季節外れの X'mas ソングに、半身を探し求めて

上の記事で書いた「高層マンション症候群」は、日本ではほとんど言及されない珍しい情報だった。ヨーロッパ各国では、子育て世代の住宅が4階以下の低層階に法的に制限されている。欧米にも日本にも、高層階に住むと、妊娠や出産や子育てに悪影響があるとのデータや研究は存在する。しかしそれがなぜなのかは、情報がどこにも見当たらなかった。

この件、現在は誰も明確な正解を示せない段階ではあるにしても、自分はたぶんこれが正解だと思える独自答案を持っている。

おそらく、地磁気から離れることが、生殖にマイナスに働いているのだろう。マンション低層の1・2階であっても、住み続けると一戸建てよりも流産の確率が高まるのには、地磁気との接触頻度が影響しているのではないだろうか。

アメリカでは「アーシング」という名で呼ばれて、スピリチュアルな観点からよりも電気生理学的な観点から、注目が高まっているのだという。20の医療論文があり、臨床研究も進んでいるようだ。たぶんここに、現代の日本人が知らない鉱脈が眠っている。

「高層マンション症候群」は、人体が地磁気から隔離されることが原因なのではないだろうか。そう自分は推定した。どこかで誰かが研究していないだろうか。

そんなことを思ったのは、ここ数日、桜並木の下草の上を散策する時間を作っているから。裸足でないのに、靴底を通して伝わってくる草の生えた土の感触が、とても気持ち良いのだ。草の感触だけでなく、踏みしめていく一歩一歩に、土から伝わってくる何かがあるのを感じる。自分の身体感覚が少し戻ってきたのかもしれない。「気」とか「波動」とかよばれる何かに、感応し始めているような気がする。

そういう鋭敏な身体感覚を維持するには、自分の存在に✖をつけるような「罰シング」を、回避することも必要だろう。誰かに✖をつけたがるマス(大衆)の動きには、韓国では自殺者が相次ぐなど、問題が多い。そういう「✖」「マス」な文字群をやけによく見かけると思ったら、目を凝らすと「X'mas」の話題群だった。

話がややこしくなってきた。『悪人』という✖を背負って逃亡する男の小説で、博多弁の「ばってん」の用法を確認しようと考えていたのだ。個人的に思い出深い小説。ただし、引用部分にストーリー上の重要性はない。

「そうそう、今度、また祐一に米をお願いできんかねぇ……あんたんとこの買い物の、ついででよかとばってん」

(…)

「そりゃ、知っとるさ。ばってんうちには房江さんちのように、車で米を買いに行ってくれる者がおらんもん」  

悪人

悪人

 

上にある方の引用では、「ばってん」は英語の「though」と同じように使われている。ちなみに「though」は文頭だけでなく文中や文末でも使えるが、「although」は文頭のみ。

下にある方の引用では、「ばってん」は英語の「but」と同じように使われている。ひょっとして、長崎の出島から伝わった「but」が「ばってん」の語源なのだろうか。

ばってん、博多弁の「ばってん」自体は全国的な流通量が少ないので、英語の「but」について真剣に取り組み、夢中になっている自分に×ではなく○をつけることにしたいと思う。 

バット・ビューティフル

バット・ビューティフル

 

 「その二十年はただ単に、彼の死の長い一瞬だったかもしれない」

この長いタイトルの短編が、チェット・ベイカーに宛てられた「想像的批評」の短編だ。チェットの伝記的事実に基づいて、想像を交えたチェットの行状を、散文詩のような文体で綴っている。

ドラッグのツケを払わなくなったせいで、黒人の売人に前歯をすべて殴り折られる場面は、かなり曖昧化して描写されている。「ケチャップの瓶を手に取った」「野球のバットのように振って、チェトの口元を思い切り叩いた」と書かれているだけで、歯がどれくらい折れたか、チェットがどう感じたか、といった、小説で書くなら欠かすことのできないはずの事実関係が省かれている。

