつつ、自分はそこに、彼が自分の死を伝えに夢に出てきた設定にして、火と対立する水の存在感を描き込むことにした。 

  やっと顔を起こせた。部屋の戸口のところに誰かが立っている。戸口のそばの窓際にある机上の蝋燭の火が、その誰かの影を、ゆらゆらと大きく見せたり小さく見せたりする。彼だわ! 約束通り、帰ってきてくれたのね! (私のすぐそばには今あなたがいるけれど、それは問題にならない)。私は喜び勇んで彼の元へ駈け寄ろうとするが、いや! どうして! 身体が動かない。蝋燭が急に激しく燃え上がり、ほとんど眼を開けていられないほど光が眩くなる中で、彼がいつもの真っ直ぐなまなざしで、私に向かって何かを訴えかけているのが見える。けれど、彼の声は聞こえない。何? もう一度言って! 眩しい光に包まれながら、彼が唇を動かす。…ないの? ぼくが… …のが… わからないの? 彼は同じ台詞を繰り返している。私にそのひとことだけを伝えようとしている。私は必死になって彼の唇を読む。…ぼくが、燃えているのが、わからないの? いや! 彼を包んでいる光、それはまさしく炎そのもので、辺りには息苦しく煙が充満している。逝かないで! 私は絶叫して半狂乱になって、せめてもう一度だけ彼を抱きしめようとして、彼の存在を直に肌で感じたくて、よろめきながら何とか立ち上がる。床にふらつく足をようやくついたところで、私は立ったまま目を醒ます。目前では、夢の中で燃えていた炎が、やはり勢いよく燃え上がっている。窓が少し開いていたらしい。机の奥に掛かっている化繊のカーテンが風でまくれあがり、蝋燭の火が着火してしまったのでしょう。私は悲しみで胸がいっぱいのまま、カーテンの火のついていない部分をつかんで引きちぎる。そのまま急いでひきずって、燃えているカーテンをバスタブに投げ込む。水を張る。炎が消えて真っ暗になった浴室で、初めて彼と愛し合ったこと、彼が永遠に失われてしまったことを思って、しばらく啜り泣く。泣きながら、目前に湛えられている暗い水を見つめる。

 この短編は、数日で書いた割には、ギタリストの弾き癖のような自分の偏愛モチーフの数々が矢継ぎ早に鏤められている感があって、どこか嫌いになれない作品だ。20枚というのは、ほとんど米粒に絵を描くようなもので、何も書けない苦しさが常にあったが、その短さが却って自分の世界の重要要素を濃縮させたところもありそうだ。

上記保坂和志の批評的エッセイの4冊も、彼が小説について考えていることのエッセンスと深みが凝縮されている好連作で、自分はこの4冊で保坂和志に対する見方ががらりと変わった。 

小説家になって自分の小説が文芸時評などで批評されることになって、作者として信じがたく違った方向で読まれた経験を持っていない小説家は一人もいないだろう。 

 保坂和志の文芸批評に対する不信は根深く、それも一因となって、小説家とは「別のシステム」を稼働させて、批評についてじっくりと考えをめぐらせていく。(自分も現在の文芸批評が信じられないので、いつか変名で自分の文庫本解説を書くために、文芸批評を研究している口だ)。その批評への旅があまりにも永かったので、あまりにも遠くへ到達してしまったと書けば伝わりやすいだろうか。

ベケット『名づけえぬもの』の饒舌は胎児の語り手によるものと主張する批評を、保坂和志が「取るに足りない」と断じる記述を読むと、え、あんなものまでも読んでいるのか、というのが心内に生まれる最初の台詞になる。ベケットの仏語小説三部作を扱った研究論文はきわめて数が少ないせいで、人目に触れることはほとんどない。ちなみに「取るに足りない」という斬り捨てはかなりの甘口だ。というのも当該批評で、筆者は「私の胎内体験をベケットが小説にした」とまで書いているので、あれは批評ではなく小説として読むと旨味が出るタイプの文章なのだ。

 保坂和志の論考の最大の美質は、小説が生まれる現場や、そこに作者や読者として立ち会う私たちが、徹底して他者性に浸潤された存在であるという厳粛な事実を、権威者の専門用語に頼らずに、自前の平明な言葉で紡いでゆくところにある。

新宮一茂の精神分析的知見を自家薬籠中のものとして、人間とは他者の言葉がびっしりと記録された柔らかいテープレコーダーのようなもので、「私の言葉は他者の語らい」なのだとまとめるさまも、観衆の一人として嬉しくなる道行きだ。現代思想の権威ある諸用語に服従することなく、ここまで辿りつける作家は、さほど多くないからだ。よく聞くのは、せいぜい「登場人物が勝手に話し始めた」ぐらいの地点での話。

続けて、自分が飼猫に対して感じるかけがえのなさは、猫と一緒にいた時間から来る、と述べている部分も、多くの読者が読み逃してしまう日常的な記述に見えて、きわめて大切なことが語られている。

一般的に人が「運命」だと考えているものは、事実として、どうしようもない「偶然性(≒他者性)」に満ちている。しかし、偶然性は順接して運命愛を否定するのではなく、逆接して運命愛はを肯定する側に回るのだ。つまり、「出会いが偶然だから、その運命を愛せない」のではなく、「出逢いが偶然なのに生が重なっていることの尊さゆえに、運命を愛せる」のだ。ありふれた飼猫への惑溺を語っているように見えるときでも、保坂和志の言葉は、普通の人には見えない世界の密やかな機微を的確に捉えている。 

 それで? という声が聞こえる。それで、きみは結局のところ、犬なのか、猫なのか? 声はそのようにこちらへ問いかけてくる。

最初は「猫をかぶっているぼく」、あらため「ぼくをかぶっている猫」、最終的には、状況に合わせて「犬でも何でもかぶる猫、をかぶるぼく」といったところになるだろうか。

ごめん、悪いけれど、メタレベルの錯綜した複雑な質問は後にしてくれないだろうか。たぶん、きっと、あと少しで綱渡りの Catwalk を走り切れそうな気がしているから。

 

 

 

 

(もう少し、犬派か猫派の検討をしたい。『犬と私』の江藤淳はもちろん犬派。村上春樹は経営していたジャズ喫茶が「ピータ-・キャット」だから、たぶん猫派。彼の中期の傑作『ダンス・ダンス・ダンス』と同名の曲を収録した「I'm yours」の女性アーティストは、「猫吸い」な人だから、もちろん猫派。そのアルバムの最終曲が素敵)。

(3:33から。短いけれど)