代わりに、ジェフ・ダイヤーがくれるのは、批評家らしからぬ隠喩と直喩の畳みかけだ。チェット・ベイカーが歯を折られた後の方が、筆に力が入っている。

すべての力を振り絞って、まるでプールの底から浮かび上がってくる人のように、彼は何とか立ち上がる。身体からは卵の黄身や、瀬戸物のかけらや、ベーコンの切れ端がぽたぽた垂れている。口のまわりは無残なありさまだ。立ち上がって、最初に目にしたのはコーヒーポットを手にすぐ横に立ちすくんでいるウェイターだった。ウェイターは今にも、コーヒーのお代わりはいかがですかと尋ねそうな風情だった。彼の背後には客たちがいた。彼らはオムレツやベーグルやパンケーキを食べるのを一時中断して、ぽかんと口を開けていた。今にも倒れそうになって、チェトは思わず壁に手をつき、そこにぞっとするような手形を残した。そこからよたよた前のめりになって出口に向かった。悪夢のごとき朝食の残骸を身につけたまま、彼は外に出た。外ではサンフランシスコの街が街路の海と化してせり上がり、また落下していた。黄色いバスが一台、大きな波頭を立てながら、まるで遠洋定期船のように彼の方に向かってきた。 

 懇意の麻薬の売人に、チェットがツケを払わなかったせいで、レストランで制裁を受けたことになっている。ゴチックで示したように、隠喩と直喩がふんだんに駆使されているのが、いかにも作家遺骸が考えそうな「文学性」を体現している。最後の数行で、地面が液状化して波打っているのは、チェットの意識が朦朧としていることを表現しているのだろう。

しかし、実際のチェット・ベイカー殴打事件は、これとは大きく異なったらしい。チェットの口を殴りつけたのはケチャップの瓶ではなく、マホガニー調の化粧箱だった。

ん? いま「マホガニー調の化粧箱」と書いた瞬間、強い違和感を感じた。

そうだった。その昔、あらかじめ三冊の本を収納した「マホガニー調の化粧箱」から、その三冊を順番に取り出すというテレビ番組があった。その記憶と交錯してしまっていたのだ。 もし自分が好きな三冊を入れるとしたら、これを入れようと考えていたのがこの一冊。 

終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて

終わりなき闇 チェット・ベイカーのすべて

 

「右目の上を六針縫った」

「顔全体を縫ってもらわなければならなかった」

「三人の黒人にやられた」

「五人の黒人にやられた」

すべてチェット・ベイカー自身による言葉だ。こういうチェットの虚言壁を、かつて恋人だったルース・ヤングは、こう語っている。

(…)ルース・ヤングに言わせると、これこそ「話を聞いてくれる相手なら誰だろうと、ありったけの同情を搾り取るため」に、真実をゆがめるベイカーの癖の典型的一例ということになる。これが彼女の愛を限界まで使い果たさせてしまった、ベイカーのどうしようもない人格の問題点だった。ヤングはこの事件の真相について、独自の見解を持っていた。襲撃は、麻薬ディーラーにごまかしを働こうとしたベイカーに対する、マフィア流の仕返しだというのである。「彼はついに、自分の過ちのしっぺ返しを受けたのよ。何年間もずっと、そんなことは決して起きっこないと、たかをくくっていたのね」と、ヤングは語っている。「現場から逃げた暴漢たちはバカじゃなかった。傲慢で自信過剰のトランペッターにもっとも痛手となる罰を与えるなら、その仕事柄、大事にしなくてはならない唯一の部分を狙うべきだってことを知っていたんだから。気さくな常連客のように見えたチェッティーが実は油断ならないワルだと、つまり、気が短くて偏屈で、ディーラーを平気でだますやつだとわかったとたん、計画は実行に移されたんだと思うわ。」 

 実際、チェットはカリフォルニアで麻薬の売人を騙した話を、得意気に吹聴していたらしい。こういう逸話には、余人をもって代えがたいチェット「アウラ」があるので、私はノンフィクションの伝記の方が好きだ。

さすがはルース・ヤング。名推理だと思う。ルース・ヤングはショービズを手掛ける上流家庭で育ち、幼少時にはあのマリリン・モンローがよく自宅を訪問してきたのだとか。チェットの伝記的事実の中で、最も精彩に富んだ登場人物だ。

2005年にチェットを懐古する趣のアルバムを出したが、もともと声のトーンが平板だったのが、全盛期から30年。酒と煙草と加齢で高い音域が出なくなってしまったのが、どうにも痛々しい。

50年代にチェットが録音した同じ曲の方が、はるかに歌唱が澄み切っている。

 

This isn't sometimes, this is always
This isn't maybe, this is always
This is love
The real beginning of forever

This isn't just mid summer madness
A passing glow, a moment's gladness
Yes, it's love
I knew it on the night we met

You tied a string around my heart
So how can I forget you
With every kiss I know that
This is always

(…)

 チェットベイカーがどうしようもない麻薬中毒のジャンキーだったことには、無数の証言がある。自分がもし短編で、ひとつの逸話でチェットを語らせようとするなら、ライカーズ刑務所での逸話を選びたい。死の数年前、チェットは20分で良いから、あの刑務所時代に戻りたいと語ったという。

マンハッタンの刑務所では、荒くれ者の黒人たちの中で、西海岸出身のやさ男の白人チェットは、猛烈に身体を鍛えたらしい。レイプの標的となったチェットが、どうしたと思うだろうか? 何と、自分に好意を寄せる黒人受刑者のプラトニック・ラブを得て、男の愛に庇護されて、受刑期間をやり過ごしたのである。人種差別の残る50年代、白人のチェットは黒人専用の食堂席で食事をして、庇護者の膝枕に頭を委ねたのだという。

ヤクを手に入れるため、自分中心の自己愛を貫くためなら、女性に平気で暴力を振るうことも厭わず、何でもやってのけるチェットらしい逸話だ。

恋愛小説を短編連作集にしようと考えていた時期があった。その短編のそれぞれにチェットの曲を引用しようと考えていた。  

上の四曲のすべてが、ジャズ・スタンダードで、チェットのオリジナル曲は含まれていない。したがって、歌詞に統一的な世界観もないので、歌詞の世界を小説の中へ大きく取り入れるのは、慎重に考えたいところだ。

 むしろ、恋愛小説の背景でチェットを流すのなら、どうして女性たちがチェット・ベイカーに夢中になるのかを、問わねばならないだろう

 チェット・ベイカーを初めて聴くと、女性の声だと間違う人もいるという。自分の勘では、ここには「中性」性への嗜好がある。

例えば、思春期の女の子の中には、長髪の華奢な美形を好む人が多い。これがなぜかを語るのはさほど難しくない。男女の深い愛を小説や漫画で受け取ろうとすると、女性側に感情移入しようとする少女は、無意識のうちにファロス・フォビア(男根恐怖)が発動してしまうのだ。

おそらく、未知の性体験への恐怖から逃げるために、女性に近い男性への執着が発生している。もう一つの逃げ方は、ボーイズ・ラブのような男同士の性愛を、文化物として楽しんでしまう。そうすれば、少女らしい恐怖を打ち消すことができる。

 実は、このファロス・フォビア由来の少年愛の世界は、現代特有のものではない。森鴎外の娘である森茉莉の作品世界は典雅な言葉で彫琢した「純文学少年愛」だ。

田村俊子賞をとったこの作品は、森茉莉の煌びやかなイマジネーションがいかんなく発揮されています。フランス貴族とのハーフであるギドウや、敬里という名前を持つにもかかわらず、ギドウにフランス風のパウロと呼び名をつけられた美少年など、少女漫画のような現実離れした綺羅綺羅しい設定は、最初は過剰に感じられても、読み進めるうちに気にならなくなってきます。

それは登場人物達の生々しく人間的な心理描写であったり、自分の思い描いた世界を書き切ろうとしたりする丁寧でリアルな筆致のせいもあるでしょう。特にギドウに捨てられそうな中年女性の植田の造型は、現実的で真に迫っており、なぜ彼女があの行動を選ぶにいたったのか、読者に共感すら呼び起こさせます。

『恋人達の森』の他、『枯葉の寝床』など、華やかで美しい男達の耽美で官能的な関係を書くことが多く、これはBL小説の走りではないかと個人的には思っています。 

「BL小説の走り」というのは私と同じ見解だ。実は、もう少しこの系譜を遡っても面白い。森茉莉に負けず劣らずのビッグネーム白洲正子だ。白洲正子はこの少年愛のモチーフを能の世界に追い求めた。日本では他に、多田智満子による「両性具有」の書物がある。見事に大物の物書きが揃った形だが、三人全員が女性であることにも、あらためて注意を促しておきたい。

 白洲正子が『両性具有の美』で最初に取り上げるのは、何とヴァージニア・ウルフの『オーランドー』だ。

 ヴァージニア・ウルフの6番目の長篇『オーランドー ある伝記』はきわめて特異な作品である。なにしろ主人公のオーランドーが、16世紀のイギリスに16歳の美少年として登場し、その後300年あまり生きつづけ、作品の終わりの1928年にあってもまだ36歳の若さであるばかりか、17世紀にはあろうことか「男」から「女」へと性転換しているのだ。この破天荒な粗筋から見ても、この「伝記」がいわゆる人の一生を扱った伝記と類を異にしていることが分かるだろう。
この作品がヴィタ・サックヴィル=ウェストに献げられているように、これはまず彼女への「史上もっとも長い、魅力的なラブレター」である。そして、主人公のズボンがスカートに変わるときに生ずるジェンダーの問題を取り上げれば、これはフェミニズムの作品であろう。さらにまた、いわゆる「伝記」のコンヴェンションを解体してゆく作法を見れば、これは「メタバイオグラフィ」ということになる。多様な読み方を誘発する点で、これは『ダロウェイ夫人』や『波』と並ぶ、ユニークな傑作と言えよう。 

どちらかと言えば「両性具有」というより、女性が好む少年愛や暖色の話に終始している印象もある。能楽の「菊慈童」は、意味深な題名から、少年愛の能にちがいないなどの少年愛好きらしい指摘に溢れている。

しかし、随所に白洲正子らしい卓見も生きていて、遠戚の小林秀雄宅で見たルオーの絵のキリストが、両性具有として描かれているのは間違いない、とか、生きている人間は、死ななければ「両性具有の美」に到達しないので、(キリストは殉じたし)、『オーランドー』を書いたヴァージニア・ウルフが自殺したのも自然だ、といった着眼は面白い。

実は自分は、女性の「ボーイズ・ラブ」好きがどうしても好きになれない。『キャプテン翼』の少年たちが愛し合う二次創作同人誌などは、ほとんど受け付けないタイプだ。たぶん、うら若き乙女たちが少年愛に向かってしまうと、自分だけ座る椅子が用意されてないような気分になるからだろう。

しかし、この両性具有の原型イメージは、少年愛の周辺で終わらせるようなものではない。オルフェウス教では、宇宙の始点である「宇宙卵」から生誕したのは、両性具有の金色の獣だったとされている。キリスト教にも、 処女懐胎のマリアやそこから誕生したキリストを両性具有とみなす説が絶えない。両性具有の原型イメージは、完全な神の状態を象徴するモチーフだと言えるのである。

したがって、今晩の調べ物から自分が引き出せるい創造点は二つ。

ひとつは、運命の男女のロマンティック・ラブとは、完全な両性具有の天使的存在が、二つに切り離されたのち、互いの半身を探し求め合い、二人が合一することによって、完全な天使的状態を回復する物語だとも考えられること。

出逢う以前に約束していた二人が、約束の記憶を失っても、世界の中で互いを互いだと識別し、恋に落ちることはあるのだろうか。 

上記の問いの答えを、長い記事の中で必死に探し求めていたのを思い出した。問いの答えは記事を見てほしい。

今晩の調べ者の成果は、「出逢う以前に約束していた二人が」という部分の前に懸かっている。両性具有の一体の天使的存在だった二人が、天上から地上に落ちるとき、男女それぞれに切り離されたとする物語が、自分はとても好きだ。切り離されるとき、きっと二人は約束を交わしたのだろう。

神話や伝説でしばしば完全視され、神々しい存在として出現する両性具有は、人々が憧憬を募らせる「完全な性愛」を象徴しているのかもしれない。

もうひとつは、恋愛小説に出てくる17歳の少年を、両性具有に近づけて描写すると、文学的感興が増すのではないかというアイディア。 

かつて、美青年にもて遊ばれた女性がいた。その女性が独身のままアラフォーとなり、美青年はすぐに年上美人と結婚して子供をもうけたら、その少年が17才になった頃、ひと目惚れ劇が巻き起こることだろう。少年と偶然出会ったアラフォー女性は、少年を見初めて、かつての少年の父のように、ピアノの前に座らせるのではないだろうか。

 

そう、その姿勢で、そのままでいて。

 

アラフォー女性には、少年が美青年だった父そっくりに見える。しかし、ピアノの名手だった父とは異なり、少年はピアノの鍵盤の冷たさを指で知るだけ。こらえきれなくなったアラフォー女性は、やはり隣室に駈けこんで、鍵をかけて泣き伏すだろう。

 この17歳の少年は、ほとんど完璧だが、唯一の瑕疵は、自分から能動的にアラフォー女性を愛せないことにある。たぶん、アラフォー女性がリードする形での性愛の手ほどきになるだろう。そこで、ほとんど完璧な美貌なのに、怯え、羞らい、ためらう少年のありようが、アラフォー女性が20歳前後の時に、少年の父と交わした処女喪失の夜と、そっくり重なるのだと思う。

しかし、通例は男女の関係のプラスの足し算になるはずの性愛が、17歳の少年とアラフォー女性の組み合わせでは、マイナスの引き算になる。かつての父の恋人であったことが露見して、互いに傷つけ合う展開になる。最終的に、アラフォー女性は初恋のかけがえのなさを思い知り、アンドロギュノスに近い美少年の姿を遠くから見つめていたときが、最も完全な幸福だったことを思い知るという物語が、小説の先で待っているような気がする。

さて、このブログは横書きだ。横に這いながら一年近く這い進んできた。どの地点まで、先へ進むことができたのだろうか。「マホガニー調の化粧箱」を目撃したのは、2014年くらいだっただろうか。これまでのブログ執筆の蟹のような横書きに、少しでも魔法がかかった魔法蟹の足跡が残っていると良いと思う。

ばってん… ばってん… 

何か言いかけようとして、急に言葉で出てこなくなった。ブログのような mass に見られるような場で、自分の書いた文章に × をつけるわけにはいかない。英語に変えよう。

But… But…

 駄目だ、言葉が出てこない。きっと X'mas に悲しい記憶があったのを、どこかで抑圧しているからだと思う。ばってん、「but」には「~を除いて」という前置詞の用法もある。そんな but を使った X'mas ソングに、耳を傾けてみたいと思う。

最後に引用したチェットの歌は、この二行で終わる。

Stay Little Valentine Stay
Each Day Is Valentine's Day

きみが一緒にいてくれれば
毎日がバレンタイン・デイ

これまでどんなことがあったとしても、人生のどこにも × をつける必要なんてないと思う。何度でも季節はめぐってくるし、何度でも人生はやり直せる。

季節外れのシンプルなクリスマスソングを聴きながら、新しい明日という日を、どのようにでも自由に生き直すことができる幸福に、ひたすら感謝している自分がいた。

 

 

 

I don't want a Christmas
I'll forget Don't want it to be just me
I don't need another pretty gift
I don't even need a tree

 

‘Cause all I ever wanted
Was a single dream come true
And darling that's you
No one but you

 

I don't need a turkey or a fire
I couldn't get cold white snow
Shining lights are all sparkly in the dark
But who am I gonna hold

 

‘Cause all I ever wanted
Was a single dream come true
And darling that's you
No one but you

 

If I whined up alone this year
I ‘ll be real real good
I'll write my 98th letter
I hope Saint Nick would make things better

 

I don't want a Christmas I'll forget
Don't want it to be just me
I don't need another pretty gift
I don't even need a tree

 

‘Cause all I ever wanted
Was a single dream come true
And darling that's you
No one but you
I only want you
I only want you
I only want you